「全然眠れない」
陽が落ち切った時間帯にいきなり作業場を訪ねてきたシュリは、クマをこさえた顔でそう言った。授業を終えてそのまま来たようでセーラー服姿だが、いつものピシッとした着こなしではなく、草臥れた顔に合わせたかのようにシワ寄っている。綺麗だったはずの銀髪も心なしか燻んで見えて、老けた?なんて言いかけてしまった。
「失礼だよ」
「何も言ってないぞ」
「顔に書いてある」
鋭い視線に苦笑いで誤魔化しながらシュリに「何があったんだ」と訊ねた。
「どうしてかは分かんないけど、ずっと不眠が続いてる。エナドリ飲んで何とか授業受けてる状態だったけど、流石にそろそろキツい。金曜だし今日はここで寝かせて欲しい」
「それはいいけど安眠グッズなんてないぞ」
「いいの。同じ場所で眠れない状態が続くと条件付けされて寝ちゃいけない場所って認識しちゃうから、普段と違う場所で布団に入りたかった」
相当眠いのかシュリは顔を伏せ、台に額を乗せる。こんなにボロボロの状態のシュリを見るのは初めてだ。
俺だけでなくアルラやマキナも心配そうにシュリの後頭部を見つめていた。
「子守唄でも歌いましょうか?」
冗談半分でアルラが提案するとシュリは顔を上げ、少し悩んで答えた。
「いらない……って言いたいところだけど、頼んでいい?」
まさか本当に頼まれるとは思っていなかったのか、アルラは軽く目を見開いた。
「……ええ。構いませんが」
「じゃあよろしく。今日は兄さんのベッド借りるね」
「お、おう」
お風呂入ってくる、とのそりと立ち上がりシュリは風呂場へ向かっていく。小さな背中を三人で見送って、シュリが完全に風呂場へ消えたところで俺達は顔を見合わせた。
「なんか重症っぽい?」
「ぽいな。本気で悩んでるみたいだ。アルラ」
「はい。原因を探ってみます」
神妙な面持ちでアルラは頷く。
一体何があったのやら。
◆
凪のような歌声が聴こえる。澄み切っていてスッと体に染み込むような心地のいい歌声。母親のように、姉のように優しい音に心は安らぐものの、体はまだ覚めきっていて何度目かの寝返りを打った。
深夜一時を過ぎてなお、寝息を立てない私にアルラは子守唄を止めた。
「眠れませんか?」
「うん」
明日は休日。早起きしなきゃというプレッシャーはない。そんな状況にも関わらず眠れる気配がしない。
アルラはベッドの脇から私の顔を見下ろして、どうしたものかと悩んでいた。
「普段はどうやって寝ついているのですか?」
「どうって、普通だよ。寝る前はスマホとか触らないようにしてベッドに入って目を瞑るだけ。コーヒーとかも午後は飲んでない」
「心的ストレスでしょうか。何か悩み事はありませんか?」
「……別に。そんなのない」
「誰にも言いませんよ。マスターにも」
アルラが強く言い聞かせた。私は布団で顔を半分隠し、アルラの顔を見つめて警戒心を募らせる。アルラを疑っているわけではないけれど、不眠の原因はどうしても言いにくいことで固く口を閉ざす。
それでもアルラは一切私から目を逸らさず、自分の言葉が嘘でないことを訴えてきた。アルラの意思を受け取って、私は小さな声で打ち明ける。
「……ベッド入ると兄さんとイチャイチャするのを想像して眠れなくなっちゃう」
「……どうせそんな理由だと思いました」
ブラコン末期としか言いようのない原因にアルラはため息をついた。
呆れた目をするアルラに文句の一つでも言いたい気分だけれど、自分でも馬鹿馬鹿しいと感じていて何も言えない。
「ご自身で処理すればいいのでは」
「そういうの苦手だからしない。デリケートゾーン触るとか汚くて気持ち悪い」
「兄の男性器を咥えた口でよく言えますね」
「あ、相手がいる場合は別! あくまで自分のを触るのはイヤって話!」
「でもマスターとそういう関係になるのは想像していたんですよね?」
「うん」
アルラは難解な数式にぶち当たったように頭を抱えた。
「理解に苦しみます。妄想で気持ちを高めるくせに、処理できないなんて」
「人間はそういうもの。私だって変だと思ってる」
「我慢は身体に毒ですよ。現に影響が出ているじゃないですか」
「そんなこと言われたって無理なものは無理」
「いっそのことマスターを呼びますか?」
「うぇっ⁉︎」
思わずベッドから転げ落ちるところだった。
つまりは。
もう兄さんに抱かれてしまえと、アルラは言っている。
「本当は兄さんのこと譲りたくないんじゃないの。なんでそんなこと言うの」
「確かにマスターが他の女性と遊んでいるのは不服です。二名ほど新しい相手も増えましたし」
「何それ聞いてないんだけど⁉︎」
「ですがそれはそれとして、マスターのご家族の体調不良を放っておくのはアンドロイドとしてあってはならないことです。薬を打てば治るとわかっているなら、打ちますよ」
さらりと重大な情報を聞かされたけれど、アルラは真剣だった。私のことを心配しているのは本心なんだ。
私は布団にくるまりながら色々考えて、首を横に振った。
「……ダメ。今日はコンディションが良くない。クマも酷いし、こんな顔で初エッチなんてできない」
「めんどくさ」
「本当にアンドロイド? もうちょっと態度隠して」
アンドロイドとしての矜持を語る前にもっと気遣うべきところがあるだろうに。
「でしたら今日だけは甘んじて慰めてください。体力を使えば自然と眠れるでしょう」
「アルラずっとそこにいるんでしょ? 絶対ヤダ」
「私のことはお気になさらず。折角ですし手伝いましょうか?」
「わ、私、女の人に興味ないから……」
「何を想像してるんですか。私だって嫌ですよ。マスター以外の人間を触るのは。そうではなく、マスターとの動画や写真は大量にあるので見せましょうかという話です」
おもむろにアルラが枕元から私のスマホを取った。何をする気なのか怪しんでいると、アルラはスマホを操作した後、私に画面を見せた。
「ぇ゛」
そこには私とマキナの二人で兄さんのを舐め回した時の映像が流れていた。恥ずかしいどころの動画じゃなくて顔が沸騰しかける。
「な、なななんでそんな動画が私のスマホに⁉︎」
「私の目に映る景色はデータとしてメモリに保存されます。クラウドを通して特別にシュリ様のスマホに共有させました」
「要らないってばそんなの! 自分で自分のフェラ動画なんて見たくない!」
「ですがマスターの気持ち良さそうな顔も映っていますよ」
必死に画面から目を逸らしていたのにアルラがそんなことを言うものだから、私はチラリと視線を戻した。
アルラ視点で兄さんの蕩けた表情が映し出されている。アルラがそれまで無音だった動画の音量を操作すると、私とマキナのリップ音が聞こえてきた。
「兄さん……」
「他にも色々ありますよ。お風呂でパイズリした時のものなど」
アルラがスクロールするたび、私の知らない兄さんの一面が流れていく。
こんなの。
「んっ……はあ……♡」
こんなの。我慢できるはずがない。
鳥の囀りが聞こえてくる頃。私は頭痛に耐えながら小屋を出た。兄さんとマキナもちょうど起きたタイミングのようで、客人用のエアーベッドを片付けていた。
「シュリちゃん、おはよう。昨日はよく眠れ……た?」
マキナが元気に笑いながら挨拶したけれど、私の顔を見てポカンと口を開けて固まった。
兄さんも私の顔を見るなり目を丸くする。
「昨日よりクマ酷くなってるじゃないか」
二人ともきっと熟睡しているだろうと思っていたようで、一層深いクマを作った私に困惑を隠せていない。
私は目を擦りながらおはよう……と、なんとか声を絞り出す。
「アルラでも寝かしつけできなかった?」
兄さんが私の後ろに立っていたアルラに訊ねた。するとアルラは真っ直ぐに頭を下げ、「すいません。ここまでアレだとは思っていなかったので……」と含みある言い方で答えた。
アレってなんだ、と兄さんが疑問符を浮かべる。アルラが口を開こうとしたところで、私は慌てて彼女の口を手で塞いだ。
「そ、それより今日の予定は?」
わかりやすく話題を変えた私に兄さん達は訝しんだ目を向けたけれど、掘り下げるようなことはしなかった。
「今日は出かけようと思う。最近仕事続きだったから遊びに行く。金も余裕出てきたしな。シュリも行くか?」
「みんなが行くなら行く」
ここまで来て一人で留守番は寂しい。寝不足で辛いものの、兄さん達と一緒にいたかった。
朝食を食べて準備したらすぐ出発すると決めて、兄さんは顔を洗いに洗面所へ去った。作業場に女三人が残されたところで、マキナが気持ち声を小さくして言った。
「んで。何があったのよ」
やっぱり昨夜のことが気になるらしい。正直に何があったか言えるはずもなくて私は適当に誤魔化した。
「世界平和について考えてた」
「セルフプレジャーに夢中になっていただけです」
一瞬でアルラにバラされた。この女、なんでこんなに容赦ないの。
私はため息を吐いてマキナにならいいかと、昨夜のことを包み隠さず打ち明けた。
アルラに兄さんの動画や写真を見せてもらって、まんまと高まった私は久しぶりに一人で致す羽目になった。今思うとアルラの目の前で乱れすぎた気もするけど、恥ずかしさで死にたくなるから具体的にどんな慰め方だったかは思い出さないようにしている。とにかく私は日が昇るまで夢中になっていた。シーツも汚してしまったし、アルラに頼んで兄さんに気づかれることなく洗濯してもらわないと。
「それで朝まで起きてたの? 溜まってたのねえ」
「やめて。その理解ある姉みたいな目」
そんな目をされるとより惨めになる。
「もうナオにスッキリさせてもらう他ないんじゃない? 手とか口ではできたんだから、これぐらいどうってことないでしょ」
「今までは兄さんに触るだけだったけど、自分の身体見られるとか触られるのはちょっと抵抗ある……。二人みたいにスタイル良くないし」
「ナオは気にしないでしょ」
「スタイル良い人に言われても説得力ない」
「この前十四歳の女の子とイチャついてたもの」
「待って何その話」
噂の新しい相手とやらの片方は十四歳の女の子? うちの兄の守備範囲どうなってるんだ。シスコンは良いにしてもロリコンは流石の私も引く。シスコンは良いけど。
「手でしてもらっただけのようですから、貧乳もイケるかはまた別の話な気もします」
「貧乳じゃないし! ちょっとぐらいは膨らんでる!」
「ちょっとぐらいしか膨らんでいないのを貧乳って言うんですよ」
「ごっふ……!」
アルラの一撃で大ダメージが入った。ただでさえ頭が痛いのに、心臓までキリキリする。
「今日は二人で買い物行ったら? 上手く流れに乗せればホテル行けるし、ダメならダメでデート楽しんだらいいじゃない」
マキナが名案を思いついたように私に言った。でも私が熟考するより先にアルラが口を挟んだ。
「勝手に決めないでください。私も行きます」
「私とアルラはいつでも行けるでしょ。シュリちゃんは家から遠いし、平日は学校あるから絶好のチャンスを逃したら勿体無いわ」
「ですが……」
「何よ。四六時中ナオとベッタリじゃないとそんなに嫌なの」
「それもありますが、マキナ様と二人きりで留守番というのが堪えられないです」
「私、嫌われすぎぃ!」
そのまま言い合いを始める二人を放って私はマキナの言葉を反芻した。
デート。確かにいつでも行けるわけじゃない。今日は貴重な一日だ。クマも酷いし体調もスッキリしないけれどそんなこと言ってる場合じゃない。
「お願い。今日だけ兄さん貸して」
私がアルラに頭を下げるとアルラは考える素振りを見せて「貸しひとつということで」と、許可をくれた。
思わずヨシッと拳を握る。兄さんと二人きりでお出かけなんていつぶりだろう。
「ふあぁ……」
浮つく私を落ち着けるようにあくびが出た。