五条悟が長期出張から帰ってきた。
私はその連絡をもらい、急いで支度をしていつものマンションに行く。
時間は午後23時を過ぎていた。
タクシーの運転手にチップを渡して、私は5号室へ。
この部屋は五条悟が個人で契約し、私との逢瀬のためにだけ借りている部屋だ。
「遅かったね」
部屋に入るなり、五条さんに抱きしめられた。うなじの匂いをすんすん嗅がれ、服の上から下着のチェックをされ、すべてクリアすると、彼は満足そうな顔をする。彼と会うときは、出来るだけ身体の匂いを消して香水もつけず、化粧も薄くしている。下着もつけない。彼は香水や化粧の匂いが嫌いで、身体に下着の跡がついているのも嫌らしい。下着をつけさせないのは趣味だともいわれたことがある。
二ヶ月ぶりに肌を合わせた私たちは、お互い貪欲だった。とくに五条さんは性欲が強いほうで、持っているものも大きく太いので、受け入れられる女性が少ない。
五条さんは飽きることなく私を抱き、私もまたそれに応えた。
私が疲れきって眠り、目を覚ました頃には、五条さんは消えているはずだった。
なのに。
バスルームからはシャワーの水音がする。
私が目覚めて五条さんのいる朝は、この三年間の日々の中で初めてのことだった。
「あ、起きた?」
五条さんが白いバスローブを着て、頭を拭きながらこちらに近づいてくる。
「……おはようございます」
「ん、おはよう」
啄むような軽いキスに、私は驚きを隠せなかった。
今日の五条さんはどこかおかしい。
私がいぶかしんでいると、五条さんは一枚の紙切れを取りだして、ひらひらさせる。
「これをね、破棄しようと思う」
私の喉がひゅぅっと鳴った。
それは【愛人契約書】だった。
「満期まであと半年ありますが……」
「美羽が帰ってきた」
美羽……小鳥遊美羽。
その名前は、知っている。五条さんの婚約者だ。三年間イギリスに留学していた彼女が帰ってくるから、この関係も終わりにしたいのか。
五条さんとの出会いは、普通に路上ナンパで、身体の相性がいいからと愛人契約は彼が持ち出してきた話。
そこには三年間の時間制限が設けられていたが、その理由は婚約者が留学して、肉欲を果たせないこと。
つまり、私は小鳥遊美羽の代替品なのだ。
わかっていた……わかっていたはずなのに、悲しい。
でも、そんな顔はしない。
「細かいことは狩野に聞いて」
「はい、わかりました」
「じゃ、ぼくは仕事だから」
彼は制服を着て髪を整え、5号室を出て行く。
もう、この部屋に来ることはない。
五条さんには、もう会えない。
私は目が熱くなった。
泣かない……泣くもんか。
私はにぶく痛む身体をおして、シャワーを浴びて部屋を出た。
地下駐車場には、見慣れた黒いリムジンがあった。その傍らには初老の男性。
「狩野さん」
「お疲れ様でした。こちら、悟様から預かっております書類でございます。家屋に土地、2000万の現金、その他の宝石類など……」
「いりません」
「は?」
「私、何もいりません。それとこれは返しておきますね」
5号室の鍵とブラックカードを狩野さんに渡す。
「カードは一銭も使ってませんから」
じゃ、失礼しますと、私は歩き出した。背後で「お待ちください」と狩野さんが慌てているが、知ったことじゃない。
これから忙しくなる。
五条さんの用意したマンションを出てアパートに引っ越し、新しく仕事を探して……恋人を作ろう。
ちゃんとした家庭の持てる人と幸せになろう。
私はマンションに戻り、さっそく荷物をまとめた。いつか出ていく場所だからと、荷物は最低限にしか置いてない。
スマホでいくつかのアパート物件をみて、よさそうなところの内見を予約した。その日は、疲れて泥のように眠り、Webデザイナーの仕事は休んだ。
三年間、私はただ五条さんのために時間を使った。五条さんが時間の自由が利かない仕事なので、私は事務職を辞め、フリーのWebデザイナーになった。なんとか食べられるようにはなったが、今度からは外でも仕事をしようと思う。
子供の頃の夢だったパン屋さんやお花屋さんに務めるのもいい。
家に引きこもっていると、五条さんのことばかり考えてしまうから。
私は利便性のいいアパートに移り、マンションの鍵を狩野さんに返した。
これで、私と五条さんを繋ぐものは何もなくなった。それが寂しくないといえば嘘になるけれども、彼には婚約者がいて、その人と結婚するのだから、私がいつまでも駄々を捏ねている場合ではない。
仕事はパン屋さんにした。
毎日美味しい匂いがして、お客さんが幸せな顔をしてパンを買っていく姿は、荒んだ私の心を癒してくれた。
仕事にも、新しい生活にも慣れた頃、お店に五条さんがやってきた。
「い、いらっしゃいませ」
もう二度と会うことはないと思っていた相手が、いきなり姿をみせたのだから、それは驚くだろう。
彼は並べているトレイごとパンを数種類買い、黙ってお店を出て行った。
「?」
なんだったのだ、いったい……?
たまたま?
偶然?
そう考えて、私は思考を切り替え、今日の仕事を終えた。
お疲れ様です、と、着替えてお店を出ると、なぜか五条さんがいた。いつもの制服に両手を突っ込み、アイマスクのせいで表情が読みにくいのも、変わらない。
だが、どこか怒っているようにみえて、私は少し怖かった。
私は契約通り、見知らぬ人として彼の脇を通り過ぎようとして、腕を掴まれた。
「っ?!」
驚きで息が止まった。
「……」
「……」
「……」
お互い言葉が出ない。
五条さんは唇を引き結んだまま私を見下ろし、私は心臓の鼓動をはやめながら彼の言葉を待った。
ピッピ、ピッピ……。
沈黙を破ったのは、五条さんのスマホだった。
五条さんは私の腕を掴んだまま、スマホに出た。
「もしもし、美羽か。どうした?」
五条さんの声音は、怒っているようだったけれども、電話で話しているうちに穏やかになり、私は打ちひしがれた。五条さんは小鳥遊美羽のことが好きなんだ。彼女と話すだけで、こんなにも機嫌が変わる。私は五条さんの機嫌を損ねないように必死だったのに。
するりと腕を掴んでいた五条さんの手が離れ、その隙に私は走り出していた。
なんで五条さんはお店に来たのだろう?
なんで五条さんは私を待ち伏せていたのだろう?
わからないことばかりで、私は混乱していた。
忘れたいのに。
あの時間を。
甘くて苦い、苦しくて嬉しかった、あの時間を。
忘れなきゃいけないのに。
会ったら……顔をみたら、忘れられなくなる。もっと欲しくなる。
せつない。
今の気分を一言で表せば、この一言に尽きない。
私はスーパーに買い物に寄り、アパートへ戻った。
と。
階段に五条さんが座り込んでいた。
「おかえり」
なんと言っていいのか。
私はもごもごと「ただいま」と返事して、自宅のドアの前にきたが、なぜか五条さんもついてくる。
「あの」
「なに?」
「いえ、なんでもないです」
いつもこうだ。
私は五条さんの顔色を伺ってばかりいる。
すでに自由の身になったのだから、気をつかなくてもいいのに、三年間の日々は私を変えてしまった。
「へぇ、なかなかシンプルな部屋だね」
五条さんが用意してくれたマンションに比べれば雲泥の差だが、心地良さはこちらのほうが上だった。所詮、私は小市民なのだ。あんな贅沢は必要ない。
「ねぇ、契約金受け取らなかったのはなぜ?」
やはりそのことかと、私は作った笑みを浮かべ、すらすらと嘘を並べ立てる。
「私にはあんな大金必要ないです。五条さん、結婚でお金をたくさん使うのでしょう? 私なんかに気を遣わなくても大丈夫です。愛人だったことは誰にもいいませんし、今ちょっといいなって思っている男性がいるので、私もそのことがバレると困るので」
「へぇ」
五条さんが私を抱きしめ、首筋に舌を這わせる。
「そいつとはもう寝たの? 何回やった?」
「そんなの、五条さんに関係ないじゃないですか」
「そうだね」
肯定しながらも、五条さんは私から離れてくれない。
耳朶を噛み、服の上から胸を揉む。
「ちょっ、五条さん!」
契約は終わったのに、小鳥遊美羽が戻ってきたのに、まだ私の身体に未練でもあるのだろうか?
都合のいい女扱いは御免だ。
「やめてください、五条さん。契約は終わってますよ?」
「ああ、うん、そうだね」
「私、明日も仕事がはやいんです。夕飯作ってお風呂に入らないと」
「うん……」
名残惜しそうに五条さんが離れる。いや、名残惜しいのは、私だ。
(いやだ、泣きそう)
小鳥遊美羽のところに行かないで、私のもとにいて欲しい。
そういったら、五条さんはどんな顔をするだろう?
現実味のないことを考えるのはやめて、私は夕飯を作り始めた。五条さんは帰る様子がない。
……五条さんのぶんも、作るべきだろうか?
私は気持ち多めに夕飯を作り、テーブルに並べた。
「和食? ヘルシーだね」
食事を覗き込んだ五条さんが、どこか嬉しそうにご飯のおかずを目にする。
今夜のメニューは和風出汁の里芋煮ときんぴらごぼう、かぶの味噌汁に白米、箸休めにセロリの漬物を添えた。
「……五条さんも、食べます?」
ひとりで食べるのは気まずいので、一応尋ねてみれば彼は頷き、テーブルについた。
私は客用のお茶碗にご飯を盛って、五条さんに渡す。
「いただきまーす!」
明るい声でいうと、五条さんは里芋煮をつつく。
「うん、美味しい! きみは料理が上手いんだね」
三年間ベッドでのお互いしか知らなかったのだからしかたのないことだけれども、五条さんは私のことを知らないんだと思うと寂しかった。
私は五条さんのことを、多少なりとも知っているのに。
「そうですか? これくらい普通ですよ」
「えー、これが普通なの?! 美羽が作ったのは」
小鳥遊美羽の名前が出たところで、私の手が止まった。五条さんも罰の悪い顔をしている。
「美羽さんは、お嬢様ですからご自分で作る機会がないだけですよ。これからおぼえていけばいいことです」
「そう、だね」
「食べたら帰ってくださいね。五条さんもお忙しいでしょうから」
飲み込んだお味噌汁は、少ししょっぱかった。
あの日から、五条さんはよくお店に来て、夜は私のアパートで夕飯を食べ、帰って行く事が多くなった。
勘違い、してしまう。
一緒にいてくれるのは、私のことが好きだから、と。
その勘違いは、小鳥遊美羽の存在で、儚く壊れる。
今夜も五条さんは夕飯を食べて帰るところで、彼のスマホが鳴った。相手は小鳥遊美羽だった。スマホから漏れ出る声は可愛らしくも怒っていた。五条さんは優しい声で宥め、今から会いに行くと約束していた。それを聞いていた私の心はぐさぐさ刺され、血塗れだった。
私は食器を片付けて、お風呂の用意をした。
「ごめん、帰るね」
「さようなら、もう二度と来ないでください」
「……」
「はやく美羽さんのところへ行ったらどうです?」
自分の発する言葉で五条さんを傷つけている。そして、私自身も。
「また、来る」
そう言い置いて、五条さんは部屋から出て行った。
こんなのおかしい。
こんなの間違っている。
愛人契約は終わったのに、なぜ彼はしつこく付き纏うのだろうか。
私は五条さんに会えるだけでも、期待してしまう。
無駄な期待なのに。
五条さんは本当に残酷だ。
私はお風呂に入ってから、さっさと寝ることにした。その夜半、玄関のドアが乱暴に叩かれ、私は飛び起きた。
怖々とドアスコープを覗くと、そこには乱れたスーツ姿の五条さんがいた。
私は慌ててドアを開けて、手すりにもたれてる五条さんに肩を貸して、部屋の中へと招き入れた。
お酒臭い……。
五条さんは下戸で、アルコールに弱かったはずだ。それがこんなに酷く酔うなんて、なにがあったのだろう?
私は五条さんをソファに座らせ、ペットボトルの水を渡した。が、力が入らないのか五条さんはそれを落としてしまう。
「五条さん、大丈夫ですか?」
「……ぇ」
「え?」
「頭痛え。気持ち悪い」
経験上、こういうのは吐かせたほうがラクになる。私は五条さんをトイレに連れ込み、「失礼します」と彼の口に指を突っ込み、喉を刺激して吐かせた。
「胃が空っぽになるまで吐いてくださいね」
五条さんの広い背中を擦りながら、喉への刺激を続ける。
「……も、むり」
「まだです」
私は五条さんにたっぷり水を飲ませて吐かせる。それを繰り返してもう固形物が出なくなったと思ったら、ソファに連れ戻し、休ませる。荒療治だが効果は抜群だ。
私は手を洗い、胃に優しい野菜スープを作り、五条さんのもとに持っていった。
「飲んでください。明日にはラクになりますから」
五条さんは顔を背けた。
私は怒っていた。
真夜中に泥酔して訪れ、子供のように駄々を捏ねる相手に、なぜ安眠を邪魔されなくてはならないのか。
私は野菜スープを口に含んで、キスで五条さんの口に流し込んだ。こくりと嚥下したのを確認すると、またスプーンを持って飲ませようとしたが、五条さんは顔を背ける。
しかたない、と、私はさっきと同じく口移しで野菜スープを飲ませ、すべて飲み干すと口のまわりを拭いてから毛布を持ってきて、五条さんに覆い被せる。
「ここで我慢して寝てくださいね」
私が寝室に戻ろうと立ち上がると、五条さんが手を掴んできた。
「行っちゃうの?」
甘えた声。
熱っぽい視線。
三年間受けてきたそれを、私は撥ねつけた。
「……契約は、終わってます」
「……そう、だね」
「手を離してください」
「……」
「五条さん」
どうか、諦めさせて。
こんなふうに期待させないで。
静かな室内にスマホが鳴り響く。
また、小鳥遊美羽だろう。
「うん、うん……ごめんね」
彼は帰るのだろう。
そうしたら、私は泣こう。
泣いて泣いて、またどこかへ引っ越しをし、今度は出会うことのない田舎に行けば、静かに暮らせることだろう。
「ごめんね、今夜は帰れない」
「!」
「わかってるよ、明日はお詫びにおまえの好きなケーキ買ってくるから」
電話のやりとりをそばで聞いていた私は、目を見開いた。
帰らない?
小鳥遊美羽のもとへ?
いったいどういうことなのだろう?
五条さんはスマホの通話を切り、放り投げた。
代わりに私を引き寄せ、抱きしめる。
「ご、五条さん?!」
「シたい」
べろりと頬を舐められ、噛まれた。いけない、流される。私は離れようとして、出来なかった。
「なんでもあげるから、抱かせて」
金品では動かないだろうことは、彼もわかっている。なのに、それでも私を求めてくれるのか。
堪えていた涙が溢れ出す。
「なんで、泣くの?」
幼い子供のように、五条さんが尋ねる。
「そんなにぼくに抱かれるのがいや?」
そんなことはない!
そういえたらいいのに、と、私は下唇を噛んだ。
五条さんが私の顎を掴みあげて、親指の腹で下唇を引っ張る。滲んだ血を、五条さんの舌が拭う。
ぴりりっと電流が走った。身体が、五条さんを欲している。
五条さんの大きな手が、私の背中を撫でる。ブラジャーのホックが外され、服の中に手が滑り込んできて、愛撫が始まる。
「だ、だめ」
「なにが【だめ】?」
くにくにゃと乳首をいじられ、固くなってくる。ブラジャーごと上着を脱がされ、冷えた空気に触れた素肌が泡立つ。
「五条さん、まだ酔ってるんですか?」
「うん、きみに酔ってる」
私は本気で危機を感じていた。このままずるずる関係を続けるのはよくない。
「五条さん、美羽さんが悲しみますよ?」
小鳥遊美羽の名前は、五条さんに効果的だった。が、苦しげな顔をしつつも、私を弄う手は止まらない。
「……わからないんだ」
五条さんが苦しげにつぶやく。
「もう、ぼくはどうしていいのか、わからない」
「五条さん……」
なにがこの人を苦しめているのだろうか。
その苦しみから救ってあげたい。
代替品でもかまわない。
私は五条さんを愛している。たとえ報われない想いだとしても。
五条さんは私と身体を入れ替え、覆い被さり鎖骨にくちづけて噛む。
五条さんには噛みグセがあり、胸もお腹も太腿も、彼の噛み跡が残っている。
その跡にくちづけて、また新たに噛んでいく。
私はその痛みに喜びを感じながらも、また鳴り出した五条さんのスマホに気を取られた。何度も鳴り続けるスマホ。たぶん……いや、おそらく小鳥遊美羽だ。
私は彼女に五条さんを取られたくなくて、彼の顔を挟んで掴み、くちづけて舌を入れた。口内で絡み合うものの、次第に五条さんの熱が冷めていく。
私から離れていく五条さんを引き止める術はなかった。ひとりよがりの愛に涙が溢れ、頬を伝う。
もうよそう。
この人を救いたいなんて、思わない。
結局、五条さんは小鳥遊美羽を選ぶのだから。
代替品でいいと思ったのも、一瞬の気の迷い。
五条さんがスマホで話している間に衣服を整え、髪の乱れを手で直した。
予想通り、五条さんは帰った。
五条さんがいなくなっただけで、部屋が広々とし、また空虚にも感じる。
その晩はぼんやりして過ごした。
私はパン屋さんの仕事を辞めた。
初老の店長とママさんスタッフたちは惜しんでくれたが、五条さんに居場所がバレてる以上、務める気にはなれなかった。
私はアパートの荷物をそのままにして、オーストラリアに飛んだ。暖かい気候は凍てつかせた私の心を優しく包み、穏やかにさせてくれた。
私は無邪気な観光客になり、コアラの赤ちゃんを抱っこしたり、カンガルーのボクシングをみたり、オーストラリアを満喫していた。そんなある日、五条悟は私の泊まっているホテルに姿をみせた。
なぜここに? と思う前に、会えた喜びが勝り、それに気がついて落ち込んだ。
彼を忘れるための旅なのに、彼に会えて……迎えに来てくれたんだと思い込んで、喜んでしまったことが恥ずかしい。
「一緒に日本に来てくれないか?」
「……それはどういう意味ですか?」
五条さんは言いにくそうに口を開く。
「美羽が、会いたいそうだ」
「っ!」
心臓が飛び跳ねた。
小鳥遊美羽は、私の存在を知っていたのか。
五条さんとの関係を、どこまで知っているのだろうか。
「わた、し」
声が、震えた。
「わたしはあいたくない」
五条さんの婚約者、いずれ結婚する相手で、彼の子供を産むだろう彼女。
会えば罵倒してしまう。
そんな醜態を五条さんにみせたくない。
五条さんが私の腕を掴む。
「どうしても会ってもらうよ。ぼくは美羽の願いをすべて叶える義務がある」
義務?
まるで仕事のようなことをいう。
その一言が心に引っかかりつつも、私は抗った。
「嫌です! 会いたくないし、会う意味がありません!!」
「きみになくてもこっちにはあるんだ」
「嫌ったら嫌っ!!」
「力ずくでも連れて行く」
五条さんの青い目は本気だった。
綺麗な青、オーストラリアの空の青、この瞳に魅せられて愛人契約したのを思い出した。
結局、私はその日のうちに日本に連れ戻され、小鳥遊美羽と顔を合わせることになった。こっちの時差ボケも考慮してくれと愚痴ったところで、五条さんは耳を貸さなかった。
小鳥遊美羽が住んでいるのは、都心から少し離れた郊外の御屋敷だった。
造り立てなのだろう大きな洋館に五条さんと共に入ると、執事と思しき壮年の男性が数人のメイドを従えて、五条さんに頭を下げる。
「悟様、お疲れ様でございます」
「美羽は?」
「本日は微熱があるようで、お部屋にてお休みなさっておいでです」
「会っても大丈夫?」
「それがお嬢様の望みですので」
棘を含んだ執事の視線が、私に突き刺さる。
私は身じろぎ、自然と五条さんの陰に隠れた。
「行こ」
案内はいらないと、五条さんは執事たちに言い置いて、私の手を取る。
「?」
五条さんの手が、震えている……ような気がする。
愛しい婚約者に会うのに、なぜだろう?
「美羽、入るよ」
とあるドアをノックして、五条さんが声をかける。内側から可愛らしい声が「どうぞ」と応えた。
部屋に入ってみると、私は驚いた。
室内は白とピンク、レースとフリルの洪水で、そこに埋もれた小さな細い少女と白に青い目のテディベアが、どこか異質だった。
「美羽、熱は?」
「たいしたことないわ。いつものことよ」
愛らしい声に相応しい愛くるしい外見だが、私をみる目には憎悪が宿っていた。
「悪いのだけれど、私、ベッドから離れられないから、あなたから来てくれる?」
私が言われるまま近づくと、小鳥遊美羽は手を振りあげて、思いっきり私の頬を叩き、爪で引っ掻いた。
「美羽っ!」
とてもそんな力があるとはみえないのに、頬は腫れ上がり、爪痕からは血が滲んだ。
「泥棒猫」
小鳥遊美羽は冷ややかに私を見上げた。
ぐさりと胸を突く一言に、頬の痛みも忘れ、私は思わずあやまりそうになった。
(あやまるのは間違えだ)
愛人契約を持ちかけたのは五条さんで、私からではないし、契約通り私は五条さんと無関係を通そうとしていた。
「私から悟さんを取らないで!」
「美羽、落ち着いて。また発作が起こる」
発作?
小鳥遊美羽は持病を持っているのか。
ああ、と、私は納得した。
身体の弱い小鳥遊美羽では五条さんの相手は無理だろうから、また私を相手にしたいということか。
今度は小鳥遊美羽公認で。
「あなたなんて大嫌い。でも、悟さんが好きになった人なら、しかたないわ」
小鳥遊美羽は大きな目に涙をためて、くやしそうに言葉を紡ぐ。
「どうせ私は長く生きられないのだもの。私が死んだら悟さんは自由よ」
「いき、られ、な、い?」
「ええ」
小鳥遊美羽が自分の胸に手を当てる。
「私には元々心臓に欠陥があって、最後の綱で手術を受けたけれども、それも失敗。おかげさまであと三ヶ月の生命よ」
ああ、それを知っているから、五条さんは小鳥遊美羽のわがままを受け入れていたのか。
「イギリス留学というのは?」
「してたわよ? 最後にやりたい学問があってね。……でも、身体がついてこなかった。もう、限界なのよ」
「……」
「一度ね、悟さんが好きになった人をみてみたかった。そしたら、すごく憎くなったわ。この人は私が死んでも悟さんのそばにいられるんだって」
小鳥遊美羽がぎゅうっとテディベアを抱きしめた。
「だからね、あなたに呪いをかけてあげるの」
「美羽!!」
「悟さんは黙ってて」
小鳥遊美羽は私に向き直り、高々と宣言した。
「私が死ぬまで悟さんは私のもの。だけれども、そのあとはあなたのもの。付き合うなり捨てるなり好きにしなさい」
「そ、れは」
「私が死ぬまで、あなたは悟さんに会えないってことよ。悟さん、あなたもね。この約束を破ったら、あなたたちが永遠に会えないようにするわ」
小鳥遊美羽は微笑んだ。
邪気のない、真っ白な笑みというものを、赤子みたいな笑みを、彼女は浮かべた。
「さあ、もう帰ってちょうだい。少し疲れたわ」
小鳥遊美羽はベッドに寝込んだ。五条さんの手を握ったままで。
私は部屋を出た。
小鳥遊美羽に託されたものを噛み締めて。
☆★☆
私はお弁当屋さんのバイトを始めた。
昼時は戦争のような忙しさだが、その他の時間帯は緩やかだった。忙しい毎日は、五条さんと小鳥遊美羽のことは記憶の奥に封印してくれた。
冬も終わり、暖かくなった頃、五条さんは再び私に会いに来た。
「美羽は逝ったよ」
「そう、ですか」
小鳥遊美羽は五条さんを自由にしていいと言ったが、彼女の死は楔となって素直に喜べない。
「ぼくは、きみを抱きたいと思っている」
クズだろう? と、自嘲気味に告げる五条さんに、私はくちづけた。
「私こそ最低な女です。美羽さんが死んで良かったと思ってる」
「美羽はね、ぼくにとって可愛い妹みたいなものだったんだ。だから、婚約者だといわれても、恋情はなかった」
五条さんの大きな手が、私の頬に触れる。
「でも、死ぬとわかっていて、美羽がぼくを好きだと知ってて、恋人は作れなかった。愛人契約は、形だけのものだった。ぼくはきみを愛している」
涙が溢れ、五条さんの手を濡らす。
ずっと聞きたかった言葉。
だから私も、いいたかった言葉を口にする。
「愛しています、五条さん」
出会ったときからずっと。
五条さんの青い瞳が見開かれる。
「本当に……?」
「それは、私が言いたいですよ」
五条さんの両手が、私の顔を挟み、溢れる涙をくちづけで吸い取る。
「恋人から始めよう」
五条さんの言葉に、私は頷いた。
二年後、私と五条さんは小鳥遊美羽のお墓に来ていた。
「報告があるんだ、美羽」
墓石に向かって、五条さんが語りかける。
「ぼく、彼女と結婚するんだ。再来月には挙式をあげる。報告が遅くなってごめんよ」
小鳥遊美羽の墓石には、透明な袋に入った青い目の白いテディベアが供えられていた。
それは五条さんの身代わりに作られたものだった。幼い頃から五条さんのことが好きで、五条さんを思わせるテディベアを作って、いつもそばに置いていたという。
そのテディベアを棺桶に入れなかったのは、小鳥遊美羽の遺言だった。
五条さんを自由にする、という意思表示が、それなのかもしれない。
「幸せになるよ」
「私も、五条さんを幸せにします」
小鳥遊美羽の笑い声が、聞こえたような気がした。鈴を転がした可愛らしい声で。
「行こうか」
私のこめかみに、五条さんがキスをする。
私は五条さんの手に指を絡ませて握る。
もう二度と離れない。
私は小鳥遊美羽の墓石を振り返り、「ありがとう」と小さく呟いた。