モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
夜の濃紺が東の空から少しずつ薄れ、カヴェナの街並みが白み始めた頃。
うっすらとした目覚めのまどろみの中、ラースの耳に
ズズーッ、ゴゴォ……。
まるで地の底で熊が冬眠しているかのような重低音だ。
普段なら、この地響きがピタリと止んだ瞬間、「おいラース! 朝飯だ!」という怒声とともに慌ただしい一日が幕を開ける。
だが今日は、店の看板を出さない平和な休日だ。
(……よし)
ラースは音もなく寝台を抜け出すと、素早く身支度を整えた。
休みだと言われても、朝の務めを放棄するわけにはいかない。
「身だしなみは商人の基本」という主人の教えは、すでに骨の髄まで染み込んでいる。
一階の台所へ向かい、手慣れた手つきで
ボッ、と立ち上がった魔法の炎で素早く湯を沸かし、昨夜の残りの硬いパンを
簡単な
店が休みでも、主人の腹は休みを知らない。
空腹はモーブルの機嫌を損ねる最大の要因だからだ。
出来上がった朝食を盆に載せ、抜き足差し足で二階の寝室へと戻る。
扉の前で息を殺し、いびきのリズムを読む。そして重低音が「呼」から「吸」へ切り替わった絶妙な隙を突き、音もなく枕元へ盆を滑り込ませた。
その流れるような身のこなしは、もはや一流の暗殺者か、あるいは熟練のメイドのごとき職人芸の域だった。
「……これで、よし」
朝一番の密命を終え、ラースはふぅと小さく息を吐き出す。
さあ、ここからは言いつけどおりの「自分の時間」のはずだ。
――そう頭では分かっているのに、どうにも胸の奥がソワソワして落ち着かない。
結局、ラースが向かったのは店の裏にある井戸端だった。
水を汲み、店先に並ぶ色とりどりのプランターへと向かう。
「お花さん、おはよう」
一つひとつ、友人みたいに声をかけながらジョウロを傾けていく。
赤や黄色の花びらが朝露と水滴を受け、宝石のようにきらきらと輝いた。
「はぁ……何を買えばいいんだろう……」
ジョウロの先からこぼれ落ちる水滴を見つめながら、ラースは特大の溜息をついた。
懐には、銀貨十枚。
平民の家族が一週間は慎ましく暮らせるほどの大金だ。
欲しい物がないわけじゃない。
本も読みたいし、甘いお菓子だって食べてみたい。
だが、それを「好きに使って欲望を吐き出せ」と言われても、物心ついた時から奴隷として生きてきたラースには難問すぎた。
『自分の意思で、自分のためだけにお金を使う』という経験が皆無に等しいため、どうしても躊躇いが先立ってしまうのだ。
欲しい物はあっても、「自分のような奴隷の分際で、こんな贅沢をして本当にいいのだろうか」と、染み付いた卑屈さがブレーキをかけてしまう。
「……うん。考えがまとまらない時は、とりあえず手を動かそう!」
悩むのをやめ、ラースは大きなバケツになみなみと水を汲んだ。
そして、使い込まれた雑巾をギュッと固く絞る。
今日の『裏目標』は、普段なかなか手の回らない外壁と窓の徹底清掃だ。
「よいしょっ、と……!」
小さな身体で思い切り背伸びをしながら、石造りの壁の汚れを丹念に拭き上げていく。
二年間、雨風に晒された壁はうっすらと黒ずみ、酔っ払った冒険者が乱暴に立てかけた武具の擦り傷もあちこちに残っている。
キュッ、キュッ、と無心で磨き始めると、生来の真面目さにポッと火がついた。
磨けば磨くほど、「あ、ここも落とせる」「こっちの隙間も」と新たな汚れが見つかってしまう。
こうなるともう止まらない。
気づけばラースは、完全に清掃作業の虜になっていた。
休日の朝っぱらから額に玉の汗を浮かべ、黒い尻尾を左右にご機嫌に揺らしながら、頑固な窓枠の汚れと格闘していた――その時だ。
「あらあら、ラースくん。こんな朝早くからお掃除かい? 相変わらず偉いねぇ」
最初に声をかけてくれたのは、向かいで仕立て屋を営む年配のおかみさん、マーサだった。
無心で壁を磨いていたラースは、ハッとして雑巾を持ったまま振り返り、少し照れたように笑ってぺこりと頭を下げる。
「おはようございます、マーサさん。いつも旦那様がお世話になってます」
「こちらこそだよ。あんたが来てから、あの強欲商人も少しは丸くなったんじゃないかねぇ。昔なら店の前で、『チッ、貧乏貴族のクソ野郎が!』なんて独り言を怒鳴り散らしながら、あのふとっちょがドタバタ掃除してたもんだよ」
マーサは目尻に深いシワを寄せてクスクスと笑った。
その穏やかな笑顔には、世間が忌み嫌う『魔族』に対する警戒や偏見の色は、微塵も浮かんでいない。
かつてのラースは、額の角を布で隠し、人の目を恐れて怯えるように歩いていた。
だが今は、こうして堂々と角を出し、顔を上げて挨拶を交わしている。
――この温かなやり取りが、彼にとってかけがえのない『日常』になりつつあった。
「そうだ、ラースくん。ちょっとだけ手を貸しておくれよ。急ぎの注文が入ったんだけど、細かい糸巻きの仕分けがどうも老眼じゃあしんどくてねぇ」
「はい! 任せてください!」
頼られることが嬉しいラースは、二つ返事でバケツの縁に雑巾を掛け、仕立て屋の暖簾をくぐった。
作業台の上には、色とりどりの細い糸や、こんがらがったリボンの束が山のように散乱している。
本来のラースは、気を抜くと何もないところで転んだり、お皿を割ってしまったりするようなドジな性質だ。
決して手先が器用なわけではない。
案の定、最初は細い糸が指に引っかかり、「あうっ」「あれれ……?」と悪戦苦闘を強いられた。
だが、ラースには一つの武器がある。
モーブルの店で毎日怒鳴られながらも、決して途中で投げ出さず、細かな商品の陳列や手入れを繰り返し練習してきた『途方もない根気強さ』だ。
全神経を小さな指先に集中させ、額にうっすらと汗を浮かべながら、もつれた糸を一本、また一本と丁寧に解いていく。
華麗な手捌きとは言えないかもしれない。
だが、その愚直なまでの丁寧さと集中力で、散らかっていた糸とリボンの束を、最後には色ごと、種類ごとに見事綺麗に仕分けてみせた。
「いやぁ、助かったよぉ。昔はよく店の前で転っ転がってたのに……本当に根気強くて、丁寧ないい仕事をするようになったねぇ」
「あはは……っ。不器用ですけど、旦那様に『雑な仕事は看板を汚す』ってみっちり鍛えられましたから!」
ラースは少し照れくさそうに笑いながら、額の汗を拭った。
誰かの役に立てたという誇らしい気持ちで胸を張り、自分の店の前へと戻る。
さあ、続きをやろう。
そう思って気合いを入れ直し、再び雑巾を手に取って掃除を再開した――その矢先だった。
「おっ、ラースじゃねえか。朝から精が出るな!」
掃除を再開しようとした矢先、今度は通りかかった顔馴染みの冒険者二人組が、陽気な声をかけてきた。
「おはようございます、ガイルさん、ギエスさん! お二人は今日はお休みですか?」
「ああ。昨日の依頼でちっとは儲かったからな。これを元手に、パーッとギャンブルでひと稼ぎしようかってところよ!」
「お前もたまには休めよな。あの守銭奴にこき使われてばっかりじゃ、小せえ身体が持たねえぞ?」
冗談めかして肩をすくめるガイルたちに対し、ラースは困ったように眉尻を下げて苦笑した。
「「あはは……旦那様は、口は悪いですけど、本当はすごく優しい方なんですよ?」
街の人たちには『強欲商人』『守銭奴』と悪ぶって見せているモーブルだが、その不器用な優しさをラースは知っている。
だからこそ、少し誇らしげな声色でそう答えた。
その真っ直ぐで疑いを知らない瞳に、冒険者たちは毒気を抜かれたように「はいはい、ごちそうさま」「忠犬通り越して信者だな」と笑い合いながら手を振り、酒場の方へと歩き去っていった。
彼らの大きな背中を見送り、ラースはふたたびご機嫌な手つきで残りの壁を磨き上げる。
やがてピカピカになった石壁に満足げに頷くと、今度は立てかけてあったホウキを手に取り、店の前の道の掃き掃除へと取りかかった。
ザッ、ザッ、とリズミカルに砂埃を集めていた、その時だ。
ふと顔を上げると、重そうな買い物籠を抱えた老婆が、ふらつきながら通り過ぎていくのが見えた。
細い腕はぷるぷると震え、今にも籠ごとひっくり返りそうな危うい足取りだった。
それを見た瞬間、ラースは握っていたホウキを放り出し、考えるより先に駆け寄っていた。
「あの、おばあさん! 危ないです、僕が持ちます!」
「おや……いいのかい、ラースくん。いつも悪いねぇ」
駆け寄ったラースは、老婆の細い腕からひょいと重い籠を受け取った。
そして、腰の曲がった彼女の歩調に合わせ、ゆっくりと歩幅を揃えて歩き出す。
老婆の家は、広場を抜けた先にある。
のんびりとした道中、老婆はぽつり、ぽつりと話してくれた。
帝都へ出稼ぎに行っている息子のこと、昔の街の賑わい、そして――隣を歩く小さな魔族への感謝を。
「あんたがうちの近所に来た頃はね、正直……魔族の子だってんで、少しだけ怖かったんだよ」
「……っ」
その言葉に、ラースはほんの少しだけ目を伏せた。
無理もないことだ。
モーブルに引き取られたばかりの頃、街の風はどこまでも冷たかった。
道を歩けばあからさまに避けられ、背後からはひそひそと棘のある悪口が飛んでくる。
時には、心ない者たちから泥や小石を投げつけられることもあった。
それでも『奴隷』であるラースは反論することすら許されず、ただ布を深く被って忌むべき角を隠し、嵐が過ぎ去るのを待つように怯えて俯くしかなかった。
そんな傷だらけで帰ってきた彼を見て、主人は同情するどころか、頭ごなしにこう怒鳴りつけたのだ。
『バカモン! 誰の許可を得て下を向いている! 貴様が魔族であることを恥じてコソコソすれば、うちの看板にまで泥が塗られるだろうが!』
『石を投げられたなら、拾い集めて売り物にしろ! 理不尽な悪意には、それ以上の「誠意」と「愛想」で思い切り殴り返してこい!』
『嫌われ者こそ、街で一番の目立ち役だ。逆境をひっくり返して上客に変えろ! それがうちの店――モーブル商会のやり方だと、骨の髄まで刻み込んでおけ!』
それは、傷ついた子供を慰めるような、甘く優しい言葉ではなかった。
だが、理不尽な暴力にただ耐えるしかなかった奴隷の少年に、「商人」としての誇り高い戦い方を教え、力ずくで顔を上げさせてくれた……熱くて、大きな言葉だった。
その教えを胸に、ラースはどれだけ冷たい視線を向けられても決して腐らなかった。
誰にでも明るく挨拶をし、困っている人がいれば損得抜きで駆け寄った。
そうやって愚直に誠意を示し続けて二年。
目の前の老婆は今、シワだらけの顔を優しくほころばせている。
「でも、あんたの働きぶりを見てると、そんな怖さもどこかへいっちまうね。いつも一生懸命で、ニコニコしてて、誰にでも親切で……本当にいい子だ。うちの孫にしてやりたいくらいだよ」
向けられた温かい言葉に、ラースの胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
誰かに認められること。
『忌むべき魔族』としてではなく、『働き者のラース』として受け入れてもらい、感謝されること。
それは、懐にしまってある銀貨十枚よりもずっと眩しく、ずっと心が満たされる感覚だった。
ラースは泣きそうになるのを誤魔化すように、満面の笑みで大きく頷き、黒い尻尾をご機嫌に揺らした。
老婆を無事に家まで送り届けて、来た道を戻る途中。
今度は大通りの片隅で、街の自治会が主催する清掃活動の集まりに出くわした。
普段なら店の開店時間と被るため参加できないが、今日は『有給休暇』である。
そして何より――ラースはまだ「何を買うか」がまったく決まっていなかった。
「お金の使い道は分からないけど、お掃除なら僕にもできる……!」
迷う理由はどこにもなかった。
「あのっ……! 僕、今日はお店がお休みなので、手伝わせてください!」
駆け寄って元気よく頭を下げたラースに、別の区画から手伝いに来ていた人々は「魔族の奴隷が、なんでわざわざ?」とギョッとしたように身構えた。
だが、すかさず近所の顔役である男が快活に笑って間に入る。
「おお、ラースじゃねえか! 休みの日に偉いな。よし、じゃあこっちを手伝ってくれや!」
ぽん、と手渡された一本の竹箒。
――そこからのラースは、まさに水を得た魚だった。
彼は基本的にドジで不器用な性質だが、なぜか「掃除」や「家事」といった体を使う裏方作業に限っては、目を見張るようなプロフェッショナルぶりを発揮する。
誰よりも熱心に、そして黙々と。
小さな身体をちょこまかと動かし、溝の奥に詰まったゴミを的確に掻き出し、石畳の隙間に生えた頑固な雑草を次々と根こそぎ抜いていく。
モーブル商会で毎日鍛え上げられたその手際と無駄のない身のこなしは、そこらの大人よりもよっぽど鮮やかだった。
そのあまりにも一生懸命な働きぶりに、最初は遠巻きに警戒していた別の区画の人々の目も、少しずつ丸くなり――やがて、温かな感心の光へと変わっていった。
「おや、あの子が噂のモーブルのとこの子かい。魔族って聞いてたけど、本当に働き者でいい動きをするねぇ」
「ごめんよ、こっちの落ち葉も頼めるかい? いやぁ、本当に助かるよ」
初めは偏見を持たれても、一生懸命に働けば必ずわかってもらえる。旦那様の言った通りだ。
頼まれると嬉しくなって黒い尻尾をぱたぱたと揺らすその姿に、気づけばラースはすっかり清掃組の輪の中に溶け込み、あちこちから声をかけられる人気者になっていた。
清掃活動が終わり、心地よい疲労感と共に自分の店の前へ戻ってきた頃には、太陽はすっかり高く昇り、昼時を過ぎようとしていた。
「ふぅ……っ、よく働いたぁ!」
額の汗を拭い、ラースは店先のベンチにどっこいしょと腰を下ろした。
街の人からたくさん感謝され、少しずつ自分の居場所が広がっていくのを感じる。
身も心も充実感でいっぱいの、素晴らしい休日の午前中だった。
だが、見上げた青空を気持ちのいい風が吹き抜けていった瞬間。
ラースはハッと我に返り、懐の財布に手を当てた。
「……あ。お金、一銭も使ってない」
あれだけ駆け回って働いたのに、休日の目的である「欲望を吐き出すこと」を完全に忘れていたのだ。
ラースの黒い尻尾が、焦ったようにバタン、バタンとベンチを叩き始めた。
「……ど、どうしよう。このままじゃ『お金も使えない役立たず』だって、旦那様に見捨てられちゃう……っ!」
中には、ずしりと重い銀貨十枚。
あれだけ充実した半日を過ごしたというのに、一銭も使っていない。
ラースの黒い尻尾が、焦ったようにバタン、バタンとベンチを叩き始めた。
さて、何を買うか。
美味しいお菓子? 新しい服? 面白い本?
どれも魅力的なのに、いざ「銀貨十枚分の何か」を思い浮かべようとすると、頭の中が霧に包まれたように白くなってしまう。
「……そうか。僕が欲しいものは、もう全部持ってるんだ」
ぽつりと呟いた瞬間、頭の中を覆っていた霧が不思議と晴れた。
「自分のために使い道が思いつかないなら……旦那様のために使おう」
この大金を使っても惜しくない相手なんて、世界中でただ一人、旦那様しかいない。
日頃の感謝を込めて、何かプレゼントをしよう。そう決まれば、答えはすぐに浮かんだ。
モーブルが帳簿をつける時に使っている、あの古びた羽根ペンだ。
穂先が割れてインクの吸いも悪くなっているのに、「まだ使える」と誤魔化して使い続けているあれを新調するのだ。
「新しい、いいペンを贈ろう。きっと……喜んでくれるはずだ!」
黒い尻尾が、ぽんと元気よく跳ねた。
ようやく見つけた『お金の使い道』に、ラースは今日初めて、休日らしい晴れやかな笑顔を浮かべた。
目的が決まると、足取りは嘘のように軽くなった。
ラースは店の戸締まりを確認すると、普段は縁のない街の中心部――貴族や富裕層向けの高級店が立ち並ぶ大通りへと駆け出した。
目指すは、街で一番と名高い高級文具店だ。
恐る恐る重厚な木の扉を押し開けると、店内には外の喧騒が嘘のような静謐な空気が流れていた。
鼻をくすぐる上品なインクと新しい紙の匂い。
磨き上げられたガラスのショーケースの中には、宝石のように美しい万年筆や、微かな魔力を帯びて発光するインク壺、最高級の羊皮紙が整然と並んでいる。
「いらっしゃいませ。……おや?」
カウンターの奥から現れた初老の店主は、客の姿を見るなり露骨に眉をひそめた。
無理もない。
いくら小綺麗な服を着て身だしなみを整えているとはいえ、ラースはどう見てもただの子供で――何より、その頭には隠しきれない『魔族の角』が生えているのだから。
ラースを見知る近所の住人たちとは違い、特権階級を相手にするこの区画では、魔族への偏見や視線は未だに氷のように冷たい。
「……坊主。ここは子供の遊び場じゃない。冷やかしなら帰ってくれ」
冷淡な声と、野良犬でも追い払うような手つき。
ラースの肩がビクッと跳ね、染み付いた奴隷の習性で思わず顔が下を向きそうになる。
だが、彼はポケットの中の重い銀貨の袋をぎゅっと握りしめ、必死に勇気を奮い立たせた。
『下を向くな。胸を張って、誠意と愛想で殴り返してこい!』
主人の怒鳴り声が、背中をバンと叩いてくれた気がした。
今日はただの奴隷ではない。
『客』として、大切な人のための買い物をしに来たのだ。
「あ、いえ! 冷やかしじゃありません。大切な人への贈り物を探していて……」
ラースは顔を上げ、ショーケースの中を食い入るように見つめた。
だが――そこに並ぶ値札を見て、息を呑む。
金貨三枚、金貨五枚、中には金貨百枚もの値がついたものまである。
どれもこれも、ラースの懐にある「銀貨十枚」では到底手が出ない、桁外れの品ばかりだった。
(ど、どうしよう……全部高すぎる……!)
せっかく奮い立たせた勇気が、現実の壁の前でしゅんと萎みそうになる。
やはり、奴隷の身分でこんな立派な店に入るべきではなかったのだろうか。
冷や汗をにじませながらショーケースの端から端まで視線を這わせ――やがて、その一番隅っこ、目立たない場所に置かれた一本の万年筆の前でピタリと止まった。
それは、他の品のようにきらびやかな金の装飾も、魔力を帯びた宝石もついていない、ごくごくシンプルな作りの万年筆だった。
だが、その飾り気のない
(これだ……! これなら、旦那様にきっと似合う!)
ラースは弾かれたようにガラスを指差し、身を乗り出した。
「あのっ、これ……本当に銀貨十枚ですか!?」
身を乗り出して尋ねるラースの真っ直ぐな勢いに、初老の店主はほんの少しだけ驚いたように目を見張った。
だが、すぐに元の冷淡な顔に戻り、忌々しげに鼻を鳴らす。
「……そうだ。間違っても、薄汚れた魔族の奴隷に買える額じゃない。さっさと出てい――」
「あ、あります! 僕のお金です! これをください!」
店主の言葉を遮るように、ラースは震える手でポケットから革袋を取り出し、思い切り中身をぶちまけた。
ジャラリ、と重い金属音が静かな店内に響き渡る。
ガラスのカウンターの上にこぼれ落ちたのは、眩い輝きを放つ純銀の硬貨、きっちり十枚。
それを見た瞬間、店主の目が大きく見開かれた。
しかし――そこに浮かんだのは『客』への歓迎の色などではなかった。むき出しの猜疑心と、激しい敵意だ。
「おい……その金、どうした?」
「え? どうしたって……働いて、もらった報酬で……」
「嘘をつくな!!」
空気を切り裂くような怒号。
ラースの肩がビクリと跳ね上がり、染み付いた奴隷の恐怖が足をすくませ、たまらず一歩後ずさった。
「下賎な魔族のガキが、そんな大金を『まっとうに』稼げるわけがないだろう! どこで盗んだ! どこの屋敷からくすねてきたんだ!」
「ち、違います! これは、僕の旦那様が……お休みの報酬として、くれたんです!」
「報酬だと? ふざけるな!」
店主はカウンターから身を乗り出し、ラースの首元を指差して激昂した。
「一介の奴隷に銀貨十枚も恵んでやる主人が、どこの世界にいるというんだ! さてはお前、主人の隙を突いて屋敷の金を盗み、逃げ出してきたんだな!?」
店主の太い腕が伸び、ラースの細い腕を鷲掴みにしようと迫る。
その血走った目は、完全にラースを「言葉の通じない犯罪者」として見ていた。
――瞬間。
かつて名もなき奴隷だった頃、何もしていないのに泥棒扱いされ、血の味がするまで冷たい鞭で打たれた記憶がフラッシュバックする。
「おい、誰か! 警察を呼べ! ここに泥棒がいるぞ!」
店主が外の大通りに向かって怒鳴り声を上げた。
その声に反応し、窓の向こうを巡回中だった帝国警察の青い制服がこちらを振り向くのが見えた。
彼らは魔族に対して容赦がない。
事情など聴く前に警棒で殴りつけ、薄暗い留置所へ放り込むような連中だ。
捕まれば、ただでは済まない。
(――怖いっ!)
逃げてはいけない。
逃げれば泥棒だと認めたことになる。
ちゃんと説明して、誤解を解かなければ。
頭ではそう分かっているのに、骨の髄まで染み付いた『奴隷の恐怖』が、完全にラースの身体を支配してしまった。
「ご、ごめんなさいッ!」
ラースは店主の手を間一髪で躱すと、カウンターの上に散らばった銀貨を慌てて革袋に掻き集めた。
そして、脱兎のごとく店を飛び出した。
「待てコラァ! 泥棒!」
背後に浴びせられる怒声とホイッスルの音を振り切り、ラースは無我夢中で路地裏へと駆け込んだ。
心臓が破裂しそうだ。
何も悪いことはしていないのに。ただ、大好きな旦那様へのプレゼントを買いたかっただけなのに。
どうして、信じてもらえないんだろう。
涙で滲む視界のまま、入り組んだ裏路地を何度も曲がり、息を切らして人気のない古い広場まで逃げ延びた。
振り返っても、もう追ってくる青い制服の気配はない。
「はぁ……っ、はぁ……っ、怖かった……」
膝に手をつき、乱れた呼吸を必死に整える。
結局、あの万年筆は買えなかった。
悔しいけれど仕方がない。
あの店にはもう行けないけれど、少し落ち着いたら、別の店を探そう。
そう自分を励まし、革袋をしまおうとポケットに手を入れた、その瞬間――。
ラースの顔から、サァッと音を立てて血の気が引いた。
「……え?」
ない。
革袋が、ない。
上着のポケットを探る。
ズボンのポケットも、裏地が飛び出すまで全て裏返した。
けれど、どこにもない。
走っている最中、震える手でちゃんと口を縛らずにポケットへ突っ込んだせいで、逃走の振動で落としてしまったのだ。
「うそ……っ、うそだ……!」
震える両手が、空っぽのポケットを何度も、何度も虚しくまさぐった。
指先が空を切るたび、全身の血が凍りついていくようだった。
地面に膝をつき、今しがた自分が走ってきた足元を這うように見渡す。
だが、石畳の上には小石が転がっているだけで、あの純銀の輝きはおろか、革袋の切れ端一つ落ちていない。
呼吸が浅くなり、視界がぐらりと揺れた。
あの銀貨十枚は、ただの『平民が一週間暮らせる大金』ではない。
無力な奴隷でしかない自分が、「ニーシャ坊っちゃんを救った」という確かな貢献を果たし、あの偉大な主人が初めて評価して手渡してくれた――『報酬』という名の勲章だったのだ。
それを、自分の不注意で失くした。
恩返しのプレゼントどころか、旦那様からの信頼ごと泥の中に落としてしまった。
「探さなきゃ……! 見つけなきゃ……っ!」
ガチガチと鳴る歯を食いしばり、ラースは弾かれたように立ち上がった。
来た道を引き返す。大通りには、まだあの青い制服の警察がいるかもしれない。
捕まれば留置所に放り込まれ、二度と帰れなくなる。
恐怖で足が竦んだ。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
ラースは夕闇の迫る路地裏で、文字通り地面に這いつくばるようにして探し続けた。
汚いゴミ箱の裏を漁り、悪臭のする排水溝に腕を突っ込み、暗い石畳の隙間を一つひとつ指先でなぞっていく。
一時間、二時間。
やがて日は完全に落ち、容赦のない冷たい夜風が細い身体を吹き抜けていく。
見つからない。
どこにも、ない。
「あ……あぁ……っ」
すりむいて泥だらけになった両手を見つめ、ラースはその場にへたり込んだ。
ぼろぼろと、大粒の涙が溢れて止まらなかった。
自分の意思でお金を使うことすらできず、あまつさえ、一番大事な報酬をドブに捨ててしまった。
これじゃあ、店に帰れない。
あんなに不器用な優しさをくれた旦那様に、合わせる顔がない。
(ごめんなさい……旦那様……ごめんなさい……っ)
絶望感に胸を握り潰されそうになりながらも、ラースには他に帰る場所などなかった。
泥だらけのズボンを引きずり、彼はトボトボと、這うような足取りでモーブル商会への道を歩き始めた。
街はすっかり夜の顔になっていた。
家々の窓から漏れる温かい夕食の明かりや、家族の笑い声が、独りぼっちで惨めなラースを容赦なく照らし出す。
「おや? そこの泥んこは……ラースくんじゃないかい」
不意に、暗がりから声をかけられた。
ビクリと肩を跳ねさせて顔を上げると、そこには朝、買い物の籠を運んであげたあのお婆さんが立っていた。
家の前で、夜風に当たって涼んでいたらしい。
「あ……こん、ばんは……」
泣き腫らした顔を見られまいと、ラースは慌てて俯いた。
「どうしたんだい、そんなに汚れて。元気がまるでないねぇ……お腹でも空かせてるのかい?」
「いえ、あの……その……転んじゃって……」
「そうかい。まあ、ちょうどよかったよ」
ラースの震える声に深く踏み込むことはせず、お婆さんはシワだらけの温かい手で、彼の泥だらけの手をそっと握った。
「これ、買い物袋を持ってくれたお礼だよ。少ないけど、何か美味しいものでもお買い」
お婆さんはそう言って、包み紙に入った飴玉と数枚の銅貨を、泥だらけになったラースの手に強引に握らせた。
「えっ、ぼ、僕、そんなつもりでお手伝いしたわけじゃ……っ」
「いいんだよ。あんたのおかげで、今日は腰を痛めずに済んだんだ。これは正当な報酬さ。遠慮せずに取っときな」
お婆さんはシワくちゃな顔で優しく笑うと、ラースの背中をポンと叩いて家の中へと戻っていった。
その手の温かさに戸惑い、掌の銅貨を呆然と見つめたまま少し歩くと。今度は、仕立て屋のマーサが店じまいをしながら顔を出した。
「あら、ラースくんじゃないか。こんな遅くまでお使いかい?」
「マーサ、さん……」
「ああ、ちょっと待ってな。ちょうどいいや」
マーサは奥へ引っ込むと、すぐに小さな麻袋を持って戻ってきた。
「はい、これ。今日のお駄賃。店でお手伝いをしてもらったのに、ちゃんとお礼もしないで帰しちまって、ずっと気になってたんだよ」
渡されたのは、銀貨には遠く及ばないけれど、十枚ほどの銅貨だった。
「え、でも、僕はただ……」
「いいからいいから。労働には対価を払う、商人の基本だろう? あんたは立派に働いたんだから、胸を張って受け取りな」
その後も、夜の街を歩くラースに不思議な連鎖は続いた。
すれ違ったガイルたち冒険者が、「よう! 朝お前に会ったおかげか、賭場でバカ勝ちできたわ! ツキのお裾分けだ、菓子でも買いな!」と笑って小銭を放り投げてきたり。
清掃活動の役員さんが、「暗いのに偉いねぇ。今日は本当に助かったよ」と、労いの駄賃を握らせてくれたりした。
モーブル商会の近くまで戻ってきた頃には、空っぽだったラースのポケットは、ジャラジャラと賑やかな音を立てていた。
街灯の下で広げた手の中にあるのは、手垢にまみれてくすんだ銅貨や、傷だらけの小銭ばかり。
全部合わせても、失くした銀貨には遠く及ばない。
価値にすれば、十分の一にも満たない端金だろう。
けれど。
(……あったかい)
ラースは、集まった硬貨を両手でぎゅっと握りしめた。
これは、誰かが哀れな奴隷の子供に恵んでくれた『施し』の金じゃない。
ラースが今日一日、自分の体を使い、心を使い、誰かのために一生懸命動いた結果として手に入れた――正当な『対価』だ。
あの高級な万年筆は、もう買えない。
銀貨十枚を失くしたという、商人見習いにあるまじき大失態も消えはしない。
それでも、今の自分ができる精一杯のことで、旦那様に恩返しをしよう。
ふと顔を上げると、大通りの外れにあるレストラン『愛の皿亭』の看板が、夜の闇にぽつりと温かい明かりを灯していた。
砂糖と油の混じった、甘くてどこか懐かしいドーナッツの匂いが、夜風に乗って漂ってくる。
主人の大好物だ。
「そうだ。……旦那様に、これを買って帰ろう」
涙はもう、すっかり乾いていた。
ラースは温かい銅貨を握りしめ、光の差す方へと駆け出した。
高価な万年筆でも、煌びやかな宝石でもない。
けれど、今の自分の掌にある全財産で買える、精一杯の「贅沢」。
「すみません。……揚げたてのドーナッツを、一つください!」
◆
カラン、コロン。
頼りないベルの音が、静まり返った店内に響く。
重い扉を押し開けると、カウンターの奥で腕組みをした大男――モーブルが、じろりとこちらを睨めつけていた。
「……遅いぞ、ラース。晩飯の時間はとうに過ぎておる」
低く、地を這うような声。
明らかに怒っている。
ラースは入り口で立ち尽くしたまま、逃げ出したい衝動をこらえて深く頭を下げた。
「申し訳ありません、旦那様。……言いつけを、守れませんでした」
「……ほう?」
「銀貨十枚……全部、失くしてしまいました。自分の不注意で落として……必死に探したんですが、どこにもなくて……」
言い訳はしない。
それは商人の恥だ。
震える声で事実だけを告げ、ラースは身を固くした。
どんな罵倒も、拳骨も、受ける覚悟はできている。
だが、落ちてきたのは、深く長い溜息だけだった。
「……怪我は?」
「……え?」
飛んでくるはずの怒声ではなく、予想外の低い問いかけに、ラースは弾かれたように顔を上げた。
モーブルは腕を組み、眉間の皺を深く刻んだまま、ラースの泥だらけの全身を値踏みするようにじろじろと観察している。
「警察に追われて転んだり、裏路地でゴロツキに絡まれたりして、怪我はしてないかと聞いておるんだ」
「け、怪我は、ありません……。でも、大事な、旦那様がくれたお金が……っ」
「金など、失くしたならまた稼げばいい。命と五体さえ無事なら、商人は何度でもやり直せる。……そんなことも分からんのか、馬鹿者が」
「旦那様……っ」
その不器用で、どこまでも温かい言葉に、乾いたはずの涙がまたラースの瞳に込み上げてくる。
だが、モーブルはラースが泣き出す前に、忌々しげに鼻を鳴らして言葉を継いだ。
「だが、貴様は三日どころか半日で銀貨十枚をドブに捨てた。わしの『欲望を吐き出せ』という業務命令を果たせなかった以上、失った信頼は取り戻せんままだがな」
「うう……っ、すみません……」
ぐすり、と鼻をすすって身を縮めるラース。
そのしょぼくれた頭の上の角をじっと見下ろし、モーブルは少しだけ呆れたように息を吐き――そして、ラースの背後へと視線を滑らせた。
「……それで? その後ろ手で大事そうに隠している包み紙はなんだ。さっきから甘ったるい、いい匂いが漂っておるが」
ラースはおずおずと、背中に隠していた紙袋を差し出した。
油が滲んだ、安っぽい茶色の紙袋だ。
「これ……買ってきました」
「……なんだ、これは」
「『愛の皿亭』の、揚げドーナッツです。旦那様の大好物だから……旦那様に食べてほしくて」
モーブルは怪訝そうに片眉を跳ね上げた。
「銀貨十枚をドブに捨てて、買ってきたのがたかが銅貨二十枚のドーナッツ一個か?」
「違います。……このドーナッツは、今日、僕が街の人たちのお手伝いをして、稼いだお金で買ったんです」
ラースはぽつりぽつりと、今日一日の出来事を語り始めた。
お婆さんの荷物運び。マーサの仕立て屋での細かな手伝い。自治会の清掃活動。
そして、高級店で泥棒扱いされて銀貨十枚を失くし、絶望の中で帰ろうとした夜道で――街の人たちが「労働の対価だ」と、掌いっぱいの温かい銅貨をくれたこと。
「万年筆は……買えませんでした。銀貨もなくなってしまいました。でも、僕にはこの銅貨たちが残りました。だから、その僕が初めて稼いだお金で……一番美味しいものを、旦那様に贈りたいと思って」
ラースが言い終えると、薄暗い店内に沈黙が落ちた。
チクタク、と壁掛け時計の音だけが静かに響く。
やがてモーブルは無言で紙袋を受け取り、中から不格好な揚げドーナッツを一つ、太い指でつまみ上げた。
まだ、微かに温かい。
「……ふん。『金の使い方』も分からん赤ん坊のくせに、いっちょ前に『信用で稼ぐ』という商売の真髄だけは実践して帰ってきたか。まったく、計算の合わん見習いだ」
モーブルは大きな口を開け、ドーナッツを無造作に放り込んだ。
サクッ、という軽快な音が、静寂を心地よく破る。
ゆっくりと咀嚼し、彼はいかつい顔を少しだけ歪めた。
「……甘いな」
「美味しく、ないですか?」
「いや。……悪くない。砂糖の甘さだけではない、コクがある」
モーブルは口元の砂糖を親指で拭うと、ニヤリと不敵に笑った。
そして、ちょうど『半分』だけ残ったドーナッツを、ぽん、とラースの口元へ差し出した。
「えっ……旦那様……?」
「いいか、ラース。お前が失くした銀貨は、わしが与えた『期待』だ。だが、お前が持ち帰ったこのドーナッツは、お前自身が街で築いた『信用』の味だ。……お前も食って、初めての稼ぎの味をよく覚えておけ」
「旦那様……っ!」
差し出された半分を両手で大切に受け取ると、ラースの瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「ただし!」
感涙にむせぶラースの言葉をピシャリと遮り、モーブルは太い人差し指をビシッと鼻先に突きつける。
「感動と勘定は別だ。銀貨十枚の莫大な赤字は、明日から倍働いてきっちり埋め合わせろ! 落としたのが自分の金だろうと、損をしたまま泣き寝入りするのが商人として一番の恥だと思え! いいな!」
「はいっ! ありがとうございます!」
ラースは涙を拭い、もらった半分のドーナッツに大きくかぶりついた。
口いっぱいに広がる安っぽい砂糖の甘さには、少ししょっぱい涙の味が混じっていたけれど――今まで食べたどんなご馳走よりも、格別に美味しかった。
見習い商人の財布は空っぽになった。
けれどその胸には、お金よりもずっと重くて温かいものが、確かに詰まっていた。