モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
帝国マーリン魔法大学の研究棟、その一室は――尋常ならざる熱気に満ちていた。
床から天井まで無秩序に積み上げられた古文書。
怪しげな光を放つ鉱石。
鼻を刺す、多様な薬草の匂い。
その中心で、一人の美少年が、神聖な儀式のようにフラスコを傾けている。
彼の名はニーシャ・オブライエン。
齢十二にして、イングラジア魔導国最高学府――マーリン魔法大学の教授位に座する、千年に一人の天才だ。
そして今、その腕の中には――艶やかな黒毛の猫がいた。
溺愛する飼い猫ミッドナイト。
喉を鳴らし、王族のように当然の顔で抱かれている。
「いい子だ、ミッドナイト。……見ていろ。今日こそ完成だ」
ニーシャは猫の頭を一度だけ撫でると、釜へ視線を戻した。
彼が取り組むのは、術者の魔力感知能力を飛躍的に増大させる、前代未聞のポーション開発である。
「ふふ……完璧だ」
最後の素材――精霊の木の欠片。
煮えたぎる液体へ落とした瞬間、釜の内側が淡く脈打った。
香りが、ふっと変わる。
成功の匂いへ。
「これでまた一つ、ボクの名声は揺るぎないものになる」
そう確信した――その時。
ミッドナイトが、腕の中で小さく身じろぎした。
黒い尻尾がふわりと揺れ、柔らかな毛が一筋、灯りの熱気に舞い上がる。
「……ん?」
ニーシャが眉を寄せた瞬間には、もう遅かった。
その毛は、狙いすましたように釜の中へ――ひらり、と落ちた。
ボコンッ。
腹の底に響く嫌な音とともに、液体が一気に紫へ変色する。
釜の底から泡が噴き上がり、表面は不自然なほど粘つき、ぷつぷつと――“怒っている”みたいに膨れ始めた。
「配合は完璧なはずだ。誤差は……ない。あるとすれば、異物混入――」
言い終える前に、釜が凄まじい音とともに爆ぜた。
甘ったるい桃色の煙が爆風に押され、研究室全体へ広がっていく。
棚の古文書が舞い、鉱石が転がり、薬草の匂いが一斉にむせ返るほど濃くなった。
「ごほっ……ごほっ!」
ニーシャは咳き込みながら煙を払い、唇を歪める。
「くそ。失敗か……? ――まぁいい。新しいことには失敗がつきものだ」
次の瞬間、背筋が凍った。
腕の中が、軽い。
「……ミッドナイト?」
返事はない。
代わりに、胸の奥が“ぞわり”と揺れた。
猫が喉を鳴らす時の、あの振動と同じ感覚が、自分の内側から響いてくる。
理解したくない予感のまま、水場へ向かい、乱暴に水をすくって顔を拭う。
そして、鏡を覗き込んだニーシャは――そのまま凍りついた。
「…………は?」
そこに映っていたのは、いつも通りの完璧な美貌を持つ自分。
だが、“何か”が決定的に違う。
輝く金髪の合間から、ぴょこん、と二つ――とがった“耳”が飛び出していた。
しかも、耳の先端が、意思を持ったみたいにぴくりと動く。
恐る恐る背後を確かめる。
腰のあたりで、何かがうねった。
「………………」
ネコの尻尾だった。
血の気が引いた。
呼吸すら忘れ、己の姿を凝視する。
それだけではない。
鏡の向こうの自分の瞳が、縦に細く――猫のそれみたいに収縮している。
数秒の硬直のあと、ニーシャは絶叫に近い悲鳴を上げた。
「な……な、にゃんじゃこりゃーーーーー!?」
傍らの魔法帽子をひっ掴む。
そして頭が締め付けられるほど深く、深く被り込んだ。
◆
「だから! なんで今月の売上が先月比で3%も落ちてるんだ! ラース、貴様また接客でヘマして客を怒らせたな!? 報告・連絡・相談! 口がすっぱくなるほど叩き込んだだろうが!」
「ひぃっ! も、申し訳ありません旦那さま! 気づいた点は全部手帳に書いて、次は絶対やらないようにしてるんですが……それでも、つい……!」
魔族の少年ラースが縮こまり、言い訳を最後まで形にできず喉の奥で潰す。
――その時だった。
店の古びた扉が、攻城槌で叩き割られたみたいな勢いで開け放たれた。
「モーブルッ!!」
血相を変えて飛び込んできたのは、息を切らしたニーシャだった。
いつもは気品すら漂わせる魔法帽子は、目深に――まるで顔ごと隠すように被られ、表情はほとんど読み取れない。
金髪は乱れ、上等な服には泥が跳ね、靴は片方だけ濡れている。
「おやおや、これはこれはニーシャ坊ちゃん。その血相は……また実験体、いやペットのキメラでも逃げましたかな? 今度は街の人間を食ってませんでしょうな」
モーブルは帳簿を閉じもせず、嫌味たっぷりに口角を上げた。
ニーシャは返事もしない。
カウンターへ駆け寄るなり、モーブルの腕を掴んだ。
「いいから来い! 話がある!」
「あ、ちょ! わしの腕をそんな乱暴に掴まないでくださいよ! 大体、今は大事なミーティングの最中で――」
「いいから来い!!」
有無を言わせぬ気迫。
モーブルが一瞬たじろいだ隙に、ニーシャはそのまま引きずるように店の奥へ向かった。
バタン、と乱暴に扉が閉められる。
モーブルは苛立ちを隠さずに、掴まれた腕を振り払った。
「一体何の騒ぎなんです、坊っちゃん! 平民のわしはですね、貴族の貴方様と違って一分一秒を金に変えなきゃ生きていけ――」
「うるさい!」
ニーシャが、悲鳴みたいな声で遮った。
壁際に追い詰められた小動物のように肩で息をし、わなわなと震えている。
その尋常でない様子に、モーブルの眉がようやく寄った。
「……で、話とはなんです。わしを脅してタダ働きさせるつもりなら、坊っちゃんでも叩き出しますぞ」
「…………」
ニーシャは答えない。
ただ、震える手で、帽子の縁に触れた。
まるで断頭台に上がる罪人のような覚悟が、その横顔に滲む。
そして――意を決したように、帽子を脱いだ。
「…………は?」
モーブルは、己の目を疑った。
輝く金髪の合間から、ぴょこん、と二つ――“耳”が飛び出している。
黄金色の毛並み。
先端が、ぴくぴくと震える。
猫の耳だった。
しばしの沈黙。
モーブルは口を開けたまま硬直し、次の瞬間、腹の底から笑いがこみ上げた。
「ぷっ……く、くく……ぶははははは!! なんだそれは! 傑作だ! まさかネコと美少年のキメラが、わしの店に飛び込んでくるとはな! 似合っているじゃないか、猫耳坊ちゃん!」
バンバンとテーブルを叩いて笑い転げるモーブルに、ニーシャの顔が沸騰したように赤くなる。
頭の上の猫耳が、怒りに合わせてピーンと立った。
「黙れ
「どうもこうもありませんよ。ただのネコ耳と尻尾です。むしろ魔法大学の女どもには大ウケでしょうよ。『ニーシャ様かわいい!』で、ラブレターの山がさらに高くなる」
「この愚か者ッ!! ボクは名門オブライエン伯爵家の跡継ぎだぞ!」
ニーシャはテーブルに身を乗り出し、モーブルの胸倉をつかまんばかりの勢いで叫ぶ。
「イングラジア魔導国の上級貴族が、魔族みたいな耳を生やしていると知られてみろ! 『ポーションの事故で』なんて言い訳が通用するものか! きっとこうなる――『ニーシャ・オブライエンは魔族に入れ替わった』とな! そうなれば魔導騎士団がすっ飛んできて、ボクは良くて地下牢送り、最悪は『浄化』という名の生体解剖だ!」
その言葉には、冗談では済まされない、この国の根深い「魔族アレルギー」への恐怖が滲んでいた。
モーブルもようやく笑いを収め、事の重大さを理解し始める。
「……なるほど。確かにそれは、ちと笑えませんな」
「笑えないどころの話じゃない! ボクが魔族認定されれば、一族郎党破滅だ! だから、原因を解明して解除薬を完成させるまで、お前の家に匿え! これは命令だ!」
傲慢な命令口調が戻った途端、モーブルは即座に手をひらひらと振った。
まるで野良猫を追い払う仕草だ。
「お断りします。なぜわしが坊っちゃんの尻拭いをせねばならんのです。さっさと家に帰って、パパとママに泣きつきなさい」
「ち、父上に知られたらそれこそ勘当だ! いいか、これは取引だ。匿うなら成功報酬として金貨を――」
「金の問題ではないと言っている。坊っちゃんを匿うリスクとリターンが釣り合わんのです。――お引き取りを」
モーブルが冷たく言い放ち、表に出ようと扉に手をかけた、その時だった。
「……そうか。交渉決裂か」
ニーシャの声が、氷点下の冷たさで響いた。
さっきまでの取り乱した様子が嘘のように、凪いでいる。
「ならば仕方ない。ボクはこれから魔法議会に、一つの『古代の伝承』について報告しに行くことにするよ。なんでもこの国には、人の成長限界を無理やりこじ開ける『レベルブレイク』なる禁術を操る――『レベル師』の末裔が隠れ住んでいる、とね」
ピタリ、とモーブルの動きが止まる。
背中を、冷や汗が一筋つたい落ちる。
ゆっくりと振り返ると、そこには猫耳をぴくぴくと動かしながら、悪魔のような笑みを浮かべたニーシャが立っていた。
「……き、貴様」
「ボクを匿え、モーブル。さもなくば、お前の秘密を世界中にぶちまけてやる。そうなれば、お前こそが魔導騎士団の『解剖台』行きだ」
モーブルはギリ、と奥歯を噛み締めた。
このクソガキ、こちらの
損得勘定じゃない。
生存の問題だ。
しばらくの睨み合いの後、モーブルはこの世の理不尽すべてを呪うかのように、深く重いため息を吐いた。
「…………地下の倉庫を使え。ただし家賃と食費、それから多大な迷惑料はきっちり請求させてもらう。前金は金貨百枚。――事が解決したら、追加で四百枚。合計五百枚だ。いいですね?」
「安いものだ」
かくして。
強欲な闇商人と、猫耳の天才少年。
奇妙で波乱に満ちた共同生活は、最悪の形で幕を開けたのだった。
◆
モーブル商会の地下には、二つの顔がある。
ひとつは、ゴールド級以上の冒険者や一部の富裕層のみが足を踏み入れる“VIPルーム”。
上級武器や希少アイテムが鎮座し、値札よりも先に圧倒的な魔力と威圧感が客を出迎える、選ばれし者の空間だ。
そしてもうひとつは――売れ残りの武具や、曰く付きの呪物、ガラクタ同然の骨董品を無造作に押し込んである、薄暗い倉庫である。
今回、ニーシャが寝泊まりするのは、その倉庫の方――だったはずだ。
いや、「寝泊まりする」という表現は、すでに過去のものとなっていた。
そこは一夜にして、カヴェナの地下に現れた『魔術師の城塞』へと変貌を遂げていたのである。
ニーシャは大学に休暇届を一方的に叩きつけ、モーブルに命じて、その日のうちに研究室から最低限の機材と山のような古文書を搬入させた。
手段は、帝都と地方をわずか数時間で結ぶ高速魔導列車『マナ・ライナー』の、十両編成の貨物車両のうち一両を丸ごと貸し切るという暴挙で。
そして、共同生活初日の夕方。
カヴェナの物流コストを無視した優雅な夕食会(ミーティング)が開幕する。
「モーブル。ここは今日からボクの研究室だ。許可なき立ち入りは万死に値すると思え。それから食事だが、一日に三度、きっかり決まった時間に扉の前に置くこと。メニューは……そうだな」
ニーシャは埃っぽい地下の空気など存在しないかのように、優雅に指を振る。
「初日の夕食は『愛の皿亭』のロックリザードステーキ。焼き加減はレアだ。飲み物はヴァルクリア神聖国から取り寄せた、白葡萄のジュースがいい。年代は指定しないが、あまり若いのは舌が荒れるから避けてくれ」
「ここをどこの五つ星ホテルだと勘違いしておるんだ貴様はッ!! さんざん荷運びでわしをコキ使って、マナ・ライナーの急行料金まで払わせて! その上ルームサービスだと!? わしはもう、心身ともに限界なんだぞ!」
だが、ニーシャは優雅に猫耳をピクリと震わせるだけで、どこ吹く風だ。
「勘違いしているのはお前の方だ、モーブル。名門貴族のボクをこんな地下に押し込めておいて、その上で文句を言うのか?」
そして、笑っていない声で釘を刺す。
「食事代は“機嫌を保つための費用”だ。……安いものだろう? お前にとっては、な」
「“機嫌を保つための費用”だぁ!?」
モーブルは鼻息荒く、扉を叩き割る勢いで吠えた。
「ふざけるな! なんで善意で匿ってやってるわしが、坊っちゃんの機嫌取りまでせにゃならんのです! お断りだ! わしの店に住んでいる以上、ルールは大家であるわしが決める! 文句があるなら出て行け、ないなら黙ってわしの出す庶民飯でも食ってろ! 以上だ、わしは忙しい!」
足音荒く立ち去ろうとした、その背中に。
ニーシャの声が、氷の刃のように冷ややかに突き刺さった。
「おいおい。……そんな上等な口を利いて、本当にいいのか?」
ぴたり、とモーブルの足が止まった。
「ボクの機嫌を損ねたらどうなると思う? 当然、ボクはこのやり場のないストレスを誰かに話して解消したくなる。……もっとも効率的で、もっとも君が嫌がる相手にね」
背中を向けたまま石像のように固まったモーブルに、ニーシャは楽しげに畳み掛ける。
「ふふ、聞きたいかい? 簡単なことさ。今すぐイングラジアの魔法事情に精通した、あの『おしゃべりなゴシップ誌記者』――ネリオ・フォックスライドに、特大のスクープを流すだけだ。『レベル師の秘儀』と、その『変態的な性的嗜好』について。あの好奇心の塊みたいなエルフなら、飛びついて記事にするだろうね。そうすればボクの気は晴れる。一点の曇りもない青空みたいに、スッキリとさ」
数秒の沈黙。
モーブルの脳裏に、ゴシップと噂を大好物とする、紫髪のキツネ目をしたエルフ記者のニヤけ顔が浮かんだ。
やがて、モーブルの声が掠れて震えた。
「……っ! すぐに、ご用意いたします……」
モーブルは血の涙を流しながら、ラースに『愛の皿亭』への使いと、自身の秘蔵コレクションである高級ジュースの供出を命じるしかなかった。
この日から、彼の胃壁に穴が開くような日々が始まったのである。
天才の身勝手さは、モーブルの貧相な想像力を軽々と飛び越えた。
食事の要求は日を追うごとにエスカレートしていく。
「今日の朝食は、夜明け前に摘んだばかりの『朝露茸』のソテーだ」
「昼食は『ストーンブラッド王国』の岩塩で締めた猪豚のハムに限る」
「夕食か? 『エルヴァルト森国』の清流でしか獲れない川魚のムニエル以外、受け付けないな」
希少な高級食材を、さも当然のように指定してくるのだ。
そのたびモーブルはコネと金策に奔走し、店の売上が右から左へ消えていくのを、乾いた目で見送るしかなかった。
「旦那さま……今月の食費、先月の……ひゃ、100倍……いえ、もっとです……! それに錬金術の素材も、どんどん無くなって……このままでは、お店の経営が……」
ラースが涙ながらに帳簿を見せても、モーブルに打つ手はない。
「分かっておるわ! だが、あの悪魔の機嫌を損ねるわけにはいかんのだ……!」
食費や材料費だけではない。
ニーシャは一日に五度も風呂を要求した。
しかも、ただの湯ではない――「魔力循環を促す」というもっともらしい名目で、店の商品である高価なバスソルトや薬草を、惜しげもなく湯船へ溶かさせるのだ。
「ああ……生き返るね」
湯気の向こうで、猫耳の天才は満足げに目を細める。
「おいモーブル、追い焚き。……それからエルヴァルト産『黄金柑(ゴールデン・シトラス)の皮粉』を一瓶。香りが薄いと、思考のキレが鈍る」
キレが鈍る――その一言が、商人の心臓には請求書より重い。
おかげで在庫は瞬く間に薄くなり、モーブルは“商人が自分の利益を自分の湯船で溶かす”という、商道にあるまじき地獄を味わうこととなった。
さらに言えば――研究は、騒音と異臭の塊だった。
夜半、寝込みを叩き起こす轟音。
鼻孔に居座って離れない硫黄の匂い。
得体の知れない紫煙が床板の隙間からにじみ出て、店先には苦情が雪崩れ込む。
「モーブルさんとこ、最近なんだか物騒じゃないかい?」
「ああ、一日中変な爆発音だ。悪魔でも召喚してるんじゃないのか」
噂は油のように広がり、客足は目に見えて遠のいた。
モーブルの頭痛と胃痛は、もはや“体質”として定着しつつある。
「おい、ラース! あのクソガキ、また何か爆発させおったぞ! 壁にヒビが入っとる! 修繕費はあいつの請求書に付け加えておけ!」
「は、はいぃ! でも旦那さま、ニーシャ坊ちゃんの請求書、もう羊皮紙が三十枚を超えていますが……」
「構わん! 百枚だろうが二百枚だろうが、一貨幣たりとも負けてやるものか!」
ラースが部屋を出ると、彼はがっくりと椅子に沈み込んだ。
(はぁ……心労が溜まりすぎて、毛が抜ける前に胃に穴が開きそうだ……ニーシャくんを“嫁にしたい”などと夢想していた頃のわしを、全力で殴りたい。ひと月も一緒にいたら破産して、店の看板まで売り飛ばす羽目になる……)
一方、元凶のニーシャは下界の騒動など我関せず、研究に没頭していた。
積み上げた文献を片っ端から解体し、事故の原因を「再現可能な理屈」へ落とし込もうとする。
「……材料は『妖精の涙』『夢見蝶の鱗粉』『精霊の木の欠片』……どれも幻獣由来の希少素材。だが、獣化の副作用報告はない」
羽根ペンが、紙を裂くように走った。
理屈にできるものは、怖くない――そう言わんばかりの筆圧だった。
「となると……素材同士の予期せぬ化学反応。あるいは――精霊の木か」
ニーシャは小さく舌打ちし、ページの余白に“精霊干渉”と書き殴る。
「精霊は“現象”そのもの……なら、木片に残った残滓が勝手に理をねじ曲げた? いや、そんな雑な話で済むはずがない」
ぶつぶつと呟きながら、ニーシャは思考を研ぎ澄ませていく。
しかし、その集中を現実へ引き戻す、抗いがたい変化が――すでに、その身に起こり始めていた。
◆
ある晴れた午後。
研究に行き詰まったニーシャは、気分転換と称して建物二階――モーブルの寝室をうろついていた。
部屋は埃っぽく雑然としている。
だが窓から差し込む陽光だけは妙に優しく、幼少期に過ごした屋敷の庭――手入れの行き届いた陽だまりを思い出させた。
ふと、その光が心地よく感じられ、ニーシャは無意識に床へ腰を下ろす。
温かさに包まれているうちに瞼が落ち――いつの間にか、すうすうと寝息を立てていた。
「おい、坊っちゃん! 昼飯だぞ! 今日の要求は『海魚の盛り合わせ』だったな! 特注品だ、冷めないうちに――」
忌々しげに扉を開けたモーブルは、そこで言葉を失った。
陽だまりの中、小さな体を丸めて眠るニーシャ。
穏やかな寝息に合わせ、頭の上の金色の猫耳が、ぴく、ぴくと揺れている。
傲慢も毒舌も、今はどこにもない。
無防備で、腹立たしいほど――愛らしい。
(……くそ。絵になりおって。起きてる時は悪魔みたいなガキのくせに、寝顔だけは天使かよ……そんな顔見てると、今までの恨みが揺らぐじゃねえか)
首を振り、感傷を一瞬で踏み潰す。
モーブルはわざと大きな足音を立て、皿を床へ乱暴に置いた。
ガチャンッ!
「にゃっ!?」
ニーシャは文字通り跳ね起きた。
そして、自分が床で寝落ちしていた事実に気づいた瞬間、耳の先まで真っ赤になる。
「にゃ、にゃんだ! びっくりさせるにゃ!」
「びっくりするような場所で寝とるのは貴様だ、この居候。さっさと食え。それと床で寝るな。わしの店の格が下がる」
悪態をつきつつ、モーブルは踵を返す。
――その時。
天井から吊るした乾燥薬草の束。その束をまとめる紐が、モーブルの肩先に触れて、ゆらりと揺れた。
ゆら、ゆら。
たったそれだけ。
風でもない。
偶然の、ほんの僅かな動き。
なのにニーシャの碧眼は、釘付けになった。
意味が分からない。
ただ、気になって仕方がない。
胸の奥が、むずむずと疼く。
目が、勝手に追ってしまう。
気づけばニーシャは、無意識に手を伸ばして――
ちょい。
紐を弾いた。猫が前足でじゃらすみたいに。
「…………っ!?」
ハッと我に返ったニーシャは、自分の行動が信じられず凍り付く。
一方、その一部始終を見ていたモーブルは、笑いを噛み殺しきれず肩をぷるぷる震わせていた。
「……モーブル。今のは違うにゃ……これは、その、反射にゃ」
「反射、反射。ええ、ええ。高貴な貴族様の“反射神経”は、さぞお上品なんでしょうなぁ……ぷっ、くくっ」
「……お前、死にたいらしいにゃ」
絶対零度の声。
ニーシャの指先に、ぱち、と小さな火球が灯った。
「ちょっ……!? 坊っちゃん、落ち着け! そ、そうだ。遊びだ。遊びで忘れろ! ほれ!」
天井から吊るしていた乾燥薬草の束から、モーブルは一本だけ抜き取った。
商人の指先が、値札でも付けるみたいに器用にそれを揺らす。
「ほれほれー。特上品の“ねこじゃらし”だよー。わしは敵じゃないよー」
ニーシャの瞳孔が、きゅっと縦に細くなる。
「お前……そんな安い挑発で、ボクが釣れると……思うにゃ……?」
言い切る前に、指が勝手に動いた。
――ちょい。ちょい。ちょい。
「にゃっ、にゃにゃっ……や、やめろ……! これは身体が勝手に……にゃっ……!」
「おお、釣れた釣れた。いい反射だ。さすが名門のかわいいネコちゃんじゃのう」
「笑うにゃァァァ!」
再度、指先で火球を作り膨らませると、モーブルが慌てて身を引く。
「おっと! まぁまぁ。飯でも食って落ち着け、坊っちゃん。……いい子だから、な?」
子どもに言い聞かせるように、わざと声を丸くしてなだめる。
ニーシャは不服そうに鼻を鳴らしながらも、皿へ視線を落とした。
がつ、がつ、がつ。
(……食い方まで変わりおった)
以前のニーシャなら、平民の食べ方を「犬食い」と嘲って、延々と説教を垂れていたはずだ。
ナイフとフォークの角度にまで口を出し、「貴族は優雅に食べてこそ貴族だ」と胸を張って。
それが今は、魚を前にすると目の色が変わる。
しかもこの数日、要求する料理は魚ばかりだ。
(これでは、犬食いならぬ――ネコ食いそのものじゃないか)
笑いが引いた後に残ったのは、得体の知れない胸騒ぎだった。
長年の商売で培った錬金術の知識を総動員しても、この症状に該当する事例がない。
もちろん、レベル師のスキル【鑑定】はとっくに使った。
だが、視界に浮かんだのは無機質な絶望だけだ。
――『ニーシャ・オブライエン』。
――『ミッドナイト(猫)』。
二つのステータスが、まるでバグのように重なって表示されるだけ。
そこには「状態異常」の項目もなければ、「治療法」へのヒントも一行たりとも記されていなかった。
(……わしに魔法が使えたなら。いや、使えんからこそ、下手に首を突っ込めば取り返しがつかん)
魔法の知識なら、ニーシャのほうが何千倍も上だ。
魔導国では、その名だけで道が開く――まさに権威。
だが、その天才でさえ、これは未知の現象だった。
誰にも頼れない。頼れるはずの“自分”が、すでに崩れかけている。
助けを求める相手が自分自身しかいない――並外れた才が生む孤独。
いちばん怖いのは、当の本人だろう。
やがてニーシャは食べ終えると、満足げに――そして無意識に、指先をぺろぺろと舐めた。
そのまま頬のあたりを、猫みたいに掻く。
モーブルの背に、ぞわりと寒気が走った。
◆
あれから、ニーシャは誰も寄せ付けず地下にこもったきりだった。
食事もいらないと伝えて、徹底して引きこもりきり――まるで研究室ごと世界から切り離してしまったみたいに。
扉の前に置いた皿は、手つかずのまま冷えていく。
湯気が消え、脂が白く固まり、魚の匂いだけがしつこく残った。
「……ニーシャ様、大丈夫でしょうか」
ラースが眉を下げ、声を潜めてモーブルに問う。
店の一階、カウンターの影。
客のいない時間帯でも、二人は落ち着いて話せなかった。
地下から時おり聞こえる、金属を擦る音や、紙をめくる音が――鼓膜の奥をじわじわと掻き回してくるからだ。
「大丈夫だろ。坊っちゃんはあれでも魔導国じゃ五本の指に入る知者だ」
モーブルは帳簿をめくりながら、ぞんざいに答えた。
だがペン先が、必要以上に紙を刺している。
インクがにじむ。
「だからこそ心配です……。知者であっても、ニーシャ様は一人の人間です。お体も、お心も……壊していなければいいのですが……」
「分かっておるわ」
小さく舌打ちし、声を落とす。
「この数日、爆発音が減った。つまり派手な実験は止めている。代わりに静かだ。……静かな時が、一番不気味なんじゃ」
ラースはごくりと唾を飲んだ。
地下に降りる階段の前には、ニーシャが貼った封印札がある。
近づくな。入るな。覗くな。破れば呪う――そう書いてあるような圧力が、紙切れ一枚からにじみ出ていた。
「でも、食事を取らないのは……」
「死ぬほど腹が減れば出てくる。人間、腹が減ったら勝てん」
と言いながらも、モーブルは自分の言葉に確信がないのを自覚していた。
あの坊っちゃんは人間の常識で動かない。
腹が減っても意地で出てこないかもしれない。
そもそも“腹が減る”という感覚自体が、もう変質している可能性だってある。
猫の耳と尻尾。
魚への執着。
指を舐め、陽だまりで眠り、揺れるものに手が出る。
(……魔法の事故で、獣の性質が染み出してきている。そういう類の話は、伝承の中には“ある”。だが――まさか現実に起きるとはな……)
その最悪が、今この店の地下で進行している――そんな予感が、モーブルの胃をじわじわと腐らせていた。
「……旦那様のお力でなんとかならないのでしょうか……」
「今は待て。下手に刺激したら――」
言いかけた、その時だった。
ガシャーンッ!
地下倉庫から、何かが盛大に割れる音が響いた。
一階の棚がびり、と震え、ラースの肩が跳ねる。
「ひっ……!」
「来たぞ」
モーブルは椅子を蹴って立ち上がった。帳簿が床に落ち、紙が散る。
いつもなら怒鳴り散らすところだが、そんな余裕はない。
地下への扉を開けようとして、モーブルは一瞬ためらう。
封印札が、じっとこちらを見ているように感じる。
(破れば呪う、か。……呪いより、放置のほうが怖い)
モーブルは札を乱暴に剥がした。
紙が裂ける音が、いやに大きい。
ラースが背後で息を呑む。
「旦那様、危険です! 僕が――」
「お前は上にいろ! 店にいる客を追い出して、閉店の札を下げておけ! くれぐれも誰も入れるなよ、いいな!」
階段の暗がりを睨みつけ、モーブルは降りていく。
一歩ごとに空気が変わる。
湿った薬草の匂い、焦げた金属の匂い、甘い煙――あの桃色の残り香が、まだ壁に染みついている。
地下倉庫の扉の前に立つ。
向こうから、かすかな物音。
何かを引っ掻くような音。
紙を破る音。
そして――低い、喉の奥の振動。
「……ゴロ」
猫が喉を鳴らす、あの音だった。
「おい、坊っちゃん! 生きとるか!」
返事はない。
代わりに、また何かが倒れる音がした。
モーブルは扉に手をかけ、一気に開け放った。
「――何をしとる!」
薄暗い倉庫の中心。
そこはもはや倉庫ではなかった。
床には魔法陣がいくつも描かれ、古文書が扇状に広がり、瓶やフラスコが無秩序に並ぶ。
吊るされた薬草は半分が切り取られ、壁には数え切れない計算式と呪文の走り書き。
そして、その中心で――
ニーシャが四つん這いになっていた。
「……は?」
モーブルは言葉を失った。
金髪はぼさぼさ、帽子は投げ捨てられ、猫耳はぴくぴくと動く。
尻尾は苛立ちを映すみたいに床を打ち――何より、目つきが違う。
碧眼の瞳孔が細い。
人間の“理性”ではなく、獣の“欲”が先に立っている目だ。
ニーシャの前に転がるのは、割れた皿。
散らばった魚の骨。
骨の端には、まだ生臭い身がわずかに残っている。
「……食ってるじゃないか。しかも骨まで」
言った瞬間、ニーシャの首がぎりりと動いた。
次いで、喉の奥から低い唸りが漏れる。
「……モーブル。入るにゃって言ったにゃ」
相変わらず、語尾に“にゃ”が混じっている。
だが、本人はまるで気づいていない。
むしろ当然の口調のように言い放つ。
「割れた音がした。店が壊れたら困るのはわしだ。何を割った」
ニーシャはゆっくり立ち上がった。
動きがしなやかすぎる。
人間の重心ではない。
足音が軽い。
「皿。……魚、もっと欲しかったにゃ」
「欲しかったなら言え! 勝手に割るな!」
「割ったのは、手が滑っただけにゃ。……怒るにゃ。怖い」
言い草が、妙に幼い。
“天才教授”の態度ではなく、叱られた子猫のそれだ。
モーブルの背筋に、冷たいものが走る。
(くそっ……想像してたよりも悪くなっている……)
そのとき、声が聞こえた。
《……おい。そこのデブ商人》
「……は?」
どこかで聞いたことがあるような――いや、できれば二度と聞きたくなかった声。
モーブルが硬直した、その奥で。
《さっきからぎゃーぎゃーと発情してるネコみてーに騒ぎやがってよぉ。やっと気づいたかよ。俺様が話しかけてんのに無視しやがって》
倉庫の奥――いつもモーブルが近寄らない、壁際のさらに壁。
薄暗がりで、淡い光が脈打った。
古い石棚の上に、錆びた「儀礼用の剣」が立てかけられている。
周囲を何重にも走る魔力線。結界。封印。聖印。
店の地下にしては不釣り合いなほど厳重な――モーブル自身が、“災厄級危険物”として封じていた代物だ。
剣の柄に埋め込まれた青い宝玉が、怒っているかのように明滅する。
「エ、エクセリオンか……!? な、なんで喋れる!? 今度の結界は完璧のはずだぞ! 最高級の魔導鍵に、ヴァルクリア神聖王国の最上級聖骸布――二重三重に封じた! 動くどころか、思考だって遮断できるはず……!」
モーブルは反射で一歩下がり、結界を睨みつけた。
張った。
確かに張った。
声も、身動きも、外へは漏れない。
漏らせない。
――そのはずなのに。
《けっ。笑わせんな。前にも言っただろ? “現代式”の結界なんざ、俺様には通用しねえってな!》
柄の宝玉が、やれやれと呆れたみたいに一度だけ明滅する。
《俺様の名はエクセリオン! 見ての通り、ただの剣じゃねえんだよ!》
モーブルは歯噛みした。
最悪だ。
こいつまで。
封印の手札はもう残っていない――。
ニーシャに加えて魔剣の相手まで?
考えるだけで胃がねじ切れそうだ。
だが、今は――猫耳の天才のほうが先だ。
「黙れ。今はそれどころじゃ――」
《それどころだ。そこの金髪ガキ、もう“半分”どころじゃねえ》
モーブルは息を詰めた。
「……どういうことだ?」
エクセリオンの光が、倉庫の中心へ――四つん這いの少年へ向く。
《ずっと見てた。断言してやる。魂の同化だ。黒猫――ミッドナイトって言ったか? そいつとガキの魂が絡まり合って、ほどけなくなりかけてる》
ニーシャは会話の意味など掴めていないのか、床に落ちた骨をじっと見つめ、尻尾をゆらゆらと揺らした。
鼻先がひくひくと動き、無意識に口元をぺろりと舐める。
「……魂の、同化……?」
モーブルの喉が、からからに乾く。
《本来なら“飼い主と使い魔の結びつき”程度で済んだ。だが精霊の木の欠片が媒介になって、定着が異常に強化されてる。今のガキは、自分をニーシャだと認識できてねえ。……いや、できたりできなかったりだ。混ざってんだよ》
モーブルは思わずニーシャを見た。
猫耳。尻尾。縦に細い瞳孔。軽すぎる身のこなし。幼い語尾。
“症状”ではない。もう、“仕上がり”に近い。
「坊っちゃん。……分かるか? わしが誰だか」
ニーシャは首を傾げた。
「……モーブル。魚、くれる人にゃ!」
「……っ」
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
怒鳴りたいのに、怒鳴れない。
殴りたいのに、殴れない。
守りたいのに――どう守ればいいのかが、分からない。
《現代魔法の知識じゃ、もうどうにもならねえぞ》
エクセリオンが、淡々と言い切った。
《同化が進み切ったら、魂は“上書き”される。残るのは、人の皮を被った猫だ。ガキの記憶も理性も……最後は餌になる》
「……そんな」
モーブルは拳を握り締めた。
震えそうになる指を、爪が食い込むほど強く丸める。
(わしが……何もしなかったせいか。「分からん」と決めつけて、手を伸ばす前から逃げたせいで――)
《おいおい、やめろやデブ商人。脂ぎったおっさんの湿っぽい顔、見てると刃こぼれしそうだ。泣くなら外でやれ。俺様の趣味は“清純で美しい
毒を吐き捨てる口調のくせに、声だけは妙に落ち着いていた。
だからこそ、言葉が刺さる。
《……オッサン。絶望してる暇があるなら動け。まだ手は残ってる》
「……まだ、あるのか?」
《ああ、一つだけな》
宝玉が、ぎらり、と獰猛に瞬いた。
《精霊魔法だ》
「精霊……魔法?」
《精霊魔法は、
エクセリオンは逃げ道を塞ぐみたいに言い切った。
《
モーブルの喉が、ひくりと鳴った。
「……そんな芸当、誰ができる。精霊魔法なんて、おとぎ話の――」
《できる奴が、すぐ上にいるだろ。匂いがするぞ》
「……あいつか!」
脳裏に浮かぶのは、一階にいる魔族の少年。
羊の角、紫の瞳、そしていつも自信なさげに震える声。
だが時折、ふっと漂う――説明のつかない“澄んだ気配”があった。
《そうだ。精霊に愛されたガキだ。自分じゃ本当の
モーブルの背に、どっと汗が噴き出した。
だが同時に、冷ややかな理屈が追いついてくる。
ラースは、専門的に精霊魔法を学んだわけじゃない。
できるのはせいぜい、小さな加護を借りる程度。
魂を引き剥がすなど、あまりに大きすぎる。
「……ラースにやらせるのは無理だ。リスクが高すぎる」
《あ? 俺様が手取り足取り教えてやるって言ってんだ。クソみてえな弱音吐くな》
エクセリオンの声色が、一段低くなった。
刃物のような冷徹さが混じる。
《時間がねぇ。今やらなきゃ――そのガキは“完全に”終わる。魂が溶け合ったら最後だ。二度と人間側の岸には戻れねえ》
「だが、失敗したら……! 廃人か、最悪は死だぞ!? 相手は上級貴族の子息だ! もしものことがあれば、わしの店も、財産も、首も――全て終わりだ! 破滅だ!」
《馬鹿野郎!》
宝玉が、嘲るみたいに、けれど熱を孕んで明滅する。
《失敗が怖くて何もしねえなら、成功率は最初からゼロだ! テメェ、腐っても商人だろ! だったらこの場で一番高い“
モーブルは唇を噛みしめた。
滲んだ血の鉄錆の味が、じわりと舌に広がる。
視線だけが、抗いようもなくニーシャへ吸い寄せられた。
普段はわしを小馬鹿にして、無茶な要求で振り回し、挙げ句の果てに実験台にする――筋金入りのクソガキだ。
ぶん殴りたくなる日など、掃いて捨てるほどある。
……それでも。
こいつとは、誰にも言えない秘密を共有した。共犯者だ。
上客で、厄介者で、憎たらしくて――なのに、その才が理不尽に伸びていくのを見るのが、どうしようもなく好きだった。
世間には隠して生きる『レベル師』としての誇り。
限界の壁に指をかけ、こじ開け、背中を押してやるたびに胸が熱くなる、あの高揚。
気づけばわしは、あの小さな背中を――我が子みたいな目で追っていた。
そんな存在を、見捨てていいのか?
ここで損切りして、安っぽい保身に逃げるのか?
――否。
見捨てていい相手じゃない。
その坊っちゃんは今、魚の骨を前に唸り、苛立たしげに尻尾を打ち鳴らしている。
機嫌が悪いときに火球を灯していた指先が、かすかに揺れた。
震えだ。
――助けを求める合図にしか見えなかった。
(……もう、
モーブルは踵を返し、階段へ向かって裂帛の気合いで怒鳴った。
「ラース! 降りてこい! 今すぐだ!」
ドタドタと、上から慌てた足音が転げ落ちてくる。
「だ、旦那さま……!? ぼ、僕は――」
「いいから来い! 坊っちゃんを……ニーシャを戻す!」
ラースが震えながら降りてきて、地下の惨状を目にした瞬間、息を呑んだ。
四つん這いのニーシャ、散らばる骨、明滅する封印の剣。
「に、ニーシャ様……?」
声に反応し、ニーシャの耳がぴくりと立つ。
瞳孔が細くなり、鼻先がひくひくと動いた。
「……ラース。いい匂い、するにゃ」
命運を左右する大博打の瀬戸際だというのに。
張り詰めた空気の中、当の本人だけがのんきにラースへすり寄り、頬を――甘える猫みたいに擦りつけていた。