モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
一行は、第一層『
境界を跨いだ瞬間、肌を刺す空気の“質”が変わる。
ただ冷たいだけではない。
凍てついた大気に、錆びた鉄のような金属臭が混じりはじめた。
濃密な魔素が氷壁に反射し続け、逃げ場を失って淀んでいる匂いだ。吸い込むだけで肺が重くなる。
視界を埋め尽くすのは、鏡のように磨き上げられた『
松明のわずかな灯りでさえ無数に乱反射し、網膜を白く灼く。
光が増えるほど世界は白飛びしていくのに、肝心の距離感だけが狂っていく白い迷宮。
ここは魔法使いにとっての鬼門……いや、処刑場だ。
放った術式が予期せぬ角度へ跳ね回り、味方の背を撃ち抜く事故が絶えない。
それどころか、術者自身の喉元へ刃となって返ってくる――“
「若、ここからは一層慎重に参りましょう。魔法の使用は極力お控えくだせぇ」
妨害術師モルドが、卑屈な揉み手をしながらへらへらとすり寄ると、すかさず剣士のグロムが大袈裟に声を荒らげる。
「おいおい、何言ってんだモルドぉ! 若ほどの天才なら、数千の氷壁の反射角を瞬時に演算し、自在に雷を操ることなど、息をするより容易いことだろうが! 失礼だぞ!」
「おっと、そうでしたなぁ。こりゃ失礼! 凡人の要らぬ心配でしたな!」
白々しい寸劇。
それに間髪入れず、盾持ちのバルドが分厚い胸板をドンと叩いて割り込んだ。
「へへっ、違いねぇ! ですが若、たまには俺らにも見せ場をくださいよ。俺のこの『絶対防御』の大盾があれば、どんな魔獣だろうが若の指一本触れさせませんぜ!」
「そうだそうだ! 若様は未来の魔導王なんだ、こんな薄汚い氷窟ごときで、その高貴なお手を汚す必要はありませんよぉ!」
射手のキルネまでもが、猫撫で声で調子を合わせる。
口々に飛び交う、甘ったるい忠誠の言葉。
だがその本質は、綺麗に整えられた鎖だ。
要するに、お前は何もするな、無防備でいろ――それだけの、狡猾な誘導。
「……問題ない」
ライオットが、その場の粘りつくような空気を断ち切るように言った。
氷の結晶同士が触れ合うような、硬質で透き通った声で。
「私は魔法を使わない。……ここからは、すべて君たちに任せる」
護衛に対する全幅の信頼――表面的には、そう受け取られて然るべき言葉だった。
だが、そのあまりにあっさりとした譲歩に、モーブルは心中で盛大に舌打ちした。
(……おいおい、正気か? お前はあの冷酷非道な支配者、ゼノン・ヴァルディスの息子だろうが!)
親父譲りの冷徹な合理主義者なら、こんな見え透いた誘導尋問に乗るはずがない。
「反射角の演算など容易い」と鼻で笑い、力づくで氷壁ごとねじ伏せて進む――それこそが、傲慢の血族ヴァルディスの流儀のはずだ。
それを、こうも簡単に最強の
何か別の意図があるのか。
それとも――噂は所詮噂に過ぎず、中身はただの世間知らずな箱入りのお坊ちゃんだというのか。
バルドたちの反応は雄弁だった。
一瞬だけ驚きに目を丸くし、次の瞬間には互いに目配せをして、嗜虐的な笑みを噛み殺したのだ。
――『かかった』。
彼らの背中が、そう語っていた。
「へへっ、ありがてえ。天才様の手を煩わせるまでもねえってこった。俺らがきっちり露払いしますんで、若は特等席で高みの見物といきましょうや」
戦士バルドが巨大な塔盾《タワー・シールド》を玩具みたいに揺らし、軽い調子で請け合う。
その声色には、獲物が自ら檻に入ったことを喜ぶ狩人の余裕が滲んでいた。
(……はぁ。ダメだったか)
モーブルは胸の奥で、深く、重く失望のため息を吐き捨てた。
忠告という名の賽は投げた。
だが、目は最悪の『凶』に転んだらしい。
ライオットは“信頼する”と言ってしまった――その言葉が、自らの細い首に掛かる絞首縄になるとも知らずに。
もしやと期待したが、こいつはおだてられれば木に登り、お山の大将を気取るだけの、ただの薄っぺらいボンボンだったか。
いかに神童と謳われた天才魔導士といえども、悪意渦巻く盤上では赤子同然。
相手の術中にまんまと嵌り、自ら盤面を不利にするようでは……翼をもがれた小鳥も同然だ。
(これで“詰み”だな)
ここから先は、情け無用の
もし連中の狙いがライオットの命で、その企てが成ったなら――目撃者である「ただの運び屋」を生かしておく慈悲など、彼らには一欠片もない。
口封じに消されるのは、火を見るより明らかな確定事項だ。
相手は歴戦のスチール級戦闘職が五人。
対するこちらは、戦闘職ですらないアイアン級のソロ・ポーター。
正面からやり合えば、三秒で挽肉にされて氷の肥料になるのがオチだ。
モーブルの商売人としての脳が、高速で損得勘定を弾き出し、そして冷徹な結論を叩き出した。
――『損切り』だ。
モーブルの決断は早かった。
これ以上、沈みかけた泥船に関わる義理はない。
(……悪いな、ライオット。お前のその美貌は惜しいが、所詮はあのゼノンの血族だ。わしがお前のために心中してやる義理はない。恨むなら親父を恨めよ。わしは
モーブルは誰にも気づかれぬよう、背負った巨大な背嚢の隠しポケットに手を伸ばし、アイテムの感触を指先で確かめた。
背嚢の中身――煙玉、発火性オイル、各種戦闘用ポーション。
使えるものは全部使う。
万が一の瞬間は、ライオットを餌にしてでも自分だけは生き延びる。
「……こっちだ。地図によると、こっちのルートのほうが早い」
斥候のザズが案内したのは、氷の反射角が最もきつく、かつ右手が底なしの断崖絶壁になった最悪の難所だった。
横幅は十メートルほど。
広いようで、乱戦になれば逃げるには狭すぎる。
大技は封じられ、退路も薄い――あつらえたような処刑台だ。
(……間違いない。ここが『狩り場』だ)
モーブルの背筋に、冷たい汗がツーと流れる。
こんな場所で囲まれたら、もう逃げ場はない。
だが、ライオットは断崖の底に広がる暗黒を見ても、眉一つ動かさない。
ただ歩く。前へ進めと言われたから歩く。
その足取りは、糸の切れる最期の時を静かに待つ、哀れな操り人形のように空虚だった。
(くそっ……本当に何も気づいておらんのか!? このままじゃ袋の鼠だぞ!)
そのときだ。
――パキィィィィィィンッ!!
鼓膜を
泣き氷。
踏めば鳴る。鳴れば寄る。
音が大きければ大きいほど、より強力な魔獣の殺意を呼ぶ――この氷窟最悪の“死の呼び鈴”。
しかも今のは、不注意で踏み抜いたような生易しい音じゃない。
砕いた音だ。
鉄板の入ったブーツの踵で、一点を狙って踏み砕き、意図的に最大限まで共鳴させた音。
(――始まったッ!)
「おっと、すまねえ! 足が滑っちまった!」
ザズが白々しく叫ぶ。
声の張り方が妙に整いすぎていて、芝居の台詞みたいに耳へ届いた。
その瞬間――通路の奥と、断崖の底。
二つの暗がりから、重なる唸りが湧き上がる。
氷壁がそれを反響させ、音だけが増殖していく。
「――敵襲ッ!」
バルドの咆哮より早く、右手の氷壁が内側から砕け散った。
飛沫を上げて踊り出たのは、全身が水晶めいた半透明の甲殻に覆われた四足獣――『アイス・リザード』の群れ。
一体や二体じゃない。十、二十……。
鏡のような氷壁に映った“像”が本体と溶け合い、数は百にも見えた。
「ちっ、お出ましだ! 野郎ども、構えろ! ……仕事の時間だぜ!」
バルドが号令をかける。
だが、その陣形が――妙だった。
本来ならライオットを包むように組むはずの前衛が、左右へ大きく開く。
中央だけが、綺麗に空いていく。
まるで――若様だけを正面に“差し出す”ための通路だ。
「若! ここは反射壁に囲まれている! 下手に魔法を撃てば俺達にも当たる! 動かないでください、俺達でなんとかします!」
射手キルネが弓を引き絞り、矢を敵に放つ――“ふり”をした。
狙いは魔獣じゃない。
ライオットの足元、わずか数センチ手前。
シュッと空を切り、矢が氷床に突き刺さる。
瞬間、霜の花がパッと広がり、足場が鏡のように滑りやすくなった。
ライオットの灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
わずかな動揺。
だが、それを隠そうと唇を固く結んだ。
剣士グロムは前へ出る。
だが立つ角度が悪い。守るための角度じゃない。
受け止めず、押し返さず、突進の軌道だけを微妙にずらす――ライオットへ寄せるために。
モルドは呪文を唱えはじめた。
敵を拘束するための補助術のはずなのに、詠唱が丁寧すぎる。
丁寧すぎて、遅い。
遅すぎて――間に合わない。
(……わざとだ)
モーブルの胃の底が、氷水を流し込まれたみたいに冷えた。
アイス・リザードの群れが、障害物の消えたライオットめがけて殺到する。
距離、十メートル。
咆哮。振り上がる爪。青白い刃が、少年の華奢な身体を裂きに来る。
だが――ライオットは、動かなかった。
避けない。構えない。詠唱もしない。
ただ、灰色の瞳で迫る死を見つめている。
『……問題ない。私は魔法を使わない。……ここからは、すべて君たちに任せる』
少し前の言葉が、呪いのようにモーブルの頭をよぎる。
信頼だと?
本気で信じているのか?
こんなあからさまな殺意の包囲網の中で、まだこいつらを仲間だと思っているのか?
無垢なのか、それとも救いようのない馬鹿なのか。
あまりのおめでたさに、もはや呆れを通り越して殺意すら覚える。
(……阿呆がっ! 目を覚ませ! ……貴様もゴールド級なら、何度も修羅場を潜り抜けてきたはずだろう! 今がどういう状況なのか、その目で見て判断しろこのっ!)
喉の奥で悪態が形になりかける。
なのに足が動かない。
――動けない、じゃない。
動かない。
脳裏に、ゼノンの顔が浮かぶ。
昔の屈辱が、舌の裏に苦く蘇る。
(そうだ、わしが知ったことか……助ける義理なんぞ、あるか。あのクソ野郎の血だ。わしは逃げる。乱戦に乗じて――)
次の瞬間、バルドが大盾を構えて突っ込んだ。
盾で“受ける”のではない。盾で魔獣の肩を弾き、勢いを殺さず横へ流す。
流した先は――ライオットの真横。
「おっとぉ! 若ァ、危ねえ!」
わざとらしい叫び。
爪がコートを裂く。
血は出ない。
だが、ビリッと布が裂ける音だけで胸が縮む。
直後、モルドの術が完成した。
氷壁に刻まれた紋様が脈打ち、透明な氷鎖がライオットの両足首を絡めとる。
逃げるためのものじゃない――逃がさないための枷。
「……っ」
ライオットが小さく息を呑む。
わずかに肩が震えた。
だが、抵抗はしない。
解呪の素振りすら見せない。
(……抵抗すれば、お前なら術者ごと焼き切れるだろうに)
魔獣が間近に迫る。
グロムが剣で斬りつける――浅い。
怒らせるだけの傷。
激昂した群れは、真っ直ぐライオットへ突進する。
「若! やっぱり俺達じゃ止めきれねえ! 雷で焼いてくれ! ここは俺らじゃ無理そうだ――!」
バルドの声が、妙に
“撃て”と背中を押すというより、“今すぐ撃て”と命じる声色だ。
反射氷壁。
狭い回廊。
そしてライオットの周りには――味方の顔をした“壁”が立っている。
「っ! ……わかった」
ライオットが、わずかに早口で短く応じた。
その声には、悲愴な決意が滲んでいる。
この状況で、味方を巻き込まずに広範囲の雷撃を放つ。
それは針の穴を通すような精密さが求められる至難の業だ。
だが、今の彼は無茶に挑戦しようとしている。
「待て、焦るな! ここは冷静に――!」
モーブルが慌てて声を上げた。
だが、その制止は一歩、遅かった。
「――『
白い右手が、すっと突き出される。
その瞬間、バルドたちの配置が変わった。
それまで散開していた四人が、まるで示し合わせたかのように一斉に後退し、巨大な塔盾の背後へ滑り込む。
(……あの盾。まさか――)
モーブルの視線が、塔盾の表面に塗られた鈍い光沢を捉えた。
対雷魔法用の絶縁コーティング。
こいつらは最初から、この
――刹那。
黄金の雷光が回廊を満たした。
轟音。
ライオットの指先から放たれた稲妻は、正確無比に先頭の魔獣を貫き、その背後に連なる群れを鎖のようになぎ払う。
肉が焼け、骨が弾ける嫌な音。
味方の影を一切かすめない、寸分違わぬ軌道制御――神業としか呼べないコントロールだった。
――だが、この回廊には、もう一つの“敵”がいた。
バチィッ!!
魔獣を貫いた余剰の雷が、背後の『反射氷壁』に突き刺さる。
本来なら拡散して消えるはずの雷撃。
だが、鏡のように磨かれた氷壁は、それをほとんど減衰させないまま、鋭い角度で弾き返した。
予測不能の乱反射。
光の矢と化した紫電が、幾度も折れ曲がりながら、逃げ場のない回廊を疾走する。
その切っ先が向かった先は――絶縁された盾の陰に身を潜めるバルドたちではなかった。
唯一、何の遮蔽物も持たず、無防備に立つ術者ただ一人。
「あ……」
ライオットの灰色の瞳が、大きく見開かれる。
ドォォォォンッ!!
次の瞬間、己の放った雷が、己の華奢な身体を直撃した。
紫電が白い肌を焼き焦がし、衝撃が小さな体を容易く宙へと跳ね飛ばす。
防寒コートが爆ぜるように裂け、黒く焦げた布切れとなって舞った。
「ぐぅっ……!」
苦悶の声と共に、ライオットが氷の床に叩きつけられた。
焦げ臭い煙が上がる。
白磁の頬に煤がつき、端正な顔が苦痛に歪んでいた。
静寂。
魔獣の群れは、最初の一撃で全滅していた。
黒焦げの死骸と、傷ついた少年だけが残された回廊。
そこへ、盾の影からバルドたちがぬっと顔を出した。
傷ひとつない顔で。
ニヤニヤと、嗜虐的な笑みを隠そうともせずに。
「おぉ〜! すげぇすげぇ! 一発で全滅だ!」
バルドが大袈裟に手を叩き、わざとらしい喝采を送る。
それに合わせて、ザズも、モルドも、口笛を吹いて囃し立てた。
「さっすが若! 慌てて撃った魔法のはずなのに、あの精度! やっぱ天才は違うねぇ!」
「いやぁ、俺達なんて完全に足手まといでしたな! 自分の身を削ってまで魔獣を倒すとは、これぞ騎士道精神! いやあ、感服しました!」
「あ……ケガ……薬、を……」
ライオットが掠れた声で助けを求める。
だが、返ってきたのは――冷ややかな称賛と拍手だけだった。
誰も駆け寄らない。
誰も手を差し伸べない。
地面に伏して肩で息をする、黒焦げの少年。
彼らはその姿を、まるでサーカスの見世物でも楽しむかのような、嗜虐的な瞳で見下ろしているだけだ。
「おーし、若。魔獣も片付いたことだし……そろそろ俺達の“本業”をさせてもらいますよ」
「……本、業?」
ライオットが掠れた声で問い返す。
「おや、言ってませんでしたっけ? あー、こりゃ失礼」
バルドたちは、わざとらしく肩をすくめた。
そして、獲物をいたぶる子供のような邪悪な笑みで“答え合わせ”を始める。
「実はね、俺達、若の護衛じゃなくて……本当は若を始末するように依頼されてたんですよ。まー、ゴールド級の天才様を相手に、俺達みてぇなスチール級で殺れるか心配だったんですがねぇ」
バルドが絶縁塗料を塗った盾をコツコツと叩く。
「いやぁ、若が俺達みたいなゴミを信用してくれたおかげで、随分と楽させてもらいましたよ! 本当にありがとうございます!」
「若の魔法が怖くて、こんな高ぇ対雷盾まで用意してビビってたのが馬鹿みてぇだ! ま、おかげでこの仕事が終われば、遊んで暮らせるだけの大金が入る! ありがてぇこってですわ!」
「金が入ったら俺たちゃ、この国を出てヴァルクリア神聖国にでも高飛びしますわ! あそこは美女の宝庫って有名ですからねぇ、ビーチで白肌の姉ちゃんたちと酒池肉林、一生安泰ってワケですよ!」
ゲラゲラと、下卑た笑いが氷窟に反響する。
自分の命が、彼らにとって酒や女を買うための「小銭」に換えられた事実。
信じていた者たちからの――あまりに無慈悲で軽薄な死刑宣告。
「……というわけなんで、安心して死んでくださいね、若」
「う、うぅ……」
ライオットが震える手で床をつき、身を起こそうとする。
焦げた服の隙間から覗く肌は痛々しく、息をするたび肩が小さく跳ねた。
ふらつく視線が泳いで――最後尾に影のように控えていたモーブルと合う。
灰色の瞳が、声にならない何かを訴えて揺れていた。
(……チッ。見るなよ、そんな目で)
終わりだ。
この猿芝居も、ライオットという少年の命運も。
あとは連中が“処理”するだけで、自分はその隙に――。
モーブルは背嚢のベルトに手をかけ、逃走ルートを探した。
だが、どうしても目が離れない。
焼け焦げた皮膚と、その奥に沈んだ絶望の色が、視線を釘づけにする。
――脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
あの雷撃は、無謀な自爆じゃない。
異常な精度で制御されていた。
バルドたちだけじゃない。
最後尾の自分にさえ、余波ひとつ届かないように。
反射壁に跳ね返る予測不能な力を、己の身を犠牲にして収束させ、味方を守り抜いたのだ。
(……馬鹿か、お前は)
胸の奥で、何かが軋んだ。
父親《ゼノン》に似ても似つかない、自己犠牲の塊みたいな魔法を使いやがって。
「さて、若。ほんとーに名残惜しいですが……」
バルドが、乱暴にライオットの胸ぐらを掴み上げる。
布が軋み、少年の喉が小さく鳴った。
「そろそろ仕上げといきましょうか」
抵抗する体力はもうない。
ライオットは中身の抜けた人形みたいに、崖の縁へ引きずられていく。
バルドは腰から短剣を抜いた。刃が氷の光をはねる。
「グサッと刺して――そのまま崖の下に捨てりゃ、おしまいだ」
軽い。
命の重さを知らない声だ。
短剣の切っ先が、ライオットの胸元へ吸い寄せられる。
その瞬間。
――スローモーションみたいに時間が伸びた。
ライオットの視線が、もう一度だけモーブルを捉える。
唇が動く。
パク、パク、と。
声は風に消えた。
だが形だけは残酷なほど明瞭だった。
――『ニ、ゲ、ロ』。
死ぬ間際に、助けを乞うでもなく。
呪詛を吐くでもなく。
ただの見物人である薄汚い荷運びの身を案じていた。
(……あ?)
思考が、白く塗りつぶされる。
その瞬間、モーブルは理解した。
今、目の前で殺されようとしているのは、憎き宿敵ゼノン・ヴァルディスじゃない。
親の罪も、家の業も関係ない。
ただ一人の――愚直で、不器用で、優しい少年だということを。
「ッ――!!」
ブチリ。
モーブルの中で、理性の弦《商人の勘定》が焼き切れる音がした。
気がつけば、地面を蹴っていた。
逃げるためじゃない。破滅の淵へ向かって。
「どけぇぇぇッ!!」
モーブルの巨体が砲弾のように突進する。
意表を突かれたバルドが「あァ!?」と間抜けな声を上げる隙に、モーブルは振り下ろされようとしている刃と少年の間に割って入った。
「ぐ、ぅッ……!」
ズブリ、と重く湿った感触が左肩に走る。
ライオットへ振り下ろされた刃を、モーブルは自らの分厚い肉を盾にして受け止めたのだ。
焼けるような熱さが脳を灼く。
だが、足は止めない。
モーブルは肩にナイフを生やしたまま、ライオットの細い体を強引に抱きすくめると、その巨体の質量全てを乗せて崖の縁を蹴り抜いた。
「なっ、てめぇ正気か!?」
バルドの驚愕の声が遠ざかる。
中空へ躍り出た瞬間、重力が二人を捕らえた。
「――っ、しっかり捕まってろ、クソガキッ!!」
二人の体は一つの塊となり、底知れぬ氷窟の奈落へと吸い込まれていった。