モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
湖の闇へ沈みゆく、かつての支配者。
あとに残ったのは、絶対的な静寂――そして、生まれて初めて空気を知ったみたいに、荒く肩を上下させるカイルだけだった。
彼の身体を包んでいた神々しい蒼の燐光が、役目を終えた煙のように、すぅ……と霧散する。
同時に、“借り物の力”が抜けた肉体へ、凄まじい反動が牙を剥いた。
「……かはっ……! はぁ……っ、はぁっ……!」
魂が燃え尽きたあとの、乾いた虚脱。
次いで、内側から臓腑を引き裂かれるような激痛が襲い、視界が白く瞬いた。
《おい、どうした小僧ッ!? さっきまでの威勢はどこ行った!》
エクセリオンの動揺した声が、鼓膜ではなく頭蓋の内側を叩く。
だが今のカイルに、返事をひねり出す余裕はない。心臓を直接握り潰されるような痛みで、息がうまく吸えなかった。
「ぐっ……! あ……がっ……!」
膝が折れる。
倒れそうになる身体を、剣を杖にしてどうにか支えた。
指先が痺れて、握力の感覚すら薄い。
《……チッ。素人が神域の力なんざ使うからだ、無茶しやがって。だが案ずるな。俺様が見る限り、極度の疲労と精力欠乏だ。死にはしねぇ。――ま、一週間は寝たきりだろうがな》
「はは……そりゃ、よかった……マジで……冥府の川、見えたわ……」
《だが、見事だったぜ小僧! これでテメーは、誰も成し得なかった『水底の冥域』の完全攻略者だ! “雷神のパン”が消えた時は終わったと思ったが……さすがだ。俺様が見込んだだけはある!》
「ヘッポコって言ってたくせに、調子いいな……それより……」
カイルは息を整えることすらままならないまま、言葉を継ぐ。
「……旦那と……ラースは……無事、なんだよな……? 俺、もう……指一本……動かせそうにねえ……」
《フン……例の変態オヤジは、幸せそうなツラでいびきかいてやがる。魔族のチビは……お、起き上がったな。ふらつきながらも、こっちに来る。案外、根性あるじゃねえか》
その言葉で、張り詰めていた意識の糸が、ほんの少しだけ緩む。
――生きてる。
少なくとも、今は。
「――カイル、くん……?」
震えているのに、折れない。
鈴の音みたいな声が、耳に届いた。
視線を向けると、ラースがふらつきながらも確かに立っていて、こちらへ歩いてくるところだった。
「……ラース……」
「よかった……無事、だったんだな……」
「う、うん……! でも、カイルくん、すごい怪我……! はやく治療しないと……!」
ラースは必死の顔で駆け寄り、痩せた肩でカイルの身体を支えようとする。
その健気さが、今はただ、胸に沁みた。
「ああ……そうだな。とにかく、ここを出よう……」
カイルは剣を支えに、重い身体をどうにか持ち上げる。
「旦那も……起こさないと……」
視線の先。
死の祭壇からの唯一の脱出口になり得る、古びた小舟が静かに揺れていた。
「湖には……まだ、あのヤベぇ魚がいるかもしれねえ……悪いが……もう一匹も、倒せそうにねえや……」
《フン。心配すんな。主が消えた今、この領域の支配権は一時的に曖昧になる。眷属の魚どもも小舟の罠に反応しねえはずだ。万が一襲ってきても、この俺様が睨みを利かせてやる》
主を倒した今、舟に仕掛けられていたはずの罠も、湖底の殺意も――いったんは沈む。
剣はそう断じた。
「ラース、舟まで行けるか? 旦那を運ぶのは骨だが、二人なら……」
「うん。大丈夫。僕、頑張るよ!」
ラースが力強く頷く。
二人は互いを支え合い、岩陰へ――モーブルのいる場所へ。
そしてその先の希望へと、重い一歩を踏み出そうとした。
――その、瞬間。
《――待てッ! 何か来るぞ!》
エクセリオンの絶叫が、脳髄を直接揺さぶった。
カイルが反応するより早く、ラースが「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、身体を強張らせる。
「なんだ……!? まだ何かいるのか!?」
《違う! この魔力……間違いねえ。さっきのタコ野郎だ! あいつ、まだ死んじゃいねえ!》
冷酷な死の宣告。
馬鹿な、と考える間もなく――鏡のように静まり返っていた湖面が、ごぽり、と膨れ上がる。
まるで巨大な心臓が、もう一度だけ脈打ったみたいに。
次の瞬間、静寂が弾けた。
水面が爆ぜ、漆黒の触腕が、思考を置き去りにする速度でラースへ絡みつく。
「ひゃあああああっ!?」
悲鳴は途中で無慈悲に断ち切られた。
ラースの小さな身体が、玩具みたいに軽々と宙へ吊り上げられる。
「ラースッ!!」
カイルは叫び、反射で手を伸ばす。
――届かない。
指先は虚しく空を切り、触腕はラースを絡め取ったまま、ゆっくりと湖の中心へ引きずり戻していく。
そして湖の闇から、ぬらり、と。
さっき真っ二つになって沈んだはずの“主”が――半身だけで、再び浮上した。
断面は塞がっていない。肉の裂け目からは、無数の触手が胎動みたいに蠢き、再生の途中をあざといほど見せつけてくる。
溶岩の双眸が、さっきよりなお深い、昏い憎悪を宿してカイルを射抜いた。
そして勝ち誇るみたいに、捕らえたラースを高々と掲げてみせる。
《クソッ! やられた! 本体の魔石、あのデカい貝殻の中だったか! 小僧の斬撃は“肉”を割っただけ――命までは断ってねえ!》
エクセリオンが、舌打ち混じりに吐き捨てる。
――そうだ。
カイルが斬ったのは、あくまで“動かすための肉体”だった。
絶対的な生命を司る心臓部――魔石は、今もあの冒涜的な巻貝の奥で、邪悪な鼓動を刻み続けている。
《しかも、最悪の状況だぜ……。奴の弱点が『雷』だって話は覚えてるな? あの魔石を破壊するには、それこそ神鳴りの一撃が必要だ。だが、肝心の『雷神のパン』は砕け散り、小僧の神域ももう使えねえ……!》
絶望。
その二文字が、カイルの胸の内を真っ黒に塗りつぶす。
もう、力はない。
あの奇跡は、魂ごと燃やして放った“一度きり”だ。
今の自分は、指一本まともに動かせない――ただの抜け殻。
その無力を笑うみたいに、主の周囲で蒼白い水が凝り固まっていく。
一本、また一本。
槍の数は増え、やがてカイルを取り囲む“死の輪”を形作った。
とどめだ。
今度こそ、回避の余地はない。
仲間は人質。自分は満身創痍。万策尽きた。
光が、カイルの瞳から消えかけた――そのとき。
触腕に吊られ、ぐったりしていたはずのラースが、か細いのに澄んだ声で言った。
「……もう、終わってるよ」
静かすぎる呟き。
あまりにも場違いで、だからこそ刺さる言葉。
「……終わってるんだ。君の、負けだよ」
主の動きが、わずかに止まる。
槍を放つ直前で凍りつき、憎悪の双眸に、初めて“困惑”が混じった。
掲げた獲物を――理解不能なものでも見るように、じっと見つめている。
「ラース……? 何を、言って……」
カイルにも、エクセリオンにも意図が読めない。
恐怖で錯乱したのか。そう思いたくなる。
だがラースの目は正気だった。怯えに潤みながらも、その奥には確信だけが宿っている。
その奇妙な膠着を破ったのは、まったく予期せぬ“闖入者”だった。
ふわり、と。
竪穴の入り口から、蛍のように淡い光を放つ玉が一つ、頼りなげに漂い込んできた。
道に迷った魂みたいに、静寂の空間をふらふらと泳いでいる。
「なんだ、あれは……」
目を奪われた――次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!
地響き。
いや、無数の何かが殺到してくる音。
入り口の闇から、緑色の“津波”が溢れ出した。
一匹、二匹じゃない。百、二百――いや、千は下らない。
上層に生息する全てが、一斉に最下層へ雪崩れ込んできたのだ。
連中の狙いは一つ。
先ほどから漂う、あの光の玉。
その光景を見た瞬間、カイルの脳裏に、あの商人の言葉が雷みたいに蘇る。
「緑蛙には、動くものを執拗に追いかける習性がある」
――そうだ。モーブルはそう言っていた。
そして今、その“習性”が、狂った規模で証明されている。
触腕に吊られたままのラースが、震える声で、しかしはっきりと言った。
「旦那様が……教えてくれた。緑蛙は、動くものを執拗に追いかけるって……だから僕は考えたんだ。もし、あの怪物を倒せなかった時のために……僕にできる、最後の方法を……」
『雷神のパン』が砕け散った、あの絶望の瞬間。
ラースは、もう動いていた。光の精霊に頼み、上層へ“合図”を飛ばしていたのだ。
「精霊さんにお願いしたんだ……緑蛙の大群を、ここまで連れてきてって……!」
光の玉は、ラースの意思を受け取ったみたいに、ゆっくり湖面へ向かう。
追うように、緑蛙の津波が殺到した。
ボチャン! ボチャン!
凄まじい水音。次から次へと湖へ飛び込み――。
その異常に、主ですら攻撃を忘れた。
ただ、呆然と縄張りを眺めている。
そして、惨劇が始まる。
バシャアアアアアンッ!
水面下が爆ぜ、剃刀みたいな牙を剥いた無数の殺人魚が、祝祭みたいに緑蛙へ襲いかかった。
緑蛙の悲鳴。肉の裂ける生々しい音。
湖は一瞬で、緑の皮膚と赤い血、銀色の鱗が入り乱れる阿鼻叫喚の地獄絵図になる。
数分後。
あれほどいた緑蛙は、一匹残らず喰い尽くされた。
――そして。
ポンッ、ポンッ、ポンッ。
間の抜けた音と共に、湖面が“別の顔”を見せる。
喰い散らされた死骸が光の粒子となって消え、その跡へ、鈍い銀の装飾が施された古めかしい木箱が、次々と浮かび上がった。
――新人殺し《ルーキーキラー》。
欲に目が眩んだ初心者を焼き払う、高圧電流の罠付き宝箱。
それが今、湖面を埋め尽くすほどに、揺れている。
ラースはゆっくり顔を上げ、己を捕らえる絶対捕食者を真っ直ぐ見据えた。
その瞳には、もう怯えはない。
「敵に罠を張られたら……罠でやり返す。これも、旦那様が教えてくれた“商売”の基本です」
そして、静かに――だが、断罪みたいに宣言する。
「弱点は、集めました。――終わりだ、“水底の主”」
その言葉が、引き金だった。
湖面に浮かぶ数百の宝箱が――一斉に、呪いを解放する。
バチバチバチバチバチチチチチッ!!!
世界が白く焼けた。
鼓膜を突き破る轟音と共に、宝箱という宝箱から蒼白い電光が噴き上がり、湖そのものが巨大な処刑装置へと変貌する。
水は、最高の導体。
走ったのは一本の稲妻ではない。無数の稲妻だ。
高圧の奔流は一瞬で湖全体を満たし、水中の殺人魚を黒炭へ変え――最後に、湖の中心の“主”へと束になって収束していく。
『ギィイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!!!』
神性の怪物が、生まれて初めて、そして最後の悲鳴を上げた。
絶対の雷は、いかなる防御も許さない。冒涜的な巻貝を内側から焼き、逃げ道ごと魂を焦がしていく。
パリン。
ガラスが砕けるみたいな、あまりにも軽い音。
命の核――魔石が、砕け散った音だった。
次の瞬間、主の巨体は形を保てなくなる。
崩れ、ほどけ、光の粒子となって散っていき――跡形もなく、消滅した。
同時に。
ラースを縛っていた触腕も霧散し、彼の身体が、静まり返った湖へ落ちていく。
「ラース!」
カイルは叫ぶ。だが動けない。
落ちる。落ちてしまう――はずだった。
ラースの身体は、水面すれすれで、ふわりと浮かび上がった。
見えない腕が受け止めたみたいに、優しく。
よく見ると、ラースの周囲に小さな水の精霊たちが集っていた。
きらきらと瞬きながら、彼の身体を支え、ゆっくりと岸へ運んでいく。
彼らがこの冥域の真の主だったのか。
あるいは、ラースの勇気に応えたのか。
答えは誰にも分からない。ただ――その光景だけが、あまりにも幻想的で、美しかった。
精霊たちは岸辺にラースを降ろすと、名残惜しそうに一度だけ輪を描いて舞い、やがて静かな湖の闇へ溶けて消えた。
束の間の静寂。
死闘の終わりを告げる、あまりに穏やかな幕引き。
「……ラース……! よくやった……!」
カイルは全身から力が抜けていくのを感じながら、それでも魂を絞り出すように叫ぶ。
「本当にすげえよ、お前……! お前がいなきゃ、俺たち……みんな死んでた……!」
知恵と勇気。
それが確かに、ここで三人を生かしたのだと――確信が胸を満たし、遅れて安堵と感謝が押し寄せる。
ラースは、はにかんだように笑った。
それでも、その笑顔には少しだけ誇らしさが混じっていた。
――だが。
ダンジョンは、感傷に浸る時間をくれるほど優しくない。
ゴゴゴゴゴゴゴッ……!
空間そのものが断末魔を上げたかのような激震が、三人を叩いた。
「なっ、なんだ……!?」
《おい小僧、上だ!》
エクセリオンの警告に顔を上げた瞬間、信じがたい光景が広がっていた。
天井の岩盤に、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走り、ぱらぱらと土砂が落ちてくる。
先ほどまでの激闘――神性の化物の高位魔法と、カイルの理を超える斬撃。
規格外の力がぶつかった余波が、古代遺跡の構造そのものを限界まで蝕んでいたのだ。
「嘘だろ……! 今さら、崩れるのかよ!」
絶望の呟きは、次の轟音に呑まれて消えた。
足元の小島が、船みたいに大きく揺れる。
壁が砕け、岩塊が剥がれ落ち、湖面へ叩きつけられて巨大な水柱を上げた。
天井からは、建物ほどもある岩が――一つ、二つではない。雨のように降り始める。
もう、ここは“戦場”ですらなかった。
冥域は、侵入者を道連れにして、自分ごと墓標になるつもりだ。
「ラース! 逃げるぞ!」
叫んでも、身体が言うことを聞かない。
魂を燃やし尽くした肉体は鉛みたいに重く、立ち上がることすら叶わない。
岸へ運ばれたラースも、天変地異のただ中で腰が抜けたみたいにへたり込み、震えるだけだった。
「くそっ……! 動け……動けよ、俺の身体……ッ!」
焦りだけが空回りする。
このままじゃ三人とも、生き埋めだ。
死闘を越えたのに、結末が瓦礫って――そんなの、冗談じゃない。
カイルの心が本当に折れかけた、その時。
「……う……ぐ……頭が……割れる……」
岩陰で倒れていた“巨体”が、のそりと動いた。
ジンジ・モーブル。
強欲商人にして、このパーティーの最後の切り札が――最悪のタイミングで、最高のタイミングで目を覚ました。
「だ、旦那!?」
「旦那様……!」
呼びかけに、モーブルは呻きながら上体を起こす。
「……ラース、やかましいぞ……。わしが気持ちよく寝ている時は起こすなと、あれほど――……ん? なんだ、この地響きは……」
朦朧としているのに、目だけが冴えていた。
崩れゆく天井。
揺れる大地。
動けない二人の少年。
断片的な記憶――神性の化け物、絶望的な戦力差、意識が途切れる直前の悲鳴――が、脳裏で噛み合っていく。
商人の“損得勘定”は、状況把握においては戦術級だ。
空白の時間に何が起きたかを、そして今何が起きているかを、秒で弾き出していた。
「……チッ。何があったかは知らんが――このままでは全員仲良く圧死、か……冗談ではない……!」
悪態をつきながら、その思考はすでに最適解へ到達していた。
「ひよっこども、わしから離れるな! 下手に動けば瓦礫の餌食だぞ!」
モーブルは頭痛に顔を顰めながら立ち上がる。
次の瞬間。
常人離れした膂力で、動けないカイルとラースを――米袋のように両脇へ抱え上げる。
「うおっ!?」
「ひゃっ!?」
「行くぞ。あの舟に乗る!」
商人のものとは思えない足取りで、モーブルは小舟へ向かった。
「だ、旦那! 宝箱が……! あれだけあれば、借金なんて……!」
カイルが湖面を指さし、未練を口にする。
だが返ってきたのは、怒声だった。
「この期に及んでまだ金の勘定か、このど阿呆がッ! 貴様の命と天秤にかけて、あのガラクタにどれほどの価値がある!
モーブルは二人を舟へ放り込み、自分も飛び乗る。
備え付けの櫂を掴むと、崩落する“死の湖”へ、躊躇なく漕ぎ出した。
背後で、かつて玉座があった小島が、轟音とともに湖の底へ沈んでいく。
水しぶきを上げ、舟は唯一の出口――竪穴へ突き進む。
それは脱出というより、崩壊そのものとの競争だった。
「……ごめん、旦那……。俺、結局……手柄のことしか考えてなかった……。旦那とラースを危ない目に……」
「……フン。青二才の冒険者なんぞ、そんなもんさ」
モーブルは櫂を止めず、短く言い捨てる。
「だがな、カイル。どんな財宝よりも――生きて帰る方が、よほど儲けもんだ。その『貸し借り』だけは、違えるなよ」
荒い息の下で交わされた、短い言葉。
それが、この九死に一生の冒険を締めくくるすべてだった。
三人を乗せた小舟は、最下層が完全に崩れ落ちるその寸前――滑り込むようにして竪穴へ飲み込まれていった。
♦
一週間後。
モーブル商会、二階居住スペース。
西日が差し込む穏やかな午後。
店の喧騒が、どこか遠くに聞こえる。
ベッドで上半身を起こしたカイルは、差し出された薬草茶を一口すすった。
あれほど全身を噛み砕いていた痛みが嘘みたいに引き、いま残っているのは、心地よいだるさだけだ。
「……んめえ! この茶、なんだか元気が出るな!」
「当然だ。お前が寝込んでいた七日間の治療費、薬代、食費、それから――わしの手間賃。すべてが、その一杯に凝縮されておる」
「うげっ……。つまり、また借金かよ……」
カウンター椅子にふんぞり返り、モーブルが帳簿から顔も上げずに鼻を鳴らす。
その傍らで、ラースがまだ色のないカイルの顔を心配そうに覗き込んでいた。
「でも、本当に良かった……。カイルくん、三日間も目を覚まさないから、僕、心配で……」
「悪かったな、ラース。お前こそ、怪我はもういいのか?」
「うん! 僕は旦那様のポーションですぐに良くなったよ!」
あの後、三人は人目を避けて店へ戻った。
カイルは担ぎ込まれるなり倒れ、文字どおり死んだみたいに眠り続けたらしい。
その間ずっと、モーブルとラースがつきっきりで看病していた――。
「まあ、ともかくだ。よくぞ生きて帰った。それだけは褒めてやる」
モーブルはパタン、と帳簿を閉じると、ようやく顔を上げて二人を見据えた。
「それで……本題だ。例のダンジョン、『水底の冥域』について、お前たちに一つ、絶対に守ってもらわねばならんことがある」
モーブルの声のトーンが、一段階低くなる。
カイルとラースは、ごくりと唾を飲んだ。
「あの日の出来事……特に、最下層の存在と、そこでお前らが〝主〟を討伐したという事実は、誰にも言うな。いいな、絶対にだ。ギルドの仲間にも、酒場の女にもだ。この話は、我々三人の胸の内に封印する。墓場まで持っていけ」
命令だった。
反論の余地がない声音。
「な……なんでだよ!? 俺たち、誰もクリアしてないダンジョンを攻略して、あの化け物まで倒したんだぞ!? 報告すりゃ一気にゴールドランクだって夢じゃねえ! なんでそれを隠さなきゃなんねえんだ!」
英雄の偉業を、誰にも誇れない。
そんなの、飲み込めるはずがない。
だがモーブルは、冷えた溜息ひとつで切って捨てた。
「青臭いことを言うな、ひよっこが。貴様は、”手柄”と”破滅”の区別もつかんのか」
諭すように指を一本立てる。
「いいか。この国の法では、ダンジョンで得た戦利品は価値の大小に関わらず、すべてギルドへ届け出る義務がある。特に、未発見区画や“主”の討伐は『特級案件』だ。素材やアーティファクトの提出が絶対になる。国家転覆級の禁忌が眠っている可能性があるからな。これはギルドのルールではない。国家が定めた“法”だ」
「……それが、どうしたってんだよ」
「話は最後まで聞け、この単細胞が」
モーブルの声が冷たく研がれる。
「義務を怠り、戦利品を隠匿したと見なされれば――国家への反逆罪だ」
淡々と続く言葉が、現実の刃になる。
「冒険者資格の永久剥奪。全財産の没収。良くて辺境の鉱山で一生奴隷。最悪――」
そこで一呼吸、わざと止める。
「……一度目を付けられたら最後、魂の欠片まで搾り取られると噂の『魔導騎士団』の地下牢で、二度と日の目を見ずに朽ち果てる」
あまりに具体的で、逃げ道がない。
カイルの喉が鳴った。
「さて、我々はどうだ? 最下層を発見し、S級――いや、災害級の“主”を討伐した。だが、持ち帰った戦利品は『ゼロ』だ」
視線が突き刺さる。
「この状況で『主は倒しましたが、ダンジョンが崩れて何も持ち帰れませんでした』と報告して――国のお偉方が信じると思うか?」
「そ、それは……」
「思うはずがなかろう。奴らは必ずこう考える。『モーブル商会の強欲商人が、ひよっこを使って秘宝を独占した』とな。翌日には魔導騎士団が店へ雪崩れ込み、商品はもちろん――お前たちが今使ってる皿まで差し押さえる。そして我々は揃って地下牢行きだ。……そんな未来を、貴様は望むのか?」
名誉だ英雄だと浮かれていた自分が、みっともなく思えてくる。
カイルは絞り出すように言った。
「……じゃあ、俺たちが命がけでやったことは……全部、無かったことになるのかよ……」
悔しさを、モーブルは否定しなかった。
ただ、静かに言う。
「無かったことにはならん。我々三人が『知っている』。それで十分すぎるほどだ」
そして、言葉の矛先をカイルの胸へまっすぐ向ける。
「いいか、カイル。冒険者が本当に求めるべきものは、名誉や名声みたいな腹の膨れん自己満足ではない。たった一つ――『生きて帰ること』だ。生きてさえいれば次の依頼も受けられる。美味い飯も食える。そして……溜まりに溜まったわしへの借金も、きっちり返せる」
そこで、いつもの悪辣な商人の笑み。
「我々が地獄から持ち帰った、唯一にして最高の“戦利品”。それは――お前と、このチビと、そしてわし自身の『命』だ。これ以上の“利益”が、この世のどこにある?」
損得勘定でしか動かないはずの男が語る“命の価値”。
それが、どんな宝石より重く聞こえた。
「……旦那……」
名誉はゼロ。
借金は増えた。
それでも不思議と、胸の底は満たされていた。
隣でラースが、こくりと力強く頷く。
「僕も、旦那様と同じ気持ちです。カイルくんと、旦那様と……三人で生きて帰ってこられて、本当に良かった」
その言葉が、カイルの最後の意地を優しく溶かす。
「……へっ。……分かったよ。もう言わねえ。もう言わねえ。あの日のことは――俺たちの秘密だ」
カイルは照れくさそうに笑った。
モーブルは満足げに頷き、ラースは花が咲くみたいに微笑む。
誰も知らない、知られてはいけない、三人だけの英雄譚。
それは誰にも誇れない代わりに、何物にも代えがたい“財産”になった。
崖っぷちの剣士と、臆病な魔族と、強欲な商人は――ただの寄せ集めから、秘密と命を共有する「共犯者」へと変わったのだった。
穏やかな合意の空気が、西日に照らされた部屋を満たす。
これで、すべて終わった。
誰もがそう思った、その時――。
《……よぉ、話はまとまったか? しんみりしてるところ悪いが、いつまでこの俺様を置物にしておく気だ?》
部屋の空気をぶち壊す第四の声。
ベッド脇に立てかけられた儀礼用の剣――鍔の青い宝玉が、不機嫌そうに明滅している。
カイルが「あ」と、この世の終わりみたいな顔で凍りつき、ラースが「ひゃっ!」と外套の陰に隠れた。
だが一番劇的に固まったのは、この一週間、その剣の存在に気づいていなかった男――モーブルだった。
ガタンッ!
椅子を蹴り立てて立ち上がる。
その目が、まず“至宝”を見つけた鑑定士みたいにギラリと光り、次の瞬間――国家予算級の不良債権を抱えた財務官みたいに真っ青になる。
商人の脳が、一瞬で算盤を弾く。
剣の魔力量=資産価値。
そして同時に、それが呼ぶ破滅=国家反逆罪では済まない未来。
「き、貴様ッ! その剣はなんだ!? その……ありえん魔力量は……! おいカイル! まさかとは思うが……! 『水底の冥域』から持ち帰った“唯一の戦利品”が、我々の『命』だけではなかった――などという、ふざけたオチではあるまいなッ!?」
“最高の戦利品は命”
美しい結論が出たばかりの部屋に、モーブルの魂の絶叫が木霊する。
だが、その悲痛な叫びを、当の戦利品は鼻で笑うように蹴散らした。
《お、そこのオッサン。話が分かるじゃねえか。そうだ。俺様こそ唯一無二、至高の戦利品――魔剣エクセリオン様よ!
おいド素人。さっさとこのオッサンに俺様の価値を説明しろ! 最高級ベルベットを敷いた専用の飾り棚! 毎日の手入れ用の聖油! 磨き役はゴールドランク以上の美女冒険者! これが礼儀ってもんだろ! 聞いてんのかコラァ!》
空気を読む気が一切ない伝説の魔剣が、次の騒動の開幕を、勝ち誇った声で高らかに宣言していた。