※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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第十七話 モーブルと依頼状は秤印②

 翌朝。

 四日目。

 十日間の実地指導――その初日。

 

 街の霧がまだ白い時間帯、『マクシミリアン商会・別館』の前に店員たちが整列していた。

 普段の倍近い人数。

 クレオを中心に、若く洗練された正規店員が五名。

 背筋は一本、制服の皺ひとつない。

 

 そして列の端。

 ラースだけが視線を落とし、黒い尻尾を低く伏せていた。

 

 中央に立ったモーブルは腕を組み、片手のメモ帳で全員を一撫でした。

 

「今日から本番だ。開店まで二時間――店を“作り直す”。文句は閉店後に聞く。今は黙って動け」

 

 クレオが一歩進み出る。

 

「具体的には?」

 

「一つ目。導線だ。入口から正面へ“主力”。左右に比較棚。客を迷わせろ。迷いは買いの入口だ」

 

 茶髪の青年――エリックが反射で口を挟む。

 

「しかし、それでは高級感が……」

 

「黙れ。高級感は“商品”が出す。導線は“売上”が出す」

 

 切り捨てるような即答。

 エリックは口を噤み、クレオを見る。

 クレオは無言で頷いた。

 

「二つ目。タグを“使い方カード”に変える。三点だ。①長持ちの手順。②やりがちな失敗。③困ったときの店対応――安心を売れ」

 

 リアが眉を寄せる。

 

「カードが増えれば、陳列が乱れますわ」

 

「乱すな。薄く小さく作れ。商品に“忍ばせろ”。読ませるんじゃない、“気づかせる”」

 

 モーブルは指を三本立てた。

 

「三つ目。接客の“台本”を作る。客は三種――目的買い、見物、相談。入り口ごとの返しを一枚にまとめろ」

 

 顎で示され、ラースの肩が跳ねる。

 

「ラース。お前が書け。字、綺麗だろ」

 

「ぼ、僕が、ですか……?」

 

「そうだ。裏方専門の字書きだ。さっさとやれ」

 

 視線が一斉にラースへ集まる。

 エリックは露骨に顔を歪め、リアは小さく舌打ちした。

 クレオは無表情――ただ目だけが冷たい。

 

「先輩。あの魔族に任せるのですか。ミスが出れば――」

 

「出たら直せ。お前ほどの完璧主義が、紙切れ一枚で崩れるか?」

 

 準備は雪崩のように進んだ。

 棚が動き、カードが急造され、台本が震える手で書き上げられていく。

 

 開店ベルが鳴る頃、店はいつもと違う顔をしていた。

 

 入口正面に利益率の高い香油と魔法装飾品。

 左右に同価格帯の比較品。

 タグの下には、小さな羊皮紙のカードが控えめに差し込まれている。

 

 最初の客は貴族風の夫人。

 香油棚で足を止め、カードを拾い上げた。

 

「あら……『指先で温めて伸ばすと香りが一日持続。直射日光は避けて』……“調整承ります”、ですって?」

 

 リアが台本通り、笑顔の角度まで揃えて応じる。

 

「はい。いつでもお持ちくださいませ。こちらの装飾品と併用いただくと、香りがさらに安定します」

 

 夫人は迷わず二点購入。

 金貨の音が軽やかに鳴った。

 

 滑り出しは上々――だった。

 

 次の客は冒険者風の男。

 カウンターでラースが包装を任された瞬間、空気がぴたりと止まる。角と尻尾が、どうしても目立つ。

 

「おい、魔族か。触るな。穢れが移る」

 

 吐き捨てる声。

 ラースの指が固まり、包装紙が床に散った。

 

「す、すみません……!」

 

 エリックが割り込み、包みを奪う。

 

「私がやります」

 

 男は不機嫌に金貨を置き、去った。

 売上は立ったが、店内の温度だけが下がる。

 

 エリックが小声でリアに囁く。

 

「見たか。あれが限界だ」

 

 リアは頷き、ラースを睨む。

 ラースは尻尾を巻いて一歩下がった。

 

 クレオがモーブルの隣へ寄る。

 

「先輩。客一人でも“格”は落ちます。ラースは裏へ戻すべきでは?」

 

「格? 客一人で落ちるなら、その程度だ。続けろ」

 

 

 午前中、二度目。

 貴婦人のグループが来店し、ラースが台本を手に説明を試みる。

 

「あの……こちらは『一晩休ませると魔力が回復します。連日使用で色褪せるのでご注意を――』」

 

「魔族の口で商品説明? 不快ですわ。人間の店員さんで」

 

 ラースは言葉を失い、台本を取り落とした。

 リアが即座に入り、場を整えるが、婦人たちは最低限だけ買って引き上げる。

 残るのは店員の苛立ちだ。

 

 

 休憩時間、裏口。

 

「モーブルさん、何考えてるんですか!」

 

 エリックが声を荒げた。

 

「あいつがいるだけで客が減る! 仕事が増える! クレオ様の名前に傷がつく!」

 

 同調が続く。

 

「魔族は荷運びまでですわ」

「完璧な店が台無し……」

 

 モーブルは壁に寄りかかり、ドーナツを噛んだまま言う。

 

「文句か。なら数字で黙れ。午後、昨日比を落とすな」

 

 クレオが押し返す。

 

「理屈は理解しています。ですが現実を。富裕層は魔族を嫌う――セレンスの常識です」

 

「金を落とさねぇ常識はゴミだ。ラース、午後は主力棚。逃げんな」

 

 ラースの目が潤む。

 

「で、でも旦那様……僕、失敗ばかりで……」

 

「失敗は“動いて”埋めろ。次」

 

 

 午後、火種は大きくなった。

 高額の魔法剣の鞘を求める貴族の青年。

 ラースがカードを読み上げた瞬間――

 

「『雨に濡れたら布の向きを逆に拭いてください。寿命が半減します。当店でメンテナンス――』」

 

「黙れ魔族! 触るな!」

 

 青年は鞘を投げ捨てて出て行く。

 損失は中級品一式。

 堪えていた店員の苛立ちは、そこで破裂した。

 

「もう限界です!」

「ラースのせいです! 尻尾が邪魔だし角が怖い!」

 

 ラースはカウンター隅で震え、尻尾を握りしめる。

 

「ご、ごめんなさい……僕のせいで……」

 

 モーブルは帳簿に目を落としたまま、言葉だけを落とす。

 売上は昨日比で微減。――だが香油の回転率は上がっている。比較棚が効いている。

 

 クレオが詰め寄る。

 

「先輩。これが“価値に変える”ですか。客が減り、店員が荒れています。方針を変えてください」

 

「変えん。四日目はこれで終わりだ。明日は“もっと使う”」

 

 モーブルは、わざと店員全員に聞こえる声で続ける。

 

「魔族一匹で折れるな。モーブル商会『心得百箇条』その十一――

『顧客は王様だ。ただし王は、いつか首を斬られる』」

 

 呆然が広がる。

 ラースは落ちた包装紙を拾い、涙を飲み込んだ。クレオの目は険しい。

 

「……分かりました。ですが、必ず結果を」

 

 閉店後。

 売上は昨日比98%。微減。だがカードの効果で“次”の種は撒けた。

 

 モーブルはメモ帳に書き込み、ラースは尻尾を垂らして立つ。

 

「旦那様……僕、いない方が……」

 

「黙れ。明日も出ろ。――お前の字で、白金級の香油が三本動いた」

 

 ラースが目を見開く。

 冷たい視線はまだ消えない。クレオは黙って紅茶を淹れ、空気だけが軋む。

 

 四日目は、嵐の助走だった。

 

◆

 

 五日目、開店前。

 ラースは小さなカゴを抱えて、応接室の前で立ち尽くしていた。

 昨夜ひとりで焼いた菓子。

 砂糖の甘い匂いが、布の隙間からそっと漏れている。

 

(昨日、僕が空気を壊した。せめて……これで、少しでも)

 

「……クレオ様。皆さんも。よかったら……」

 

 差し出した瞬間、空気が凍った。

 

「魔族の食い物……?」

「毒でも入ってたら?」

「やめとけ。冗談じゃない」

 

 笑いではない。

 値踏みするみたいな低い声が、カゴの上に落ちる。

 ラースの指先が震え、籐がこつり、と乾いた音を立てた。

 

 クレオは微笑の“形”だけを保ったまま、声の温度だけを抜く。

 

「お気持ちは受け取ります。ですが口に入れるものは衛生と信用の問題です。当店の者は手を付けません。――ご理解ください」

 

 丁寧で、逃げ道のない拒絶。

 ラースはカゴを抱え直し、深く頭を下げた。

 

「……失礼しました」

 

 その横から、モーブルがぶっきらぼうに口を挟む。

 

「落ち込むな。菓子は後でわしが食う。――不味かったらわしに金払えよ」

 

 ラースは笑えず、小さく頷いた。

 

 

 その日も方針は変わらない。

 ラースを前に出し、台本を増やす。

 

「相談客はラースが取れ。お前の丁寧さは“武器”だ」

 

 早朝の老紳士が来る。

 ラースは震えながらも応対した。

 

「あの……こちらの杖は『魔力過多で熱を持ちます。冷やす際は氷ではなく流水で。一晩置くと最適です。当店で調整を――』」

 

「ほう。細かいな。魔族か……だが知識はある」

 

 購入が決まる。

 しかし逆風も続く。

 婦人グループが再来し、空気が荒れる。

 

 

 休憩中、エリックが詰め寄った。

 

「お前のせいで歩合が減る。尻尾、隠せよ。目障りだ!」

 

 リアも鋭い。

 

「クレオ様の店が穢れますの。モーブルさん、いい加減に」

 

 クレオが止めに入る。

 

「先輩。離反が出ています。昨日は鞘一式を廃棄した」

 

「廃棄? 修理して再販だ。損は二日で回収する」

 

 実際、カードは効き始めている。

 返品は減り、相談客が増え、調整依頼が利益になる。

 ――数字だけは、嘘をつかない。

 

 

 

 昼過ぎ。

 上級貴族の夫人が来店した。

 “格”を買いに来る客。

 視線が早く、鋭い。

 

 ラースが包み紙を広げた瞬間、リボンが指から滑り、淡い包装紙に小さな汚れがつく。

 

「――っ」

 

 血の気が引く。

 ラースは言い訳より先に、深く頭を下げた。

 

「も、申し訳ございません……!」

 

 声量は抑え、言葉だけを夫人に“置く”。

 夫人の眉が吊り上がる。

 

「……魔族の不手際で、私の品が?」

 

「訴えますわ。この店は、穢れた手を客に差し出すの?」

 

 店が凍る。

 だがラースは逃げない。

 汚れを隠さず、さらに深く頭を下げた。

 

「ご不快を重ねてお詫び申し上げます。最初から包み直します――いえ、それでは足りません。新品の紙と新しいリボンで、奥様の目の前で“作り直し”をいたします。お気に召さなければ、検品からやり直し、交換も当店の責任で手配いたします」

 

 怒りの勢いが、わずかに削がれる。

 そこへクレオが滑り込む。

 ラースの前ではない。

 夫人の視界の中心――店の“格”として立った。

 

「奥様。失礼いたしました」

 

 完璧な一礼。

 声は柔らかいのに、芯が折れない。

 

「当店の不手際です。包装は即刻、最上級の贈答仕様へ。加えて本日お買い上げの品は、責任を持って再検品いたします」

 

「言い切りますのね」

 

「はい。奥様が買われるのは品だけではありません。――当店の信用です」

 

 クレオは間を置き、落とし所を差し出す。

 

「お詫びは値引きではなく、後日お使いいただける無償メンテナンス券で。なおご不満なら、購入自体を白紙に戻していただいて構いません」

 

 夫人はラースを見る。

 ラースはもう一度、深く頭を下げた。

 視線を逸らさない。

 

「……いいでしょう。二度は許しませんわ」

 

「承知いたしました。奥様の目の前で仕上げます」

 

 見送った後、エリックが小さく吐き捨てる。

 

「だから言っただろ……」

 

 リアが咳払いで止める。

 刺のある沈黙が残る。

 

 モーブルがラースの傍へ来て、低く言った。

 

「次は滑らすな。――だが今の謝り方は悪くない。逃げない謝罪は“金”になる」

 

 ラースは涙目のまま、唇を噛んだ。

 

「で、でも……皆が……僕のせいで……」

 

「不満は結果で消える。続けろ」

 

 夕方。

 売上は昨日比102%。

 微増。

 導線とカードは効いた。

 ――ただし店内の空気は最悪で、視線はまだラースを刺した。

 

 

◆

 

 六日目。

 モーブルは容赦なくラースを前に押し出した。

 

「今日はお前が相談窓口だ。台本三種。字一句、体に叩き込め」

 

 ラースは喉を鳴らし、小さく頷く。

 尻尾は巻けるだけ巻いていた。

 目立たないように、邪魔にならないように。

 

 だが現場は、そんな努力を嘲笑うみたいに荒れた。

 

 魔族嫌いの冒険者パーティが入ってくる。

 ラースの角が視界に入った瞬間、先頭の男が顔を歪めた。

 

「……魔族が店に立ってんのかよ」

 

 次の瞬間、踵が返る。

 扉の鐘が鳴る。

 店に残ったのは、薄い香油の匂いと、気まずさだけだ。

 

「……い、いらっしゃいませ……」

 

 遅れて出た声が、空中でほどける。

 ラースは唇を噛み、包み紙を握り直した。

 

 午前の終わり。

 棚の死角で、乾いた音がした。

 

 ――がしゃん。

 

 尻尾が棚に触れ、飾り箱が一つ倒れたのだ。

 幸い中身は無事。

 だが“高級商館”にとって、音そのものが不祥事だった。

 

 リアが駆け寄り、震える怒りを上品な声に押し込める。

 

「もう無理です! ラースの尻尾が棚に当たって、商品を倒しましたわ!」

 

 店員たちの視線が一斉にラースへ刺さる。

 ラースは「すみません」と言う前に、頭を下げた。

 深く。

 逃げない形で。

 

 クレオも、ついに表情を崩した。

 眉間に薄く皺が刻まれる。

 

「先輩。売上は上がっていますが、スタッフの士気がゼロです。私の店員を壊さないでください」

 

 モーブルは帳簿から目を上げない。

 言葉だけが乾いて落ちる。

 

「士気? 金が士気だ。今日の数字を見ろ」

 

 そして、わざとらしいほど淡々と続けた。

 

「ラースの相談で二件、高額調整が入った。――“役に立つ”ってのは、そういうことだ」

 

 実際、その直後に老紳士が再来店した。

 昨日、杖の調整を頼んだ客だ。

 

「あの魔族の子の説明、的確だったよ。また頼む」

 

 紳士は迷いなく杖を差し出し、追加の依頼を置いていく。

 金貨の音は静かで、重い。

 それが余計に、店員の胸をざらつかせた。

 

 ――数字は上がる。

 ――なのに、空気は悪くなる。

 

 夜。

 閉店の鐘。

 エリックがとうとう爆発した。

 

「俺たち人間が汗かいてるのに、あいつ一匹で何様だ! モーブルさんこそ、出てけ!」

 

 店員たちが黙って頷く。

 反論は出ない。沈黙が、同意の形を取っていた。

 

 裏手の狭い物置で、ラースが膝を抱えていた。

 尻尾が小さく震えている。

 

「旦那様……僕、辞めます……」

 

モーブルは立ち止まらない。

振り返りもしないで言った。

 

「辞めんな。これから面白いことになるってのにもったいないぞ」

 

 ラースは顔を上げる。

 理解は追いつかない。

 それでも、命令なら従える。

 従うしかない。

 

◆

 

 七日目朝。

 

 売上累計、前週比115%。

 数字だけ見れば完勝。

 ――だからこそ不満は逃げ場を失い、鋭くなる。

 

 クレオの目は険しい。

 店員の忍耐は限界。

 ラースの尻尾は今日も巻かれ、角は伏せられている。

 

 モーブルがメモ帳を閉じた。

 

「いいか。数字は出た。売上は右肩上がりだ。お前らの不満も――そのうち“数字”で消す」

 

 だがラースに刺さる視線だけは、まだ消えない。

 

 

◆

 

 七日目の昼下がり。

 騒ぎは起きない――だから余計に、店員たちの視線だけが鋭かった。

 言葉にならない棘が、背中に何本も刺さったまま抜けない。

 

 ラースは包み紙の角を揃え、台本の行を指でなぞる。

 声は出さない。ただ、唇の裏で同じ一文を反復した。

 

「……いらっしゃいませ」

 

 喉が引きつる。胸の奥が薄く痺れる。

 それでも、声は途切れなかった――出せた。

 

 入ってきたのは、例の老紳士だった。

 彼はラースを一瞥し、驚きも嫌悪も挟まず、当然のように頷く。

 

「君か。今日もいるのだな」

 

「は、はい……。き、昨日の杖の……」

 

「うむ。先に言っておこう。私は“種族”で買い物をしない。商品と、説明と、対応で買う」

 

 その言葉が胸の奥に落ちて、じわりと熱を残した。

 ラースは台本を思い出す。相談客――確認、不安を言葉にして、最後に保証。

 

「熱の出方は……昨夜も同じでしたか」

 

「昨夜は落ち着いた。だが今朝、また少しな」

 

「……でしたら、魔力が“通り過ぎる”癖が残っています。調整で……“抜け”を、少し狭めます」

 

 老紳士が目を細めた。

 

「なるほど。人間の職人は、大抵そこを素材のせいにする。君は違うな」

 

 褒められた、と思った瞬間。

 ラースの尻尾が、無意識に小さく揺れてしまう。

 

 老紳士は香油棚へ移り、例のカードを摘まんでふっと笑った。

 

「この字は君だな」

 

「……はい。僕が……書きました」

 

「読みやすい。洒落ていて、押しつけがない。“読ませる”字ではなく……“安心させる”字だ」

 

 香油を三本。

 普段なら一本で済む買い方だ。

 リアが息を呑み、エリックが目を見開く。

 クレオの視線だけが一瞬、カードの筆跡に落ちた。

 

 去り際、老紳士は立ち止まり、ぽつりと言った。

 

「怖さで買わせると、次は来ない。安心で買わせると……友を連れてくる」

 

 その言葉は店内に沈み、静かに残った。

 誰も、すぐには何も言えなかった。

 

 

 

 その日の夕刻。

 事件は――別の形で起きた。

 

 若い夫婦が来店し、贈答用の魔法装飾の前で足を止めた。

 夫は目が肥えている。

 値札より“質”を見るタイプ。

 妻は迷い癖がある。

 手に取っては戻し、戻してはまた見比べる――典型的な“比較棚”の客だった。

 

 ラースは台本の最初の一行を舌の裏で反復し、たった一歩だけ前へ出る。

 

「よろしければ……“いちばん怖いこと”を、先に教えてください」

 

「怖いこと?」

 

 妻がきょとん、と瞬きをした。

 

「贈り物って……後で『合わなかった』が一番きついです。なので、合わない条件を先に潰します」

 

 夫が面白がるように口元を緩めた。

 

「へえ。教育が行き届いてる」

 

 エリックが反射で割って入ろうとする。

 ――魔族に主導権を握らせたくない。

 

 だが妻が、ラースの方へ身体ごと向いた。

 

「じゃあ……相手が肌が弱かったら?」

 

 ラースは頷き、カードを一枚、指先で示す。

 

「香油は腕の内側で少量お試しください。赤みが出たら――当店で薄めて作り直せます」

 

 妻の目がぱっと明るくなる。

 

「作り直せるの?」

 

「はい。……買った後も、面倒を見ます」

 

 その一言で、妻の迷いがほどけた。

 夫婦は、ワンランク上の装飾を選ぶ。

 

 ――売れた。

 ラースの言葉で、売れた。

 

 だが会計の段で、空気が折れる。

 夫が財布を探し、顔色を変えた。

 

「……ない。金貨袋が……ない」

 

 店内の温度が、一段落ちた。

 高級商館の“何も起きない顔”が、瞬時に“事件の顔”に切り替わる。

 

 クレオが一歩前に出る。

 表情は崩さない。

 声だけが、氷みたいに整う。

 

「……お客様。ご安心ください。こちらで確認いたします」

 

 店員たちが青ざめ、互いの視線が交差する。

 言葉にならない疑いが、ひとつの方向へ流れかける。

 

 ――魔族がいるから。

 ――魔族が盗んだのでは。

 

 ラースも息が止まった。

 胸の奥が冷えて、指先の感覚が薄れる。

 

(また……また、僕のせいで――)

 

 そのとき、モーブルの低い声が割って入った。

 

「騒ぐな。盗難は“空気”で増える。まず事実だ」

 

 クレオが即座に返す。

 

「先輩、当店の手順で――」

 

「手順を増やすな。減らせ。今は“発見”だ」

 

 モーブルはラースを見る。逃がさない目だ。

 

「ラース。客の動き、覚えてるか」

 

「……はい。入口で……比較棚の前で……カウンターで……」

 

「なら範囲は絞れる。店員、動くな。客の足元だけ見ろ。袋は“隠せない形”だ。見落としてるだけだ」

 

 店員たちが渋々、床と棚の下を覗く。

 リアまで膝をついた。

 嫌悪より、“売場を止めたくない恐怖”が背中を押す。

 

 ラースは息を吸い、震えを飲み込む。

 台本じゃない。

 “観察”で動く。

 

 妻の立ち位置。

 夫が身体をひねった角度。

 棚の角。

 そして――カウンター脇、椅子の脚。

 

「あ……!」

 

 ラースが指差した。

 椅子の脚に紐が絡み、金貨袋が影に落ちている。

 

 夫が慌てて拾い上げ、肩の力を抜いた。

 

「……あった。すみません。私の不注意だ」

 

 妻が頬を赤らめる。

 クレオは微笑を戻し、滑らかに頭を下げた。

 

「いえ。見つかって何よりです。お怪我はございませんか」

 

 夫は一拍置いて、ラースを見た。

 そして深く頭を下げる。

 

「君が見つけてくれた。ありがとう」

 

 ラースの喉が詰まり、声が出ない。

 その間に、リアがぽつりとこぼした。

 

「……よかったですわね」

 

 誰に向けた言葉かは分からない。

 でも、その一言が――店の壁に、ほんの小さな穴を開けた。

 

 

 

 閉店後。

 いつもの応接室。

 クレオが紅茶を淹れ、モーブルが椅子にどかりと座る。

 ラースは入口で直立し、尻尾を巻いたまま。

 

 湯気の向こうで、クレオが先に口を開く。

 

「先輩。今日の件は……認めます。ラースは役に立ちました」

 

「役に立った、じゃない」

 

 モーブルは即座に切る。

 

「役に立つ場所に“置いた”だけだ」

 

 クレオの眉がわずかに上がる。

 

「言い方が、ひどいですね」

 

「商売は配置だ。人も同じだ――立たせる場所を間違えりゃ、宝でもガラクタになる」

 

 その脇で、ラースが小さく息を吸う。

 

「……僕、怖かったです。盗んだって……言われるかと……」

 

 クレオの瞳が一瞬、揺れた。

 だが次の瞬間には、いつもの整った声音に戻る。

 

「言われたら、私が止めます。この店で、私の許可なく秩序を壊す者は――誰であれ排除します。客でも、です」

 

 宣言だ。

 店員に向けた線引きにも、客に向けた警告にも聞こえる。

 要するに――“ここは私の店だ”と。

 

 ラースは目を見開き、喉の奥で小さく音を立てて頷いた。

 

「……はい」

 

 モーブルがようやく、鼻で息を吐く。

 

「聞いたろ。明日からしゃんと働け。店が守るって言ったんだ」

 

 ラースはもう一度、頷いた。

 今度は逃げるふうでなく、受け取るように。

 

♦

 

 八日目。

 変化は、音もなく進んだ。

 

 朝の準備。

 リアがカード用の紙束を机に置く。

 言い方は相変わらず刺々しい――だが、昨日までの“拒絶”ではない。

 

「……ラース。字が綺麗でしょう。これもお願い。急ぎで」

 

「は、はい! すぐに……!」

 

 エリックはまだ険しい顔のままだ。

 それでも客前で押しのける回数は減り、代わりにラースが詰まったときだけ、ぼそっと指を飛ばす。

 

「……その質問は、こっち。比較棚の二段目だ」

 

 乱暴だ。

 けれど――助け舟だった。

 

 ラースは失敗する。何度も。

 包装紙の角がずれ、声が裏返り、尻尾が棚に触れて小さな音を立てる。

 避けられて、刺されて、笑われる。

 

 それでも、逃げなかった。

 小さく震えながら、毎日同じ場所に立ち続けた。

 

 折れて消えてくれた方が楽だと、誰かが思ってしまうくらいに。

 その“しぶとさ”が、少しずつ店の空気をほどいていった。

 

 

 夕方。

 若い女性客がカードの文字を指でなぞり、言った。

 

「この字、好き。丸くて、やさしい。……なんか可愛い」

 

 リアが、思わず笑ってしまう。

 作った笑顔じゃない。

 こぼれた笑みだ。

 

 その笑いが、店内にうつる。

 ミスを恐れる固さではなく、人が人に反応する温度。

 

 クレオはそれを見て目を細めた。

 悔しさと――ほんのわずかな安堵が、同じ場所に居座った顔。

 

「……先輩。店が、少しだけ“うるさく”なりましたね」

 

「いいことだ」

 

「高級感が損なわれます」

 

「損なわれねぇよ」

 

 モーブルは即答する。

 

「“相談”が増える」

 

 クレオは反論しかけて、口を閉じた。

 売上表が先に答えを出している。

 

 失った客はいる。

 だが増えた客も、確かにいる――安心を買いに来る客が。

 

 

 

 閉店後。

 エリックがラースに、ぶっきらぼうに言った。

 

「……明日、相談客が来たらさ。最初の一言は俺が言う。お前は説明に集中しろ。尻尾、棚に当てんなよ」

 

 ラースは目を丸くする。

 

「え……?」

 

「手伝うって言ってんだ。聞こえねぇのか」

 

 ラースが固まっていると、リアが咳払いで場を整えた。

 視線が泳ぎ、言いにくそうに――それでも言う。

 

「……この前の、差し入れてくれたお菓子。ひどいことを言いました。毒がどうこうなんて……ごめんなさい」

 

 間を置いて、続ける。

 

「よかったら、また作ってきて。今度は……皆で休憩に食べたいです」

 

 ラースは声を失った。

 喉の奥が熱くなる。涙が出そうになる。

 けれど、泣いたらまた迷惑をかける気がして、必死で堪える。

 

「……は、はい……! ぼ、僕……作ります。頑張って……作ります……!」

 

 空気が、ふわりと温まった。

 ラースが“異物”から“スタッフ”へ変わった瞬間だった。

 

 ――だが。

 

 その光景を、クレオだけが輪の外から見下ろしていた。

 冷めた目。

 熱を“現象”として処理する目。

 

 モーブルがメモ帳を閉じる。

 

「ほらな。言った通りだ。余計なもんを、価値に変えた奴が勝つ」

 

 クレオが静かに返す。

 

「……ええ。認めます。数字は出た。連携も、形になっている」

 

 だが次の瞬間、声から温度が抜ける。

 

「ですが先輩。これは“劇薬”です」

 

 モーブルが片眉を上げた。

 

「ほう?」

 

「秩序が緩んでいる。私には馴れ合いに見えます。先輩が去った後、私はすぐに元の規律へ戻します。店は“温度”では回りません」

 

 クレオはラースを見ない。

 店員の笑みも、ラースの涙も一時的な熱として切り捨てる。

 

 モーブルは鼻で笑った。

 

「わしの推薦はいらんのか? その強情っぷり、指導員の心象を損なうと思わん?」

 

 クレオは小さく頷く。

 笑みはない。

 

「心象、ですか」

 

 一拍。

 沈黙で刃を研ぐ。

 そして丁寧さだけを残し、刺す。

 

「私の考えは変わりません。そもそも推薦状は、最終日の試験課題をクリアすれば“自動的に”付く。連盟規約くらい暗記しています」

 

「ふん。可愛げのない」

 

 モーブルは肩をすくめ、わざと昔を掘る。

 

「昔はもう少し可愛げがあったのにな。――あの時、わしがお前を引き取ってりゃ……ここまで捻じれなかったか?」

 

 クレオの指先が、銀の三日月のヘアピンに触れた。

 そこだけ呼吸が乱れ――すぐに整う。

 

「……昔の話です。もう忘れました」

 

 笑みは柔らかい。だが、熱がない。

 

「最後まで私の流儀で進みます。昇格も、自分の才覚だけで“獲って”みせます。……あなたの手心など、借りずに」

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