駆ける。駆ける。駆け抜ける。
夜半の森の、鬱蒼と茂る森の中。木々の影、まばらに差し込む月明かりの何と頼りないことか。しかし、それでも少女は駆け抜けた。
駆ける。駆ける。駆け抜ける。
足を止めてはならない。振り返ってはならない。
篝火が倒され火の手が上がる。肉の焼ける匂いだ。悲鳴と血飛沫が頬を濡らす。
断末魔が響く、命が終わる。それでも彼らは口々に叫ぶのだ。
行け、行って、行って下さい。
一回りも年上の騎士達も、まだ年若い新兵達も、皆口を揃えて少女に叫ぶ。地獄へ行けと叫ぶのだ。
駆ける。駆ける。駆け抜ける。
勇気の帆を膨らませ、人々の期待を一身に受け止めて、少女は駆け続ける。
一人を助ける事に意味はない。その瞬間に二人が死んだ。二人を助ける事にも意味はない。知らない所で五人が死んだ。
振り返りたい。手を伸ばしたい。
一人で良い。意味は無くても助けたい。
押し寄せる魔物の群れに、人はあまりに無力だ。
熟練の騎士達でさえ身を守るのがやっと。数合わせの新兵など、精々が肉の壁。
恐慌に陥りそうになる精神を、未だ耐えている事すら称賛に値する。死の間際、上がる断末魔を一体誰が嘲る事など出来ようか。
「…っ。ごめんなさい」
手は届いた筈だ。けれど、見て見ぬ振りをした。見殺しにした。それが彼らの役目だから。肉の焼ける匂いがする森の中。赤い血が降り注ぐ森の中。悲鳴の絶えない森の中で、ただ一人、綺麗で有り続ける少女は美しい。
清廉潔白と、輝く白銀の鎧に傷はなく、血の一滴さえも届かない。
正義の刻まれた剣を振れば、少女の道を妨げる魔物は居なくなった。
少女、リットリア。
聖女。聖騎士。
神の加護を一身に受けた少女は、果たして幸運だったのだろうか。
青い瞳に涙を浮かべ、血が滲むほどに歯を食いしばる彼女の背中は小さかった。
国の命運などと、お題目を背負うには、あんまり普通の少女に過ぎる。
「…見えたっ」
森の出口。気づけば、戦いの喧騒はずっと後ろ側だ。
木々が晴れ、開けた場所には館があった。城と言うには小ぢんまりとしていたが、戦いの喧騒を前にして、物音一つ無い空間の不気味さと言ったらない。
魔王。フィアー・ドロップ。
私が倒さなきゃいけな敵の名前。
王も、教皇も、口を揃えてそういった。
神に選ばれた。私が引き抜いてしまった聖剣こそがその証なのだと。
才能か、それも加護の内だったのか。
ただの少女でしかなかったリットリアの成長は目覚ましい。
自分でさえそう思う。年端もいかない少女が聖剣を振るい、魔物を退ける。
最初は半信半疑だった者たちも、上がってくる戦果に手の平を返すか、口を閉ざすか。
聖女。聖騎士。
最初はむず痒かった称賛も、次第に誇りへと代わっていく。
良い気になっていた。その気になってしまっていた。浮かれる私を叱ってくれたのは団長だけ。「あんまり調子に乗るな」「足を掬われるぞ」頭を小突かれて、ちょっと不満。唇を尖らせる私はきっと、ただの少女に戻っていたことだろう。
反骨心じゃない。子供扱いされる事が嫌だった。
だって、私は…。
増加傾向にある魔物の被害は、近々森から溢れ出すのではないかと流言を呼ぶ。
誰の口にも戸は立たない。対応に迫られた国が、騎士団を立ち上げるのも自然なこと。
「拙速過ぎる」団長は言う。
「行きます」私は言った。
団長の言葉に頷く者も少なくはなかったが、聖女の言葉を重んじる者たちは更に多い。団長は、最後まで止めてくれたのに。自分の背中を押す声の大きさに、彼の声は私の耳に届かない。
焦っていたのかも。
いつ終わるかも分からない戦い。いつか終わらせ なければならない戦いに。
いくら剣の腕を磨いた所で、ただの少女でしかない私の心は弱いまま。
いつか、その いつか が待ち遠しい。例え、足を踏み外しそうな所にあったって、届きそうになれば手だって伸ばす。
魔王を倒せば、私は要らなくなる。その時は、一人の少女として…その為にも。
ドンっ…!
沈と静まり返る館の扉を蹴破った。
あんまりに無礼な行いは、それでも、リットリアの胸に溜まった鬱憤を、少しだけ晴らしてくれる。
これで、魔王の顔面にも蹴りをくれてやれれば最高なのに。
「出てきなさいっ。フィアー・ドロップっ。私と戦ってっ!」
飛び込んだ館の中は、一見すれば、何処にでもあるような貴族の館だ。
差し込む月明かりに、ぼぅっと、エントランスが浮かび上がって見える。
生活感は無い。埃の一つも無いのが妙だ。綺麗過ぎる廃墟の中は、時が止まった様な印象さえ感じてしまう。
一つ、二つと、時間が過ぎて、けれど館からの返事はなかった。
外れ? 情報が間違っていた?
でも、それなら、どうして、ココに来るまでアレだけの抵抗があったのか。
一個の騎士団を磨り潰して、ようやく私一人がたどり着けた。なのに、間違いでしたなんて、そんな話はあんまりだ。
「…そんな」
一瞬。滲んだ不安を吐き出すように、少女が息を吐いた時だった。
ぽっと、エントランスに灯りが灯る。二つに三つと数える様に、燭台に浮かんだ火は、階段を上がりながら二階へと続いていく。
ガシャリ…。
足音がする。重たい金属が奏でる不協和音は、静かな館にこびり付くようだ。
ガシャリ…。ガシャリ…。何時から、そこに居たのだろう?
何の気配もなかった。長身の騎士。その纏う威圧感を、どうして無視が出来る。
今、すぐそこに現れた。気づかないはずがない。階段を降りる甲冑。見上げた騎士卿の姿から、リットリアは目が離せなくなった。
頭が無い。
そう、体だけだ。
甲冑に包まれた体は大きく、逞しい。鎧の上からですら、良く鍛えられているのが分かる。それだけに不気味だ。凛とした佇まい。整然と歩く立ち姿。本来首があるべき所にそれはなく、それらしい頭が小脇に抱えられている。
少女と、生首と。
この場にそぐわないのはどちらだろう?
少女に抱えられた生首が、冷めた瞳でリットリアを見つめている。
偉丈夫に抱えられた少女が、楽しげにリットリアを見下ろしている。
「貴女が…フィアー・ドロップ?」
リットリアの視線は、自然と生首の方へと向いていた。
凛と静かな女性の顔立ち。灰色の髪と、冷めた瞳と。首のない騎士卿の持ち主とは結びつかないが、自分よりも幾らか幼く見える少女に、魔王のレッテルを貼るのは躊躇われた。
「呼ばれていますよ? 雫」
「ん? あぁ、嫌だわ。久しぶりにそう呼ばれたんだもの。十年? 百年経ったかしら? ごめんなさいね、聖女様。おまたせをしてしまったわ」
「聖女って…どうして、あなたが」
「ん? だって、聖剣を持っているじゃない? 久しぶりに見たわ、そういうの」
にっこり…。
微笑んだ雫は足を揺らす。
ふわり…。
スカートを広げ、ユーレリアの腕から飛び降りた雫は、階段の途中、踊り場の上へと足を踊らせた。
「ごきげんよう聖女様。私がフィアー・ドロップよ? そうね、そう。貴女達が魔王って呼ぶ何かだわ」
スカートの端を摘み、嘲るように頭を下げる少女の姿。
こんな幼い姿をしてさえなければ、リットリアとて、その場で切りかかっていたかも知れない。
けど、動けない。
見た目に絆された訳ではない。心に引っ掛かるものはあっても、アレが魔王を名乗るなら剣は振れる。けれど、動けない。少女に抱えられた生首が、静かにリットリアを見下ろしている。それだけで、足が竦んでしまっていた。
踏み込める。
飛ぶように階段を駆け上がり、剣を構えて…。
次の瞬間には、自分の首が飛んでいた。
背中に嫌な汗が浮かぶ。何を、どう思い描いても、後ろの騎士を越えられない。
言葉の一つも、剣の一つも交えてはいないのに。勝てない。弱気な想像が振り払えず、まんじりと、時間だけが過ぎていく。
歯がゆかった。
もどかしかった。
こうして睨み合ってる間にも、兵たちは死んでいく。
私を送り込む道を作り、私の背中を、帰る道を守る。一秒とて無駄には出来ない。
大丈夫、大丈夫…。
ちゃんと、出来るから。
リットリアは何度も自分に言い聞かせた。
幸いか。魔王と名乗った少女にそれらしい威圧感は感じない。むしろ、この場を支配しているのは背後の騎士、首無しの騎士卿、デュラハンだ。
彼女を倒せば…。
楽観だって、また団長に叱られるかな。
胸に灯った淡い思いが、弱気になっていたリットリアに、少しの勇気をくれた。
まさか、ただ可愛いだけで、あの少女がココにいるとは思えない。
なんの冗談でも、魔王を名乗った以上は無視できなかった。警戒はする、当然だ。
けれど、あのデュラハンを除けないことには、少女にも、そこに抱えられている首にすら剣は届かない。
「雫、下がって。どうやら、やる気になったようです」
「あら、そう? てっきり逃げてしまうものだとばっかり。貴女の顔が怖いせいよ、ユーレリア。彼女、すっかり怯えてしまっていたじゃない?」
「結構。避けられる戦いは避ける主義ですので」
「不遜だこと…」
ガシャリ…。
深く、不快な音を立てて、甲冑だけが前に出る。
少女の腕の中に首を預けたまま、一つ、一つ、ゆっくりと、階段を降りる姿は、正しく不遜であった。