第一話 拉致 ※エロなし
降りしきる霧雨のなか、特地調査隊(STF)の隊員・小田切は静かに歩を進めていた。
異世界に転移して三ヶ月。風の匂いにも、空の色にも、どこか異質なものを感じるのはもう日常の一部になっていたが、今日の空気はどこか違っていた。
乾いた草木を踏み分ける音。
背後を確認しても、仲間の姿はない。彼は単独での斥候任務を命じられていた。慎重に、音を立てず、可能な限り接触を避け、敵性かどうかを判断すること。
それがこの任務の本旨であり、彼がここにいる理由だった。
けれど、そのときだった。
――視界の先、霧の向こうに、ひとつの影が現れた。
長身の、女のような姿。
だが人間とは明らかに違う。肌は淡い灰色に染まり、滑らかで艶やか。背筋はまっすぐ伸び、目元にかかる白銀の髪が、わずかに風に揺れていた。
その身体の曲線は、まるで神話の彫像のように重く、美しく、しかしどこか禍々しいほどの厚みを持っていた。
――ドラゴニュート。
小田切の頭に警報が鳴る。だが、違和感が募る。
ドラゴニュートはあんな服を着ていたか?
資料ではたしか、狩猟民族に近い装束だったはずだ。だが彼女の纏っているのは、漆黒の艶革を重ねたような、どこか商人風の……洗練された意匠だった。
その瞬間、彼女が口を開く。
「……めずらしいなぁ〜、こんなとこで雄が1匹ってのは」
女の声は、驚くほど甘く艶やかだった。
けれどその口調は男そのもので、乱暴で、無遠慮で、妙な威圧感があった。
しかし、突然の日本語に、小田切の脳が硬直する。
(はッ?! えっ……?)
報告書と違いすぎる。
ドラゴニュートは言語能力を持たず、鳴き声しか使わない。コミュニケーションは不可能――そのはずだった。
「っ……!?しゃ、喋れんのか……?」
「はあ? 統一語くらい喋れるに決まってんだろ? 馬鹿にしてんのか、お前」
耳に届くその声音はどこまでも柔らかく、女の色香を含んでいる。
だがその言葉は粗く、男勝りな威圧感に満ちていた。
「それより――お前、いい匂いしてんじゃん。……やっぱ、雄の匂いってわかりやすいなぁ…」
状況をまだ飲み込めない小田をよそに、女は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
腰が艶かしく揺れ、胸元の影がしっとりと揺らめいた。
(まずいな……隊に報告を……いや、今は退避か?)
にじり寄るデカい女を見て小田切は、咄嗟に判断を下そうとする。
この状況で銃を抜くのは自殺行為だ。この霧だ。他のドラゴニュートが潜んでいる可能性もある。だからといって無線も、応答を待っている余裕はなさそうだ。
尚もこちらに近づく女を注視しながら小田は思考を切り替えた。
撤退。森の奥に身を隠す。それが最善だ――そのときだった。
「……商人様、手筈通りでよろしかったでしょうか?」
背後。――別の声。少女のように澄んだ、丁寧な口調。
一瞬、首筋に何かが当たった。小さな衝撃。
小田切の身体が揺れ、視界が急速に滲んでいく。
(っ……な、に……?今の声……)
ぐにゃりと傾いた視界の端に映ったのは、獣耳を揺らす小柄な少女。――なんだ…こいつは…。
フード付きの上衣と、荷鞍のようなベルト。その見た目からして、彼女は商隊に仕える助手、あるいは従者のようだった。
小田切は地面に崩れ落ちる寸前、その言葉だけを、かろうじて耳に留めた。
「よし。上出来だ、シズ。でも速すぎねえか?」
ドラゴニュートの女が低く笑い、崩れ落ちた彼の身体を軽々と担ぎ上げる。
「ったく、もうちょいで口説けたってのによ。せっかちな奴だぜ、ほんと」
「申し訳ありません。ですが、逃亡の可能性がありましたので……」
「まあいいさ。売り物としては上等だ。……気に入ったよ、こいつ」
女はそう呟きながら、男の体温が残る身体を抱えて、霧の向こうへと歩き出す。
その背に揺れる銀の髪と、蠢く尻尾が、異世界の『現実』を残酷なほどに象徴していた。
⸻
――ゆらり、と、世界が揺れた。
小田切は眉をひそめ、重くのしかかるまぶたをゆっくりと持ち上げた。
薄暗い。
木の板で囲まれた空間の中、鼻をつくのは乾いた藁と革製品の匂い。
それに混じって、微かに湿った獣の体臭のようなものも感じ取れる。
(……車両か……? いや……これは……)
ゆっくりと上体を起こそうとしたそのとき、手首に冷たい鉄の感触が走った。
「……っ」
反射的に腕を振ろうとするも、硬質な抵抗に阻まれる。
視線を落とすと、両手首には頑強な金属製の手錠が掛けられていた。
鈍く光る鉄製。
簡素で無骨、だが用途は明白――捕縛、拘束、それだけのための道具だ。
「……冗談……だろ……」
掠れた声が漏れる。
がちゃ、と試しに動かしてみても、緩みはない。手首の骨に沿ってしっかりと食い込んでおり、下手に暴れれば皮膚が裂ける感触すら伝わってくる。
(完全に……捕まった……)
理解は、遅れて訪れた。
感覚がじわじわと戻るたび、現実の冷たさが骨の奥に染みこんでいく。
そのときだった。
馬車の奥、荷物の隙間にひっそりと座っている小柄な影が、ふと顔を上げた。
犬耳の少女――あのとき背後から声をかけ、自身を気絶させたあの異種族の少女。
彼女は、木箱の上に腰掛けながら帳簿のようなものを広げ、ペンを走らせていた。
「……お目覚めですね。体調は、いかがですか?」
その声はやわらかく、どこまでも丁寧だった。
まるで看護師のように穏やかな口調。けれどその目は淡々としていて、まるで記録する対象を見ているような冷たさがあった。
小田は言葉を返さない。ただ、じっと睨み返す。
少女――シズは、困ったように眉を下げ、小さく笑みを浮かべた。
「……ご安心ください。商人様が商品として見ている間は、雑な扱いはいたしません。きちんと整えてから、お売りする予定ですので」
整える?
耳に引っかかったその言葉が、肌の内側をざわつかせる。
意味はわからない。だが、あの ドラゴニュートの言葉を思い出す。
『珍しいな雄が1匹で』
この世界における雄という存在が、何を意味するのか。
この馬車が向かっている場所が、どんな場所なのか――。
小田切は、訳の分からない状況に静かに息を吐いた。
鉄の枷は重く、馬車の揺れは心の奥底まで、沈んでいくように響いた。
⸻
それからも馬車は一定のリズムで軋みながら進んでいた。
木の車輪が石畳を転がる音が、かすかに身体の奥まで響いてくる。
小田切は静かに頭を傾け、木壁の隙間から外の様子を覗いた。
(……っ)
その瞬間、息を飲んだ。
視界の先に広がっていたのは――中世的な様式を持ちながら、異様にスケールの大きい都市だった。
石造りの広い大通り。街道に沿って整然と並ぶ多層の建物。
窓枠には装飾、屋根には煙突、街路灯のような魔力灯が等間隔に立ち並び、往来する人々の種族も実に多様だった。
恐らく虎の獣人、ドラゴニュート、緑色のデカい女……しかも人の半身に馬の半身を持つ異形種もいる。あれは…神話上のケンタウロスか?
まるで童話かゲームの中の都市に、現実が押し寄せてきたかのようだった。
(……なんだ、こりゃ……)
都市としての精度が高すぎる。
この規模、この密度、この秩序――完全に高度な文明だ。
(資料には……こんな都市、載ってなかった。見落とされた……?)
だがすぐに、小田は気づいた。
(いや……これはおそらく大陸のもっと奥……日本の探索範囲の外だ。まだドローン偵察も行えなかったはず……)
探査ドローンすら届かない、隔絶された地域――そこに、これほどの都市が存在していたとは…
この都市の存在を、日本が認知したのなら、一気に外交が躍進するだろう。
不意に、声がした。
「……やっぱり、驚かれるんですね。異国の方って」
振り返ると、シズが帳簿を閉じ、こちらを見ていた。
どこか楽しげな目をしているが、それは他意のない、純粋な観察者の目だった。
「私、異国の方にお会いしたのは初めてではないのですが……こうして都市を見せると、皆さん同じ顔をなさるんです。目を丸くして、喉を詰まらせるみたいにして」
彼女は首を傾げる。
「国によって、そんなに違うものなんですね。……都市って、そんなに珍しいんでしょうか?」
その無垢な問いに、小田切は何も言えなかった。
いや――言葉を出す気力が、失われていた。
原始文明と呼ぶにはあまりに洗練された異世界の景色。
だが自分はそこに憧れや好奇心を抱く立場ではない。
ましてや今は連れて来られた者であり、売られる予定の者でしかない。
窓の外で笑う異種族の子どもたちの声が、妙に遠く感じられた。
小田切は、手錠を見下ろしたまま、静かに目を閉じる。
⸻
馬車が止まったのは、大きな鉄扉の前だった。
白石造りの壁に囲まれた広大な敷地。見上げるほど高い塀と、静まり返った空気。
小田切は、無言のまま ドラゴニュートであろう種族の従者たちに引きずられるようにして屋敷の中へ運び込まれる。
扉をくぐれば、まるで城のようなホールが広がっていた。
磨かれた石床、赤い絨毯、灯の柔らかな光。どれもが豪奢で冷たい。
そのときだった。上階から、艶やかな女の声が降ってきた。
「へぇ……やっぱり悪くねぇな」
その声に、小田の全身が反応する。聞き覚えのある、あの女。
階段の踊り場から姿を現したのは、漆黒の艶革を纏い、鋭い目で階下を見下ろす――あのドラゴニュートの女だった。
彼女は、まるで舞台を支配する女王のような動きで、ゆっくりと階段を下りてくる。
「よう、覚えてっか?霧の中で会ったろ、お前と。……あれから、考えてたんだよ」
彼女はゆっくりと小田切に近づきながら、鼻をくんと鳴らす。
「……この匂い。あのときと変わらねぇ。惹きつけられる匂い……だけどな」
顔をしかめ、首をかしげる。
「……何かが、おかしい。匂いが、どこか薄いというか、膜がかかってるような……。いや、確かに「ある」んだよ。ちゃんと、雄の匂いが。……ただ、何かに包まれてんだ。」
彼女の目がじっとスーツを見つめた。
「それ……その服のせいか? 見たことねぇ材質だな……」
小田切は答えない。ただ視線を逸らす。
ドラゴニュートの女――カザラは、あざけるように鼻で笑った。
「ふーん、喋らねぇか。ま、いいけどよ。あたしは喋る商品の方が好きなんだがな?」
彼女は、小田切の頬を撫でるように指を這わせながら、口元だけで笑う。
「にしても、珍しいな。あんたの種族はどこに住んでるんだ?聞いたことねぇ姿だし、匂いも独特だしな」
そう言って、再び匂いを嗅ぐ仕草。
「……やっぱ、この服が邪魔してんだな。これはもう、脱がせてから調べるしかないな。」
カザラは背後に控えていたシズに声をかけた。
「風呂の準備。服も全部脱がせて、肌を確認させろ。……「膜」の下の、本当の匂い――嗅いでやらねぇとな?」
「かしこまりました、カザラ様」
従者たちが動き出す。鉄の枷が短く鳴った。
カザラは最後に小田切へと一歩、身を寄せて、囁くように言った。
「あたしの鼻は、外れたことがねぇんだ――期待してるぜ。」
小田切は言葉を返さなかった。
ただ、わずかに唇を噛み締めながら、その場に立ち尽くしていた。