※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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第三十六話 ニーシャとカイルの「犬猿コンビ、再始動?」①

 カヴェナの街に昼餉(ひるげ)の鐘が鳴り響いてから、およそ半刻。

 通りを我が物顔で闊歩していた冒険者たちの喧騒は、食事時を迎えて嘘のように引いていた。

 

 街全体が微睡《まどろ》むような空白の時間。

 『モーブル商会』の入り口には、いま、『一時閉店』の木札がかけられている。

 

 店内に満ちるのは、気怠い静寂と、午後の陽光だけ。

 窓から差し込む光の帯の中で、宙を舞う塵がキラキラと踊り、棚に並ぶ無数のポーション瓶が、琥珀色や翡翠色の淡い光を透かして瞬いている。

 

 その静寂を独占するのは、二つの影。

 店の中央、わざわざこの商談のために設えられた応接スペースだ。

 

 上質なローテーブルには、街一番の高級菓子店から取り寄せた宝石のようなケーキが、銀の皿の上で静かに輝いていた。

 

 その前に置かれた深紅のシングルソファ―。

 そこに、大きな魔法使いの帽子(ウィッチハット)を目深に被った少年が、深々と身を沈めている。

 

 ニーシャ・オブライエン。

 

 波打つ長い金髪に、首元を飾る青いリボン。

 ダボッとした上着とは対照的に、下半身は少年らしいタイトなショートパンツを穿きこなし、陶器のように白く滑らかな脚を無造作に組んでいる。

 

 その姿は、愛らしくも妖艶。

 ポーションや武具がひしめく店内にあって異質なほどに高貴で、完成された「美」そのものだった。

 

 

「お、お待たせいたしました……」

 

 

 店の奥から、従業員である魔族の少年ラースが、緊張で強張った顔で現れた。

 手元の盆には、湯気を立てるティーカップ。

 少し震える手つきで、それでも懸命に丁寧な所作でカップをテーブルに置き、香り高い琥珀色の液体をニーシャの前へと滑らせる。

 

 

「ほ、本日は、ダージリンのファーストフラッシュでございましゅ……。に、ニーシャ様のお口に合えば、しゃ、幸いでしゅ……」

 

 

 盛大に噛んだ。

 

 

「……ふん」

 

 

 だが、ニーシャは短く鼻を鳴らしただけで、視線すら向けない。

 その冷ややかさに、ラースはビクッと肩を跳ねさせ、ぺこぺこと小刻みに会釈すると、脱兎のごとく店の奥へと逃げ帰っていった。

 

 対面に腰掛けた店主ジンジ・モーブルは、そんなやり取りも意に介さず、目の前の「上得意」に向けて、商売人特有のねっとり油ぎった笑みを貼り付けている。

 

 

「ニーシャ坊っちゃん! 本日はご多忙の折、このようなむさ苦しい店に足を運んでいただき、恐悦至極にございます! いやーそれにしても、本日の坊っちゃんのご尊顔も、太陽が恥じ入って雲隠れするほどの美しさでございますなぁ! その頭脳は魔導国の至宝、血筋はオブライエンの誉れ――完全無欠の天才魔法使いとは、神が坊っちゃんのために刻んだ称号でございましょうな!」

 

 

 歯の浮くような、いや、歯茎ごと溶けそうなおべっか。

 

 だが、金糸の髪を指先で弄ぶニーシャは、ケーキや紅茶には一切手を付けず、碧(あお)い瞳を半眼にして受け流した。

 

 

「長い。褒めるなら要点を三つに絞れ。退屈で死にそうだ」

 

「へぇへぇ! では簡潔に! 美しい! 天才! 金になる!」

 

「最後が本音だろ」

 

「商人ですからな!」

 

 

 モーブルは胸を張って開き直り、すぐにまた揉み手をして姿勢を低くする。

 

 

「して、坊ちゃん。今日は折り入ってご相談がございまして。……実は、あなたが開発されました『魔法のポーション四点セット』の件ですがね……」

 

 

 モーブルの声色が、じっとりと粘り気を帯びる。

 

 

「これがもう、冒険者ギルドの荒くれどもの間で大評判でして! 入荷するたびに飛ぶように売れております。つきましては……この卑しい商人の店に、もうほんの少し……そう、雀の涙ほどで結構ですので、卸す量を増やしてはいただけませんでしょうかねぇ?」

 

 

 ソファから、ずずい、と身を乗り出す。

 必死の懇願。

 だが、ニーシャは手元の契約書をパラリと指で弾き、陽光を溶かしたような金髪をさらりと揺らすだけだった。

 

 

「ふん。お前の胃袋は、金貨の匂いがすれば岩でも噛み砕きそうな底なしだな。だが言ったはずだ。この店への供給は、今の量が限界値だと。……ボクのポーションが、この街でどれだけ奪い合いになっているか、身に染みて知っているだろう?」

 

「へぇへぇ、痛いほど存じております! 坊っちゃんの商品は魔導国の奇跡! わしも僭越ながら、オブライエン家のご子息様がいかに天才的で優秀、そして見目麗しい美少年なのか、それを街中で宣伝して回る日々でして――」

 

「その安い舌での宣伝は結構。ボクの名声に、お前の売り込みなど不要だ」

 

 

 ニーシャは興味なさげに言葉を遮り、冷徹な事実を突きつけた。

 

 

「それより本題だ。現状、契約の打診が山のように積まれている……特に『ローズ商会』の会長は情熱的でね。お前の提示額の一・五倍を積んで、『全財産を投げ打ってでもニーシャ様を支えたい』なんて口説いてきた。……ボクも人間だからさ、そういう熱烈な愛には応えてあげたくなるじゃない? というわけで――来月の割当は『愛の重さ(きんがく)』で決めようと思うんだ」

 

「くっ……! あの強欲女狐め、また汚い手で横槍を……!」

 

 

 一瞬だけ、モーブルの表情にドス黒い憎悪が滲んだ。

 だが、コンマ一秒で仮面を被り直す。

 笑顔、笑顔、笑顔――それこそが、商人が身につける最強の鎧だ。

 

 

「ふふ……ニーシャ坊っちゃんも、ずいぶんと交渉が板についてきましたなぁ。他社の条件をチラつかせて揺さぶり、わしの心臓を雑巾みたいにぎゅっと握る。いやぁ、見事。とても十二歳とは思えん、悪魔的な手腕です」

 

 

 モーブルは目を細め、わざとらしく遠い日を見るような顔をつくった。

 

 

「初めてお会いしたのは、はや三年も前になりますか。あの頃の坊っちゃんはまだ九歳。ぶかぶかの魔法大学の制服に身を包み、学業に、研究に、冒険にと……それはもう、見ているこちらが辛くなるほど、痛々しいまでにガムシャラでございました」

 

 

 モーブルは芝居がかった手つきで、目尻に滲んでもいない涙を拭うふりをする。

 

 

「それが今や、十二歳にして史上最年少の大学教授。冒険者ランクはゴールド級ときた。魔導国の至宝とまで呼ばれるようになられて……。いやはや、長いようで短い三年間でしたなぁ。坊っちゃんの成長と栄光の軌跡を、特等席で見守れたこと。一介の商人として、これ以上の光栄はございません」

 

「……ふん。相変わらず、安い芝居だ」

 

 

 ニーシャの声は、氷点下のように冷ややかだ。

 

 

「確かに付き合いは古いが……そのカビ臭い“思い出”で、現在の取引額が変わるとでも? ボクに必要なのは感傷じゃない。研究資金だ」

 

(チッ……わしと積み上げた三年間の絆より、目先の金かよ。可愛げのないクソガキめ)

 

 

 モーブルは腹の中で盛大に毒づきつつ、顔面の筋肉を総動員して媚びへつらった。

 

 

「へぇへぇ、仰る通りで! ならば”愛の重さ(金貨の袋)”で殴り合いましょう! 仕入れ値のほうも――ええ、少しばかり……いえいえ、大いに『勉強』させていただきますとも! ライバル店に対抗して、今の一・五一倍……いやいや、まだまだ! さあ、もってけドロボー! 出血大サービスの、一・五二倍をお支払いします! ですからどうか、ポーションの卸しを……何卒ォッ!」

 

「……はぁ。めんどくさいな」

 

 

 ニーシャは大きなため息をつき、つまらなそうに頬杖をついた。

 その視線は、モーブルを通り越して虚空を見つめている。

 

 

「お前だけじゃなくて、どいつもこいつも、みんなめんどくさい。……いっそポーションの研究とか製造なんか辞めて、冒険者稼業だけに専念しようかな」

 

「は……? や、辞めるですとぉおおッ……!?」

 

 

 モーブルの笑顔が、ひくりと痙攣して剥がれ落ちた。

 次いで、脂ぎった顔色が土気色へと変わる。

 

 

「ぼ、坊ちゃん、それはどういうことですか――!? そんなことをしたらこの街の冒険者が干上がります! いや、冒険者だけじゃない! わしも干上がります! カヴェナの生命線(ライフライン)と、わしの生活線(マネーライン)が同時に断裂しますぞォォッ!」

 

「ボクの心配じゃなくて自分の心配だね」

 

「商人ですからなッ!!」

 

 

 唾を飛ばさんばかりに絶叫し、自身の胸をドンと叩く。

 だが直後、モーブルはふと、囁くように声を落とした。

 

 

「……ですが坊ちゃん。今日のその冗談……ちっとも目が笑ってませんな」

 

 

 いつものように冷笑的で、わざとらしい独り言。

 だが、その仕草にはいつもの余裕がない。

 透き通った碧眼の奥に、薄く、刺々しい硝子の破片のようなものが沈んでいる。

 

 モーブルの商売人としての嗅覚が、危険信号(アラート)を鳴らした。

 この坊ちゃん、今日はいつものように“交渉を楽しんでいない”。

 

 

「……差し支えなければ、何かあったか教えていただけませんか? 愚痴の一つくらいなら、タダでお聞きしますよ?」

 

 

 ニーシャは一瞬黙り、ふいと顔を逸らした。

 

 

「……単身(ソロ)で行った」

 

「はい?」

 

「未踏のダンジョンだ。――『深淵の魔法遺跡カタコンベ』」

 

 

 モーブルの顔に貼り付けた営業スマイルが、ぴきりと音を立てて固まる。

 

 

「まさか、あそこに……お一人で?」

 

「第九層まで進んだ。でも、結界の迷路と謎解きが鬱陶しい。……それに、そこで出た門番(ゲートキーパー)が厄介でさ。……だから、撤退した」

 

 

 少し間を置いて、付け足すように。

 

 

「……あくまで、『戦術的撤退』を選んだだけだ」

 

 

 言い訳めいた強がり。

 敗北という重い事実を「撤退」という言葉でコーティングし、かろうじてズタズタのプライドを繋ぎ止めている。

 

 

「……無謀だ」

 

 

 モーブルは、思わず張り付けていた“営業スマイル”を引っ込めた。

 代わりに出たのは、手塩にかけて育てた「金のなる木」の焼失を危惧する投資家の顔であり、長年の付き合いで我が子のように身を案じる保護者の顔であり――

 

 そして何より。

 このイングラジアにおいて一、二を争うであろう国宝級の美貌を持つ少年に、歪んだ愛を注ぐ“変態紳士”としての顔だった。

 

 

「坊ちゃん……以前も口を酸っぱくして申し上げましたが、ご自身の“持ち札”を正しく把握なさらんと。未踏は暗闇です。罠も結界も、魔物の相性も、全部ブラックボックス。それを単身で潜るのは、投資用語で言えば『ハイリスク・ノーリターン』の極み――いくら天才でも、“事故死”しない特権はありませんぞ」

 

「……分かってる。分かってるから、戻ってきたんだ。……説教されたくて話したんじゃない」

 

 

 ニーシャの指先が、カウンターの天板に白くなるほど食い込む。

 

 

「次は勝つ。……絶対にだ。彼女の隣に……エリザの“婚約者”の席に座るのは、ボクじゃなきゃいけないんだ」

 

 

 ギリ、と奥歯を噛む音が聞こえそうなほどの、剥き出しの闘志。

 だが、それは同時に「今こうしている間にも、他の有象無象に彼女を奪われるかもしれない」という、強迫観念にも似た焦燥の裏返しでもあった。

 

 彼にとって未踏の攻略は、恋い慕う女帝エリザへの愛を証明する唯一の手段であり、自分自身の存在価値そのものなのだ。

 

 

「勝つのは結構。大いに結構です。恋に燃える男は美しい。ですが――勝ち方を選びなさい」

 

 

 モーブルは諭すように、しかし冷徹な計算を含んだ声で告げる。

 

 

「準備、情報、物資、レベル上げ……それに、必要なら“手駒(なかま)”も使いこなしてこそでしょう? エリザ様の伴侶ともなれば、ただの英雄ではなく、人を統べる“真の支配者”でなくてはなりません」

 

「仲間……ねぇ。今や、この国において五本の指に入る魔法使いのボクに、それが必要かな?」

 

「今の坊っちゃんでは、未踏の攻略は不可能です。絶対に、仲間が必要です」

 

 

 モーブルは即答し、穏やかに――しかし逃げ場を塞ぐように、力強く告げた。

 

 

「よろしければ――坊ちゃんが『確実に勝てる盤面』、このモーブルが責任を持って、すべて揃えて差し上げますよ」

 

 

 その言葉は、単なる気休めではない。

 カヴェナの冒険者ギルドマスターと太いパイプを持つ、この男が言うのだ。

 その気になれば、ゴールド級冒険者の即席パーティだろうと、国宝級の魔道具だろうと、金と交渉術という名の暴力で強引にかき集めてくるだろう。

 

 ニーシャは碧い瞳をすがめ、目の前の中年男をじっと見つめた。

 脂ぎった顔に、胡散臭い笑顔。

 どこをどう切り取っても金貨の匂いしかしない俗物だ。

 だが――不思議と、その言葉には「お前を見捨てない」という奇妙な重みがあった。

 

 張り詰めていた肩の力が、ふっと抜ける。

 

 

「へー」

 

 

 ニーシャが口角だけを上げる。

 

 

「モーブルってさ、たまに保護者ぶるよね。……薄汚い平民の守銭奴のくせに。貴族のボクに、どの口で言ってるの?」

 

「保護者ではありません。わしは坊っちゃんの野望の“共犯者(パートナー)”ですから」

 

 

 モーブルは即答した。

 

 

「坊っちゃんが欠けたら、わしの野望も潰える――それだけの話ですな。……それに」

 

 

 モーブルは少し声を落とし、諭すように続けた。

 

 

「坊っちゃんの不満や我が儘(ワガママ)、鬱憤(うっぷん)……その全部を受け止めるのも仕事です。成果を焦って未踏に突っ込んで、命まで削るくらいなら――その苛立ちは、わしにぶつけて気を晴らしなさい。値切りでも、罵倒でも、無理難題でも。存分に引き受けますとも」

 

「……へぇ。ずいぶんと殊勝な心がけだね」

 

「まさか。当然、その分の“お代”は高くつきますぞ」

 

 

 モーブルはにやりと、肉食獣のように口角を吊り上げた。

 

 

「坊っちゃんが未踏を攻略し、国で名を上げ、いずれエリザ様の伴侶――すなわち『国婿(こくせい)』となった暁(あかつき)には……わしの後ろ盾として、投資分を骨の髄まできっちり回収させていただきます」

 

「ボクの純愛まで商材にするのか。……最低だな、お前」

 

「最高ですとも。商人としてはね」

 

 

 そのやり取りがツボに入ったのか、ニーシャの喉の奥から、くすり、と忍び笑いが漏れた。

 張り詰めていた碧い瞳が緩み、棘だらけだった空気が霧散していく。

 

 

 ――やれやれ、やっと坊っちゃんの機嫌も直ったか。

 

 

 モーブルが胸を撫で下ろし、商談の成立を確信した――その、次の瞬間だ。

 

 ニーシャが、にっこりと笑った。

 深窓の令嬢のように優雅で、無垢な天使のように愛らしく――そして、慈悲のない悪魔のように性格の悪い、完璧な笑みだ。

 

 

「そっか。八つ当たりも業務内か……わかった。じゃあさ、モーブル」

 

 

 歌うような、弾むような声で。

 少年はとびきりの「死刑宣告」を口にした。

 

 

「お言葉に甘えて――お前の店へのポーション卸し、来月から『半分』に減らそうかな♪」

 

「……は?」

 

 

 思考回路がショートするモーブルを置き去りに、ニーシャは楽しげに言葉を重ねる。

 

 

「なに、びっくりしてんの? 冗談だよ、冗談。……たぶんね」

 

「たぶん、って何ですかな!? そこ一番大事なとこ!! 笑えない冗談はやめていただきたい!」

 

「ふーん……これが『笑えない冗談』に聞こえるんだ?」

 

 

 ニーシャの唇から、笑みの形が抜け落ちた。

 すっ、と。

 碧眼が細められ、楽しげな空気が凍りつく。

 

 

「なら――さっきのお前の言葉も、タチの悪い『冗談』ってことでいいのかな?」

 

「え……?」

 

「……へえ。散々な言い草だね。ボクの偉大なる挑戦を『無謀』と断じて、挙句に説教とは」

 

 

 室内の温度が、急速に下がっていく錯覚。

 ニーシャの碧眼が、宝石のような硬質な冷たさでモーブルを射抜く。

 

 

「まさか――それがボクに対する、最大の侮辱だって分かってて言ってるんだよね?」

 

「ひっ……!」

 

 

 ガチャンッ!

 派手な音を立ててテーブルの上のカップが揺れるのと、モーブルが床に額を叩きつけたのは同時だった。

 

 しまった、調子に乗って虎の尾を踏んだ。

 いや、踏んだのは虎の尾ではない――起爆装置だ。

 相手は上級貴族オブライエン伯爵家の跡継ぎにして、何より代えがたい極上の取引先。

 

 この坊ちゃん相手に守るべきは、安っぽい商人の矜持でも、年長者としての威厳でもない。

 そう――供給ラインだ。

 

 

「ぼ、坊ちゃん、いささか言葉が過ぎました!」

 

 

 モーブルは額を床に擦りつけたまま、脂汗を飛ばしながら早口で捲し立てる。

 ここでポーションの供給を止められれば、うちの売上は死ぬ。

 なんとしても、ご機嫌を取り戻してもらわねば。

 

 

「お詫びにローズ商会にも他の競合にも負けぬ条件をご提示します――いえ、それだけではありません! 今後の研究素材の提供、ならびに実験体としての協力も惜しみません! 坊っちゃんのためなら、このモーブル、火の中水の中、空だって……!」

 

「空は無理でしょ」

 

「気合で飛びます!」

 

「ほんとに?」

 

 

 ニーシャは楽しげに首を傾げた。

 碧眼が笑っている。

 悪い意味で。

 

 

「じゃあさ、その気合のついでに――『犬』でもやる?」

 

「……え?」

 

 

 笑みが、さらに深くなる。

 

 

「犬ってさ、躾(しつ)けが要るだろ。でも、どう“躾ける”のが正しいのか、ボクには経験がないんだ。参考までに――犬になってみてくれない?」

 

「……へ? 犬……? も、申し訳ありませんが、おっしゃっている意味が、わしの理解の範疇を超えておりまして……」

 

「わからないのかい?」

 

 

 にこり。

 上品で、残酷な弧。

 

 

「躾けてやるから犬になれって言ってるの。――ほら。お手」

 

「ぐぬぬ……っ! わしはカヴェナで一、二を争う商会の主人だぞ! 人間のわしを、犬畜生のように……こ、こんな侮辱が……ッ!」

 

 

 モーブルのこめかみに青筋が浮き、拳がわなわなと震えた。

 だが、次の一言が喉元を掴む。

 

 

「嫌ならいいよ。この店のポーションは全部引き上げて、ローズ商会に――」

 

「わんッ!!」

 

 

 落ちた。

 光の速さで落ちた。

 モーブルは膝をつき、誇りも羞恥も帳簿の下に叩き込む。

 

 

「わんわん! わしは坊っちゃんの犬でございます! 尻尾も振ります! お手も、おかわりも! 靴の先まで舐め――いえ、磨きます! 磨かせていただきますとも!」

 

 

 そして、涙目のまま叫ぶ。

 

 

「だからお願いです、ニーシャ坊っちゃん! 割り当てを……! 雀の涙ほどでいいです! このモーブルに商売をさせてください、わんッ!」

 

「そうか。じゃあ、お手」

 

「わん!」

 

「ちんちん」

 

「わーん!」

 

 

 完璧な服従姿勢(ポーズ)。

 店の隅で魔族の少年ラースは、息を殺してその光景を見守っていた。

 

 片や己の生殺与奪を握る主人。

 片や、その主人すら赤子扱いする雲上の天才貴族。

 ラースには、それが神々の交渉に見えて――ただただ恐ろしく、「大人の世界は怖い」と震えるしかなかった。

 

 その鋼線のように張り詰めた空気を、文字通り粉砕する破壊音が店に響いた。

 

 

 バァンッ――!

 

 

 まるで攻城槌の一撃。

 古びた店の扉が悲鳴を上げ、蝶番がちぎれんばかりに開け放たれる。

 

 そこに立っていたのは、“飢え”という名の嵐そのものだった。

 髪は鳥の巣、服は泥と埃にまみれ、その瞳には理性の光すら失った、切実な飢餓の色が宿っている。

 

 

「旦那ぁ! 頼む、最後の慈悲だ! もう三日、水しか口にしてねえんだ! このままじゃ路地裏で干からびて、哀れなミイラになっちまう!」

 

 

 魂の慟哭と共に駆け込んできたのは、カイル・バイロード。

 その乱入に、ラースは「ひゃっ!」と小さな悲鳴を上げてお盆を取り落とした。

 

 

「……また貴様か、この甲斐性なしが! ここは慈善事業の炊き出し場じゃないと、何度言ったら分かるんだ。シッシッ! 帰れ!」

 

 

 “ちんちん”の姿勢を崩さぬまま、モーブルは汚いものを払うように吐き捨てる。

 

 

「そ、そんな殺生だろ……! せめてパンの耳一枚でも……って、旦那なにやってんだ?」

 

 

 その時だった。

 今まで我関せずと犬のしつけを楽しんでいたニーシャが、ゆっくりと顔を上げた。

 

 その瞬間、カイルの目に、カウンターに座る小さな金髪の人影が映る。

 見覚えのある――そして、二度と見たくなかった、その横顔。

 

 二人の視線が、至近距離で交錯した。

 時が、止まった。

 

 沈黙を破ったのは、ニーシャだった。

 その薄い唇が、芸術品のように美しい弧を描いて歪む。

 

 

「……ふん。ちょうど飼い犬の躾け中だったんだけど。躾けのなってない野良犬まで迷い込んできたか」

 

「……っ! ……ニーシャ……」

 

 

 カイルの顔から、物乞いの卑屈さが消えた。

 代わりに宿ったのは、驚愕と、瞬く間に燃え上がった屈辱の炎。

 

 

「なんでお前が……こんなところにいやがる!」

 

「ボクがどこにいようと、お前には関係のないことだ。それより……相変わらずだな、カイル。モーブルに餌を乞うそのみすぼらしい姿、まさかとは思うが――まだブロンズ級から抜け出せていないのかい?」

 

「んだと、てめえ……! なんでお前みたいなゴールドランク様が、こんな薄汚ねえ庶民の店に用があるんだよ! 場違いなんだよ! 帝都の高級店にでも行って、ふんぞり返ってろ!」

 

「ここはボクの重要な取引相手の店だ。お前こそ、物乞いなら教会にでも行け。神聖な商談の邪魔だ、失せろ」

 

「商談だぁ? 犬の真似したおっさんと遊んでるのがかよ!?」

 

「いい機会だ。口の減らない野良犬も、まとめて躾けてやろうか?」

 

 

 売り言葉に買い言葉。

 二人の間に漂う空気は、もはやただの口喧嘩の域を超えていた。

 魔力と闘気が目に見えない火花を散らし、棚に並べられたポーション瓶が、カタカタと共振して悲鳴を上げ始める。

 

 

「ひっ、ひぃ……! だ、旦那様……!」

 

 

 ラースが怯えたように、四つん這いのモーブルの背中にしがみつく。

 だが、当のモーブルは「やれやれ」と犬のポーズのまま天を仰ぐだけだ。

 

 次の瞬間。

 ボッ、と空気が爆ぜた。

 

 ニーシャの右手のひらに、拳大の炎球がふわりと浮かぶ。

 それは観賞用の小さな灯火ではない。

 触れれば骨まで炭化させるであろう、高密度に圧縮された破壊の意思。

 

 

「お? ここでやるってのか。面白いじゃねーか、上等だオラ! その澄ました顔、恐怖で歪ませてやるよクソガキが!」

 

 

 カイルが、腰に差した愛剣『晩飯(ディナー)』の柄に手をかける。

 対するニーシャは、憐れむように碧眼を細めた。

 

 

「……万年ブロンズの雑魚が、よく吠える。いいだろう。そのなまくら剣で、ボクの障壁(バリア)に傷一つ付けられるか――その身を持って試してやる」

 

 

 まさに、爆炎と剣閃が店内で激突しようとした、その刹那。

 先ほどまで犬の真似をしていた男が、ゆらり、と立ち上がった。

 

 

「――そこまでだ、小僧ども。神聖なるわしの店で暴れるのは、たとえ貴族様であろうと許さん。喧嘩なら外でやれ。この店のガラスが一枚でも割れてみろ……カイル、その修理代はきっちり貴様のツケに上乗せしてやるからな」

 

 

 氷のように冷たく、しかし腹の底まで響く重低音。

 そこに、商売用の愛想笑いは欠片もない。

 あるのは、己の城と財産を荒らす者を決して許さない、絶対的な支配者の威圧感だけ。

 

 ギロリ、とカイルを睨みつけ、次いでニーシャへと視線を向ける。

 

 

「……ニーシャ坊ちゃん。あなたの場合は、実家のオブライエン伯爵家に『ご子息の乱暴狼藉について』、被害請求書と共に正式に抗議させていただくが、よろしいですかな?」

 

 

「……チッ」

「……けっ」

 

 

 同時に舌打ちが重なる。

 モーブルの「本気」を感じ取った二人は、示し合わせたように武器を収めた。

 ニーシャの手から炎が消え、カイルの手が剣から離れる。

 

 

「ふん……愚鈍の相手をするのは時間の無駄だ。モーブル、ポーションの件はまた後日改めて来る。……それと、カイル」

 

 

 帰り際、ニーシャは冷ややかに言い放つ。

 

 

「お前はせいぜい、その日の食事にも困る底辺生活から抜け出せるよう、努力することだな。じゃあな――元・相棒」

 

 

 最後の皮肉を吐き捨て、ニーシャは優雅に踵を返した。

 その小さな背中は、最後まで一度もカイルの方を振り返ることはなかった。

 

 

「……覚えてやがれ、クソ貴族が」

 

 

 カイルもまた、憎々しげに呟くと、腹の虫が鳴るのも忘れ、再び嵐のように店から飛び出していった。

 

 後に残されたのは、気まずい沈黙と、怯えるラース。

 そして、深いため息をつきながら、扉に掲げていた『一時閉店』の札を裏返すモーブルだけだった。

 

 

「……まったく。いつまで経っても“お子ちゃま”だな、あやつらは」

 

 

 嵐が去ったあとの静けさが、店内に満ちる。

 ラースは散らばったその場の空気を拾い集めるように、おずおずと口を開いた。

 

 

「あ、あの……旦那様。カイルくんと、ニーシャ様は……どうしてあんなに仲が悪いのでしょうか……」

 

「なんだ。気になるのか?」

 

 

 モーブルは鼻を鳴らし、カウンターの椅子にどかりと腰を下ろした。

 そして、古びた革表紙の帳簿を引き寄せる。

 

 

「……はぁ。まあ、いいだろう。どうせ今後も、坊ちゃんとカイルが鉢合わせするたびにあの騒ぎだ。事情も知らずにオロオロされるよりは、あいつらの因縁を知っておいてもらった方が、こちらの胃にも優しい。……座れ、ラース。心して聞け」

 

 

 モーブルは帳簿を指でなぞりながら、まるで古びた叙事詩の一節を紐解く吟遊詩人のように、重々しく口を開いた。

 

 

「あれは一年と少し前――カイルがこの国に来て、右も左も分からん、ただ無鉄砲なだけのひよっこだった頃だ……信じられんだろうが、奴らは一度、パーティーを組んでいたことがある」

 

「えっ……!?」

 

 

 ラースが目を丸くした。

 

 

「あの二人が、ですか? み、水と油というか……天と地というか……全然、想像もつきません!」

 

「そりゃそうだ。片や『未踏』を目指すゴールド級の天才様、片やその日の飯にも困るブロンズ級の野良犬だぞ? ギルドでも随分と笑い話の種になったもんさ。――噛み合うはずがないってな」

 

 

 モーブルは、皮肉っぽく口の端を歪める。

 

 

「パーティー名は……たしか、『魔杖と晩餐(まじょうとばんさん)』だったか」

 

「魔杖と、晩餐……」

 

 

 ラースは、そのどこかちぐはぐで、奇妙なパーティー名を反芻する。

 

 

「うむ。金に釣られたカイルと、『荷物持ちなら誰でもいい』と使い捨てを考えていたニーシャ坊ちゃん。利害の一致ってやつだ。最初は案外うまく回ってたようだが……」

 

 

 モーブルは、やれやれと肩をすくめた。

 

 

「長くは続かんかったな。ま、冒険者パーティの解散でよく聞く『方向性の違い』ってやつだ。その結果――『魔杖と晩餐』は空中分解。以来、顔を合わせるとああなる」

 

「二人に、そんな過去が……」

 

 

 モーブルは古びた革表紙の帳簿を指でなぞり、ふう、と息を吐いた。

 

 

「それ以来、ニーシャ坊ちゃんは誰とも組まなくなった。懲りたのか、面倒になったのか……まあ、両方だろうよ。カイルの方は……見た通りだ。腹の虫が鳴いていても、憎い坊っちゃんを見れば、それだけで腹が膨れるらしい」

 

 

 ラースは黙って聞いていたが、やがて小さく、痛ましげに眉を寄せた。

 

 

「……悲しい、です。一度は背中を預け合った仲間なのに……」

 

 

 あまりに真っ直ぐで、混じりけのない言葉。

 それに当てられたように、モーブルは目を細め、口の端を悪戯っぽく吊り上げた。

 

 

「フン。青臭い感傷だな。あんなもんは子供の喧嘩だ。一度振り上げた拳を、どこに下ろしていいか分からなくなっただけの、くだらん意地の張り合いよ」

 

「でも……このままじゃ、その拳で、いつか本当に相手を傷つけてしまいます」

 

「やらせておけ。商売人(あきんど)は客の喧嘩に口を出さん。やつらから、いかに金を搾り取るか。わしらが考えるべきはそれだけだ」

 

「……喧嘩だとしても、やりすぎです! もし次にああなったら……きっと、どちらかが血を流します。このお店が、二人の血で汚れるところなんて……僕は、見たくありません……!」

 

 

 ラースの悲痛な叫びが、店内の静寂に沈んでいく。

 

 

「……ふーむ。やりすぎ……か」

 

 

 モーブルは、ゆっくりと顎を撫でた。

 脳裏に蘇るのは、さっきの光景――店の中だろうがお構いなしに灯った、ニーシャの殺意の塊のような爆炎。

 

 

(待てよ? あの災害級の炎が、わしの『城』で炸裂すれば……建物だけじゃ済まん。棚の商品は全部灰だ。帳簿も焼ける。信用も焼ける。損害額は……わしがオケラになって路頭に迷うレベル――そろばんが合わんッ!)

 

 

 チーン、と脳内のレジスターが甲高い音を立てて、リスクを弾き出した。

 天秤にかけるまでもない。

 『店の崩壊』という最悪の未来予想図に対し、現状維持のリターンはあまりにも少なすぎる。

 

 

「……モーブル商会『商売人の心得百箇条』、その五十五。『最悪の事態を想定しろ。大抵、現実はその少し上を行く』」

 

 

 バン、と強く帳簿を閉じる。

 

 

「あいつらを放置して、店が灰になるリスクは看過できん。――仕方ない。今回は特別に、わしが一肌脱ぐとしよう」

 

「……っ!? 本当ですか! ありがとうございます……さすがです、旦那様!」

 

 

 ラースの瞳が、まるで後光でも見たかのように輝く。

 その無垢な尊敬の眼差しに、モーブルはばつの悪そうに鼻を鳴らした。

 

 

「ふん。一銭にもならんおだてなどいらん。貴様はその分、死ぬほど働いて、わしに金を持ってこい。……もっとも、貴様の駄賃はビタ一文増えんがな!」

 

「はい! 頑張ります、旦那様! 僕、お店を潰さないように一生懸命働きます!」

 

 

 こうして、強欲商人の独断(リスクヘッジ)と、一人の少年のささやかな願い(平和維持)によって。

 天才と凡才――決して交わることのなかった二人の平行線、その止まっていた時間の歯車を、無理やりこじ回す作戦が開始されようとしていた。

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