ようこそエロMODが導入された教室へ 作:さんかく
(私、何やってるんだろう)
薄暗いカラオケボックスの一室。
手元のグラスの中で、氷がカランと小さな音を立てた。
部屋に着くなり、斉藤くんが何も言わずに汲んで置いていったオレンジジュース。氷は殆ど溶けかけていたが、それでも火照ったままの指先に、冷たさがじんわりと伝わってくる。
私は、そのグラスの表面を流れ落ちる水滴を、ただぼんやりと眺めていた。
(なんか……疲れたな)
疲れた。
今の一之瀬を表す言葉として、これ以上に適したものは無い気がする。
それは彼女の精神でありーー黄色く濁った液体に汚され、シミと皺で薄汚れたその様相自体が、そう称するに相応しいものだろう。
なんて、そんな無意味な自虐をする事自体、彼女らしくない今の状態を如実に表しているのだが。
頭がうまく働かない。
さっきまでの出来事が、まるで分厚いガラス越しにどこか遠い世界の出来事を眺めているような、現実感のない記憶として頭の中を巡っていた。
まず思い出すのは、鉄とカビの臭い。
そして耳につく男の下卑た笑い声。
佐倉さんの押し殺したような嗚咽に、何より思い知らされた自分の無力さ。
あの倉庫での出来事は、私の知っている日常とはあまりにもかけ離れていた。
ーーそしてそんな絶望の闇を切り裂いたのは、轟音と、彼の低い声だった。
彼ーー斉藤くんが助けにきてくれて、そこからの記憶は更にぼんやりしている。
気がつくと、あれだけ恐ろしかったはずの男は床に転がり、斉藤くんの背中が私とその男の間に、まるで壁のように立っていた。
別に彼が意図した訳ではなかったのだろうが、あの男から私を守るように挟んで立つその背中が、どんな屈強な大人よりも大きく、頼もしく見えたのを鮮明に覚えている。
助かったのだ、と分かってから、私はぼんやりとそんな彼の姿を眺めていた。
あ、でも途中、我に返った時があったっけ。
彼が「警察を呼ぶ」と言った時、私の頭が少しだけ正常に動きだした。
辛うじて働いた危機感が、その言葉に警鐘を鳴らしたのだ。
警察を呼ぶ。とても当たり前の行動。
だが、私はあのストーカーの言動を目の前で見てーー何となくだけど、佐倉さんの正体を察してしまっていた。
びっくりしたけど、確かに納得した。
眼鏡を外して顔を上げていた彼女は、本当に可愛かったから。
だから、警察を呼ぶのは駄目だと思った。
そして事実、あの男は斉藤へ金切り声で唾を飛ばしながら叫んでいた。
もし僕を通報なんてしたら、愛里の正体をバラしてやるからな、と。
まあ、斉藤くんは男のその言葉を、ただの苦し紛れな捨て台詞だと思ったみたいだった。
だから無視してスマホで電話をしようとしーーそれを私が止めてしまった。
今でも、それが正解だったのかは分からないんだけど。
でもその時は、そうしないとと思った。
佐倉さんは、多分有名なアイドルとかなんだと思う。
Dクラスの彼女の正体が、そんな人気者だとバラされたらーーどうなるかなんて、考えたくないくらい明白だと思った。
そして私のその危機感を後押ししたのは、佐倉さんの泣きそうな顔だった。
斉藤くんは最初、私の説得に困ったような顔をしていた。
そんな事言っても、この男を野放しになんて出来ないだろうと、思っていたのだと思う。だけど佐倉さんの表情を見て、考え直したみたいだった。
最終的に、彼は私のーー支離滅裂だと思われても仕方ない訴えを、受け入れてくれた。
大きなため息を一つついて。
そこから彼は、男への対応を変えたらしかった。
男に言っていた言葉はよく聞こえなかったがーー多分、私たちに近づくなとか、バラしたら通報するとか、そういう事を言っていたんだと思う。
あれだけ威圧的だった男が、まるで蛇に睨まれた蛙のように震えていたのは見えた。
その男への恐喝でもしているような圧の掛け方は、なんだか本当に不良みたいに見えたけど、不思議と私は安心感を覚えていた。
あとは何があったんだっけーーそうだ、カメラだ。
その後斉藤くんが取った行動には少しビックリした。
私と佐倉さんの痴態の一部始終を撮ったカメラ。それを斉藤くんは、男の制止を振り切って叩き壊した。
あの忌まわしい記憶が詰まった小さなSDカードも、残骸から彼の手によって拾い上げられ、真っ二つに折られた。
斉藤くんが突然「これ壊そうか」と問い掛けてきた時は、あまり深く考えずに頷いていた節はあるがーー今思うと、そうしていて良かったと思う。
確かにそれは、男のしでかした行為の何よりの証拠であったがーー二つに折られ、男が絶望した表情を見せたことで、救われたように気持ちになった。
今回の件の明確な証拠は無くなってしまったが、彼が念を押して男を脅し、それに対して心底怖気付いていた様子だった事もあり、それを不安に思う気持ちはあまり無かった。むしろあの誰にも見られたくないデータが消えて、ホッとしていた気持ちの方が優った。
とにかくそうして、あの男との事は殆ど幕が降りた。
そしてそれから、確かーー……
ガチャ、と扉が開く音がして、私は思考の海から意識を引き戻される。
小さなカラオケルームの扉を開けて、彼がーー斉藤くんが入ってくるのが見えた。
その手に握られているのは、彼自身の学生カバン。
彼はテーブルの上にカバンを無造作に置くと、中から畳まれた衣服を取り出した。
シンプルな無地のTシャツと、細身のジーンズ。
それを一之瀬に差し出して、ぶっきらぼうに言う。
「俺ので悪いけど、これに着替えなよ」
「えっ……あ、そっか」
渡されるままそれを受け取りーー私は今の自分の格好を思い出した。
学校支給のシャツとブレザー、そしてスカート。
それら全てが、男とーー思い出したくないが、私自身のーーあれで汚れている。ずぶ濡れで皺だらけになり、黄色くシミになっていた。
多少はハンカチで拭いたとはいえ、それでもその汚れとアンモニア臭は決して誤魔化せるようなものではない。拭いても拭いても、染み込んだようにそれは拭えずーーあれ、ハンカチ?
私はそこで、手元に視線を落とす。
そこには、黒い小さなハンカチがあった。私が自分の服と身体を拭いたせいで、じっとりと水分を含んで重くなっているそれはーー私のものではなくて。
「ーーわっ、ごめっ!?これ、これで私身体を拭いちゃってーー」
「いや、それ俺が渡したんだけど。……大丈夫?」
「え、あれ?そう………だったね。あ、あはは……」
不思議なものへ向けるように見てくる斉藤に、一之瀬はバツが悪そうに苦笑する。
そうだった。これは、彼が部屋から出る直前、身体を拭いたらと渡してくれたものであった。
そんな私に、斉藤くんは仕切り直すように声をかける。
「じゃあ、俺はトイレとか行ってるから。着替え終わったらまたーー」
「あっ、待って待って!私がトイレで着替えるから!ここで座って待ってて!」
「へ?いや、そしたらお前ーー」
「いっ、いいから!」
腰を上げて部屋から出ようとする斉藤。
私は慌ててそれを押し留め、着替えを両手にわたわたと部屋を出る。
大した意味はないが、これ以上配慮されるのはあまりにも申し訳が立たなかった。
廊下を少し歩きーー偶然だが他の利用者と遭遇することなく、トイレに辿り着く。
どうやらそこも、利用中の人はいないようだった。
「……ふぅ」
ようやく一人になれた空間で、私は鏡に映る自分の無惨な姿を直視した。
乱れた髪、涙の跡、そして何より、悪夢の象徴である、汚された制服。
こんな醜い姿を、私は彼の前に晒していたのか。
ぶんぶんと首を振って、トイレの個室に入り鍵をかける。
そして思考を誤魔化すように、服を次々に脱いでいく。
つい先程まで身に付けていた物なのに、それはとても穢らわしいものに感じてしまう。指で摘んで、同時に渡してもらっていたビニール袋に、それらを放り込んでいく。最後にキツく縛り上げーーそこでようやく、不快な刺激臭がマシになった。
一之瀬は、そろーっと個室から頭を出す。
誰もいない事を確認し、手洗い場で簡単に身体を洗うことにした。ゴシゴシと水で身体をこすり、最後に簡単に拭いて終わりにする。
時間も僅かだしほんの最低限身体を清めただけだが、ベタベタしていたのは少しマシになった。
そして個室に戻り、彼が貸してくれた服を手に取る。
そのTシャツを広げーーその瞬間、ふわりと洗剤の清潔な匂いと、微かに彼自身の匂いが私の鼻をくすぐった。
「ーーあ…」
それは、こびりついた鉄とカビと恐怖の臭いとは全く異なる、ごく普通の、日常の匂いだった。
その「普通の匂い」に、全く心構えをしないまま触れーーそこでなにか、自分の中の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたのが分かった。
「ーー……」
私はTシャツに顔をうずめる。
目の奥が熱くなって、涙が溢れるのが分かった。
それは恐怖や悲しみの涙ではなく、慣れ親しんだ「安全」と「日常」を感じた事で、ようやく湧き出た安堵の涙だった。
少し大きめのTシャツに身を包む。
アンモニアの刺激臭にずっと晒されていた私の鼻は、服から香る洗剤と彼の匂いを、鮮明に感じ取っていた。まるで彼に守られているような、不思議な安心感に包まれる。
そんな事を考えて、その変態のような思考に自分で驚き、顔が真っ赤になった。
「ごめんね。戻りましたー……」
そして、顔の熱が冷めてから。
サイズの合わないTシャツとジーンズ姿で部屋に戻る。
何となく恥ずかしくなりながら、控えめに扉を開けて中に入りーー斉藤の姿を見て、「おや」と心の中で呟く。
「……すぅー…」
斉藤くんは、ソファに身を預けながら寝息を立てていた。
いつもの表情とは違う、気の抜けたような穏やかな顔。
私は起こさないよう静かに歩き、彼のソファの隣にちょこんと腰掛ける。
「………」
カラオケのデモ映像の光が、彼の横顔を青や赤に照らしている。
普段の学校の蛍光灯の下で見る不良じみた雰囲気とは違う、子どものように穏やかなーー整った顔立ちがそこにあった。
ーー顔、きれいだな。
長い睫毛、通った鼻筋、固く結ばれた唇。
じーっとそれらを眺めーー不意に、何の前触れもなく彼が目を開けてこちらに視線を向けた。
「ーーわっ」
目が合った瞬間、私の心臓が「ドキッ」と大きく跳ねた。
慌てて視線を逸らしーー顔が燃えるように熱くなる。別に悪い事をしていた訳ではないのに、彼の顔を食い入るように見ていたのがバレてしまった。
変なやつだと思われただろうか。
「着替え終わった?じゃー……帰るか」
沈黙を破ったのは彼の声だった。
あまり私の様子を気にしていないような間延びした声で声を掛けてくる。
スマホの画面を開いて時刻を確認し、それをポケットに仕舞って立ち上がった。
そうだ、帰らないと。
すっかり頭から抜け落ちていたが、そもそもこの服装で直接帰ることが出来なかったから、斉藤くんがこの部屋を取って入ったんだった。
もう、大丈夫になったのだから。
あとは帰るだけ。
寮に帰って、シャワーを浴びて、ベッドで眠って、そうしたらまたいつもの日々に……
何の問題もない筈なんだけど。
彼がドアノブに手をかけて部屋を出ていこうとしたのをみて、
「待って!」
と、私の口から、自分でも予期しない言葉が飛び出していた。
制止された斉藤くんが、訝しげにこちらを振り返る。
「??なに?」
「…………えーっと」
呼び止めた私自身が、一番自分の言葉に困惑していた。
(なんで、私、呼び止めたの…!?)
心臓が、さっきよりも速く、うるさく鳴っている。
斉藤くんが不思議そうにこちらを見ている。それはそうだ、呼び止められる意味が分からないだろう。
何か言わなければ。でも、呼び止めた理由なんて、自分でも分かっていないのに。
帰りたくない?
違う。
まだ何かする事がある?
それも、少し違う。
どれも理由としてしっくり来ない。
だが、一つだけ一之瀬の胸に燻るものがあった。
それは、漠然とした不安感。
思考がまとまらないまま、私は必死に言い訳を探しーー目の前のカラオケのリモコンに視線が吸い寄せられる。
これだ、と確信する。
「そ、そう、カラオケ…!」
私は、上擦った声で、自分でも馬鹿げていると思うようなことを口走っていた。
「せっかくだし…時間、まだ少しあるし…その…カラオケ、しないかな…?」
「はい??」
斉藤くんは、虚を突かれたように目を丸くする。私の言葉を噛み砕くように動きを止め、やはり目を白黒させながら私を見る。
「カラオケ?いまから?」
彼の視線が、私の顔と、テーブルのリモコンと、壁のスクリーンとを行き来する。その目に浮かんでいるのは、「こいつは何を言っているんだ」という純粋な困惑だった。
それは、まあ……そうなるよね。
(終わった…。変な子だと思われた…)
顔から火が出るように恥ずかしくなり、私は俯いてしまう。
やっぱり取り消そう、言い間違えたことにしよう。そんな風に思ったところで。
聞こえてきたのは扉が閉まる音ではなく、彼のため息であり、こちらに近付いてくる足音だった。
「まあ、確かにポイントが勿体無いか」
「意外と高いし」と呟きながら、斉藤くんは先ほどまで座っていたソファにどさりと腰を下ろし直した。
(…え?)
顔を上げると、彼がマイクと予約用タブレットを掴んでいる姿が目に入ってくる。
彼が何を思っているのかは分からないがーー私の馬鹿げた提案を、否定することなく受け入れてくれたことは確実だった。
その事実を認識した瞬間、羞恥心でいっぱいだった私の胸に、じわりと、温かいものが広がっていくのを感じた。
恥ずかしい。すごく恥ずかしい。
でもそれと同じくらい、いやそれ以上に、彼がここに残ってくれたことが嬉しくーー安心できた。
それが一体どういう感情なのか、今の私にはまだよく分かっていなかったが。