手が、扉に触れた。
冷たい金属の取っ手。夜気に冷えたその感触が、掌にぴたりと吸い付く。
扉の向こうに広がっている光景は、すでに小田の脳裏に焼き付いていた。
嗅覚が告げる。聴覚が揺さぶる。――心が、逃げ場を失っていた。
それでも。
(今、止まったら……)
足の裏に力がこもる。肩がわずかに震える。
怒りでも恐怖でもない。――それは、「踏み込むこと」の覚悟の震えだった。
視線を落とす。手が、取っ手をわずかに押し下げる。
空気が、変わった。
(……やるしかない)
身体の奥から湧き上がる衝動を、制御することはもうできなかった。
男として、人間として――それ以前に、ナズの、人の呻きを、これ以上見過ごす理由など、どこにもなかった。
息を吸う。深く、ゆっくりと。
その呼吸の奥で、兵士としての自分が、自分自身に命令を発した。
「…よし」
扉に手をかけた、その刹那だった。
――「おいおい……」
耳元で、女の声が囁いた。
冷たい爪先が首筋に触れたかのような、湿った空気をまとった低い声音。
次いで、右肩に「何か」が触れた。
ぐっ、と。
「友のお楽しみを……邪魔しちゃいけないなぁ」
その言葉がまだ耳に届ききらぬうちに――身体が、宙に浮いていた。
「ッ……!」
肩ごと軸を奪われた小田の体は、抗う暇もなく浮かび、まるで何かに“投げられた”のだと気づいた時には、すでに遅かった。
空気を裂く感触。視界が反転。
そして――
「…ッがあ!」
背中から、石畳に叩きつけられた。
鋭い衝撃。肺の中の空気が一瞬で押し出される。
だが、小田は即座に膝を立てた。
背筋に鈍い痺れを感じながらも、両手をつき、身体を起こす。
――訓練で鍛え上げた反応だった。
咳が止まらない。
だが、それ以上に「気配」が近い。
すぐ前に、確かに――“敵”がいる。
小田は顔を上げる。
そして、目の前に立つ「それ」を見て――一瞬、息を呑んだ。
ドラゴニュートの女。
やはりでかい。
身長は二メートル近くある。
だが、それ以上に圧倒されるのは――その肉体の『密度』だった。
筋肉質。
それでいて、異様なほど豊満。
腹は引き締まり、腕や脚にはしなやかな筋が走る。
だが胸は、人間の女性では到底ありえないほどに張り出していた。
まるで熟れきった果実のような膨らみ。
むせ返るような肉の存在感。
形を保ちながらも、揺れそうな柔らかさが伝わってくる。
その下、腰回りの肉付きも異常だった。
むっちりとした腰、そして――尻。
全身が『戦う女』であり、同時に『魅惑な肉体』だった。
鱗が所々に浮かび、首元には薄く光る皮膜のような装飾。
それでいて唇は艶やかに濡れ、牙の奥からは甘ったるい吐息すら感じられる。
にたり、と。
女は笑った。
「へぇ……下等種族の割に丈夫じゃないか。」
その目に宿るのは、獲物を値踏みする視線。
だが、いやらしさと残虐さが、等量で混じっていた。
「…ッち」
小田は舌打ちした。
まずい、と一瞬で悟る。
肩を掴まれ、視線を逸らした刹那、足元が浮き、背中から石床に叩きつけられた。衝撃に肺が一度潰れ、冷たい空気が喉を焼いた。
起き上がりながら、小田は唇を噛みしめる。
突入してナズを助け出す。――その一点に賭けていた行動が、結果として“扉を開ける前”に阻止されたという事実が、喉元に重く突き刺さる。
(……まさか速攻でバレるとはな)
本末転倒。
ナズを救い出そうとした自分は、それを止めることもなく、廊下に投げ出されている。
「ん?よく見ると……犬や鼠とは違うねぇ」
ぬるりと絡みつくような女の声が、頭上から降りかかる。
「しかも……クンクン……んふふ。君、雄じゃぁないかぁ……♡」
そう呟いた女は、見下ろすようにしゃがみ込んでくる。
大きな影。
その女――ドラゴニュートの雌は、異様なまでにグラマラスだった。
分厚い腿、艶やかに引き締まった腹部、そして誇示するように張り出した豊満な胸と、肉感のある尻が身体全体の重心をいやらしく揺らしている。
――女の鼻先が、ピクピクと揺れる。
「ふーん……なるほど。匂いが……すごいね……」
舌先がちらりと見える。
媚びた色ではなく、獲物を味わうような目だ。
「私はね、ただ……“しつけ”に来ただけなんだけど」
「しつけ……?」
小田の問いに、女は唇をゆがめ、陶然としたような目で囁いた。
「そう。なんでも商品共がね――勝手に欲情して、商品同士で交わったんだってさ」
「……」
「だから処罰。まあ……先にベニーラが“優しく”罰してる最中みたいだけど」
言いながら、女はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「カザラ様が持ってる雄って、上物でしょ?体格も、匂いもすごいからね」
女は笑いながら、腰を揺らすようにして立ち上がる。
その身体の曲線は明らかに誇示的であり、豊かすぎる胸と尻が、冷たい廊下の灯りを柔らかく歪める。
「……そんな雄を味わえるなんてさ――めったにないよ。ほんっと運がいい……私達は、ね」
女の視線が細くなる。
湿った睫毛の奥から覗く瞳には、狩人の光が宿っていた。
「ん?どうしたのかな?」
小田はじっと女を見据えたまま、わずかに眉をひそめ、唇の端を引きつらせた。
そして、低く、静かな声で呟くように言った。
「……お前には…あれが『優しそう』に見えたのか?」
その言葉には怒気も嘲りもなかった。ただ、信じがたいものを目にした者の――乾いた驚きと、諦念が滲んでいた。
――くつ、くつ。
返ってきたのは、喉の奥でくぐもるように漏れた女の笑い声だった。
それは、あまりにも冷たく、そして楽しげだった。
「ふふふっ……あの程度で厳しいって思ってるのかな?あれでもすごく優しいじゃないか。」
声が一瞬だけ、鋭さを帯びる。
女の爪先が廊下の石をコツン、と叩き、光を反射する鱗がわずかに硬質な音を立てた。
「殺されてないだけ、ありがたいと思わなきゃね…あの子なんて、『奴隷』で、『劣等種』なのに……まだ、生きて、奉仕する事もできるんだから。」
にやりと、唇が歪む。
そして――視線が、小田の全身をゆっくりと舐めるように這い回る。
「それにしても――君は、誰かなぁ?顔、見覚えがないんだけど?」
女の声が、ねっとりと、甘く落ちる。
「就寝時間も……とっくに過ぎてるし?」
一歩、近づいてくる。
石の上を滑るような足取り。
乳房が重たげに揺れ、尻の肉が艶かしく波打つ。
「ねぇ、君も――『違反者』かなぁ?なら……『しつけ』は、平等に行き届かせないとねぇ♡」
その言葉は、甘く微笑みながら――確実に、小田の自由を奪う“判決”だった。
「…」
小田は黙っていた。
口を開くでもなく、拳を振るうでもなく――ただ、睨みつけていた。
凍てつくような無言の視線。それは怒りを押し殺しながら、全身から滲み出る殺意を抑え込んでいる者のそれだった。
だが、そんな視線を向けられてもなお、女は眉ひとつ動かさず、むしろ楽しげに小田の顔を覗き込んできた。
「てかさ――君も、混ざりたかったんじゃないの?♡」
声の主は、くす、と喉の奥で笑った。
高く張った胸を揺らしながら、女は艶やかに首をかしげ、小田の顔を間近で覗き込む。艶やかというより、粘つくような雰囲気だった。まるで汗ばんだ肌に指先を這わせるような、鈍い熱と悪意がそこにあった。
小田は応えなかった。
だがその沈黙を、女は気にせずに言葉を続ける。唇の端を持ち上げ、じわじわと間合いを詰めながら――まるで逃げ場を潰すように――続けた。
「あんなに覗いてさ…いっそ入っちゃえば?今なら……犬と私達…どっちでも交尾できるし♡」
その言葉が皮膚に貼りつくようだった。ねっとりとした声と笑みと色香が混ざり合い、まるで毒のように小田の思考を曇らせる。
「……」
小田の目は、冷えきっていた。
しかしその無言すらも、女には“味”のひとつに思えるらしい。好物を前にした肉食獣のように、じっと彼の顔を見つめていた。
「そういえば……ナーシャも、他の商品と交尾してたんでしょ?カザラ様が言ってたよ?ふふ……なら、あの子も『しつけ』してあげなきゃね♡」
女の目は細められ、唇が濡れた舌に撫でられる。
「いつもは優しくしてあげてたんだけど……今回はちょっと、特別メニューかなぁ?乳首とか……ちょん、と取っちゃおうかな。あの子、母乳も出るしねぇ?乳搾りにはぴったりなんだよ♡」
それは、悪意と悦楽が混じった声色だった。
苦痛と羞恥を、特権階級の快楽として享受する者の、残酷で甘美な嗜虐の響き。
その言葉を聞いたとき、小田の中で何かが――音もなく、冷たく、決定的に――崩れた。
心の底からわきあがった怒りは、熱ではなく、むしろ氷のようだった。脳髄の中心を静かに締めつけるような、制御された殺意。
小田は、ゆっくりと視線を上げ、女の顔を真正面から睨み据えた。
「……どこまで腐ってやがる、てめえらは…」
声は低く、深く、喉の底から絞り出すように響いた。
女の目がわずかに見開かれる。
「ん?なに、怒ったの?」
まるで『怒り』という感情を理解していない者のように、女はのんびりと問い返してきた。
それを見た小田は、一歩後ろに引いた左足に重心を落とし、低く構える。
右の掌は前に出し、指先を開いたまま、呼吸を深く整えた。
わずかに膝を屈めたその姿勢――それは、自衛隊式近接格闘術の構えだった。
脱力と集中が同居する、実戦仕様の無駄を削ぎ落とした構え。
獲物ではない。兵士の目だった。
女の目が、わずかに細められる。
そして――
「……ぷっ……あははっ!」
喉の奥から漏れたのは、くぐもった嘲笑だった。
女はくすくすと肩を揺らしながら、口元を手で覆い、わざとらしく首を傾げる。
「なにそれ?雄が……戦士の真似事ぉ?ふふっ、可愛いなぁ……やめておいたほうがいいと思うけど?」
その声音には侮蔑も警戒もなかった。
ただの『玩具』を見る目だった。
小田の脳裏に、冷たい警鐘が鳴る。
(――油断している。今なら…)
確かに、女の意識はまだ「戦い」に向いていない。
一撃を入れる隙はある。
――だが。
小田の視線が、改めて女の全身を捉える。
(……それにしても、こいつらは……やはりでかい)
女の身長は小田より頭ひとつ分高い。おそらく190センチ近い。
魅惑な肉体に隠れてはいるが、全身が野生動物のように研ぎ澄まされていた。
(骨格も筋肉も、まるで猛獣だ……あんなのに組みつかれたら最後だ…)
今まさに、文字通りの「化け物」と向き合っている実感が、小田の背筋に冷たい汗を滲ませる。
それでも、構えは崩さなかった。
たとえ何が待っていようと――
この瞬間、退くという選択肢はなかった。
⸻
「まあ……どうせ『しつけ』するしね」
女はくすりと笑い、腰をわずかに揺らす。
「――抵抗するなら……ちょっとだけ、痛くするけど?」
「……」
小田は無言のまま、低く構えた。
軍隊式の戦闘姿勢――重心を落とし、相手の動きに即応できる間合いを保つ。
女の目が細くなる。
唇が釣り上がり、瞳の奥が妖しく光る。
「そっか――じゃあ、遊んであげるよ」
その瞬間――
ドンッ!!
まるで壁を叩き割るような勢いで、女が地面を蹴った。
「ッ――!」
視界が一気に埋まる。
巨体が、迫る。
まるで『弾丸』のようだった。
腰を沈め、両腕を広げたまま、掴みかかる動作――
(速い――だが、いけるッ!)
眼前に迫る巨体。その質量が生む圧力を、正面から受けるのではなく、流す。
小田は一瞬で踏み込み、掴みかかってきた女の右手首を両手で強く握った。
「ッ――?」
女の口から小さな息が漏れる。だがその反応すら、もう遅い。
小田の身体が沈む。
膝を滑り込ませるようにして女の懐に割り入れ、同時に右足を軸に背を滑らせる。
手首を捻り、肘の支点を極めたまま――その巨体を、ぐるりと自らの肩へと導く。
瞬間、視界の中に女の重心が乗った。
「――ッ!」
ずしりとした重量感が、背中から脚へと抜けていく。
しかし小田は迷わなかった。
「うぉおおッ!」
筋肉を軋ませ、背筋に力を込めて、全身をねじり上げるようにして放つ――
背負い投げ。
女の巨体が、まるで重力を忘れたかのように宙を舞った。
「な――ッ!?」
目を見開いたまま、女の身体がゆっくりと天井の明かりを横切り――
石床に叩きつけられた巨体が鈍い衝撃音を立てる。
埃が舞い、空気が震え、女の吐息がくぐもった音を漏らした。
そして小田は膝を締めつけるように巨躯の上へ喰らいつき、両腕で女の首を絞め上げた。
「っらァ!」
喉元に食い込む前腕、背後から押し込む左腕。
軍隊仕込みの絞め技――体重ごと、全力で落とし込む。
女の息が詰まる。
ぐっ、と喉が鳴り、瞳が見開かれた。
(いける……このまま落とせ――)
だが――
小田が両腕で首を締め上げるなか――
女の瞳が、ギラリと、血のような紅を宿す。
「……ッやってくれたなぁ……」
低く、喉奥で震える声。
「やってくれたなぁッ……クソ雄がああああッ!!」
怒声と同時に、女の両腕が小田の腕をつかむ。
その指先が、鋼のように固い。
いや、単純に「重い」。
骨にまで圧が響くような、異様な握力。
ギリ……ギギギッ……
指が食い込む。
そのまま、ねじり剝がすように、腕を引き離してくる。
「ぐ……ッ」
(……ッ!なんつーバカ力だ……!)
喉を締めているはずの女が、顔を紅潮させながら、歯を剥き出してこちらを睨んでくる。
目が血走っていた。
その双眸は、殺気と、獣じみた敵意に濁っている。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、ブッ殺すぞこの畜生がぁッ!!」
「調子に……乗ってんのはテメェだ、ボケェッ!」
怒号と同時に、小田は体勢を崩されたまま、逆に腰を落とし、絞めの角度を変える。
脇を絞り、腕の締め付けをさらに深く――首へとねじ込む。
肘が喉奥に食い込み、気道を圧迫していく。
だが女は――
呻きながらも、なおも腕を振るい、力でその締め付けを引き剥がそうとしてくる。
ぎりぎりと締め付ける小田の両腕。
それに対して、女はまるで鉄骨をこじ開けるように、腕全体を使って抗ってくる。
「く……ッ、放せェェッ…ゴラァ…ッ!」
「放すかよッ……このまま、落ちろッ……!」
肉と骨が軋む音すら聞こえる気がした。
女の喉元には、うっすらと血管が浮き出ている。
それでも目は見開かれ、牙を剥き、明確な殺意がそこにあった。
――膠着。
床に押し倒したまま、馬乗りで締める小田。
その下で、地を這うように暴れ、腕力で押し返す女。
汗と呼気が絡み合い、空気がぬるく滞る。
その密室の中――
一瞬でも力の配分を誤れば、勝敗は即座に逆転する。
小田は歯を食いしばった。
(ここで……抑えきらなきゃ……終わるッ!)
⸻
小田は全体重をかけて締め続けていた。
しかし、その瞬間――何かが首元に巻きついた。
「ッ……が、あ……?」
ざらり、と鱗が首筋を這い、ぬめるように強く締まってくる。
(……尻尾!?)
気づいた時には遅かった。
女の長く分厚い尻尾が、小田の首に絡みつき、蛇のように絞り上げていた。
「ぐ、っ……!」
喉が潰れる。視界がぶれ、呼吸が削がれていく。
小田の締め技に対し、女は獣じみた本能で逆襲していた。
下から見上げる女の目が血走り、口角には笑みとも怒りともつかぬ歪んだ感情が浮かんでいた。
「……ッたく、雄のくせに、生意気なんだよッ……!」
締めつける力が増していく。
喉がひゅっと鳴り、酸素が奪われる。
「ぐ……ッ、くそが……ッ!」
喉を圧迫され、意識が揺らぐ中、小田は無我夢中で腕に力を込めた。
絡みつく尻尾――それに抗うには、もはや本能の暴力しかなかった。
「ッ、ぅおお……!」
そのまま、女の首に回した腕へ一層力をこめる。
同時に、もう片方の手が滑るように彼女の胸元に食い込んだ。
――ぎゅむっ……
柔らかく、それでいて異様な重量感。
戦士の肉体に似つかわしくないほど肥大した乳房が、小田の指の間で変形する。
彼女の服ごと、肉塊をわしづかみにして揉み潰すような動きだった。
「んゔぇ♡」
女が短く、しかし明確に甘い声を漏らした。
意識と快感の錯綜が、肉体の反応を混乱させる。
次の瞬間――
尻尾の締めつけが、わずかに緩んだ。
小田は、そのわずかな好機を逃さなかった。
むしろ、それを待っていたかのように、女の首へ手をかけ、ぐいと締め上げる。
白く艶めいた喉が軋み、気道が押し潰される感触が手のひらに伝わる。
「んぎゅうぅうぃっ……!ふゅ……ッ……」
喉奥から濁った音が漏れ、女の瞳がぐらついた。
全身が痙攣し、熱と脈動が小田の手の中で膨張する。
(早く落ちろ、早くッ…早くッ…!)
理性ではなく、生存本能が叫んでいた。
異常な状況。
異常な女。
異常な反応。
だからこそ、小田は叩きつけるように絞め続けた。
力の限り、圧を加え、肉を潰す感触に身を浸した。
やがて――
女は声を発さなくなった。
瞳が潤んだまま、焦点を失い、口元からは甘い息も漏れない。
その瞬間、彼女の股間から、ぬるりとした液体がこぼれ落ちた。
びちゃびちゃと、床を打つ音。
無様で、生々しく、そして確かな敗北の証。
女はそのまま、ぐにゃりと膝をつき、小田の胸に額を預けるように沈黙した。
「……ッはぁ……は、ぁ……やっと、か……」
小田は、膝をつきながら呻いた。
腕には痺れと痛みが残っている。
だが、女は動かない。
胸を揉み潰し、喉を締め上げ、ようやく沈黙させたその躯を見下ろして、
小田は息を吐いた。
それは達成感ではなかった。
ただ、安堵。この場を乗り切ったという、濁った安堵。
「……殺して、ないよな……」
わずかにふらつく手を伸ばし、女の首に触れる。
汗と熱に濡れた滑らかな皮膚の奥――脈を探る指先が、微細な震えを捉えた。
(……生きてる)
指先に伝わる、かすかな律動。
それは確かに、生命の証だった。
自分が「殺しきっていない」ことに、救われるような感覚が胸に満ちる。
だが――
その一秒後。
油断という言葉が、そのまま現実に噛みついてきた。
「おい……なんの冗談だ、こりゃあ……?」
静寂を裂いた声――
くぐもり、低く、どこか舌足らずな語尾を引く、女の声だった。
「ッ!!」
全身が凍りつく。
反射で振り返ろうとした刹那――
後頭部に、鈍くて重い何かが叩きつけられた。
ゴンッ。
骨を通して、脳の奥まで震えが伝わる。
目の前が白く、次いで赤く染まり、世界が逆さに崩れていく。
(……ッ、もう一人いたのかッ)
認識が遅れた。
空間に放置されていた「もうひとつの気配」――
気づいていたはずなのに、戦いの最中に意識の底へ沈めていたそれが、今になって牙を剥いた。
思考がもつれ、口が動かない。
筋肉がゆるみ、喉が熱をもらし、膝が割れるように崩れる。
暗闇が押し寄せてくる。
早すぎる。
眩暈とともに視界が断ち切られ、身体の感覚も遠のいていく。
ただひとつ――
その、落ちてゆく視界の端に、鮮烈に焼き付いた像があった。
あの女だった。
ナズを犯していた女。
何も身に着けていなかった。
全裸の肉体――
光沢を帯びた皮膚。
隆起した乳房。
むせかえるような性の気配。
(ちく……しょ……う……)
意識の底で、小田は呻いた。
口は動かず、声も漏れない。
ただ思考だけが、泥のように鈍く、遅れて漂っていた。
⸻
「…こいつにライザがやられたってのか?…」
女は、目の前の光景にしばし言葉を失った。
床に崩れ落ちたライザの体。
その喉には明確な締め痕が残り、苦悶に歪んだ顔で昏倒している。
あのライザが――まともな抵抗すら許さずに沈められた。
そしてそのすぐ傍に、ぐったりと横たわる男。
女は、その『雄』の姿を見下ろしながら、ゆっくりと目を細めた。
どこかで、見たことがある。
この背筋の張り、この肩幅、この――身体のかたち。
「……まさか、な……」
濡れた髪が背中に張りついている。
その湿った匂いが、鼻の奥をくすぐる。
女は無意識のうちに、しゃがみ込んでその背に手を伸ばしていた。
女の喉がひくりと震える。
躊躇もなく、小田の体を力任せにひっくり返した。
どさり、と仰向けに倒れた男の顔を、女は凝視した。
仰向けに転がされた男の顔を見た瞬間、女の喉がびくりと震えた。
まるで何かに殴られたかのような衝撃。
空気が凍りつき、肌の上をぞわりと汗が這った。
「……は、ッ……」
目が見開かれる。
脳が追いつかない。
だが、顔は――確かに知っていた。
「……てめえ……」
女の声が、かすれた。
「てめえは――小田じゃねえかッ!」
叫ぶように吐き捨てた声は、部屋に響き渡る。
喉の奥でうなるような声。怒りと驚愕が入り混じった、嗄れた絶叫。
女の指先が震えながらも、小田の顎を掴み、さらに顔を覗き込む。
汗に濡れ、唇を開けたまま気を失っている男の顔――
間違いない。
あの日の『検査』、口に咥えた肉棒の主。
一度その味を知って以来、忘れられるはずがなかった存在。
「……小田が、ライザをやったのか……」
仰向けに倒れた小田を見下ろしながら、女はゆっくりと呟いた。
その声には驚きこそあったが、次第に何か別の感情が混じり始めていた。
それは、嗜虐。
あるいは、欲情。
「ふふっ……こりゃぁいいねえ……♡」
女の声は、喉の奥で転がるように甘くなる。
「……あの犬っころじゃあ、ぜんっぜん足りなかったんだよなぁ♡」
ナズのことだ。
雄ではあるが、所詮家畜の端くれ。
匂いも、味も、応も――女の本能を満たすには物足りなかった。
だが、今目の前に横たわるこの男。
雄のくせに雌を倒し、その上この肉体。
なにより、口淫の記憶がまだ舌の裏に残っている。あの味、あの跳ね返り、あの熱。
女はそっと、小田の胸元に手を伸ばした。
汗に濡れた服のような物をずらし、見えた乳首へ、指先を滑らせる。
「…約束すっぽかしやがって、ええ?♡」
指先で、くに、くに、と乳首をひねる。
左右を交互に、わずかな力加減で。
そのたびに、小田の体がわずかに反応する――無意識の中で、僅かに筋肉がぴくつく。
女は、しばらく小田の乳首を指で味わったのち、ゆっくりとその顔へと指を這わせた。
額から頬、顎の輪郭――そして唇へ。
乱れた呼吸でわずかに開いたその口元に、女の視線が絡みつく。
「……どーれ、ベロ出すか♡」
ぬるりと舌を這わせた指先で、小田の顎をくいと持ち上げる。
もう片方の親指で、そっと唇を押し開いていく。
その中に覗いたのは、よく知る形状――
「……いたいた♡」
小田の舌。
微かに乾きかけてはいたが、熱と唾液を帯びたそれは、まだ十分に生きている。
女はその柔らかな肉を、親指と人差し指でつまみ、ぬるりと引っ張り出した。
ぺろん、と舌先が唇の外に垂れた瞬間――女の目が妖しく光る。
「……はむぅ♡」
何のためらいもなく、その舌を自分の口へと含み込んだ。
唇を密着させ、しゃぶりつくように舌を吸う。
自らの舌を絡めながら、ぬちゅ、ちゅる、と淫らな音を立てて吸い続ける。
「んふっ、ふちゅっ……ちゅっ、ん、んちゅ……ッ♡」
口腔内に、肉の感触と塩味と、微かに残る血の風味。
女の喉がごくりと鳴る。
舌先をねぶるようにして味わい、唇を伝う唾液を舐め取ったあと――
にたりと笑って、顔を離した。
「……うめぇ〜♡」
唾液の糸が、小田の舌と女の唇を繋いだまま、艶やかに垂れる。
「いやぁ……ライザには悪いけどさぁ……」
女は濡れた唇を舐めながら、小田の頬を撫でる。
「ほっといて、俺と楽しむかぁ、小田ぁ♡」
頬に指を這わせ、乳首をつまみ、下腹部に手を滑らせながら、
女はまるで恋人に語りかけるように囁く。
小田の身体は、意識を手放してなお、女の手に正直に反応していた。
「……くく♡」
女は緩やかな笑みを浮かべながら、小田の下腹部へと指先を這わせる。
服越しに勃起したそれを感じ取ると、目尻がきゅっと吊り上がった。
「寝たままで……立ちやがって……ドッスケベだな、こりゃあ♡」
獣のような息遣いをこぼしつつ、女は小田のズボンに潜り込ませる。
冷えた指先が肌を割るように滑り込み、熱を孕んだ肉棒を優しく、だが貪るように包み込む。
ぐい、と一思いにそれを握りしめた。寝息混じりの喘ぎが、小田の喉から微かに漏れた。
小田の性器は、意識を失いながらもぴくりと脈動していた。
女はそれを、まるで戦利品を確かめるように見下ろし、ぬるりと唇を歪める。
指先が熱を帯びた先端をゆっくり撫でる。
その動きはまるで、飢えた獣が肉を味わうかのように執拗で――
しこぉ……しこぉ……♡
ぬちゃ、ぬちゃ、と湿った音が静かな部屋にいやらしく響いた。
肉棒が擦れ、女の掌に粘膜がとろけていく。
「こりゃ、たまんねぇな……なあ、小田ぁ♡」
女の目はどこか焦点を失い、狂気の熱に濁っている。
そのまま、腰をすり寄せるようにしながら、小田の顔を見ながら――
「部屋につれてって続き…するかぁ♡」
囁きは甘く、底冷えするように歪んでいた。
「犬っころとお前、交尾させて……俺はお前のケツ穴でもなめてやっかなぁ?♡」
濡れた舌が、小田の唇の端を舐め上げた。
「なあ、小田ぁ……」
快楽に濡れた女の声が、ぬちりと耳を打つ。
「……ぅ」
かすかな反応。女は喜悦に濡れた吐息を漏らし、狂おしげに小田の乳首へと唇を吸い寄せる。
ねっとりと、舌を這わせながら唾液を垂らし、声をくぐもらせたまま――
「んちゅぅ…マジ、たまんねぇ〜♡」
舌を這わせるたびに、雄の身体が艶かしく震える。
すでに女の瞳には理性など残っておらず、あるのはただ――
支配と倒錯の悦楽だけだった。
⸻
「やっぱり……でけぇなぁ♡」
ぬるり、と指先で肉棒を根元から先端へと撫であげる。
熱と張りが指に吸いつくたび、女の背筋にぞわりと快感が走る。
「……他の奴隷共より……二倍くらいでけぇ♡」
快楽に染まった瞳で見下ろしながら、女は一度、自らの太ももを擦るようにして押さえつける。
疼くような興奮が身体の奥で沸き立ち、吐息が熱を帯びる。
「これ……中に入れたらどうなんだ……?早く喰いてえ♡」
女は愛おしそうに、舌で小田の亀頭をちろりと舐め――
ぴちゃ、ぬちゅ、と音を立てて口づけた。
――そのとき。
ーーー様ッ!小田様ぁッ!」
鋭く、喉を震わせるような声が奥の廊下から飛び込んできた。
「あん?」
女の舌が止まる。目線をゆっくりと上げ、笑みの端に殺気のような色を灯す。
「……この声は……」
声の正体に気づいた女は、ふっと鼻で笑い、唾液で濡れた指先をぬぐいもせずに、小田の頬をぺちりと叩いた。
「……見せつけてやるか♡」
駆け込んできたシズの声が、湿った廊下の空気を一瞬、引き裂いた。
「小田様!小田様ぁっ……?!」
視界に飛び込んできたのは――
床に押し伏せられ、失神している女。そして、その傍らで。
小田の性器を淫らにしゃぶりながら、尻尾をくねらせている女――ベニーラ。
その口元には唾液が糸を引き、舌は尚もぬちゅぬちゅと蠢いている。
「ベ、ベニーラ様っ……なにを……っ!?」
シズの声は震えていた。
だが、ベニーラは小田の性器に唇を押し当てたまま、ちらりと上目で睨みつけ――
「きゃんきゃんうるせぇぞ、犬。今こいつに『しつけ』してんだから、黙っとけ」
舌で亀頭をねぶりながら、口の端を吊り上げ、唾液混じりの低い声で嗤う。
「し、しつけは……ナズとナーシャだけのはずですッ……!その方は……っ」
「うっせえぞッ!」
突然、ベニーラが口を離し、ぐいと小田の性器を握ったまま捲し立てる。
「こいつは俺たちに逆らったんだぜ?ライザもこのとおり、“のされ”ちまってるしよ」
シズの視線が動く――
床に倒れ、微かに痙攣しているライザの姿。その脚の間からは、尿が溢れていた。
「……ッ……」
シズの喉が詰まる。
それを見て、ベニーラはにたりと笑い――
再び小田の亀頭に口づけた。
「んちゅぅ……れろ……れろれろ……♡」
淫猥な水音が、場の静寂にいやらしく響く。
唾液を絡めながら、ねっとりと鈴口を舐め回し、女はちらりとシズを見上げた。
「……見てんじゃねえよ。劣等種」
その声は、冷たい殺意を帯びていた。
「……殺すぞ?」
その一言が、空気を刺した。
シズは動けなかった。膝がかすかに震え、喉が詰まる。
けれど――その瞳は、確かに怒りと焦りに溢れていた。
視線が揺れる。けれど逸らさなかった。
それでも、声はすぐには出なかった。
……言わなければ。
命令がある。彼を――この人を――連れていかなくちゃいけない。
唇が震える。呼吸が浅くなる。
「……カ……カザラ様の……め、命で……」
言葉が崩れかける。それでも、絞り出すように続けた。
「……その方は……お部屋に……案内しなければなりません……」
シズの声は震えていた。
理性と忠誠、それに込み上げる焦りが、言葉の端々に滲んでいる。
「……なので、どうか……おやめください……」
その言葉に、ベニーラはぴたりと動きを止めた。
唇を離し、ぬるりと濡れた口元でシズを睨み返す。
「……っチ。いつも美味しいとこだけ持っていきやがって……あの女……」
不満と欲情がないまぜになった吐息をこぼしながら、彼女は性器を撫でる手をゆるめなかった。
「じゃあ、一発だけやらせろ」
「で、ですが……っ」
シズは抗おうと一歩前へ出るが、その声音には既に自信がなかった。
膝がかすかに揺れる。視線は小田の裸体から逸らせない。
ベニーラは鼻で笑い、完全にシズの存在を無視するように顔を沈めた。
女は小田の顎をくいと持ち上げ――
自身の舌を、彼の口腔にねじ込んだ。
「んちゅぅ……れろ……んっ、ふ……ちゅっ……♡」
ぬちゅ、ちゅるる……と濡れた水音が、肌を這うように響く。
小田の舌に、ベニーラの長い舌がねっとりと絡みつき、唾液が口角から零れていく。
混ざり合う体温と呼吸。唇と唇、舌と舌、粘膜と粘膜――
まるで溶け合うように、絡み続ける。
そして、片手を伸ばし――
女は小田の玉袋を、ぬるぬると撫で上げた。
「んむぅ……♡やっぱ……重てぇな、こいつ……最高……」
その淫靡な行為を目の前にして、シズの頬がぴくりと引きつった。
小田の舌にベロを絡め、睾丸を慈しむように味わうベニーラ。
その姿に、シズの胸がきゅっと締めつけられる。
目を逸らしたいのに、逸らせない。
耳が熱い。喉の奥が焼けるようだ。
――嫉妬。
シズは、震える視線でその光景を見つめていた。
ベニーラの唇が小田の唇にむしゃぶりつき、指が睾丸を撫で回し、腰をくねらせながら肉の芯を愛撫する。
粘液のような唾液が垂れ落ちるたび、シズの胸奥がじくじくと焼けた。
(……ずるい)
声にはならなかった。
けれど、確かにそう思った。
(さっきまで……さっきまで、私のものだったのに……)
あのぬくもりも、あの匂いも――今は全部、あの女の唾液にまみれていた。
「……はっ」
ベニーラが、ちらりとこちらを見て薄く笑った。
「犬風情が、なに不満げなツラしてんだよ?」
その言葉が、皮膚の下までじくりと食い込む。
ベニーラは嘲笑を浮かべながら、小田の性器をしこしこと扱き続けた。
「ほらぁ……こうしてるだけで、身体がびくびくしてんぜ?こいつ♡」
ぐぐっ、と根元までしごきあげると、小田の腰が微かに震えた。
「おっ?♡ちけえか?♡もうイッちまいそうかぁ?」
ねっとりとした声が、淫らに室内を濡らしていく。
シズは無意識に、唇を噛み締めていた。
(……やめて)
そう思っても、口には出せない。
出したら――
この部屋で自分がどれだけ「下の存在」かを、はっきり知らされる気がした。
けれど――
(……やめてよ……)
その眼差しだけは、泣きそうなほど真っ直ぐに、小田の身体を見つめていた。
その時。小田の身体が、ぴくりと震えた。
気を失ったまま、脚が微かに跳ねる。
そして――
……びゅるっ、びゅるるる……ッ
快楽の頂に、意識がなくとも本能が達していた。
性器の先から、白濁した精が脈打つように噴き出す。
その瞬間、ベニーラの唇が――ずっと、待っていたかのように――
「はむっ……ちゅぅ〜〜〜……♡」
ぱくりと亀頭を咥え込み、吸い付く。
ぴちゃっ、じゅるるっ……ちゅっ、ちゅくっ……。
吐き出されたばかりの精液を、一滴残らず啜るように舌で巻き取り、
女は頬を凹ませながら、射精口に吸い付いた。
「んふっ……ッく……♡んちゅ……ちゅぅぅっ……♡」
喉奥でごくりと嚥下する音が響くたび、女の尻尾が愉悦に震えた。
シズは、その光景から目を逸らせない。
指が服の裾をぎゅっと握りしめ、肩が震える。
「ッ……」
息が詰まり、視界がにじむ。
こみ上げるものが、涙になって目元に溢れた。
何度も口に含んだはずの彼の身体。
感じた温もりも、名前を呼んだときの声も。全部、遠ざかっていく。
小田の精液が、別の女の舌の上で蕩けていくのを――
ただ見ているしかなかった。
⸻
精を吐ききった小田の体は、ぐったりと沈み込んでいた。
だが、ベニーラの興奮はまだ収まっていなかった。
吐息まじりに微笑むと、ベニーラは彼の頬を両手で挟み込み、
その唇に――たっぷりと精液の余韻を抱えた、自分の唇を重ねた。
「んちゅ……ちゅぅ……っ……ん、ちゅ……♡」
舌と舌。唾液と、精液と、残り香。
まるで蕩けるように、女は小田の口内をむさぼり、ねっとりと絡め続けた。
「ん、んふ……んふぅ……」
唇を離したとき、細い唾液の糸が二人の口をしばらくつないでいた。
そして――
「ふぅ〜♡」
満足げに、わざとらしく吐息を漏らしながら、ベニーラはゆっくりと振り返った。
シズを、見た。
唇の端に精液の残り香を宿しながら、獲物をいたぶる獣のように、にやりと目を細める。
「…カザラ様との用事が終わったら……絶対、交尾してやるぜ♡」
その言葉に、シズの表情が強張る。だが声は出ない。
ベニーラはそんな様子を楽しげに見下ろし――
「おい、犬」
舌打ち混じりに、女は乱れた髪をかき上げた。
「ぼさっとしてねぇで、運んどけよ。……案内すんだろ?」
嘲りと命令が混じったその一言に、シズは一瞬、呼吸を止めた。
ベニーラは快楽に満ちた吐息を漏らしながら、ゆっくりと腰を上げた。
荒く波打つ胸元を整えるでもなく、隅に倒れていたライザの体を、ぐいと片腕で抱き起こす。
「……ライザが目ぇ覚ましたら、次はあの雄猫か。ふふっ、忙しいねぇ……」
悪びれもせず、まだ気絶しているライザをずるずると引きずりながら、ベニーラは暗い廊下の奥へと姿を消した。
――そして、沈黙が訪れた。
けれど、シズにはもう、去り際の女の言葉も、足音も届いていなかった。
ただただ、そこに残された存在――
性器を露出し、荒く呼吸を繰り返しながらも、意識のないまま横たわる小田の姿だけが、視界に映っていた。
音もなく近づく。
そっと、膝をつく。
「……私たちは…なんで…」
シズの手が、そっと小田の頬に触れた。
温もりはまだあった。生きている。そのことに、どこか安堵している自分がいる。
――でも。
その唇には、あの女の味が塗り込められている。
喉には、濡れた吐息が残っている。
その身体は、さっきまで他の誰かに――
シズは、唇を噛み、指先を離した。
指が、濡れていた。
それが涙か、唾液か、精か、もうわからない。
小田の名を呼ぼうとして、喉が詰まった。
息が、できなかった。
ただ、立ち尽くしていた。
自分が、犬だから。
自分が、劣等だから。
自分が、「奴隷」にすぎないから。
そうやって、何度も呑み込んできた言葉たちが、口の奥で腐っていく。
……そして、結局。
シズは何も言えなかった。
誰かの足音が遠ざかっていく。
廊下には、湿った空気と、白濁の匂いだけが残っていた。
小田はまだ、目を覚まさない。
目を覚ましても、何も変わらないかもしれない。
それでも、彼の顔を見つめた。
触れられなかった唇を見て、ただ、黙っていた。
「なんで……こんなにも、弱いんでしょうか」
ぽたり。涙が、小田の胸元に落ちる。
喉が、詰まる。言葉が、こぼれる。
「小田さん……」
その名を呼ぶと、堰を切ったように、身体が傾いた。
唇を、重ねる。
ぴちゃ……くちゅ、ん、ちゅ……ちゅう……っ。
廊下に、静寂を破る音が響く。
口と口が吸い合い、触れ合い、涙と唾液が混ざり合って、静かに絡む。
「んっ……ちゅ……ぅ……」
その音だけが、世界に残されていた。