「殺して…」
諦観。もはや自棄を起こす気力も、体力も残ってはいなかった。
首無しの騎士に両脇を抱えられたリットリアは、項垂れたまま終わりを求める。
「ぷっ、ふふっ…あははははっ」
笑う、笑う、笑って見せる。真黒の髪を揺らして、白い衣装、そのスカートを踊らせながら、雫は笑って見せた。
「何が、可笑しいの? いえ、可笑しいでしょうね。勝てもしないのに息巻いて、さぞや滑稽だったでしょ? ふっ…あははっ。笑っちゃいますよ、分かります…。でも、それでもっ…わたしたちは、命をかけて戦った相手を…」
皆死んじゃった。
私が巻き込んだ。私が殺したみたいなもんだ。
頼みの聖剣は砕け、鎧もボロボロ。無理に聖剣の力を放出した反動か、指先一つ動かすのでさえ億劫だ。体力も、気力も尽きた。悔しい。思う気持ちはあっても、戦う理由がなくなってしまった。
「いいえ、いいえ。違うわ、違うのよ? ただ本当に可笑しくって。だってそうでしょう?「殺して」だなんて、まさか殺しに来ておいて、ね? 侮辱しただなんて思わないでちょうだい。本当に可笑しくって、それだけなんだから」
同じことだ。
クスクスと、未だ笑みを消さない少女を前に、怒りも湧いてこない。
侮辱すらされない。敵だとすら思われていなかった。拾ったオモチャを ただ壊しただけ。飽きたら捨てられる。生き延びたいなら、少女を楽しませてやる必要もあるのだろうが、そこに意味を見出せない。
「殺して」と、慈悲を求めることすら無駄。たった一つ、情けを求めることさえ道化に代わるなら、リットリアにはもう出来る事はない。それこそ、糸の切れた人形のように、全ての可能性を諦めるしかなかった。
「ねぇ、聖女様? 貴女お名前は?」
「…」
答えない。耳をくすぐる声音すら、今は不快に感じてしまう。
拘束されるリットリア。その隣に立った雫は、項垂れるばかりの顔を覗き込む。
「私は雫。ええそう、雫っていうの。フィアー・ドロップだなんて、あんまり恥ずかしい呼び方をされるのは、少し照れてしまうから。雫って、そう呼んでくれると嬉しいわ」
答えない。騎士が名乗りもしないなんて、非礼に当たるだろうか?
ユーレリア。あの首無しの騎士相手になら、そうだったかもしれない。
けれど、フィアー・ドロップ。いや、雫と名乗った少女に、自身の名前を告げるのは抵抗があった。
それは、僅かに残った意地か。
いいや、ちがう。
嫌いな相手に対しての、ささやかな意地悪のようなもの。
今の自分は、幼子に嫌がらせをするのが精々だ。
「答えない? 聖女様が名乗らないなんて、些か無礼だわ」
答えない。無言を貫く訳じゃない。そんな意思は残ってない。
何を言っても無駄。目の前の、言葉を喋る少女はだけど、同じ理屈で生きてはいない。その気まぐれで、人を殺すような相手に、どんな礼を尽くせというのか。
「じゃあ、言いたくなるようにしましょうか? そう、ゲームをしましょう?
聖女様に、お名前を言わせるゲーム。賞品は、そう…そうね。外にいる仲間の命って事でどう?」
「は…?」
ああ、希望とはこんなにも残酷なものなんだ。
ただ死を待つばかり。絶望に曇っていたリットリアの瞳に光が戻る。
「ひーふーみーよー…とう、と、じゅう…あ、やっぱり十だわ。まぁ、大変。あれだけ居たっていうのに、もう両手で足りてしまうじゃない」
笑っていた。もう見ることも無いと思っていた笑顔だ。
顔を上げたリットリアの瞳に映る雫の笑顔。指折り数える姿は、まだ幼く可愛らしい。けれどそれは、命を剪定する悪魔の笑みだった。
「まってっ、待って下さい。私はっ…私の名前はっ…っ」
「だめ。だーめ。だめなのよ? 貴女が意地悪をしたんだもの、もう勝手に名乗ることは許さないわ」
叫ぶリットリアの唇に、雫の指が触れる。
まるで内緒話をするような気安さだ。細くて、華奢な指。このまま噛みちぎってしまえそうな指先を前に、けれど、リットリアは縫い付けられた様に動けなくなった。
単純な恐怖。
目の前の少女。無邪気に笑う少女。幼子の顔をした何かに対する畏怖。
同時に、まだ生き残ってる仲間がいる。自分の行動一つで、彼らの首にギロチンが落ちるとなればもう、リットリアに自由はない。
「良い子ね? 好きよ、素直な子って」
「…ゲームって、言いました。私は、何をすれば…。勝ったら、本当に…皆を」
「助けない。けど、殺しもしない。逃げる分にはね? 死にに来るなら知らないわ、だってそうでしょう?」
そんなのズルいって叫びたい。
けれどこれは、交渉じゃないんだ。負けた自分に切れるカードもなければ、選択の余地すらない。いや、あったとしても、仲間を見殺しにして自分も死ぬか、自分を身代わりに仲間を助けるかの二択だけ。
唯一、不安に思うのは、雫がどれほど約束守れるのかという一点だが。
「わかり、ました」信じたんじゃない。頷くより他はなかっただけ。
今この瞬間も、移ろってしまいそうな彼女の気まぐれに、その興味を自分に引き付ける。
「ルールは簡単よ? 聖女様? 貴女は言わなければいいの。お名前を。私は聞くわ。お名前、教えてって。貴女はそれに答えなければ良い。もちろん、言いたくなるように意地悪させてもらうけれど。ね、簡単でしょう? 貴女が私を夢中にさせている間は、貴女の仲間の事なんて知らないわ」
予感はあった。
聞くだけだと、彼女は言うけれど。捕虜になった騎士の、まして女の末路なんて決まっている。拷問か、凌辱か。聞くだけだと、彼女は そう言うけれど。私が言うまで、嬲るのを止める気はないのだろう。
これは、ゲームじゃない。
ただの私刑だ。
分かっていても、頷いた。
自分の尊厳一つで皆が助かる…。かもしれない。曖昧な希望だ。絵に描いたパンのような実態のなさ。それでも、それでも。今、彼女の機嫌を損ねる訳にはいかなかった。
そっと、雫の指がリットリアの頬を撫でる。
下顎に指を添え、くいっと、顔を持ち上げると、リットリアの青い瞳の中に、雫の黒目が映り込んだ。
「じゃあ、最初の質問よ、聖女様? 貴女の名前を教えてちょうだい?」
「…っ、ぁ」
固く誓った筈だった。
もはや、何も無い私にでも、口を閉ざすくらいは出来ると思っていた。
たとえ何を聞かれたって、名前だけは口にすまい。我が身可愛さに仲間だけは見捨てまいと。
吸い込まれるようだった。
真っ黒な瞳の中。真っ暗な瞳の奥。
青い瞳。静寂を讃えるリットリアの瞳にぽつり、黒いインクが落ちたよう。
飲み込まれる、真っ黒に。吸い込まれる、真っ暗に。
心が黒く染まる中、リットリアに向かって、小さな手が伸ばされる。
まさに、救いのようだった。
底の無い井戸の底。そこに垂らされた一本のロープ。手を伸ばし、指が触れ。
慌てて、その手を振り払った。
「わた、わたし…はっ。り…っと。くっ、あっ! はっ、あっ、はぁっ、はぁっ…な、貴女、今…なに、を…。わたし、なんで…いま」
「あははっ♪ 惜しいわ、惜しかったわね。良かった♪ 簡単に落ちてしまったらどうしようかとばっかり。それではゲームにならないもの」
思い違いをしていた。
首無しの騎士。ユーレリア。彼女もまたそうなのだと。
私と同じ。何か弱みでも握られて、抵抗出来なくされているんだ。
恐怖で人を縛る。悪党のやりそうなこと。
けれど、触れた手には、何故だか温かさがあった。
問いかけは、無垢な幼子のよう。耳から心へ、すっと届く。
聖女様。聖騎士様。私を慕って集まる子供たちの声がさせるように、固く閉ざしたはずの口が緩む。
可愛い、可愛らしい。守りたい、守ってあげたい。
警戒すればするほどに、彼女の存在を強く意識した。植え付けられた愛情が庇護欲を肥大させ、何をされても許してしまえそうだ。
「リット? いいえ、違うわね。残り半分、ちゃんと口を閉じてないとダメよ? 仲間に見捨てられること、祈っていると良いわ」
足元から、崩れていく。
つま先に感じる空虚さに、リットリアの心は震え上がっていた。
ーーーー
思えば、一般的な貴族の館に見える。
敷かれた赤い絨毯と、天井を輝かせるシャンデリア。
そうあろうと、設えられたエントランスの真ん中で、少女、リットリアは首のない騎士に両脇を抱えられていた。
それはまるで、磔にされた乙女の様に。
手袋も、鎧も、スカートも、ブーツでさえも脱がされた。一糸纏わぬ少女の裸体。晒された白い肌は、この場に置いて何よりも美しい。唯一の汚点があるとすれば、脇腹に浮かんだ青白い跡。蹴られた横腹の傷が痛々しい。けれど、その傷跡ですら、リットリアの美貌を際立たせる。正しく聖女、その清らかさを形にしたような少女の裸体が そこにはあった。
慣れているつもりだった。人に肌を晒すこと。
騎士の真似事なんて始めた時からそう。
どんなに気をつけていたって事故はあるし、回りにだって気を使われているのは分かってた。だから、少しくらい見られたって、なんでもないって顔をするようにはしていたし、そんな自分にも次第に慣れていく。
「ふふっ、可愛い。恥ずかしそうにしちゃって」
「そんな、ことっ…」
叫ぼうとして、喉が詰まる。今、声を上げてしまったら、押し込めた羞恥心まで吐露してしまいそうだった。
ジリっと、胸の奥がひりついた。
見られることには慣れている。でもそれは、あくまで事故の範囲内、生活の中の行き違いに過ぎない。嬲るために鎧を剥がれ、晒すために服を破られる。
そんな経験、あるはずがなかった。そんな覚悟、出来ている訳がない。
裸にされてしまった。丸裸にされてしまった。
服も鎧も、守るものも、隠すものもなくなって、少女としての自分が晒される。
聖女でも、聖騎士でもない。憧れと、恋心の区別もつかない幼い私が、心の中で、やめてと、叫んでいる。
「ねぇ、リット?」
甘えるような雫の声音。呼び掛ける声は、思わず呟いてしまった自分の名前の一端だ。全部教えたら、やめてくれるのかな? 出来る訳がない。
今、彼女は、私の口を割らせることに夢中になっている。これはただの時間稼ぎだ。ゲームと言いながらも、私に勝ちの目は用意されていない。
せめて、皆が逃げるまで。
あるいは、彼女が飽きるまでだろうか。
気まぐれな少女の興味が、鬼ごっこに変わらないように引き止める。
肌に触れる指は柔らかくて、温かい。それは、街中で私に甘えてくれる子供たちと何も違いがなかった。
私よりも、二つか、三つか、幼さの影を色濃く残す少女。感触を確かめるように撫でた指先が、私の頬を包みこんだ。俯いた顔が優しく持ち上げられて、黒くて深い、その瞳に見つめられる。
「…っ」
顔は動かせなくても、視線だけは逃がした。
見たくない。見られたくない。また、あの深い黒の中に引きずり込まれたらと思うと怖い。思い出す。真っ暗闇の中にただ一人、底のない井戸の底へと落ちていく。
差し伸ばされる手の温かさは、触れただけで救われるようだった。振り払うその瞬間ですら、心が引き裂かれそうになる。
「みない、で…いや。私の心に…はいってこないで」
呟く声は弱々しい。今度、あの手に触れたなら、振り払える自信はない。
それに比べたら、肌を見られることの恥ずかしさなんて、ないのと同じ。
まだ一つと問われただけなのに、もう、折れそうになっている自分を自覚する。
ジリっと、胸の奥がひりついた。
助けてと、胸の奥で私が叫ぶ。
違う。違うの。違うんだ。
助けなきゃいけないのは私の方。今、皆を守れるのは私だけ。
残り十人? 分からない。今すぐに駆けつけて上げたい。逃げてって、声だけでも届けたい。けど、それが出来ないから、私が弱かったから、こんな慰みものにされている。
自業自得。それはいい。焦って、勇んだ私が悪い。
けれど、巻き込んでしまった皆だけは、何としても助けないと。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
だから、せめて、私のことはもう良いから、逃げて、逃げて。
彼女の言う通りだ。見捨てられることを祈りながら、胸の内で大きくなる期待を無理に抑え込む。
「あぁ、そう。貴女、好きな人がいるのね?」
「っ!」
ジリっと、胸の奥がひりついた。
隠していた自分に触れられた様な気がして、心臓の音が早くなる。
いや、違う。焦らないで。こんなの当てずっぽう。
私くらいの少女になら、概ね当てはまるような、そんな質問じゃないか。
「ひーふーみーよー…ここのつ。さて、貴女の想い人はどっちかしらね? 生きてる方? 死んだ方? もちろん、死んでる方が多いのだけど…きっとそうじゃないのでしょう?」
「へ、あ…」
ジリっと、胸の奥がひりついた。
さっきよりも数が減っている。その事実にどうしようもなく焦ってしまう。
「意地悪だなんて思わないでね? 私は手を出さない。そういう約束だったでしょう? 羨ましいわ。みんな、貴女の事が大好きなのね。必死になって、愛されているのね、リット? さて、残り八つ。貴女の想い人は無事かしら?」
落ち着け、落ち着け、落ち着いて。
彼女はきっと、私の正気を奪いたいだけ。もう一度、あの暗闇に引き込みたいんだ。怒りに任せて暴れても、彼女の思う壺。平気な振りをしろ、なんでもないって、そんなのいないって、言い続けるんだ。
「そんなの、貴女の勝手な思い込みです」
「貴女だなんて、いやだわ。フィアー・ドロップもだめよ? 雫って、可愛らしく呼んで欲しいのに」
「だれが…」
吐き捨てた言葉に、けれど彼女は可笑しそうに微笑むだけだった。
「勘違い。思い違い。いいえ、いいえ、それは違うわ リット。貴女の心は少女のままよ? 聖女、聖騎士。そんな仮面で弱い自分を守っているだけなのだわ。これで七つ…。ふふ、そう、そうなの? 貴女の好きな人、貴女より強いのね? だからまだ大丈夫、そうでしょう? そう思っているから平気な振りをしているのね。
ユーレリアが言っていたの、ここに来るのは二人。いいえ、一人だと言い直していたけれど」
ジリっと、胸の奥がひりついた。
リット、リット。親しい友のように名前を呼ばれる事が腹立たたしい。
手探りに、心の奥を弄られる事にイライラする。指先が触れるんだ。私の琴線に、心の奥に、一番触って欲しくない所に。私自身、一度は蓋をして、二度とは開けなかった その場所に。
「国のため? 民のため? 違うでしょうリット? 普通な貴女にそれは重すぎる。最初はそうだったかもしれないわ。皆に、そうと言われれば やる気にもなったでしょう。でも違う。仲間の為、友の為、国にいる家族の為。何より、好きな人の為。うん…残り六つ。貴女は貴女を捨てられない。国のために身命は賭せないわ。そんな覚悟、貴女には無い」
ジリっと、胸の奥がひりついた。
勝手なことを言わないで、叫びたい、でも出来ない。
「この戦いが終わったらって…」そんな事を考えていた。彼女の言う通りだ。
振り向いて欲しい、褒めて欲しい、叱って欲しい。せめて、せめて、生きて欲しい。国のため、民のため。最初はそうあった理由も、いつしか、もっとも個人的な理由が大きくなって。
「5つ。あら、もう片手で足りてしまうわね。ねぇ、リット? お名前、おしえてちょうだい? 貴女のでも良いけれど、そう、そうね。貴女の好きな人の名前を教えて? そうしたら、その人だけは助けてあげる。見逃すんじゃないわ。もう、手を出させない。一人でここまで来るって言うなら、それも止めはしないわ」
「あ、あぁぁ…」
悪魔だ。悪魔が微笑んでいる。
私に命を選べっていうの?
大切な一人と、それ以外。いや、そもそも選ぶ余地があるものか。
このままじゃ、私のせいで皆死ぬ。私が名前を答えても、答えなくてもだ。
遅いか、早いか、それだけで。それならせめて、一人でも助けたい。
それを私に選べという。
指を指して、あの人を助けてくださいと。
私情は捨てきれない、当然だ。あの人ならきっと、自分以外のやつを選べと言うだろう。他の仲間たちだって同様だ。みんな、そんなに弱くはない。私なんかよりずっと強い。誰を指さしても遺恨が残るなら、なら、せめて、せめて、あの人だけは…。
「言わない。言いません。殺すなら殺せっ。たとえ、そうっ。私の想い人が戦場にいたとしてっ。貴女なんかに、救いは求めない。そんなの彼は望まない。折れてしまった私を、絶対に、褒めてなんかくれないからっ」
リットリアは吠えた。
血の気が引く。背筋がゾッと寒くなる。
ここで彼女の機嫌をそこねれば、それで全部が台無しだ。
それでも、それでも。仲間は売れない。誰と彼女に告げたが最後、今度はあの人を理由にされるだけ。目の前で彼の命が尽きるなら、自分の名前くらいきっと叫んでしまう。それで全てが終わっても、彼を見捨てる選択はきっと取れない。
「あはっ♪ ええ、綺麗よ。綺麗だわ、リット。うっとりしてしまう。
あぁ…あははっ、はぁ…いいわ♥ 今の貴女こそが美しい。ここで生贄を選んでしまったら、もう飽きてしまう所だったけれど。ふふっ、あははっ♪ 聖女、聖騎士。そう、そうなのね。ちゃんとやってくれて、私はうれしいわ、リット」
リットリアの怒声を浴びて尚、雫は笑顔を咲かせていた。