モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
翌朝。
四日目。
十日間の実地指導――その初日。
街の霧がまだ白い時間帯、『マクシミリアン商会・別館』の前に店員たちが整列していた。
普段の倍近い人数。
クレオを中心に、若く洗練された正規店員が五名。
背筋は一本、制服の皺ひとつない。
そして列の端。
ラースだけが視線を落とし、黒い尻尾を低く伏せていた。
中央に立ったモーブルは腕を組み、片手のメモ帳で全員を一撫でした。
「今日から本番だ。開店まで二時間――店を“作り直す”。文句は閉店後に聞く。今は黙って動け」
クレオが一歩進み出る。
「具体的には?」
「一つ目。導線だ。入口から正面へ“主力”。左右に比較棚。客を迷わせろ。迷いは買いの入口だ」
茶髪の青年――エリックが反射で口を挟む。
「しかし、それでは高級感が……」
「黙れ。高級感は“商品”が出す。導線は“売上”が出す」
切り捨てるような即答。
エリックは口を噤み、クレオを見る。
クレオは無言で頷いた。
「二つ目。タグを“使い方カード”に変える。三点だ。①長持ちの手順。②やりがちな失敗。③困ったときの店対応――安心を売れ」
リアが眉を寄せる。
「カードが増えれば、陳列が乱れますわ」
「乱すな。薄く小さく作れ。商品に“忍ばせろ”。読ませるんじゃない、“気づかせる”」
モーブルは指を三本立てた。
「三つ目。接客の“台本”を作る。客は三種――目的買い、見物、相談。入り口ごとの返しを一枚にまとめろ」
顎で示され、ラースの肩が跳ねる。
「ラース。お前が書け。字、綺麗だろ」
「ぼ、僕が、ですか……?」
「そうだ。裏方専門の字書きだ。さっさとやれ」
視線が一斉にラースへ集まる。
エリックは露骨に顔を歪め、リアは小さく舌打ちした。
クレオは無表情――ただ目だけが冷たい。
「先輩。あの魔族に任せるのですか。ミスが出れば――」
「出たら直せ。お前ほどの完璧主義が、紙切れ一枚で崩れるか?」
準備は雪崩のように進んだ。
棚が動き、カードが急造され、台本が震える手で書き上げられていく。
開店ベルが鳴る頃、店はいつもと違う顔をしていた。
入口正面に利益率の高い香油と魔法装飾品。
左右に同価格帯の比較品。
タグの下には、小さな羊皮紙のカードが控えめに差し込まれている。
最初の客は貴族風の夫人。
香油棚で足を止め、カードを拾い上げた。
「あら……『指先で温めて伸ばすと香りが一日持続。直射日光は避けて』……“調整承ります”、ですって?」
リアが台本通り、笑顔の角度まで揃えて応じる。
「はい。いつでもお持ちくださいませ。こちらの装飾品と併用いただくと、香りがさらに安定します」
夫人は迷わず二点購入。
金貨の音が軽やかに鳴った。
滑り出しは上々――だった。
次の客は冒険者風の男。
カウンターでラースが包装を任された瞬間、空気がぴたりと止まる。角と尻尾が、どうしても目立つ。
「おい、魔族か。触るな。穢れが移る」
吐き捨てる声。
ラースの指が固まり、包装紙が床に散った。
「す、すみません……!」
エリックが割り込み、包みを奪う。
「私がやります」
男は不機嫌に金貨を置き、去った。
売上は立ったが、店内の温度だけが下がる。
エリックが小声でリアに囁く。
「見たか。あれが限界だ」
リアは頷き、ラースを睨む。
ラースは尻尾を巻いて一歩下がった。
クレオがモーブルの隣へ寄る。
「先輩。客一人でも“格”は落ちます。ラースは裏へ戻すべきでは?」
「格? 客一人で落ちるなら、その程度だ。続けろ」
午前中、二度目。
貴婦人のグループが来店し、ラースが台本を手に説明を試みる。
「あの……こちらは『一晩休ませると魔力が回復します。連日使用で色褪せるのでご注意を――』」
「魔族の口で商品説明? 不快ですわ。人間の店員さんで」
ラースは言葉を失い、台本を取り落とした。
リアが即座に入り、場を整えるが、婦人たちは最低限だけ買って引き上げる。
残るのは店員の苛立ちだ。
休憩時間、裏口。
「モーブルさん、何考えてるんですか!」
エリックが声を荒げた。
「あいつがいるだけで客が減る! 仕事が増える! クレオ様の名前に傷がつく!」
同調が続く。
「魔族は荷運びまでですわ」
「完璧な店が台無し……」
モーブルは壁に寄りかかり、ドーナツを噛んだまま言う。
「文句か。なら数字で黙れ。午後、昨日比を落とすな」
クレオが押し返す。
「理屈は理解しています。ですが現実を。富裕層は魔族を嫌う――セレンスの常識です」
「金を落とさねぇ常識はゴミだ。ラース、午後は主力棚。逃げんな」
ラースの目が潤む。
「で、でも旦那様……僕、失敗ばかりで……」
「失敗は“動いて”埋めろ。次」
午後、火種は大きくなった。
高額の魔法剣の鞘を求める貴族の青年。
ラースがカードを読み上げた瞬間――
「『雨に濡れたら布の向きを逆に拭いてください。寿命が半減します。当店でメンテナンス――』」
「黙れ魔族! 触るな!」
青年は鞘を投げ捨てて出て行く。
損失は中級品一式。
堪えていた店員の苛立ちは、そこで破裂した。
「もう限界です!」
「ラースのせいです! 尻尾が邪魔だし角が怖い!」
ラースはカウンター隅で震え、尻尾を握りしめる。
「ご、ごめんなさい……僕のせいで……」
モーブルは帳簿に目を落としたまま、言葉だけを落とす。
売上は昨日比で微減。――だが香油の回転率は上がっている。比較棚が効いている。
クレオが詰め寄る。
「先輩。これが“価値に変える”ですか。客が減り、店員が荒れています。方針を変えてください」
「変えん。四日目はこれで終わりだ。明日は“もっと使う”」
モーブルは、わざと店員全員に聞こえる声で続ける。
「魔族一匹で折れるな。モーブル商会『心得百箇条』その十一――
『顧客は王様だ。ただし王は、いつか首を斬られる』」
呆然が広がる。
ラースは落ちた包装紙を拾い、涙を飲み込んだ。クレオの目は険しい。
「……分かりました。ですが、必ず結果を」
閉店後。
売上は昨日比98%。微減。だがカードの効果で“次”の種は撒けた。
モーブルはメモ帳に書き込み、ラースは尻尾を垂らして立つ。
「旦那様……僕、いない方が……」
「黙れ。明日も出ろ。――お前の字で、白金級の香油が三本動いた」
ラースが目を見開く。
冷たい視線はまだ消えない。クレオは黙って紅茶を淹れ、空気だけが軋む。
四日目は、嵐の助走だった。
◆
五日目、開店前。
ラースは小さなカゴを抱えて、応接室の前で立ち尽くしていた。
昨夜ひとりで焼いた菓子。
砂糖の甘い匂いが、布の隙間からそっと漏れている。
(昨日、僕が空気を壊した。せめて……これで、少しでも)
「……クレオ様。皆さんも。よかったら……」
差し出した瞬間、空気が凍った。
「魔族の食い物……?」
「毒でも入ってたら?」
「やめとけ。冗談じゃない」
笑いではない。
値踏みするみたいな低い声が、カゴの上に落ちる。
ラースの指先が震え、籐がこつり、と乾いた音を立てた。
クレオは微笑の“形”だけを保ったまま、声の温度だけを抜く。
「お気持ちは受け取ります。ですが口に入れるものは衛生と信用の問題です。当店の者は手を付けません。――ご理解ください」
丁寧で、逃げ道のない拒絶。
ラースはカゴを抱え直し、深く頭を下げた。
「……失礼しました」
その横から、モーブルがぶっきらぼうに口を挟む。
「落ち込むな。菓子は後でわしが食う。――不味かったらわしに金払えよ」
ラースは笑えず、小さく頷いた。
その日も方針は変わらない。
ラースを前に出し、台本を増やす。
「相談客はラースが取れ。お前の丁寧さは“武器”だ」
早朝の老紳士が来る。
ラースは震えながらも応対した。
「あの……こちらの杖は『魔力過多で熱を持ちます。冷やす際は氷ではなく流水で。一晩置くと最適です。当店で調整を――』」
「ほう。細かいな。魔族か……だが知識はある」
購入が決まる。
しかし逆風も続く。
婦人グループが再来し、空気が荒れる。
休憩中、エリックが詰め寄った。
「お前のせいで歩合が減る。尻尾、隠せよ。目障りだ!」
リアも鋭い。
「クレオ様の店が穢れますの。モーブルさん、いい加減に」
クレオが止めに入る。
「先輩。離反が出ています。昨日は鞘一式を廃棄した」
「廃棄? 修理して再販だ。損は二日で回収する」
実際、カードは効き始めている。
返品は減り、相談客が増え、調整依頼が利益になる。
――数字だけは、嘘をつかない。
昼過ぎ。
上級貴族の夫人が来店した。
“格”を買いに来る客。
視線が早く、鋭い。
ラースが包み紙を広げた瞬間、リボンが指から滑り、淡い包装紙に小さな汚れがつく。
「――っ」
血の気が引く。
ラースは言い訳より先に、深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません……!」
声量は抑え、言葉だけを夫人に“置く”。
夫人の眉が吊り上がる。
「……魔族の不手際で、私の品が?」
「訴えますわ。この店は、穢れた手を客に差し出すの?」
店が凍る。
だがラースは逃げない。
汚れを隠さず、さらに深く頭を下げた。
「ご不快を重ねてお詫び申し上げます。最初から包み直します――いえ、それでは足りません。新品の紙と新しいリボンで、奥様の目の前で“作り直し”をいたします。お気に召さなければ、検品からやり直し、交換も当店の責任で手配いたします」
怒りの勢いが、わずかに削がれる。
そこへクレオが滑り込む。
ラースの前ではない。
夫人の視界の中心――店の“格”として立った。
「奥様。失礼いたしました」
完璧な一礼。
声は柔らかいのに、芯が折れない。
「当店の不手際です。包装は即刻、最上級の贈答仕様へ。加えて本日お買い上げの品は、責任を持って再検品いたします」
「言い切りますのね」
「はい。奥様が買われるのは品だけではありません。――当店の信用です」
クレオは間を置き、落とし所を差し出す。
「お詫びは値引きではなく、後日お使いいただける無償メンテナンス券で。なおご不満なら、購入自体を白紙に戻していただいて構いません」
夫人はラースを見る。
ラースはもう一度、深く頭を下げた。
視線を逸らさない。
「……いいでしょう。二度は許しませんわ」
「承知いたしました。奥様の目の前で仕上げます」
見送った後、エリックが小さく吐き捨てる。
「だから言っただろ……」
リアが咳払いで止める。
刺のある沈黙が残る。
モーブルがラースの傍へ来て、低く言った。
「次は滑らすな。――だが今の謝り方は悪くない。逃げない謝罪は“金”になる」
ラースは涙目のまま、唇を噛んだ。
「で、でも……皆が……僕のせいで……」
「不満は結果で消える。続けろ」
夕方。
売上は昨日比102%。
微増。
導線とカードは効いた。
――ただし店内の空気は最悪で、視線はまだラースを刺した。
◆
六日目。
モーブルは容赦なくラースを前に押し出した。
「今日はお前が相談窓口だ。台本三種。字一句、体に叩き込め」
ラースは喉を鳴らし、小さく頷く。
尻尾は巻けるだけ巻いていた。
目立たないように、邪魔にならないように。
だが現場は、そんな努力を嘲笑うみたいに荒れた。
魔族嫌いの冒険者パーティが入ってくる。
ラースの角が視界に入った瞬間、先頭の男が顔を歪めた。
「……魔族が店に立ってんのかよ」
次の瞬間、踵が返る。
扉の鐘が鳴る。
店に残ったのは、薄い香油の匂いと、気まずさだけだ。
「……い、いらっしゃいませ……」
遅れて出た声が、空中でほどける。
ラースは唇を噛み、包み紙を握り直した。
午前の終わり。
棚の死角で、乾いた音がした。
――がしゃん。
尻尾が棚に触れ、飾り箱が一つ倒れたのだ。
幸い中身は無事。
だが“高級商館”にとって、音そのものが不祥事だった。
リアが駆け寄り、震える怒りを上品な声に押し込める。
「もう無理です! ラースの尻尾が棚に当たって、商品を倒しましたわ!」
店員たちの視線が一斉にラースへ刺さる。
ラースは「すみません」と言う前に、頭を下げた。
深く。
逃げない形で。
クレオも、ついに表情を崩した。
眉間に薄く皺が刻まれる。
「先輩。売上は上がっていますが、スタッフの士気がゼロです。私の店員を壊さないでください」
モーブルは帳簿から目を上げない。
言葉だけが乾いて落ちる。
「士気? 金が士気だ。今日の数字を見ろ」
そして、わざとらしいほど淡々と続けた。
「ラースの相談で二件、高額調整が入った。――“役に立つ”ってのは、そういうことだ」
実際、その直後に老紳士が再来店した。
昨日、杖の調整を頼んだ客だ。
「あの魔族の子の説明、的確だったよ。また頼む」
紳士は迷いなく杖を差し出し、追加の依頼を置いていく。
金貨の音は静かで、重い。
それが余計に、店員の胸をざらつかせた。
――数字は上がる。
――なのに、空気は悪くなる。
夜。
閉店の鐘。
エリックがとうとう爆発した。
「俺たち人間が汗かいてるのに、あいつ一匹で何様だ! モーブルさんこそ、出てけ!」
店員たちが黙って頷く。
反論は出ない。沈黙が、同意の形を取っていた。
裏手の狭い物置で、ラースが膝を抱えていた。
尻尾が小さく震えている。
「旦那様……僕、辞めます……」
モーブルは立ち止まらない。
振り返りもしないで言った。
「辞めんな。これから面白いことになるってのにもったいないぞ」
ラースは顔を上げる。
理解は追いつかない。
それでも、命令なら従える。
従うしかない。
◆
七日目朝。
売上累計、前週比115%。
数字だけ見れば完勝。
――だからこそ不満は逃げ場を失い、鋭くなる。
クレオの目は険しい。
店員の忍耐は限界。
ラースの尻尾は今日も巻かれ、角は伏せられている。
モーブルがメモ帳を閉じた。
「いいか。数字は出た。売上は右肩上がりだ。お前らの不満も――そのうち“数字”で消す」
だがラースに刺さる視線だけは、まだ消えない。
◆
七日目の昼下がり。
騒ぎは起きない――だから余計に、店員たちの視線だけが鋭かった。
言葉にならない棘が、背中に何本も刺さったまま抜けない。
ラースは包み紙の角を揃え、台本の行を指でなぞる。
声は出さない。ただ、唇の裏で同じ一文を反復した。
「……いらっしゃいませ」
喉が引きつる。胸の奥が薄く痺れる。
それでも、声は途切れなかった――出せた。
入ってきたのは、例の老紳士だった。
彼はラースを一瞥し、驚きも嫌悪も挟まず、当然のように頷く。
「君か。今日もいるのだな」
「は、はい……。き、昨日の杖の……」
「うむ。先に言っておこう。私は“種族”で買い物をしない。商品と、説明と、対応で買う」
その言葉が胸の奥に落ちて、じわりと熱を残した。
ラースは台本を思い出す。相談客――確認、不安を言葉にして、最後に保証。
「熱の出方は……昨夜も同じでしたか」
「昨夜は落ち着いた。だが今朝、また少しな」
「……でしたら、魔力が“通り過ぎる”癖が残っています。調整で……“抜け”を、少し狭めます」
老紳士が目を細めた。
「なるほど。人間の職人は、大抵そこを素材のせいにする。君は違うな」
褒められた、と思った瞬間。
ラースの尻尾が、無意識に小さく揺れてしまう。
老紳士は香油棚へ移り、例のカードを摘まんでふっと笑った。
「この字は君だな」
「……はい。僕が……書きました」
「読みやすい。洒落ていて、押しつけがない。“読ませる”字ではなく……“安心させる”字だ」
香油を三本。
普段なら一本で済む買い方だ。
リアが息を呑み、エリックが目を見開く。
クレオの視線だけが一瞬、カードの筆跡に落ちた。
去り際、老紳士は立ち止まり、ぽつりと言った。
「怖さで買わせると、次は来ない。安心で買わせると……友を連れてくる」
その言葉は店内に沈み、静かに残った。
誰も、すぐには何も言えなかった。
その日の夕刻。
事件は――別の形で起きた。
若い夫婦が来店し、贈答用の魔法装飾の前で足を止めた。
夫は目が肥えている。
値札より“質”を見るタイプ。
妻は迷い癖がある。
手に取っては戻し、戻してはまた見比べる――典型的な“比較棚”の客だった。
ラースは台本の最初の一行を舌の裏で反復し、たった一歩だけ前へ出る。
「よろしければ……“いちばん怖いこと”を、先に教えてください」
「怖いこと?」
妻がきょとん、と瞬きをした。
「贈り物って……後で『合わなかった』が一番きついです。なので、合わない条件を先に潰します」
夫が面白がるように口元を緩めた。
「へえ。教育が行き届いてる」
エリックが反射で割って入ろうとする。
――魔族に主導権を握らせたくない。
だが妻が、ラースの方へ身体ごと向いた。
「じゃあ……相手が肌が弱かったら?」
ラースは頷き、カードを一枚、指先で示す。
「香油は腕の内側で少量お試しください。赤みが出たら――当店で薄めて作り直せます」
妻の目がぱっと明るくなる。
「作り直せるの?」
「はい。……買った後も、面倒を見ます」
その一言で、妻の迷いがほどけた。
夫婦は、ワンランク上の装飾を選ぶ。
――売れた。
ラースの言葉で、売れた。
だが会計の段で、空気が折れる。
夫が財布を探し、顔色を変えた。
「……ない。金貨袋が……ない」
店内の温度が、一段落ちた。
高級商館の“何も起きない顔”が、瞬時に“事件の顔”に切り替わる。
クレオが一歩前に出る。
表情は崩さない。
声だけが、氷みたいに整う。
「……お客様。ご安心ください。こちらで確認いたします」
店員たちが青ざめ、互いの視線が交差する。
言葉にならない疑いが、ひとつの方向へ流れかける。
――魔族がいるから。
――魔族が盗んだのでは。
ラースも息が止まった。
胸の奥が冷えて、指先の感覚が薄れる。
(また……また、僕のせいで――)
そのとき、モーブルの低い声が割って入った。
「騒ぐな。盗難は“空気”で増える。まず事実だ」
クレオが即座に返す。
「先輩、当店の手順で――」
「手順を増やすな。減らせ。今は“発見”だ」
モーブルはラースを見る。逃がさない目だ。
「ラース。客の動き、覚えてるか」
「……はい。入口で……比較棚の前で……カウンターで……」
「なら範囲は絞れる。店員、動くな。客の足元だけ見ろ。袋は“隠せない形”だ。見落としてるだけだ」
店員たちが渋々、床と棚の下を覗く。
リアまで膝をついた。
嫌悪より、“売場を止めたくない恐怖”が背中を押す。
ラースは息を吸い、震えを飲み込む。
台本じゃない。
“観察”で動く。
妻の立ち位置。
夫が身体をひねった角度。
棚の角。
そして――カウンター脇、椅子の脚。
「あ……!」
ラースが指差した。
椅子の脚に紐が絡み、金貨袋が影に落ちている。
夫が慌てて拾い上げ、肩の力を抜いた。
「……あった。すみません。私の不注意だ」
妻が頬を赤らめる。
クレオは微笑を戻し、滑らかに頭を下げた。
「いえ。見つかって何よりです。お怪我はございませんか」
夫は一拍置いて、ラースを見た。
そして深く頭を下げる。
「君が見つけてくれた。ありがとう」
ラースの喉が詰まり、声が出ない。
その間に、リアがぽつりとこぼした。
「……よかったですわね」
誰に向けた言葉かは分からない。
でも、その一言が――店の壁に、ほんの小さな穴を開けた。
閉店後。
いつもの応接室。
クレオが紅茶を淹れ、モーブルが椅子にどかりと座る。
ラースは入口で直立し、尻尾を巻いたまま。
湯気の向こうで、クレオが先に口を開く。
「先輩。今日の件は……認めます。ラースは役に立ちました」
「役に立った、じゃない」
モーブルは即座に切る。
「役に立つ場所に“置いた”だけだ」
クレオの眉がわずかに上がる。
「言い方が、ひどいですね」
「商売は配置だ。人も同じだ――立たせる場所を間違えりゃ、宝でもガラクタになる」
その脇で、ラースが小さく息を吸う。
「……僕、怖かったです。盗んだって……言われるかと……」
クレオの瞳が一瞬、揺れた。
だが次の瞬間には、いつもの整った声音に戻る。
「言われたら、私が止めます。この店で、私の許可なく秩序を壊す者は――誰であれ排除します。客でも、です」
宣言だ。
店員に向けた線引きにも、客に向けた警告にも聞こえる。
要するに――“ここは私の店だ”と。
ラースは目を見開き、喉の奥で小さく音を立てて頷いた。
「……はい」
モーブルがようやく、鼻で息を吐く。
「聞いたろ。明日からしゃんと働け。店が守るって言ったんだ」
ラースはもう一度、頷いた。
今度は逃げるふうでなく、受け取るように。
♦
八日目。
変化は、音もなく進んだ。
朝の準備。
リアがカード用の紙束を机に置く。
言い方は相変わらず刺々しい――だが、昨日までの“拒絶”ではない。
「……ラース。字が綺麗でしょう。これもお願い。急ぎで」
「は、はい! すぐに……!」
エリックはまだ険しい顔のままだ。
それでも客前で押しのける回数は減り、代わりにラースが詰まったときだけ、ぼそっと指を飛ばす。
「……その質問は、こっち。比較棚の二段目だ」
乱暴だ。
けれど――助け舟だった。
ラースは失敗する。何度も。
包装紙の角がずれ、声が裏返り、尻尾が棚に触れて小さな音を立てる。
避けられて、刺されて、笑われる。
それでも、逃げなかった。
小さく震えながら、毎日同じ場所に立ち続けた。
折れて消えてくれた方が楽だと、誰かが思ってしまうくらいに。
その“しぶとさ”が、少しずつ店の空気をほどいていった。
夕方。
若い女性客がカードの文字を指でなぞり、言った。
「この字、好き。丸くて、やさしい。……なんか可愛い」
リアが、思わず笑ってしまう。
作った笑顔じゃない。
こぼれた笑みだ。
その笑いが、店内にうつる。
ミスを恐れる固さではなく、人が人に反応する温度。
クレオはそれを見て目を細めた。
悔しさと――ほんのわずかな安堵が、同じ場所に居座った顔。
「……先輩。店が、少しだけ“うるさく”なりましたね」
「いいことだ」
「高級感が損なわれます」
「損なわれねぇよ」
モーブルは即答する。
「“相談”が増える」
クレオは反論しかけて、口を閉じた。
売上表が先に答えを出している。
失った客はいる。
だが増えた客も、確かにいる――安心を買いに来る客が。
閉店後。
エリックがラースに、ぶっきらぼうに言った。
「……明日、相談客が来たらさ。最初の一言は俺が言う。お前は説明に集中しろ。尻尾、棚に当てんなよ」
ラースは目を丸くする。
「え……?」
「手伝うって言ってんだ。聞こえねぇのか」
ラースが固まっていると、リアが咳払いで場を整えた。
視線が泳ぎ、言いにくそうに――それでも言う。
「……この前の、差し入れてくれたお菓子。ひどいことを言いました。毒がどうこうなんて……ごめんなさい」
間を置いて、続ける。
「よかったら、また作ってきて。今度は……皆で休憩に食べたいです」
ラースは声を失った。
喉の奥が熱くなる。涙が出そうになる。
けれど、泣いたらまた迷惑をかける気がして、必死で堪える。
「……は、はい……! ぼ、僕……作ります。頑張って……作ります……!」
空気が、ふわりと温まった。
ラースが“異物”から“スタッフ”へ変わった瞬間だった。
――だが。
その光景を、クレオだけが輪の外から見下ろしていた。
冷めた目。
熱を“現象”として処理する目。
モーブルがメモ帳を閉じる。
「ほらな。言った通りだ。余計なもんを、価値に変えた奴が勝つ」
クレオが静かに返す。
「……ええ。認めます。数字は出た。連携も、形になっている」
だが次の瞬間、声から温度が抜ける。
「ですが先輩。これは“劇薬”です」
モーブルが片眉を上げた。
「ほう?」
「秩序が緩んでいる。私には馴れ合いに見えます。先輩が去った後、私はすぐに元の規律へ戻します。店は“温度”では回りません」
クレオはラースを見ない。
店員の笑みも、ラースの涙も一時的な熱として切り捨てる。
モーブルは鼻で笑った。
「わしの推薦はいらんのか? その強情っぷり、指導員の心象を損なうと思わん?」
クレオは小さく頷く。
笑みはない。
「心象、ですか」
一拍。
沈黙で刃を研ぐ。
そして丁寧さだけを残し、刺す。
「私の考えは変わりません。そもそも推薦状は、最終日の試験課題をクリアすれば“自動的に”付く。連盟規約くらい暗記しています」
「ふん。可愛げのない」
モーブルは肩をすくめ、わざと昔を掘る。
「昔はもう少し可愛げがあったのにな。――あの時、わしがお前を引き取ってりゃ……ここまで捻じれなかったか?」
クレオの指先が、銀の三日月のヘアピンに触れた。
そこだけ呼吸が乱れ――すぐに整う。
「……昔の話です。もう忘れました」
笑みは柔らかい。だが、熱がない。
「最後まで私の流儀で進みます。昇格も、自分の才覚だけで“獲って”みせます。……あなたの手心など、借りずに」