※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

24 / 66
第二十四話 ニーシャと猫耳ポーション③

 意識が溶ける感覚。

 それは、泥沼に沈む重苦しさと、空を飛ぶ浮遊感が同居する奇妙な体験だった。

 

 モーブルは暗黒の虚空を漂っていた。

 上も下もない。

 時間という概念すら希薄な精神の世界。

 唯一の手がかりは、背中越しに感じる現実の肉体の温もりと、脳内に直接響く悪態だけだ。

 

《おい、聞こえてるかオッサン。これより深度を下げる。お前とガキの意識を直結(バイパス)させるからな。……吐くなよ》

 

「注文が多いわ! 言われんでも……うっぷ」

 

《言ったそばからえずくな! 精神世界でゲロ吐いたら、ガキの“心”に直結すんだぞ! そんな汚点が残ったら、扉が閉じて二度と開かねえ!》

 

 罵声とともに、脳髄をミキサーで撹拌されるような衝撃が走った。

 

「ぐ、おおおおおっ!?」

 

 視界が明滅し、ノイズ交じりの映像が脳内に雪崩れ込んでくる。

 それはニーシャの記憶の断片だ。

 

 ――天井まで積み上げられた古文書の山。

 ――「さすが天才だ」と褒めそやす大人たちの、温度のない冷ややかな視線。

 ――誰もいない広い屋敷。

 ――ただ一匹、足元にすり寄ってくる黒猫の温もり。

 

「……なんだこれは。寒気がするほど寂しい景色だな、おい」

 

《これが“天才”の心象風景ってやつさ。華やかに見えて、中身は砂漠だ。飲まれるなよ》

 

 エクセリオンの言葉が終わるより先に、景色が反転した。

 

 灰色の空。

 冷たい石畳の廊下。

 威圧感と格式だけで構成された、息の詰まる回廊――イングラジア魔導名門、オブライエン伯爵家の心象風景。

 

「……ここが、坊っちゃんの心象風景か」

 

 モーブルは己の姿を確かめた。

 いつもの商人服。

 手足の感覚もある。

 

 ――だが空気が重い。

 鉛を溶かして湿らせたみたいに、肌の隙間へねっとりまとわりつく。

 息を吸うだけで胸の奥が軋んだ。

 

《“孤独”の湿度が高すぎて錆びるぞ。深呼吸すんな、肺が腐る》

 

「肺が腐るか。……景気の悪い歓迎だな」

 

《歓迎じゃねえ。警告だ。……ほら、来る》

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 規則正しい足音。回廊の向こうから、ひとりの少年が歩いてくる。

 

 幼い。

 三歳か四歳――そのはずなのに、表情は能面だ。

 

 背筋は棒のように真っ直ぐで、歩き方の一歩一歩に“型”がある。

 可愛げがないのではない。

 可愛げを、最初から許されていない歩き方だ。

 

『――背筋。三度、歪んでいる』

『――呼吸。乱すな』

『――視線。前だけを見ろ』

 

 男の声が、どこからともなく落ちてくる。

 屋敷が喋っているかのような圧迫。

 少年ニーシャは無言で頷き、肯定以外の言葉を持たない人形のように進む。

 その背には、体躯に見合わぬほど巨大な「期待」が黒い影となって張りついていた。

 

『――失敗は許されんぞ、ニーシャ』

 

 声がさらに重くなる。

 

『兄を見ろ。あれは出来損ないだ。まともな魔力を持たぬ廃棄物だ。だがお前は違う。お前には才能がある。オブライエンの血を、誇りを、お前が継ぐのだ』

 

 幼いニーシャは、また無言で頷く。

 “頷くことだけが許された子供”の頷きだ。

 

 モーブルは眉をひそめ、低く吐き出した。

 

「……坊っちゃんの記憶、初っ端からこれかよ。胸の悪ぃ洗礼だな」

 

《だろ。こっから先は“嫌な記憶見物ツアー”だ。文句言うなよ、これがガキを救う手間だ》

 

「ツアーって言うな。……それにしても伯爵様よ、うちのお得意様だが今日ばかりは言わせてもらう。英才教育どころか、これは――家畜の調教だ」

 

 吐き捨てるような声に、エクセリオンが鼻で笑う気配がした。

 

《違げえねえ。親父の自己顕示欲を、子供の人生に塗り替えてるだけだ。……だが今は怒るな。目的は復讐でも説教でもねえ、“回収”だ》

 

「回収?」

 

《ニーシャの魂は、猫と絡まって“壊れ”てる。壊れた分が、あちこちの記憶にピースとして散ってんだよ。ラースが探知して場所を示す。お前が拾う。拾ったぶんだけ、ガキは“ニーシャ”に戻る。――そういう段取りだ》

 

 モーブルが息をのむ。

 

 その時。

 回廊の冷たい隅に、ぼんやりと「温もり」が滲んだ。

 暖炉などない。

 けれどそこだけ、陽だまりのようにふわりと暖かい。

 

「……ん? あれは」

 

《外のラースだ。必死に“癒やし”を送ってる。……勘違いするなよ、あいつは治してるんじゃねえ》

 

「じゃあ何を……」

 

《誘導だ。ガキの心がほんの少し緩んだ瞬間だけ、扉の鍵穴とピースの在処が浮かび上がる。ラースは“それ”を照らしてる》

 

 温もりが届いた瞬間、幼いニーシャの肩が、ほんの一瞬だけ緩む。

 ――すると回廊の壁面に、針金みたいに細い光が走った。

 扉でも窓でもない、“継ぎ目”が現れる。

 

《見えたな。あれがピースの反応だ。触れ》

 

「乱暴な指示だな……少しは準備させろ」

 

 モーブルが壁の光へ手を伸ばす。

 触れた瞬間、ひやりとした回廊が一度だけ脈打ち、光は小さな欠片となって掌に収まった。

 

《よし。一つ目。で、ここから先はガキ本人が決める。心が癒えた分だけ、次の扉を“自分で”開く》

 

 その言葉どおり、回廊の奥で空気が裂ける。

 誰かが開けたのではない。

 ニーシャが、無意識に“心の扉”を開いたのだ。

 

《行くぞ、オッサン。内側にまだ落ちてる。掘り起こすぞ》

 

「よーし、わかった。迷子の猫を拾いに――いや、わしの坊っちゃんを取り戻しにな」

 

《わしの坊っちゃん……? 言い直すあたりが気色悪ぃ》

 

「黙れ。わしの美学の問題だ」

 

 

――――――――――――

 

 

 場面が跳ぶ。

 

 書斎。

 山積みの魔導書。

 幼い指がページをめくる音だけが、冷えた空気を切って響く。

 

『まだ覚えられんのか! 貴様の頭は何のためにある!』

 

 怒号。

 鞭。

 ビシッ。

 ニーシャの小さな肩が跳ね、頬に赤い線が走る。

 

 それでも泣かない。

 ――泣いた瞬間、“弱者”の烙印を押されると知っている顔だ。

 

『申し訳ありません、父上。次は必ず』

 

 声は震えているのに言葉は正確だ。

 謝罪して、また本へ戻る。

 戻らされる。

 

『私が戻るまでに課題をこなしておけ。戻ったら確認をする。いいな』

 

 父親は部屋を出ていく。

 扉が閉まる。

 残ったのは、紙の匂いと、沈黙と――孤独だけ。

 

 ニーシャは涙をこらえてふるふると震える。

 その瞳の奥に沈んでいるのは、絶望というより“沈殿した孤独”。長い時間をかけて澱のように溜まった、抜けない孤独。

 

「……おいおい。そりゃ、ねじ曲がるわ。普段の傲慢は鎧か。……天才の仮面を被って、その下でずっと泣いてたのかよ」

 

《泣くのを許されねえガキほど、後でデケェ音で壊れるってのが相場だな》

 

 その時。

 書斎の隅、カーテンの陰で、何かがすっと動いた。

 

「ん? ミッドナイトか?」

 

《違えぇよ。……白いのがいる》

 

 黒ではない。

 月明かりを吸ったみたいな白。

 小さな翼を揺らして、子犬ほどの獣が音もなく現れた。

 

《使い魔だな。幼い頃の契約……“最初の友達”ってところか》

 

 白い使い魔はニーシャの足元へ歩み寄る。

 鞭で打たれた跡へ、そっと体温を重ねた。

 痛みも叱責も知ったうえで、それでも離れない。

 

『……ノーン?』

 

 ニーシャが初めて、感情のある声をこぼした。

 父がいないことを確認してから、そっと両手を伸ばす。

 細い腕で――まるで壊れ物を抱くみたいに。

 

『まったく、籠から出たらダメだって何度も言ってるだろ」

 

 その瞬間だけ、灰色の世界に色が差した。

 紙と石でできた無機質な現実に、“生き物の温度”が混ざる。

 

「お前だけだ……ボクの味方は』

 

 ニーシャは毛並みに顔を埋めた。

 温かい。

 柔らかい。

 誰からも与えられなかった無条件が、そこにある。

 

『ボクは絶対に父上に認めてもらう。偉くなって、誰も文句を言えないくらい――凄い魔法使いになる』

 

 誓いだった。

 孤独な少年が、唯一の友と交わした、小さな魂の契約。

 

 ――その時、天井の闇に「温もり」が滲む。

 ラースの誘導光だ。

 

 書斎の床に、鍵穴みたいな光の輪が浮かび上がった。

 ノーンを抱いて心がほどけた、その“一瞬”だけ開く合図。

 

《来た。ラースが“友情”のピースの位置を照らしてる》

 

「使い魔との友情、ね。……値段の付けられん珍品だ」

 

《喋ってねえで拾え、オッサン。二つ目だ》

 

 モーブルは光の輪へ手を伸ばす。

 触れた途端、胸の奥がきゅっと締まった。

 温かく、それでいて痛い。

 

 ――“居場所”。

 その言葉が音もなく流れ込む。

 欠片が形を取り、掌に落ちる。

 

《……この“友達”が、後の黒猫へ繋がるってわけだ》

 

「間違いない。孤独の底で、あれが支柱だったんだ」

 

 モーブルは欠片を握りしめ、深く息を吐いた。

 

「……次は、その支柱が折れた場面か? 考えたくもないな」

 

《分かんねえ。だがピースは嘘をつかねえ。拾った分だけ扉が開く。次の“必要な記憶”に行くって寸法だ》

 

「つまり――立ち止まる暇はない、か」

 

《そのとおりだ。悩む前に動け》

 

 言葉が終わるより早く、書斎の空気が裂けた。

 また一つ、心の扉が開く。

 

《行くぞ。次は……もっと深い傷だ》

 

 モーブルは頷いた。

 引き締めるのは、腹じゃない。

 

 覚悟だ。

 

 

――――――――――――

 

 

 暗転。

 

 次に開けた景色は、眩しいほど白かった。

 

 どこまでも続く白砂の訓練場。

 空は抜けるように青いのに、色だけが薄い。

 陽光は明るいくせに冷たく、熱を拒む。

 周囲を囲む石壁には無数の焼け跡と罅――古い魔法の失敗が刻んだ“歴史”が、無言で居並んでいた。

 

「……昼の訓練場、か。寝室より息が詰まるとはな」

 

 モーブルは吐き捨て、足元を確かめる。

 砂はさらりと指の間を抜け、風には乾いた匂いがある。

 だが――ここは現実じゃない。

 触感も温度も、ニーシャの記憶が作り上げた舞台装置だ。

 

《いいチョイスだ、金髪。逃げ場ゼロ。――ほら、来るぞ》

 

 カッ、カッ、カッ。

 

 規則正しい小さな足音。

 訓練場の中央に、幼いニーシャが立った。

 三歳か四歳のはずなのに、背筋は針金みたいに真っ直ぐで、視線は一寸も揺れない。

 

 その小さな両手には杖。

 火魔法の練習――『ファイア・ボール』。

 まだ息もろくに整えられない子供には、あまりに早すぎる課題だ。

 

『――詠唱が遅い。呼吸が浅い』

『――魔力の流れが乱れている。姿勢を正せ』

『――失敗は許されんぞ、ニーシャ』

 

 父の声が、空気そのものを締め上げた。

 幼いニーシャは無言で頷き、掌を掲げる。

 わずかな魔力が集まり、指先に赤い光が灯る。

 

 ――ボッ。

 

 火花が弾け、たちまち消えた。

 

『……もう一度』

 

 短い。短すぎて、逃げ場がない。

 ニーシャは唇を噛み、もう一度掌に魔力を集める。

 幼すぎる声で詠唱を紡ぐ。

 火球が膨らむ前に、また弾け――砂上に焦げ跡だけが残った。

 

「……ったく。子供に投資する内容じゃねえな」

 

《“できるから”やらせてんじゃねぇ。“できなきゃ終わり”だからやらせてんだよ》

 

「商売より露骨な世界だ。……壊れたら、次を仕入れる顔してやがる」

 

《上の連中は“壊れた天才”を見ても眉ひとつ動かさねえ。壊す快感のほうが勝ってるんだ》

 

 その時。

 訓練場の端、白砂の上に置かれた小さな籠が、かすかに揺れた。

 

「……籠?」

 

《ああ。――来たぞ。あれが、このガキの“救い”だ》

 

 籠の隙間から白い毛並みが覗く。

 子犬ほどの小さな使い魔――ノーン。

 怯えた目で主人を見つめている。

 

『集中を乱すな。この使い魔は魔力の流れを整える効果を与える。使い魔は“装備”だ。使い方を覚えろ。そして活用しろ』

 

 父の声は、生き物への情など欠片も含んでいない。

 ただの道具の説明だ。

 

 幼いニーシャは頷き、前を向いた。

 

『ノーン、力を貸して』

 

 小さな声で呟き、手を伸ばす。

 すると、指先に赤色が灯り――出た。

 小さな火球が。

 

 それはひょろひょろと頼りなく飛び、訓練場の的に当たってポスりと消えた。

 威力はない。

 けれど、初めての“形”になった魔法だ。

 

『……やった! 父上! ボク、やりましたよ! ファイア・ボール成功しました!』

 

 ニーシャが顔を輝かせ、父を振り返る。

 初めて褒めてもらえる。そう信じた瞳で。

 

 だが――父の目は、氷のままだった。

 

『違う! 魔力で押し切るな! 効率だ! 幼い貴様の魔力量で、正面突破などできるものか!』

 

 怒号。

 ニーシャの笑顔が凍りつく。

 

 父は一瞥すると、失望を隠そうともせずに首を振った。

 

『これが成功だと……バカバカしい。……いや、このような低級の使い魔をあてがった私が間違いだった。捨てるか』

 

 吐き捨て、踵を返す。

 父が去っていく。

 訓練場に残されたのは、否定された子供と、否定された使い魔だけ。

 

 父上を、失望させた。

 その事実が重りになって、ニーシャの膝を折らせる。

 

 ニーシャは震える手で、籠へ触れた。

 壊れ物を扱うように、そっと。

 

『……ノーン、お前のおかげで初めて撃てた。ありがとう……』

 

 初めて、声に温度が宿る。

 ノーンが、くぅん、と小さく鳴いた。

 ニーシャは籠を開け、白い毛並みを胸に抱き寄せる。

 

『どうした? 捨てられることを心配してくれてるのか? ……大丈夫だ。お前はボクが守る。ボクが強くなれば、誰も文句は言えない』

 

 幼い決意。

 その言葉は誓いであり、同時に呪いの始まりだった。

 

 ――その瞬間。

 

 空から、一粒。

 ふわりと温かな光が降りてくる。

 ラースの“誘導”の光。

 火の粉みたいに舞い落ち、白砂に触れた場所から細い金線が走った。

 

 訓練場の床に“鍵穴”の輪郭が浮かび上がり、その中心で小さな欠片が瞬いた。

 

《見えたな、オッサン。あれがピースだ。“守る”って言えた分だけ、鍵穴が口を開いた》

 

「……癒えた分だけ出る。出た分だけ拾える。単純だが、性が悪い仕組みだな」

 

《分かってんなら、さっさと拾え》

 

 モーブルは金色の輪郭へ手を伸ばす。

 触れた瞬間、胸の奥へ幼い声が流れ込んだ。

 

 ――守る。

 

 それは切実で、痛いほど純度の高い誓いだった。

 

 金線の中心から、光の欠片がぽとりと掌に落ちる。

 

《よし。“守護”のピース回収》

 

「守護、ね……あんな小さな背で背負う言葉じゃない」

 

 だが欠片を得た瞬間、訓練場の空気がかすかにほどけた。

 幼いニーシャの頬が、ほんの瞬きほど緩む。

 

 白砂の彼方に、扉が立ち上がる。

 開けたのはモーブルでもエクセリオンでもない。

 ニーシャ自身が、心の奥で鍵を回したのだ。

 

《来た。次の扉だ》

 

 

――――――――――――

 

 夜の寝室。

 カーテンの影が壁を舐め、薄い月光が冷えたベッドに刃みたいに落ちている。

 部屋は広いのに、息が詰まるほど静かだ。静寂が鎖になって、足首へまとわりつく。

 

《……おい。足音。来るぞ》

 

「この屋敷の音は全部、嫌な予感にしか聞こえん」

 

 控えめなノックはない。

 扉が、音を殺して開いた。

 

 一人の少年が、こっそり忍び込む。

 背が高い。

 顔立ちは整いすぎるほど整っている。

 十七前後――“いい家の子”の輪郭が、闇の中でも浮く。

 

《誰だ、あれ》

 

「……ランスロット様。坊っちゃんの兄だ。出来損ない扱いされてたはずの、な」

 

《出来損ない? ……顔だけ見りゃ、こっちが“完成品”だろ》

 

「幼い頃はな」

 

 ランスロットの手には小さな包み。

 甘い菓子だ。

 ――弟と、その使い魔のための。

 

 ベッド脇、籠の中でノーンが小さく身を縮める。

 布団の上の幼いニーシャが、音もなく顔を上げた。

 

『ニーシャ。無理はしなくてもいい。……たまには休むんだ』

 

 声が柔らかい。

 真正面から殴れない相手に向ける、精一杯の優しさだった。

 

 ――兄は優しい。

 誰よりも。

 なのに、その優しさがニーシャの胸を抉る。

 

 才能のない兄の代わりに、自分が殴られている。

 兄が優しければ優しいほど、自分の犠牲が“正しいもの”にされる。

 “良い兄”がいる限り、“良い弟”でいなければならない。

 

 幼いニーシャの目が揺れた。

 怒りじゃない。

 痛みだ。

 

『……要らない。帰って』

 

 言葉は冷たい。

 冷たさの下で、泣き声を噛み殺している。

 

 ランスロットは一瞬だけ目を伏せ、それでも笑って頷いた。

 

『そうか。……すまない』

 

 そして最後に、逃げ道を塞ぐみたいに言う。

 

『でもお前は、私にとって誰よりも大切な弟なんだ。……それだけは忘れないでほしい』

 

《……罪な兄貴だな》

 

「優しさは、時に刃より深く刺さる。とくに“比較”の檻にいるやつにはな」

 

 兄が去る。

 扉が閉まる。

 静寂が戻った瞬間、ニーシャの肩が小さく震えた。

 

 泣きそうになる。

 泣けない。

 だから代わりに、抱き締める。

 

 ニーシャは籠へ手を伸ばし、ノーンを胸に引き寄せた。

 小さな獣の温度が、少年の冷えた指先をほんの少しだけ溶かす。

 

『……ごめん。ごめんね……』

 

 誰に向けた謝罪なのか、本人にも分からない声。

 

 兄へか。

 父へか。

 ノーンへか。

 ――あるいは、強くなれない自分へか。

 

《おいオッサン。“見てらんねえ”って顔をすんな。ここは記憶だ。届かねえ》

 

「届かんのは分かっとる。……だが腹は立つ」

 

《腹を立てる暇があるなら、目的を思い出せ。“今”を救うためだ》

 

「……回収、だな」

 

《そうだ。泣き言は後。今は拾え》

 

 その言葉に応えるように、部屋の空気へ“温もり”が差し込んだ。

 ラースの誘導光。

 

 月光の落ちる床板に、薄い光の輪が浮かび上がる。

 先ほどの訓練場と同じ――鍵穴だ。

 

《来た。ここにも欠片がある。ニーシャが“謝れた”からだ》

 

「謝れた?」

 

《拒んでも、傷つけても、それでも守りたい相手がいる。――その感情が鍵になる》

 

 モーブルは、目の前の少年に届かないと分かっていても、低く言った。

 

「……坊っちゃんよ、受け取っとけ。優しさまで突っぱねると、後で自分の首を絞めるぞ」

 

《三度の飯より金が好きな商人の説教にしちゃ、やけにまともだな》

 

「まともじゃないと、生き残れん局面がある。……今がそれだ」

 

 言葉が落ちた瞬間、鍵穴の輪が少し強く光った。

 モーブルはそこへ手を伸ばし――欠片を掬い取る。

 

 掌に落ちたのは、冷たいのに温かい光。

 “受容”の形をした小さなピースだった。

 

《よし。“優しさ”のピース回収。これで四つ。次へ進める》

 

 途端に、寝室の壁が静かに“ほどける”。

 カーテンが風でめくれるみたいに、しかし確実に――扉が現れた。

 

 開けたのは外からの力じゃない。

 ニーシャが、癒えた分だけ自分で鍵を回したのだ。

 

《行くぞ、オッサン。もし次が開かなかったら――お前は一生、こいつの心で干物だ》

 

「縁起でもない例えをするな! ……“次の記憶”だ、次!」

 

《同じだ。死ぬなよ、脂(あぶら)》

 

「誰が脂だ、誰が!」

 

 舌戦が終わるより早く、世界がざらりと擦れた。

 記憶のページが、乱暴にめくられる。

 

 

――――――――――――

 

 帝国初等魔法学校。

 父兄参観日。

 

 校庭に置かれた標的の前に、五歳のニーシャが立っていた。

 小さな手には杖。

 小さな体には、場違いなほど整った姿勢。

 周囲には父兄の列と教師の視線――その中心に、“父”がいる。

 

 空は抜けるように青いのに、色だけが薄い。

 陽光は明るいくせに冷たく、熱を拒む。

 ニーシャの世界は、いつだってそんな白さでできていた。

 

 息を吸う。

 吐く。

 それだけで胸の奥が軋む。

 それでも表情は、動かない。

 

 足元で、小さな白い影が鳴いた。

 ノーン。

 尻尾を震わせ、励ますみたいに靴へすり寄る。

 

『……心配するな、ノーン。ボクたちはやれる』

 

 オブライエン家の跡継ぎとして――絶対に失敗できない。

 ニーシャは短く息を整え、ノーンの頭を撫でた。

 それは余裕ではなく、折れないための“意地”だ。

 

「――では、初歩火術『ファイア・ボール』。教本通りに」

 

 教師の指示が落ちる。場の空気が一段重くなる。

 

 ニーシャは杖を掲げた。

 小さな指先がわずかに震える。

 いつものことだ。

 訓練通りに――ただ火を形にすればいい、それだけのはずだった。

 

 極度の緊張が、胸を圧迫する。

 

 火は“丸く燃える”前に、ぎゅっと縮む。

 圧縮。整流。無駄の切除。

 繊細な術式が、刃のように磨かれていく。

 

 教師の目が見開かれる。

 恐怖ではない。

 マニュアルから外れたものを見たときの、冷ややかな警戒だった。

 

「ニーシャ・オブライエン。……規定術式の逸脱。実演としては――失格です」

 

 「失格」

 

 その二文字が、喉に焼けつく。

 

(失敗……? ボクは、また……父上を失望させたのか……?)

 

 肺が凍る。

 視界の色が、じわりと白く削げていく。

 

 ――その時。耳の奥で、記憶の声が弾けた。

 

『違う! 魔力で押し切るな! 効率だ! 幼い貴様の魔力量で正面突破など叶うものか!』

 

 訓練場の情景。

 白砂。焼け跡。冷たい風。

 泥に膝をつき、それでも立った少年の記憶。

 手のひらの血が乾く前に積み重ねた“繰り返し”。

 泣かないことを骨に刻まれた顔。

 

 足元でノーンが短く鳴いた。

 ぴょんと跳ね、主の魔力に共鳴する。

 ――流れを整え、声にならない“支え”を送る。

 

 ニーシャは歯を食いしばり、再び杖を構えた。

 

『……大丈夫。まだ、やれる』

 

 同じ言葉。

 同じ温度。

 違うのは――“父が見ている”という現実だけ。

 

 世界が切り替わる。

 

 火球はさらに小さく――鋭くなる。

 丸ではなく、点。

 燃える塊ではなく、貫く熱。

 

 ――ドォォォン!!

 

 爆音。熱風。砂煙。

 標的が、跡形もなく消し飛んだ。

 

 魔力消費はほとんど変わらない。

 なのに威力だけが、中級魔法級まで跳ね上がっていた。

 

 同年代の子供たちが魔力を浪費して膝をつく中で、ニーシャだけが涼しい顔で炎の余韻を見送っていた。

 息ひとつ乱さずに。

 

 父兄たちがどよめく。

 教師が言葉を失う。

 そして――五歳の少年だけが、ほんの少し、報われた顔をした。

 

『……ははっ! やったぞ、ノーン! ボクたちはできた! 二人なら……どこまでもいける!』

 

 背後から“父”の声が落ちてくる。

 甘さのない、冷たい確認。

 

『……当然だ』

 

 祝福じゃない。

 義務の点検。

 それでもニーシャには、十分だった。

 

 喉が焼けるほど欲しかったのは褒め言葉じゃない。

 ――“認められたと錯覚できる一瞬”だ。

 

 足元のノーンが嬉しさに飛び跳ねる。

 尻尾をぶんぶん振り、世界で一番の成功を祝福する。

 

 だが、ニーシャの胸の奥では、その輝きが静かに変質していく。

 もっと上へ。

 もっと削れ。

 

 ――“できた”は、“もっとできる”の鎖へ変わる。

 

《……派手に咲いたな、五歳》

 

「“できる”じゃない。天才ってのは、“できる”って顔をすることじゃない。――“できない”を、工夫で踏み潰すことだ」

 

《はっ! 出たよ、商人ポエムが!》

 

「うるさい。事実を言っただけだ」

 

《事実ほど人を殴れる。……今のは良い殴り方だな》

 

 そのとき、校庭の空気にふっと“温もり”が混ざった。

 ラースの誘導光。

 

 爆心地の焦げ跡に、“鍵穴”が浮かび上がる。

 成功の輪郭そのものが、鍵になったみたいに。

 

《来た。五つ目だ。――無駄を削り、精度で全てを凌駕する術。効率を武器に変えるのが、このガキの本質だ》

 

「……らしいな。なら、拾うしかあるまい」

 

 モーブルが鍵穴へ手を伸ばした。

 触れた瞬間、頭の中で“計算”が走り出す。

 魔力の流れが線になり、誤差が削ぎ落とされ、最小で最大を叩き出す感覚。

 

 掌の上で、光の欠片が静かに脈打つ。

 

《よし。“最適化(オプティマイズ”のピース回収)

 

 回収と同時に、景色が一瞬だけ明るくなる。

 ――だが、その明るさは救いの色じゃなかった。

 

 校庭の端。

 父兄の列の向こうから。

 赤い絨毯が、じわりと滲み出す。

 

 祝宴の色。

 褒美の色。

 そして――地獄の入口の色。

 

「……“ご褒美”の匂いがする。だが、嫌な匂いだ」

 

《分かるか》

 

「商人だからな。甘い匂いの裏に、刃がある」

 

《……次が本丸だ。ここで気を抜いたら、全部ひっくり返る》

 

 赤が、扉の形になる。

 

 ニーシャはそれを見たわけじゃない。

 けれど心のどこかが、勝手に鍵へ手を伸ばす。

 

 “認められたい”という渇きが、ひとりでに鍵を回してしまう。

 

 赤い扉が、静かに開きはじめた。

 

 

――――――――――――

 

 

 世界が一変する。煌びやかな祝宴の間。

 

 ニーシャは上座に座らされ、珍しく父が祝杯を挙げていた。

 グラスの縁がきらりと光る。――その光が、やけに冷たい。

 

『よくやった、ニーシャ。お前は期待に応えた。オブライエンの恥ではないことを証明した』

 

 ニーシャの顔が輝く。

 初めて認められた。

 頑張ってよかった。

 父が合図をすると、強力な”使い魔が連れてこられる。

 

『褒美だ。新しい契約を結べ。これでお前は次の“格”へ進める』

 

 震えるほど嬉しい。

 だからこそ、ふと――思い出してしまった。

 

『……あの、ノーンは? ノーンはどこにいるんですか? あいつも一緒に……』

 

 父は、グラスを傾けたまま言う。

 

『ああ、あれか。処分した』

 

 世界から音が消えた。

 

『……え?』

 

 執事が淡々と、事務連絡みたいに続ける。

 

『旧使い魔は処分済みです。契約更新の妨げになりますし、器としての格も低い。もう必要ありませんので』

 

 死体すら見せない。

 痕跡だけが残る。

 寝床は片付けられ、籠だけが机に置かれていた。

 餌皿は新品に変わっている。

 “居た”という事実だけを、無機質に消した。

 

『……どこに、行ったの』

 

 父は冷徹に言い放つ。

 

『行った? “終わった”だけだ。感謝しろ。最後に役に立ったぞ。庭の肥料にはなったからな』

 

 祝う声と、処分の報告。

 その二つが同時に、幼いニーシャの胸へ突き刺さる。

 

 ――ボクが頑張ったから。

 ――ボクが成果を出したから。

 ノーンは殺された。

 

 成功=喪失。

 愛=死。

 

 ニーシャの瞳から光が消え、底無しの闇が溢れ出す。

 精神世界が、黒い泥で塗りつぶされていく。

 

『……ごめんなさい。ごめんなさい、ノーン……ボクのせいで……』

 

《来るぞ、オッサン。ここが“核”だ》

 

「……分かっとる。これは、ただの悲しみじゃない」

 

《ああ。“学習”だ。――愛したら奪われるってな》

 

 黒い泥の中に、最後の“鍵穴”が沈んでいく。

 普通なら見えない。

 沈みきったら二度と拾えない。

 

 だが――ラースの温もりが、闇へ一筋落ちた。

 癒やしじゃない。

 導きだ。

 沈む鍵穴の位置を、ぎりぎりで照らす。

 

《ラースが示してる。最後のピースだ、オッサン! 今拾え!》

 

 モーブルは泥へ踏み込み、鍵穴へ手を突っ込む。

 冷たい。

 重い。

 引きずり込まれる。

 

「……坊っちゃん。学ぶな。そんな“答え”を学ぶな……!」

 

 掌が、何かを掴む。

 それは“喪失”の欠片だった。

 痛みそのものの形。

 

 引き抜いた瞬間、欠片は光に変わり、モーブルの掌で震えた。

 

《六つ目。“喪失”のピース回収》

 

 同時に、ニーシャの闇が一瞬だけ止まる。

 ――止まった隙間に、次の扉の輪郭が現れる。

 

 “同化”へ落ち切る前に、まだ戻れる道がある。

 ピースを揃えれば、ニーシャの自我は組み上がり、ミッドナイトと分離できる。

 

《行くぞ。次は“分離”の間だ》

 

「……ああ。今度こそ、坊っちゃんを取り戻す」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。