薄曇りの空の下、捜索隊は湿った草地を分け入るようにして進んでいた。
辺りには鳥の鳴き声ひとつない。
聞こえるのは、靴底がぬかるみを踏み潰す音と、装具同士が触れ合う微かな金属音。そして時折、隊員たちの間で交わされる低い声だけだった。
「……この辺りだ。最後に小田隊員と通信が取れたのは」
先頭を歩く隊長が足を止め、携行端末に表示された地形図へ視線を落とした。
現在位置を示す青い点と、小田隊員から最後の通信が入った地点を示す赤い印。その間に大きな隔たりはない。
小田隊員が所属していたのは、偵察と情報収集を主任務とする小規模な調査分遣隊だった。
本来ならば部隊を分散させず、相互支援が可能な距離を維持しながら行動すべきだった。しかし、西部方面に関する情報収集を急かされた現地部隊は、限られた人員で広大な地域を踏査するため、二人あるいは三人ずつの小班に分かれざるを得なかった。
小田が単独となった時間は、わずかなものだった。
だが、未知の種族が徘徊するこの大陸では、そのわずかな隙でさえ致命的になり得たのだろう。
最初に異変を察知したのは、同じ分遣隊に所属する隊員たちだった。
無線に応答がなく、予定された集合時間を過ぎても小田が戻らない。
当初は通信機器の不調、あるいは樹林や起伏による電波障害だと考えられた。実際、この地域では地形によって短距離無線が不安定になることが何度か確認されていたからだ。
しかし、集合地点を中心に一時間近く捜索しても発見できず、予備の通信周波数にも反応がない。
その段階で、事態は単なる連絡途絶では済まされなくなった。
増援要請が送られたのは、その直後である。
『小田隊員、行方不明』
短い文面とともに送信された暗号通信は、前哨基地の指揮所を震撼させた。
付近を行動していた複数の調査班が直ちに呼び戻され、警戒要員と衛生隊員を含む捜索隊が編成された。無人偵察機も投入されたが、密生する樹冠と低く垂れ込めた雲に視界を遮られ、上空から得られた情報は限られていた。
ーーそして現在。
隊員たちは小銃を構え、互いの死角を補うように間隔を取って前進していた。
視線は木々の間、折れた枝、踏み荒らされた草、泥の表面へと絶えず動いている。
「足跡を発見」
隊列の右前方を捜索していた若い隊員が声を上げた。
全員が周囲を警戒したまま集まる。
湿った土の上には、確かに三種類の足跡が残されていた。
隊長が片膝をつき、その一つを手袋越しになぞる。
「……この靴底の模様は、官給品の戦闘靴だ。大きさから見ても、小田隊員の可能性が高い」
その足跡を挟むようにして、二つの異なる痕跡が残っていた。
一方は大きく、幅が広い。
人間の足に近い形状をしているものの、爪先部分には深い窪みがあり、体重も相当なものらしい。もう一方は小柄で、細く、人間と獣を組み合わせた足裏を思わせる柔らかな輪郭を持っていた。
「残る二つは……獣か?」
若い隊員が顔をしかめる。
隣にいた隊員が首を振った。
「いや…歩幅が一定だ…二足歩行しているな。大柄な個体と、小柄な個体……どちらも異種族でしょう」
三者の足跡は一度、狭い範囲で激しく交錯していた。
小田の足跡だけが急に向きを変え、土を強く蹴った痕跡が残っている。近くの草は押し倒され、低木の枝が一本、根元近くから折れていた。
隊員の一人が周囲を確認しながら呟く。
「ここで接触したようです。小田隊員は気づいて振り返った。ですが……」
その先に続く足跡を見れば、結論は明らかだった。
小田の歩幅は乱れ、途中から靴底の痕が不自然に浅くなっている。自力で歩いていたというより、左右から支えられるか、引きずられていた可能性が高い。
「…背後を取られたか」
「あるいは、最初から待ち伏せされていたかもしれません」
隊長は周囲の森を見回した。
木々は沈黙を保ち、何も答えない。
「……時間を無駄にするな。痕跡を追うぞ」
低い命令に、隊員たちは短く応じた。
全員が理解していた。
これは迷子でも、単純な転落事故でもない。
――拉致。
西部から移動してきた何らかの集団、あるいはこの地域を活動圏とする部族勢力が、小田を生きたまま連れ去った可能性が高い。
捜索隊に与えられた任務は一つ。
小田隊員の行方を突き止め、可能であれば生存した状態で連れ戻すこと。
だが、泥に刻まれた痕跡は、彼らが既に後手へ回っている事実を容赦なく突きつけていた。
見えない縄が首に巻きつき、進むほど締まっていくような圧迫感が、隊員たちの胸に沈んでいた。
一行は湿った落ち葉を踏みしめ、森の奥へ進んでいく。
日が傾くにつれて空は暗さを増し、薄い雲の向こうにあった太陽の位置すら分からなくなっていた。
時折、誰かの靴先が小石を蹴る。
乾いた音が林の中へ転がるたび、隊員たちの肩がわずかに強張った。
疲労と苛立ちは、誰の顔にも隠しようがなかった。
「……やはり、急な調査範囲の拡大には無理があったんだ」
最後尾を警戒していた隊員が、吐き捨てるように呟いた。
声は抑えられていたが、その中に滲む不満までは隠せていない。
前を歩いていた隊員が振り返り、口元を歪めた。
「…ああ。東部で戦略資源地帯を確保できたんだ。西部についても、もっと拠点と偵察網を整えてから調査に入るべきだった。ろくに通信中継所も置かず、少人数で奥地まで足を伸ばした結果がこれだ」
男は前方へ視線を戻した。
「上の連中は、現場を知らなすぎる。」
そこにあったのは激しい怒りというより、何度繰り返しても改善されない状況に対する、諦めに近い感情だった。
隊長は歩みを止めなかった。
「そう言うな」
低く、諫めるような声が返る。
「上も焦っているんだ。西部に複数の国家や都市圏が存在する以上、いつまでも正体不明のまま放置するわけにはいかん。こちらが接触を避けても、相手が同じように考えるとは限らないからな」
誰も口を挟まない。
隊長は足元の痕跡を追いながら続けた。
「日本の将来を支えるのは、東部の資源地帯だけではない。西部にどれほどの人口があり、どんな軍事力を持ち、どの種族が支配しているのか。それを知らなければ、将来的な防衛線さえ決められん」
「…だからといって、隊員を使い潰していい理由にはなりませんよ」
「分かっている」
隊長は短く答えた。
「だからこそ小田を連れ帰るんだ」
一瞬だけ、隊列に沈黙が落ちる。
誰も納得したわけではない。
それでも、今は進む以外になかった。
やがて先行していた若い隊員が急に身を屈めた。
「……ん?」
手を上げ、後続を止める。
「隊長、これを見てください」
全員が足を止めた。
そこには、それまでの足跡とは明らかに異なる痕跡が走っていた。
草が広い範囲で押し潰され、湿った土が深く抉られている。二筋の平行な溝が、一定の間隔を保ったまま林の向こうへ続いていた。
隊長が片膝をつく。
手袋をはめた指で縁をなぞると、土は固く圧縮されていた。その両脇には、複数の人型種族と思われる足跡と、蹄に似た痕跡も残っている。
「……これは」
隊長の声が低くなる。
「馬車か」
その一言で、隊員たちの表情が険しくなった。
単に車輪があるというだけではない。
轍の深さから見て、車体には相当な重量があった。複数の足跡が一定の配置で並走していることから、護衛を伴った輸送隊であった可能性もある。
若い隊員が唾を飲み込んだ。
「多数の足跡です…これは一体…」
「分からん。…だが少なくとも、相手はその場の衝動だけで動く小集団ではない。車両を運用し、護衛を配置できる程度には組織化されているようだ」
国家の正規部隊なのか。
部族社会に属する商隊なのか。
現時点では判別できない。
しかし、小田がより大きな組織の手へ渡った可能性が急速に高まったことだけは確かだった。
「……くそっ。本格的にやられたな」
誰かが吐き捨てた声は、湿った風に消えることなく、隊列の中へ重く沈んだ。
隊長は轍の方角を確認した。
それは西へ向かっていた。
その先に何があるのか、現在の日本側には正確な地図すら存在していなかった。
⸻
轍を確認しながら進むうち、日は完全に森の向こうへ沈んでいた。
頭上を覆う雲は夜空と溶け合い、月明かりさえ地表まで届かない。
暗視装置越しに映る森は青白く、木々の幹は無数の人影が立ち並んでいるかのように見えた。
車輪の跡はさらに西へ続いている。
だが轍の縁はすでに崩れ始め、ところどころに雨水が溜まっていた。馬車がここを通過してから、相当な時間が経っているらしい。
沈黙を破ったのは、若い隊員だった。
「……隊長。このまま追跡しますか?」
その声には焦りがあった。
仲間を奪われたまま引き返すなど、自衛官として受け入れ難い。
しかし隊長はすぐには答えず、暗視装置を通して延々と続く轍を見つめていた。
その眼差しは冷静だった。
冷淡なのではない。
今ここで感情に従った場合、どれだけの人間が死ぬのかを計算していた。
「……いや」
やがて隊長が答えた。
「状況が変わった」
「それは……」
「相手がこの付近の小規模な部族なら、追跡を続ける意味はあった。移動速度も限られ、根拠地も近い可能性があるからな…だが、この痕跡は違う」
隊長は轍を指した。
「大型の馬車に複数の護衛…明らかに組織的な輸送隊だ。小田隊員を連れ去った者が直接この馬車を使ったのか、途中で別の集団へ引き渡したのかは不明だが……徒歩の我々では追いつけない可能性が高い」
ベテランの隊員が口を挟んだ。
「しかし、ここで止まれば、小田隊員は……」
「分かっている」
隊長の声が強まった。
男は唇を噛み、口を閉ざした。
隊長は時刻を確認する。
「最後の通信から、すでに十時間近く経過している。馬車が日没前から移動していたなら、今頃は数十キロ先だ。地形次第では、さらに離れているだろう。」
「車両を出せば……」
「この森に道路はない…装輪車は入れん。ヘリも夜間に未確認地域へ降ろせば、二次遭難を起こす可能性がある。」
隊員たちは互いの顔を見た。
感情のままなら、今すぐ走り出したかった。
轍が残っている以上、道は完全に途絶えたわけではない。
だが、夜間の森林で未知の武装集団を徒歩追跡すれば、発見されるのはこちらが先かもしれない。敵地の奥深くへ誘い込まれ、包囲されれば、この人数では抵抗にも限界がある。
しかも小田が人質として利用された場合、交戦によって命を危険に晒す恐れさえあった。
「……つまり、このまま追うのは現実的ではない、ということですね」
「ああ」
隊長は頷いた。
「我々の任務は捜索と状況確認だ。接触した勢力の規模も位置も分からないまま追跡を続ければ、部隊全体が消息を絶つことになる。」
言葉を区切り、隊長は全員を見回した。
「全滅すれば、小田隊員がどちらへ連れ去られたのか、本部へ伝える者すらいなくなる。それだけは避けなければならない。」
沈黙が隊全体に落ちる。
若い隊員の顔には、隠し切れない悔しさが浮かんでいた。
拳を強く握りしめ、爪が手袋の内側へ食い込んでいる。
だが誰も反論しなかった。
彼らは軍人だったからだ。
戦場では、ときに仲間を助けたいという感情さえ抑え込み、より多くの命を失わないための判断を選ばなければならない。
隊長は立ち上がった。
「足跡、周辺地形を記録しろ。終わり次第、回収地点まで後退するぞ」
そして、短く付け加えた。
「小田を見捨てるわけではない。救出するために、情報を持ち帰るんだ。」
その言葉に、若い隊員は俯いたまま小さく頷いた。
記録作業は迅速に行われた。
轍の幅、深さ、進行方向。
足跡の数と大きさ。
蹄の間隔。
すべてが写真と映像に収められ、位置情報とともに端末へ保存されていく。
森を抜ける風が、冷たく隊員たちの頬を撫でた。
数分後、隊長は記録終了の合図を確認すると、無線機へ手を伸ばした。
「――回収ポイントまで後退する。」
声は冷静だった。
しかしその奥に沈む焦燥まで、完全には隠し切れていなかった。
部隊は向きを変え、周囲を警戒しながら森の影へ身を沈めようとした。
その瞬間だった。
――ガサリッ。
前方右側の草むらで、何かが動いた。
土を踏み割り、低い枝を押し退ける音。
一度だけではない。
何かが、こちらへ近づいている。
全員の動きが一斉に止まった。
安全装置が外される乾いた音が、隊列の各所で小さく連なる。
銃口が音の方向へ揃った。
「……総員警戒」
隊長が低く命じた。
前衛が膝をつき、後衛が左右へ展開する。
心拍が急激に上がり、胸の内側を鉄槌で打たれているような鼓動が響く。
森全体が凍りついたような静寂に包まれる。
草を掻き分ける音だけが、少しずつ大きくなっていく。
――来る。
誰もがそう確信し、引き金へ指を添えた。
次の瞬間、草むらから一つの人影が転がり出るように現れた。
「……ッ!」
複数の銃口が、瞬時にその胸へ向けられる。
だが、それは人間ではなかった。
頭部から伸びる長い耳。
全身を覆う短い体毛。
人に似た四肢を持ちながら、明らかに犬科の特徴を備えた異種族。
――犬人。
数名の指に力がかかる。
その直前、隊長の制止が飛んだ。
「待て」
鋭い一声だった。
銃口の先で、犬人は立ち尽くしていた。
四肢は激しく震え、肩は大きく上下し、喉の奥から掠れた呼吸音が漏れていた。
武器は見当たらない。
しかし、隊員たちの警戒は緩まなかった。
西部勢力の斥候…または、拉致に関与した集団の一員の可能性がある。
あるいは、こちらを足止めするための囮。
判断材料がない以上、敵である可能性を捨てることはできなかった。
隊長は照準を維持したまま、犬人を観察する。
「…動くな」
犬人は言葉を理解していないのか、それとも恐慌状態で耳に入っていないのか、何の反応も示さなかった。
ただ怯え切った瞳で隊員たちを見回している。
その目にあったのは攻撃の意思ではない。
逃げ道を失った獣の、絶望に近い恐怖だった。
だが、恐怖を装って接近する可能性もある。
交渉を試みるべきか、その場で拘束すべきか…
ほんの数秒の間に、隊員たちはいくつもの最悪の展開を脳裏に描いていた。
隊長は犬人から視線を逸らさないまま、周囲へ命じる。
「側面を確認。後方にも注意しろ。一体だけとは限らん」
即座に隊員たちは半円を描くように散開した。
一部の銃口が犬人を捉え、残りが森の奥へ向けられる。
一体を囮として前へ出し、側面や背後から襲撃する。
未知の勢力を相手にする以上、その程度の策は当然想定しなければならなかった。
だが、犬人を見つめていた隊長の中に、別の違和感が生まれていた。
――東部で確認された個体と違う。
既存の接触報告によれば、東部に点在する犬人の集落は小規模で、生活水準も低かった。
衣服は腰布や獣皮が中心で、生活に使う道具も石器、骨器程度だったはず…
だが、目の前の犬人が身につけているものは、それらとは明らかに異なっていた。
破れ、泥と血にまみれてはいる。
それでも衣服は織物で作られ、腕を通す袖があり、胴体の形に合わせて縫製されている。
裾には簡素ながら補強の縫い目さえあった。
東部の集落で自然に生まれた服装とは考えにくい。
それは、まるで別の文化圏から流入した衣服だった。
「……隊長」
隊員の一人が声を潜める。
「あの服……東部の犬人じゃありません」
「ああ」
隊長は短く答えた。
少なくともこの個体は、東部部族社会とは違う社会に属している。
場合によっては、西部文明圏の領域から逃げてきた者かもしれない。
だが次の瞬間、その推測すら脇へ追いやるほどの異様さが、暗視装置越しに浮かび上がった。
犬人の全身は、血に塗れていた。
顔から胸、腹部にかけて、乾き切らない血が斑状にこびりついている。
体毛は血液で固まり、黒ずんだ束となって垂れていた。
衣服にも大量の血が染み込み、本来の色はほとんど判別できない。
その血がすべて本人のものなのか、それとも別の誰かのものなのかさえ分からなかった。
「右手……」
衛生要員が息を呑む。
犬人の右手からは、数本の指が失われていた。
切断面は潰れ、血と泥に覆われている。
鋭い刃物で切り落とされたようにも見えるが、一部には肉が不規則に裂けた跡があった。何らかの獣に噛み砕かれた可能性も否定できない。
犬人は肩を激しく上下させていた。
「ハッ……ハぁッ……ハぁッ……!」
息を吸っているのか、吐いているのかさえ分からないほど呼吸が乱れている。
胸が無秩序に動き、喉の奥でひゅうひゅうと空気が擦れる音が鳴っていた。
「…過呼吸だ」
衛生要員が低く言う。
「かなり危険な状態です」
犬人の両目は大きく見開かれ、瞳孔は収縮していた。
視線は隊員たちを見ているようで、誰にも焦点が合っていない。
完全に錯乱している。
その姿は、捕食者に追い詰められた小動物そのものだった。
しかし同時に、別の疑問が浮かぶ。
なぜ、ここまで傷を負ったのか?
何から逃げてきたのか?
そして、その「何か」は、今も背後の森にいるのではないか?
「……隊長、これは」
隊員が声を潜めた。
隊長は銃口を下げず、犬人を凝視した。
仮に囮であるなら、なぜ指を失い、全身を血で汚す必要がある。
芝居にしては損傷が深すぎる。
では被害者なのか。
だとすれば、この犬人をここまで追い詰めた存在は何者なのか。
彼らが警戒していたモノとは、まったく別の脅威が森の奥に潜んでいる可能性さえあった。
犬人の眼球が細かく震えた。
次の瞬間、膝から力が抜ける。
身体が崩れ、湿った地面へ鈍い音を立てて倒れ込んだ。
「……一体、何だっていうんだ」
誰かの低い声が漏れた。
犬人は泥の上で膝を抱え、背中を木の幹へ擦りつけるように後退し始めた。
だが、すでに背後は木に塞がれている。
それでも爪で地面を掻き、泥を削り、さらに後ろへ逃げようともがき続ける。
そして突然、犬人は自分の親指へ噛みついた。
ガリッ。
骨へ牙が当たる、鈍い音がした。
肉が裂け、口元から新しい血が溢れる。
「おい!」
一人の隊員が声を上げる。
だが犬人の耳には届いていなかった。
親指へ牙を食い込ませ、痛みで現実を遮断しようとするかのように噛み続けている。
血が顎を伝い、胸元へ滴り落ちた。
恐怖に追い詰められた獣が、自らの身体を傷つけてでも逃れようとする。
それほどまでに、彼女の精神は壊れかけていた。
「ひっ……ひぃ……ひぃぃ……」
喉から漏れるのは、言葉ではない。
嗚咽と悲鳴が混ざり合った、恐怖そのものの音だった。
犬人は震えながら身体を丸め、少しでも自分の存在を小さくしようとしていた。
耳は頭に張りつくほど伏せられ、全身の毛が逆立っている。
血の匂いが湿った夜気へ濃く広がった。
隊員たちは銃口を向けたまま、互いに視線を交わす。
撃つべき相手ではない。
だが、どう接触すべきなのかも分からない。
その時だった。
犬人の口から、かすかな音が漏れた。
「ぉ……ねがぃ、です……」
隊員たちの表情が固まった。
単なる鳴き声ではなかった。
震える喉から搾り出された音には、明確な意味があった。
「見逃し……て、くださぃ……」
誰も動かなかった。
誰もが、自分の耳を疑った。
発音は掠れ、恐怖に歪んでいたがーー
それでも、その言葉は間違いなく理解できた。
『日本語』
いや――日本語とほぼ同一の文法と発音体系を持つ、西部文明圏の共通言語。
隊員の一人が、呆然と呟いた。
「……統一語」
ドラゴニュート部族との交渉において、重要な情報源となっていた『アルザ』
彼女は以前、西部の国家や都市では、日本語に極めて類似した言語が広く使われていると証言していた。
発音も、語順も、単語の大部分も日本語と一致する。
その報告は本部にも上げられていたが、実際に西部出身者と接触した例はまだなく、完全な裏付けは取れていなかった。
隊員は犬人を見つめたまま、掠れた声を漏らした。
「…奴の話は…本当だったのか」
緊張の性質が変わった。
目の前の犬人は、東部の原始的な集落で暮らす個体ではない。
着ている服装に、先ほど発した言葉。
そして身体に残る傷…
そのすべてが、西部文明圏との深い関係を示しているように隊長には見えた。
ただし、西部国家の正式な構成員なのか、被支配民なのか、奴隷なのかは分からない。
だが…この怯え方を見れば、支配する側ではない可能性の方が高いだろう。
犬人は血に濡れた口を震わせ、さらに声を張り上げた。
「た、食べないでくださぁいっ……!」
泣き叫ぶ声が、静まり返った森へ響いた。
泥に汚れた顔を覆うことさえできず、耳を伏せ、涙と鼻水を垂らしながら必死に懇願している。
血まみれの指先が地面を掻き、泥の上に深い爪痕を刻んだ。
その姿は、捕食者を前にして死を覚悟した小動物そのものだった。
「食べる……?」
若い隊員が思わず呟く。
言葉の意味は理解できる。
だが、なぜ自分たちを見て、最初にそれを恐れるのかが理解できなかった。
犬人の社会では、あるいは西部の文明圏では、弱い種族が捕食されることが日常なのか。
それとも彼女は、直前まで誰かに食われかけていたのか。
沈黙が広がる中、隊長だけがゆっくりと銃口を下げた。
「隊長」
「警戒を続けろ」
短く命じる。
そして、無言のまま犬人の少女へ歩み寄った。
靴底が泥を押し潰すたび、少女の身体が大きく跳ねた。
「ひっ……!」
逃げようとしても、背中は木の幹に押しつけられている。
脚にも力が入らない。
少女は牙を剥きかけ、しかし噛みつくこともできず、目を固く閉じた。
殺される。
食われる。
そう覚悟しているのが、誰の目にも分かった。
隊長は少女の前で膝を折った。
同じ高さまで姿勢を下げる。
そして、怯えて跳ね回る視線に自分の顔が入る位置から、静かに手を伸ばした。
手袋に覆われた掌が、少女の肩へ触れる。
「ッ……?!」
全身が硬直した。
牙を剥きかけていた口が止まり、涙に濡れた瞳が大きく見開かれる。
「……安心しろ」
低く、しかし確かな声だった。
少女が言葉を理解できると分かった以上、身振りだけに頼る必要はない。
隊長の手は無理に押さえつけるのではなく、そこにいることを伝えるように、少女の肩へ添えられていた。
「我々は、お前を食べない。」
少女の瞳が揺れた。
意味を理解できないのではない。
信じられないのだ。
強い者が弱い者を食べないという事実そのものが、彼女の常識には存在していないかのようにーー。
「……深呼吸だ」
隊長はゆっくりと、自分の呼吸を見せる。
「吸って……吐け。急がなくていい」
少女の肩は震え続けている。
血と泥にまみれた胸が浅く上下し、肺の奥でひゅうひゅうと音を立てていた。
「ふっ……ふ、ぅゔぅ……」
喉から獣じみた掠れ声が漏れた。
空気を吸い込むたび、身体が痙攣するように震え、咳が挟まる。
それでも、隊長の掌は肩から離れなかった。
逃げ道を塞ぐ拘束ではない。
少なくとも今ここにいる者は、自分を傷つけようとしていない。
その事実を、触れた掌の温度によって伝えていた。
「…大丈夫だ」
隊長は繰り返す。
少女の長い耳が、わずかに動いた。
頭へ張りつくほど伏せられていた耳が、ほんの少しだけ持ち上がった。
怯え切った目が地面から隊員たちの銃口へ移り、最後に、正面にいる隊長の顔へ向けられた。
涙に濡れ、恐怖に濁った瞳が、初めて一人の人間を明確に捉える。
周囲には武装した隊員が立ち、今も森へ銃口を向けている。
少女にとっては、十分すぎるほど恐ろしい光景のはずだった。
だが、目の前の男は噛みつかない。
傷ついた指へ手を伸ばして奪おうともしない。
ただ肩へ手を置き、呼吸の仕方を繰り返し伝えている。
濁流のような恐怖の奥で、ほんのわずかに理性が灯った。
まるで初めて、自分の前にいる存在が捕食者ではない可能性を見つけたかのように。
「……そうだ」
隊長が静かに言う。
「ゆっくりでいい」
少女の呼吸は依然として乱れていた。
だが、喉から漏れる嗚咽は少しずつ小さくなっていく。
不規則ではあるが、先ほどまでの狂乱した呼吸とは明らかに違っていた。
隊員たちは周囲への警戒を続けながら、言葉を失っていた。
彼らが探していたのは小田隊員だった。
その行方を追う中で、偶然出会った血まみれの犬人の少女。
西部文明圏の言葉を話し、自分たちを見るなり食われることを恐れた存在。
彼女は、小田の拉致に関する重要な手掛かりかもしれない。
同時に、日本側がこれまで遠くから推測することしかできなかった、西部社会の実態を知る生きた証人でもあった。
だが今この瞬間、誰も彼女を情報源としては見ていなかった。
ただ薄暗い森の中で、死の恐怖に壊れかけた一人の少女が、初めて人間へ助けを求めようとしている。
その瞬間を、隊員たちは息を潜めて見守っていた。
⸻
――日本国・首都東京
STF本部 特別会議フロア
重厚な防爆扉が閉じられると同時に、室内の空気は凍りついた。
窓のない会議室を照らすのは、天井に埋め込まれた白い照明だけだった。長机の上には、分厚い資料と作戦地図、衛星画像を印刷した写真が整然と並べられている。
そのすべてに、『極秘』『関係者限り』『国防上最重要』の赤い文字が幾重にも捺されていた。
長机の正面に座るのは、STF副司令官・天野透。
その両脇には防衛省の官僚、統合幕僚監部の将官、陸海空自衛隊の幕僚たちが並ぶ。
正面側には在日米軍司令官マクレーンをはじめとする米軍関係者、駐日米国大使館の外交官、情報担当官らが腰掛けていた。
日本列島の異世界転移以降、日米両国は事実上、一つの防衛圏として存続している。
とはいえ、日本人隊員の失踪を巡って、これほどの顔触れが一堂に会するのは異例だった。
天野はゆっくりと息を吐き、会議卓を見渡した。
「……皆さん。本日は急な招集にもかかわらず、お集まりいただき感謝いたします」
声は平静を保っていた。
しかし、机の下で組まれた指には、わずかに力が入っている。
天野は一呼吸置き、目の前の資料へ手を添えた。
「すでにご承知のとおり、我がSTF調査分遣隊所属の小田隊員が、西部広域調査行動中に失踪しました」
室内の全員が沈黙したまま、天野を見つめる。
「現在、現地へ増援として派遣された捜索部隊が、最後に通信のあった地点を中心に調査を続けています。周辺の地形、残された痕跡、敵性存在の関与の有無については確認中です」
天野は資料を一枚めくった。
最後に確認された位置。
所属部隊と装備。
通信途絶までの行動記録。
そのすべてが、一人の人間の生死を無機質な情報へ変えて机上に並べていた。
「現時点で死亡を示す直接的な証拠は確認されていません。ただし、最後の通信から相当な時間が経過しています。負傷、拘束、あるいは西部方面への連行を想定すべき段階に入ったと判断しています」
報告が一区切りついた瞬間だった。
陸上自衛隊の幕僚の一人が、堪えきれないように拳を会議卓へ叩きつけた。
鈍い音が室内に響き、資料の端が小さく跳ねる。
「だから申し上げたではありませんか!」
その声には、抑えきれない怒気が滲んでいた。
「性急な調査地域の拡大は、必然的に一個部隊当たりの人員を減少させる!通信中継網も、救難体制も、後方拠点も整わないまま、西部方面へ少人数の偵察隊を送り込むなど、あまりにも無謀だった!」
幕僚は天野ではなく、その向こうに座る防衛省官僚たちへ視線を向けた。
「現場の安全を確保できない状態で調査範囲を広げた結果が、これです。これは不測の事態ではない。起こるべくして起きた人災だ!」
その言葉に、防衛省の官僚が椅子を軋ませながら立ち上がった。
机へ片手をつき、幕僚を鋭く睨み返す。
「その主張は何度も聞いたよ」
低く始まった声は、次第に熱を帯びていった。
「西部に複数の国家、都市、軍事勢力が存在する可能性が高い以上、調査は避けられなかった。軍事関係者である君たちが、その当然の理を理解していないはずがないだろう」
「だからといって、準備不足の部隊を送り込んでよい理由にはならない!」
「準備が整うまで、相手が待ってくれる保証がどこにある!」
官僚は机上に広げられた新大陸の地図を指で叩いた。
「我々は西部について、ほとんど何も知らないんだぞ!人口も、国家体制も、軍事力も、外交関係もだ。もし西部国家群が、すでにこちらの存在を把握し、東へ向けて調査を進めているとしたらどうする?」
さらに別の幕僚が身を乗り出した。
「だからこそ、まず拠点防衛を固めるべきだった!」
「防衛線を引くにも、敵の所在が分からなければ意味がないだろう!」
怒声と反論が飛び交った。
外務省関係者は顔を曇らせ、米国側の情報担当官は黙って手元の記録へ視線を落とす。
在日米軍司令官マクレーンは腕を組んだまま、不快げに眉をひそめていた。
会議室は、責任を巡る応酬によって急速に熱を帯びていく。
その緊張を断ち切るように、天野が椅子を強く引いて立ち上がった。
「おやめください!」
鋭い声が室内を貫いた。
机上のペンが転がり、誰かのコップの水面が細かく震える。
「今は責任を押しつけ合っている場合ではありません!」
天野は両手を会議卓につき、一人ひとりの顔を見渡した。
「調査計画に問題があったことは否定しません。現場から危険性を指摘する報告が上がっていたことも事実です。しかし、今ここで過去の判断を責め合ったところで、小田隊員が戻ってくるわけではない!」
誰も口を挟まなかった。
「我々が考えるべきなのは、小田隊員をどう救出するか。そして、同じ事態を二度と起こさないために、この危機へどう対処するかです」
天野の声が、徐々に低くなる。
「失踪が事故ではなく、異種族による拉致だった場合、事態は一隊員の遭難では済みません。日本国の構成員が、未知の政治勢力によって拘束されたことになります」
場が静まり返った。
先ほどまで声を荒らげていた幕僚も、顔を紅潮させていた官僚も、天野の言葉に押されるように口を閉ざした。
数秒の沈黙の後、陸幕の将官が低く唸るように口を開く。
「……そうだな。すまなかった」
男は拳を机から離し、椅子へ深く座り直した。
「だが、厄介なことになった。東部の部族との交流は、外交団を介してようやく継続できる段階に入ったばかりだ。…アルザを巡る一件も、完全には解決していないが…」
防衛省官僚の一人が、腕を組みながら苦々しく続ける。
「アルザが意図的に虚偽の情報を流している可能性も、完全には排除されていません。彼女が西部国家群と繋がっているのではないかという疑いも残っています」
「ええ、ですが」
天野が遮った。
「現在、問題とすべきはアルザ個人ではありません」
天野は机上の地図へ視線を落とした。
日本側が実測できた地域は、東部沿岸から山岳地帯にかけてのわずかな範囲に過ぎない。
その西側には、推測と証言だけで描かれた広大な空白地帯が広がっていた。
「仮に小田隊員が西部文明圏に属する勢力によって拉致されたのなら、我々はこれまでの楽観的な防衛戦略を維持できません」
「…楽観的、とは?」
防衛省の局長が問い返す。
「従来の戦略は、相手がこちらを発見していない、あるいは即座には敵対しないという仮定の上に成り立っています」
天野は顔を上げた。
「その前提が、崩れた可能性があります」
会議卓を囲む者たちの視線が、一斉に集まる。
「……その見直しとは、具体的に何を意味するのですか」
局長の問いに、天野はわずかに間を置いて答えた。
「まず、新大陸全域における警戒水準の引き上げです。特地防衛軍はすでに一部部隊を即応態勢へ移行させていますが、それだけでは不十分です」
「…増派するということですか?」
「必要です。少なくとも、東部拠点の防衛部隊と、西部方面の偵察・救難に投入できる機動部隊を分離しなければならない。現在のように同じ部隊へ複数の任務を背負わせれば、いずれ限界が来ます」
室内にざわめきが広がる。
陸幕幹部の一人が眉間に深い皺を刻み、すぐに反論した。
「しかし、それは現実的ではありません。」
手元の資料をめくり、数字の並んだ頁を示す。
「現在の派遣部隊を維持するだけでも、燃料、弾薬、食糧、医薬品の輸送計画は限界に達しています。現地の備蓄量は目標値を下回り、輸送船団には常に護衛が必要です。海上自衛隊の護衛艦隊も余裕があるわけではない」
空幕の参謀も手を挙げた。
「航空輸送にも限界があります。C-2とC-130Hを投入していますが、現地飛行場の拡張は未完了です。滑走路の処理能力も、燃料保管設備も足りない。現有戦力をそのまま増派すれば、補給体制の方が先に破綻します」
「輸送回数を増やすだけでは解決できないのか?」
官僚の問いに、空幕参謀は首を振った。
「航空機だけの問題ではありません。整備員、交換部品、管制要員、警備要員まで増やさなければならない。部隊を一つ増やせば、その部隊を生かすための後方要員も更に必要になります」
防衛省官僚が、机上の日本地図を指で叩く。
「兵站だけではないでしょう。新大陸へ主力を移せば、日本本土の防衛力が低下します」
指先が北海道をなぞった。
「特に北方です。小規模とはいえ、ハーピーをはじめとする異種族の侵入が繰り返されている。ここで本土の即応部隊まで抜けば、別の事態が発生した際に対処できない可能性があります」
反論が続いた。
どれも正論だった。
兵力を増やせば補給が追いつかない。
補給を増やせば護衛が足りない。
新大陸を守れば、本土が薄くなる。
日本が置かれている現実そのものが、会議室へ重くのしかかっていた。
しばらく黙っていた天野が、低い声で口を開いた。
「……それらを承知した上で、私は防衛省と自衛隊、そして米軍の方々に一つ提案があります」
室内の視線が再び天野へ集まる。
「通常部隊を大規模に増派するのではなく、少数の専門部隊を用いた攻勢的な情報収集へ移行すべきです。」
「攻勢的な情報収集?」
「はい」
天野は資料の一部を開いた。
そこには、西部方面へ延びる複数の経路と、推定される都市圏、河川、山岳地帯が記されていた。
「これまでのSTFは、交渉や研究を最優先とする、守勢的な観察活動を続けてきました。しかし、その方法では現地社会の内部へ入り込めない。」
天野の指が、地図上の空白をなぞる。
「西部国家群の政治構造、軍備、支配種族、交易路、国民の扱い、そして我々に対する認識…これらは、外から眺めているだけでは分かりません」
陸幕の一人が、天野の意図を察したように目を細めた。
「……潜入任務、ということですか?」
天野は否定しなかった。
「必要であれば」
その答えに、会議室の空気がわずかに張り詰める。
「私は、陸上自衛隊の特殊作戦群を中核とした、少人数の特別偵察チームを編成すべきだと考えています」
幕僚たちの表情が変わった。
特殊作戦群。
その名が公の場で語られることは少ない。
まして、未知の文明圏へ秘匿潜入させるという構想は、従来の自衛隊運用から大きく踏み出すものだった。
天野は続ける。
「通常のSTF隊員だけでは、長期間の潜伏、敵支配地域での情報収集、追跡回避、要人救出といった任務には限界があります。しかし、特殊作戦群であれば、小規模部隊による潜入、監視、捕虜救出、現地勢力との接触を前提とした訓練を受けており、この任務に最適です。」
「待ってください」
防衛省の局長が声を上げた。
「特殊作戦群を国外――いや、この場合は異世界の未知国家へ潜入させるというのですか?」
「その相手国がどこに存在し、誰が統治しているのかすら分からないのです」
天野の声は静かだった。
「だからこそ、まず調べなければならない」
「それは事実上の非合法活動では…」
「公的には、非公然の域外情報活動です」
天野は言葉を選んだ。
「…ですが、有り体に言えばそのとおりでしょう」
室内の空気がさらに重くなる。
天野は在日米軍側へ視線を向けた。
「そして、可能であれば米陸軍特殊部隊――グリーンベレーにも協力を求めたい」
今度は米側の者たちの間にも、明確な動揺が走った。
マクレーン司令官は表情を変えなかったが、その隣に座る米軍参謀が僅かに姿勢を正した。
陸幕の将官が低く問い返す。
「…グリーンベレーを、ですか」
「ええ」
天野は地図から目を離さずに答えた。
「現地の住民と接触し、協力者を育成し、人的情報網を構築する。必要であれば、被支配勢力や抵抗組織へ訓練を施し、より大きな勢力に対抗できる基盤を作る…」
天野の指が、西部文明圏と推定される地域へ止まる。
「我々が必要としているのは、数百人の部隊を送り込み、正面から戦う能力ではありません。十人、二十人で内部へ入り、言語を学び、現地住民へ溶け込み、誰が味方になり得るのかを見極める能力です」
特殊作戦群が、潜入と救出を担い。
グリーンベレーが、現地協力者との関係構築や組織化を支援する。
そしてSTFが、異種族や文化に関する知識を提供する。
天野の構想は、従来の調査活動とは全く異なるものだった。
それは単なる偵察ではない。
西部社会の内側へ、日本側の目と耳を作り出す計画だった。
「亡命者、国民、被支配種族、商人、傭兵。西部国家にも、支配体制へ不満を持つ者が必ず存在するはずです」
天野は淡々と続ける。
「そうした者たちを保護し、協力者として取り込む。そして交易路や都市内部へ人脈を築く。小田隊員がどこへ連行されたのかを探るためにも、我々には人的情報網が必要です」
防衛省局長は、険しい顔で天野を見つめていた。
「……それは…随分と攻撃的ではないか?」
「これが最善です。」
天野は否定しなかった。
その率直さが、かえって室内を沈黙させた。
陸幕の一人が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「我が国の安全保障政策は、防御と抑制を基本としてきました。先に他国領域へ越境し、身分を秘匿した要員を送り込み、現地住民を協力者として組織する。そのような行為を正当化するのは、憲法上も政治的にも極めて困難でしょう…」
男は一度言葉を切った。
「仮に露見すれば、現政権は持たない。国会で説明できる内容でもないでしょうしね…」
手元のコップへ伸ばした指が、僅かに震えていた。
水面に小さな波紋が広がる。
しかし天野の声音は揺らがなかった。
「拉致が事実であれば、先に境界を踏み越えたのは相手です」
机上に広げられた地図を指先でなぞる。
「我々は西部国家群がどのような価値観で動き、どの程度の軍備を持ち、どの種族を支配しているのか、何一つ掴んでいない」
天野は顔を上げた。
「従来の守勢的な観察では、常に後手に回る。小田隊員の件が、その危険性を示しています。」
「しかし、特殊作戦群を使えば衝突の危険はさらに高まるぞ」
「危険だからこそ、専門部隊が必要なのです」
天野は即座に返した。
「通常の調査隊員を少人数に分け、十分な支援もなく未知の領域へ送り出すより、潜入と生存に特化した隊員を投入する方が、遥かに合理的です」
誰もすぐには反論できなかった。
天野はさらに続ける。
「過激な威力偵察を求めているのではありません。都市を攻撃するわけでも、政権転覆を企図するわけでもない」
ただし、と言葉を区切る。
「小田隊員の所在が判明し、救出可能と判断された場合には、特殊作戦群を中心とする救出作戦を実施できる態勢を整えておくべきです」
「現地で抵抗を受ければ?」
「無論、必要最小限の武力を行使します」
会議室に沈黙が落ちた。
誰もが地図に描かれた赤い境界線を見つめていた。
その先は未知だった。
危険であり、恐怖そのものでありながら、日本が生き残るために把握しなければならない領域でもあった。
⸻
長机の一角で腕を組んでいたマクレーン司令官が、ゆっくりと身体を起こした。
組んでいた腕を解き、僅かに前へ身を乗り出す。
その動作だけで、周囲の視線が集まった。
「……私は、天野副司令の提案に一定の理解を示します」
低い声だった。
しかし、室内の隅々まで届く明瞭な発音だった。
防衛省の面々が僅かにざわめく。
マクレーンは構わず続けた。
「我々の経験から言えば、偵察とは遠くから敵を見るだけの行為ではありません。情報を握った側が状況を支配し、情報を失った側が、相手の用意した戦場で戦わされる」
彼は机上の地図へ視線を落とした。
「冷戦期も、中東も、その他の地域でも同じです。敵の兵力だけではない。誰が権力を持ち、誰が不満を抱き、誰が協力者になり得るのか。それを知ることが、戦闘を避けるためにも必要になる」
マクレーンは一拍置き、日本側の出席者たちを見渡した。
「皆さんは、非公然活動という言葉に強い拒否感を抱いているようだ…理解はできます。しかし、相手の社会構造を何も知らずに外交を始めることは、目隠しをしたまま交渉の席へ座るようなものです」
防衛省の一人が口を開こうとしたが、マクレーンは先に続けた。
「亡命者の受け入れ、人的情報網の構築、秘密裏の接触。これらは必ずしも戦争を始めるための行動ではありません」
声が僅かに低くなる。
「むしろ、何が相手にとって越えてはならない一線なのかを知り、不要な戦争を避けるために必要な行動です」
陸幕の将官が問いかけた。
「…米軍は、グリーンベレーを派遣する用意があると?」
マクレーンはすぐには答えなかった。
机の上で両手を組み、慎重に言葉を選ぶ。
「我々が、正体不明の国家領域へ直ちに部隊を潜入させると、ここで約束することはできません」
日本側の表情が僅かに硬くなる。
「しかし、日本が自ら特殊作戦群を投入し、非公然の情報活動へ移行するというのであれば、我々は支援を検討できます」
「具体的には?」
「情報分析、航空偵察、潜入計画、緊急回収態勢の支援…そして必要であれば、米陸軍特殊部隊の要員を顧問、あるいは共同チームの構成員として参加させることでしょうか。」
会議室が再びざわめいた。
マクレーンは天野へ視線を向ける。
「グリーンベレーは、現地の協力者を見つけ、関係を築き、組織化する任務に長けている。西部に抑圧されている種族や、支配体制へ反感を持つ集団が存在するならば、接触する価値はあるでしょう」
「…現地勢力を武装させるつもりですか」
外交官の一人が鋭く問う。
マクレーンは首を横に振った。
「現段階では、そこまで踏み込む必要はない。まずは情報収集、連絡網の確保です」
そこで言葉を切り、僅かに目を細める。
「ただし、彼らが我々の敵と戦っている場合、状況は変わるかもしれません」
その言葉の裏にある意味を理解し、何人かの出席者が押し黙った。
現地の被支配種族を協力者として取り込み、必要であれば武装抵抗を支援する。
それは、日本がこれまで想定してきた異世界政策を大きく逸脱するものだった。
だが同時に、強大な西部国家群へ正面から対抗するより、遥かに少ない兵力で影響力を確保できる方法でもある。
マクレーンはさらに続けた。
「もちろん、我々にも利害があります」
その率直な言葉に、防衛省官僚たちの視線が鋭くなる。
「米軍としては、日本国内における発言力と、補給上の優先順位を維持する必要がある。日本の戦略姿勢が守勢一辺倒から変化し、日米共同の作戦領域が拡大することは、我々にとっても利益になります」
利害は露骨だった。
善意だけで協力するつもりではない。
米軍にとっても、日本がただ防壁の内側へ閉じこもり続けることは不利益なのだ。
「…率直に言いましょう」
マクレーンの声が低くなる。
「相手がこちらを調べているのに、我々だけが相手を調べないという選択は、慎重なのではない。単なる怠慢です」
その一言が、会議室へ重く落ちた。
幕僚たちは眉をひそめ、防衛省の官僚は沈黙し、外交関係者は難しい表情で資料へ目を落とす。
だが、天野だけはマクレーンを真っ直ぐに見つめていた。
米軍の本音は理解している。
同盟という名のもとに協力しながら、米国は米国の利益を追求する。
だが、それでも今の日本には、彼らの技術と経験が必要だった。
天野は小さく頷いた。
「少なくとも、検討に値するということでよろしいですか」
「ええ」
マクレーンも頷く。
「特殊作戦群とグリーンベレーによる合同チーム。実現するならば、従来とは異なる指揮系統と、政治的な否認可能性が必要になります」
「……政治的な否認可能性」
防衛省局長が苦々しく繰り返した。
その瞬間。
会議室の静寂を切り裂くように、鋭い着信音が響いた。
全員の視線が音の発生源へ向けられる。
天野の机上に置かれた秘匿通信端末が、小刻みに震えていた。
それは通常の連絡に使われる回線ではない。
緊急時にのみ、前哨基地司令部から直接接続される専用回線だった。
天野は瞬時に端末へ手を伸ばし、画面を確認した。
表示されていた名前を見た瞬間、その目に緊張の影が宿る。
「……失礼します。現地司令部からの緊急連絡です」
低く言い置き、椅子を押しやって立ち上がった。
会議室を出るまで、誰も言葉を発さなかった。
ただ無数の視線だけが、天野の背へ突き刺さる。
廊下は静まり返っていた。
壁際に等間隔で並ぶ蛍光灯が、磨かれた床へ青白い光を落としている。
外の光はすでに薄れ、廊下の端にある小さな窓も、黒に近い紺色へ染まっていた。
天野は周囲に人がいないことを確認し、通話を受けた。
「天野です」
耳へ届いたのは、普段とは明らかに異なる本田司令の声だった。
『天野。今、防衛省と米軍の連中も一緒か』
「……はい。会議の最中です」
返事をした瞬間、胸の奥に鈍い予感が広がった。
通話の向こうにいる本田は、どれほど緊迫した状況でも声を荒らげることの少ない男だった。
だが今、その声音には、隠し切れない切迫感が滲んでいる。
『単刀直入に言うぞ』
僅かな雑音が走る。
『小田隊員の捜索部隊が、現地で異種族と接触した』
天野の呼吸が止まった。
「……異種族?」
『犬人の若い女性だ。負傷しているようだが…』
「東部の部族ですか」
『違う可能性が高い』
本田の声がさらに低くなる。
『服装が東部で確認された犬人とは明らかに異なるとのことだ。着ている服の素材から、別の文化的影響を受けていると考えられる。』
天野は無意識に廊下の壁へ手をついた。
「……言語は」
数秒の沈黙。
その後、本田がはっきりと答えた。
『…統一語を話した』
天野の瞳が僅かに見開かれる。
ドラゴニュート部族のアルザが証言していた、西部文明圏の共通言語。
日本語とほぼ同一の文法、発音、語彙を持つ言語。
これまで実物の西部出身者から確認された例はなかった。
「アルザの話は……事実だったのですか」
『少なくとも、言語についてはな…』
本田は続ける。
『少女は捜索隊を見るなり、食べないでくれと懇願したようだ。』
「……食べないで?」
『ああ』
本田の声には、怒りとも困惑ともつかない響きが混じっていた。
『何から逃げてきたのかは、まだ聞き出せていない。精神状態が極端に不安定で、現在は衛生要員が応急処置を行っている状況だ』
天野の脳裏に、会議室で語られた言葉が蘇る。
亡命者。
被支配種族。
現地協力者。
西部社会の内部から情報を得るための人的情報源。
そのすべてが、もはや机上の構想ではなく、現実として現れ始めていた。
「…小田隊員との関連は?」
『不明だ。だが発見地点は、小田の痕跡と馬車の轍が確認された場所から遠くない』
「馬車……?」
『捜索隊は、小田が組織的な輸送集団へ連れ去られた可能性が高いと判断している』
天野の喉が乾いた。
「…西部国家が関与していると?」
『断定はできん。商隊、奴隷商、傭兵、地方勢力の可能性もある。しかし、少なくとも小規模な部族による衝動的な拉致ではない』
廊下の空気が、急に冷え込んだように感じられた。
本田の声が再び響く。
『今すぐ会議の連中へ伝えておけ』
「…何をです」
僅かな間。
『西部文明圏の者たちは、我々が想像していたよりも、遥かに近くまで来ている、と』
その言葉が、鉛の塊のように天野の胸へ落ちた。
日本側は、西部を遠い未知の領域だと考えていた。
山岳と森林の向こう。
だが、その認識は誤っていたのかもしれない。
彼らはすでに、東部へ活動範囲を広げている。
あるいは、交易、奴隷狩り、偵察のため、以前からこの地域へ出入りしていた可能性さえある。
天野は唇を強く噛みしめた。
「……了解しました」
声は重く、低かった。
恐怖と焦燥。
そして、今しがた会議室で提示した提案が、もはや選択肢ではなくなりつつあるという確信。
これまでの日本が避け続けてきた手段へ踏み込まなければ、小田を取り戻すことも、迫りつつある西部勢力へ備えることもできない。
天野は通話を終え、数秒間、その場に立ち尽くす。
閉ざされた防爆扉の向こうでは、今も日本と米国の幹部たちが結論を待っている。
彼は端末を強く握りしめると、ゆっくりと顔を上げた。
そして、先ほどまでとは異なる決意を目に宿しながら、会議室の扉へ手を掛けた。