モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
やがて、カヴェナの街に夕暮れを告げる鐘の音が、ゴォォン……ゴォォン……と厳かに鳴り響いた。
空は燃えるような茜色から、ゆっくりと深い藍色へと沈んでいく。
ダンジョンから這うように生還した冒険者たちが、疲労と安堵をぐちゃぐちゃに混ぜた顔のまま酒場へ吸い込まれていく、そんな時間である。
「ふぅ……本日の営業は、ここまでだ……」
モーブルの力ない号令とともに、商会の分厚い木の扉が閉められた。
営業中の札が裏返され、張り詰めていた店内の空気がようやくふっと緩む。
――だが、その店主本人の顔には、無事に一日を終えた安堵など一欠片も浮かんでいなかった。
むしろ頬はげっそりこけ、目の下には濃い隈が落ち、たった半日で十年ほど寿命を前借りされた顔になっている。
(生きた心地がしなかった……ッ! 本当に生きた心地がしなかったぞォォォ……!!)
集金が長引き、夕方近くになってようやく店に戻ってきたときの光景を思い出し、モーブルは今なお心臓が裏返りそうな悪寒に震えていた。
なにしろ、大人しく座って『見学』しているはずのライオットが、よりにもよってラースと一緒になって、文字通り滝のような汗と煤にまみれ、店内業務に全力投球していたのだ。
普段は魔法の杖しか握らないはずの華奢な手が、ダボダボの平民服の袖をまくり上げ、額に浮かんだ大粒の汗を無造作に拭っている。
顔はホコリと油汚れで黒く汚れ、息を「フッ、ハッ」と荒らげながら、自分の背丈の半分ほどもある重たい木箱をふらふらと抱えて歩く姿。
そしてその横で、同じように額に汗を光らせたラースが、
『ライさん、腰を落として持つんですよ! 腕の力じゃなくて、足腰を踏ん張って! そうです、いい感じです!』
などと、奴隷の魔族が前線の部隊長よろしく上級貴族の子息を熱血指導をしているではないか。
その瞬間、モーブルは確信した。
――あ、これ毛根死んだわ、と。
次の瞬間には、光速のステップでライオットから木箱をひったくり、その勢いのままラースの脳天に雷鳴のような説教を落としていた。
モーブルは苦悩した。
もしライオットが躓いていたら?
もしあの高貴で美しい指先に、木箱のささくれが刺さって血の一滴でも滲んでいたら?
今頃モーブル商会は魔導騎士団によって更地どころか地図から削除され、自分は広場でさらし首になった挙げ句、「平民の分際でヴァルディス家の跡取りを顎でこき使った大馬鹿者」として魔導国の新聞にデカデカと太字で載っていたに違いない。
「……旦那様? 大丈夫ですか、お疲れのようですが……」
箒とちりとりを持ったラースが、何も知らない無垢な顔で小首を傾げる。
モーブルの言いつけなどまるで忘れているかのような充実感あふれる顔である。
「……貴様のせいだ」
「ひぇっ」
「貴様が余計な労働をさせたせいで、わしの寿命はごっそり縮み、毛根は集団自決し、胃には新たな穴が三つ開いたのだぞ……っ!」
「ひぇぇっ!? な、なんだかよく分かりませんが不快な思いをさせて申し訳ありません……! そ、それからライさんも、研修中なのに汗だくになっていっぱい手伝ってくれて、本当にありがとうございました!」
「……うん。ありがとう、ラース先輩」
ぺこりと頭を下げるライオットの頬には、先ほど袖で拭ったせいで広がった油汚れと煤がべっとりとついていた。
サイズの合っていないダボダボの平民服もところどころ黒く汚れ、布地はかいた汗でじっとりと肌に張り付いている。普段屋敷で見せる『雷の貴公子』としての神々しい威厳は跡形もない。
どこからどう見ても、閉店後の商店で肉体労働を頑張りすぎた、ただの汗臭い小僧である。
だが――伊達メガネの奥の灰色の瞳だけは、かつてないほど強い充実感に満ちていた。
生まれながらにしてヴァルディス伯爵家の跡取り。
周囲の誰もがその権威を恐れ、ライオットに平服してきた。
しかし、この店に来てからは違った。
身分は平民と偽っていてもモーブルは心底自分のことを思ってくれるし、なにも知らないラースも自分を後輩として丁寧に優しく指導してくれる。
そんなライにとって、自らの身体を動かして心地よい汗を流し、店を掃き、品を並べ、手入れをし、誰かの役に立つという地味で泥臭い営みは、短い人生で初めて触れた、ひどく温かくて眩しい宝物だったのだ。
「さて、ライくん! 本日は我が商会での『過酷な見学業務』、誠にお疲れ様でした! もう遅いですし、お父上がご心配されるといけません。どうぞこのまま裏口から、何事もなかったかのように、極めて平穏無事にお帰りくだ――」
モーブルが揉み手全開で、厄介すぎる爆弾を慎重に屋外へ搬出しようとした、まさにその時だった。
きゅるるるるるるるるるぅぅぅぅぅ……。
店内の静寂を切り裂いて、あまりにも正直で、あまりにも庶民的な腹の虫の音が盛大に鳴り響いた。
「……」
「……」
音の出どころは、どう考えてもライオットである。
ライオットは無表情のまま、すっと自分の腹へ視線を落とした。
それから、こて、と不思議そうに首を傾げる。
「……おかしい。魔力は満タンなのに、生命維持機構から未知の警告音が出ている」
「ただの空腹ですぞライくん!?」
モーブルが即座に突っ込んだ。
考えてみれば、朝からずっと掃除だの接客だの武具の手入れだのに駆り出され、昼食もろくに取っていなかったのだ。
いかに一流の魔法使いといえど、育ち盛りの少年の腹が減るのは自然の摂理である。
「あ、あの、ライさん……」
ラースが遠慮がちに、おずおずと口を開く。
「お腹、空きましたよね。僕、これから夕飯を作るんですけど……もしよかったら、食べていきませんか?」
「バ、バカ者ラース!! 何を恐ろしいことを言い出すかァッ!!」
モーブルはヒッと息を呑み、凄まじい速度でラースの背後に回り込むと、その肩をがっしと掴んで小声で怒鳴りつけた。
「いいか、ライくんはな! こんななりをしておられるが、とんでもないお金持ちの超絶お坊ちゃんなんだぞ!? 普段は一流の専属料理人が、キャビアだのフォアグラだの、わしら平民が名前を聞くだけで胃もたれしそうな最高級食材を、銀の食器に乗せて、温度管理まで完璧にしてお出ししているようなお方なんだ!」
「ひぇぇ……」
「うちの薄暗い台所で作る『庶民メシ』なんぞをお出ししてみろ! 万が一にもお腹を壊されたら一大事だ! いや一大事どころか、わしの命が跡形もなく吹き飛ぶんだぞ! 最悪、夕飯の献立がそのままわしの最期の晩餐になるわ!」
「ええっ!? そ、そうなんですか!? ご、ごめんなさいライさん! ぼ、僕なんかが生意気なこと言って……!」
ラースはしゅんと羊の角をしおれさせ、今にも見えない尻尾を丸めそうな勢いでぺこぺこと頭を下げた。
――だが。
ライオットは、そのひそひそ話をしっかり聞いていた。
しかも、伊達メガネの奥の瞳をかつてないほどギラリと輝かせて。
「……ラース先輩が、お料理を作る?」
「え? あ、はい。旦那様と僕のご飯は、毎日僕が作ってますけど……」
「……食べる」
ライオットは、未踏ダンジョンの最深部に踏み込むかのような、ひどく真剣な足取りで一歩前へ出た。
「家事の達人である先輩が作り出す『ご飯』……。私、とても興味がある」
そこで一拍置いて、きっぱりと言い切る。
「……食べたい」
「わ、若様!? いや、ライくん! うちの食事は粗末ですぞ!? 高級料理どころか、場合によっては『今日はちょっと豪華だな』で卵が乗る程度の世界ですぞ!?」
「……問題ない」
「問題しかありませんが!?」
「……私は今日、ラース先輩から雑巾絞りの極意と接客戦術を学んだ」
ライオットは厳粛な顔で告げる。
「ならば次に学ぶべきは、兵站の根幹を担う炊事技能。これは成長のために必要な工程……食べる。絶対に食べる」
「目がマジだぁぁッ!?」
それは、雷の貴公子が放つ、有無を言わさぬ絶対的な覇気だった。
それに抗えるはずもなく、モーブルは涙を飲んで「……もしお腹を壊したら、わしを消滅させる前にせめて遺書を書く時間だけはくださいね……」と白旗を上げるしかなかった。
◆
モーブル商会の奥に併設された、従業員用の居住スペース。
商品を並べた表の店舗とは打って変わって、そこは手狭で少し薄暗く、雑多な生活感に溢れていた。
使い込まれて表面が擦り切れた木の丸テーブルに、座るたびにギシギシと鳴る椅子。
壁には煤けたエプロンが掛けられ、小さなかまどからはパチパチと薪が爆ぜる心地よい音が響いている。
「……なんだか、すごくいい匂い」
ライオットはガタつく椅子にちょこんと座りながら、無表情のまま鼻をひくつかせた。
かまどの前では、ラースが小さな踏み台に乗り、大きな鍋を木べらで一生懸命にかき混ぜている。
コトコトという優しい音と共に、香ばしく炒められた肉の脂と、じっくり引き出された根菜の甘み、それをまとめる爽やかなハーブが絶妙に混ざり合った、ひどく食欲をそそる香りが漂っていた。
「えへへ、今日は市場の肉屋のおじさんが、おまけしてくれたんです。鳥肉の切れ端と少し古くなった根菜ですけど、硬いお肉はお酒とハーブで揉んで柔らかくして、お野菜は先にじっくり炒めて甘みを引き出しておいたんです。時間はかかりますけど、こうするとすごく美味しくなるんですよ」
「ふん、気が利かんやつだ。ライくんに、そんな粗末なものを食べさせるつもりか」
「す、すみません……。でも旦那様が普段から質素倹約がモットーなので、うちのご飯、いつもこんな感じでして……」
ラースは申し訳なさそうに肩をすくめながらも、鍋をかき混ぜる手は慣れたものだった。
塩をひとつまみ、香草を少し。小皿で味を確かめると、うん、と小さく頷く。
その仕草には、毎日こうして誰かの食事を作ってきた者の、静かな自信がにじんでいた。
「はい、お待たせしました。今日の夕飯、『野菜と鳥肉のコトコト煮込みシチュー』です。あと、固くなっちゃった黒パン。シチューに浸して柔らかくして食べてくださいね」
コトン、とライオットの前に置かれた木製の深皿。
そこには、黄金色に澄んだスープの中に、丁寧に面取りされた野菜と、じっくり煮込まれた肉がゴロゴロと沈んでいた。
横に添えられているのは、石のように無骨で固そうな黒パン。
高級な食材は一つも入っていない。
けれど、そこから立ち上る湯気は、なぜかライオットの胸の奥をぎゅっと締め付けるほどに、甘く温かかった。
(……温かい)
ライオットは木製のスプーンを握りしめたまま、そのシチューをじっと見つめ、不意に自分の『日常』を思い返していた。
イングラジア魔導国、帝都。
ヴァルディス家の広大な屋敷にある、大理石でできた豪奢なダイニングルーム。
専属の料理人たちが腕によりをかけ、最高級の食材を惜しげもなく使った料理の数々。
彼らが自分のために精魂込めて作ってくれていることは、ライオットも痛いほどわかっている。
だが、その十メートルもある長いテーブルに座っているのは、いつもライオットただ一人だった。
誰かと食卓を囲む記憶といえば、ヴァルディス家次期当主の座にある彼へ媚びへつらう貴族たちの愛想笑いが飛び交う、息の詰まる晩餐会。
あるいは、滅多に屋敷に帰らない多忙な父と向き合う、言葉一つ、食器の音一つすら響かない氷のように冷たい食事くらいしかない。
「……ライさん? どうしました? やっぱり、お口に合いませんか?」
心配そうなラースの声で、ライオットはハッと我に返った。
気がつけば、目の前には湯気を立てるシチュー。
薪の爆ぜる狭い部屋。
向かいの席には心配そうにこちらを覗き込むラースと、横で「やっぱりお腹を壊す前に食べるのやめましょう若様!」とオロオロしているモーブルがいる。
「……ううん。いただくね」
ライオットは小さく首を振り、スプーンでシチューをすくい、ゆっくりと口に運んだ。
「あ……」
口の中に広がったのは、優しくも奥深い旨味だった。
古びたはずの根菜は驚くほど甘く、硬いはずのクズ肉は舌の上でホロホロとほどけていく。
黒パンを浸せば、旨味の溶け出したスープをたっぷりと吸い込み、極上のごちそうへと姿を変えた。
安い食材の寄せ集めだとは到底信じられない、丁寧な下ごしらえと工夫が詰まった見事な味わい。
「……ライくん、無理しなくていいんですよ。ささっ、ペッと吐き出して――」
「おいしい」
ぽつりと。静かな部屋に、ライオットの微かに震える声が響いた。
「え?」
「……おいしい。すごく、おいしい」
もう一口、すくう。
熱いスープが食道を通り、胃袋へと落ちていく。
その瞬間、まるで氷漬けになっていた内臓がじんわりと溶かされていくような、不思議な感覚に襲われた。
誰かが自分のために作ってくれた手作りの料理。同じテーブルを囲み、同じ釜の飯を食う、騒がしくて温かい時間。
ただ「おいしいね」と笑い合いながら、家で誰かと一緒に同じ鍋をつつき、温かい食卓を囲む。
そんな、世間の誰もが当たり前に享受している『食事の風景』を、ライオットはこれまで一度も経験したことがなかったのだ。
「……ライさん?」
ラースが目を丸くした。
ライオットの分厚い伊達メガネの下から、ぽろり、と。
大粒の透明な雫がこぼれ落ち、シチューの中に小さな波紋を立てたからだ。
「ひ、ひぃぃぃ!? わ、若様が泣いておられる!?」
モーブルが悲鳴を上げて飛び上がった。
「や、やはり庶民の残飯などお口に合いませんでしたか!? それともわしらが何か無礼な真似を!? ああっ、終わった! 不敬罪で極悪雷撃魔法が落ちて消し炭にされるゥゥ!」
「えええ!? ど、どうしよう! ごめんなさいライさん、すぐにお水を! あと解毒ポーションを!」
ライオットが突然涙を流したことで、モーブルとラースは最悪の事態(毒殺未遂、あるいは不敬罪による処刑)を想像してパニックに陥り、狭い台所をドタバタと走り回り始めた。
その騒がしくて、みっともなくて、けれど優しさに溢れたドタバタ劇を見つめながら。
「……違う」
「えっ?」
「……不敬でも、毒でもない。ただ、お料理おいしかったから……びっくりして、涙が出ちゃっただけ」
ライオットは涙を拭いもせず、固い黒パンをシチューに浸し、大きな口を開けてパクリと頬張った。
「……先輩、おかわり、ある?」
「あ……は、はい! いっぱいありますよ! 鍋にたっぷり!」
ラースはパッと顔を輝かせ、満面の笑みで頷いた。
そして、すっかり「先輩」という立場に気を良くしたのか、えっへんと得意げに小さな胸を張る。
「えへへ、そんなに喜んでもらえるなら作りがいがあります! よーし、これからは『先輩』であるこの僕が、おいしいまかないの作り方を『後輩』のライさんにイチから伝授してあげますよ! まずは安いカチカチのお肉を、魔法みたいに柔らかくする特訓から――」
「調子に乗って先輩風を吹かすな阿呆ラース!!」
スパーンッ! と、容赦のないモーブルのツッコミがラースの脳天に炸裂した。
「い、痛ぁっ!?」
「若様……いや、ライくんにこれ以上、我が商会の貧乏飯を食わせるどころか、作らせようとするんじゃない! 今回は奇跡的に免れたかもしれんが、万が一包丁で指でもお切りになられたら、絶対にわしの首が物理的に飛ぶんだよ!!」
「ええーっ、でも見てくださいよ! ライさん、お料理も覚えたいって顔でウズウズしてますよ!」
「お前はわしの命より後輩のスキルアップを取る気かぁぁ!!」
頭を抱えて涙目で怒鳴り散らすモーブルと、叩かれた頭を押さえて不満げに唇を尖らせるラース。
まったく噛み合わない、けれどどこか気の置けない二人のドタバタ劇を見つめながら。
ライオットはふふっ、と小さく笑い声をこぼした。
「……明日のお料理特訓、楽しみ」
「だからわしの話を聞いてくだせえええ!?」
モーブルの悲痛な叫びが響く中、狭い食卓には温かな笑い声が満ちていく。
カチャカチャと鳴る、不揃いな食器の音。
湯気の向こうで交わされる、騒がしくも心地よい言葉たち。
ライオット・ヴァルディスの初めての『アルバイト研修』は、こうして騒々しくも、温かい夕食の匂いと共に夜へ溶けていく。