第七師団。
それは単なる師団名ではなかった。
かつて帝国陸軍時代、『北鎮部隊』と呼ばれた伝統を受け継ぎ、北海道防衛の最後の砦として、恐れられ、畏敬された存在だった。
北からの侵攻を阻止するため、地上火力に特化し、徹底的な寒冷地運用を追求した。
その系譜は、現在も脈々と続いている。
事実、第七師団は日本陸上自衛隊の中で――
最大の砲兵戦力、最大の装甲戦力を保有していた。
普通科連隊、戦車連隊、特科連隊(砲兵)、偵察隊、施設隊――
重厚な構成要素は、単なる防衛ではなく、『敵の進撃を粉砕し、撃退する』ために組まれていた。
北方防衛、対侵略抑止。
それが第七師団に課せられた、使命。
そして今――
異世界への転移により、
旧来の「国家間戦争」という概念は崩壊した。
だが、それでも、第七師団の存在意義は変わらなかった。
この北海道は、依然として最前線だった。
ただ、『敵』が変わっただけだ。
ロシア軍でも、中国軍でもない。
今や異世界から流れ込んだ異種生物たち――
ハーピー、獣人、セイレーンなどの異種族たち…
彼女たちは、雪原を越え、森林を抜け、じわじわと人間の支配領域へと侵食を始めていた。
そしてその侵食を、真正面から叩き潰す――
そのためだけに、この第七師団は存在する。
『日本最大の火力部隊』
それはもはや比喩ではない。
文字通りの意味であった。
百数十両の主力戦車。
榴弾砲群、長射程ミサイル。
迫撃砲、対空ミサイル、機関砲、地雷、塹壕、偽装陣地。
ありとあらゆる戦術兵器が、この凍てつく大地に配置されている。
師団単位で、侵攻軍を「殺す」ための組織。
ここに存在する全ては、戦うために鍛え上げられたものだった。
そして、彼らが背負う重みは一つ。
――絶対に、『北海道』を明け渡さない。
それが、第七師団の存在理由だった。
《北海道・東千歳駐屯地》
ストーブの熱も届かない、コンクリート打ちっぱなしの食堂裏。
スチール製ベンチに、数名の隊員たちが腰を下ろしていた。
OD色の防寒服は雪解け水を吸って重く、足元には泥混じりの水たまりが広がっている。
壁にもたれ、缶コーヒーを指で転がす者。
両手をこすり合わせて息を吹きかける者。
タバコを吹かす者。
言葉少なに、だが確かに、ぼそぼそと会話が交わされていた。
「……結局、またパトロール増えるって話らしいですよ」
一人が、乾いた声で呟く。
「ま、新大陸からの物資で、車両が動かせるだけマシだろ。燃料が尽きてたら、今ごろスノーシュー担いで雪原歩いてたぜ」
別の隊員が応じる。
「ははっ、それ最悪ですね」
乾いた笑いが、白い息とともに夜空へ消えた。
だが、その声に心からの明るさはなかった。
今ここにいる全員が、知っていた。
――笑っていなければ、やってられない。
OD服の裾には黒ずんだ雪解けのシミが広がり、かじかんだ指先は、グローブ越しにでも凍える。
仮設ストーブは休憩所の入り口付近に据えられていたが、その頼りない熱は、ほとんどここまで届かない。
コンクリートは体温を容赦なく奪い、背中から腿へとじわじわ冷気が染み込んでくる。
夜勤明けの体に、それは酷く堪えた。
――そんな中で、ふいに。
若い隊員が、不意に声を上げた。
「……でも、なんで俺たち、第七師団だけ、新大陸に派遣されないんでしょうか?」
言葉は、夜の冷気よりも鋭く、休憩所の空気を刺した。
誰もすぐには答えなかった。
缶を傾けていた手が止まる。
タバコの先がわずかに揺れる。
若い隊員は、気まずそうに続けた。
「……北の第二師団は、一部部隊が派遣されたって聞いたんですけど」
半ば言い訳のような口調だった。
事実、北海道旭川に本拠を置く第二師団は、偵察部隊や工兵部隊を中心に、限定的ながら新大陸への抽出派遣が始まっていた。
それなのに、第七師団だけは――師団丸ごと、鉄の塊のように、ここ東千歳に留め置かれている。
それが、若者たちには納得できなかった。
――なぜ、俺たちだけが置き去りなんだ。
そんな空気が、白い吐息の隙間に滲んでいた。
数秒の沈黙。
誰もが心当たりを持ちつつ、わざわざ口にはしてこなかった問い。
その沈黙を破ったのは、古参の陸曹だった。
「……決まってんだろ」
その言葉に、空気がわずかに変わった。
火の点いた煙草が、誰の指先でも一瞬止まる。
古参の陸曹が、ゆっくりと顔を上げた。
「ここが、どういう土地か、忘れたか?」
冷えた声だった。くしゃくしゃになった缶コーヒーの空き缶を指で弾く。
若い隊員が、言葉を詰まらせる。
ベテラン陸曹は、吐き捨てるように続けた。
「北海道だぞ?昔から北からの侵攻を防ぐために、ここは『盾』だった。日露戦争の時も、冷戦の時も。……今もだ」
「でも……異世界じゃ、もう国境線もへったくれもないっしょ?」
別の若い隊員が、半ば冗談めかして言った。
だが、陸曹は笑わなかった。
「変わらねえよ」
静かに、だが確実に言い放った。
「相手が人間か、異世界の獣か。それだけだ。ここが抜かれりゃ、次は本州だ。青森から、東北一帯が『戦場』になる」
その言葉に、若手たちは黙り込んだ。
頭では理解している。
だが、現実の重みは、想像を超えていた。
さらに、陸曹が続ける。
「……それにな」
焚き火の火ばさみを弄びながら、低く言う。
「北海道は今や、“異世界生物の定住地”だ。放っときゃ、森にも川にも、あの異種族どもが巣を作りやがる。人間の街にも、じわじわ慣れてきてんだ」
陸曹は缶コーヒーを傾け、ぬるくなった中身を一息に飲み干した。
「ハーピーも、獣人も、ありゃあ群れる性質を持ってる。単独なら威嚇で追い払えるが……集団化すりゃ、話は別だ」
若い隊員は、きゅっと拳を握り込んだ。
「……でも、新大陸の方が重要じゃないんですか?資源も……開拓も……国の未来も……」
その声に、別の中堅隊員がぼそりと応じた。
「わかってねぇな」
吐き捨てるような口調。
「未来も大事だが、『今』を捨てたら意味がねぇ。ここを抜かれりゃ、日本は詰みだ」
「北方防衛の要――それが変わったわけじゃねぇ」
寒さが、靴底から這い上がってくる。
だがそれ以上に、言葉の重みが、胸にじわりと沈み込んだ。
若い隊員は、俯いたまま、呟いた。
「……それじゃ……俺たちは、ずっとここで……」
その先の言葉は出なかった。
永遠に、ただ待つだけ。
闇の中、吹雪の中、侵略者が来るその瞬間を――。
「そうだ」
古参陸曹が断言した。
「ここを捨てたら、日本は死ぬ。それだけだ」
その声には、誇りでも希望でもない、もっと硬質で、無骨なものが宿っていた。
それは『覚悟』だった。
若い隊員たちは、誰も続かなかった。
ただ、それぞれに缶を握り締めた。
冷えた金属が掌を刺す。
それが、現実だった。
外では風が唸り、どこかで鉄条網がギィ、と鳴った。
「……焦んなよ」
古参陸曹の声は、重く、乾いていた。
凍えた空気のなか、彼はゆっくりと腰を上げる。
スチール製のベンチが、きぃ、と耳障りな金属音を引き裂いた。
防寒ジャケットの襟を無造作に引き上げると、肩をぐるりと回し、凝り固まった関節を鳴らす。指先からは、ほんの微かに白い息が立ち上っていた。
その仕草一つひとつが、苛酷な環境と長年の勤務で擦り減った肉体を物語っている。
だが、彼の背筋は、まだ曲がっていなかった。
無言で座る若い隊員たちを見下ろす。
その視線に、優しさも、慰めもなかった。
ただ、戦場という現実を知る者の、無感情な冷たさだけがあった。
「――嫌でも、すぐに出番は来るだろうよ」
吐き捨てるような口調だった。
慰める気など、はじめからない。
防寒服の裾がかすかに鳴る。
足元のコンクリートには、雪解けのしずくが黒い染みを作っていた。
若者たちは俯いたまま、誰一人として言葉を返さない。
かじかんだ手を膝の上で握り締める者、トレイの残り物を無心に弄る者。
それぞれが、息を潜めるようにして、じっと陸曹の言葉を待っていた。
「そのとき、命があるかどうかは……」
一拍、間を置く。
食堂裏に張りつめた沈黙が、耳を軋ませるように痛い。
「――運と、腕次第だ」
短く、酷薄な宣告だった。
それが、この場にいる全員の未来だった。
助かる者も、死ぬ者も、誰もまだわからない。
ただ一つ、確かなことは――
この先、必ず『何か』が起きるということだ。
冷え切った休憩所。
吹き込む夜風は、僅かに硝煙の匂いを運んできたような気がした。
気のせいかもしれない。
だが、隊員たちの本能はそれを否定できなかった。
戦いの足音は、もうすぐそこまで来ていた。
まだ引き金にも指をかけていない。
だが――すでに彼らは、戦場に半身を踏み入れている。
第七師団。
その名はかつて、北からの侵攻を防ぐ最後の壁と恐れられた。
そして今、再び――
人ならざる侵略者を迎え撃つ、最前線へと変貌しつつあった。
鉄条網の向こう。
雪原の闇のなかで、見えないものたちが、こちらを見ている。
静かに、だが確実に。
次の戦いの気配が――
吹きすさぶ風のなかに、微かに、じっとりと匂っていた。
⸻
重苦しい沈黙が、いつしか場を支配していた。
誰もが無言だった。
ただそれぞれ、行き場のない不安と、どうにもならない現実に思考を絡め取られていた。
そんな空気を、古参陸曹が乾いた声で破った。
「……しけた話しちまったな」
ぼそりと、わざとらしいほど気だるい声。
彼はベンチの背にもたれ、ぐっと頭を仰け反らせた。
首筋を伸ばし、天井を睨むようにしながら、さらに続ける。
「おい、誰かテレビつけろ。……気分でも変えようぜ」
無理に明るさを装った声音だった。
だが、その意図は誰の耳にも明らかだった。
この空気を、沈黙を――砕かねばならない。
士気とは、言葉にならないこうした“間”から崩れるものだ。
若い隊員の一人が、わずかに苦笑し、肩をすくめた。
「……了解であります、陸曹殿」
OD色の防寒ジャケットを羽織ったまま、彼は立ち上がる。
テント脇、補給資材と工具箱の間に据え付けられた、
傷だらけの小型液晶テレビに歩み寄った。
スイッチを押す。
――機械音。
――ぼんやりと滲む液晶画面の光。
だが、すぐに映像が流れるわけではなかった。
ざっ……
しばらく、砂嵐に似たホワイトノイズが続く。
「……チッ、やっぱりな」
誰かが舌打ちする。
異世界転移によって、日本の人工衛星群はほぼすべて喪失している。
地球圏にあった通信インフラは、――跡形もなく消えた。
衛星放送は途絶えた。
国営ニュースも、24時間速報も、かつて当たり前だった情報網は崩壊していた。
今、受信できるのは、限られた地元局――
それも、地上波の簡易中継所だけだ。
「……地元局ぐらいは、拾えるだろ」
古参陸曹が、ぶっきらぼうに言う。
若手はリモコンを操作する。
チャンネルを切り替え、周波数を合わせる。
一拍遅れて、ぼそりと音声が流れ始めた。
画面には、地方ニュース番組のスタジオセット。
テロップも、照明も、やや貧弱だった。
だが、それでも『動いているテレビ』というだけで、隊員たちの目がわずかに向いた。
ぼそぼそと流れる地方ニュース。
テレビが点いた途端、休憩所に漂っていた重苦しい空気が、わずかに緩んだ。
それは、映し出された映像の内容とは無関係だった。
ただ、無音と沈黙を破る「何か」がそこに現れたというだけで――
隊員たちの張りつめていた神経が、ふっと弛緩した。
「……やっぱ地元局は映るんすね」
若い隊員が、肩を回しながら苦笑いする。
「衛星がなくなったっつっても、地上波なら生きてるもんな……ありがてえよ、ほんと」
別の隊員がカップ麺をかき混ぜながらぼやいた。
スチール製のベンチに腰を掛けたまま、皆が、それぞれ勝手に口を開き始める。堰を切ったように。
「……ラジオも最近やっとマシになってきたよな。昔の歌とか、やたら流してるけど」
「情報番組も半分くらい、昭和みたいになってねえか?」
「いいじゃん、賑やかで」
乾いた笑い声が漏れる。
それは心からのものではなかった。
だが、誰も指摘はしない。
――わかっているのだ。
本当は、楽しいわけではない。
ニュースは暗く、世界は沈み、
明日はもっと酷くなっているかもしれない。
それでも。
今、ここで口を開かなければ、沈黙のなかで、じわじわと心が冷えてしまう。誰もが本能で、それを知っていた。
冷えきった空気の中、隊員たちはテレビから流れる地元ニュースもろくに聞かず、
それぞれ缶コーヒーを啜りながら、ぼそぼそと無駄話を続けていた。
そして、ふと――
「……そういや、ハーピーって美人なんだろ?」
若い隊員の一人が、唐突に口を開いた。
一瞬、場が微かにざわつく。
「……マジで? 実物、見たのか?」
誰かが前のめりに問いかける。
声には興奮が滲んでいた。
目を輝かせながら、もう一人が勢いよく乗っかる。
「俺はちゃんと姿見れてねえよ。あいつらすぐ逃げるからな。陸曹はどうなんすか?」
ベンチに腰を落とし、少し猫背気味に座る古参の陸曹は、火のついたタバコをくわえたまま、苦笑を漏らした。
「……ああ。見たことあるぞ」
吸い込んだ紫煙を、わざとらしく長く吐き出しながら続ける。
「双眼鏡越しだったけどな」
一同がぐっと耳を傾ける。
陸曹は、火種が赤く染まるタバコの先を指先で弾きながら、どこか芝居がかった溜息をついた。
「顔だけじゃねえ。背も高えし、胸もな――」
右手を大きく弧を描く。
それも、両手をいっぱいに広げるような、誇張すら交えた仕草だった。
「……すげぇぞ。あいつら。普通の女じゃ、ありえねえレベルだ」
「マジですかッ!?」
たまらず若い隊員たちが前のめりになる。
硬いベンチが、ぎしぎしと微かに軋んだ。
「背ぇ高いって、どのくらいです?」
別の隊員がたまらず聞き返す。
陸曹は指を折りながら、冷静に答えた。
「目測で……百八十近くはあったな」
「百八十!?でけえ……」
思わず顔を見合わせる若い隊員たち。
ぽつりと漏れる呟き。
だが、その声には恐怖よりも、どこか浮ついた憧れにも似た響きが混じっていた。
「そんで、胸は……?」
「……ありゃあ、Gカップだな」
タバコをくわえ直しながら、陸曹は淡々とした口調で告げた。
「G……カップ……」
誰かが空気を震わせるように呟く。
「……マジ、すか」
声にならない驚嘆が、テント内に漂った。
隊員たちは完全に食いついていた。
話題は完全にハーピーの容姿へと流れ込み、若い連中はそれぞれ、思い思いに想像を膨らませていた。
そんな中、お調子者で知られる一人の隊員が、仰々しく両手を広げながら言った。
「いいなぁ〜〜……俺もパトロール任務に行きてぇ〜〜!!そんな美人拝まなきゃ損だろ!」
わざとらしく体をくねらせ、ベンチの上で大袈裟に嘆く。
その様子に、周囲から呆れたような笑いが漏れた。
「……そんな動機でパトロールすんのかよ」
別の隊員が、煙たそうに肩をすくめる。
言葉の端に、苦笑いすら滲んでいる。
お調子者の隊員は、悪びれもせず胸を張った。
「バカ言え。こんな世の中だからこそ、美人を拝むんだよ!」
くだらない冗談に、何人かが吹き出す。
ストーブもない休憩所。白い息が交じり、肩を揺らして笑う男たちの群れ。
そんな隊員たちを見て、陸曹は、にやりと口元を吊り上げた。
「ま、ナンパもほどほどにしとけよ?」
わざとらしく渋い顔を作り、年若い隊員たちに視線を投げる。
その刹那、間髪を入れずに若い隊員が茶々を入れた。
「――陸曹も、最近風俗行けてないから溜まってんじゃないすか?」
「ばっ……この馬鹿野郎ッ!」
陸曹はタバコを咥えたまま、肩越しに拳を振り上げ、笑いながらその隊員を小突く。
拳に力はない。ただ軽く、じゃれるようなものだった。
テント内は一気に爆発するような笑い声に包まれる。
乾いた、男たちだけの笑い。
それは虚勢ではない。だが、どこか無理にでも日常を取り戻そうとする、必死な「人間らしさ」だった。
「……まったくよ」
苦笑交じりに吐き捨てる陸曹。
その顔には、どこか年長者らしい柔らかさと、裏腹の疲労の影が滲んでいた。
若手たちも、さらに笑い声を重ねる。
肩を叩き合いながら、くだらない冗談を繰り返す。
そんな光景は、最前線の兵士にとって――
疲弊した精神をかろうじて繋ぎ止めるための、無意識の儀式だった。
笑う。
息を吐く。
くだらない話をする。
そうでもしなければ、この異様な日常に押し潰されてしまう。
陸曹も、それをわかっていた。わかっているからこそ、冗談を飛ばし、笑いを誘い、若い者たちをほぐす。
だが。
その裏に、誰も口に出さない重い現実が確かに横たわっていることを――
誰よりも、陸曹自身が知っていた。
だから、あえて。
だから、わざと。
軽口を叩き、笑わせ、空気を作る。
そんな中。
『――続いてのニュースです』
それは、隊員たちの笑い声の隙間に、紛れ込むようにして届いた。
テレビのスピーカーから漏れたアナウンサーの淡々とした声。
冗談と笑いのリズムのなかで、かすかに、しかし確かに、陸曹の耳だけに届いた。
(……?)
陸曹はタバコをくわえたまま、ちらりと画面に目を向ける。
笑い声はまだ続いている。
若い隊員たちは、冗談を続け、顔を紅潮させている。
缶コーヒーを傾け、誰かが背中を叩き、肩を揺すって笑い合っている。
だが、陸曹だけは――
その笑いの中で、確かに違和感を感じ取っていた。
テレビの画面には、見慣れない政党名を告げるテロップ。
『――新たに結成された「大和連盟党」が、都内で初の大規模街頭演説を実施。主催者発表では、集まった聴衆は三万人を超えた模様です。』
カメラが切り替わる。
そこに映ったのは、東京だった。
かつて世界に誇った煌めきは失われたままだったが、それでもなお、この国最大の都市は、灰色に脈動を続けていた。
無数のプラカードが、人工灯に照らされ、白く浮かび上がっていた。
「異種族追放」
「日本人のための国を」
シュプレヒコールが、群衆の中から湧き上がる。
画面は聴衆のを映した。
若者や年配の者たち、母親に手を引かれた子供たちまでもが埋めていた。
陸曹の目が、細くなる。
手元では、若い隊員たちが、まだふざけた声をあげている。
「陸曹~、次のパトロールんとき、ハーピーにナンパ成功したら教えてくださいよ!」
「まずは俺が連れて帰りますから!」
わはは、と笑う声。
その背後で。
『――大和連盟党は、異種族に対する強硬措置を主張。ハーピーをはじめとする侵入種族の強制排除を訴えています。また、転移事件による被災者支援、新大陸資源開発への国民徴用、自衛隊・土木・農業部門の拡充を主要政策に掲げ、現政権に対しては「対応が軟弱である」と厳しく批判しました。』
場面が切り替わる。
演台の前、スポットライトを浴びた男が、両手を広げて群衆を煽る。
『――かつての経済を取り戻しましょう!そして、日本に侵入する異種族たちには、断固たる手段をもって対処するべきです!』
壇上の代表が拳を突き上げると、広場に集まった群衆が、一斉に歓声と拍手を上げた。国旗を模した旗が、冬の空気の中で無数に翻る。
その光景を、テレビカメラは無機質に映し続けていた。
だが、陸曹の目は、その熱狂そのものよりも、別のものを捉えていた。
――かつての日本ならば、こんな街頭演説など、誰も足を止めず、無視して通り過ぎたはずだ。
選挙カーの声に見向きもしない、スマホの画面しか見ない、
静かで、無関心な国だった。
それが今――
淡々とした無関心の国民は消え、街には怒声と排斥の旗が目立ち始めていた。誰もが静かに苛立ち、誰もが誰かを憎む理由を探し始めていた。
不安と憎悪――それだけが、確実に社会を動かしつつあった。
異世界への転移と引き換えに、この国の『空気』は、確実に変わってしまった。
『なお、大和連盟党は、今後も全国各地での街頭演説と支持拡大運動を予定しており……』
ニュースキャスターの平板な声が続く。
しかし、休憩所の中では、その声を聞いている者は――陸曹ひとりだけだった。
若い隊員たちは、まだ冗談を飛ばし合い、笑っている。
肩を叩き合い、拳を小突き合い、束の間の若さを謳歌している。
だが。
陸曹の視線は、テレビ画面に釘付けになったままだった。
『何か』が、変わりつつある。
今までは、国民も、隊員たちも、どこか遠い目で「異世界」を眺めていた。ハーピーも、獣人も、ドラゴニュートも、すべて「別世界の話」だった。
だが、今は違う。
「敵意」を現実のものとし、
「排除」を正義にすり替え、
「強硬」を当然と叫んでいる。
その熱が、いずれ――
この隊舎にも、
この若い兵士たちにも、
容赦なく押し寄せる日が来るだろう。
陸曹は、ぼそりとタバコを噛み潰すようにくわえ直した。
「……ったく、時代ってのは、どうしようもねぇな」
誰にも聞こえない声で、呟く。
怒りと恐怖と混乱。
それらが渦巻くとき、最初に選ばれるのは――敵を作ることだ。
異種族。
侵略者。
排除対象。
その流れが、あまりにも自然な顔をして、街に浸透し始めている。
若い隊員たちは、まだ笑っていた。
笑いながら、明日も、明後日も、いつもと同じ訓練とパトロールが続くと思っている。
だが――
本当に危ないのは、ハーピーでも、獣人でも、異種族でもない。
俺たち
「……一番怖ぇのは――人間かもしれねえな」
自分自身も、兵士であり、その『恐ろしい側』に立つかもしれない存在であることを知りながら。
陸曹は、静かに目を閉じた。
冷たい空気が、頬を撫でた。
休憩所の薄闇には、まだ乾いた笑い声だけが、絶え間なく漂っていた。