モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
カヴェナの街に
通りを我が物顔で闊歩していた冒険者たちの喧騒は、食事時を迎えて嘘のように引いていた。
街全体が微睡《まどろ》むような空白の時間。
『モーブル商会』の入り口には、いま、『一時閉店』の木札がかけられている。
店内に満ちるのは、気怠い静寂と、午後の陽光だけ。
窓から差し込む光の帯の中で、宙を舞う塵がキラキラと踊り、棚に並ぶ無数のポーション瓶が、琥珀色や翡翠色の淡い光を透かして瞬いている。
その静寂を独占するのは、二つの影。
店の中央、わざわざこの商談のために設えられた応接スペースだ。
上質なローテーブルには、街一番の高級菓子店から取り寄せた宝石のようなケーキが、銀の皿の上で静かに輝いていた。
その前に置かれた深紅のシングルソファ―。
そこに、大きな
ニーシャ・オブライエン。
波打つ長い金髪に、首元を飾る青いリボン。
ダボッとした上着とは対照的に、下半身は少年らしいタイトなショートパンツを穿きこなし、陶器のように白く滑らかな脚を無造作に組んでいる。
その姿は、愛らしくも妖艶。
ポーションや武具がひしめく店内にあって異質なほどに高貴で、完成された「美」そのものだった。
「お、お待たせいたしました……」
店の奥から、従業員である魔族の少年ラースが、緊張で強張った顔で現れた。
手元の盆には、湯気を立てるティーカップ。
少し震える手つきで、それでも懸命に丁寧な所作でカップをテーブルに置き、香り高い琥珀色の液体をニーシャの前へと滑らせる。
「ほ、本日は、ダージリンのファーストフラッシュでございましゅ……。に、ニーシャ様のお口に合えば、しゃ、幸いでしゅ……」
盛大に噛んだ。
「……ふん」
だが、ニーシャは短く鼻を鳴らしただけで、視線すら向けない。
その冷ややかさに、ラースはビクッと肩を跳ねさせ、ぺこぺこと小刻みに会釈すると、脱兎のごとく店の奥へと逃げ帰っていった。
対面に腰掛けた店主ジンジ・モーブルは、そんなやり取りも意に介さず、目の前の「上得意」に向けて、商売人特有のねっとり油ぎった笑みを貼り付けている。
「ニーシャ坊っちゃん! 本日はご多忙の折、このようなむさ苦しい店に足を運んでいただき、恐悦至極にございます! いやーそれにしても、本日の坊っちゃんのご尊顔も、太陽が恥じ入って雲隠れするほどの美しさでございますなぁ! その頭脳は魔導国の至宝、血筋はオブライエンの誉れ――完全無欠の天才魔法使いとは、神が坊っちゃんのために刻んだ称号でございましょうな!」
歯の浮くような、いや、歯茎ごと溶けそうなおべっか。
だが、金糸の髪を指先で弄ぶニーシャは、ケーキや紅茶には一切手を付けず、
「長い。褒めるなら要点を三つに絞れ。退屈で死にそうだ」
「へぇへぇ! では簡潔に! 美しい! 天才! 金になる!」
「最後が本音だろ」
「商人ですからな!」
モーブルは胸を張って開き直り、すぐにまた揉み手をして姿勢を低くする。
「して、坊ちゃん。今日は折り入ってご相談がございまして。……実は、あなたが開発されました『魔法のポーション四点セット』の件ですがね……」
モーブルの声色が、じっとりと粘り気を帯びる。
「これがもう、冒険者ギルドの荒くれどもの間で大評判でして! 入荷するたびに飛ぶように売れております。つきましては……この卑しい商人の店に、もうほんの少し……そう、雀の涙ほどで結構ですので、卸す量を増やしてはいただけませんでしょうかねぇ?」
ソファから、ずずい、と身を乗り出す。
必死の懇願。
だが、ニーシャは手元の契約書をパラリと指で弾き、陽光を溶かしたような金髪をさらりと揺らすだけだった。
「ふん。お前の胃袋は、金貨の匂いがすれば岩でも噛み砕きそうな底なしだな。だが言ったはずだ。この店への供給は、今の量が限界値だと。……ボクのポーションが、この街でどれだけ奪い合いになっているか、身に染みて知っているだろう?」
「へぇへぇ、痛いほど存じております! 坊っちゃんの商品は魔導国の奇跡! わしも僭越ながら、オブライエン家のご子息様がいかに天才的で優秀、そして見目麗しい美少年なのか、それを街中で宣伝して回る日々でして――」
「その安い舌での宣伝は結構。ボクの名声に、お前の売り込みなど不要だ」
ニーシャは興味なさげに言葉を遮り、冷徹な事実を突きつけた。
「それより本題だ。現状、契約の打診が山のように積まれている……特に『ローズ商会』の会長は情熱的でね。お前の提示額の一・五倍を積んで、『全財産を投げ打ってでもニーシャ様を支えたい』なんて口説いてきた。……ボクも人間だからさ、そういう熱烈な愛には応えてあげたくなるじゃない? というわけで――来月の割当は『
「くっ……! あの強欲女狐め、また汚い手で横槍を……!」
一瞬だけ、モーブルの表情にドス黒い憎悪が滲んだ。
だが、コンマ一秒で仮面を被り直す。
笑顔、笑顔、笑顔――それこそが、商人が身につける最強の鎧だ。
「ふふ……ニーシャ坊っちゃんも、ずいぶんと交渉が板についてきましたなぁ。他社の条件をチラつかせて揺さぶり、わしの心臓を雑巾みたいにぎゅっと握る。いやぁ、見事。とても十二歳とは思えん、悪魔的な手腕です」
モーブルは目を細め、わざとらしく遠い日を見るような顔をつくった。
「初めてお会いしたのは、はや三年も前になりますか。あの頃の坊っちゃんはまだ九歳。ぶかぶかの魔法大学の制服に身を包み、学業に、研究に、冒険にと……それはもう、見ているこちらが辛くなるほど、痛々しいまでにガムシャラでございました」
モーブルは芝居がかった手つきで、目尻に滲んでもいない涙を拭うふりをする。
「それが今や、十二歳にして史上最年少の大学教授。冒険者ランクはゴールド級ときた。魔導国の至宝とまで呼ばれるようになられて……。いやはや、長いようで短い三年間でしたなぁ。坊っちゃんの成長と栄光の軌跡を、特等席で見守れたこと。一介の商人として、これ以上の光栄はございません」
「……ふん。相変わらず、安い芝居だ」
ニーシャの声は、氷点下のように冷ややかだ。
「確かに付き合いは古いが……そのカビ臭い“思い出”で、現在の取引額が変わるとでも? ボクに必要なのは感傷じゃない。研究資金だ」
(チッ……わしと積み上げた三年間の絆より、目先の金かよ。可愛げのないクソガキめ)
モーブルは腹の中で盛大に毒づきつつ、顔面の筋肉を総動員して媚びへつらった。
「へぇへぇ、仰る通りで! ならば”
「……はぁ。めんどくさいな」
ニーシャは大きなため息をつき、つまらなそうに頬杖をついた。
その視線は、モーブルを通り越して虚空を見つめている。
「お前だけじゃなくて、どいつもこいつも、みんなめんどくさい。……いっそポーションの研究とか製造なんか辞めて、冒険者稼業だけに専念しようかな」
「は……? や、辞めるですとぉおおッ……!?」
モーブルの笑顔が、ひくりと痙攣して剥がれ落ちた。
次いで、脂ぎった顔色が土気色へと変わる。
「ぼ、坊ちゃん、それはどういうことですか――!? そんなことをしたらこの街の冒険者が干上がります! いや、冒険者だけじゃない! わしも干上がります! カヴェナの
「ボクの心配じゃなくて自分の心配だね」
「商人ですからなッ!!」
唾を飛ばさんばかりに絶叫し、自身の胸をドンと叩く。
だが直後、モーブルはふと、囁くように声を落とした。
「……ですが坊ちゃん。今日のその冗談……ちっとも目が笑ってませんな」
いつものように冷笑的で、わざとらしい独り言。
だが、その仕草にはいつもの余裕がない。
透き通った碧眼の奥に、薄く、刺々しい硝子の破片のようなものが沈んでいる。
モーブルの商売人としての嗅覚が、
この坊ちゃん、今日はいつものように“交渉を楽しんでいない”。
「……差し支えなければ、何かあったか教えていただけませんか? 愚痴の一つくらいなら、タダでお聞きしますよ?」
ニーシャは一瞬黙り、ふいと顔を逸らした。
「……
「はい?」
「未踏のダンジョンだ。――『深淵の魔法遺跡カタコンベ』」
モーブルの顔に貼り付けた営業スマイルが、ぴきりと音を立てて固まる。
「まさか、あそこに……お一人で?」
「第九層まで進んだ。でも、結界の迷路と謎解きが鬱陶しい。……それに、そこで出た
少し間を置いて、付け足すように。
「……あくまで、『戦術的撤退』を選んだだけだ」
言い訳めいた強がり。
敗北という重い事実を「撤退」という言葉でコーティングし、かろうじてズタズタのプライドを繋ぎ止めている。
「……無謀だ」
モーブルは、思わず張り付けていた“営業スマイル”を引っ込めた。
代わりに出たのは、手塩にかけて育てた「金のなる木」の焼失を危惧する投資家の顔であり、長年の付き合いで我が子のように身を案じる保護者の顔であり――
そして何より。
このイングラジアにおいて一、二を争うであろう国宝級の美貌を持つ少年に、歪んだ愛を注ぐ“変態紳士”としての顔だった。
「坊ちゃん……以前も口を酸っぱくして申し上げましたが、ご自身の“持ち札”を正しく把握なさらんと。未踏は暗闇です。罠も結界も、魔物の相性も、全部ブラックボックス。それを単身で潜るのは、投資用語で言えば『ハイリスク・ノーリターン』の極み――いくら天才でも、“事故死”しない特権はありませんぞ」
「……分かってる。分かってるから、戻ってきたんだ。……説教されたくて話したんじゃない」
ニーシャの指先が、カウンターの天板に白くなるほど食い込む。
「次は勝つ。……絶対にだ。彼女の隣に……エリザの“婚約者”の席に座るのは、ボクじゃなきゃいけないんだ」
ギリ、と奥歯を噛む音が聞こえそうなほどの、剥き出しの闘志。
だが、それは同時に「今こうしている間にも、他の有象無象に彼女を奪われるかもしれない」という、強迫観念にも似た焦燥の裏返しでもあった。
彼にとって未踏の攻略は、恋い慕う女帝エリザへの愛を証明する唯一の手段であり、自分自身の存在価値そのものなのだ。
「勝つのは結構。大いに結構です。恋に燃える男は美しい。ですが――勝ち方を選びなさい」
モーブルは諭すように、しかし冷徹な計算を含んだ声で告げる。
「準備、情報、物資、レベル上げ……それに、必要なら“
「仲間……ねぇ。今や、この国において五本の指に入る魔法使いのボクに、それが必要かな?」
「今の坊っちゃんでは、未踏の攻略は不可能です。絶対に、仲間が必要です」
モーブルは即答し、穏やかに――しかし逃げ場を塞ぐように、力強く告げた。
「よろしければ――坊ちゃんが『確実に勝てる盤面』、このモーブルが責任を持って、すべて揃えて差し上げますよ」
その言葉は、単なる気休めではない。
カヴェナの冒険者ギルドマスターと太いパイプを持つ、この男が言うのだ。
その気になれば、ゴールド級冒険者の即席パーティだろうと、国宝級の魔道具だろうと、金と交渉術という名の暴力で強引にかき集めてくるだろう。
ニーシャは碧い瞳をすがめ、目の前の中年男をじっと見つめた。
脂ぎった顔に、胡散臭い笑顔。
どこをどう切り取っても金貨の匂いしかしない俗物だ。
だが――不思議と、その言葉には「お前を見捨てない」という奇妙な重みがあった。
張り詰めていた肩の力が、ふっと抜ける。
「へー」
ニーシャが口角だけを上げる。
「モーブルってさ、たまに保護者ぶるよね。……薄汚い平民の守銭奴のくせに。貴族のボクに、どの口で言ってるの?」
「保護者ではありません。わしは坊っちゃんの野望の“
モーブルは即答した。
「坊っちゃんが欠けたら、わしの野望も潰える――それだけの話ですな。……それに」
モーブルは少し声を落とし、諭すように続けた。
「坊っちゃんの不満や
「……へぇ。ずいぶんと殊勝な心がけだね」
「まさか。当然、その分の“お代”は高くつきますぞ」
モーブルはにやりと、肉食獣のように口角を吊り上げた。
「坊っちゃんが未踏を攻略し、国で名を上げ、いずれエリザ様の伴侶――すなわち『
「ボクの純愛まで商材にするのか。……最低だな、お前」
「最高ですとも。商人としてはね」
そのやり取りがツボに入ったのか、ニーシャの喉の奥から、くすり、と忍び笑いが漏れた。
張り詰めていた碧い瞳が緩み、棘だらけだった空気が霧散していく。
――やれやれ、やっと坊っちゃんの機嫌も直ったか。
モーブルが胸を撫で下ろし、商談の成立を確信した――その、次の瞬間だ。
ニーシャが、にっこりと笑った。
深窓の令嬢のように優雅で、無垢な天使のように愛らしく――そして、慈悲のない悪魔のように性格の悪い、完璧な笑みだ。
「そっか。八つ当たりも業務内か……わかった。じゃあさ、モーブル」
歌うような、弾むような声で。
少年はとびきりの「死刑宣告」を口にした。
「お言葉に甘えて――お前の店へのポーション卸し、来月から『半分』に減らそうかな♪」
「……は?」
思考回路がショートするモーブルを置き去りに、ニーシャは楽しげに言葉を重ねる。
「なに、びっくりしてんの? 冗談だよ、冗談。……たぶんね」
「たぶん、って何ですかな!? そこ一番大事なとこ!! 笑えない冗談はやめていただきたい!」
「ふーん……これが『笑えない冗談』に聞こえるんだ?」
ニーシャの唇から、笑みの形が抜け落ちた。
すっ、と。
碧眼が細められ、楽しげな空気が凍りつく。
「なら――さっきのお前の言葉も、タチの悪い『冗談』ってことでいいのかな?」
「え……?」
「……へえ。散々な言い草だね。ボクの偉大なる挑戦を『無謀』と断じて、挙句に説教とは」
室内の温度が、急速に下がっていく錯覚。
ニーシャの碧眼が、宝石のような硬質な冷たさでモーブルを射抜く。
「まさか――それがボクに対する、最大の侮辱だって分かってて言ってるんだよね?」
「ひっ……!」
ガチャンッ!
派手な音を立ててテーブルの上のカップが揺れるのと、モーブルが床に額を叩きつけたのは同時だった。
しまった、調子に乗って虎の尾を踏んだ。
いや、踏んだのは虎の尾ではない――起爆装置だ。
相手は上級貴族オブライエン伯爵家の跡継ぎにして、何より代えがたい極上の取引先。
この坊ちゃん相手に守るべきは、安っぽい商人の矜持でも、年長者としての威厳でもない。
そう――供給ラインだ。
「ぼ、坊ちゃん、いささか言葉が過ぎました!」
モーブルは額を床に擦りつけたまま、脂汗を飛ばしながら早口で捲し立てる。
ここでポーションの供給を止められれば、うちの売上は死ぬ。
なんとしても、ご機嫌を取り戻してもらわねば。
「お詫びにローズ商会にも他の競合にも負けぬ条件をご提示します――いえ、それだけではありません! 今後の研究素材の提供、ならびに実験体としての協力も惜しみません! 坊っちゃんのためなら、このモーブル、火の中水の中、空だって……!」
「空は無理でしょ」
「気合で飛びます!」
「ほんとに?」
ニーシャは楽しげに首を傾げた。
碧眼が笑っている。
悪い意味で。
「じゃあさ、その気合のついでに――『犬』でもやる?」
「……え?」
笑みが、さらに深くなる。
「犬ってさ、
「……へ? 犬……? も、申し訳ありませんが、おっしゃっている意味が、わしの理解の範疇を超えておりまして……」
「わからないのかい?」
にこり。
上品で、残酷な弧。
「躾けてやるから犬になれって言ってるの。――ほら。お手」
「ぐぬぬ……っ! わしはカヴェナで一、二を争う商会の主人だぞ! 人間のわしを、犬畜生のように……こ、こんな侮辱が……ッ!」
モーブルのこめかみに青筋が浮き、拳がわなわなと震えた。
だが、次の一言が喉元を掴む。
「嫌ならいいよ。この店のポーションは全部引き上げて、ローズ商会に――」
「わんッ!!」
落ちた。
光の速さで落ちた。
モーブルは膝をつき、誇りも羞恥も帳簿の下に叩き込む。
「わんわん! わしは坊っちゃんの犬でございます! 尻尾も振ります! お手も、おかわりも! 靴の先まで舐め――いえ、磨きます! 磨かせていただきますとも!」
そして、涙目のまま叫ぶ。
「だからお願いです、ニーシャ坊っちゃん! 割り当てを……! 雀の涙ほどでいいです! このモーブルに商売をさせてください、わんッ!」
「そうか。じゃあ、お手」
「わん!」
「ちんちん」
「わーん!」
完璧な
店の隅で魔族の少年ラースは、息を殺してその光景を見守っていた。
片や己の生殺与奪を握る主人。
片や、その主人すら赤子扱いする雲上の天才貴族。
ラースには、それが神々の交渉に見えて――ただただ恐ろしく、「大人の世界は怖い」と震えるしかなかった。
その鋼線のように張り詰めた空気を、文字通り粉砕する破壊音が店に響いた。
バァンッ――!
まるで攻城槌の一撃。
古びた店の扉が悲鳴を上げ、蝶番がちぎれんばかりに開け放たれる。
そこに立っていたのは、“飢え”という名の嵐そのものだった。
髪は鳥の巣、服は泥と埃にまみれ、その瞳には理性の光すら失った、切実な飢餓の色が宿っている。
「旦那ぁ! 頼む、最後の慈悲だ! もう三日、水しか口にしてねえんだ! このままじゃ路地裏で干からびて、哀れなミイラになっちまう!」
魂の慟哭と共に駆け込んできたのは、カイル・バイロード。
その乱入に、ラースは「ひゃっ!」と小さな悲鳴を上げてお盆を取り落とした。
「……また貴様か、この甲斐性なしが! ここは慈善事業の炊き出し場じゃないと、何度言ったら分かるんだ。シッシッ! 帰れ!」
“ちんちん”の姿勢を崩さぬまま、モーブルは汚いものを払うように吐き捨てる。
「そ、そんな殺生だろ……! せめてパンの耳一枚でも……って、旦那なにやってんだ?」
その時だった。
今まで我関せずと犬のしつけを楽しんでいたニーシャが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、カイルの目に、カウンターに座る小さな金髪の人影が映る。
見覚えのある――そして、二度と見たくなかった、その横顔。
二人の視線が、至近距離で交錯した。
時が、止まった。
沈黙を破ったのは、ニーシャだった。
その薄い唇が、芸術品のように美しい弧を描いて歪む。
「……ふん。ちょうど飼い犬の躾け中だったんだけど。躾けのなってない野良犬まで迷い込んできたか」
「……っ! ……ニーシャ……」
カイルの顔から、物乞いの卑屈さが消えた。
代わりに宿ったのは、驚愕と、瞬く間に燃え上がった屈辱の炎。
「なんでお前が……こんなところにいやがる!」
「ボクがどこにいようと、お前には関係のないことだ。それより……相変わらずだな、カイル。モーブルに餌を乞うそのみすぼらしい姿、まさかとは思うが――まだブロンズ級から抜け出せていないのかい?」
「んだと、てめえ……! なんでお前みたいなゴールドランク様が、こんな薄汚ねえ庶民の店に用があるんだよ! 場違いなんだよ! 帝都の高級店にでも行って、ふんぞり返ってろ!」
「ここはボクの重要な取引相手の店だ。お前こそ、物乞いなら教会にでも行け。神聖な商談の邪魔だ、失せろ」
「商談だぁ? 犬の真似したおっさんと遊んでるのがかよ!?」
「いい機会だ。口の減らない野良犬も、まとめて躾けてやろうか?」
売り言葉に買い言葉。
二人の間に漂う空気は、もはやただの口喧嘩の域を超えていた。
魔力と闘気が目に見えない火花を散らし、棚に並べられたポーション瓶が、カタカタと共振して悲鳴を上げ始める。
「ひっ、ひぃ……! だ、旦那様……!」
ラースが怯えたように、四つん這いのモーブルの背中にしがみつく。
だが、当のモーブルは「やれやれ」と犬のポーズのまま天を仰ぐだけだ。
次の瞬間。
ボッ、と空気が爆ぜた。
ニーシャの右手のひらに、拳大の炎球がふわりと浮かぶ。
それは観賞用の小さな灯火ではない。
触れれば骨まで炭化させるであろう、高密度に圧縮された破壊の意思。
「お? ここでやるってのか。面白いじゃねーか、上等だオラ! その澄ました顔、恐怖で歪ませてやるよクソガキが!」
カイルが、腰に差した愛剣『
対するニーシャは、憐れむように碧眼を細めた。
「……万年ブロンズの雑魚が、よく吠える。いいだろう。そのなまくら剣で、ボクの
まさに、爆炎と剣閃が店内で激突しようとした、その刹那。
先ほどまで犬の真似をしていた男が、ゆらり、と立ち上がった。
「――そこまでだ、小僧ども。神聖なるわしの店で暴れるのは、たとえ貴族様であろうと許さん。喧嘩なら外でやれ。この店のガラスが一枚でも割れてみろ……カイル、その修理代はきっちり貴様のツケに上乗せしてやるからな」
氷のように冷たく、しかし腹の底まで響く重低音。
そこに、商売用の愛想笑いは欠片もない。
あるのは、己の城と財産を荒らす者を決して許さない、絶対的な支配者の威圧感だけ。
ギロリ、とカイルを睨みつけ、次いでニーシャへと視線を向ける。
「……ニーシャ坊ちゃん。あなたの場合は、実家のオブライエン伯爵家に『ご子息の乱暴狼藉について』、被害請求書と共に正式に抗議させていただくが、よろしいですかな?」
「……チッ」
「……けっ」
同時に舌打ちが重なる。
モーブルの「本気」を感じ取った二人は、示し合わせたように武器を収めた。
ニーシャの手から炎が消え、カイルの手が剣から離れる。
「ふん……愚鈍の相手をするのは時間の無駄だ。モーブル、ポーションの件はまた後日改めて来る。……それと、カイル」
帰り際、ニーシャは冷ややかに言い放つ。
「お前はせいぜい、その日の食事にも困る底辺生活から抜け出せるよう、努力することだな。じゃあな――元・相棒」
最後の皮肉を吐き捨て、ニーシャは優雅に踵を返した。
その小さな背中は、最後まで一度もカイルの方を振り返ることはなかった。
「……覚えてやがれ、クソ貴族が」
カイルもまた、憎々しげに呟くと、腹の虫が鳴るのも忘れ、再び嵐のように店から飛び出していった。
後に残されたのは、気まずい沈黙と、怯えるラース。
そして、深いため息をつきながら、扉に掲げていた『一時閉店』の札を裏返すモーブルだけだった。
「……まったく。いつまで経っても“お子ちゃま”だな、あやつらは」
嵐が去ったあとの静けさが、店内に満ちる。
ラースは散らばったその場の空気を拾い集めるように、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……旦那様。カイルくんと、ニーシャ様は……どうしてあんなに仲が悪いのでしょうか……」
「なんだ。気になるのか?」
モーブルは鼻を鳴らし、カウンターの椅子にどかりと腰を下ろした。
そして、古びた革表紙の帳簿を引き寄せる。
「……はぁ。まあ、いいだろう。どうせ今後も、坊ちゃんとカイルが鉢合わせするたびにあの騒ぎだ。事情も知らずにオロオロされるよりは、あいつらの因縁を知っておいてもらった方が、こちらの胃にも優しい。……座れ、ラース。心して聞け」
モーブルは帳簿を指でなぞりながら、まるで古びた叙事詩の一節を紐解く吟遊詩人のように、重々しく口を開いた。
「あれは一年と少し前――カイルがこの国に来て、右も左も分からん、ただ無鉄砲なだけのひよっこだった頃だ……信じられんだろうが、奴らは一度、パーティーを組んでいたことがある」
「えっ……!?」
ラースが目を丸くした。
「あの二人が、ですか? み、水と油というか……天と地というか……全然、想像もつきません!」
「そりゃそうだ。片や『未踏』を目指すゴールド級の天才様、片やその日の飯にも困るブロンズ級の野良犬だぞ? ギルドでも随分と笑い話の種になったもんさ。――噛み合うはずがないってな」
モーブルは、皮肉っぽく口の端を歪める。
「パーティー名は……たしか、『
「魔杖と、晩餐……」
ラースは、そのどこかちぐはぐで、奇妙なパーティー名を反芻する。
「うむ。金に釣られたカイルと、『荷物持ちなら誰でもいい』と使い捨てを考えていたニーシャ坊ちゃん。利害の一致ってやつだ。最初は案外うまく回ってたようだが……」
モーブルは、やれやれと肩をすくめた。
「長くは続かんかったな。ま、冒険者パーティの解散でよく聞く『方向性の違い』ってやつだ。その結果――『魔杖と晩餐』は空中分解。以来、顔を合わせるとああなる」
「二人に、そんな過去が……」
モーブルは古びた革表紙の帳簿を指でなぞり、ふう、と息を吐いた。
「それ以来、ニーシャ坊ちゃんは誰とも組まなくなった。懲りたのか、面倒になったのか……まあ、両方だろうよ。カイルの方は……見た通りだ。腹の虫が鳴いていても、憎い坊っちゃんを見れば、それだけで腹が膨れるらしい」
ラースは黙って聞いていたが、やがて小さく、痛ましげに眉を寄せた。
「……悲しい、です。一度は背中を預け合った仲間なのに……」
あまりに真っ直ぐで、混じりけのない言葉。
それに当てられたように、モーブルは目を細め、口の端を悪戯っぽく吊り上げた。
「フン。青臭い感傷だな。あんなもんは子供の喧嘩だ。一度振り上げた拳を、どこに下ろしていいか分からなくなっただけの、くだらん意地の張り合いよ」
「でも……このままじゃ、その拳で、いつか本当に相手を傷つけてしまいます」
「やらせておけ。
「……喧嘩だとしても、やりすぎです! もし次にああなったら……きっと、どちらかが血を流します。このお店が、二人の血で汚れるところなんて……僕は、見たくありません……!」
ラースの悲痛な叫びが、店内の静寂に沈んでいく。
「……ふーむ。やりすぎ……か」
モーブルは、ゆっくりと顎を撫でた。
脳裏に蘇るのは、さっきの光景――店の中だろうがお構いなしに灯った、ニーシャの殺意の塊のような爆炎。
(待てよ? あの災害級の炎が、わしの『城』で炸裂すれば……建物だけじゃ済まん。棚の商品は全部灰だ。帳簿も焼ける。信用も焼ける。損害額は……わしがオケラになって路頭に迷うレベル――そろばんが合わんッ!)
チーン、と脳内のレジスターが甲高い音を立てて、リスクを弾き出した。
天秤にかけるまでもない。
『店の崩壊』という最悪の未来予想図に対し、現状維持のリターンはあまりにも少なすぎる。
「……モーブル商会『商売人の心得百箇条』、その五十五。『最悪の事態を想定しろ。大抵、現実はその少し上を行く』」
バン、と強く帳簿を閉じる。
「あいつらを放置して、店が灰になるリスクは看過できん。――仕方ない。今回は特別に、わしが一肌脱ぐとしよう」
「……っ!? 本当ですか! ありがとうございます……さすがです、旦那様!」
ラースの瞳が、まるで後光でも見たかのように輝く。
その無垢な尊敬の眼差しに、モーブルはばつの悪そうに鼻を鳴らした。
「ふん。一銭にもならんおだてなどいらん。貴様はその分、死ぬほど働いて、わしに金を持ってこい。……もっとも、貴様の駄賃はビタ一文増えんがな!」
「はい! 頑張ります、旦那様! 僕、お店を潰さないように一生懸命働きます!」
こうして、強欲商人の
天才と凡才――決して交わることのなかった二人の平行線、その止まっていた時間の歯車を、無理やりこじ回す作戦が開始されようとしていた。