グロースハルデン。
それは地図上で言えば、ドラケンフェルド王国とケンタウロスの帝国のちょうど国境線上に位置する。
表向きは多国間の交易を担う中立的な都市。
西方からは獣人たちが奴隷や皮革を持ち寄り、北からは緑のオーク達の商団が捕獲された鼠人の群れを連れ歩き、南からは鉱石、東からは薬草と奇妙な香料が届く。
交易路が交わる交点。あらゆる物資と人種、文化と慣習が混濁し、入り混じる場所。
しかし、その中心をほんの一歩外れれば、もう一つのグロースハルデンが素顔を覗かせる。
――闇市。
そこは『規律』ではなく、『欲望』によって統治される。
奴隷商、情報屋、密輸業者、獣人の闘技賭博師、そしてドラゴニュートの貴族までもが暗がりに溶け、耳打ちを交わす。
真夜中にしか開かない市場。照明はなく、火灯と香の煙だけが漂う。
獣の鳴き声。
短く切られた悲鳴。
吊るされた肉塊。
首枷をされた“雄”たちの呻き。
それらが交互に、都市の“匂い”を構成していた。
一応、表向きにはドラケンフェルド王国は劣等種族の食用を禁じている。
だが、それは都市の外郭に過ぎない。
この地では、『国外で処理された肉』という名目で、堂々と犬人や鼠人の加工品が売られている。
干された腿肉。血抜きされた心臓。
それらにはすべて商品名がついていた。「ケンタウロス産 赤筋」「南獣の生ハツ」――
だが、誰の目にも明らかだった。
それが、人語を話していた者の肉であることは。
同時に、最も高値がつけられるのは、『肉』ではなく、『性』だった。
雄――特に若く、健康で、性的魅力を持ち、なおかつ『従順に調教された』雄たち。
彼らは高級娼夫として、専用の取引枠で売買されていた。
仮設の見世物小屋ではなく、しっかりとした屋根のある展示棟。
床には絹の布。首輪は装飾され、表情は鎮められている。
ある雄は鎖で膝立ちに縛られ、
ある雄は台に寝かされて『実演』用に下着を剥がされ、ある雄は拘束されたまま、香水と淫香を吹きつけられて意識を曇らせていた。
そしてそれらを眺めるのは、上位種族の雌たち。
ドラゴニュート、虎人、蟻人、オーク…
彼女たちは、品定めするように雄の身体を眺め、時には――実際に舐めたり咥えたりして確かめることさえあった。
カザラはその日、奴隷には立ち寄らなかった。
欲望の吐息と熱風の中を、真っ直ぐと抜け、鍛冶場へと向かっていた。
だが、その衣の裾から微かに漂う『雄の精の匂い』が、すでに数人の商人たちをざわつかせていた。
グロースハルデン――それはただの交易都市ではない。
欲望の炉。
支配と服従が交差する交尾の迷宮。
生と死と肉と精が、すべて『価格』で評価される、魔の境界都市。
⸻
石組みの壁は煤で黒く、床は溶けた金属と油に濡れて光っている。鉄槌の響き、風箱の唸り、鋼を焼く匂いが空間に脈打ち、ただそこに立つだけで皮膚が汗ばむ。
そんな鍛冶場の最奥、煙に燻された分厚い金床の前にいたのは、サイクロプス族の鍛冶女――バニアだった。
身の丈二メートルを優に超える巨躯。全身を覆う革の鍛冶着と、片方だけの巨大な眼球。その眼は、常に鉄の色を見つめ、熱と殺意を宿した武器の輪郭を見抜く。
バニアは巨大なトングを振り上げ、真っ赤に焼けた刃物を桶に沈めると、ジリジリと立ち上る蒸気のなかで、振り返った。
「……珍しい顔じゃねえか、カザラ。奴隷商人に成り下がったって噂だったが?」
声がしたのは、鉄の唸りと蒸気の鳴動が支配する工房の奥――金床の前だった。
焼けた鋼の匂いを纏いながら、サイクロプスの鍛冶女・バニアは無骨なトングを傍らに立てかけ、ゆっくりと振り返った。
その一つ目に宿る光は、冷えた鉄のように鈍く、重い。
カザラは笑った。
気怠げで、余裕を装った薄笑い――だが、その目は油断なく周囲を見渡していた。
「よう、バニア。まだ怒ってんのか?俺は今でも武器商人だぜ。多少“品物”の幅が広がったってだけの話だ」
「ふん……」
バニアは鼻を鳴らし、分厚い腕で肩の汗を拭う。
「じゃあどうして、あたしのとこにゃ顔出さなかった?最近はケンタウロスにも商品を流してるって聞いたぜ。ずいぶん忙しいようだな」
「まァな。……こっちも色々あるんだよ、あれこれとよ」
そう言いながら、カザラは背から長布に包んだ細長い何かを下ろす。
金床の隣、焼けた鉄を置いた痕がまだ生々しい石板の上に、静かにそれを置いた。
「……今日はな。お前に見てもらいたい『道具』があってな。俺の目でも意味が分からねぇ。けど……お前なら、何か掴めるんじゃねぇかって思ってよ」
バニアの一つ目が静かに光を帯びる。
それは獣が血の匂いを嗅ぎ取ったときの色に似ていた。
無言のまま、布に手を伸ばし、ほどく。
――その下から現れたのは、一見して異質な存在だった。
黒い。鋼でも鉄でもない、何か別の“質”を感じさせる金属の質感。
無駄のない直線的な構造。銘も刻印も一切なく、全体が機能のためだけに存在している。
照準具、引き金、把手、そして下部に取り付けられた“箱”のような構造物。
「……なんだこりゃあ……」
バニアの声が、わずかに低く震えた。
ごつい指でそっと銃身をなぞる。
冷たい。だが、表面には見たことのない滑らかさと、異常な硬さがある。
「焼き戻しの痕が……ねえ。鍛接跡もない。……まさか、鋳型か?いや、でも……この精度は鋳型じゃ無理だ。細部の密度も、構造も、現行の技術体系じゃ再現できねぇ」
バニアは銃の側面を見て、改めて呻くように呟いた。
「お前の国の鉄砲に似てる……見た目は、な。けど中身がまるで違ぇ。火縄がねえし、引き金はあるのに点火装置が見当たらねぇ。どうやって火を入れるつもりなんだ、これは」
カザラが頷く。
「ああ、作りが全然ちげえ。火縄がない。撃鉄もない。……けど、これは間違いなく『飛び道具』だ。引き金もあるしな」
バニアは無言のまま、『小銃』を手に取り、重さを量り、銃身に指を這わせる。
「……ネジだ」
彼女は呟いた。
「いや、ネジ『らしきもの』がある。だが頭がない。工具をかける場所が……ねえ……?」
「構造が見えねぇ。開けられねぇ。……火薬を入れる場所すら、存在しねえぞ……?」
ゴツリと分厚い指が、引き金の奥を覗き込む。
「……どうやって火を点けるんだ、これ? ……いや、火を使ってるのか? もしや……内部に、何か『仕掛け』が……」
一つ目が細まり、恐怖と好奇心がない交ぜになる。
「サイクロプス族の俺でも、わかんねえ……。これは……」
そう呟いたバニアの手が、じわりと銃から離れた。まるで、そこに触れているだけで何かが自分の中に染み込んでくるような――そんな、根源的な不快感が指先を這っていた。
「やっぱりか」
カザラが、低く喉の奥で笑う。まるで何かを確信していたような声音だった。声は静かで、だがどこか粘り気のある重さを帯びていた。
「お前でもわかんねぇってんなら、他の奴らが理解できるわけがねえ」
バニアは肩をすくめ、再び銃に視線を落とす。その目には、もはやただの興味や職人としての探究心だけではない、異物への本能的な警戒が滲んでいた。
「見た目はシンプルに見える。だが……構造が閉じすぎてる。どれも外装の一部と完全に一体化してやがる。まるで、最初から『開けるな』って言われてるみてえな作りだ」
「こりゃあーー不気味だな」
バニアは指先を軽く動かし、無意識に自分の掌を擦った。触れていた部位が、まだ何かを憶えているかのようにじんじんと熱を残している。
「道具ってのは、作った奴らの『思想』が透けて見えるもんだ。だが、こいつからは何も見えねぇ。ただ、効率性だけが詰まってやがる。」
カザラはそれを聞いて、湯気のようなため息を吐く。
「効率性ねえ…」
銃の機構を覗き込むようにしながら、バニアが手探りで弄る。
だが、引き金の周辺を確かめていたその手が、ふと別の部分――銃の突起した所を触れた瞬間、カチリと乾いた音が響いた。
「ん?これは……鉄砲みてぇに、一発ごと玉を入れんのか?」
――カタン。
「おっ……?」
何かが、重力に従って落ちた。
足元に転がる金属の塊――それは、バニアが初めて見る形状の“箱”だった。
「おい……こりゃ……」
手に取ったそれは、金属製の短い角柱のような形。
だが、片面の開口部には、ぎっしりと同じ形の金属の“弾”が詰め込まれていた。
「……なんだこれ。とんがってやがる……」
バニアが呟くように言いながら、その“弾”の一つを指先で摘む。
小ぶりな筒型の金属。先端はわずかに尖り、根元には丸く縁のついた外郭が施されている。
「……鋳型で流し込んだもんじゃねえ。削ってある。いや、それも違う……これは、鋳造と加工が、完全に一体になってる。芯材も一体。詰め物か……?」
目を細めながら、指の腹で表面をなぞる。
滑らかで、つなぎ目がまるでない。ひとつの塊のように見える。
「これごと……入れ替えんのか?まさか、こいつが全部……」
目を銃本体と落ちた『箱』に交互に移しながら、バニアの表情が次第に固まっていく。
「……こいつ、一発ずつ込めんじゃねえ。『これごと』差し込むんだ。しかも何発も…」
「……何発入ってるんだ?」
バニアが唸るように言うと、カザラはその箱――弾倉を手に取って、横から中を覗き込む。
「見た感じ……十発以上は入ってんだろ、これ。細かい構造はわからねえが…少なくとも、十回以上はぶっ放せる構造だ」
「……化け物だな……」
バニアの額に、炉の熱とは別の汗が滲んでいた。
その一つ目は、じっと黒鉄の機構を見つめ続けている。
だが、指はもう動かない。
鍛冶師としての感覚が、今この瞬間――沈黙の中で軋んでいた。
「……で?」
重く押し殺したような声が、唇の奥から絞り出される。
「お前、これを……どこで手に入れた?」
火花が弾ける炉の音が、一瞬、遠くなる。
カザラは返事をせず、銃に視線を落としたまま、顎に指をあてる。
まるで答えを探している風だったが――その瞳は、最初から決まっていた。
やがて、肩を竦め、軽く首を横に振る。
「ん〜……拾いもんだな」
一言。
それだけを、気怠げに吐き捨てた。
バニアの顔が動かぬまま、わずかに歪む。
「……拾いもん、ねぇ……」
そう呟きながら、指先が滑らかな表面をなぞる。
金属とは思えぬ手触り。だが確かに、鋼よりも密度がある。
削った形跡はない。鍛造痕も鋳型のバリも見当たらない。
「嘘をついてるわけじゃねえのは……わかる。けど、何かを隠してるのも……同じくらい、わかるぜ」
バニアの声に、咎めはなかった。
ただ、長年鉄を握り、あらゆる武具の本性を見抜いてきた者としての、静かな確信が滲んでいた。
「…まあ、いずれにしろ…だ。」
バニアは重く呟きながら、黒鉄の異形――『それ』を、慎重に机の上へと戻した。
手付きに一切の乱れはない。
だがその動作には、鍛冶師としての経験からくる直感的な畏れ――まるで、ただの道具ではなく、呪いそのものを取り扱っているかのような、微かな緊張が滲んでいた。
それは机に静かに横たわる。
金属の塊が木の天板をわずかに軋ませ、重力の存在を静かに主張する。
「……こんなもん、アリ共でも作れねぇよ。精度も、加工も、理屈そのものが違いすぎる」
そう言ったバニアに、カザラが笑いながら肩をすくめる。
「はッ、アリンコ共なんかより、ウチらの方が技術は上だっつうの。あいつら、手は早ぇが、こんな精巧品、一生作れねぇよ」
「……だがよ、どこの誰かがこれを『作った』ってことは、確かなんだ」
バニアの声は、熱の引いた鉄のように重たく沈んでいた。
視線は銃に貼りついたまま、動かない。
眼前にあるのは、単なる道具ではない。
この異物を“生み出した何者か”への、恐ろしいほどの興味と、職人としての本能的な畏れが、その言葉には滲んでいた。
「……いったい、誰が作ったんだ?」
その問いに、カザラは肩をすくめ、短く吐き捨てる。
「さあな」
そして、ちらりと銃の側面に目を落とした。
濡れたような黒鉄の機構部。艶を抑えた塗装。
細部のひとつひとつが、まるで“思想の痕跡”を拒むかのように、完璧に整えられている。
「……まあ、この世界には、とんでもねえ技術を持ってる奴らが、いるってことさ」
ぽつりと、カザラが呟くように言った。
それは、諦めとも憧れともつかぬ、遠い世界を見つめるような目つきだった。
バニアは静かに頷いた。
その表情は職人というよりも、何か巨大な“異物”に触れた者の顔だった。
「……ああ、そうだな」
低く漏らしたその声は、鉄と煤にまみれた工房の奥へと沈んでいく。
サイクロプス族の鍛冶師。
鉄を打ち、刃を鍛え、火薬と機巧を扱うことに長けたこの種族の中で、バニアほど長く炉の前に立ってきた者はそうそういない。
だが、そんな彼女ですら、この『黒色の筒』に宿る圧倒的な技術に対しては少しの理解もできなかった。
そこには熱も魂もない。ただ――冷徹な“機能”と“殺意”だけがあった。
銃はただ、静かにそこにあった。
布の下で無言のまま、鋼の胎動を潜めて。
まるで――
未だ誰にも引き金を許していない、眠れる獣のように。
⸻
「……それにしてもよ、カザラ」
「ん?」
バニアが片眉を持ち上げながら、鼻を鳴らした。そしてすぐに、顔をしかめる。
「……匂いが、濃すぎんだよ」
その言葉は、まるで空気そのものに苦言を呈するようだった。
鍛冶場に満ちた金属と油の臭いすら上書きするような、むせ返るほどの雄の匂い。
汗と、種と、膣の匂いが重なり合い、じっとりと天井近くに溜まっている。
「雄漁るのもいいが――限度を覚えな。ここは工房だぜ?」
「……あー、悪ぃ」
カザラは肩をすくめた。
だがその声に謝罪の気配は微塵もない。
むしろ、やっちまったな……とでも言いたげに、口元には薄く笑みが滲んでいた。
「ったく、何匹と交尾してきた?十人はくだらねぇだろ、この匂い……」
バニアが額を指でこすりながら呆れたように吐く。
カザラはその視線から目を逸らし、代わりに机の上に置かれた銃へと指先を滑らせた。
「……最近は『質のいいの』が手に入ったんでな。ちょっと、味見が過ぎたかもな?」
わざと曖昧に、わざと冗談めかして――
名を出さずに、話をぼやかす。
バニアの鼻は正直だ。
言葉より先に、匂いがすべてを語る。
だからこそ、名前は出せない。
小田の存在は、この女に渡せるような代物じゃない。
「……まあいいさ」
バニアは溜息混じりに言った。
だがその太い指は、無意識のうちに空中をなぞっていた。
――香りの残滓を、空気からすくい取るように。
そして、その指先が舌先に触れる。
ぺろり。
わずかに笑みがこぼれる。
「でもよ……。そんなにいいなら、あたしも味見してぇなぁ」
バニアが笑みを浮かべる。だがその眼光は、どこか鋭く濁っていた。欲情というより、狩りの直前の肉食獣のような光。
「いいぜ、バニア。おめえには世話になってるからな。……一匹くらい、好きに啜らせてやるよ」
カザラは肩を竦め、あくまで軽く、冗談交じりに言葉を返した。
けれど――その声音の奥、かすかに滲む硬さを、バニアは気づかなかった。
「……」
ほんの一瞬。
その『軽さ』の仮面の裏で、カザラの瞳がわずかに曇る。
(……小田のことは、言わねえ方がいいな)
無言のまま、彼女は手元の銃へと視線を落とす。あくまで道具の確認を装って、口を閉じた。
バニアの欲は荒い。
一度でも『小田』の存在を明かせば――
この女はどこまでも執着するだろう…
それを、カザラは本能的に察していた。
小田はただの雄ではない。
あの甘さも、あの精の味も、あの匂いも、もう『商品』として他に渡せるものではない。
「じゃあよ……どのツラの雄を啜っていいか、考えといてくれよ?」
バニアがにたりと笑う。
ぶ厚い舌を出し、節だらけの指を湿らせるように舐めた。その仕草は、獣が骨付きの肉を前にした時のそれに近い。
「……舐めすぎて壊すんじゃねえぞ」
カザラの声には、ぴたりと冷えた調子が混じる。
「――あたしの『商品』なんだからな」
「わかってるさ」
バニアは応えながら、鼻を鳴らした。
だがその鼻先は、確かに「何か」を追っていた。
この鍛冶場にわずかに残る――雄の、精の、甘く濃い香り。
けれどカザラは、言葉を継がなかった。
その一滴が誰のものか。
この場所にいたかどうか。
どういう経緯で、今の彼女の匂いに混ざっているのか――
そのすべてを、黙って飲み込んだ。
そしてまた、視線だけを、銃の黒い機構に戻した。
銃の無機質な輝きが、
まるで何も知らぬふりをして、
黙って二人の間に横たわっていた。
朝ーー
布団の中には、まだ夜の匂いが残っていた。
小田が目を開ける前から、それはもう空気の中に満ちていた。
汗と、吐息と、精の匂い。乾ききらぬ布団の湿気が、じっとりと皮膚にまとわりつく。
ぬるく、空気が重い。
喉が微かに渇いている。
腰がだるく、太腿には違和感がある。下着が肌に張りついているのがわかる。
(……ああ)
目を開けずとも分かる。
この感覚は――昨夜の、あの交わりの名残だ。
何度も射精した。
布団の中で、あの犬人の少年に搾り取られた。
胸元を吸われ、性器を擦られ、ぬるぬると、何度も達して、最後は昏れるように意識を失った。
思い出した瞬間、喉の奥に何かがひゅっと詰まるような気がした。
羞恥でも、後悔でもない――もっと曖昧で、名前のつけられない感情だった。
背中には、熱があった。
小田の体に、何かがぴたりと寄り添っている。
ふわふわとした毛並みの感触。
とろんとした、湿った呼吸が背中に落ちている。
布越しに押し当てられているのは、柔らかくもたわわな肉――乳房。
(……まだ、くっついてやがる)
ゆっくりと目を開けた。
すぐ近くに、くすんだ天井布がある。ほんのりと明るい。
外の光が、遠くどこかから入り込んでいるらしい。
けれど、その光でさえ、この空間の熱や湿り気を洗い流すことはできなかった。
気まずさだけが、胸の奥にぬめりと張りついている。
動こうとしたとき――
「……ねえ」
声が落ちた。
背後から。掠れた声。どこか寝起きの、まだ夢と現の境界にいるような声音。
「……起きてるよね?」
小田は答えなかった。
「……あの、さ」
犬人の声が、少しだけ近づいた気がした。
そして――
「自己紹介……してなかったよね、ぼくたち」
「……そうだな」
ようやく返した声は、少し掠れていた。
喉が乾いていたのもあるが、言葉の出しどころが分からず、迷った末の一言だった。
犬人の唇が、わずかに吊り上がる。
くす、という笑いが、濡れた空気の中で音を立てたような気がした。
「じゃあ……どっちから言う? 名前」
「……お前からでいい」
「うん、ありがとう。……でも、言えないだ。」
妙な言い回しに、小田は一瞬、思考を止めた。
何を言われたのか――意味が掴めず、ただ聞き返す。
「……は?」
「ここでは……『名前』って、持っちゃいけないの。ぼくらは『商品』だから」
その声には、ひどく現実味のある重さがあった。小田の胸の奥に、ゆっくりと鈍い棘が沈んでいく。
「名前を持ってしまったら……もう『モノ』じゃなくなるでしょう? そうなると……扱いに、困るって」
「……それでも、お前は名前を持っているんだろう」
問いかけた小田の声には、微かにためらいが滲んでいた。すると、その瞳が一瞬だけ揺れる。
「うん。……ぼくには、昔、つけてくれた人がいたから。今は、口に出さないようにしてるけど」
「その名前……教えてくれるのか?」
犬人は少し黙った。
そして――小さく、でもはっきりとした声で言った。
「ナズ」
「……ナズ」
「ほんとは、呼んじゃいけないんだよ?でも……君になら、いいかなって思った」
小田が何か返そうとした瞬間――
ナズの身体が、ぴたりと動いた。
ぐにゅ、と背中に押し当てられる柔らかな乳房。
わざとらしくない、けれど確実に、密着の仕方が変わっていた。
「ぼくも……『小田さん』って呼んでいい?」
「……それはお前の勝手だ」
「うん……ありがとう」
その一言とともに、ナズの柔らかい太腿が、そっと小田の足に絡みついてくる。布越しに、滑らかな肌が、熱を帯びて沿ってくる。
「ねぇ、小田さん。昨日のこと……イヤじゃなかった?」
「……あれは……」
口ごもる。
明確に“否”とも言えず、肯定もしたくない。
しかし身体は、昨夜の快楽を思い出し、わずかに熱を帯びていた。
その沈黙を察したのか、ナズは背後で、ふわりと息を漏らした。
「よかった……」
そう囁くと、ナズの腰がわずかに動く。
尻に、ぴと…と『硬いもの』が当たった。
「……ぼく、また……したい…」
はっきりとした声だった。
甘くも、ねだるようでもない。
ただ、静かに、素直に欲を告げる声。
小田は言葉を失った。
ただ、背に密着するナズの柔らかさと、熱を、黙って受け止めていた。
布団の中は、夜の延長のようだった。
名前を交換したはずなのに、空気はまだ交わったまま――終わっていない。
ナズは、頬を小田の背中に擦り寄せながら、ふっと小さく笑った。
「ねえ、小田さん……自己紹介って、もっと近づいてもいいでしょ?」
その声とともに――また、柔らかな媚肉が「ぷにゅう」と背中に沈んだ。
それは、言葉以上に重く、熱を持った自己紹介だった。
⸻
「……それより、身体を洗いたい」
ようやく落ちた小田の声は、昨夜と今朝の『全部』を無言で切り離そうとするように、淡々としていた。
ナズの身体が、ぴくりと動く。
ぴたりと背に貼りついていた乳肉が、わずかに離れる。
寄せ合っていた太腿の熱がそっと剥がれ、空気がそこにすべり込む。
「……そ、そうだよねッ!」
ナズの声は、どこかあたふたとしていた。
「うん……身体、べたべただし……そろそろ、シズ様が来て案内してくれるんじゃないかな?」
「そうか」
「……たぶん」
ナズは布団の端をぎゅっと握りながら、どこか落ち着かない様子で言葉を繋いだ。
小田はゆっくりと身体を起こす。
腰が重い。
腿の裏がぬるつく。
下着がまだ湿っていて、肌に粘りつく感触が不快だった。
背筋を伸ばすと、布団の中の空気が一気に冷えたような錯覚があった。
視界に入るのは、くすんだ天井と、織布の壁。
静かで、湿っていて、妙に息苦しい空間。
小田が何も言わずにベッドの端に腰を下ろすと――
そのすぐ隣に、ふわりと柔らかいものが沈み込んできた。
ナズだ。
小田の隣、わずか数センチの距離に、ショートボブの毛並みを揺らしながら、ぴたりと座る。
「……そ、それまではさ……こうやって待ってよ?」
ナズの声は、やや上ずっていた。
誘うようでいて、遠慮がち。けれど、その言葉の最後に、どこか艶めいたものが滲んでいた。
小田がベッドの縁に腰を下ろすと、ナズはそのすぐ横に、ぴたりと吸いつくように座ってきた。
床板のわずかな軋みと、布団の空気が押し出される音。
そして――べたり、と太ももに感じる、生の感触。
ナズの太ももが、小田の腿にしっかりと貼りついていた。
ぬるんだ熱が、そのまま肌に流れ込んでくる。
ほんの数ミリの『隙間』もない、密着。
ふわりとした毛並み越しに伝わってくる、体温。
まるで、離れたくないと告げるような、柔らかな重みだった。
そして、さらに。
「えへ……やっぱり、近いほうが落ち着くね……」
小田の腕に、何か柔らかくて、豊かなものがふにゅりと触れる。
ナズが、わずかに身体を傾けてきたのだ。
その胸――
昨夜、夜の中で肉棒を挟み、汗と精液で濡れたその“媚肉”が、今、小田の腕に布一枚だけを隔てて形を変えながら沈んできていた。
下着をつけていないのだろう。
布越しとはいえ、直接的すぎる柔らかさと熱が伝わってくる。
腕の内側に沈み込んでくるその胸は、息を吸うたびに上下し、布が小さく波打っていた。
「ね、小田さん……」
囁き声が、耳のすぐそばに落ちる。
「ふふ……身体、ぴくって跳ねてる」
ナズがそう言って、いたずらっぽく小田の腕に胸をむにゅ、むにゅと寄せてくる。
(……またか)
声には出さない。
ただ、腕を引くこともできず、ぴたりと貼りついた太ももと、柔らかい乳のかたちが、自分の皮膚の上に残す輪郭に――
小田は、じくじくと汗のような熱を滲ませていた。
ナズは、すこしだけ距離を詰めたまま、甘えるように微笑んだ。
「小田さん……そうやって、黙ってると……また、意地悪しちゃうよ……?」
空気が、また湿る。
「……近いぞ」
低く漏れた小田の声は、明確な拒絶ではなかった。
ただ、熱を遮ろうとする最後の理性の名残。
それでもナズは、その一言を聞いたにもかかわらず――むしろ、それを『きっかけ』にしたかのように、ふわりと動いた。
「……うん……知ってる。」
くすっと笑う声が背後へと回り、ナズはゆっくりと、小田の後ろに立った。
ふわりと毛並みのそよぐ気配。
その体温が、じわじわと背後から近づいてくる。
そして――
柔らかなものが、小田の肩に「乗せられた」。
むにゅ……と形を変えて沈む乳肉。
湿り気を含んだ布越しに、豊かな重みがじんわりと肩へと広がる。
ナズは、小田の肩に身体を預けるようにして立ち、片方の胸を、あえて押しつけるようにして乗せていた。
言葉にならぬ警戒が、喉の奥に引っかかった。
だが、その次の瞬間――
小田の背中に、『別の感触』がぴたりと触れる。
柔らかく、けれど硬い。
太ももよりも高い位置。尻のすぐ上、腰のくぼみに当たるように、ナズの下半身がぐっと寄せられていた。
(……硬くなってやがる)
それが何か、考えるまでもなかった。
ナズの性器。
昨夜、何度も擦りつけられ、白濁を共にしたその“雄の証”が――今また、小田の背へとぴったりと押し当てられていた。
「うぅ……背中押し付けるのやばいぃ」
ナズの囁きが、耳元に落ちる。
「……小田さんの背中って、すごく……硬くてて、しっかりしてて……気持ちいい…♡」
言葉とは裏腹に、ナズの身体はわずかに動いていた。
肩に乗せた乳房が、こくりと揺れる。
背中に当てられた性器が、ぐいと押し込まれるように、ぬくもりを探して擦れてくる。
「……昨日のこと、思い出しちゃってッ」
吐息が熱い。
小田は言葉を返さなかった。
ただ、肩に乗った乳の重みと、背中に押し当てられたナズの硬さが、どこまでもリアルだった。
「……もうちょっとだけ、こうしてていい?♡」
許可など求めていない。
ナズの身体はすでに、小田の背に“くっつく”ことを選んでいた。
肩の上で揺れる乳。
背に押しつけられる性の膨らみ。
小田の肌は、いやが応にもその“名乗られた身体”を受け止めていた。
⸻
ナズの乳房が肩に沈み、背中に押し当てられた肉棒がじわりと擦れてくる。
湿った吐息。
押し黙る小田。
その空間に――
「……なにをしているのですか?」
静かに、けれどまるで刃のように鋭く、声が落ちた。
その言葉は、まるで静寂を裂く刃だった。
布の帳の奥、すっと開いた隙間から現れたのは――
冷たい眼差しを湛えた、犬人の少女。シズ。
彼女は何も言わず、ただ視線を向けていた。
ナズの身体。
肩に乗せた乳房。
背中に押し当てられた彼の勃起。
そして、なすがままに沈黙していた小田。
「……あなたは、何をしていたのですか」
もう一度、問いかけられる。
その声は静かで――けれど、明確に責任を問う者の声だった。
ナズが、震える声で何かを言いかける。だが、言葉は喉の奥で潰えた。
「……あなたには、小田様と性行為を行う権利はありません」
その言葉が静かに落ちたとき――
ナズの背中に押し当てられていた熱は、一瞬で氷のように冷えきった。
「その方は、カザラ様の『商品』です」
シズの瞳には怒りの色はなかった。
だが、その無感情さが、ナズにとっては何よりも深く刺さる。
「そして、あなたも同じく『商品』。所有の許可なく、使用の意思を示すこと――それ自体が、規律に対する冒涜です」
ナズは肩を震わせ、口を開いた。
けれど何も言えない。
声を出せば、すべてが否定されると本能が悟っていた。
そんな彼に、シズは続けた。
「……あなたは、自身の幸運をもっと感じるべきです」
その声は、低く静かだった。
だが、“上からの視線”であることを、隠しはしなかった。
「あなたは、ドラケンフェルド王国に生まれた。この国は、まだ“制度”がある。支配と管理、法と市場。『雄』としてのあなたに、『商品』という身分が与えられている」
シズはゆっくりと、わずかにナズに視線を向ける。まるで値札を確かめるような、冷たい目だった。
「……けれど、もしあなたが他国で生まれていたなら?」
一拍、間を置いた。
「ケンタウロスの帝国では、あなたのような体つきは“繁殖牧場”行きです。一度でも精を与えられなければ、即刻食肉処理」
ナズの瞳がわずかに揺れる。
「虎華帝国では、遊猟の獲物として競売にかけられる。蟻人達では過酷な奴隷制度。……そして、オルクシアン帝国では――」
シズは、言葉の調子を崩さず、けれど明確に温度を下げる。
「“肉”として、“刻まれる”。性器を残したまま皮を剥がれ、塩漬けにされ、宴に並ぶ。『美味だった』と笑われて、終わりです」
ナズの呼吸が、一瞬止まった。
「――それが、『国外』の現実です」
シズの声は、決して脅しではなかった。
ただ、事実を“告知”するように淡々としていた。
「あなたは、『幸運』です」
「……っ……」
「それを理解しないまま、欲望に従って身分を逸脱するなど……あまりに、浅はかすぎます」
ナズは肩を落とし、目を伏せる。
彼の下腹部に残っていた熱は、すでに“罰を待つ者の冷え”へと変わっていた。
「……申し訳、ありません……」
その声は、震えていた。
生への恐怖でも、後悔でもない。
“自分の立場の狭さ”をようやく実感した者の声だった。
「処遇は追って、カザラ様より通達されるでしょう。」
シズは、それだけを言うと、小田へと向き直った。
「改めて小田様。洗い場へのご案内に参りました」
「……ああ」
「こちらへ」
布を揺らし、シズは背を向ける。
その背中は、まるでナズなど最初から“視界にない”とでも言うように、無言だった。
去り際に、彼女はただ一言だけ、残していった。
「……感謝と分別を忘れた『商品』は、『商品』ではいられなくなる。それだけは、お忘れにならないよう」
その声は、空気の底に沈むように、重く、長く――ナズの胸にのしかかっていった。
彼はもう、声を出すことすらできなかった。
唇を噛み、床に目を落とし、ただその場に取り残された。
『商品』という名の、檻の内側に。
⸻
「……さっきの話は、本当なのか?」
静かな廊下。
石の壁に囲まれた細い通路を歩く二人の間に、小田の低い声が沈んだ。
その問いは、重く、乾いていた。怒りとも、悲しみともつかぬ感情が、声の奥底で軋んでいた。
先を歩いていたシズの背中が、わずかに揺れる。だが彼女はすぐには止まらなかった。
数歩だけそのまま歩き、そして足を止める。
「……ええ、本当です」
静かに返されたその声には、まるで誰かに“背筋を正されて話している”かのような、完璧に調律された抑制があった。
「犬人は、他国では『家畜』に分類されます。ここドラケンフェルドでこそ、『商品』という建前のもとに管理されていますが……それはこの地だけの話です」
ゆっくりと、シズは振り返る。
その瞳に浮かんでいるのは冷静さ――だがその底に、拭いきれない“痛みの痕跡”が滲んでいた。
「……雌は“肉”として重宝されます」
その言葉に、小田の眉がわずかに動く。
「肉付きのいい腰と尻。脂の乗る乳房。繁殖歴のある個体や、若い未使用個体。それぞれに適した部位があり、切り分け方までが“定式”として教本に記載されています」
語り口はあまりにも淡々としていた。まるで料理の手順でも語るかのように。
「『骨ごと煮込む雌』と呼ばれる調理法が、オルクシアン帝国では庶民向けの宴で使われるそうです。胎児を残したまま煮込むことで、肉の甘みと出汁の深さがーー
「やめろッ!」
小田の声が強く、遮るように廊下に響く。だが、シズの目は逸れなかった。
「これが大陸の“現実”です、小田様」
「……なら、ナズのような……ああいう子は」
「“繁殖資源”です」
その返答は即答だった。
「雄は基本的に食用にはされません。ですが、それは“生かされる理由”にはなりません」
「……」
「雄は、“繁殖に使えるかどうか”で価値を決められます。生殖器の発達、射精量、耐久性、反応の速さ――交尾に耐えるか。精液を出せるか。雌を孕ませられるか。それだけが、生きる理由です」
「バカな……そんな扱い、人じゃない」
「ええ。人ではないのです、彼らにとっては」
シズは一歩だけ小田に近づいた。その目にあったのは、冷徹な同情と、語り慣れた現実だった。
「犬人の雄は、交配所に押し込まれ、毎日三~五回の種付けを強制され、精液が出なくなれば、薬を注射されて無理やり排精させられます。動かなくなった個体は、性器を切除され、文字通り『肉袋』になります」
「……やめろ」
小田の喉が震えた。拳がわずかに握られる。
「そうやって、使い捨てられる。それが、“他国での扱い”です」
シズの言葉は、何度も鍛えられ、何度も誰かに突き刺してきた硬質の刃だった。小田の前でも、それは決して曇らない。
「……わたくしが申し上げているのは、この大陸のどこにでもある“日常”です」
シズの言葉は、刃のように冷たく、しかし明確だった。
その声には誇張も躊躇もなく、まるで“何度も繰り返してきた説明”を、また一つ加えるように自然だった。
「あなた様が“信じたくない”と感じた瞬間――それは、あなたにとって“異常”になる。ですが、この大陸において、それは“常識”であり、“秩序”です」
彼女の視線は正面に向けられていた。感情はなく、ただ“線”のように真っ直ぐに道筋をなぞっているだけだった。
だが、小田には、もう耐えられなかった。
「……待ってくれ」
その声は低く、荒く、感情を無理に飲み下したような響きをしていた。
「お前も、同じ……犬人なんだろ?」
廊下の中で、その問いだけがやけに人間的に響いた。
理屈では割り切れない、割り切ってほしくないと願う本能の叫びだった。
シズは立ち止まった。
背を向けたまま、わずかに肩が動く。
「はい。同じです」
短い答え。だが、その一言が、小田の胸に重く沈む。
「だったら――」
言葉が震えた。
「だったらどうして……そんな冷たい言い方ができる。どうして、“それで当然”みたいに話せるんだよ」
小田は、怒っていた。だが、それは他者に向けた怒りではなく、自分自身の無力さに対する怒りだった。
目の前の“現実”を前にして、自分には何もできない。彼の正義も倫理も、ただ“異物”として空気に溶けていくだけだった。
だが、シズは一歩も退かなかった。まるで彼の問いを待っていたかのように、ゆっくりと振り返る。
「――わたくしは、召使いです」
その一言には、何の躊躇いもなかった。
それは“自己紹介”などではない。
生き方そのものを定義する言葉だった。
「わたくしは、商品ではありません」
声は静かだが、決して弱くはなかった。それは、長い時間をかけて自分に刻み込んできた“職務意識”という名の鎧。
シズは胸に手を当てるようにして、言葉を継ぐ。
「代わりに、感情の放棄と、立場の自覚を条件に、“主人の目と手”としての資格を得ました」
その瞳が、小田の瞳と正面から交差する。
琥珀色のその目は、硬い。冷たい。
けれど、そこに一点の曇りもなかった。
嘘も、迷いも、怯えもなかった。
「ナズが泣いても、わたくしは抱きしめません。怯えても、慰めません。彼が血を流しても、必要であればその身体を検分し、記録し、報告し、上申します」
「……お前には…心がないのか」
小田の声は、もはや呟きだった。世界の理不尽と、彼女の割り切り方に、言葉が追いつかない。
その言葉に――シズのまつ毛が、ほんのわずかに揺れた。
長く息を吐いた。
そして、かすかに声を落としながら答えた。
「……心なら、ありますよ」
それは、初めて『個』としての彼女が言葉を発したように感じられた。
「ですが、それを“使う”ことはできません。召使いとは、そういう立場です。」
それが、どれだけの年月と、痛みと、思考の犠牲を重ねてきたか――
小田には、想像することしかできなかった。
「ナズが今、あんなにも無力に見えるのは……“人”として扱われていないからだ。お前だって、本当は――」
「――もう一度言いますが、わたくしは、召使いです」
その言葉は、はっきりと、そして容赦なく遮った。
「この身は、“カザラ様の影”です。その影が、勝手に光を見てしまえば……主の進む道が、歪むのです」
小田は言葉を失った。もはや何をどう言えばいいのか、彼の中に答えはなかった。
彼は、ただ“違和感”を持っていた。
それが、正しいか間違っているかすら、もう分からない。
ただ、それを“信じたくない”という気持ちだけが、胸の奥に渦を巻いていた。
シズは、その沈黙を受け止めながら――
ふっと、視線を逸らした。
「……ですが、小田様」
その声には、かすかに温度があった。
「あなたが“信じられない”と感じた、その感情だけは……どうか…どうか、捨てないでください」
彼女は、それを“業務”として言っているのではなかった。
「それは、あなた様が、こちらの世界に染まりきっていない証です。異物であることは、不利益を生むでしょう。」
だが、とシズは微かに視線を戻す。
「――それでも、“異物”だからこそ、生まれる変化もあるのです」
そう言い残し、シズは静かに背を向けた。
その背中は、小さくも強く、
だが、その胸の奥には確かに、“人の心”が残っていた。
小田は、歩き出したその背を、ただ見つめていた。
ナズの震える肩。
シズの割り切られた立場。
『種族』の重さ。
『召使い』という言葉の孤独。
この世界に、彼の居場所はまだどこにもなかった。
だが――だからこそ、見なければならない現実が、確かに目の前にあった。
⸻
洗い場――
湯の表面が、ぽたり、と波紋を広げた。
その中心に、小田の指が浮かんでいる。
深く息を吐いた彼の胸が、湯を揺らし、ほんの少しだけ空気を動かした。
浴室は静かだった。
石壁は湯気に濡れ、天井からは細い水滴がときおり滴り落ちる。
音も、動きも、感情さえも、この場所ではひどく遅くなる。
その静けさのなか、小田の意識は、遥か遠く、海の向こうの日本を彷徨っていた。
(……日本は、おそらく大陸『東端』に転移した)
大陸の最果て、地図にも載っていなかった空白地帯。
そこに、国ごと――島ごと、丸ごと落ちた。
通信網は崩れ、貿易は停止し、日本は未曾有の混乱に包まれた。
それでも日本は耐えた。
行政は残り、自衛隊は現場を押さえ、混乱のなかでも国家機能は幸いにも崩壊しなかった。
それは誇るべきことだ。
だが…
(……島国が、『どこに』転移したかを、政府はまだ完全には理解していないだろう…)
小田は目を細めた。
その瞳には、湯の反射で揺れる天井が映っている。
自分たちが降り立った場所は、異世界の東端。それゆえ、今のところ、他国からの注目はない。
大陸を構成する主要な国家――ケンタウロスの帝国、ドラケンフェルド王国、オルクシアン帝国、虎華帝国、蟻人達の国――そのどこからも、まだ『日本』は認識されていない。
地理的な隔絶。それが今の日本を守っている。
(……だが、日本は中央へ向かおうとしている)
資源を求めて、資源調査隊を出し、交易ルートを確保し、勢力を西へ伸ばす。
無理もない。
転移直後の日本には、燃料も、物資も、構造材も、すべてが限られている。戦わずして、資源を得るためには、『接触』が必要だった。
しかし、その先に待つのは――
(……間違いなく、“戦争”だ)
小田は拳を握った。
そのまま湯の中に沈めると、湯の中に微かな熱の塊が伝っていく。
小田は眉をしかめ、湯に沈んだ手をゆっくりと握った。
(日本は――男が半数の国だ)
この大陸のどの種族よりも、日本は“雄”の割合が圧倒的に高かった。正確に言えば――異種族の“雄の比率”が、あまりにも低すぎるのだ。信じがたい現実ではあるが、これが異世界における確かな事実だった。
そして、日本のように『男女比が均衡している』ということ自体が、この世界では異常であり、羨望の対象であり――やがては、確実に“敵意の種”となっていく。
(おそらく日本は、単独国なら勝てる。)
火力においても、装備においても、日本の技術は彼女たちのそれとは比較にならないほど先を行っている。今のところ、単独の国家を相手にするなら、十分に撃退できるという手応えもある。
(……だが、すべての国家が敵に回ったら?)
五ヶ国が結束したら?日本の技術を奪い、男たちを狩るために、連合軍が動いたら?
そのとき――小田は、勝てるという確信を持てない。
(陸自も、海自も、空自も、すべてが整っているわけじゃない)
転移によって、失われた基地。
孤立した島々。
補給線が機能していない戦力。
偏在する燃料と弾薬――
(この状況で、『全世界』を相手にはできない)
この状況で――もしも本当に「全世界」を敵に回すことになったとしたら、今の日本には到底、太刀打ちできる余地はない。最悪の事態では、あらゆる外への展開を諦め、国土そのものを要塞化するほかないだろう。
だが、それは勝利ではない。ただの延命、限られた時間を買うだけの“籠城戦”に過ぎない。
にもかかわらず――日本政府はいまだに、それに気づいていない。
なぜなら、今この瞬間まで、日本とこの異世界の国家群が「直接に接触した例」は、ひとつとして存在しないのだから。
例外はただ一人。
カザラと接触し、あの支配の構造に身を投げ込まれた――自分、小田だけだ。
異世界と日本を結ぶ唯一の接点。あの異質な文明と日本の平穏をつなぐ、唯一の“目撃者”。
(……早く報告しなくては)
日本がこの世界に『気づかれる』前に。
外交も、戦略も、正面から対話できるルートを、日本が確保するためには――
「俺が何を見たか」「どう扱われたか」それを伝えなければならない。
洗い場の空気が、わずかに動く。
熱が肌を撫でる。
目を閉じる。
まだ背中にはナズの柔らかい感触が、まだ残っている。
(……男性は、奴らの世界では“人”じゃない。“資源”なんだ)
(…日本との文化的衝突は、避けようがない)
その価値観の落差は、想像以上に深くて広い。
常識の根っこから食い違っている。
だからこそ――国家と国家、文明と文明がぶつかり合う未来は、もう、すぐ目の前に迫っている。
小田は、静かに立ち上がった。
湯が滴り落ちる。
背筋を伸ばし、拳を固める。
(……必ず、伝える)
異世界が、何を欲し、どう支配し、何を奪ってきたかを。
そして、それが――やがて、“日本”に向かうだろうという未来を。
(俺が見てきたものを、日本に届ける。それが、今の俺の『任務』だ)
湯けむりのなかで、静かに立ち上がる男の影は、確かな意志を宿していた。
それは、一人の兵士としてではない。
一人の『人間』として、異世界に抗う決意だった。