—JGF-T(特地防衛軍)合同戦術演習区域—
空は静かだった。
異様なまでに――、沈黙を守っていた。
青空は広く、限りなく澄んでいる。
雲は消え、風は弱く、気温は低くもなく高くもない。
完璧な天候。視界は遠く、目標識別に最適。
だが兵士たちは皆、その空を脅威として見ていた。
ここは、新大陸東端――国家戦略特区。
この一帯の地下には、石油・天然ガス・レアメタル等、国家の命脈を支える資源が密集して眠っている。
防衛省がこの地を「島外の第二の本土」と位置づけてから、すでに三ヶ月が経過していた。
それだけに、ここを狙う『もの』の存在は、もはや単なる仮定では済まされなかった。
なかでも――「空から来る者たち」。
それが、本日の演習の想定敵である。
この訓練の背後には、明確なきっかけがある。
すべての始まりではないが、確実に引き金の一つとなった事件があった。
それは――旧日本海沿岸地域、すなわち北陸および北海道地方の境界領域で発生した、特地調査員拉致事案。
調査任務に従事していた隊員は、突如として上空から飛来した飛行生命体によって攫われ、岩棚に築かれた『巣』へと連れ去られた。
その後、救出部隊によって無傷で救出されたが、事件は政府と国民に深い衝撃を与えた。
異種族による『人間の拉致』という現実が、異世界転移という未曾有の災厄から、いまだ立ち直りきれていなかった日本に重く突き刺さったからである。
その「飛行生命体」の姿が、人間の女性に酷似していたことも、混乱に拍車をかけた。
白い羽毛。美しい桃色の髪。裸身を包むのは、腕と背に繋がる広大な翼。
まるで神話から抜け出したようでありながら、そこには確かに生きた血肉の質感と、無機質な異質性が同居していた。
滑空し、男を選び、羽で包み込むようにして連れ去る。
しかし、敵意も、攻撃も、暴力もなかった。
目的も不明だった。
だが――それこそが最大の懸念であった。
「意図が読めない敵」は、「対話も防衛も成立しない脅威」である。
そして理解不能であるという事実が、国家にとって最も制御しがたい『リスク』であるからだ。
防衛省は当該種族を『ハーピー』と仮称し、現在、その全容は依然として不明であることから、分類を見送り、代わりに「特地飛行生命体」として指定している。
実際、拉致事件以降、特地調査隊による同種への接触行動は全面的に凍結されており、調査任務においても空域警戒を最優先とする行動規範が定められた。
以後、接近や交信の試みは行われておらず、遭遇した場合は直ちに退避または遮蔽を行い、接触を避けることが命じられている。
だが、その一方で、ハーピーと思しき飛行生命体は今もなお、北陸山間部および北海道の境界地帯に断続的に出没している。
特定の行動パターンや意図的な接近経路が確認されているわけではないが、人間の男が滞在する地点や観測機材の稼働地点に対して、局所的に滑空・旋回する動きが複数回記録されている。
行動に攻撃性は見られない。
だが、その「選別された接触傾向」が国家にとっての懸念の核心だった。
対象が、もしも偶然ではなく、明確に『男性』という属性を持つ人間に対して集中しているのだとすれば、
それは単なる野生動物の飛翔とは異なる――戦略的選好とすら解釈可能だった。
そして何より、
彼女たちは沈黙を保ったまま、空にいる。
観測を続け、降りてくる気配を見せず、ただ空を巡回し――
いつ再び、誰かを連れ去るかも分からないという『常在の不安』だけを、国家に残していた。
⸻
0600時、定刻。
東部荒野には、まだ淡く濁った朝霧が残っていた。
前夜の冷気が尾を引き、乾いた風が地表を這いながら砂利と赤土、機械油と焼鉄の臭気を混ぜ込んで吹き抜けていく。
地平線の向こう、太陽の輪郭は未だ現れず、雲の縁を鈍く染めるだけだった。
その静寂を破ったのは、低く這うような震動――
指揮回線の起動を知らせる信号波が、仮設アンテナを震わせた。
演習本部車両。
6両の指揮通信ユニットが連結された仮設の前線司令部では、コンソール群がすでに作動していた。
陸幕および在日米軍との戦術連携は確保済み。幕僚6名と技術士官2名が、各機器のモニターを注視しながら微動だにせず待機している。
これは「演習」である。
だが、想定されているのは明確に『初戦』――未知に対する迎撃であった。
スピーカーから流されたのは、機械合成音ではない。
それは、声帯を通した生の命令だった。
「――演習、始め!」
号令と同時に、演習地の各地点に隠されていた発進機構が作動。
空気を圧縮し、バルブが開放される音が次々と響く。
即座に、Mock Harpy群が姿を現した。
銀白に塗装された中型多翼ドローン。
全長約1.5メートル。もとは民間用マルチコプターだが、外装フレームには人型の輪郭が施され、視覚錯誤によって上空からの姿を「飛翔する女性」に近づけている。
表層には滑空を再現する合成羽根。内蔵スピーカーは不定形の“鳴き声”を断続的に再生し、訓練空域に独特の緊張をもたらしていた。
Mock Harpy群は、飛翔時に隊列を保たない。
それぞれの機体が独立した航法を行いつつも、群体としての論理同期を維持していた。
風を読み、螺旋を描き、斜めに角度をつけながら上昇するその動きは、明らかに「航空機」の挙動ではない。
日本は異世界転移の際、地球周回軌道上のあらゆる衛星を喪失した。
測位、通信、気象、偵察――
かつて近代戦を支えていた全ての『空からの網』は、いまや存在しない。
Mock Harpy群は、それを前提として設計されている。
INS(慣性航法装置)とV-SLAM(視覚自己位置推定)、そしてAIによる群体制御演算。
各機体は、事前にマッピングされた地形データと照合しながら自己位置を推定し、相互に通信することで統一された飛翔挙動を展開していた。
その結果、形成されたのは――機械にして『生物的』な滑空。
離脱、再結集、微調整された間合い。
隊列の中央で高度を変え、両翼を散らしながら進入してくる様は、まるで「意思を持つ群れ」だった。
Mock Harpy群は静かだった。
プロペラ音も制限され、代わりに響いていたのは、スピーカーから再生される甲高く、そして生物的な音。
記録にあった、調査員達が接触したハーピー達の『鳴き声』
それが、訓練空域に満ちていた。
「識別システム、Mock Harpy群を補足。仮想敵33体、高度120から上昇中。最大160、進入角45度。隊形は不規則螺旋。」
淡々としたオペレーターの報告が、指揮ユニットの壁面を響かせた。
会話は短く、正確だった。誰も無駄な発話をしない。
山本一尉は、双眼鏡をわずかに上げ、霧の向こうに浮かぶ群影を捕らえた。
白銀の光がかすかに反射する。
視界の奥、滑空するMock Harpy群は確実にこちらへと距離を詰めてきていた。
「GPSなしで……ここまで制御されてるのか」
低く、唇の奥で呟いた。
「……“ハーピー”の挙動だな。これは……本当に、再現されてる」
眼下では、隊員たちが射撃姿勢を取っている。
照準が一斉に上を向く。
だが、射撃よりも早く――Mock Harpyは空を滑っていた。
模擬標的。訓練機材。
それらの言葉では、説明できない『異質』さが、上空には漂っていた。
向かってくる標的機は、もはや単なる無人機ではなかった。
あまりにも高精度に再現された挙動と外形は、隊員たちに――理屈ではなく、本能で――「自分が狙われている」という錯覚を引き起こした。
ただ飛んでくるのではない。『自分に近づいてくる』という感覚が、肌の奥に冷たい線を引く。
それは単なる機械ではない。
そう錯覚させるだけの『何か』が、確かにそこには漂っていた。
演習は始まったばかりだ。
だが、誰もがすでに『本番』を意識していた。
⸻
「敵、上空より接近中! 仮想目標、高度一五〇。編隊飛行を維持――接近個体、三十体超!」
冷たく報告される数値。
画面の上に描かれた紅い航跡――Mock Harpy群は、ただ飛んでくるのではない。
滑空し、風を切り、獲物を嗅ぎ取るように部隊上空へ迫ってくる。
朝靄の中、空は明るさを増していたが、照度とは裏腹に地上の空気はどこまでも重い。
鳥でも飛行機でもない。人に似た『何か』が編隊を組んで飛来する異様さが、隊員たちの皮膚の奥にまで染み込んでいた。
左翼――
第14普通科連隊の後列には、91式携帯地対空ミサイルを構えた隊員達が配置されていた。
各員が番号を持つ標的を視界に収め、肩に担いだミサイルの照準装置が電子音を立てる。
レティクル内の熱源が真円に収束するたび、何かが肺の奥を圧迫するような緊張が走った。
「目標ロック完了。熱源補足、安定」
「五名とも射角よし。……撃てますッ!」
その瞬間、大西三佐の声が突き刺さる。
「発射ッ!!」
空気が、断裂した。
五つの発射音は同時に地を震わせ、五本の白煙が弧を描いて空へ跳ね上がる。
煙と音圧が地上を殴るように通過し、耳膜が短く、苦しく軋む。
隊員たちはただ、その軌跡を見つめていた。
火線は交差せず、互いに干渉せず、まるで“生き物のように”滑らかに分かれ、各々の標的へと収束していく。
Mock Harpy群は、迫るミサイルの接近に応じて空中で編隊を解いた。
一体は急上昇、別の一体は右旋回。それぞれが回避行動に移っていた。
だが、無駄だった。
最初の直撃――
高度130。空中に赤い閃光が弾け、銀白の羽根パネルが爆風に巻かれて空中にばら撒かれる。
破片が、陽光を反射しながら緩やかに落ちていく。
次の瞬間、二発目が別の標的を貫く。
機体中央で内部推進部が吹き飛び、Mock Harpyは姿勢を維持できずに螺旋を描いて墜落していった。
三体目は空中で真っ二つに割れ、火花とともに回転しながら分離。
四体目はミサイル衝突と同時に後方へ跳ね上がるような挙動を見せ、そのまま内部バッテリーが過熱して発火。
煙を引いて焦げながら、まるで叫ぶように落下していった。
そして五体目――
直撃によって羽根の片側を失い、スローモーションのように傾きながら墜ちていった。
五機――全て、撃墜。
地上の陣地では、何一つ声が上がらなかった。
誰もがそれを、歓声で消すには惜しい光景として、見届けていた。
白煙の尾が空にまだ残る中、それを見た隊員が叫ぶ。
「……全弾命中ッ!」
だが、終わらなかった。
Mock Harpy群――残る個体たちは五体が墜とされたことで明確に行動を変化させた。
編隊を維持していた主軸が崩れた直後、それぞれの個体が独立して軌道を変え始める。
統制された動きではない。個別判断の『突入行動』だった。
「群体、分裂!進路、地上へ!高度を下げてる――」
「……進路、分散している。目的は我々と米軍側か。しっかりと狙いを定めているな」
報告に重なるように、Mock Harpyたちは滑空角を鋭く切り、低空で風を抉るような進入を開始した。
空は、もう静かではなかった。
耳の奥では、さっきの爆発音の残響がなおも反響し、破片の落下音が地面を叩いている。
焦げた羽根繊維の匂い、焼けた電子部品の臭気――
それらが混じり合い、空の上から「次が来る」ことを告げていた。
「……高射砲、出せ。迎撃陣地を張るぞ」
大西三佐の声が再び響いた時、演習は完全に“演習”ではなくなっていた。
⸻
右翼陣地――
国家戦略特区第一区域の西縁、緩やかな丘陵が広がる防衛ライン。
そこには米陸軍第7歩兵連隊・第2機械化中隊が配置されていた。
陣地の奥にはM2A3ブラッドレーIFVの列が並び、その脇で対空火器班がスティンガーを手に展開している。
乾いた風が地表を這い、兵士たちの装備に絡みついた砂を巻き上げる。
全員が、HUDのバイザー越しに上空を見上げていた。
Mock Harpy群が来る。
銀白色の機影が、朝焼けの空にかすかな軌跡を描きながら編隊で接近中だった。
人間に似た輪郭と異様に滑らかな滑空運動は、ただの模擬標的ではなく『敵性の兆し』すら感じさせる。
米軍兵士の誰もが、それをただの訓練とは思えなかった。
キャプテン・アンドリュー・コールマンは、ブラッドレーのハッチを背に、無線マイクを掴むと短く叩きつけた。
「Red Three, this is Red One. Harpy-class mock targets inbound. FIMs ready. Fire on my mark.」
《レッドスリー、こちらレッドワン。ハーピー型の模擬標的が接近中。FIM(スティンガー)を構えろ。指示で発射せよ。》
無線の中で即応する声が跳ね返る。
『Roger that, sir! Targets locked. Firing now!』
《了解です!目標をロックしました。発射します!》
肩に担がれたFIM-92スティンガーが、瞬間的に発射された。
空が裂けた。
スティンガーの射出音は、爆発に似た鋭い咆哮を残して消え、白煙の筋を引きながら空へ昇る。
ミサイルはわずかに傾いた姿勢で加速しながら、Mock Harpyの進路へ突っ込んでいった。
Mock Harpy群の中で二体が反応。
一体は滑空角を切り上げて急上昇、もう一体は旋回して回避機動を試みたが――
ミサイルは軌道を修正し、執拗に追尾を続けた。
第一弾、命中。
上空で白い閃光が弾け、Mock Harpyの中央部が炸裂。
鋭く破断された炭素フレームと白銀のパネルが空中で拡散し、まるで羽根のように散っていく。
爆風の余韻がしばらく空に残った。
続く第二弾も命中。
回避機動を行っていた個体の背部に突き刺さるように炸裂。
衝撃波で機体全体がねじれ、姿勢を失ったまま、炎と煙を引きながら真下へと落下していった。
地表の兵士たちはその光景を凝視していた。
残骸が回転しながら落ちてくる。破片が草原を切り裂いて跳ね上がり、火花を散らす。
風が、焦げた電子部品の臭いを運んできた。
しかし、Mock Harpyの2機が撃墜された直後――
残存個体の群れが一斉に挙動を切り替え、滑空軌道を乱しながら再編を開始した。それを見た観測兵が即座に声を上げた。
「Enemy formation dispersing! All units, eyes up and stay on intercept vectors!」
《敵編隊が分散中!全ユニット、迎撃軌道を維持しつつ警戒を強化せよ!》
続けざまに、別の兵士が軽口混じりに無線でぼやく。
『Tch… figures. Only Japan could build drones that fight back. Beats the Syrian trash we used to swat.』
《ったくよ……さすが日本製ってか? シリアのオンボロとは格が違ぇな。》
すかさず別の兵士が低く返す。
『No shit. Whole other league.』
「まったくだ……次元が違うぜ。」
その瞬間、コールマンの声が無線に鋭く割り込んだ。
「Can the chatter. Focus on intercept. They’re adapting.」
《無駄口を叩くな。迎撃に集中せよ。奴らは対応してきてるぞ。》
戦術支援班が沈黙を守ったまま、次の誘導目標を再スキャン。
兵士たちは口を閉じ、照準ラインを補正しながら再び肩のミサイルを構えた。
⸻
Mock Harpy群――
撃墜された7機をきっかけに、群れの挙動は一斉に変化した。
編隊を乱し、滑空角を急角度に落とす。
Mock Harpyたちは群れを分散させ、まるで狙いを定めたかのように人員配置の密集地点――
指揮車両、通信アンテナ、観測車両へと同時に突入を開始した。
「They’re coming down! Real low! Looks like they’re gunning for the CP!」
《来たぞ! 低空だ! 指揮車両を狙ってきてやがる!》
観測兵が叫び、混成中隊の全車両へ迎撃命令が発せられる。
「低空侵入! 各車両、対空戦闘用意ッ!」
陣地中腹、米陸軍側――
M2A3ブラッドレーの砲塔が唸りを上げながら回転、25mmチェーンガンが火を吹いた。
曳光弾が扇状に空を裂く。
Mock Harpyの一体が右翼を撃ち抜かれ、羽根をひるがえしながら回転墜落。
だが、突入速度は速い。
「They’re speeding up—get ready for close pass!』
《奴らが加速してるぞ! 接近に備えろ!》
別の米兵が怒鳴る。
「Stay sharp! Don’t let ‘em get near the antenna—push ‘em back!」
《気を抜くな! アンテナに近づけさせるな、撃ち落とせ!》
その時――
演習区域北端にて、新たな音が戦場に加わる。
87式自走高射機関砲 『スカイシューター1』が進入した。
レーダーが起動音を鳴らし、複数目標を瞬時に捕捉。
照準手の声が無線に走る。
「スカイシューター1、標的補足。射撃開始!」
35mm機関砲が重低音を刻みながら発射される。
その音は空全体を震わせ、Mock Harpyの群れ中央に突撃するかのような精密射撃が開始された。
「こちらスカイシューター1、複数機の撃墜を確認!」
上空――
火花と破片を撒きながらMock Harpyたちが次々と空中で砕け、残骸が煙を引いて地面へと落ちていく。
上空で火花と破片が弾け、Mock Harpyが1機、また1機とバラバラになって地面へ落下していく。
その様を見た米軍兵士の一人が、無線越しに叫ぶ。
「Hell yeah! Nice work, JSDF! That’s how you sweep a damn sky!」
《よっしゃ! ナイスだ、自衛隊! 空を掃除するってのはこういうことだな!》
「敵、減勢中。目標数、残り7……5……3!」
日米の連携下、火線は寸分の狂いもなく空域を制圧していた。
だが、その中でも一人の米兵が苦笑しながら呟く。
「Goddamn… and this is just a drill? They sure fooled me.」
《マジかよ……これが訓練だって? まんまと騙されたぜ。》
爆煙と共に、Mock Harpyの最後の残存個体が旋回しながら高度を下げ、姿を消した。
硝煙と焦げた電装品の臭気が残る空域には、ついに音が途絶えた。
⸻
――13分後。
最後の曳光弾が空を断ち、砲声が止んでからすでに2分が経過していた。
Mock Harpy群の影は空から消え、残されたのは焦げた合成繊維と、点在する黒煙の柱だけだった。
風が吹いた。
しかし、その風に混じってくるのは草の香りではない。
焦げた電子部品の臭気と、乾いた土に沁みた火薬の名残が、兵士たちの嗅覚に残る。
M2A3の砲塔は停止し、87式自走高射砲も砲塔を徐々に落としていた。
各砲身からは熱気が立ち昇り、冷却ファンの回転音だけが、静寂に打ち消されずに響いていた。
大西三佐は、防弾ベスト越しの汗に気づきながら、肩の無線端末から耳を外した。
砲煙と砂塵の匂いが、鼻腔をじわりと刺激する。
彼は戦況表示パネルを一瞥し、周囲の兵士がまだ照準を維持しているのを確認しながら、低く、誰に言うでもなく呟いた。
「……終わったか」
その言葉は、誰の返答も求めてはいなかった。
だが、ちょうどその直後――
共通帯域の主回線に、JGF-T本部からの通信が流れ込んだ。
『こちらJGF-T本部。最終評価中……全目標の行動停止を確認。敵性運動なし。』
『演習区域の確保完了と判断する。後方支援部隊、進出を許可する。』
言葉のひとつひとつが、静寂に落ちる音のように、はっきりと聞こえた。
指揮車両の中で、通信兵が頷きながら送信スイッチを押し返す。
『JGF-T本部より全部隊へ通達。武装セーフティ確認、後方支援車列の通行を優先せよ』
丘の向こうから、土煙と共に後方補給部隊の列が現れる。
装甲を持たない軽車両が慎重に侵入し、残骸の位置と地形を確認しながら進行を開始した。
その様子を黙って見つめながら、大西三佐は再び片膝を立てて立ち上がり、帽子のひさしを少しだけ上げた。
空は澄んでいた。
だが、その空に向けて彼の目が向くことはなかった。
⸻
仮設司令本部――
国家戦略特区第一区域の北側、高台に設営された小規模な統合作戦拠点。臨時施設には、熱のこもった無線機器と演習管制端末が並んでいた。
換気扇が回る音と、冷却ファンの唸りだけが響くその空間の中央に、ひとりの男が立っていた。
陸上自衛隊第14普通科連隊・演習指揮官――久瀬一佐。
数分前まで、自らの手で“空から来る者たち”への迎撃を統括していた男の眼差しは、天井のない空へ向いていた。
大型スクリーンには、Mock Harpy群の軌跡を描いた赤い航跡が、停止した状態で静かに残っている。
その下に立つ久瀬は、身じろぎもせず、モニターの端をゆっくりとなぞるように指先で押さえながら、ぽつりと呟いた。
「……なんとか、無事に終わったか」
発声というよりは、胸腔に溜まった重さを吐き出すような言葉だった。
その声音に、誇りも歓喜もない。あるのは――限界ぎりぎりの現場を知る者の、静かな実感だけだった。
その背後から、規則正しい足音が響く。
「ご苦労様でした、久瀬一佐」
仮設本部のテント入口から現れたのは、特地調査本部司令官・本田である。
黒い詰襟の制服に身を包み、帽子のつばを軽く下げたまま、本田は施設内の熱気と硝煙の名残を一瞥した。
「ここが『演習』の現場とは……正直、想像を超えていました」
久瀬は小さく息を吐き、言葉を継がずにいた。
本田はその沈黙を理解したように、口調をやや落として続ける。
「模擬標的のつもりが、これほどまでにハーピーに近い挙動を再現するとは。予行演習ではなく、ほとんど実戦のようでしたね」
その言葉に、久瀬がようやく口を開いた。
「まあ実戦では……ここまでの動きはできないでしょう…」
スクリーンには、撃墜されたMock Harpyの軌跡が停止したまま残っている。
久瀬の言葉に、本田は眉をわずかにひそめた。
「……AIとドローンの組み合わせ。すでに地球での戦闘記録でドローンの脅威性は明らかでしたが……」
彼はそう前置きしながら、スクリーン上の軌道線――まるで『意志』を持って目標を選別したかのような挙動の残骸――に視線を移す。
「ここまで来ると、機械というより生物に近いですね。」
久瀬は、頷く代わりにモニターの電源を落とした。
画面が暗転し、室内の照明がかすかに反射する。
しばらくの間、二人の間には沈黙があった。
その静けさの中で、本田が低く言った
「……今回の演習。国民に公表されるそうですね」
すぐ後ろに立つ久瀬が、静かに応じる。
「そのようです。報道各社にも『戦略特区における自衛活動の一環』して発信が許可されたようです」
しばしの沈黙。
本田は、無言のまま腕を組み、そのまま言葉を絞り出すように口を開いた。
「……上は、なぜそこまで焦っているんでしょうか」
本田の声は低く、しかし言葉の一つひとつに確かな重みがあった。
数秒の間があった。
久瀬はその静けさの中で一度だけ瞬きをし、ゆっくりと応じた。
「……つまり、『なぜここまで軍備を拡張するのか』――そう、聞きたいのですね?」
本田は短く頷いた。
「ええ」
しばしの沈黙を挟んだあと、久瀬は仮設本部の奥に掲げられた戦域地図に視線を向けた。
「確かに、ドラゴニュート部族との交流成功は貴方STFの功績です。あなた方の協力がなければ、今ごろここは彼女達と我々の血が流れていたでしょう」
言葉の端に、わずかな尊敬と、同時に言い知れぬ苦味が混ざっていた。
「ですが――それは、『一つの種族』との対話が成り立ったに過ぎません」
言い切ったその声には、現場でしか抱えられない現実の重さが滲んでいた。
「ドラゴニュート部族との外交がどうにか成立し、最低限の『共存の可能性』が示されたのは、確かに希望でした」
「ですが」と、彼は語調を落とす。
「……それと入れ替わるようにして、ハーピー、獣人、セイレーンなどの様々な異種族との接触が、この2ヶ月で爆発的に増えています」
本田は無言で聞いていた。
「そして何より……」
久瀬は一瞬、言葉を探した。
口にするには重すぎる“現実”だった。
「日本本土に――ハーピーという異種族たちが、すでに『定住』してしまっているんです」
その言葉は、久瀬自身が発したにもかかわらず、空気に落ちた瞬間に重力を帯びて沈んだ。
その重みは、聞いた者だけでなく、言った者自身にも等しくのしかかっていた。
本田は沈黙を保っていた。
わずかに視線を落とし、思考の奥で言葉を編むように、静かに口を開く。
「……転移事件の混乱から、国民はまだ立ち直っていません。地球を喪い、家族を喪い、『世界が変わった』という現実に、誰もが今なお順応できずにいる」
声は抑えられていたが、その抑制された語調の中に、久瀬が背負ってきた葛藤が、にじんでいた。
「そこに、あの『拉致事件』が起きた。たった一人の調査員が攫われた出来事。けれど――それを見た者たちには、『異種族との共存』は不可能だと映ったかもしれません。」
本田はうなずきもせず、否定もせず、ただじっと聞いていた。
「あの事件以降、異種族そのものへの拒絶と不信が広がっています。ハーピー達の数が増加している北陸地域の住民、転移事件の影響で生活基盤を奪われた被災者、特に転移事件で被害にあった人たちの間で異世界や異種族への憎悪は、静かだが確実に浸透しています。」
それは、現場の声であり、同時に国の構造を内部から蝕む『感情の変質』でもあった。
「……一部の者は声を上げはじめています。『奴ら』を排除しろ、『人類の領域』を守れと」
久瀬の口調は抑えられていたが、その言葉には曖昧な余地がなかった。
それは机上の予測ではなく、現場から吸い上げた生々しい『傾向』であり、既に輪郭を持ち始めている現実だった。
その声は、本来ならば“過激派”と一蹴される類のものだった。
だが今、それが地方議会の中で“慎重な議論”として議事録に残り、
世論調査の数字として可視化され、
そして――『政治的な存在』へと昇格しつつある。
久瀬は言い終えると、しばらく黙って天井を仰いだ。
それを聞いた本田は、ぽつりと呟く。
「……要は、『ガス抜き』ですか」
本田はわずかに表情を曇らせた。
そして、一瞬の逡巡のあと、静かに肯定した
「ええ。――『国家滅亡の危機』は、今のところ去りました。ですが、政権は……国民の怒りと恐怖が、いつどこへ向くか、そればかりを気にしています。」
淡々とした口調だった。だがその奥には、政治家たちが恐れているのが『異種族』ではなく、『国民の暴発』であるという、皮肉めいた事実が隠されていた。
「だからこそ見せねばならない。いざという時に撃てるということを、守れるということを、本質的に意味がなくても、『安心』という演出が必要なんです」
「……演出、ですか」
「ええ。実態よりも、映像で納得させるというのは……この国が、まだ『戦わずに生き残れる』と信じている証拠でもありますからね」
本田は、その言葉を否定しなかった。
だが、彼の目には――
演習空域に焼け落ちたMock Harpyの残骸が、風にさらされていく光景が、はっきりと映っていた。
⸻
本田が沈黙を破ろうと口を開きかけた、その瞬間だった。
「……通信です、司令。緊急帯域にて接続要求が――」
通信士の声が一段低く、空気を変える。
本田は眉をひそめ、椅子から腰を上げずに応じた。
「……なんだ?」
「……特地中央本部より、直通です」
通信士の声は低かった。だが、その語尾に潜んだわずかな緊張に、本田は即座に反応する。
視線を落とした端末画面には、通常の演習通信では決して使用されないコード。国家戦略級の優先信号であり、演習中であろうと問答無用で最優先される種別だった。
本田は一言も発さず、席を立ち、歩を進めて通信ブースの前に立つ。
端末に接続される回線が一度ノイズを帯び、続く一瞬、場の空気が締まるような沈黙が落ちた。
そして――
『……本田司令。失礼します。緊急でお伝えしなければならない事案が発生しました』
声の主は特地本部の隊員。だが、常の冷静さはすでに失われていた。
音質こそ平静を保っていたが、語尾のわずかな乱れが、情報の性質を物語っていた。
「どういうことだ」
本田の声は抑制されていた。だが、その内側には鋭い予感と警戒が混ざり合っていた。
『……本事案は、特地内における人的資源の喪失に関するものであり、現地部隊の即時対処が困難であると判断されました』
「人的資源――?」
本田の眉がわずかに動く。
『……大陸西方への調査任務を行っていた特地調査隊員・小田一等陸曹。彼が、何者かに“攫われました”』
その言葉が放たれた瞬間、通信室の空気が凍りつく。
本田の視線が端末画面へと移り、数秒の間、沈黙が続く。
やがて彼はゆっくりと、呟いた。
「……重大事案、か」
だがその胸中には、演習の意義すら霞ませる、冷ややかな予感が広がっていた。
「――『ハーピー』だけでは、済まなくなってきたか」
その言葉は誰にも聞かせるものではなかった。
ただ、すでに始まってしまった『次の段階』の到来を、誰よりも早く理解した者の独白だった。