※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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※2025.12.28 誤字脱字を修正し、一部改稿しました。


第十二話 ひよっこ冒険者といっしょに冒険⑤

 湖の闇へ沈みゆく、かつての支配者。

 あとに残ったのは、絶対的な静寂――そして、生まれて初めて空気を知ったみたいに、荒く肩を上下させるカイルだけだった。

 

 彼の身体を包んでいた神々しい蒼の燐光が、役目を終えた煙のように、すぅ……と霧散する。

 同時に、“借り物の力”が抜けた肉体へ、凄まじい反動が牙を剥いた。

 

「……かはっ……! はぁ……っ、はぁっ……!」

 

 魂が燃え尽きたあとの、乾いた虚脱。

 次いで、内側から臓腑を引き裂かれるような激痛が襲い、視界が白く瞬いた。

 

《おい、どうした小僧ッ!? さっきまでの威勢はどこ行った!》

 

 エクセリオンの動揺した声が、鼓膜ではなく頭蓋の内側を叩く。

 だが今のカイルに、返事をひねり出す余裕はない。心臓を直接握り潰されるような痛みで、息がうまく吸えなかった。

 

「ぐっ……! あ……がっ……!」

 

 膝が折れる。

 倒れそうになる身体を、剣を杖にしてどうにか支えた。

 指先が痺れて、握力の感覚すら薄い。

 

《……チッ。素人が神域の力なんざ使うからだ、無茶しやがって。だが案ずるな。俺様が見る限り、極度の疲労と精力欠乏だ。死にはしねぇ。――ま、一週間は寝たきりだろうがな》

 

「はは……そりゃ、よかった……マジで……冥府の川、見えたわ……」

 

《だが、見事だったぜ小僧! これでテメーは、誰も成し得なかった『水底の冥域』の完全攻略者だ! “雷神のパン”が消えた時は終わったと思ったが……さすがだ。俺様が見込んだだけはある!》

 

「ヘッポコって言ってたくせに、調子いいな……それより……」

 

 カイルは息を整えることすらままならないまま、言葉を継ぐ。

 

「……旦那と……ラースは……無事、なんだよな……? 俺、もう……指一本……動かせそうにねえ……」

 

《フン……例の変態オヤジは、幸せそうなツラでいびきかいてやがる。魔族のチビは……お、起き上がったな。ふらつきながらも、こっちに来る。案外、根性あるじゃねえか》

 

 その言葉で、張り詰めていた意識の糸が、ほんの少しだけ緩む。

 ――生きてる。

 少なくとも、今は。

 

「――カイル、くん……?」

 

 震えているのに、折れない。

 鈴の音みたいな声が、耳に届いた。

 視線を向けると、ラースがふらつきながらも確かに立っていて、こちらへ歩いてくるところだった。

 

「……ラース……」

 

「よかった……無事、だったんだな……」

 

「う、うん……! でも、カイルくん、すごい怪我……! はやく治療しないと……!」

 

 ラースは必死の顔で駆け寄り、痩せた肩でカイルの身体を支えようとする。

 その健気さが、今はただ、胸に沁みた。

 

「ああ……そうだな。とにかく、ここを出よう……」

 

 カイルは剣を支えに、重い身体をどうにか持ち上げる。

 

「旦那も……起こさないと……」

 

 視線の先。

 死の祭壇からの唯一の脱出口になり得る、古びた小舟が静かに揺れていた。

 

「湖には……まだ、あのヤベぇ魚がいるかもしれねえ……悪いが……もう一匹も、倒せそうにねえや……」

 

《フン。心配すんな。主が消えた今、この領域の支配権は一時的に曖昧になる。眷属の魚どもも小舟の罠に反応しねえはずだ。万が一襲ってきても、この俺様が睨みを利かせてやる》

 

 主を倒した今、舟に仕掛けられていたはずの罠も、湖底の殺意も――いったんは沈む。

 剣はそう断じた。

 

「ラース、舟まで行けるか? 旦那を運ぶのは骨だが、二人なら……」

 

「うん。大丈夫。僕、頑張るよ!」

 

 ラースが力強く頷く。

 

 二人は互いを支え合い、岩陰へ――モーブルのいる場所へ。

 そしてその先の希望へと、重い一歩を踏み出そうとした。

 

 ――その、瞬間。

 

《――待てッ! 何か来るぞ!》

 

 エクセリオンの絶叫が、脳髄を直接揺さぶった。

 カイルが反応するより早く、ラースが「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、身体を強張らせる。

 

「なんだ……!? まだ何かいるのか!?」

 

《違う! この魔力……間違いねえ。さっきのタコ野郎だ! あいつ、まだ死んじゃいねえ!》

 

 冷酷な死の宣告。

 馬鹿な、と考える間もなく――鏡のように静まり返っていた湖面が、ごぽり、と膨れ上がる。

 まるで巨大な心臓が、もう一度だけ脈打ったみたいに。

 

 次の瞬間、静寂が弾けた。

 水面が爆ぜ、漆黒の触腕が、思考を置き去りにする速度でラースへ絡みつく。

 

「ひゃあああああっ!?」

 

 悲鳴は途中で無慈悲に断ち切られた。

 ラースの小さな身体が、玩具みたいに軽々と宙へ吊り上げられる。

 

「ラースッ!!」

 

 カイルは叫び、反射で手を伸ばす。

 ――届かない。

 指先は虚しく空を切り、触腕はラースを絡め取ったまま、ゆっくりと湖の中心へ引きずり戻していく。

 

 そして湖の闇から、ぬらり、と。

 

 さっき真っ二つになって沈んだはずの“主”が――半身だけで、再び浮上した。

 断面は塞がっていない。肉の裂け目からは、無数の触手が胎動みたいに蠢き、再生の途中をあざといほど見せつけてくる。

 

 溶岩の双眸が、さっきよりなお深い、昏い憎悪を宿してカイルを射抜いた。

 そして勝ち誇るみたいに、捕らえたラースを高々と掲げてみせる。

 

《クソッ! やられた! 本体の魔石、あのデカい貝殻の中だったか! 小僧の斬撃は“肉”を割っただけ――命までは断ってねえ!》

 

 エクセリオンが、舌打ち混じりに吐き捨てる。

 

 ――そうだ。

 カイルが斬ったのは、あくまで“動かすための肉体”だった。

 絶対的な生命を司る心臓部――魔石は、今もあの冒涜的な巻貝の奥で、邪悪な鼓動を刻み続けている。

 

《しかも、最悪の状況だぜ……。奴の弱点が『雷』だって話は覚えてるな? あの魔石を破壊するには、それこそ神鳴りの一撃が必要だ。だが、肝心の『雷神のパン』は砕け散り、小僧の神域ももう使えねえ……!》

 

 絶望。

 その二文字が、カイルの胸の内を真っ黒に塗りつぶす。

 

 もう、力はない。

 あの奇跡は、魂ごと燃やして放った“一度きり”だ。

 今の自分は、指一本まともに動かせない――ただの抜け殻。

 

 その無力を笑うみたいに、主の周囲で蒼白い水が凝り固まっていく。

 一本、また一本。

 槍の数は増え、やがてカイルを取り囲む“死の輪”を形作った。

 

 とどめだ。

 今度こそ、回避の余地はない。

 

 仲間は人質。自分は満身創痍。万策尽きた。

 光が、カイルの瞳から消えかけた――そのとき。

 

 触腕に吊られ、ぐったりしていたはずのラースが、か細いのに澄んだ声で言った。

 

「……もう、終わってるよ」

 

 静かすぎる呟き。

 あまりにも場違いで、だからこそ刺さる言葉。

 

「……終わってるんだ。君の、負けだよ」

 

 主の動きが、わずかに止まる。

 槍を放つ直前で凍りつき、憎悪の双眸に、初めて“困惑”が混じった。

 掲げた獲物を――理解不能なものでも見るように、じっと見つめている。

 

「ラース……? 何を、言って……」

 

 カイルにも、エクセリオンにも意図が読めない。

 恐怖で錯乱したのか。そう思いたくなる。

 だがラースの目は正気だった。怯えに潤みながらも、その奥には確信だけが宿っている。

 

 その奇妙な膠着を破ったのは、まったく予期せぬ“闖入者”だった。

 

 ふわり、と。

 

 竪穴の入り口から、蛍のように淡い光を放つ玉が一つ、頼りなげに漂い込んできた。

 道に迷った魂みたいに、静寂の空間をふらふらと泳いでいる。

 

「なんだ、あれは……」

 

 目を奪われた――次の瞬間。

 

 ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!

 

 地響き。

 いや、無数の何かが殺到してくる音。

 

 入り口の闇から、緑色の“津波”が溢れ出した。

 

 緑蛙(グリーンフロッグ)の群れ。

 一匹、二匹じゃない。百、二百――いや、千は下らない。

 上層に生息する全てが、一斉に最下層へ雪崩れ込んできたのだ。

 

 連中の狙いは一つ。

 先ほどから漂う、あの光の玉。

 

 その光景を見た瞬間、カイルの脳裏に、あの商人の言葉が雷みたいに蘇る。

 

「緑蛙には、動くものを執拗に追いかける習性がある」

 

 ――そうだ。モーブルはそう言っていた。

 そして今、その“習性”が、狂った規模で証明されている。

 

 触腕に吊られたままのラースが、震える声で、しかしはっきりと言った。

 

「旦那様が……教えてくれた。緑蛙は、動くものを執拗に追いかけるって……だから僕は考えたんだ。もし、あの怪物を倒せなかった時のために……僕にできる、最後の方法を……」

 

 『雷神のパン』が砕け散った、あの絶望の瞬間。

 ラースは、もう動いていた。光の精霊に頼み、上層へ“合図”を飛ばしていたのだ。

 

「精霊さんにお願いしたんだ……緑蛙の大群を、ここまで連れてきてって……!」

 

 光の玉は、ラースの意思を受け取ったみたいに、ゆっくり湖面へ向かう。

 追うように、緑蛙の津波が殺到した。

 

 ボチャン! ボチャン!

 凄まじい水音。次から次へと湖へ飛び込み――。

 

 その異常に、主ですら攻撃を忘れた。

 ただ、呆然と縄張りを眺めている。

 

 そして、惨劇が始まる。

 

 バシャアアアアアンッ!

 

 水面下が爆ぜ、剃刀みたいな牙を剥いた無数の殺人魚が、祝祭みたいに緑蛙へ襲いかかった。

 緑蛙の悲鳴。肉の裂ける生々しい音。

 湖は一瞬で、緑の皮膚と赤い血、銀色の鱗が入り乱れる阿鼻叫喚の地獄絵図になる。

 

 数分後。

 あれほどいた緑蛙は、一匹残らず喰い尽くされた。

 

 ――そして。

 

 ポンッ、ポンッ、ポンッ。

 

 間の抜けた音と共に、湖面が“別の顔”を見せる。

 喰い散らされた死骸が光の粒子となって消え、その跡へ、鈍い銀の装飾が施された古めかしい木箱が、次々と浮かび上がった。

 

 ――新人殺し《ルーキーキラー》。

 欲に目が眩んだ初心者を焼き払う、高圧電流の罠付き宝箱。

 

 それが今、湖面を埋め尽くすほどに、揺れている。

 

 ラースはゆっくり顔を上げ、己を捕らえる絶対捕食者を真っ直ぐ見据えた。

 その瞳には、もう怯えはない。

 

「敵に罠を張られたら……罠でやり返す。これも、旦那様が教えてくれた“商売”の基本です」

 

 そして、静かに――だが、断罪みたいに宣言する。

 

「弱点は、集めました。――終わりだ、“水底の主”」

 

 その言葉が、引き金だった。

 

 湖面に浮かぶ数百の宝箱が――一斉に、呪いを解放する。

 

 バチバチバチバチバチチチチチッ!!!

 

 世界が白く焼けた。

 鼓膜を突き破る轟音と共に、宝箱という宝箱から蒼白い電光が噴き上がり、湖そのものが巨大な処刑装置へと変貌する。

 

 水は、最高の導体。

 走ったのは一本の稲妻ではない。無数の稲妻だ。

 高圧の奔流は一瞬で湖全体を満たし、水中の殺人魚を黒炭へ変え――最後に、湖の中心の“主”へと束になって収束していく。

 

『ギィイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!!!』

 

 神性の怪物が、生まれて初めて、そして最後の悲鳴を上げた。

 絶対の雷は、いかなる防御も許さない。冒涜的な巻貝を内側から焼き、逃げ道ごと魂を焦がしていく。

 

 パリン。

 

 ガラスが砕けるみたいな、あまりにも軽い音。

 命の核――魔石が、砕け散った音だった。

 

 次の瞬間、主の巨体は形を保てなくなる。

 崩れ、ほどけ、光の粒子となって散っていき――跡形もなく、消滅した。

 

 同時に。

 ラースを縛っていた触腕も霧散し、彼の身体が、静まり返った湖へ落ちていく。

 

「ラース!」

 

 カイルは叫ぶ。だが動けない。

 落ちる。落ちてしまう――はずだった。

 

 ラースの身体は、水面すれすれで、ふわりと浮かび上がった。

 見えない腕が受け止めたみたいに、優しく。

 

 よく見ると、ラースの周囲に小さな水の精霊たちが集っていた。

 きらきらと瞬きながら、彼の身体を支え、ゆっくりと岸へ運んでいく。

 

 彼らがこの冥域の真の主だったのか。

 あるいは、ラースの勇気に応えたのか。

 答えは誰にも分からない。ただ――その光景だけが、あまりにも幻想的で、美しかった。

 

 精霊たちは岸辺にラースを降ろすと、名残惜しそうに一度だけ輪を描いて舞い、やがて静かな湖の闇へ溶けて消えた。

 

 束の間の静寂。

 死闘の終わりを告げる、あまりに穏やかな幕引き。

 

「……ラース……! よくやった……!」

 カイルは全身から力が抜けていくのを感じながら、それでも魂を絞り出すように叫ぶ。

「本当にすげえよ、お前……! お前がいなきゃ、俺たち……みんな死んでた……!」

 

 知恵と勇気。

 それが確かに、ここで三人を生かしたのだと――確信が胸を満たし、遅れて安堵と感謝が押し寄せる。

 

 ラースは、はにかんだように笑った。

 それでも、その笑顔には少しだけ誇らしさが混じっていた。

 

 ――だが。

 

 ダンジョンは、感傷に浸る時間をくれるほど優しくない。

 

 ゴゴゴゴゴゴゴッ……!

 

 空間そのものが断末魔を上げたかのような激震が、三人を叩いた。

 

「なっ、なんだ……!?」

 

《おい小僧、上だ!》

 

 エクセリオンの警告に顔を上げた瞬間、信じがたい光景が広がっていた。

 天井の岩盤に、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走り、ぱらぱらと土砂が落ちてくる。

 

 先ほどまでの激闘――神性の化物の高位魔法と、カイルの理を超える斬撃。

 規格外の力がぶつかった余波が、古代遺跡の構造そのものを限界まで蝕んでいたのだ。

 

「嘘だろ……! 今さら、崩れるのかよ!」

 

 絶望の呟きは、次の轟音に呑まれて消えた。

 足元の小島が、船みたいに大きく揺れる。

 壁が砕け、岩塊が剥がれ落ち、湖面へ叩きつけられて巨大な水柱を上げた。

 天井からは、建物ほどもある岩が――一つ、二つではない。雨のように降り始める。

 

 もう、ここは“戦場”ですらなかった。

 冥域は、侵入者を道連れにして、自分ごと墓標になるつもりだ。

 

「ラース! 逃げるぞ!」

 

 叫んでも、身体が言うことを聞かない。

 魂を燃やし尽くした肉体は鉛みたいに重く、立ち上がることすら叶わない。

 岸へ運ばれたラースも、天変地異のただ中で腰が抜けたみたいにへたり込み、震えるだけだった。

 

「くそっ……! 動け……動けよ、俺の身体……ッ!」

 

 焦りだけが空回りする。

 このままじゃ三人とも、生き埋めだ。

 死闘を越えたのに、結末が瓦礫って――そんなの、冗談じゃない。

 

 カイルの心が本当に折れかけた、その時。

 

「……う……ぐ……頭が……割れる……」

 

 岩陰で倒れていた“巨体”が、のそりと動いた。

 ジンジ・モーブル。

 強欲商人にして、このパーティーの最後の切り札が――最悪のタイミングで、最高のタイミングで目を覚ました。

 

「だ、旦那!?」

 

「旦那様……!」

 

 呼びかけに、モーブルは呻きながら上体を起こす。

 

「……ラース、やかましいぞ……。わしが気持ちよく寝ている時は起こすなと、あれほど――……ん? なんだ、この地響きは……」

 

 朦朧としているのに、目だけが冴えていた。

 崩れゆく天井。

 揺れる大地。

 動けない二人の少年。

 断片的な記憶――神性の化け物、絶望的な戦力差、意識が途切れる直前の悲鳴――が、脳裏で噛み合っていく。

 

 商人の“損得勘定”は、状況把握においては戦術級だ。

 空白の時間に何が起きたかを、そして今何が起きているかを、秒で弾き出していた。

 

「……チッ。何があったかは知らんが――このままでは全員仲良く圧死、か……冗談ではない……!」

 

 悪態をつきながら、その思考はすでに最適解へ到達していた。

 

「ひよっこども、わしから離れるな! 下手に動けば瓦礫の餌食だぞ!」

 

 モーブルは頭痛に顔を顰めながら立ち上がる。

 

 次の瞬間。

 常人離れした膂力で、動けないカイルとラースを――米袋のように両脇へ抱え上げる。

 

「うおっ!?」

「ひゃっ!?」

 

「行くぞ。あの舟に乗る!」

 

 商人のものとは思えない足取りで、モーブルは小舟へ向かった。

 

「だ、旦那! 宝箱が……! あれだけあれば、借金なんて……!」

 

 カイルが湖面を指さし、未練を口にする。

 だが返ってきたのは、怒声だった。

 

「この期に及んでまだ金の勘定か、このど阿呆がッ! 貴様の命と天秤にかけて、あのガラクタにどれほどの価値がある! 資産(いのち)あっての物種だと、そのスカスカの脳みそに叩き込め!」

 

 モーブルは二人を舟へ放り込み、自分も飛び乗る。

 備え付けの櫂を掴むと、崩落する“死の湖”へ、躊躇なく漕ぎ出した。

 

 背後で、かつて玉座があった小島が、轟音とともに湖の底へ沈んでいく。

 水しぶきを上げ、舟は唯一の出口――竪穴へ突き進む。

 それは脱出というより、崩壊そのものとの競争だった。

 

「……ごめん、旦那……。俺、結局……手柄のことしか考えてなかった……。旦那とラースを危ない目に……」

 

「……フン。青二才の冒険者なんぞ、そんなもんさ」

 

 モーブルは櫂を止めず、短く言い捨てる。

 

「だがな、カイル。どんな財宝よりも――生きて帰る方が、よほど儲けもんだ。その『貸し借り』だけは、違えるなよ」

 

 荒い息の下で交わされた、短い言葉。

 それが、この九死に一生の冒険を締めくくるすべてだった。

 

 三人を乗せた小舟は、最下層が完全に崩れ落ちるその寸前――滑り込むようにして竪穴へ飲み込まれていった。

 

 

♦

 

 一週間後。

 モーブル商会、二階居住スペース。

 西日が差し込む穏やかな午後。

 店の喧騒が、どこか遠くに聞こえる。

 

 ベッドで上半身を起こしたカイルは、差し出された薬草茶を一口すすった。

 あれほど全身を噛み砕いていた痛みが嘘みたいに引き、いま残っているのは、心地よいだるさだけだ。

 

「……んめえ! この茶、なんだか元気が出るな!」

 

「当然だ。お前が寝込んでいた七日間の治療費、薬代、食費、それから――わしの手間賃。すべてが、その一杯に凝縮されておる」

 

「うげっ……。つまり、また借金かよ……」

 

 カウンター椅子にふんぞり返り、モーブルが帳簿から顔も上げずに鼻を鳴らす。

 その傍らで、ラースがまだ色のないカイルの顔を心配そうに覗き込んでいた。

 

「でも、本当に良かった……。カイルくん、三日間も目を覚まさないから、僕、心配で……」

 

「悪かったな、ラース。お前こそ、怪我はもういいのか?」

 

「うん! 僕は旦那様のポーションですぐに良くなったよ!」

 

 あの後、三人は人目を避けて店へ戻った。

 カイルは担ぎ込まれるなり倒れ、文字どおり死んだみたいに眠り続けたらしい。

 その間ずっと、モーブルとラースがつきっきりで看病していた――。

 

「まあ、ともかくだ。よくぞ生きて帰った。それだけは褒めてやる」

 

 モーブルはパタン、と帳簿を閉じると、ようやく顔を上げて二人を見据えた。

 

「それで……本題だ。例のダンジョン、『水底の冥域』について、お前たちに一つ、絶対に守ってもらわねばならんことがある」

 

 モーブルの声のトーンが、一段階低くなる。

 カイルとラースは、ごくりと唾を飲んだ。

 

「あの日の出来事……特に、最下層の存在と、そこでお前らが〝主〟を討伐したという事実は、誰にも言うな。いいな、絶対にだ。ギルドの仲間にも、酒場の女にもだ。この話は、我々三人の胸の内に封印する。墓場まで持っていけ」

 

 命令だった。

 反論の余地がない声音。

 

「な……なんでだよ!? 俺たち、誰もクリアしてないダンジョンを攻略して、あの化け物まで倒したんだぞ!? 報告すりゃ一気にゴールドランクだって夢じゃねえ! なんでそれを隠さなきゃなんねえんだ!」

 

 英雄の偉業を、誰にも誇れない。

 そんなの、飲み込めるはずがない。

 

 だがモーブルは、冷えた溜息ひとつで切って捨てた。

 

「青臭いことを言うな、ひよっこが。貴様は、”手柄”と”破滅”の区別もつかんのか」

 

 諭すように指を一本立てる。

 

「いいか。この国の法では、ダンジョンで得た戦利品は価値の大小に関わらず、すべてギルドへ届け出る義務がある。特に、未発見区画や“主”の討伐は『特級案件』だ。素材やアーティファクトの提出が絶対になる。国家転覆級の禁忌が眠っている可能性があるからな。これはギルドのルールではない。国家が定めた“法”だ」

 

「……それが、どうしたってんだよ」

 

「話は最後まで聞け、この単細胞が」

 

 モーブルの声が冷たく研がれる。

 

「義務を怠り、戦利品を隠匿したと見なされれば――国家への反逆罪だ」

 

 淡々と続く言葉が、現実の刃になる。

 

「冒険者資格の永久剥奪。全財産の没収。良くて辺境の鉱山で一生奴隷。最悪――」

 

 そこで一呼吸、わざと止める。

 

「……一度目を付けられたら最後、魂の欠片まで搾り取られると噂の『魔導騎士団』の地下牢で、二度と日の目を見ずに朽ち果てる」

 

 あまりに具体的で、逃げ道がない。

 カイルの喉が鳴った。

 

「さて、我々はどうだ? 最下層を発見し、S級――いや、災害級の“主”を討伐した。だが、持ち帰った戦利品は『ゼロ』だ」

 

 視線が突き刺さる。

 

「この状況で『主は倒しましたが、ダンジョンが崩れて何も持ち帰れませんでした』と報告して――国のお偉方が信じると思うか?」

 

「そ、それは……」

 

「思うはずがなかろう。奴らは必ずこう考える。『モーブル商会の強欲商人が、ひよっこを使って秘宝を独占した』とな。翌日には魔導騎士団が店へ雪崩れ込み、商品はもちろん――お前たちが今使ってる皿まで差し押さえる。そして我々は揃って地下牢行きだ。……そんな未来を、貴様は望むのか?」

 

 名誉だ英雄だと浮かれていた自分が、みっともなく思えてくる。

 カイルは絞り出すように言った。

 

「……じゃあ、俺たちが命がけでやったことは……全部、無かったことになるのかよ……」

 

 悔しさを、モーブルは否定しなかった。

 ただ、静かに言う。

 

「無かったことにはならん。我々三人が『知っている』。それで十分すぎるほどだ」

 

 そして、言葉の矛先をカイルの胸へまっすぐ向ける。

 

「いいか、カイル。冒険者が本当に求めるべきものは、名誉や名声みたいな腹の膨れん自己満足ではない。たった一つ――『生きて帰ること』だ。生きてさえいれば次の依頼も受けられる。美味い飯も食える。そして……溜まりに溜まったわしへの借金も、きっちり返せる」

 

 そこで、いつもの悪辣な商人の笑み。

 

「我々が地獄から持ち帰った、唯一にして最高の“戦利品”。それは――お前と、このチビと、そしてわし自身の『命』だ。これ以上の“利益”が、この世のどこにある?」

 

 損得勘定でしか動かないはずの男が語る“命の価値”。

 それが、どんな宝石より重く聞こえた。

 

「……旦那……」

 

 名誉はゼロ。

 借金は増えた。

 それでも不思議と、胸の底は満たされていた。

 隣でラースが、こくりと力強く頷く。

 

「僕も、旦那様と同じ気持ちです。カイルくんと、旦那様と……三人で生きて帰ってこられて、本当に良かった」

 

 その言葉が、カイルの最後の意地を優しく溶かす。

 

「……へっ。……分かったよ。もう言わねえ。もう言わねえ。あの日のことは――俺たちの秘密だ」

 

 カイルは照れくさそうに笑った。

 モーブルは満足げに頷き、ラースは花が咲くみたいに微笑む。

 誰も知らない、知られてはいけない、三人だけの英雄譚。

 それは誰にも誇れない代わりに、何物にも代えがたい“財産”になった。

 

 崖っぷちの剣士と、臆病な魔族と、強欲な商人は――ただの寄せ集めから、秘密と命を共有する「共犯者」へと変わったのだった。

 

 穏やかな合意の空気が、西日に照らされた部屋を満たす。

 これで、すべて終わった。

 誰もがそう思った、その時――。

 

《……よぉ、話はまとまったか? しんみりしてるところ悪いが、いつまでこの俺様を置物にしておく気だ?》

 

 部屋の空気をぶち壊す第四の声。

 ベッド脇に立てかけられた儀礼用の剣――鍔の青い宝玉が、不機嫌そうに明滅している。

 

 カイルが「あ」と、この世の終わりみたいな顔で凍りつき、ラースが「ひゃっ!」と外套の陰に隠れた。

 だが一番劇的に固まったのは、この一週間、その剣の存在に気づいていなかった男――モーブルだった。

 

 ガタンッ!

 椅子を蹴り立てて立ち上がる。

 

 その目が、まず“至宝”を見つけた鑑定士みたいにギラリと光り、次の瞬間――国家予算級の不良債権を抱えた財務官みたいに真っ青になる。

 

 商人の脳が、一瞬で算盤を弾く。

 剣の魔力量=資産価値。

 そして同時に、それが呼ぶ破滅=国家反逆罪では済まない未来。

 

「き、貴様ッ! その剣はなんだ!? その……ありえん魔力量は……! おいカイル! まさかとは思うが……! 『水底の冥域』から持ち帰った“唯一の戦利品”が、我々の『命』だけではなかった――などという、ふざけたオチではあるまいなッ!?」

 

 “最高の戦利品は命”

 美しい結論が出たばかりの部屋に、モーブルの魂の絶叫が木霊する。

 

 だが、その悲痛な叫びを、当の戦利品は鼻で笑うように蹴散らした。

 

《お、そこのオッサン。話が分かるじゃねえか。そうだ。俺様こそ唯一無二、至高の戦利品――魔剣エクセリオン様よ! 

おいド素人。さっさとこのオッサンに俺様の価値を説明しろ! 最高級ベルベットを敷いた専用の飾り棚! 毎日の手入れ用の聖油! 磨き役はゴールドランク以上の美女冒険者! これが礼儀ってもんだろ! 聞いてんのかコラァ!》

 

 空気を読む気が一切ない伝説の魔剣が、次の騒動の開幕を、勝ち誇った声で高らかに宣言していた。

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