「持ち帰れと言っても、器なんて持っていない」
「あー、そこら辺に瓶とか落ちてないかい?近くも遠くもよく見えるだろう?その若い目ならさ」
「それにここは食料庫だ、何とか見つかるんじゃないかい?」
工場長の無茶振りにゲルフは雑な芝居をうつ。
探しているフリだ。はなから見つける気などない。
全てを諦めたような虚ろな目線が、暗闇まで永遠に続く戸棚の列を貫く。
埃を被った連続体が、さらにゲルフをうんざりさせる。
彼が鼻をすすれば今度は腐臭だ。
放射線によって変異したモグラの死骸がよく見ればあちこちに転がっている。
ただ寒々とした大空間で、何も成せずに朽ち果てたそれらを見るゲルフの目は蔑みを超えてどこか悲しげだ。
「これは俺たちだろうな…」
ゲルフは鼻から侵入し脳を突き刺す臭いと、けがれの化身に同胞を見た。
無意味な比喩だということは彼自身が最もよく分かりきっている。
だがそんな文学が彼の不安と少しの怒りを掻き立てたのだろうか
気づけばかがみこんで瓶を探していた。
それ以外に不安感を隠し通すあてが彼にはなかった。
しばらく歩いているとゲルフは踏み込んだ右足の裏で何かが割れる感触を覚えた。
「この辺りか……」
さらに踏み出す。
次の左足も、その次の右足も、やはり瓶の破片の上。
まるで導かれているようだ。
そのようにゲルフはモザイク壁画の上を歩いていると、
遂に棚の上に空き瓶を見つけた。
恐らくは薬の瓶だが、表面のラベルは雑に引き剥がされ、モヤのような白いシール跡が残っていた。
だがその白は真白にあらず、奇妙にも黒みがかった赤色の汚れが付着している。
「これは…血か」
「まあいい、これなら使えるだろう。」
彼は目標のブツを手に入れるとさっきの亀裂の方向へ向き直った。
その時だった。
彼の右足首を何かが掴む。
酷く血色の悪い腕の先に取り付けられた、朽木のような手。
ソイツはやせ細り、髪は荒野の草の根のように瑞々しさを失っている。
ゲルフはソイツの顔を覗き込もうとするが、シラミも寄りつかないくらい不潔な髪は長く、眼窩は骨ばって深く暗い。
鼻や口元も黒い渦のような邪悪なオーラに覆われていて見えない。
「おまえはな…にものだ…」
ソイツは遂にゲルフに問いかけてきた。
普段から感情をおくびにも出さない彼も、これには激しくたじろぎ、恐怖を隠しきれなかった。
「お……おおおれは!!!!」
話し相手と大差ない呂律と威圧で何とか言葉を返す。
「た…たりぬ……もっ、と……ぐずりを________」
見かけによらず、ソイツの握力はなかなかなものであった。
彫刻刀のように鋭い爪がゲルフの足首に食い込む。
「がああああああ!!やめろ……!!」
「貴様の方こそ何者だァァァァァ!!!!!」
ゲルフはとことん必死に抵抗する。
スクリューのように振り回した握りこぶしが化け物の身体の至る所にヒットする。
だがソイツの猛攻はより一層勢いを増した。
「ヴォォォォォォ!!!!!」
「うわぁぁぁぁ!!!!!」
ゲルフが無我夢中にのたうち回る。
例えるならば、開祖がアメーバの武術と言ったところ。
だが下手な鉄砲もなんとやらである。
彼が気まぐれに一度、強く蹴り上げた脚が運良くソイツの股間に直撃した。
「ヴォあぁああああああああああああああぁぁぁ!!!!!!!」
あまりの苦痛が生み出した咆哮が、ただ暗く広大な食糧庫にこだまする。
これは好機とばかりにゲルフはいつになくしっかり踏み込むと、ソイツの鼻っつらめがけて渾身のトーキックをお見舞いする。
空洞ばかりの脳を突き抜けていく感覚が、彼のつま先に伝わる。
まるで巨大なカマキリの卵をそうしたようである。
「あの液体は……お前たちには……はやい…!!!」
ソイツは断末魔の代わりにゲルフの脳内に問いかけるとその虚ろな姿を消した。
「ひとまず……やったのか……はぁ…はぁ…」
柄でもなく荒らげられた呼吸が次第に整っていく。
だがゲルフの足首の痛みはなかなか引かない。
かなり深くまで突き刺されたということを彼は実感する。
「とりあえず……工場長に報告を……!」
だが彼の視野はぼやけた紺。まるで瞬時に深海にワープしたようだ。
それでも、にじんだ瞳孔が、ゲルフの身体に起こっている異変をからくも脳へ伝える。
右足が大きく腫れ上がり、つま先の方から次第に、煙を伴いながら硬化していく。
白い肌が微かに翠色を帯びていく様子を睨みながらゲルフは叫んだ。
「な……何だこれはァァァァァァ!!!!!!」
熱い。まるで脛骨と腓骨の隙間を、グツグツと沸立った溶岩が埋めていくようだ。それでいて、疼くほどの力の漲りを感じる。
だが、ゲルフの脚は上がらない。
「こいつを持って...あの亀裂に…!!」
ゲルフは右脚の激痛を左の手のひらへ送り込むように薬瓶を強く握る。
瓶が微かな悲鳴をあげる。だが先に砕けてしまいそうになのは彼の心だ。
ゲルフはこれまでの18年間、地底で非力に暮らしてきたことを思い出す。
だがそこに身体的不自由はなかった。
正常な肉体に謝意を示すのは、何よりも難しいことだと知った。
激しい耳鳴りと、これまでで最も強い目眩が彼を強制シャットダウンへ追い込んでいく……
気がついた時、彼は白い天井を眺めていた。
「治療室か……だが何故俺が……?」
「無事で良かった、目が覚めたようだね」
サヴォイア工場長は心底安堵しているようだ。
「何が起こった?」
「食糧庫の1区画が崩落したらしい。」
「なんだと?」
「幸い、もう食糧の残っていない区画だったからまだ……」
「すまない、私がキミをあそこへ連れていったばっかりに…」
「それはいい そんなことより、食糧が残っていないことが幸いだと言えるのか?」
ゲルフは大人の揚げ足を取るだけの余力が自分にはあると確認した上で例の右足首に目をやる。
塗り重ねられたようにくすんだ古傷こそいくつかみられたものの、爪が食い込んだような新しい傷は見つからなかった。
あれは夢だったのだと半分諦めつつも、ゲルフはサヴォイア工場長に問いを投げかける。
「液体だ 壁の液体はどうなった!それから、ヤツは!あの化け物は!」
「壁?液体?化け物?一体なんのことを言っているんだ?」
「やはり寝ぼけているのか…!俺はあんたの指示であの液体を…!ガッ!」
傍の医師がゲルフを取り押さえる。
「キミは少し…いや、かなり病んでいるようだ…しばらく横になるといい…」
そう言い聞かせるとゲルフの右腕に、注射器が当てがわれた。
ゲルフが意識を失う刹那、微睡みに映っていたのは般若のようにおぞましい、医師の表情であった。
「ただの麻酔ですとも……」
先とは一転、彼の表情が元々の穏やかなものへと戻った。
「ゲルフ君……」
「それじゃあ…講義を始めようか」
短髪にメガネの良く似合う女教師、カンネーが教え子たちに呼びかける。
肌ツヤが恐ろしく良い、それから胸の発育も。瞳もよく澄んだ水色だ。
しかし、そんな美貌をぶち壊してしまうレベルで男勝り、口調も荒れに荒れている。
退屈な時間が始まった、と細身のリンドは内心悪態をつく。
講義なんていうものは数ヶ月前まで存在しなかった。
教室が比較的地表に近い区画に置かれているとは言え、風通しが最悪であることには変わりない。
所詮は、無計画な掘削によって出来た余り部屋を突貫工事で無理やりに学び舎に作りかえたものだ。
等高線のようにうねった筋や、やむを得ず触れたような手の跡が刻み込まれた、灰色のコンクリート壁が四方から、腹を空かせた生徒たちを圧迫する。
「よォ…お前……ゲロじゃない方だな?ヘヘッ……」
コロニー内随一の問題児、金髪のトゥールがリンドをからかう。
「俺はなァ…
「ハイそこの君…口数の多い子には…お説教が必要みたいだね?」
カンネーがウィンクしながら頭グリグリのジェスチャーをトゥールに送る。
「はっ!すみませんでした……」
リンドの目に映る彼は、キツく注意されたばかりなのに何だか嬉しそうだ。
「それから…そこの棒っきれ、名前は……」
どうにも冴えない生徒を指でさしながら手元の名簿を目で追う。
「ん…わからんな……名前は?」
「リンドです…」
「下の名前は?」
「ありません…産まれた時から…」
元々か細い声が、今は更にデクレッシェンドの影響下だ。
「んーちょっと声が小さいかな、まあいい」
「関わる大人には、気をつけるんだぞっ」
更に続ける。
「あのシケたタヌキ親父のどこがそんなに気に入った?もしかしてソッチのケでもあんのかい?」
「そういう訳ではありません」
「あいつ……ちょっとした段差で躓いた拍子にゲロまで撒き散らすからねぇ…袋を常に持っておくことだ!」
「ん?ヤンチャ君?どした……」
トゥールは股間を押えてどこかぎこちない。
「んまぁ…これ以上は聞かないでおいてやろう」
少年の目に映る彼女の唇は、吸い込まれるような真紅の色で、てかてかと輝いている。まさに血肉から成るルビーのようだ。
「さて、話を戻そうか」
「今日キミたちがオベンキョーするのはね…この、しみったれたコロニーの歴史だよ……」
生徒たちの多くが、いきなり新天地に放り出されたように困惑している。
「まァまァ肩の力を抜くことさ…アタシが手取り足取り、チョー分かりやすく教えてやるとも……フフフフフッ……」