※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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第三十二話 モーブルと氷窟の生贄③

 風が鳴る。  

 いや、これは風ではない。  

 高所から奈落へ堕ちるときの、死神が耳元で鎌を振るう音だ。

 

 視界は漆黒。  

 上下の感覚などとうに消え失せた。  

 ただ、重力という絶対的な暴力が、二人の体を氷獄の底へと引きずり込んでいく。

 

 

「――ぐ、あアアアアアッ!!」

 

 

 モーブルは絶叫しながら、腕の中の華奢な体を抱きすくめた。  

 先ほど刺された左肩が、風圧を受けるたびに焼けるように疼く。

 ナイフは抜け落ちたようだが、抉れた肉が悲鳴を上げ、鮮血が空中に散っていくのがわかった。

 

 

(ぐ、ぅおおおおッ!? 熱ちぃ! 焼けるッ、肩が焼けるッ!)

 

 

 腕の中のライオットは軽い。

 鳥の骨のように軽い。

 だが、今のモーブルには、その羽のような質量さえもが、裂けた傷口をこじ開ける鉛の塊のようだった。

 

 

(死ぬか? ここで死ぬのか? 絶世の美少年と抱き合って仲良く心中か!?)

 

 

 少年のために生き、少年のために死ぬ。

 美少年嗜好者(ラヴァー)として、これほどふさわしい死に様はない――なんて、一瞬でも陶酔した自分が恨めしい。

 脳髄を白く焼く激痛は、そんな甘美な感傷など一瞬で吹き飛ばす。

 

 走馬灯のように、これまで積み上げてきた商談や金貨の山が脳裏を過ぎる。

 だが、最後に焼き付いて離れないのは、さっき見た少年の口元だ。

 

 

 『ニゲロ』。

 

 

 そう言った、儚くも愚かな唇の動き。

 

 

(……ふざけんな。客が逃げろと言って、はいそうですかと逃げる商人がどこにいる!)

 

 

 わしはまだまだ稼ぎたい。

 この国で伝説の豪商として名を残し、引退後は選りすぐりの美少年たちに囲まれて、酒池肉林のウハウハな老後を過ごす。

 そう決めたはずだ。

 まだ、何ひとつ回収しちゃいない!

 

 

(商人が冒険ごときで野垂れ死ぬだと? 笑わせるな! ここで心中なんてしたら……計算が合わねぇんだよ、大赤字だッ!!)

 

 

 商人の強欲な意地が、死への恐怖と激痛をねじ伏せる。

 モーブルは空中で無理やり体勢を捻った。

 傷口がメリメリと開き、熱い血が噴き出す感触に奥歯を砕きそうになりながら、無事な右手を背嚢へ伸ばす。

 

 指先が、冷たい革の感触を捉えた。

 愛用の商売道具――『飛竜革の鞭(ワイバーン・ウィップ)』。

 

 本来は言うことを聞かない荷運び獣をしばくための鞭だが、その芯材には伸縮性の高いミスリル線が編み込まれている。

 その強度は鉄鎖をも凌ぐ、唯一の命綱だ。

 

 

「若様ッ! 歯ァ食いしばれッ! 舌噛んでも知らねぇぞォ!!」

 

 

 言うが早いか、モーブルは鞭を闇雲に振るった。  

 視界ゼロ。

 狙いは見えない。  

 完全なる運否天賦だ。  

 

 ヒュンッ、と空を切る音が虚しく響く。  

 一度。

 二度。  

 落下速度は加速度的に増し、死へのカウントダウンが加速する。

 

 

(クソッ、頼む……!)

 

 

 三度目。  

 ガガッ、という硬質な衝撃が右腕を引きちぎらんばかりに襲った。  

 鞭の先端が、崖から突き出た氷柱の基部に奇跡的に絡みついたのだ。

 

 

「――ぐ、ぎィッ!?」

 

 

 急激な制動(ブレーキ)。  

 鞭を握る右腕の関節が悲鳴を上げ、ライオットを抱える左肩の傷口から、ドクリと大量の血が噴き出した。  

 激痛で視界が明滅する。  

 

 だが、離さない。  

 ここで離せば、二度と浮上できない。  

 右腕一本で、自分と少年の体重、そして落下エネルギーの全てを支える。

 

 ピキ、ピキキ……。  

 

 頭上で氷柱がきしむ音がする。  

 保たない。

 数秒で砕ける。

 

 

「……ッ、らぁぁぁッ!!」

 

 

 モーブルは血の泡を吹きながら、壊れそうな腕を支点にして、振り子の要領で体を振った。  

 目指すは、闇の中でわずかに白く光る横穴。

 

 パキィンッ!

 

 命綱だった氷柱が砕け散ると同時に、二人の体は横方向へと放り出された。

 

 ドサァッ!!

 

 雪崩のような雪煙を上げて、二人は硬い氷の地面へと叩きつけられた。  

 転がる。  

 何度も、何度も。  

 モーブルは血に濡れた体で自らをクッションにするように背中を丸め、ライオットの頭を胸に抱え込んだまま、氷床を滑走した。

 

 やがて、勢いが止まる。  

 死のような静寂が戻る。

 

 

「……ッ、はぁ……はぁ……、ぐ……」

 

 

 モーブルは仰向けのまま、滲む視界で天井を見上げた。  

 遥か彼方に、青白い光の粒が微かに見える。

 あそこから落ちてきたのだ。  

 

 生きている。  

 奇跡的に。

 

 

「……生きてるか、若様」

 

 

 胸元の膨らみに声をかける。  

 返事はない。  

 だが、心臓の鼓動は聞こえる。

 早鐘のように激しく、けれど力強く脈打っている。  

 

 白い頬に、べっとりと赤い液体が付着していた。  

 一瞬ヒヤリとしたが、それはモーブルの肩から流れ出た血だった。

 

 モーブルは安堵のため息をつき――そして、遅れて全身を襲ってきた焼けるような激痛に顔を歪めた。

 

 

「……ったく。出血大サービスにも……程があるぞ、これは……」

 

◆

 

 そこは、第三層『静寂の奈落』。

 

 上層の喧騒が嘘のように静まり返った、蒼白い薄明の世界。

 天井や壁に張り付いた『月光苔(げっこうごけ)』と、氷そのものが放つ微弱な魔力が、空間全体をぼんやりと水底のように浮かび上がらせている。

 

 真の闇ではない。

 だが、この頼りない燐光は、物陰に落ちる影をより濃く、深く演出していた。

 ここに棲む魔獣は、この幽玄な青白い光に紛れ、音もなく忍び寄って獲物の体温を奪うのだ。

 

 モーブルは、這うような動きで周囲を確認した。

 幸い、落下した場所は袋小路のような窪地になっていた。

 

 三方をぼんやりと光る氷壁に囲まれ、入口は狭い。

 防御には適している。

 

 

「まずは、確保(セキュア)だ」

 

 

 商人の顔から、冒険者の顔へ。  

 モーブルは血を流す左肩をかばいながら、片手で手際よく作業を開始した。

 

 背嚢から取り出したのは、拳大の黒い石――『警報石(アラート・ストーン)』。  

 これを入口の四隅に配置する。  

 

 さらに、入口へ『擬竜茸《ドラゴン・ミミック》』の粉末を撒く。  

 エルヴァルド森国の深部にのみ自生する、外敵から身を守るために「竜の体臭」を放つ特殊なキノコだ。

 鼻の利く獣にとって格上の肉食獣の気配(プレッシャー)となるそれを撒けば、本能的に回れ右をする。

 

 

「よし。これでしばらくは保つだろう」

 

 

 最低限の安全を確保したモーブルは、ようやくライオットの方へと向き直った。  

 少年は、氷の上に人形のように横たわっていた。  

 黒焦げになった高級な防寒コート。  

 その隙間から覗く肌は、火傷と凍傷で赤黒く変色している。

 

 

(……酷いな)

 

 

 改めて見ると、痛々しさに胸が詰まる。

 第五階梯相当、それも無詠唱に近い速度で練り上げられた高密度の雷撃を、その身ひとつで受け止めたのだ。

 魔力耐性を持つゴールド級の肉体でなければ、今頃は炭化した肉片になっていただろう。

 即死を免れただけでも奇跡に近い。

 

 

「さあて、ここからはわしの専門分野(りょういき)だ」

 

 

 モーブルは背嚢の底をまさぐり、『簡易シェルター・極地用』を取り出した。

 魔導繊維で編まれた魔法のテントを手際よく設営し、ライオットを抱き上げて中へと運び込む。

 小さな魔導ランプを灯すと、シェルター内は外の冷気が嘘のような橙色の柔らかい光に満たされた。

 

 モーブルはライオットを寝袋の上に寝かせ、炭と血でボロボロになった衣服を、ナイフで切り裂くようにして慎重に剥がしていった。

 

 

「……ッ」

 

 

 露わになった少年の裸身を見て、モーブルは息を呑み、そして喉を鳴らした。

 

 万年雪よりも白く、青い血管が透けるほどに薄い肌。

 あばら骨が浮くほど華奢な胴体には、無駄な贅肉はおろか、筋肉さえも最低限しかついていない。

 まさに、神が気まぐれに作りたもうた、触れれば壊れてしまいそうな至高の芸術品(アート)。

 

 だが、その無垢なキャンバスには、あまりに残酷で無惨な筆跡が刻まれていた。

 左肩から脇腹にかけて、雷が走った軌跡が赤いケロイドとなって引きつり、ドクドクと痛々しく脈打っている。

 白い肌に散った赤黒い焦げ痕は、雪原に散った薔薇のように冒涜的で――悔しいほどに美しかった。

 

 

「……もったいない。こんな国宝級の雪肌に、なんという無粋な真似を……。ああ、いたわしい……!」

 

 

 モーブルは祈るように、あるいは傷をつけた世界を呪うように呟きながら、赤色のポーションの封を切った。

 

 『特選・上級治癒薬(エクストラ・ハイ・ポーション)』。

 

 一本で金貨数十枚は下らない、最高純度の秘薬。

 モーブルが素材を厳選し、自身の錬金術で精製した渾身の一作だ。

 本来なら魔導帝にでも献上できそうな極上品だが、今は迷っている場合ではない。

 

 この美貌に傷跡ひとつ残すことのほうが、金貨をドブに捨てるよりも罪深い。

 

 清潔なガーゼに琥珀色の薬液をたっぷりと染み込ませ、爛れた傷口へ押し当てる。

 ジュワッ、と肉が焼けるような音がして、ライオットの体がビクリと跳ねた。

 

 

「う……ん……ッ」

 

「しーっ……我慢しろ。最初は沁みるが、すぐに極楽へ行ける」

 

 

 モーブルは赤子をあやすように耳元で囁きながら、手当を続けた。

 丸々と太った、まるで芋虫のような指。

 だが、その指先には乱暴さなど微塵もない。

 

 長年、夜遅くまで帳簿を記し続け、ペンだこで硬く節くれだったその指は、誰よりも商品の価値を知り、慈しむことを知っている「商人の指」だ。

 硝子細工よりも脆い価値ある品々を、一度たりとも壊さずに運び続けてきたその手が、今は絹糸を紡ぐように繊細に、少年の肌を撫でていく。

 

 薬液を塗り込み、壊れた細胞を繋ぎ止め、包帯を巻き上げる。  

 その一挙手一投足には、ただの治療以上の――ある種、執拗で粘着質な愛着が込められていた。

 

 力ずくで奪ってはならない。  

 心からの同意と、依存に近い信頼があってこそ、無垢なる魂を真に我が物とできる。  

 

 だから今は、直す。  

 壊れかけた人形を完璧に修復し、元の美しさを取り戻させるのだ。

 

 全身の手当を終える頃には、ライオットの呼吸はすっかり安定し、苦悶に歪んでいた表情も安らかな寝顔へと変わっていた。

 

 

「ふぅ……。これで若様は峠を越えたな」

 

 

 モーブルは額に滲んだ脂汗を拭い、安堵の息を吐き出した。

 ――その、途端。

 

 

「――っぐ、ぅッ!? いッ、ててててて!?」

 

 

 緊張の糸が切れたのを合図に、置き去りにしていた激痛が利子をつけて襲いかかってきた。

 左肩だ。

 バルドのナイフを受け止め、さらにライオットを抱えて落下した際の衝撃で、傷口は見るも無惨な状態になっていた。

 服は血糊でべっとりと皮膚に張り付き、感覚はとうに麻痺を超えて、鉄板を押し当てられたような灼熱を放っている。

 

 

「忘れてたわ……こっちも死にかけだった……」

 

 

 モーブルは苦悶の表情で、手元のポーション瓶を光に透かした。

 あれだけなみなみと入っていた『特選・上級治癒薬』の中身は、もはや風前の灯火。

 瓶底に、ほんの数滴がチャプンと申し訳程度に揺れているだけだ。

 

 

「……はは。美少年の肌には金貨の山を惜しげもなく使い込んで、自分はこの『おこぼれ』かよ」

 

 

 我ながら因果な性分だ、と自嘲する。

 だが、迷いはなかった。

 モーブルは瓶を逆さにし、最後の一滴が落ちるまで振って、自分の抉れた左肩へと直接垂らした。

 

 ジュウゥゥゥ……ッ!!

 

 

「ぐ、おおおおおッ……!!」

 

 

 ライオットへの手厚い看護とは比べ物にならない雑極まりない処置に、脳髄を白く焼くような激痛が走る。

 モーブルは脂汗を流しながら、奥歯が砕けるほど噛み締めて声を殺した。

 数秒後、嘘のように痛みが引き、傷口が急速に塞がっていく。

 さすがは特級品。残りカスのような量でも、致死レベルの出血を強引に止めるには十分だった。

 

 

「……ふぅ。なんとか腕は動きそうだ」

 

 

 完治とはいかないが、これなら戦える。

 まだ稼げる。  

 モーブルは空になった瓶を放り投げ、ようやく全身の力を抜いた。

 

 

「さて……。治療も終わったことだし、次は腹ごしらえといくか」

 

 

 ポーターの仕事は、荷を運ぶだけではない。

 顧客(ゲスト)への最高のもてなしもまた、一流の証だ。

 

 モーブルは携帯コンロを取り出し、使い込まれた銅製の小鍋をセットした。

 水筒の水を注ぎ、着火石で火をつける。

 チロチロと揺らめく青い炎が、シェルター内の冷気をゆっくりと温めていく。

 

 取り出した食材は、極寒地用の保存食。

 塩漬け肉の塊(ジャーキー)と乾燥野菜、そして固形のブイヨン。

 普通の冒険者なら、これらをただ湯で戻しただけの、ゴムのような肉と薄味のスープで腹を満たすのが相場だ。

 だが、モーブルにとって食事とは、ただの燃料補給ではない。

 

 

「……魔法(マジック)の時間だ」

 

 

 まず、ナイフで塩漬け肉を極薄にスライスし、少量の水でじっくりと炒める。

 肉から滲み出した脂が、鍋底でジュウジュウと音を立て、香ばしい匂いを放ち始めたところで水を足す。

 これでコクが段違いになる。

 

 そこへ乾燥野菜とブイヨンを投入し、くたくたになるまで煮込む。

 そして、ここからが真骨頂だ。

 

 

「仕上げは、わしの『秘蔵っ子』の出番だ」

 

 

 モーブルは数種類のハーブと削り節をブレンドした特製スパイスに加え、懐の奥から一本の小さな硝子小瓶を取り出した。

 中に入っているのは、宝石のようにきらめく純白の結晶粉末。

 

 ――『特級岩塩魔人の濃縮核(ハイ・ソルトゴーレム・コア)』。

 

 希少な上位種である岩塩ゴーレムの核を、特殊な錬金術で極限まで圧縮・精製した代物だ。

 この掌に収まる小瓶一本の中に、なんと大袋十個分もの塩の質量が魔力的に封じ込められている。

 

 うっかり中身をぶちまければ、周囲一帯を塩の砂漠に変えかねない危険物だが――ほんの一削り加えるだけで、どんな料理も宮廷料理級の味へと昇華させる「魔法の塩」となる。

 

 

「入れすぎ厳禁……一振りで致死量だからな」

 

 

 モーブルは慎重に、本当に数粒だけを鍋へ落とした。

 瞬間、立ち昇る湯気の香りが劇的に変わる。

 ただの塩気ではない。大地のミネラルを凝縮したような、深く、ふくよかな旨味が鍋全体に行き渡ったのだ。

 

 最後に、カチカチに硬くなった保存用の黒パンをナイフで薄く削ぎ、スープの中へ沈める。

 さらに長期保存用の『熟成粉チーズ』を惜しげもなく振りかけると、スープを吸ったパンがとろりと崩れ、黄金色に輝き始めた。

 

 パン粥(パナード)。

 かつて宮廷料理人が「王の病を治した」とも言われる、消化に良く、体の芯から温まる極上の流動食。

 

 

「……ん」

 

 

 濃厚な香りに魂を引き戻されるように、ライオットが小さく身じろぎをした。

 長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれる。

 露わになったのは、まだ焦点の定まらない、薄氷のような灰色の瞳。

 

 

「……ここ、は……?」

 

「おはようございます、若様。いや、こんばんはかな? こんな地底じゃ、お天道様のご機嫌もわかりゃしない」

 

 

 モーブルは鍋をかき混ぜながら、努めて明るく、日常の延長のような声で言った。

 ライオットはぼんやりと視線を巡らせ、橙色の天井と、目の前に鎮座する巨体を確認する。

 そして、途切れていた記憶の糸が繋がったのか、ハッと目を見開いた。

 

 

「……私は、落ちて……君が……」

 

「ええ、落ちましたとも。二人仲良く、奈落への愛の逃避行と洒落込んだわけです」

 

 

 モーブルは軽口を叩きながら、出来上がったスープを木の器によそった。

 ふわりと湯気が立つ椀を、ライオットの鼻先に差し出す。

 

 

「難しい話は後です。まずは食いなさい。空っぽの胃袋じゃ、まともな計算もできやしませんから」

 

「……」

 

 

 ライオットは椀を見つめ、それから自分の手を見つめた。

 綺麗に包帯が巻かれた手。

 痛みが引いている。あの凍えるような寒さもない。

 あるのは、目の前のむさ苦しい男から発せられる、奇妙な温かさだけ。

 

 

「……なぜ」

 

「ん?」

 

「なぜ、助けた……。私は……見捨てられるはずだった……のに……」

 

 

 掠れた声。

 それはモーブルへの問いかけというより、自分自身への疑念のようだった。

 親にも、護衛にも、そして世界そのものに見捨てられるのが当然だと思っている、深く冷たい諦観に満ちた子供の顔。

 

 モーブルはフン、と鼻を鳴らした。

 

 

「商人の損得勘定ですよ。あそこで若様を見殺しにしたら、わしはただの口封じの死体になる。だが、若様を助ければ恩を売れる。あのヴァルディス家にデカい貸しを作れる。……ま、そんなとこです」

 

 

 半分は本音。

 半分は嘘。

 あの瞬間、そんな計算など吹き飛んでいたことなど、口が裂けても言わない。

 

 モーブルはスプーンでスープをすくい、ふーふーと息を吹きかけて冷ました。

 そのままライオットの口元へ運ぶ――寸前。

 

 ライオットが、消えるように呟く。

 

 

「……私、死ねばよかったのに」

 

 

 その一言で、シェルターの中の空気が凍りついた。

 モーブルの手が止まり、スプーンが宙でピタリと固まる。

 

 

「……は?」

 

 

 地の底から響くような、低い声。

 だが、ライオットは視線を落としたまま、自分を傷つける刃物のような言葉を吐き続ける。

 

 

「……みんな、私が嫌いだったんだ……。笑顔で近づいてきたのに、本当はずっと殺したかったんだ……。私が、馬鹿だから……何も知らない、ただの目障りなお荷物だったから……ッ」

 

「……」

 

「私なんて、いなくてもいい……誰も困らないもの……。父上だって……叔父上だって……他のみんなも……きっと、『ようやく壊れてくれたか』って……清々するに決まってる……!」

 

 

 壊れた人形が、自分は廃棄されるべきだと嘆いている。

 そのあまりに空虚な響きに、モーブルの奥歯がギリリと鳴った。

 

 

「黙れ」

 

 

 床に落ちた鉄塊みたいに、重く、鈍い音が響く。

 怒鳴ってはいない。

 激情を理性の皮一枚で無理やり抑え込んだ、暴発寸前の声音。

 

 

「若様。今、わしの目の前で――“死ねばよかった”って言いましたね?」

 

 

 ライオットがビクリと華奢な肩を震わせる。

 その怯えきった瞳。世界中から拒絶されたと思い込んでいる、小さく惨めな背中。

 

 ――それを見た瞬間、モーブルの脳裏で、何かが弾け飛んだ。

 忌まわしい記憶の蓋が、内側からの圧力で吹き飛ばされる。

 

 

『お前ごとき無能に、魔法など扱えるわけがない』

『生きている価値などない。死ね、ゴミ虫』

 

 

 かつて、魔法の才を持たぬがゆえに浴びせられた魔法不適合者(ドロップ・アウト)への罵倒。嘲笑。

 泥水をすすらされ、全裸で木に吊るされ、今のライオットの父親であるゼノン・ヴァルディスに見下ろされた、地獄のような少年時代。

 

 誰も助けてくれなかった。

 誰一人、必要としてくれなかった。

 毎晩、枕を涙と鼻水で濡らして「朝なんて来なければいい」「このまま消えてしまいたい」と願った、あの頃の惨めな自分自身。

 

 目の前の少年は、あの日死に損なった「自分」そのものだった。

 

 腹の底で燻っていた苛立ちが、紅蓮の怒りとなって噴き上がる。

 それは少年への怒りであり、かつて自分を見捨てた世界への怒りであり――そして何より、そんな言葉を吐かせてしまった自分への、どうしようもない無力感だった。

 

 

「ふざけるなよ……ッ!!」

 

 

 カァンッ!!

 

 モーブルはスプーンを乱暴に器へ叩きつけた。神経質な乾いた音が、狭い空間に反響する。

 彼は立ち上がり、言葉を噛み砕くように吐き捨てた。

 

 

「わしが! どれだけ必死に――あんたを拾いに飛び込んだと思ってんだ!!」

 

 

 一歩踏み出し、ライオットの肩を掴む。

 加減など忘れた指が、少年の細い肉に食い込む。

 

 

「腕が千切れそうになって! 骨がミシミシ軋んで! 脂汗と血を垂れ流して……ッ! それでも、あんたの手だけは離さなかったんだぞ!!」

 

 

 先ほど抉られた肩の傷が、包帯の下で熱く疼く。

 だが、そんな痛みなどどうでもいい。

 目の前のこの命が、自らを「無価値」だと断じることの方が、よほど痛くて我慢ならない。

 

 

「わしの命懸けの投資(ダイブ)を……テメェの安っぽい感傷でゴミ扱いするんじゃねえッ!!」

 

 

 それは叱責であり、説教であり――そして、あまりに乱暴な懇願だった。

 

 かつての自分には、誰も言ってくれなかった言葉。

 “死ぬな”、“生きろ”、“お前には価値がある”と。

 誰にも言ってもらえなかった言葉を、血を吐くような怒号に乗せて、目の前の「自分」に叩きつける。

 

 

「……文句があるならあとでわしが聞く。まずは食え。死ぬ話は、腹が満ちてからにしろ」

 

 

 モーブルは器を持ち直し、湯気の立つスープをライオットの鼻先へぐいと突き出した。

 怒りはもうない。

 あるのは、ただ不器用なほどの真剣さだけだ。

 

 

「今は、この温かさを胃袋に入れろ」

 

 

 ライオットは揺れる瞳でスプーンを見つめ、唇を震わせた。

 彼は視線を伏せたまま、小さく、迷子の子供のように頷いた。

 

 

「……ごめん」

 

「謝らなくていい。ほら、口を開けろ」

 

 

 モーブルはスープをすくい、さっきまでの粗暴さが嘘のように丁寧に、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。

 それを、おっかなびっくりといった様子の口元へ運んでやる。

 

 

「……怖がらせて悪かったですね。でもな、大人が子供の飯を心配するのは当たり前なんです。……遠慮なんていらんから、今は甘えなさい」

 

「……うん」

 

 

 高慢な貴族の仮面はどこへやら。

 素直に頷くその姿は、ただのか弱く寂しがり屋な少年にしか見えない。

 そのあどけなさに、モーブルの方が急にむず痒くなった。

 照れ隠しみたいに、いつもの商人の調子を被せる。

 

 

「ったく……。わしはね、あの魔法を見た時思ったんです。自分の身を焼いてまで、仲間を守る優しい魔法……あんな綺麗なモンを使うお人を死なせちゃ、商売人の名折れだってね」

 

 

 スプーンをさらに近づける。

 

 

「未来の優良顧客には、まずは栄養をつけてもらわなきゃならんのです。……ほら、あーん」

 

 

 子供扱いされたことに戸惑ったのか、ライオットは一瞬だけ躊躇して目を瞬かせた。

 だが、鼻孔をくすぐる芳醇な湯気の匂いと、叱責の余韻に残る確かな熱に背中を押されるように、小さく桜色の唇を開く。

 

 とろとろに煮込まれたパンと、特級岩塩が引き立てる濃厚なスープ。

 口に含んだ瞬間、舌の上で爆発的な旨味が広がり、冷え切った内臓に熱い塊がじわりと染み渡っていく。

 

 

「……ッ」

 

 

 ライオットの瞳が揺れた。

 冷たい広い屋敷で、使用人に見下ろされながら一人きりで食べる豪華な料理より、ずっと、ずっと美味しい。

 理由は分からない。

 ただ、泣きたくなるほど温かい。

 

 

「はっはっはっ! どうです、うまいでしょう? わしの特製パナードは! 食いしん坊のわしが、己の舌だけを信じて研究に研究を重ねた逸品です。味だけなら帝都の三ツ星レストランにも負けませんよ!」

 

 

 得意げに笑うモーブルの顔は、いつもの下卑た商人のそれではなく、どこか誇らしげな職人(マイスター)の顔をしていた。

 

 

「……おいしい」

 

 

 ぽつりと、ライオットが零した。

 感情の抜け落ちていた乾いた声に、わずかに体温ごとき熱が宿る。

 

 

「そりゃあよかった! ……いいですか、若様。飯がうまいと思えたら、それはまだ身体が『死にたくない』って泣いてる証拠です。自分の身体の声くらい、ちゃんと聞いてやってください」

 

 

 運ばれるスプーン。

 ライオットは親鳥を待つ雛のように、それを無心で受け入れた。

 一口飲み込むたびに、空っぽだった器に“生”が注がれていく。

 凍えていた内臓が動き出し、止まっていた時間が再び刻まれ始める。

 

 

「ふふっ、おかわりはあるから、安心してお食べなさい」

 

 

 スープを飲み干す頃には、蒼白だった頬に薔薇色が差し、瞳はとろんと潤んで微睡み始めていた。

 極限の緊張からの解放。満腹感と温かさが、泥のような眠気を連れてくる。

 

 

「……眠いですか?」

 

「……うん」

 

「なら寝なさい。見張りはわしがやります。警報石もあるし、ここは安全です」

 

 

 モーブルが寝袋を掛け直してくれる。

 乱暴そうな手つきのくせに、布団の端を整える仕草はやけに手際がいい。

 

 ふと、その手がライオットの髪を撫でた。

 

 大きな手。

 ペンだこと古傷でごつごつとした、武骨な指。

 普段なら――家族ですらない人間に触れられれば、嫌悪感で身がすくんだはずだ。

 けれど今は、そのザラついた感触が、不思議と強張った心をほどいていく。

 

 

「……モーブル」

 

「おりょ? わしの名前、ちゃんと覚えていらっしゃったんですね。こいつは光栄だ」

 

「……ありがとう」

 

 

 消え入るような、けれど確かな響きを持った声。

 それは、十一年の人生で初めてライオットが“誰かに渡した”、心からの感謝だったのかもしれない。

 

 モーブルが一瞬だけ目を見開き――すぐに照れ隠しのように口元をニヤリと歪めた。

 

 

「礼は金貨で頂きますよ。……おやすみ、若様」

 

 

 ライオットは静かに瞼を閉じる。

 意識が微睡みの海へと沈んでいく直前、ふと、ある想いが脳裏をよぎった。

 

 なんて、皮肉な話だろう。

 太陽の照らす華やかな地上(うえ)よりも、この凍てつく奈落の底の方が、どうしようもなく温かいなんて。

 

 規則正しい寝息が聞こえ始めたのを確かめ、モーブルは鍋底に残った冷めたスープを自分の椀へとかき集めた。

 

 ズズッ、と粗野に啜る。

 

 

「さて、第三層か……」

 

 

 独り言が、狭い空間に低く落ちる。

 

 

「ここじゃB級危険種の化け物が野良犬みてぇにうろついてる。それに……あのゴロツキ連中だ。死体を見るまで安心しねぇだろうよ」

 

 

 バルドたちの性格は、短い付き合いだが把握している。

 粗暴に見えて、悪事に関しては慎重で執念深い。 

 必ず“確認”に来る。

 死に様を見届けるために。

 

 

「ここからが正念場(しょうねんば)だぞ。……ライオット」

 

 

 初めて、その名を呼び捨てにした。

 それは最早、雇い主とポーターの関係ではない。

 運命共同体としての、重い響きを含んでいた。

 

 シェルターの外では、魔獣の飢えた遠吠えが風に乗って響いている。

 薄い布一枚隔てた先は、弱肉強食の地獄。

 だが、この狭く、薄暗い空間だけは――世界から切り離された、二人だけの楽園(エデン)だった。

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