モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
意識が溶ける感覚。
それは、泥沼に沈む重苦しさと、空を飛ぶ浮遊感が同居する奇妙な体験だった。
モーブルは暗黒の虚空を漂っていた。
上も下もない。
時間という概念すら希薄な精神の世界。
唯一の手がかりは、背中越しに感じる現実の肉体の温もりと、脳内に直接響く悪態だけだ。
《おい、聞こえてるかオッサン。これより深度を下げる。お前とガキの意識を
「注文が多いわ! 言われんでも……うっぷ」
《言ったそばからえずくな! 精神世界でゲロ吐いたら、ガキの“心”に直結すんだぞ! そんな汚点が残ったら、扉が閉じて二度と開かねえ!》
罵声とともに、脳髄をミキサーで撹拌されるような衝撃が走った。
「ぐ、おおおおおっ!?」
視界が明滅し、ノイズ交じりの映像が脳内に雪崩れ込んでくる。
それはニーシャの記憶の断片だ。
――天井まで積み上げられた古文書の山。
――「さすが天才だ」と褒めそやす大人たちの、温度のない冷ややかな視線。
――誰もいない広い屋敷。
――ただ一匹、足元にすり寄ってくる黒猫の温もり。
「……なんだこれは。寒気がするほど寂しい景色だな、おい」
《これが“天才”の心象風景ってやつさ。華やかに見えて、中身は砂漠だ。飲まれるなよ》
エクセリオンの言葉が終わるより先に、景色が反転した。
灰色の空。
冷たい石畳の廊下。
威圧感と格式だけで構成された、息の詰まる回廊――イングラジア魔導名門、オブライエン伯爵家の心象風景。
「……ここが、坊っちゃんの心象風景か」
モーブルは己の姿を確かめた。
いつもの商人服。
手足の感覚もある。
――だが空気が重い。
鉛を溶かして湿らせたみたいに、肌の隙間へねっとりまとわりつく。
息を吸うだけで胸の奥が軋んだ。
《“孤独”の湿度が高すぎて錆びるぞ。深呼吸すんな、肺が腐る》
「肺が腐るか。……景気の悪い歓迎だな」
《歓迎じゃねえ。警告だ。……ほら、来る》
コツ、コツ、コツ。
規則正しい足音。回廊の向こうから、ひとりの少年が歩いてくる。
幼い。
三歳か四歳――そのはずなのに、表情は能面だ。
背筋は棒のように真っ直ぐで、歩き方の一歩一歩に“型”がある。
可愛げがないのではない。
可愛げを、最初から許されていない歩き方だ。
『――背筋。三度、歪んでいる』
『――呼吸。乱すな』
『――視線。前だけを見ろ』
男の声が、どこからともなく落ちてくる。
屋敷が喋っているかのような圧迫。
少年ニーシャは無言で頷き、肯定以外の言葉を持たない人形のように進む。
その背には、体躯に見合わぬほど巨大な「期待」が黒い影となって張りついていた。
『――失敗は許されんぞ、ニーシャ』
声がさらに重くなる。
『兄を見ろ。あれは出来損ないだ。まともな魔力を持たぬ廃棄物だ。だがお前は違う。お前には才能がある。オブライエンの血を、誇りを、お前が継ぐのだ』
幼いニーシャは、また無言で頷く。
“頷くことだけが許された子供”の頷きだ。
モーブルは眉をひそめ、低く吐き出した。
「……坊っちゃんの記憶、初っ端からこれかよ。胸の悪ぃ洗礼だな」
《だろ。こっから先は“嫌な記憶見物ツアー”だ。文句言うなよ、これがガキを救う手間だ》
「ツアーって言うな。……それにしても伯爵様よ、うちのお得意様だが今日ばかりは言わせてもらう。英才教育どころか、これは――家畜の調教だ」
吐き捨てるような声に、エクセリオンが鼻で笑う気配がした。
《違げえねえ。親父の自己顕示欲を、子供の人生に塗り替えてるだけだ。……だが今は怒るな。目的は復讐でも説教でもねえ、“回収”だ》
「回収?」
《ニーシャの魂は、猫と絡まって“壊れ”てる。壊れた分が、あちこちの記憶にピースとして散ってんだよ。ラースが探知して場所を示す。お前が拾う。拾ったぶんだけ、ガキは“ニーシャ”に戻る。――そういう段取りだ》
モーブルが息をのむ。
その時。
回廊の冷たい隅に、ぼんやりと「温もり」が滲んだ。
暖炉などない。
けれどそこだけ、陽だまりのようにふわりと暖かい。
「……ん? あれは」
《外のラースだ。必死に“癒やし”を送ってる。……勘違いするなよ、あいつは治してるんじゃねえ》
「じゃあ何を……」
《誘導だ。ガキの心がほんの少し緩んだ瞬間だけ、扉の鍵穴とピースの在処が浮かび上がる。ラースは“それ”を照らしてる》
温もりが届いた瞬間、幼いニーシャの肩が、ほんの一瞬だけ緩む。
――すると回廊の壁面に、針金みたいに細い光が走った。
扉でも窓でもない、“継ぎ目”が現れる。
《見えたな。あれがピースの反応だ。触れ》
「乱暴な指示だな……少しは準備させろ」
モーブルが壁の光へ手を伸ばす。
触れた瞬間、ひやりとした回廊が一度だけ脈打ち、光は小さな欠片となって掌に収まった。
《よし。一つ目。で、ここから先はガキ本人が決める。心が癒えた分だけ、次の扉を“自分で”開く》
その言葉どおり、回廊の奥で空気が裂ける。
誰かが開けたのではない。
ニーシャが、無意識に“心の扉”を開いたのだ。
《行くぞ、オッサン。内側にまだ落ちてる。掘り起こすぞ》
「よーし、わかった。迷子の猫を拾いに――いや、わしの坊っちゃんを取り戻しにな」
《わしの坊っちゃん……? 言い直すあたりが気色悪ぃ》
「黙れ。わしの美学の問題だ」
――――――――――――
場面が跳ぶ。
書斎。
山積みの魔導書。
幼い指がページをめくる音だけが、冷えた空気を切って響く。
『まだ覚えられんのか! 貴様の頭は何のためにある!』
怒号。
鞭。
ビシッ。
ニーシャの小さな肩が跳ね、頬に赤い線が走る。
それでも泣かない。
――泣いた瞬間、“弱者”の烙印を押されると知っている顔だ。
『申し訳ありません、父上。次は必ず』
声は震えているのに言葉は正確だ。
謝罪して、また本へ戻る。
戻らされる。
『私が戻るまでに課題をこなしておけ。戻ったら確認をする。いいな』
父親は部屋を出ていく。
扉が閉まる。
残ったのは、紙の匂いと、沈黙と――孤独だけ。
ニーシャは涙をこらえてふるふると震える。
その瞳の奥に沈んでいるのは、絶望というより“沈殿した孤独”。長い時間をかけて澱のように溜まった、抜けない孤独。
「……おいおい。そりゃ、ねじ曲がるわ。普段の傲慢は鎧か。……天才の仮面を被って、その下でずっと泣いてたのかよ」
《泣くのを許されねえガキほど、後でデケェ音で壊れるってのが相場だな》
その時。
書斎の隅、カーテンの陰で、何かがすっと動いた。
「ん? ミッドナイトか?」
《違えぇよ。……白いのがいる》
黒ではない。
月明かりを吸ったみたいな白。
小さな翼を揺らして、子犬ほどの獣が音もなく現れた。
《使い魔だな。幼い頃の契約……“最初の友達”ってところか》
白い使い魔はニーシャの足元へ歩み寄る。
鞭で打たれた跡へ、そっと体温を重ねた。
痛みも叱責も知ったうえで、それでも離れない。
『……ノーン?』
ニーシャが初めて、感情のある声をこぼした。
父がいないことを確認してから、そっと両手を伸ばす。
細い腕で――まるで壊れ物を抱くみたいに。
『まったく、籠から出たらダメだって何度も言ってるだろ」
その瞬間だけ、灰色の世界に色が差した。
紙と石でできた無機質な現実に、“生き物の温度”が混ざる。
「お前だけだ……ボクの味方は』
ニーシャは毛並みに顔を埋めた。
温かい。
柔らかい。
誰からも与えられなかった無条件が、そこにある。
『ボクは絶対に父上に認めてもらう。偉くなって、誰も文句を言えないくらい――凄い魔法使いになる』
誓いだった。
孤独な少年が、唯一の友と交わした、小さな魂の契約。
――その時、天井の闇に「温もり」が滲む。
ラースの誘導光だ。
書斎の床に、鍵穴みたいな光の輪が浮かび上がった。
ノーンを抱いて心がほどけた、その“一瞬”だけ開く合図。
《来た。ラースが“友情”のピースの位置を照らしてる》
「使い魔との友情、ね。……値段の付けられん珍品だ」
《喋ってねえで拾え、オッサン。二つ目だ》
モーブルは光の輪へ手を伸ばす。
触れた途端、胸の奥がきゅっと締まった。
温かく、それでいて痛い。
――“居場所”。
その言葉が音もなく流れ込む。
欠片が形を取り、掌に落ちる。
《……この“友達”が、後の黒猫へ繋がるってわけだ》
「間違いない。孤独の底で、あれが支柱だったんだ」
モーブルは欠片を握りしめ、深く息を吐いた。
「……次は、その支柱が折れた場面か? 考えたくもないな」
《分かんねえ。だがピースは嘘をつかねえ。拾った分だけ扉が開く。次の“必要な記憶”に行くって寸法だ》
「つまり――立ち止まる暇はない、か」
《そのとおりだ。悩む前に動け》
言葉が終わるより早く、書斎の空気が裂けた。
また一つ、心の扉が開く。
《行くぞ。次は……もっと深い傷だ》
モーブルは頷いた。
引き締めるのは、腹じゃない。
覚悟だ。
――――――――――――
暗転。
次に開けた景色は、眩しいほど白かった。
どこまでも続く白砂の訓練場。
空は抜けるように青いのに、色だけが薄い。
陽光は明るいくせに冷たく、熱を拒む。
周囲を囲む石壁には無数の焼け跡と罅――古い魔法の失敗が刻んだ“歴史”が、無言で居並んでいた。
「……昼の訓練場、か。寝室より息が詰まるとはな」
モーブルは吐き捨て、足元を確かめる。
砂はさらりと指の間を抜け、風には乾いた匂いがある。
だが――ここは現実じゃない。
触感も温度も、ニーシャの記憶が作り上げた舞台装置だ。
《いいチョイスだ、金髪。逃げ場ゼロ。――ほら、来るぞ》
カッ、カッ、カッ。
規則正しい小さな足音。
訓練場の中央に、幼いニーシャが立った。
三歳か四歳のはずなのに、背筋は針金みたいに真っ直ぐで、視線は一寸も揺れない。
その小さな両手には杖。
火魔法の練習――『ファイア・ボール』。
まだ息もろくに整えられない子供には、あまりに早すぎる課題だ。
『――詠唱が遅い。呼吸が浅い』
『――魔力の流れが乱れている。姿勢を正せ』
『――失敗は許されんぞ、ニーシャ』
父の声が、空気そのものを締め上げた。
幼いニーシャは無言で頷き、掌を掲げる。
わずかな魔力が集まり、指先に赤い光が灯る。
――ボッ。
火花が弾け、たちまち消えた。
『……もう一度』
短い。短すぎて、逃げ場がない。
ニーシャは唇を噛み、もう一度掌に魔力を集める。
幼すぎる声で詠唱を紡ぐ。
火球が膨らむ前に、また弾け――砂上に焦げ跡だけが残った。
「……ったく。子供に投資する内容じゃねえな」
《“できるから”やらせてんじゃねぇ。“できなきゃ終わり”だからやらせてんだよ》
「商売より露骨な世界だ。……壊れたら、次を仕入れる顔してやがる」
《上の連中は“壊れた天才”を見ても眉ひとつ動かさねえ。壊す快感のほうが勝ってるんだ》
その時。
訓練場の端、白砂の上に置かれた小さな籠が、かすかに揺れた。
「……籠?」
《ああ。――来たぞ。あれが、このガキの“救い”だ》
籠の隙間から白い毛並みが覗く。
子犬ほどの小さな使い魔――ノーン。
怯えた目で主人を見つめている。
『集中を乱すな。この使い魔は魔力の流れを整える効果を与える。使い魔は“装備”だ。使い方を覚えろ。そして活用しろ』
父の声は、生き物への情など欠片も含んでいない。
ただの道具の説明だ。
幼いニーシャは頷き、前を向いた。
『ノーン、力を貸して』
小さな声で呟き、手を伸ばす。
すると、指先に赤色が灯り――出た。
小さな火球が。
それはひょろひょろと頼りなく飛び、訓練場の的に当たってポスりと消えた。
威力はない。
けれど、初めての“形”になった魔法だ。
『……やった! 父上! ボク、やりましたよ! ファイア・ボール成功しました!』
ニーシャが顔を輝かせ、父を振り返る。
初めて褒めてもらえる。そう信じた瞳で。
だが――父の目は、氷のままだった。
『違う! 魔力で押し切るな! 効率だ! 幼い貴様の魔力量で、正面突破などできるものか!』
怒号。
ニーシャの笑顔が凍りつく。
父は一瞥すると、失望を隠そうともせずに首を振った。
『これが成功だと……バカバカしい。……いや、このような低級の使い魔をあてがった私が間違いだった。捨てるか』
吐き捨て、踵を返す。
父が去っていく。
訓練場に残されたのは、否定された子供と、否定された使い魔だけ。
父上を、失望させた。
その事実が重りになって、ニーシャの膝を折らせる。
ニーシャは震える手で、籠へ触れた。
壊れ物を扱うように、そっと。
『……ノーン、お前のおかげで初めて撃てた。ありがとう……』
初めて、声に温度が宿る。
ノーンが、くぅん、と小さく鳴いた。
ニーシャは籠を開け、白い毛並みを胸に抱き寄せる。
『どうした? 捨てられることを心配してくれてるのか? ……大丈夫だ。お前はボクが守る。ボクが強くなれば、誰も文句は言えない』
幼い決意。
その言葉は誓いであり、同時に呪いの始まりだった。
――その瞬間。
空から、一粒。
ふわりと温かな光が降りてくる。
ラースの“誘導”の光。
火の粉みたいに舞い落ち、白砂に触れた場所から細い金線が走った。
訓練場の床に“鍵穴”の輪郭が浮かび上がり、その中心で小さな欠片が瞬いた。
《見えたな、オッサン。あれがピースだ。“守る”って言えた分だけ、鍵穴が口を開いた》
「……癒えた分だけ出る。出た分だけ拾える。単純だが、性が悪い仕組みだな」
《分かってんなら、さっさと拾え》
モーブルは金色の輪郭へ手を伸ばす。
触れた瞬間、胸の奥へ幼い声が流れ込んだ。
――守る。
それは切実で、痛いほど純度の高い誓いだった。
金線の中心から、光の欠片がぽとりと掌に落ちる。
《よし。“守護”のピース回収》
「守護、ね……あんな小さな背で背負う言葉じゃない」
だが欠片を得た瞬間、訓練場の空気がかすかにほどけた。
幼いニーシャの頬が、ほんの瞬きほど緩む。
白砂の彼方に、扉が立ち上がる。
開けたのはモーブルでもエクセリオンでもない。
ニーシャ自身が、心の奥で鍵を回したのだ。
《来た。次の扉だ》
――――――――――――
夜の寝室。
カーテンの影が壁を舐め、薄い月光が冷えたベッドに刃みたいに落ちている。
部屋は広いのに、息が詰まるほど静かだ。静寂が鎖になって、足首へまとわりつく。
《……おい。足音。来るぞ》
「この屋敷の音は全部、嫌な予感にしか聞こえん」
控えめなノックはない。
扉が、音を殺して開いた。
一人の少年が、こっそり忍び込む。
背が高い。
顔立ちは整いすぎるほど整っている。
十七前後――“いい家の子”の輪郭が、闇の中でも浮く。
《誰だ、あれ》
「……ランスロット様。坊っちゃんの兄だ。出来損ない扱いされてたはずの、な」
《出来損ない? ……顔だけ見りゃ、こっちが“完成品”だろ》
「幼い頃はな」
ランスロットの手には小さな包み。
甘い菓子だ。
――弟と、その使い魔のための。
ベッド脇、籠の中でノーンが小さく身を縮める。
布団の上の幼いニーシャが、音もなく顔を上げた。
『ニーシャ。無理はしなくてもいい。……たまには休むんだ』
声が柔らかい。
真正面から殴れない相手に向ける、精一杯の優しさだった。
――兄は優しい。
誰よりも。
なのに、その優しさがニーシャの胸を抉る。
才能のない兄の代わりに、自分が殴られている。
兄が優しければ優しいほど、自分の犠牲が“正しいもの”にされる。
“良い兄”がいる限り、“良い弟”でいなければならない。
幼いニーシャの目が揺れた。
怒りじゃない。
痛みだ。
『……要らない。帰って』
言葉は冷たい。
冷たさの下で、泣き声を噛み殺している。
ランスロットは一瞬だけ目を伏せ、それでも笑って頷いた。
『そうか。……すまない』
そして最後に、逃げ道を塞ぐみたいに言う。
『でもお前は、私にとって誰よりも大切な弟なんだ。……それだけは忘れないでほしい』
《……罪な兄貴だな》
「優しさは、時に刃より深く刺さる。とくに“比較”の檻にいるやつにはな」
兄が去る。
扉が閉まる。
静寂が戻った瞬間、ニーシャの肩が小さく震えた。
泣きそうになる。
泣けない。
だから代わりに、抱き締める。
ニーシャは籠へ手を伸ばし、ノーンを胸に引き寄せた。
小さな獣の温度が、少年の冷えた指先をほんの少しだけ溶かす。
『……ごめん。ごめんね……』
誰に向けた謝罪なのか、本人にも分からない声。
兄へか。
父へか。
ノーンへか。
――あるいは、強くなれない自分へか。
《おいオッサン。“見てらんねえ”って顔をすんな。ここは記憶だ。届かねえ》
「届かんのは分かっとる。……だが腹は立つ」
《腹を立てる暇があるなら、目的を思い出せ。“今”を救うためだ》
「……回収、だな」
《そうだ。泣き言は後。今は拾え》
その言葉に応えるように、部屋の空気へ“温もり”が差し込んだ。
ラースの誘導光。
月光の落ちる床板に、薄い光の輪が浮かび上がる。
先ほどの訓練場と同じ――鍵穴だ。
《来た。ここにも欠片がある。ニーシャが“謝れた”からだ》
「謝れた?」
《拒んでも、傷つけても、それでも守りたい相手がいる。――その感情が鍵になる》
モーブルは、目の前の少年に届かないと分かっていても、低く言った。
「……坊っちゃんよ、受け取っとけ。優しさまで突っぱねると、後で自分の首を絞めるぞ」
《三度の飯より金が好きな商人の説教にしちゃ、やけにまともだな》
「まともじゃないと、生き残れん局面がある。……今がそれだ」
言葉が落ちた瞬間、鍵穴の輪が少し強く光った。
モーブルはそこへ手を伸ばし――欠片を掬い取る。
掌に落ちたのは、冷たいのに温かい光。
“受容”の形をした小さなピースだった。
《よし。“優しさ”のピース回収。これで四つ。次へ進める》
途端に、寝室の壁が静かに“ほどける”。
カーテンが風でめくれるみたいに、しかし確実に――扉が現れた。
開けたのは外からの力じゃない。
ニーシャが、癒えた分だけ自分で鍵を回したのだ。
《行くぞ、オッサン。もし次が開かなかったら――お前は一生、こいつの心で干物だ》
「縁起でもない例えをするな! ……“次の記憶”だ、次!」
《同じだ。死ぬなよ、
「誰が脂だ、誰が!」
舌戦が終わるより早く、世界がざらりと擦れた。
記憶のページが、乱暴にめくられる。
――――――――――――
帝国初等魔法学校。
父兄参観日。
校庭に置かれた標的の前に、五歳のニーシャが立っていた。
小さな手には杖。
小さな体には、場違いなほど整った姿勢。
周囲には父兄の列と教師の視線――その中心に、“父”がいる。
空は抜けるように青いのに、色だけが薄い。
陽光は明るいくせに冷たく、熱を拒む。
ニーシャの世界は、いつだってそんな白さでできていた。
息を吸う。
吐く。
それだけで胸の奥が軋む。
それでも表情は、動かない。
足元で、小さな白い影が鳴いた。
ノーン。
尻尾を震わせ、励ますみたいに靴へすり寄る。
『……心配するな、ノーン。ボクたちはやれる』
オブライエン家の跡継ぎとして――絶対に失敗できない。
ニーシャは短く息を整え、ノーンの頭を撫でた。
それは余裕ではなく、折れないための“意地”だ。
「――では、初歩火術『ファイア・ボール』。教本通りに」
教師の指示が落ちる。場の空気が一段重くなる。
ニーシャは杖を掲げた。
小さな指先がわずかに震える。
いつものことだ。
訓練通りに――ただ火を形にすればいい、それだけのはずだった。
極度の緊張が、胸を圧迫する。
火は“丸く燃える”前に、ぎゅっと縮む。
圧縮。整流。無駄の切除。
繊細な術式が、刃のように磨かれていく。
教師の目が見開かれる。
恐怖ではない。
マニュアルから外れたものを見たときの、冷ややかな警戒だった。
「ニーシャ・オブライエン。……規定術式の逸脱。実演としては――失格です」
「失格」
その二文字が、喉に焼けつく。
(失敗……? ボクは、また……父上を失望させたのか……?)
肺が凍る。
視界の色が、じわりと白く削げていく。
――その時。耳の奥で、記憶の声が弾けた。
『違う! 魔力で押し切るな! 効率だ! 幼い貴様の魔力量で正面突破など叶うものか!』
訓練場の情景。
白砂。焼け跡。冷たい風。
泥に膝をつき、それでも立った少年の記憶。
手のひらの血が乾く前に積み重ねた“繰り返し”。
泣かないことを骨に刻まれた顔。
足元でノーンが短く鳴いた。
ぴょんと跳ね、主の魔力に共鳴する。
――流れを整え、声にならない“支え”を送る。
ニーシャは歯を食いしばり、再び杖を構えた。
『……大丈夫。まだ、やれる』
同じ言葉。
同じ温度。
違うのは――“父が見ている”という現実だけ。
世界が切り替わる。
火球はさらに小さく――鋭くなる。
丸ではなく、点。
燃える塊ではなく、貫く熱。
――ドォォォン!!
爆音。熱風。砂煙。
標的が、跡形もなく消し飛んだ。
魔力消費はほとんど変わらない。
なのに威力だけが、中級魔法級まで跳ね上がっていた。
同年代の子供たちが魔力を浪費して膝をつく中で、ニーシャだけが涼しい顔で炎の余韻を見送っていた。
息ひとつ乱さずに。
父兄たちがどよめく。
教師が言葉を失う。
そして――五歳の少年だけが、ほんの少し、報われた顔をした。
『……ははっ! やったぞ、ノーン! ボクたちはできた! 二人なら……どこまでもいける!』
背後から“父”の声が落ちてくる。
甘さのない、冷たい確認。
『……当然だ』
祝福じゃない。
義務の点検。
それでもニーシャには、十分だった。
喉が焼けるほど欲しかったのは褒め言葉じゃない。
――“認められたと錯覚できる一瞬”だ。
足元のノーンが嬉しさに飛び跳ねる。
尻尾をぶんぶん振り、世界で一番の成功を祝福する。
だが、ニーシャの胸の奥では、その輝きが静かに変質していく。
もっと上へ。
もっと削れ。
――“できた”は、“もっとできる”の鎖へ変わる。
《……派手に咲いたな、五歳》
「“できる”じゃない。天才ってのは、“できる”って顔をすることじゃない。――“できない”を、工夫で踏み潰すことだ」
《はっ! 出たよ、商人ポエムが!》
「うるさい。事実を言っただけだ」
《事実ほど人を殴れる。……今のは良い殴り方だな》
そのとき、校庭の空気にふっと“温もり”が混ざった。
ラースの誘導光。
爆心地の焦げ跡に、“鍵穴”が浮かび上がる。
成功の輪郭そのものが、鍵になったみたいに。
《来た。五つ目だ。――無駄を削り、精度で全てを凌駕する術。効率を武器に変えるのが、このガキの本質だ》
「……らしいな。なら、拾うしかあるまい」
モーブルが鍵穴へ手を伸ばした。
触れた瞬間、頭の中で“計算”が走り出す。
魔力の流れが線になり、誤差が削ぎ落とされ、最小で最大を叩き出す感覚。
掌の上で、光の欠片が静かに脈打つ。
《よし。“
回収と同時に、景色が一瞬だけ明るくなる。
――だが、その明るさは救いの色じゃなかった。
校庭の端。
父兄の列の向こうから。
赤い絨毯が、じわりと滲み出す。
祝宴の色。
褒美の色。
そして――地獄の入口の色。
「……“ご褒美”の匂いがする。だが、嫌な匂いだ」
《分かるか》
「商人だからな。甘い匂いの裏に、刃がある」
《……次が本丸だ。ここで気を抜いたら、全部ひっくり返る》
赤が、扉の形になる。
ニーシャはそれを見たわけじゃない。
けれど心のどこかが、勝手に鍵へ手を伸ばす。
“認められたい”という渇きが、ひとりでに鍵を回してしまう。
赤い扉が、静かに開きはじめた。
――――――――――――
世界が一変する。煌びやかな祝宴の間。
ニーシャは上座に座らされ、珍しく父が祝杯を挙げていた。
グラスの縁がきらりと光る。――その光が、やけに冷たい。
『よくやった、ニーシャ。お前は期待に応えた。オブライエンの恥ではないことを証明した』
ニーシャの顔が輝く。
初めて認められた。
頑張ってよかった。
父が合図をすると、強力な”使い魔が連れてこられる。
『褒美だ。新しい契約を結べ。これでお前は次の“格”へ進める』
震えるほど嬉しい。
だからこそ、ふと――思い出してしまった。
『……あの、ノーンは? ノーンはどこにいるんですか? あいつも一緒に……』
父は、グラスを傾けたまま言う。
『ああ、あれか。処分した』
世界から音が消えた。
『……え?』
執事が淡々と、事務連絡みたいに続ける。
『旧使い魔は処分済みです。契約更新の妨げになりますし、器としての格も低い。もう必要ありませんので』
死体すら見せない。
痕跡だけが残る。
寝床は片付けられ、籠だけが机に置かれていた。
餌皿は新品に変わっている。
“居た”という事実だけを、無機質に消した。
『……どこに、行ったの』
父は冷徹に言い放つ。
『行った? “終わった”だけだ。感謝しろ。最後に役に立ったぞ。庭の肥料にはなったからな』
祝う声と、処分の報告。
その二つが同時に、幼いニーシャの胸へ突き刺さる。
――ボクが頑張ったから。
――ボクが成果を出したから。
ノーンは殺された。
成功=喪失。
愛=死。
ニーシャの瞳から光が消え、底無しの闇が溢れ出す。
精神世界が、黒い泥で塗りつぶされていく。
『……ごめんなさい。ごめんなさい、ノーン……ボクのせいで……』
《来るぞ、オッサン。ここが“核”だ》
「……分かっとる。これは、ただの悲しみじゃない」
《ああ。“学習”だ。――愛したら奪われるってな》
黒い泥の中に、最後の“鍵穴”が沈んでいく。
普通なら見えない。
沈みきったら二度と拾えない。
だが――ラースの温もりが、闇へ一筋落ちた。
癒やしじゃない。
導きだ。
沈む鍵穴の位置を、ぎりぎりで照らす。
《ラースが示してる。最後のピースだ、オッサン! 今拾え!》
モーブルは泥へ踏み込み、鍵穴へ手を突っ込む。
冷たい。
重い。
引きずり込まれる。
「……坊っちゃん。学ぶな。そんな“答え”を学ぶな……!」
掌が、何かを掴む。
それは“喪失”の欠片だった。
痛みそのものの形。
引き抜いた瞬間、欠片は光に変わり、モーブルの掌で震えた。
《六つ目。“喪失”のピース回収》
同時に、ニーシャの闇が一瞬だけ止まる。
――止まった隙間に、次の扉の輪郭が現れる。
“同化”へ落ち切る前に、まだ戻れる道がある。
ピースを揃えれば、ニーシャの自我は組み上がり、ミッドナイトと分離できる。
《行くぞ。次は“分離”の間だ》
「……ああ。今度こそ、坊っちゃんを取り戻す」