女騎士が扉を開けて廊下に出ると同時に、控えていたシズが駆け込むように部屋の中へ入ってきた。
「小田様ッ……!」
焦りと心配が入り混じった声で名を呼ぶシズ。その瞳は震え、頬は赤く染まっていた。彼女は急いで小田の傍に寄ると、乱れた衣服を整えるように手を伸ばした。
「申し訳ありません……私がもっと早く止めることができていれば……こんなことには……」
シズの声は震えていた。しかし、その手つきは妙に熱っぽく、指先が小田の肌に触れるたびにわずかに震え、鼻息も荒くなっている。
小田はまだ呼吸が整わないまま、うつむいているシズを見つめた。
「……もう、いい。それより……」
小田が口を開きかけると、シズがはっと顔を上げ、潤んだ瞳でじっと彼を見つめ返してくる。
「……どうしたんだ?」
不思議に思った小田が問いかけると、シズは唇を震わせ、小さく首を振った。
「……いいえ、その……小田様の匂いが……とても強くて……」
シズの声は消え入りそうだったが、顔はますます赤みを帯び、明らかに何かを必死に抑えようとしていた。耳も尻尾もピンと立ち、その身体は熱っぽく小刻みに揺れている。
「とにかく、早く食堂へ……ここにいると……私も、我慢が効かなくなりそうで……」
彼女は深呼吸をし、努めて冷静を装った表情で立ち上がった。
「ご案内します……小田様」
言葉とは裏腹に、シズの息遣いはまだ乱れており、彼女自身もまた、その熱を隠しきれていないようだった。
⸻
食堂の扉をくぐった瞬間、鼻腔を刺すような濃密な肉の香りと、火のはぜる音、そして豪快な笑い声が響いた。
「おう、おせぇぞ。さっさと来い――」
長い食卓の先、すでに席に着いていたカザラが、骨付き肉を片手に構え、歯をむき出しにしながら笑っていた。火照った頬には朱が差し、どこか獣のようにぎらついている。
「……って、くっく……まさかお前……」
小田の姿を見た瞬間、カザラは小さく笑った。鼻をひくつかせるように空気を吸い込み、その視線をじり、と小田に向けてくる。まるで肉を目の前にした猛獣のような目だった。
「……おいおい、今は食事中だぜ? 発情してんなら後で相手してやるよ♡」
その声音には、からかいと欲情がないまぜになったような、粘り気のある熱がこもっていた。シズが小田の背後でわずかに息を呑み、肩を強張らせる。
「……違う。お前のとこの騎士になーー」
小田が低く呟いたその言葉に、カザラの動きが一瞬止まる。鋭く、どこか愉快そうに目を細めて、再び鼻を鳴らした。
「……あ〜、味見されたのか。お前」
言いながら、肉をぐっと口元に運び、骨ごと噛み砕かんばかりの勢いでかじり取る。脂が唇の端に垂れ、それを舌で舐め取る仕草さえも、どこか淫靡だった。
小田は視線を逸らし、何も言えずに立ち尽くした。全身に残る騎士の体温、肌にまとわりつく唾液と匂い――その余韻が、まるで証拠のようにまとわりついている。
カザラはその様子を満足げに見つめ、やがて口角をさらに上げて頷いた。
「……まあ、座れや。あたしも腹が減ってんだ。……っと、その前に」
立ち上がると、椅子の横に置かれていた何かを拾い上げ、軽く放ってよこす。
「これ、着ろ」
小田の手元に落ちたそれは、見覚えのある素材――黒く光沢のある、ぴったりと身体に密着するフェロモン抑制スーツだった。
「これ着た方が会話できるからな。今のままだと……あたしも、今にでもお前に飛びかかりそうでやべえんだよ」
冗談めかして笑うカザラの声音には、いつもよりわずかに、だが確実に焦りの色が混じっていた。その瞳は、冗談だけでなく、確かな本能の危うさを滲ませている。
シズが小田の背後で、心配そうにカザラと彼を交互に見やる。小田は一つ息を吐いて、そのスーツを見つめた。まるでこれが、彼をこの世界に繋ぎ止める鎖のようにさえ思えた。
――これを着なければ、食事すらままならない。
そんな現実に、彼は今、改めて向き合わされていた。
⸻
フェロモン抑制スーツを着用し、やや居心地悪そうに席に着いた小田を、カザラは腕を組んで見下ろすように見つめていた。骨付き肉を骨だけにし、机に投げ捨てると、からかうような笑みを浮かべた。
「さて――スケベ雄……もとい、小田よ」
わざとらしく溜めを作った声に、シズが小さく咳払いして目をそらす。
「単刀直入に聞く。お前、いったい何なんだ?」
「……何とは?」
小田が眉をひそめて返すと、カザラはバカにしたような声で返す。
「惚けんなよ。エロ雄が」
低く唸るような声。視線は真っ直ぐ、小田の奥底を覗き込むように鋭い。
「お前の匂い、もう普通ってレベルじゃねぇ。護衛騎士があそこまで理性飛ばすなんざ、そうそうあるもんじゃねぇんだぞ」
「……俺のせいじゃない。あの変態トカゲが勝手に――」
「ほぉ?」
カザラの目が細くなる。
「その変態トカゲに、腰抜けるほどよがってたのは誰だったっけな?」
小田の表情が一瞬で引き締まり、ぐっと唇を噛む。
「ッ……!」
「耳まで赤くしやがって。……いやあ、見てねぇのが惜しいくらいだったなあ」
カザラの言葉は舐めるようにねっとりと、わざと挑発を含んでいた。横で聞いていたシズは顔を真っ赤にし、うつむいて耳を伏せている。
「てめえ……」
小田が低く睨み返すと、カザラはふっと息を吐き、からかいを切るようにトーンを落とした。
「……まあ、冗談はここまでにしといてやる」
そう言いながら、カザラは椅子の背にもたれ直し、鋭い目で小田をじっと見据えた。
「なあ、小田。俺が2発抜いて、あの護衛騎士が1発――合わせて3回だろ?」
小田は言葉を返さない。ただ、目を伏せて無言を貫いた。
「……だよな」
カザラは、ゆっくりと肘をつき、指先で机をコツコツと叩く。
「おかしいんだよ。あのとき、私が冷静になってシズに迎えを寄越した。普通の雄なら、あの時点で疲労して動けないはずだ。ましてや3発も出したら意識なんざ保てねぇ。動けるわけがない」
重く、静かに、しかしじわじわと確信を込めるような口調だった。
「それなのにお前は……こうして座ってる。目も覚めてる、言葉も交わせる、息も乱れてねぇ。」
「……だったら何だ」
小田の声には、わずかに刺が混じった。だがカザラは怯まない。
カザラはじっと小田を見つめたまま、声の調子を落とした。
「……なあ、小田」
机の上に置かれた骨付き肉の骨を指先で弄びながら、ぼそりと呟く。
「お前はどうも――この大陸の雄とは、違いすぎる」
その一言に、食堂の空気がひやりと引き締まる。
「匂いも、反応も、精の量も、体力も……まるで別物だ。なあ――お前、どこの出身だ?」
視線が鋭くなる。探るような目だ。だが、その奥にあるのは好奇心ではない。もはや疑念に近かった。
「……本当のところ――何者なんだ?」
カザラの声は低く、鋭く響いた。からかいの色は消え、まるで獲物の本質を見極めようとする狩人の眼差し。その一言で、食堂に張り詰めたような沈黙が広がる。
隣に立つシズが、ぴくりと肩を震わせた。小さく目を伏せ、口を引き結んだまま、指先がわずかに震えている。
小田は答えず、ただ黙っていた。
ゆっくりと背もたれに寄りかかり、重力に身を任せるように深く座り直す。目はどこか遠くを見つめ、無言のまま天井を仰いだ。そこに答えがあるわけでもない。ただ、視線を定める場所が必要だった。
喉の奥で乾いた息を飲み込む。口を開こうとしても、舌が重く、言葉は出てこない。
(……俺は)
胸の奥に、ずしりと重く沈んだ思考が広がっていく。
(俺は、ただの隊員だ。ただの自衛官――戦うことはできても、話し合いを進める役割じゃない)
そうだ。異世界転移における初動指針や交戦規定、友好勢力との接触マニュアルは教え込まれている。だが、それでも“国家の意思”を語る権利など、自分にはない。
(外交の舵を切るのは本部だ。俺が下手に日本の情報を出せば……)
それは、「日本」を危険に晒す行為になるかもしれない。
――いや、それだけじゃない。
(それに……俺は、今――)
無意識に、机の下で拳を握っていた。
(……この世界で、「対等な立場」に立っていない)
思い出すだけで胃の奥がざらつく。女騎士の舌と唇。快楽と屈辱。意思を無視され、道具のように弄ばれる自分。
目の前の女、カザラも同じだ。何度もこちらを“欲望”のままに陵辱した。
(こんな立場で、「日本」の情報は言えない。)
ふと、視線を落とす。
目が合うことはなかったが、シズはじっとこちらを見ていた。言葉には出さないが、その視線の奥に、不安と懇願が入り混じっていた。
彼女の小さな手が、わずかに震えている。
その姿を見て、思考が現実へと戻る。
(……それに日本は、今――)
頭の中で、地図が浮かび上がる。だが、その地図のほとんどが空白だ。
(偵察もままならない。資源も足りない。補給線は細く、他国との境界線すら曖昧なまま)
(この大陸の情勢すら掴みきれていないこの状況で、俺が何かを話せば……)
きっと、相手は察する。
日本という国家が、いかに孤立し、不安定な状況にあるかを。戦力が分散され、探索も制限されている――そんな「脆さ」に。
(気づかれたら最後だ。俺たちは…いや日本は…)
(“狙われる”)
(……日本に忠誠を誓った身なら、できることは一つ。)
冷たい汗が背中を伝った。
数秒にも満たない思考の奔流のあと、小田は静かに目を伏せた。そして、深く息を吐き、重く口を開いた。
「……悪いが、それは言えない」
たった一言。しかし、それは全ての理由を含んだ、限界の告白だった。
その言葉を聞いたカザラは、一拍の静止ののち、目を細めた。
鋭い、だが愉しげな、冷ややかな光がその目に宿る。
「……ふぅん」
椅子の背にもたれたまま、ゆっくりと足を組む。唇の端が、まるで何かを見抜いたかのように吊り上がる。
「“言えない”……ね」
低く、くくっと喉を鳴らして笑う。
「言いたくないんじゃない。“言っちまったら終わる”って顔だ」
小田は黙っている。
カザラはしばらく、小田の無言を楽しむように見つめていた。焚き火のようにじわじわと熱を孕んだ視線。彼女の口元に浮かぶ笑みは、好奇でも、欲情でもない――まるで、獣が目の前の肉の味をゆっくりと確かめているような、静かな確信の色だった。
「まあ、いいさ。今はまだ言わなくてもな」
言いながら、彼女は卓に肘をついて身を乗り出す。カザラの赤い瞳が、まっすぐ小田の奥底を射抜く。
「だが、さっきも言った通り――お前がこの世界の“異物”だってことは、もう疑いようがねぇ。精力、匂い、体力……そしてその服と、装備」
目線がちらりと、今の小田が着ているフェロモン抑制スーツに流れる。
「……その服の素材、見りゃわかる。熱にも強く、刃も通しづらい。そして匂いを遮断する繊維構造。こんなもの、この西方地域じゃ――いや、この大陸全土でも作れた例はねぇ」
カザラは、つまらなそうに笑った。
「中央地域の東の国境付近、あそこらで妙な物が飛んでるって噂は前から耳にしてた。実際、お前もあの辺りで見つかったしな……だが」
彼女の声が少しだけ鋭くなる。
「お前みたいな種族、あの辺じゃ見たことも聞いたこともねぇ。何よりケンタウロスの奴らが放っておくわけがねぇだろ。見つけりゃ速攻で囲って、種付け奴隷だ」
「……なのに、お前は野放しだった」
カザラは手元の空になった皿を、軽く指で叩いた。乾いた音が、静かな食堂に響く。
「つまり――「お前たち」は、つい最近現れたってことだ。別の大陸からやってきたのか、海から現れたか、はたまた空から降ってきたか知らねぇが」
「いきなり、この世界に突っ込んできた。“大陸の地図にもねぇ、新しい勢力”だ」
その言葉に、小田がわずかに息を飲んだ。しかし、小田は答えず。否定もせず。ただ、強く唇を結んだままだった。
「……ふん」
カザラはわざとらしくため息をつき、背もたれに深く寄りかかる。
「まあ、わかってるよ。言えねぇのは。お前が“何者か”を明かせば――そいつはきっと、戦争の口火になるってことだろ」
ゆっくりと、指を組む。
「だから言わない。黙ってる。守るもんがある、ってことだ」
皮肉ではなく、理解を含んだ声音だった。
「いいね。あたしはそういうの、嫌いじゃない」
そして、わずかに表情が緩む。
「だがな、小田。……このままじゃ済まねぇぞ?」
「お前の“正体”が、どんなに黙ってても、世界の方から嗅ぎつけに来る。お前を欲しがる奴らは山ほどいる。無論その背後にあるモノもな。お前一人で守れるもんじゃねぇぞ」
その言葉に、小田の目がほんのわずか揺れた。
カザラは小田の沈黙を前に、しばらく興味深そうに視線を滑らせた後、ふっと鼻で笑った。
カザラは椅子の背に深くもたれかかりながらも、どこか落ち着かない様子で指を組み直した。肉を食らっていた時の豪胆さとは違う、微妙に揺れる呼吸が胸元でわずかに上下する。
「……まあいい。今はこれ以上、詮索しねぇよ」
その言葉は一見、緩和のサインに聞こえるかもしれない。だが、カザラの声には確かに「間」があった。ただ問いを引いたのではない。追及の刃を鞘に収め、次の好機を待つ「商人」の呼吸だった。
「――安心しな。すぐに貴族院に報告するようなマネはしねぇ。あんな連中にお前のこと、今の段階で教えるわけにはいかねぇからな」
それは、思いがけず本気の響きを持っていた。皮肉も煽りもない。ただ静かに、抑えた確信を含んでいる。
「お前は……ちと、価値が高すぎるしな」
その言葉に、小田の表情がわずかに動く。だが、反応はない。ただ黙って、視線を逸らさずカザラを見ている。
「本当に珍しい種族ってだけじゃねぇ。見た目も、匂いも、精の量も……この世界の「雄」の枠じゃ測れねぇ代物だ。下手に報告すりゃ、あっという間に王族と上級貴族が嗅ぎつけて掻っ攫われちまうしな。」
彼女は、わざと視線を横に滑らせると、遠くの空間を見るように呟いた。
「……そうなったら、良くて王族か貴族のペット。悪けりゃ、「聖域」送りだろうな」
その言葉に、小田が疑問の声で返す。
「聖域……?」
小田が低く呟くように問うと、カザラは片眉を上げ、くつくつと喉で笑った。
「ああ、知らねえか。「聖域」ってのはな、ドラゴニュートの雄が住まわされてる場所だ。外から隔離された、特殊な領域。あそこに入れられた雄は、基本的に外に出ることはない」
「……」
「でも、安全っちゃ安全さ。衣食住は揃ってるし、丁重には扱われる。上級貴族や王族、それに大手の商人どもが、滞在期間中に「快楽の限り」を味わう場所だ。文字通りな」
小田の喉がかすかに動いた。その意味するところを、想像するまでもなく理解してしまったからだ。
「お前みてぇな雄がそこに入れられたら、毎日が地獄みてぇな快楽と消耗の繰り返しさ。意識を失っても、起こされて、また搾られる。嫌でも「求められ続ける」生活になる」
だがカザラは、そこで声の調子を変える。わざと明るく、冗談めかして笑った。
「――まあでも、お前自身がスケベなら、それも案外向いてるんじゃねえか?ほら、今までの反応見てるとさ」
小田は無言のまま、表情を固める。拳が机の下でわずかに震えているのを、シズは気づいていた。彼の怒りか、恐怖か、それとも悔しさか。そのすべてが、混ざり合ったような沈黙。
「でもな、小田」
カザラの声が、ふっと静かになる。
「俺は、そんなふうにお前を手放す気はねぇ。もし平和的に「取引」できるなら、それに越したことはない。国家があるかどうかは知らねぇが、お前の背後には何かがある。それと対話できる可能性があるなら――俺は、そっちの方ががいい。」
小田は驚いたようにカザラを見る。
カザラの口元がふいに緩んだ。さっきまでの真剣な空気を、意図的に崩すように。
「それに……お前の味見、まだ全部済んでねえしな♡」
カザラは、にたりと笑って見せた。唇の端には、最初に戻ったような艶やかさが戻っている。
「だから今は……俺のところで飼っといてやるよ、小田」
それは一方的な支配ではない。だが決して自由でもない。
――緊張と欲望の狭間にある、この世界での「仮初の安息」
小田は静かに息を吐いた。すべてを押し殺すように。
⸻
食事が終わると、カザラは骨を皿に放り投げ、椅子にどっかと腰を預けた。満足げに腹を叩きながら、ちらと小田に目を向ける。
「……しかし、まあ」
口の端を吊り上げて、ふと艶っぽく笑う。
「今日は三発も搾られて、クタクタだろ? 無理して気張んな。今はゆっくり休んどけ」
小田は返事をしなかった。ただ、視線を下げたまま黙っている。カザラはそれを見て、どこか満足げに鼻を鳴らすと、シズへと視線を向けた。
「シズ。商品たちの寝床に案内してやんな。あそこの一角、空いてただろ」
シズは一瞬、小田を見て逡巡したが、すぐに真面目な顔に戻って小さく頷く。
「……かしこまりました。小田様、こちらへ」
立ち上がったシズの声は落ち着いていたが、その手はどこかぎこちなく、小田の腕に軽く触れたとき、彼女の指先がわずかに震えていた。
小田は立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。その背後から、カザラの声音が追いかけてくる。
「ゆっくり休めよ、小田。……明日も、退屈はさせねぇからな?」
艶と意味深さを含んだ言葉。だが振り返ることなく、小田はただ、シズの後について食堂を後にした。
通路の灯りは暗く、壁にかかる松明の明かりが、彼の影を長く引いていた。