モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
春の終わりの湿った風が、肌にまとわりつく――夏の気配を連れてくる季節だった。
一日の喧騒が嘘のように引いていった『モーブル商会』で、主人のジンジ・モーブルは、最後の帳簿をぱたりと閉じる。
売上を締め、数字を揃える。
商人にとって、そこだけが一日の中でいちばん静かに呼吸できる時間だ。
だが、その安堵は――使いの者が差し出した一通の手紙で、あっけなく叩き割られた。
赤い封蝋。
押されているのは天秤の紋章。
頭の上がらない相手は一人しかいない――商売の師であり、商業連合の重鎮、アーチボルド・フェルディン。
「……また親方かよ。人手不足で回してんのに、これ以上めんどくせぇ用事を増やす気か、あのクソ爺……」
フェルディン家の私印は、見るだけで胃がきりきりする。
無視すれば最後、嫌がらせみたいに同じ手紙が日に何十通と届く――それをモーブルは“経験”で知っていた。
舌打ちを一つ、封を切る。
美しいカリグラフィーの行間から、遠慮のない命令が滲んでいた。
「どれどれ……『上級商人資格試験に向けた実地指導の件』。対象者、クレオ・マクシミリアン。期間は十日。――要は、上級に足るか見極めて推薦しろって話か」
その名が出た瞬間、カウンターを拭いていたラースの手が、ぴたりと止まった。
「え、……ク、クレオ……様、ですか……?」
怯えと警戒が、声の端から滲んだ。
小動物が天敵の影を見つけたみたいに、ラースは無意識に身を縮めてしまう。
「二年ぶりか……。もう上級試験? この前、中級に上がったばっかだと思ってたが」
異例の昇進速度――だがモーブルは、素直に褒めるほど殊勝じゃない。
「……フン。あの完璧主義の優等生に、わしみてぇな型破りの指導が要るかよ。どういう了見だ、親方は」
「だ、旦那様……その、クレオ様のところへ……行かれるのですか?」
ラースの遠慮がちな問いに、モーブルは息を吐くように返す。
「行かにゃならん。あいつが落ちでもしたら、連合の偉い連中が“若手の星”を失ったって大騒ぎだ。親方が直々にわしを指名したのも、そういう保険ってこった」
モーブルは椅子から立ち上がり、戦支度でも整えるみたいに黙々と書類を鞄へ詰めていく。
その空気に呑まれて、ラースがごくりと喉を鳴らした。
「ラース」
「は、はいぃっ!」
低い声だけで、背筋が反射的に伸びる。
「貴様も来い。さっさと準備しろ」
「え……!? ぼ、僕がですか!? で、でも、その……ご迷惑になるのでは……。なにより、クレオ様は……魔族を、ひどく嫌っていらっしゃいますし……」
「ああ、そうだったな」
モーブルは手を止め、わざとらしく天井を仰ぐ。
口元に浮かぶのは、性格の悪い笑みだった。
「貴様を奴隷市場から引き取って間もない頃、会わせたことがある。思い出したぞ――あいつの目つき。道端の腐った汚物でも見るみたいだったな。たしか『そんな穢れた獣を店に置くとは、あなたの趣味も堕ちましたね、先輩』……とか、ぬかしおった」
「うぅ……! そ、そんなに鮮明に覚えていなくても……! やはり僕なんかがお側にいては、旦那様の名に傷が……!」
涙目で訴えるラースを、モーブルは鼻で笑う。
「勘違いするな。貴様の意思なんざ聞いておらん。いいか、ラース。貴様の所有権は誰にある?」
「そ、それは……旦那様、です……」
細い声に、モーブルは満足げに頷いた。
「なら話は早い。貴様はわしの『所有物』だ。主人が『来い』と言ったら、黙ってついてくりゃいい。口答えは許さん――命令だ」
横暴で理不尽。
けれど、奴隷として生きてきたラースの身体には、主への服従が染みついている。
逆らうという選択肢は、最初からそこにない。
「……わかりました。旦那様」
「よろしい。せいぜい、あの優等生の前でみっともない真似はするんじゃないぞ。わしの『所有物』が役立たずだと思われたら――こっちの面子が立たん」
ニヤリ。
モーブルはそう言って、ラースの不安げに揺れる黒い尻尾を、乱暴に、しかし力強く握り締めた。
◆
首都アルセリウムからエリス川沿いに馬車を飛ばして二日。
潮の匂いが風に混じりはじめたころ、地平線に巨大な港湾都市の影が浮かび上がる。
川が海へ注ぎ込む河口に築かれた、イングラジア魔導国最大の商業都市――セレンス。
富と洗練が息づくこの街は、モーブルの根城カヴェナとは比べものにならない優雅さと、上流階級の気品に満ちていた。
その中心地。
最高級の商館が肩を並べる『黄金の埠頭区』に、目的の店がある。
磨き上げられたガラス。
優美な流木彫刻。
白金の看板が涼やかに輝く――『マクシミリアン商会・別館』。
重厚な扉を押すと、澄んだ鐘の音が鳴り、上質な香油と新しい羊皮紙の匂いが鼻腔をくすぐった。
塵一つない。
整いすぎて、逆に息が詰まるほどだ。
「ようこそお越しくださいました」
カウンターの奥から現れた白金の美青年は、完璧な営業スマイルを顔に貼り付けていた。
プラチナブロンドに、見る角度で色味を変える青緑の瞳。
髪には半月形の銀のヘアピン。
クレオ・ファンデル。
背筋は鋼のように伸び、声は絹のように柔らかい。
――腹の中が冷たい男特有の、温度のない丁寧さだった。
「モーブル先輩。長旅お疲れ様です。お元気そうで何より。……それと、そちらの“魔族”も、息災でしたか」
ラースがびくりと肩を震わせ、小さく会釈する。
その反応を見たクレオの笑みの縁が、ほんの一瞬だけ剃刀のように細く光った。
「これから十日間は、我が商会の未来を占う大切な期間です。どうか、労働の邪魔だけはご遠慮願いますね」
「邪魔はせん。――むしろ働かせる」
モーブルは即答し、懐から封書を取り出してカウンターへ置く。
「親方からの委任状だ。十日間、貴様の商いを“検分”する。上級に足る仕事をしているなら、わしが推薦状を出す――以上だ」
「検分、ですか。……随分と物騒なご挨拶ですね。して、いつから?」
「今この瞬間からだ。まずは“答案用紙”を見せてもらう」
モーブルは顎をわずかに上げただけで、店内を示した。
「棚の配置。客の導線。在庫の回し方。客層。それから、スタッフの顔色――全部だ」
一拍、間を置く。
「足りんものがあれば口を出してやる。ありがたく思え」
クレオの眉が、ぴくりと揺れる。
「お好きにどうぞ。ですが先輩、ご忠告なさるからには――必ずや結果は出していただきますよ」
「ふん。忠告はまだせん」
モーブルは笑いもしないで言い切った。
「――三日目までは“見”だ。口を出すのは、それからにする」
クレオの表情が一拍だけ止まる。
だが次の瞬間には、何事もなかったように整った微笑へ戻っていた。
「……承知しました。では、その三日間で――納得していただける店をお見せします」
モーブルは返事をしない。
ただ、店の空気を吸い、耳で音を拾い、視線を棚の端から端へ滑らせていく。
入口で一礼する店員の角度。
最初に足が止まる場所。
金貨を出す手の速さ。
店員の声量と“間”。
包み紙の折り目の正確さ。
(……嫌になるほど、綺麗に出来上がってやがる。だが――)
胸ポケットから小さなメモ帳を取り出す。
書かない。
まだ、書かない。
今は“採点”だ。
ここで口を挟めば、相手はすぐに修正する。
癖も、欠点も、数字も――見えなくなる。
背後ではラースが、控えめに店の空気へ溶けるように立っている。
必要なときだけ指先が動く、その気配を、モーブルは横目で確かめた。
「先輩、どうですか? 私の店は完璧でしょう?」
クレオが問いかける。
モーブルはようやく視線を戻し、淡々と言った。
「さあな」
間を置く。わざとだ。
「だが一つだけ言っておく。お前の“いつものやり方”を見せろ。飾るな。誤魔化すな」
クレオは微笑を崩さない。
「もちろんです。――最高の形で」
その言葉の端に、ほんの僅かな棘があった。
モーブルは、それにも反応しない。
棘は抜くためにあるんじゃない。
“刺さる場所”を測るためにある。
◆
三日間、モーブルは一度も「こうしろ」とは言わなかった。
口を開いたのは、必要な確認――それだけだ。
初日。
相変わらずクレオの店は、完璧だった。
床は鏡のように磨かれ、棚の角には埃一つない。
商品のタグは統一され、包装紙は寸分違わず折られ、店員の挨拶は同じ高さで揃う。
客は満足して帰っていく。
金貨の音も軽い。
二日目。
完璧の“裏側”が見えた。
店員の肩が固い。
笑顔が、少しだけ薄い。
クレオが視線を向けただけで、背筋が跳ねる。
三日目。
モーブルは在庫札の位置と、倉庫へ入る回数と、客の滞在時間を数えた。
売上は悪くない。
だが、売り方が“正しすぎて”、伸びしろを自分で殺している。
そして何より――ラースが、客の視界から徹底的に外されていることが、店の空気をわずかに硬くしていた。
閉店後。
『マクシミリアン商会・別館』の灯りが落ち、外の港のざわめきだけが遠く残るころ。
クレオはカウンター奥の応接へモーブルを通した。
机の上には紅茶。
香りは良い。
温度も良い。出すタイミングも良い。
――完璧だ、と言わせたい配置だった。
クレオはソファに腰を下ろし、背筋を伸ばしたまま微笑む。
「三日。お約束通り、余計な小細工はしていません」
「で?」
「講評を。……先輩の“採点”を伺います」
モーブルは紅茶に手を付けない。
代わりに胸ポケットから、例の小さなメモ帳を出して机に置いた。
紙の角が、三日分の汗と指の圧で、わずかに丸くなっている。
クレオの視線が、そのメモ帳に吸い寄せられる。
「まず結論だ」
モーブルは淡々と言った。
「店は“強い”。だが、勝ち方が“細い”」
クレオの笑みが微動する。
「細い……?」
「一本槍って意味だ。外さない。折れない。……だが、増えない」
クレオは指を組んだ。
「売上は落ちていません。客足も安定しています。何が“不足”だと?」
モーブルはようやくメモ帳を開く。
極太の字。殴り書き。だが項目だけは妙に整っていた。
「一。客が『買う理由』は作ってる。だが『買った後の安心』を、店が引き受けてない」
「二。在庫は正確だ。だが動きが遅い。回転じゃなく、整列に満足してる」
「三。スタッフが“店”じゃなく“お前”を見てる。店の空気が、お前の機嫌で上下する」
クレオの眉が、ほんの少しだけ寄った。
「……それは、結果論では?」
「結果は嘘をつかん」
モーブルは指を二本立てる。
「客の滞在時間。戻り客の比率。売れ筋の偏り。全部、お前のやり方をそのまま映す」
クレオは言い返そうとして、口を閉じた。
その一瞬の“止まり”を、モーブルは見逃さない。
「次。お前の“完璧”の値段だ」
「……値段?」
モーブルはソファに深くもたれ、目だけで店の奥――倉庫の方向を示した。
「店員がミスせんのは、教育が行き届いてるからじゃない。怖いからだ」
「怖い……?」
「怖い店は、売れる。最初はな」
「だが、相談が来ない。客の本音が上がってこない。クレームも改善点も、店の外で腐る。――お前の店は“静かに売れて”、静かに衰える」
クレオの指先が、カップの取っ手に触れたまま止まった。
紅茶の水面が微かに揺れる。
呼吸が浅くなった証拠だ。
「……先輩は、私が“恐怖で支配している”と?」
「支配って言葉は、お前の好みだろ」
モーブルは鼻で笑うでもなく、ただ言葉を置いた。
「わしは“コスト”の話をしてる。恐怖は高くつく」
クレオの目が細くなる。
「なら、先輩の言う“安い勝ち方”とは?」
そこで、モーブルは初めて――三日ぶりに、少しだけ笑った。
意地の悪い笑みじゃない。
商人が“回収の算段が立った”時の笑みだ。
「ここから先は、講評じゃない」
メモ帳を閉じ、机を指で軽く叩く。
「――四日目からの“実地指導”だ」
クレオが背筋をさらに正す。
「条件を」
「三つ」
モーブルは、ゆっくり区切って言った。
「一つ目、わしのやり方に文句を言うな。結果で黙らせてやる。二つ目、スタッフの前で顔を変えるな。お前の“目”で萎縮させるな。三つ目……」
視線が、応接の入口――控えるラースへ一瞬だけ流れる。
ラースは姿勢を崩さない。
だが尖った耳が、わずかに固い。
「ラースを店に出す。手伝わせろ」
空気が、きゅっと締まった。
「だ、旦那様……それは……」
ラースが戸惑う。
クレオの笑みが消える。残ったのは、上品に整えた嫌悪だ。
「……それは、商売の話ですか?」
「商売の話だ」
モーブルは一言で切る。
「お前は“美観”のために余計なものを排除する。だが店ってのはな――余計なものを、価値に変えた奴が勝つ」
クレオの目が冷える。
「私の店は“失敗しない店”です」
「そこだ」
モーブルが即座に返す。
「失敗しない店はある。だが、“試してみたくなる店”は別物だ」
クレオは沈黙した。
沈黙の中で、何かを計算している。
やがて、ゆっくり息を吐く。
「……分かりました。四日目から、先輩の手を借ります」
「借りるな。使え」
「……承知しました」
「ですが一つ」
「なんだ」
クレオは微笑を戻す。
けれど目だけは戻らない。
「もし、その魔族が私の足を引っ張るような真似をすれば――責任は、きっちり取っていただきます。先輩が」
ラースが、その言葉に小さく震える。
モーブルは、ふんと鼻で息を吐いて立ち上がった。
メモ帳をしまい、扉へ向かう。
「上等だ。――責任ごと、利益に変えてやる」