モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
カラン、と。
年季の入った樫の扉が、ひどく間の抜けた鐘の音を響かせて開いた。
帳簿という名の数字の海へ沈みかけていた店主、ジンジ・モーブルは、いかにも億劫そうに顔を上げた。
扉の前に立っていたのは、見慣れない若い男だった。
上質な濃紺のベルベットで仕立てられた上着。
磨き上げられた革靴。
雨風にも、荒事にも縁がなさそうな白い手。
どう見ても、薄汚れた冒険者や、値切ることしか頭にない貧乏平民ではない。
(ほう……)
モーブルのどんよりと濁っていた双眸に、鋭い
(随分と身なりのよい客が迷い込んできたものだ)
若者は扉を開けた姿勢のまま、店内を恐る恐る見回していた。
壁一面には、鋭く研ぎ澄まされた長剣や戦斧、槍、曲刀が、種類ごとに隙間なく並べられている。
刃こぼれした粗悪品など、一振りもない。
どの武器も丁寧に手入れされ、魔導灯の光を受けた刃先が、触れれば指など容易く落ちそうな冷たい輝きを放っていた。
天井から吊るされているのは、巨大な蜥蜴の丈夫な革や、魔獣の牙を加工した弓の素材。
棚には、傷を瞬時に塞ぐ治療薬、筋力を一時的に引き上げる強化薬、毒や麻痺を打ち消す解毒薬など、魔獣との戦闘を生き延びるための戦闘用ポーションが、色別にぎっしりと並べられている。
どれも粗野な荒くれ者たちが命を預けるに足る、実用性と品質を備えた品ばかりである。
だが、戦いとは無縁に見える若者の目には、それらすべてが今にも襲いかかってきそうなほど物騒に映っているらしい。
店の奥では、顔に大きな傷を持つ冒険者が、買ったばかりの戦斧を両手で持ち上げ、刃の重心を確かめていた。
「悪くねぇ。これなら岩甲熊の頭蓋でも割れそうだ」
隣では、筋骨隆々の冒険者が、戦闘用ポーションを何本も卓上へ並べ、店員へ詰め寄っている。
「こっちの強化薬を二本同時に飲めば、効果も倍になるんだろうな?」
「筋力は倍近くなりますが、心臓が止まる危険も倍以上になります。死体になってから苦情を言われても返金できませんよ」
「なら三本なら?」
「店の外で飲んでください」
荒っぽい会話が店内を飛び交った。
若者の肩が、びくりと跳ねる。
胸に抱えていた立派な布包みを、思わずぎゅっと抱き締めた。
「あ、あの……」
何かを言おうとして口を開く。
だが、その横を、背中に巨大な両手剣を担いだ大男が通り過ぎた。
磨き上げられた鞘の金具が、若者の肩すれすれを掠める。
「ひっ……」
若者は慌てて身を縮めた。
「その……こちらが……ええと……」
声が尻すぼみになっていく。
どうやら、店を間違えたのではないかと不安になっているらしい。
今にも「失礼しました」と頭を下げ、そのまま扉の外へ逃げ出しそうな顔をしている。
(逃がすものか)
モーブルは、先ほどまでの不機嫌そうな表情を一瞬で消し去った。
「いらっしゃいませ!」
椅子から勢いよく立ち上がる。
そして大きな腹を揺らし、両手を揉み合わせながら、若者のもとへ滑るように歩み寄った。
「ようこそ、モーブル商会へ! 武具、魔導具、戦闘薬、冒険用品、珍品、遺物まで、命を預けるに足る一流品から、懐に優しい実用品まで幅広く取り揃えておりますぞ!」
「あ……は、はい」
「ご安心ください。当店では、安いだけの粗悪品は扱っておりません。たとえ銀貨一枚の品であろうと、いざというとき持ち主を裏切らぬ物だけを棚へ並べております」
モーブルは自信たっぷりに胸を張った。
「もっとも、使い方を誤った客の命までは保証できませんがな!」
「そ、それは……そうでしょうね」
「ささ、入口でそのように固まっておられず、どうぞ中へ」
モーブルは揉み手を続けながら、にこやかに若者を店内へ招き入れる。
「お客様のような上品な方が扉の前に立っておられては、通行人が当店を貴族御用達の高級店と勘違いしてしまいますからな」
「それは、褒められているのでしょうか……?」
「もちろんでございますとも!」
愛想よく答えながら、モーブルは若者の周囲をさりげなく回り込んだ。
近づいてみれば、服の仕立ては遠目で見た以上に上等だった。
量産品ではない。
体形に合わせて作られた、完全な誂え物だ。
襟元の縫製も、袖口の銀糸も、相応の職人へ頼まなければ用意できない。
だが、派手に富を見せびらかす趣味ではないらしい。
宝石類は少なく、装飾も控えめ。
その代わり、左の袖口に小さな紋章が刺繍されている。
翼を広げた、銀の鷹。
(銀鷹の紋章……)
モーブルの頭の中で、情報という名の算盤玉がぱちりと動いた。
イングラジアの貴族家の中で、銀鷹を家紋に用いる一族は多くない。
少なくとも、このカヴェナ近郊で該当する家は一つだけだ。
(ウィルハルケン家か)
モーブルは完璧な愛想笑いを浮かべたまま、さらに観察を続ける。
二十代半ばほど。
身なりは立派だが、供も連れず、荒くれ者ばかりの店へ一人で入ってきた。
貴族らしい尊大さはなく、むしろ平民の店主を前にしてさえ、どこか申し訳なさそうにしている。
先代ジョハン・ウィルハルケン男爵は、すでに故人。
家を継いだ一人息子は、社交界へほとんど顔を出さず、気弱で世間知らずだという噂だった。
年齢。
家紋。
頼りなげな振る舞い。
すべてが一致する。
(なるほど。こやつが噂の若当主か)
目の前の青年は、モーブルがすでに自分の身元を割り出したとも知らず、何度か口を開いては閉じていた。
「あの……私は、その……」
青年が意を決したように口を開く。
だがその瞬間、すぐ横から傭兵の野太い怒鳴り声が飛び、肩がびくりと跳ねた。
「こちらの店主殿に……その、少々……お願いしたいことが……」
胸に抱えた布包みを、守るように抱え直す。
何か大切な用件を抱えていることだけは明らかだった。
しかし、鋭い武器と戦闘薬に囲まれ、荒くれ者たちの笑い声や怒号が飛び交う店内の空気に、すっかり呑まれてしまっている。
言葉が喉元まで上がってきては、押し戻されているようだった。
「どうぞ、ご心配なさらず」
モーブルは、できる限り人のよさそうな笑みを浮かべて声をかけた。
「ここにいる連中は、見た目と声と態度が少々物騒なだけでございます」
「そ、そうなのですか……?」
「ええ。今のところ、店内でほかのお客様を食べた者は一人もおりません」
「今のところ……っ!?」
青年の顔から、さっと血の気が引いた。
布包みを抱く腕にも、いっそう力がこもる。
「ほっほっほ。これは失礼。少々、冗談が過ぎましたかな」
モーブルは、愉快そうに大きな腹を揺らした。
「なに、当店のお客様方は、少々見た目が厳つく、声が大きく、物騒な武器を持ち歩き、ときおり魔獣の返り血を浴びたまま来店される程度で――」
「まったく安心できる要素がありません!」
青年の声が、店内へ思いのほか大きく響いた。
「おや」
モーブルが目を瞬かせる。
「ようやく、よい声が出ましたな」
「あ……」
青年は、自分が思わず声を張り上げたことに気づき、恥ずかしそうに口元を押さえた。
頬がうっすらと赤くなる。
モーブルは愛想笑いを浮かべたまま、内心で満足げに頷いた。
緊張で固まっていた舌は、どうやら少しほぐれたらしい。
「ご安心を。当店の客は荒っぽくとも、礼儀と代金だけは心得ております。店内で刃傷沙汰を起こした者には、壊した商品の代金をきっちり上乗せして請求いたしますので」
「治安ではなく、請求書で秩序を守っているのですか……?」
「商人の店ですからな」
モーブルは当然のように答えながら、青年が胸へ抱えている布包みへ視線を落とした。
買い物に来た者の持ち方ではない。
売り払おうとしている者とも違う。
傷一つつけまいと、両腕で包み込むように大切に抱えている。
荷物の形は四角い。
大きさは小ぶりな箱ほど。
布そのものも上等で、包み方からして使用人任せではなく、本人が何度も結び直したような不格好さがあった。
(鑑定の依頼か。あるいは、表では相談できぬ厄介事を抱えてきたか)
相手は何者か。
なぜここへ来たのか。
そして、その用件へいくらまで金を出せるのか。
モーブルの頭の中で、算盤玉が休む間もなく弾かれていく。
その視線は、若者の顔から衣服へ。
衣服から袖口へ。
そして、銀糸で刺繍された紋章の上で止まった。
翼を広げた銀の鷹。
(やはり、ウィルハルケン家か)
カヴェナから西に位置する辺境の町、ヴァーゼル。
その周辺に広い私有地を持つ、古い下級貴族の家系。
先代のジョハン・ウィルハルケン男爵は数年前に亡くなり、現在は若い一人息子が家督を継いでいる。
社交界へほとんど姿を見せず、温厚ではあるが、少々気弱で世間知らず。
商人の間を流れる噂と、目の前の青年の姿が、ぴたりと重なった。
「それにしても――」
モーブルは揉んでいた両手を胸元で恭しく重ねた。
「銀鷹の紋章を掲げるお方が、まさか供も連れず、当店へ直々にお越しくださるとは。まこと、光栄の至りでございますな」
青年が目を瞬かせる。
モーブルは、さらに深く頭を下げた。
「ウィルハルケン男爵様」
「えっ」
青年の目が、驚きに大きく見開かれた。
「なぜ、私のことを……? まだ名乗ってもいないのですが」
「商人にとって、家紋と家名を覚えることは、帳簿の数字を覚えるのと同じでございます」
もちろん、本人と顔を合わせるのはこれが初めてだった。
実際には家紋と年齢、それに巷の噂から推測しただけである。
だが、そんな種明かしをする必要はない。
「ヴァーゼルに土地をお持ちのウィルハルケン家。そして先代様の後を継がれた、若きご当主。これだけ条件が揃えば、私めのような商人でも察しがつきますので」
「なるほど……」
青年は感心したようにモーブルを見つめた。
先ほどまでの怯えた表情に、わずかな安堵が混じる。
「こちらこそ、名乗りもせず失礼いたしました。ジョージ・ウィルハルケンと申します」
「存じ上げておりますとも」
モーブルは、先ほどまで帳簿へ向けていた不機嫌な顔など初めから存在しなかったかのように、満面の笑みを浮かべた。
「ようこそお越しくださいました、ウィルハルケン男爵様。汗と土埃にまみれた冒険者ばかりが出入りする当店へ、これほど気品あふれるお客様をお迎えできるとは」
両腕を広げ、大仰に店内を示す。
「まこと、店の格まで一段上がったような心地でございます」
「そ、そこまで仰っていただかなくても……」
ジョージは気恥ずかしそうに視線を伏せた。
露骨な世辞だと疑う様子すらない。
(貴族のくせに、商人の愛想をそのまま受け取るとは)
モーブルの笑みが、ほんのわずかに深くなった。
(噂以上に素直な若者らしい。これは、思った以上の上客かもしれんな)
「それで、男爵様」
モーブルは、改めて布包みへ視線を向けた。
「本日は、どのようなご用件で当店へ?」
「はい。実は……」
ジョージは腕の中の包みを見下ろした。
一度、言葉を選ぶように唇を結ぶ。
「買い物に来たのではありません。モーブル殿に、どうしても見ていただきたい物があるのです」
ようやく用件を口にできたことへ安堵したのか、小さく息を吐く。
そして胸に抱えていた立派な布包みを、両手で丁寧に差し出した。
「ほう。私めに鑑定を?」
「モーブル商会の主であれば、どのような品でも、その価値と正体を見抜くと伺いました」
ジョージは布包みを差し出したまま、深く頭を下げた。
「突然押しかけ、このようなお願いをするのが失礼であることは承知しております。ですが……どうか、お力を貸していただけないでしょうか」
モーブルの頬が、ぴくりと動いた。
(なるほど。世間知らずなうえに、こちらを随分と買いかぶっておる)
貴族の身分を振りかざすどころか、平民の商人へ頭まで下げている。
依頼を受けてもらうことを当然とも思っていない。
そして、この様子なら、必要とあれば相応の金も惜しまないだろう。
モーブルにとって、それは非の打ち所がない完璧な
「いやいや。世間の噂というものは、随分と尾ひれがつくものでしてな」
モーブルは大仰に首を横へ振った。
「私めなど、日々、冒険者の皆様が命懸けで持ち帰った戦利品の埃を払い、その価値に見合った値をつけているだけの、しがない小商人に過ぎませぬよ」
口では殊勝にへりくだりながら、相手の反応を探るため、わざと困ったように眉を下げてみせる。
「ただ、ご覧の通り、現在は棚卸しの最中でございましてな」
「棚卸し……」
「ええ。本来、貴族様から個人的な鑑定依頼を受ける場合には、商業ギルドを通した事前予約と、しかるべき方からの紹介状が必要となっております」
「えっ……!」
ジョージの顔から、見る間に血の気が引いた。
「そ、そのような決まりがあったのですか。申し訳ありません。私、市井の商いにおける作法を、ほとんど存じ上げず……!」
断られたと勘違いしたらしい。
権威を振りかざして例外を認めさせようとするどころか、ひたすら自分の不勉強を恥じて狼狽え始める。
「では、本日はお引き取りを」
そう告げられる前に何とかしなければと思ったのだろう。
ジョージは慌てて懐へ手を入れると、小ぶりな金貨袋を取り出した。
「どうか、そこを曲げてお願いできないでしょうか」
両手で金貨袋を差し出す。
「もちろん、予定外のお時間を割いていただく相談料として、こちらをお納めいたしますので……!」
(ふむ)
ほんの少し難色を示しただけで、自ら財布を開いた。
しかも、相場を尋ねるより先に金貨袋そのものを差し出してくる。
(押しに弱いどころか、腹芸の一つもできん手合いと見える)
モーブルは表情を崩さぬまま、内心で深くほくそ笑んだ。
「……そうまで仰るのでしたら」
すぐには答えない。
たっぷりと間を置き、金貨袋とジョージの顔を交互に見た後、仕方なく折れたように重々しく頷く。
「男爵様の並々ならぬ熱意に免じ、今回ばかりは特例といたしましょう」
「あ……ありがとうございます!」
「もっとも、今お受けするのは、あくまでお話を伺うところまで。正式な鑑定をお引き受けできるかどうかは、品物を拝見してからとなりますが」
「はい。それで構いません!」
「よろしい」
モーブルは金貨袋を受け取ると、その重さを確かめる素振りすら見せず、流れるように懐へ収めた。
「ここでは落ち着いて話もできません。ささ、地下の貴賓室へご案内いたしましょう」
ジョージは目に見えて安堵し、深く息を吐いた。
そしてモーブルに促されるまま、地下へ続く階段へ向かって歩き出す。
その背中を追いながら、モーブルは懐の金貨袋へそっと手を添えた。
(相談を始める前から、これか)
愛想笑いの奥で、捕食者の目が細くなる。
(さて。どれほど大きな商談へ育ってくれることやら)
◆
地下にある貴賓室は、上階の雑然とした店内とは別世界だった。
厚い絨毯。
磨き上げられた木製の机。
柔らかな長椅子。
防音の魔法が施された壁。
温かな茶を出されたジョージは、ようやく人心地ついた様子だったが、それでも歴戦の商人と向かい合うことには慣れていないらしい。
背筋を伸ばし、膝の上で両手を固く握っている。
「さて――」
モーブルは先ほどまでの朗らかな笑みを消し、人差し指を一本立てた。
「お話を伺う前に、一つだけ確認しておきたいことがございます」
「はいっ」
ジョージの肩が、びくりと跳ねた。
「先ほど頂戴した金貨は、あくまで相談料でございます」
「相談料……」
「ええ。お持ち込みいただいた品によっては、別途、相応の鑑定料を頂戴いたします」
「か、鑑定料ですか」
「市場価値を調べる程度なら、小銭で済みます。しかし、来歴の調査、魔法的な解析、危険物の検査となれば話は別です」
モーブルは、わざと声を低くした。
「必要となる時間も、技術も、そして何より、私めが負う責任も段違いでございますからな」
ジョージの顔に、不安の影がよぎる。
だが、反論も、値切りもしなかった。
「も、もし高額になったとしても、お支払いは必ずいたします……!」
「おやおや」
モーブルは表面上だけ驚いたように目を丸くした。
愛想笑いの奥では、獲物を前にした肉食獣のように、深く口角を吊り上げている。
「それほどまでに、男爵様にとって重要な品でございますかな?」
「はい」
ジョージは両手を握り締め、悲壮な決意を込めて頷いた。
「父の遺品なのですが……ただの形見ではありません。我がウィルハルケン家を没落の危機から救う、隠し財産の在り処を示す品なのです」
(ほう)
金に糸目をつけない。
しかも、相当に切羽詰まっているらしい。
モーブルの頭の中で、算盤玉がさらに勢いよく動き始めた。
「よろしい。まずは、その品を拝見いたしましょう。請求書の話は、品物の顔を見てからにいたしますかな」
「ありがとうございます」
ジョージは安堵の息を吐いた。
そして、テーブルの上へ布包みを置き、結び目を慎重に解いていく。
包みが開かれた瞬間。
モーブルの目が、すっと細められた。
中から現れたのは、小ぶりな菓子箱ほどの古びた木箱だった。
黒檀の表面には、ミスリルと思しき銀色の金属線が、目眩を覚えるほど複雑な幾何学模様を描いて象嵌されている。
だが、決定的に不自然だった。
どの方向から眺めても、鍵穴がない。
それどころか、蓋が開くはずの境目すら見当たらなかった。
「失礼を承知でお尋ねしますが……男爵様」
モーブルは箱を覗き込んだ。
「これは本当に箱なのですかな? 見ようによっては、手の込んだ木塊にも見えますが」
「い、いえ! れっきとした父の遺品です!」
ジョージは慌てて身を乗り出した。
「父は生前、こう申しておりました。この箱には、ウィルハルケン家が窮地に陥ったとき、家を立て直すための『真の財産』が眠っている、と」
「真の財産……」
「ですが、帝都から何人もの鍵開け師や錬金術師を呼んでも、誰一人として開けられませんでした。傷一つつけることすらできなかったのです」
ジョージは、すがるような目で木箱を見つめた。
「今月末までに莫大な借金を返済できなければ、家の土地も屋敷も債権者に差し押さえられます。爵位を維持することさえ難しくなるでしょう」
握り締めた拳が震える。
「何としてでも、この箱を開けなければならないのです」
悲痛な声を受け、モーブルは両手で黒檀の箱を持ち上げた。
ずしりとした重み。
指先からは、内部を循環する未知の魔力の脈動が微かに伝わってくる。
表面の模様をなぞる。
すると、その一部が――。
カチリ。
極めて小さな音を立てて、わずかに沈み込んだ。
(……ほう)
モーブルの濁った瞳に、商人とは別の知的な光が宿る。
(単なる封印箱ではないな。魔法と物理機構を組み合わせた、超精密な
モーブルの頭の中で、ぱちん、どころではない。
算盤そのものが弾け飛びそうな勢いで、勘定が始まった。
ただの鑑定ならば相場がある。
だが、国中の専門家が誰一人として開けられなかった謎の箱となれば、話はまったく別だ。
依頼主は、家の破産まで時間のない貴族。
しかも、世間知らずで、交渉にも慣れていない。
いくらでも名目をつけられる。
特別調査料。
優先作業料。
危険物取扱料。
未知術式解析料。
そして解錠に成功した場合の、成功報酬。
――しかも、旨味は手数料だけではない。
(ウィルハルケン家は、没落寸前とはいえ、魔導国の最高学府たるマーリン魔法大学を束ねるルブルース公爵家の遠縁だったはず)
この若い男爵を救えば、どうなるか。
箱の中に本当に莫大な財産が眠っていれば、解錠報酬として相応の取り分を要求できる。
それだけではない。
ウィルハルケン家を通じ、ルブルース公爵家へ恩を売れる可能性まである。
未知の絡繰りへ挑む手間を差し引いても、釣り上げる価値は十分だった。
「ふぅむ……」
モーブルは大げさに眉間へ皺を寄せ、重々しく鼻の下の髭を撫でた。
「確かに、一筋縄ではいかぬ代物ですな」
「やはり、難しいでしょうか……」
「魔法術式と物理的な仕掛けが、幾重にも絡み合っております。下手に手を出せば、内部の品を破損する可能性も否定できませぬ」
実際には、まだ何も分かっていない。
だが、不安を煽るなら、専門用語は多い方がよい。
「万が一、中にある財産を消し飛ばしてしまえば、当商会にも重大な責任が伴います。極めて危険で、困難な作業となるでしょう」
「そんな……」
「ですが」
モーブルは、沈みかけたジョージの顔を見て、満を持して笑みを浮かべた。
「よろしい。今回は特別に、この私が直接お預かりいたしましょう」
「ほ、本当ですか!?」
ジョージの顔が、ぱっと明るくなる。
「恩に着ます、モーブル殿!」
「いえいえ。困っている方へ手を差し伸べるのも、商人の務めでございますからな」
口では善良そうに答えながら、モーブルの頭の中では、すでに請求書の項目が十を超えていた。
複雑な魔法機構や絡繰りを解析する技術は、幼い頃から錬金術の師匠に嫌というほど叩き込まれている。
決して、見込みのない賭けではない。
無事に解錠した暁には、各種手数料をたっぷりと頂戴する。
そのうえで、ルブルース公爵家へ通じる恩人という、金では買えない席まで手に入れる。
「ええ、すべて私めにお任せください」
モーブルは、両手で箱を丁寧に抱えた。
「このモーブル商会の看板にかけて、必ずや男爵様を絶望の淵からお救いしてみせましょうぞ」
恭しく頭を下げるモーブルの顔には、善良で頼もしい商人を装った、完璧な笑みが張りついていた。
その奥に、底知れぬほど強欲で野心的な本性が潜んでいることなど。
世間知らずな若き男爵は、まだ知る由もなかった。
♦
しかし――。
箱の中身から報酬をたっぷり頂戴し、ついでに上級貴族への伝手まで手に入れる。
そんなモーブルの強欲にして完璧な目論見は、早くも暗礁へ乗り上げていた。
あれから、丸三日。
モーブルは店の地下にある錬金工房へ籠もり、食事と睡眠すら惜しみながら、黒檀の箱と格闘し続けていた。
魔力を遮断する。
駄目。
象嵌されたミスリルの線だけを錬金術で溶かそうとする。
その瞬間、銀の紋様が青白く発光し――。
バチィッ!
「ぐおっ!」
強烈な反発魔力に弾かれ、太い指先から焦げ臭い煙が上がった。
「ならば、物理的にこじ開けてやる!」
今度は工具を替える。
鋼鉄製の楔。
錬金術で強化した鑿。
岩盤を砕くための大型槌。
果ては、冒険者用の魔導切断具まで持ち出した。
だが――。
ガンッ!
甲高い音が工房中へ響き渡り、握っていた鑿の先端だけが無残に潰れた。
箱の方には、傷一つない。
「……何なのだ、こいつは」
モーブルは荒い息を吐きながら、作業台の上に鎮座する黒檀の箱を睨みつけた。
材質だけを見れば、確かに木だ。
少なくとも、表面は黒檀にしか見えない。
だというのに、その硬度はオリハルコンに匹敵するどころか、下手をすればそれ以上。
しかも、強い衝撃を与えれば、内部の魔力回路が即座に反応し、力をそのまま外へ弾き返してくる。
「くそっ……!」
モーブルは槌を作業台へ叩きつけた。
「何なのだ、この箱は! このわしの手に負えんとでもいうのか!」
充血した目。
乱れた髪。
伸びた無精髭。
三日間ほとんど眠っていない顔には、商人らしい余裕も、客前で見せる愛想笑いも残っていなかった。
箱が開かない。
それだけなら、まだいい。
問題は、この箱がモーブルの知識を嘲笑うかのように、試す方法のすべてを跳ね返してくることだった。
一流の商人として。
そして何より、腕の立つ錬金術師として。
自分ならば必ず解けると信じていた絶対的な自負が、目の前の小さな箱によって、少しずつ削り取られている。
その事実が、何よりも腹立たしかった。
コンコン。
遠慮がちな音が、工房の扉を叩いた。
「あの……旦那様」
扉がわずかに開き、羊のような角を生やした魔族の少年が顔を覗かせた。
モーブルの奴隷であり、店の従業員でもあるラースだった。
両手には、湯気の立つ茶と、簡単な軽食を載せた盆を抱えている。
「お茶をお持ちしました。昨日の夜から、何も召し上がっておられませんので……」
「…………」
モーブルは返事をしなかった。
箱を睨みつけたまま、焦げた金属線の残骸を指先で弄っている。
ラースは主人の機嫌を窺いながら、そっと工房へ足を踏み入れた。
「旦那様。少しだけでも、お休みになられた方が……」
「必要ない」
「ですが、旦那様のお顔が、ひどくお疲れで……」
ラースの真紅の瞳には、隠しようのない心配が浮かんでいた。
「旦那様あってのモーブル商会です。もし旦那様が倒れられたら、僕は……」
「……うるさい」
低い声が落ちた。
ラースの足が止まる。
「え……」
「やかましいと言っておる!」
モーブルは勢いよく振り返った。
「こっちは一瞬の気の緩みも許されん作業の真っ最中なのだ! 茶だの食事だの、くだらんことで邪魔をするな!」
「も、申し訳ございません……!」
「貴様は表へ戻れ! わしが店へ出られん間くらい、下の小僧どもを働かせて、銅貨の一枚でも多く稼いでこい!」
血走った目でラースを指差す。
「いいか。わしが工房へ籠もっている間に、売上が銅貨一枚でも下がってみろ」
「は、はい……」
「貴様の頭から生えたその角を根元から切り取り、細かく削って、冒険者どもへ精力剤として売り捌いてやるからな!」
「ひゃ、ひゃいっ!」
ラースは涙目になりながら、深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございませんでしたぁっ!」
盆を抱えたまま踵を返し、逃げるように工房を飛び出していく。
バタン。
扉の閉まる音が、地下室へ虚しく響いた。
「…………」
静寂が戻る。
モーブルはしばらく、閉じた扉を睨んでいた。
完全な八つ当たりだった。
ラースは何一つ悪くない。
むしろ、三日も工房へ籠もり続けている主人を心配し、食事と茶まで運んできただけだ。
「……ちっ」
モーブルは、ひどく居心地悪そうに舌打ちした。
作業台の端には、ラースが置いていった茶が残されている。
まだ湯気が立っていた。
「余計な心配をしおって……」
悪態をつきながらも、茶が冷める前に一口だけ飲む。
喉へ染み込む温かさに、自分が想像以上に消耗していたことを否応なく思い知らされた。
「……認めたくはないが」
モーブルは椅子へ重い体を沈めた。
「わしの腕と知識をもってしても、この絡繰りを正面から紐解くのは、少々骨が折れるらしい」
箱を叩く。
黒檀の表面は、相変わらず何の反応も示さない。
「いっそのこと、ニーシャ坊っちゃんにでも頼んで、爆炎魔法で外殻ごと吹き飛ばしてもらうか……」
脳裏に、眩しい金髪と生意気な青い瞳を持つ少年の姿が浮かぶ。
十二歳にしてマーリン魔法大学の教授。
火系魔法、とりわけ爆炎魔法においては、並の宮廷魔法使いを遥かに凌駕する天才。
彼ならば、この異常な強度を持つ箱でさえ、外側から粉々にできるかもしれない。
「……いや、駄目だ」
モーブルはすぐに首を振った。
「あの坊っちゃんに見せれば、箱を開ける前に研究対象として持ち去られる。下手をすれば、わしの工房ごと爆破しかねん。仮に爆炎で外殻を破壊できたとしても、中身の財産まで灰になれば報酬はゼロ。男爵様の家も終わり。わしの利益も消える」
モーブルは腕を組み、唸った。
「安全に開けねばならん。外から壊すのではなく、仕掛けそのものを読み解く必要がある」
魔力回路。
物理機構。
古代文字。
罠。
複雑に絡み合った、正体不明の仕掛け。
それらを一つずつ見抜き、解除することに長けた人間。
「他に何か、安全かつ確実な手立てが……」
――その時だった。
モーブルの脳裏に、一人の少年の顔が稲妻のように閃いた。
古代遺跡やダンジョンに仕掛けられた、凶悪な罠の解除を得意とする。
常人には見えない痕跡を見つけ出し、複雑な仕掛けを暴き、誰も知らない道を見つける探索と追跡の専門家。
この呪いのように絡み合った超精密な絡繰りを解ける者がいるとすれば――。
「……ちっ」
モーブルは、苦虫を三匹まとめて噛み潰したような顔になった。
「ひどく癪だが、あやつを呼ぶしかないか」
脳裏に浮かぶのは、いつも狐のような目を細め、こちらの懐事情を見透かしたようにケラケラと笑う、小柄なエルフの顔。
紫がかった髪。
小さな体。
耳障りなほどよく回る口。
シルバーランクの凄腕探索者でありながら、ミニコミ紙『カヴェナ通信』を発行するフォックス広告の社長兼編集長まで務める、食えない変わり者。
ネリオ・フォックスライド――。
モーブルが常日頃から「小妖精」と忌々しげに呼ぶ相手である。
「絶対に、足元を見てくるだろうな……」
依頼料。
危険手当。
特別取材費。
そして何より、面白そうな話を嗅ぎつければ、新聞記事にしようと食いついてくる。
呼びたくない。
できることなら、絶対に頼りたくない。
だが、背に腹は代えられなかった。
「おい、ラース!」
モーブルは椅子から立ち上がると、閉じた扉の向こうへ向かって怒鳴った。
「まだ、そこにいるか!」
「ひっ!」
扉のすぐ外から、怯えきった声が返ってきた。
どうやら、命令どおり表へ戻らず、主人の様子を心配して廊下に残っていたらしい。
「……は、はい。おります、旦那様」
モーブルは一瞬だけ黙った。
「その……茶は、悪くなかったぞ」
「え……?」
「二度は言わん!」
「は、はい! ありがとうございます!」
扉の向こうの声が、わずかに明るくなる。
モーブルは気まずそうに鼻を鳴らし、それからいつもの調子で命じた。
「すぐにフォックス広告へ使いに行け」
「フォックス広告、ですか?」
「ああ。ネリオの奴に、こう伝えろ」
モーブルは作業台の上の黒檀の箱を、憎々しげに睨みつけた。
「世紀の大仕事をくれてやる。今すぐ来い――とな」
「承知いたしました!」
ラースが廊下を駆けていく足音が遠ざかっていく。
モーブルは腕を組み、深いため息をついた。
「まったく……」
箱を開ける前から、すでに余計な出費が確定したような気がする。
「男爵様へ請求する項目が、また一つ増えたわい」