Everlasting Flower 作:オールデイハッピーデイ
裏門に辿り着いた。
息も絶え絶えで霞んだ目を擦ると、しっくい塗りの門柱に寄りかかるようにして佇んでいる華奢の女の子の後ろ姿が見えた。
華子だ!
……よな?
俺は一瞬自問してしまう。
彼女はまったく見覚えのない服装をしていたからだ。
だが、陽の光を受けて淡く輝く艶やかで長い黒髪には、見覚えがありすぎるくらいある。
俺の知る限りこの山久学園には、あれほどまでに美しい黒髪の持ち主は、ただ一人しかいない。
「おはよう、華子」
変に驚かせてしまわない程度に元気過ぎない声で、俺は背後から彼女の名を呼んだ。
華子は少しだけ肩をびくりとさせ、そしてこちらに振り向いた。
「おはよう、久夫くん……!」
可愛らしいけれど少しぎこちない微笑みを浮かべながら挨拶を返してくれる華子。
俺は思わず顔を綻ばせてしまう。
――俺には、彼女と顔を合わせてまず一番に気が付いたことがあった。
一瞬それを口にするか迷うが、わざわざ俺の方から指摘することでもないと判断する。
つまるところ華子と出会い昂る感情の前ではそんなことは小指の痛みくらい取るに足らないことだというわけだ。
「待たせたかな? でも、ぎりぎり遅刻じゃないよな」
「う、うん。遅刻じゃないよ。久夫くんは約束を守ってくれる人だもん……私の彼氏くんは今日もしっかり待ち合わせの1分43秒前に現れてくれました」
「お、おう……」
なんで秒刻みで俺の到着時刻を把握してんだよ、と内心若干衝撃。
気を取りなおしつつ、俺は改めて、さっき『見覚えがない』と思った華子の服装に目をやる。
トップスには、袖の長いレース付きのブラウス。
くるぶしにまで届きそうなほど長いロングスカートがボトムスに。
上も下もどちらもネイビーブラックを基調としている。
端的に言い表すなら、その服装は「控えめなゴシックスタイル」とでも言うのだろうか。
どこか異国情緒な雰囲気を漂わせながらも、日常の中に違和感なく溶け込めるような。
日常服とコスプレの間の、やや日常服寄りのところに位置するような感じ。
それは、丈の短いジャケットが印象的な馴染みのある華子の私服とはまるで違っていて。
ただ唯一同じなのは彼女お気に入りのベレー帽だけだ。
「華子にすごく似合ってると思う」
「ほんと……?」と華子は上目遣いで俺の表情を探る。
「うん。むしろ俺の趣味ど真ん中過ぎてびっくりしてるくらいだ」
ラノベとか、そういう文化に興味がある人間でゴシックやらロリィタやらの女の子の服が嫌いな奴はいないだろう。
「……よかった。久夫くん、こういうのが好きかなって思って、その、選んでみた」
「俺の趣味ももうばればれだな」
「久夫くんのことなら、もう大体わかる」
そう言ってはにかむ華子。
その顔はとろけそうな程に可愛らしくて、俺はどぎまぎしてしまう。
「……あー、えー、っと……それ、元々持ってた服?」
「ううん……最近新しく買ったんだ」
「すごく良い服屋を見つけたんだな。いつの間にか街の服屋にでかけたりしてたわけ?」
「ち、違うよ。ネット通販」
それは俺にとってあまり馴染みのない言葉だった。
もちろん存在は知っているけれど、自分でウェブ上で買い物をしたことはまだ一度もない。
時折華子の口から飛び出すネット関連の話を聞くと、俺は、2012年現在を生きる若者としては遅れている方なのかもしれないな……とふと思ったりもする。
「そうか、今はそういうのもあるんだな」
「うん。私も今回初めて使ったんだ。晃さんに登録方法とか使い方とかを色々教えてもらって、リリーと3人でお部屋で『お買い物』したの」
「へぇ。わざわざ外に買いに出かけなくて済むってのはいいな」
在宅で服を買えるというのは単純に楽で良い。
それに、特に華子のような他者の眼差しに恐怖心を感じてしまう人にとっては実店舗で店員とコミュニケーションを取りながら服を選ぶというあの一連の流れが疎ましく感じられるだろうしな。
俺だって、そういうのはあまり好きじゃないし。
「今度俺もインターネットで服を買ってみようかな。華子に俺の服を選んでほしい」
華子の観察眼は大したものだからな。
きっと俺に似合うファッションを見つけ出してくれるに違いない。
「も、もちろん……!」と華子は手をぎゅっとして答えてくれる。
良かった。
またひとつ楽しみが増えた。
さて、と。
前口上もほどほどにして、
「じゃあ、そろそろ行こうか?」
「うん!」
裏門を出て右手の方へ数分歩いたところにあるバス停に向かって、俺たちは並んで歩き出す。
いつも通り俺は華子の右側を歩き、華子は俺の左側を歩く――理由は明言するまでもない。
世間には『女と連れ立っている時には男は車道側を歩くのがマナー』という風潮があるそうだが、そんなもの知らない。
俺たちには俺たち流のやり方がある。そういうことだ。
「……?」
ふと、横を歩く華子の歩幅が一定ではないことに気づき、俺は訝しく思う。
そして数秒後に合点がいく。
彼女はゲームをプレイしているのだ。
タイル舗装された歩道の、白色のタイルだけを狙って踏み抜いていくというゲームを。
「ああ」
思えば彼女にはそういう子供っぽい癖があったのだ。
まだ出会って日が浅い頃に学園内を案内してもらった時も、華子はほとんど無意識的に廊下で似たようなゲームをプレイしていて、それを俺に指摘されて恥ずかしそうにしてたっけか。
『安全地帯』に着地して少しだけ満足げにする華子を見て、俺はいたずらをすることに決める。
「えい」
「ひゃあっ!」
突然脇の下をくすぐられた華子は、バランスを崩して『地雷』を踏んでしまう。
彼女は目を皿にして見つめてくる。
俺はにやりと笑って、
「華子、ゲームオーバー」
「も、もうっ! せっかくもう少しでクリアだったのに!」
そう言って華子は憤慨する――というには些か和やかだ――けれど、どう見ても終着点のバス停まではあと数百枚のタイルがあって、その上ゲームにお誂え向きにバス停に近付くにつれて『地雷』の数が明らかに増えている。
どこが『もう少しでクリアだった』のか、俺にはさっぱり判りかねる。
独自の世界観に基づいているのだろうか。
「ごめんごめん」
一応謝っておく俺。
「……ふ、ふん!」と言ってすねたふりをする華子。
彼女はぷいとそっぽを向いてしまう。
そのわざとらしい様子を見て、俺は面白そうな天啓を受ける。
そして、便乗して本気で反省しているふりをすることに決め、うつむき加減になって寡黙になる。
まるで母親が大切にしている花瓶を割ってしまった良心を持ち合わせた悪ガキのように。
それから気まずい(気まずくない)沈黙が少々続く。
「あの……まったく怒ってない、からね?」
空気感に堪えかねたのか、華子は指で髪の毛先をいじりながら、そう言ってこちらの機嫌を伺おうとする。
その声音に若干の緊張が感じ取れる辺り、彼女は本気で俺のことを困らせてしまったと不安になっているのではなかろうか。
作戦成功、と言えるかもしれない。
ただこれ以上続けると可哀想かもなと思い、そろそろ『ごっこ遊び』を終えることにする。
「分かってる分かってる」と俺は軽い調子で言ってやる。
すると華子は安堵したように小さく息を吐き、俺の上着の裾を指でつまみ、ただでさえ近かった距離を更にぐっと詰めてきた。
「なあ、俺さ、華子のそういうところって本当に良いなって思うよ」
「……ど、どういうところなんだろう」
不思議そうに小首を傾げる華子を見て、俺はふっと笑みをこぼす。
バス停に着いた。
日曜日の10時過ぎという、普段なら休日を楽しもうとする山久生で賑わっているはずの時間帯だが、この日は珍しくバス停に先客の姿は見当たらなかった。
ここのバス停は、下界からは隔離された――というと誤解を招くかもしれないけれど――山の上に位置する山久高校の関係者に利用が限定されていることもあり、その運行ダイヤはかなり疎らだ。
だからダイヤを調べず突発的に街に繰り出そうとすると、3時間待ちなんてひどい目に遭わされることもある。
無論俺はそんなデートを台無しにする真似はしない。
「バスが来るのは10分後だ」
乗り場付近のベンチに並んで腰を下ろした。
それから俺たちは、どちらからというわけではなく、互いの手を肘掛けの上で重ね合わせた。
華子の手は小さくて、とても暖かい。
俺はリラックスして目を閉じる。
それから事前に用意しておいた今日のデートプランを改めてシミュレートする。(ちなみに華子にもプランは既に伝えてある。というか2人で意見をすり合わせながら決定したプランだ)
今日はきっと素晴らしい一日になるに違いないぞ、と予感して、胸が高鳴る。
「……ん~♪ ………ふふっ、♪」
左横にちょこんと座っている小さな女の子は、ぽわぽわした表情で気分良さそうに鼻歌を歌っている。
その朗らかなメロディーには聞き覚えがあるのに、俺はどうしても曲名を思い出すことができない。
しばらく記憶を辿るも空しく、まあ名前なんてどうでもいいや、という結論に至る。
「華子、嬉しそうだな」
瞑目したまま俺は言う。
鼻歌が中断される。すぐには返事が返ってこない。言葉を探しているのだろうな、という間が空く。
ややあってから、微かに震えた声で、消え入りそうに、
「……久夫くんが嬉しそうなのが嬉しいの」
甘いセリフは宙にとろりと溶けて、俺はどぎまぎして、思わず目を開けてしまう。
華子は流し目でおずおずと反応を探ってくる。
重ねている彼女の手が熱くなるのを感じる。
白色に染まる頭の中から、返事に相応しい言葉を頑張って探し当ててみる俺。
「じ、じゃあ俺は、俺が嬉しそうなのを嬉しがってくれる華子と一緒にいれるのが嬉しい」
「えぅ……」と小さく声を漏らしつつ、一度大きく肩を震わせた華子。
あちこち彷徨った彼女の視線は最終的に床へと落ち着いて、
「じゃ、じゃあ私はさ――」
伏し目がちになりながら、華子は負けじと愛の言葉を返そうと試みる。
「私は久夫くんが嬉しそうなのを嬉しがってる私が嬉しくて久夫くんが嬉しくてつまり久夫くんは私が……」
しかし動揺を隠しきれず、ろれつも怪しいままもつれた言葉を続けていく華子。
数秒しておかしさに気付いたのか、彼女ははっとして左手で自分の口をおさえて、
「なんかちがった……こんがらがっちゃった」
紫がかった大きな瞳がうるうると潤む。
もじもじと身悶えする華子は、掛け値なしに愛くるしくて、好きだ。
「かわいい」
感情が昂り俺は思わず心の声をぼそりと呟いてしまい、はっとする。
例えその相手が、心をほぼ完全に許している華子であろうと、自分の素直な気持ちをそのまま言葉にするのには未だに気遅れしてしまう節がある。
だから普段から、彼女に伝えられていないことも、そこそこある。
「……今なんて言ったの?」
耳が良い華子は『失言』を聞き逃してくれなかった。
「えっと、ひみつ」と言って俺は誤魔化そうとする。
やや逡巡したようなそぶりを見せたあと、華子は躊躇いがちに俺の左耳に手をあてて、甘えた声で、
「……かわいいって、もっといっぱい言ってくれなきゃやだ」
背筋がぞくぞくする。
ささやいた彼女の吐息の暖かさが耳の中に生々しく残る。
途端に今度は俺の方が床とにらめっこを始めてしまう。
長い沈黙のあと、「善処する」と一言だけ告げる。
すると華子は、やや茶目っ気のある表情で、ほんの少し身を乗り出すようにしてこちらを覗き込んで、
「久夫くん、真っ赤だよ?」
と言って語尾に「久夫くんかわいい」と付け足した。
「……うん。久夫くんって、かわいい。かわいい、かわいい……」
何か確証を得たような口ぶりで、華子はひとりごちるように、ぼそぼそと、逆に俺のことを「かわいい」と連呼する。
「反応も、だし、お顔も……目とか、男の子なのにまつ毛長いところもかわいい……」
ああ、ああ、ああ………
「とろとろになった切なそうな久夫くん、かわいい……」
ああ……
もう吹っ切れた。
どうなろうと、知らない……!!
「ひ、久夫くん?」
俺は華子の手をほどき、真正面から彼女に向き直り、その細い両肩に手を当てて、
「ちょ、ちょっと言いすぎちゃったかもごめ――んぅ!?」
キスしてやった。
用意ができていなかったから互いの唇は若干乾いてはいたものの、やはり特有のふにふにとした感触が気持ちいい。
目ぱちくりさせて身体をこわばらせた華子はしかし、俺を拒もうとはせず、瞳をきょろきょろさせて周囲に人目がないかを気にするだけだ。
幸い辺りには未だ誰もいない。
幸い?
いや、仮に誰かがいたとしても構わない。
むしろ2人の仲を見せつければ良いだけだろう。
華子が少し身をよじろうとした拍子に、2人の歯がこつりとぶつかってしまう。
俺たちは驚いて一度唇を離した。
「あ、その、ごめんなさい……」と華子は目を逸らして気恥ずかしそうにする。
俺は首を横に振る。
ややあってから、今度は彼女の方から、こちらに両手を伸ばしてハグをせがんでくる。
俺は黙ってそれに応じる。
華子の身体は柔らかくて、細い。
少しでも力の入れ方を間違えれば壊してしまうのではないだろうかと怖くなるほどに、繊細だ。
そんな俺の考えを察してか、華子の方から抱擁の力を強めてくる。
力強いのに、どこか弱弱しい、彼女の抱きしめ方。
「あっ……」
髪の房がたっぷりと垂れ下がった彼女の首筋に、顔をうずめてみる。
のどかな朝にふわりと漂う花の香りのような、淡く甘い、自然な良い匂いがする。
首筋を嗅がれて恍惚とした表情を作る華子は、熱を孕ませた息を、喘ぐように小刻みに吐き出している。
その仕草がいやらしくて更に興奮してしまう。
「ねえ……久夫くん、もう一回、私にちゅってしてほしい……」
俺は首を縦に振る。
「あっ……」
唇は滑りが良くなっていて、一回目よりも更に気持ちが良い。
2人の荒い鼻息が人中の辺りで交わる。
「ん……れぇ……」
華子は舌を絡ませてくる。
その積極的な行為に驚いて、俺は反射的に身を引いてしまう。
だが華子はそれを許してくれない。
彼女は俺の背中に腕をがっちりとホールドする。
「華……っ……」
口内で、彼女の舌がぬるぬるとうごめく。
俺もそれに合わせて自分の舌を動かす。
頭の奥がぱちぱちする。
「ん……ぅ……ちゅ……れぇ……」
くちゅくちゅといやらしい音が立つ。
気付けば愛液のような2人のよだれがベンチの上に十円玉サイズの水たまりを作っている。
構わず華子は舌をまとわりつかせてくる。
口でするセックスの特有の快楽に、溺れそうになる。
「っ……ひしゃお……くん……しゅき……」
股間に血が集まっていくのが分かる。
理性と本能がせめぎ合う。
流石にこんなところでは欲望を完全に解放するわけにはいかない……
今日は特に華子の方が乗り気だとはいえ、そこまで調子づいてしまうと、彼女を傷つけてしまうことに繋がりかねない……
いやでも……
華子だって物欲しそうにしているし、なら、胸くらいなら今揉んでも良いかな――――
「ちょっとちょっと、お二人さん~?」
瞬間。
聞きなじみのある甲高い声が、バス停に響き渡った。
「「うわあっ!!??」」
宇宙まで飛んでいきそうな勢いで跳ねた俺たちは、慌てて互いの身体を離して距離を取った。
おぼつかない目つきで声の主の方を見る。
ピンク色の髪を縦にロールさせた女の子が、得意げな顔をしてそこで仁王立ちをしていた。
何故おまえがここにいる……
「………ミーシャ………おは、よう……」
「はーいひっちゃんおはよーう。そこでうずくまってるお姫様みたいな服の華子もおはよーう。朝っぱらからお盛んですわねえ二人とも! でも、こんなところでアオカンしちゃだめですからね~? 死刑ですよ~??」
と言いつつ、がっはっは、と豪快に笑うミーシャ。
「まあね、ひっちゃんたちがそういうお年頃っていうのは分かるんだけどね、やっぱりオーヤケの場でえっちなことするのはアウトですがなー!! ええ、でもこのミーシャちゃんは寛大ですので、クラスのみんなには内緒にしておいてあげることにします、えっへんきゅるるん☆」
ミーシャはまるで思春期の息子のマスターベーションの現場に遭遇してしまったデリカシーのない中年親父のような言い草をする。
「ここにしっちゃんがいなくて助かりましたね、ひっちゃん先生。しっちゃんがいたらすごくうるさかったと思うから~」
「……確かにな。あ」
そう言われて初めて、いまこの場に静音がいないことに気が付く。
ミーシャと静音はニコイチの双子のようなものだから、一度それに気付くと違和感がすごい。
「……今日は珍しく静音とは別行動か」と膝に腕を乗せ頭を抱えながら俺は言った。
俺の『華子とのデートを邪魔しないでくれ』の仕草は意にも介さない様子で、腹が立つほど溌剌にミーシャは返事をする。
「そうだよ~!! ほんとはいつも通りしっちゃんと一日を過ごす予定だったんだけど、ちょーっとしたヤブ用が入っちゃって、街にいかなきゃいけなくなっちゃったわけなのです」
「そうか」と答えつつ、「野暮用な」とは修正しない。
用事の途中にヘビにでも噛まれておけば良いのだ、ミーシャなんてやつは。
「あ、見てみて、バスきたよー」
そう言ってミーシャは坂の下から前進してくる大きな車体の市営バスを指差す。
乗り場の方へ歩き出していくミーシャにつられて、俺もベンチから立ち上がる。
気まずさを押し殺しつつ、華子に目を配る。
顔を伏せ縮こまり帽子に頭を押し込めようとする彼女は、完全に地蔵だ。
こうなるリスクを考慮せず、誰かに見られる可能性のある場所で『そういうこと』をしてしまった自分の浅はかさを恥じる。
数分前に『もし人が来ても俺たちのいちゃつきを見せつければ良いだけだ』なんて馬鹿げたことをつい考えてしまった己の愚かさを悔やむ。
「ね、ねえ華子。バス、来たよ」
俺の呼びかけに対し、華子は下向きの頭をふらふらと揺らすばかりだ。
「おふたりさーん、バスきてるけど~」とミーシャは停車したバスの前でじれったそうにする。
中年の運転手も、運転席からバックミラーを通して訝し気にこちらを見ている。
華子は落ち着かない様子で自分の膝を指で軽くひっかいている。
一瞬、一本バスを遅らせるという考えが頭をよぎる。
しかし今日は休日ダイヤで、この本を逃せば次は昼過ぎまで待ちぼうけなければならない。
それは困る。
ミーシャは何やら運転手に断りを入れてから、バタバタとベンチの方へ駆け寄ってくる。
「ねえ、華子、ごめんね? 悪気はなかったんだけど、いじわるし過ぎちゃった。ごめん、ほら、一緒にバス乗ろう? 運転手のおじさんもひっちゃんも待ってることだし」
その場にしゃがみ込んで、謝罪を入れつつ華子を説得しようとするミーシャ。
その態度には先ほどまでとはうってかわって浮ついた様子は全く無くて、俺はミーシャのことがますますわからなくなる。
「……先に行って、ください」
華子はミーシャに向かってぼやく。
聞き取りづらかったのか、ミーシャは華子に耳を傾ける。
「ひ、久夫くんとふたりきりが良いので、バス、先に乗ってください。すぐに私たちも乗りますから」
たどたどしくはありながらもきちんと自己主張をする華子。
「そういうことだ」と俺は言う。
「へいへい。ごめんね」と言いつつ、ミーシャは俺の方へも軽く頭を下げてバスのドアへと走っていく。
彼女が最後列の座席に腰かけたのを確認すると、俺は立ち上がった華子の手を引いて、乗り場の方へと早足で向かう。
乗車の際、俺はさりげなく運転手の顔色を伺ってみる。
彼は腕時計で時刻を確認していたけれど、苛立っていたり焦っていたりする素振りを見て取れなかった。
ひょっとすると彼は寛大な人となりをしているのかもしれないし、あるいは、ここ『山久学園前』から乗り込んでくる利用者たちは、身体障害などの特別な事情により乗車時間が普通の人よりも長くなってしまう場合がしばしばあるだろうから、こうした遅延にはもう慣れっこなのかもしれない。
どちらにせよ、彼の対応がどうこうはさておき、俺たちが礼儀を守らなくちゃいけないことは確かだ。
運転手の方へ深々と頭を下げつつ、俺は「お待たせしてすみません」と詫びを入れた。
華子の方も俺の肩に隠れながら「ごめんなさい」と言って申し訳なさそうにする。
すると運転手は俺たちの方へ振り向いて、目じりに深くしわを寄せつつ温かな微笑を浮かべながら、
「別に全くかまわんよ。ただしその代わり、女の子の方。ダイヤを乱さないかとおじさんを不安にさせた分、君は運賃二倍」
と華子のことをからかった。
突然話を振られて、見知らぬ相手とのコミュニケーションに不慣れな華子はすっかり萎縮してしまう。
しかし、俺は肩越しに彼女に笑いかけ、返事をするように促してみる。
すると華子は迷いながらも俺の手を握り、なんとか勇気を出して、
「ゆ、許してもらえませんか……? その、久夫く――彼氏以外の男の人には、あんまりお金を使いたくないっていうか……」
ジョークを返してみせた。
すると運転手は「おお、そうかいそうかい!」と愉快な反応をする。
「まあおじさんじゃそこの男前くんには敵わんか」と彼は言葉を継いで、俺の顔を見る。
「……どうも」と俺はそっけなく返事を返す。
とんだお世辞吐きのおじさんだ。
しかし華子はそれを真に受けて俺が褒められたことをどこか誇らしげにしている。
……そこは素直に嬉しいな。
「まあ、今日はしっかりと2人の時間を楽しむことだな」
そう言って運転手はフロントガラスに向き直る。
「「はい!」」
それから俺たちはドア付近の座席に並んで腰を降ろした。
運転手とのやり取りを後ろから見ていたミーシャは、「にっしっし」と歯をのぞかせて無邪気に笑っていた。
俺と目が合うと、ミーシャはよくわからないポーズを取りながら小さくウインクをしてみせた。
今しがた見せたシリアスさはどこ吹く風だ。
やれやれ。
夏の天気みたいな女の子だな。
なんだかんだ言っても、ミーシャは憎めないやつだなと思う。
バスが動き出す。
発車の遅れを取り戻そうと速度を上げているような感じはまったくしない。
ゆるやかな速度で、俺たちは山久学園から離れていく。
華子は俺に寄りかかりつつ、窓の外をぼんやりと眺めている。
その横顔に、俺は懲りずにキスをしてしまう。
「……もう」
軽く息を吐いて、華子は呆れたような、それでいて満ち足りたような表情を浮かべる。
幸いミーシャさんは手元に夢中になっていたようで。
このままゆったりと、街へ揺られていく。
とろあまな華子さんかわいいですね、かわいいかわいいです