※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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第五十四話 おしゃべりエルフと古代の『問いかけの箱』②

 ラースを使いに出してから、数時間後――。

 

 モーブル商会の地下にある貴賓室では、重苦しい沈黙が続いていた。

 テーブルの中央には、銀の幾何学模様が刻まれた黒檀の箱が鎮座している。

 

 その正面に座るジョージ・ウィルハルケン男爵は、父の遺品に傷がないことを何度も確かめては、安堵と不安の入り交じった表情を浮かべていた。

 

「ひとまず、箱が無事で安心しました」

 

「無事も無事。わしの貴重な睡眠時間を丸三日食い潰しておきながら、憎たらしいほど元気ですぞ」

 

 向かいの椅子へ深く沈み込んだモーブルが、血走った目で箱を睨みつける。

 

「どの錬金薬も通用せず、魔力も弾く。おまけにオリハルコン並みの頑丈さときた。ここまで丈夫なら、城壁の建材として売り出した方が儲かるかもしれませんな」

 

「建材……?」

 

 ジョージが不安そうに眉を寄せた、そのときだった。

 階上から、けたたましい音が響く。

 

 カラン、カラーンッ!

 

「ごめんくださーい! 特大スクープの匂いに釣られて、ネリオ・フォックスライド、華麗に参上でぇす!」

 

「……来おったか、小うるさい小妖精め」

 

 モーブルが、槌で殴られたように痛むこめかみを押さえた。

 ほどなくして貴賓室の扉が開き、紫がかった髪を揺らす小柄なエルフが姿を現す。

 そばかすの散った瑞々しい顔立ちは、人間でいえば十歳ほどの少年にしか見えない。

 だが、その実年齢は九十四歳。

 

 シルバーランクの探索者にして、小新聞『カヴェナ通信』を発行するフォックス広告の社長――ネリオ・フォックスライドである。

 

 その背後から、使いを終えたラースが遠慮がちに顔を覗かせた。

 

「だ、旦那様。お言いつけどおり、ネリオさんをお連れしました」

 

「うむうむ。おかえりなさい、ラースくん。いやぁ、本当にご苦労さまでしたねぇ」

 

「うざっ! なぜ貴様が出迎える側なのだ。『おかえり』は、わしの台詞だ!」

 

 ネリオは返事の代わりに、モーブルの顔をじろじろと眺めた。

 

「いやはや。事情を聞かなくても、その顔を見れば大体分かりますねぇ」

 

「何が分かる」

 

「三日三晩、箱に挑み続けて見事に振られ、ついには恥も外聞も投げ捨てて、あたしへ泣きついた顔です!」

 

「おい、誰が泣きついた」

 

「ん〜、違うんですかぁ?」

 

「慈悲深いわしが、暇を持て余している貴様に仕事を恵んでやろうと、わざわざ呼びつけてやったのだ」

 

「仕事を恵む側が、どうして雨の日に捨てられたワンちゃんみたいな目をしてるんでしょうねぇ」

 

「店主を犬扱いするな!」

 

「では、雨に濡れた山ゴリラ」

 

「訂正して悪化させるな!」

 

 ジョージは、初対面の商会主を堂々と山ゴリラ呼ばわりする小柄なエルフを、呆然と見つめていた。

 その視線に気づいたネリオは、ようやくジョージへ顔を向ける。

 すると、先ほどまでの無遠慮な態度が嘘のように、胸へ片手を添えて優雅に一礼した。

 

「おや。こちらが依頼主のウィルハルケン男爵様ですか」

 

 にこやかに笑い、緑のマントをふわりと揺らす。

 

「初めまして。知性と美貌を兼ね備えた、正義に燃えるジャーナリスト――ネリオ・フォックスライドです」

 

「は、初めまして。ジョージ・ウィルハルケンです」

 

「知性と美貌と正義の部分は、本人の申告ですぞ。男爵様」

 

「あひぃっ!? 出会って三秒で信用を毀損しないでくださいよぉ!」

 

 ネリオは不満そうに唇を尖らせると、軽装マントを翻してテーブルへ歩み寄った。

 

「それにしても、自尊心へ服を着せて金貨を握らせたような山ゴリさんが、よりにもよってあたしを頼る日が来るとはねぇ」

 

「頼っておらん。利用するだけだ」

 

「言い換えても、『自分一人ではどうにもできませんでした』という事実は消えませんよぉ」

 

「ぐっ……」

 

「おやおや。本当に、ぐうの音しか出ませんか?」

 

 ネリオは、わざとらしく耳へ手を当てた。

 

「いつもなら屁理屈を三段重ねにして、最後は料金表で殴りかかってくる山ゴリさんが黙りましたよ。これは重症ですねぇ」

 

「誰の屁理屈が三段重ねだ!」

 

「四段でした?」

 

「段数の問題ではない!」

 

 ネリオは素早く手帳を取り出し、さらさらとペンを走らせ始める。

 

「見出しは決まりですねぇ。『謎の箱に敗れた豪商! 絶望の地下室へ舞い降りた、知性と美貌の救世主!』」

 

「いつから貴様が救世主になった!」

 

「到着した時点で、すでに山ゴリさんの精神は救われていたでしょう?」

 

「むしろ悪化しておるわ!」

 

「でも、箱を大槌で百回以上叩く段階からは脱出できましたよ?」

 

「なぜ知っておる!?」

 

「ラースくんが、道中でぜぇんぶ教えてくれました」

 

 モーブルがぎろりと振り返る。

 ラースは肩を跳ねさせ、慌てて両手を振った。

 

「ち、違います、旦那様! 僕はただ、『三日間ほとんどお休みにならず、最後には大きな槌まで持ち出された』と――」

 

「全部しゃべっておるではないか!」

 

「も、申し訳ございません!」

 

 ジョージの顔から、さっと血の気が引いた。

 

「あの……モーブル殿。父の遺品を、大槌で叩いたのですか?」

 

「人聞きの悪い。錬金術的な強度試験です」

 

「何回ほどやりました?」

 

 ネリオが尋ねる。

 

「……覚えておらん」

 

「ラースくん」

 

「百回を超えたところで、数えるのをやめました」

 

「ラース!」

 

「ひゃいっ!?」

 

 ネリオは腹を抱えて笑い出した。

 

「なるほど。『自称一流錬金術師、知恵で敵わず腕力へ。山ゴリ、本能への回帰』と」

 

「書くな!」

 

「だ、旦那様はゴリラではありません!」

 

 見かねたラースが勇気を振り絞って割って入る。

 

「ちゃんとした人間です! 少し体が大きくて、力が強くて、毛深くて……ゴリラと共通点が多いだけです!」

 

「ラース」

 

「は、はい……」

 

「もう何も言うな。貴様の善意が一番深く刺さる。店番へ戻れ」

 

「申し訳ございませんっ!」

 

 ラースは逃げるように貴賓室を出ていった。

 その背中を見送り、ネリオは満足げに手帳を閉じる。

 

「さて。山ゴリさんの尊厳も十分に削れましたし、本題へ入りましょうか」

 

「最初から入れ!」

 

 ネリオはひらひらと手を振り、ようやくテーブルの上へ視線を落とした。

 

「それで――天下のジンジ・モーブルを三日も眠らせなかった箱というのは、これですか?」

 

「ああ」

 

 モーブルは疲れきった顔に、わずかに得意げな笑みを浮かべた。

 

「貴様の大好物だ。『謎』という名の極上料理だぞ」

 

「へえ……」

 

 ネリオは箱へ顔を近づけ、感心したように息を漏らした。

 

「まさか山ゴリさんの店から、まともな料理が出てくるとは」

 

「誰の店が残飯置き場だ!」

 

「そこまでは言ってませんよ」

 

「言外に言っておる!」

 

 ネリオは軽く笑いながら箱を覗き込んだ。

 だが、次の瞬間――その表情が止まる。

 

「……おや」

 

 三日月のように細められていた瞼が、わずかに持ち上がった。

 鮮やかな青い瞳が、黒檀の表面を這う銀の象嵌を捉える。

 先ほどまでの軽薄さは消えていた。

 箱には触れず、身を屈め、角度を変えながら側面や底部を慎重に観察していく。

 やがて腰のポーチから単眼鏡を取り出し、銀の線を一本ずつ追い始めた。

 

「どうだ?」

 

 モーブルが待ちきれずに尋ねる。

 

「急かさないでください。気難しい相手との初対面は、第一印象が大事なんです」

 

「見合いでもしておるのか」

 

「山ゴリさんと違って、あたしは相手の気持ちを尊重する主義なんですよ」

 

「三日で暴力沙汰に発展したわしへの当てつけか!」

 

 ネリオは聞こえないふりをして、箱をさらに詳しく調べていく。

 軽く叩き、内部の反響を聞く。

 爪先で表面を撫で、わずかな段差を探る。

 象嵌へ顔を近づけて匂いを嗅ぎ、挙げ句には銀色の線へ舌先を触れさせた。

 

「おい。本当に食うなよ」

 

「食べませんよ。残留魔力と錬金素材の味を見てるんです」

 

「その説明を聞いても、まったく安心できん」

 

 ジョージも不安そうに見守っていたが、ネリオの目だけは獲物の痕跡を追う狩人のように澄み切っていた。

 やがて、薄い粉を箱の表面へ振りかける。

 粉は銀の象嵌の一部へ吸い寄せられ、隠されていた複雑な線を浮かび上がらせた。

 

「なるほど……これは素晴らしい……!」

 

 ネリオの口元が、ゆっくりと吊り上がる。

 小さく身震いし、恍惚とした息を漏らす。

 

「山ゴリさん。こいつは、ただの出来のよいパズルボックスじゃありませんよ」

 

「それくらいは、わしにも分かる」

 

「これは単なる錠前でも、力任せの魔法封印でもありません」

 

 ネリオは箱を両手で包むようにしながら、銀色の象嵌を見つめた。

 

「古代エルフが作ったとされる、『問いかけの箱』の系譜です」

 

「問いかけの箱……?」

 

 ジョージが小さく呟く。

 

「ええ。持ち主へ謎を示し、正しい答えを見つけた者にだけ、次の道を開く。現存する記録さえほとんど残っていない、失われた古代技術ですよ」

 

 ネリオは指先で箱を軽く叩いた。

 トン。

 黒檀の奥から、微かな金属音が返ってくる。

 

「こいつを開けるために必要なのは、力でも、魔力でも、物理的な鍵でもありません」

 

 妖しく目を細める。

 

「必要なのは――『知恵』です」

 

 気難しい恋人を宥めるように、黒檀の表面をそっと撫でた。

 

「表面を走る幾何学模様、その一つ一つが精巧な謎かけになっています。正しい順番で、正しい答えを示さなければ、この頑固者は決して心を開いてくれません」

 

 ネリオは興奮した様子で手帳を開いた。

 

「いやぁ、これは極上のネタになりますね! 次号の一面は――『モーブル商会に眠る古代の謎! 開かずの箱へ挑む、美しきエルフ社長の華麗なる知性!』で決まりです!」

 

「貴様の三流新聞へ載せるために呼んだのではない! さっさと開けんか!」

 

「まあまあ。歴史的発見を後世へ記録するのも、立派な使命ですよ」

 

「記事の主役を勝手に自分へすり替えるな!」

 

 ネリオは大げさに肩をすくめた。

 

「もっとも――残念ながら、すぐに開けるのは無理そうですけどね」

 

「何?」

 

 モーブルの眉間へ、深い皺が刻まれる。

 

「カヴェナ屈指と呼ばれる貴様の腕でも駄目なのか」

 

「普通の錠前や魔法罠なら、今すぐ解いてみせますよ」

 

 ネリオは指先でペンを回しながら、静かに首を振った。

 

「ですが、相手は古代エルフの『問いかけの箱』です。仕掛けを無視してこじ開けたり、手順を一つでも誤ったりすれば――」

 

 わざと一拍置く。

 

「中身だけが亜空間の彼方へ飛ばされるか、箱そのものが自壊する。運が悪ければ、この店ごと吹き飛びます」

 

「店ごとだと……?」

 

 モーブルの顔から、すっと血の気が引いた。

 ジョージは、さらに青ざめた顔で彼を見る。

 

「モーブル殿」

 

「何ですかな」

 

「先ほど、大槌で百回以上叩いたと……」

 

「表面を軽く小突いただけです」

 

「錬金薬も浴びせたと……」

 

「安全性を確かめるための必要な検査です」

 

「城壁の建材として売ろうとも……」

 

「単なる商売上の着想ですな」

 

「着想!?」

 

 ジョージは両手で頭を抱えた。

 

「これは亡き父の遺品なのですよ! それを大槌で叩き、錬金薬を浴びせ、挙げ句には建材にしようなどと……あまりにもご無体ではありませんか!」

 

「……うるさい」

 

「え……?」

 

「さっきから、うるさいと言っておる!」

 

 モーブルは血走った目でジョージを睨みつけ、テーブルを太い手で叩いた。

 

「わしはな、貴様の依頼を解決するために、貴重な時間と頭脳を丸三日も費やしたのだぞ! 一睡もせず、頭痛と眠気に耐え、使える手段を片っ端から試した!」

 

「で、ですが――」

 

「それを労いの一言もなく、叩いただの薬を浴びせただの、文句ばかり並べおって!」

 

 モーブルは黒檀の箱を指差した。

 

「見ろ! 傷一つついておらんだろうが! 結果として無事なのだから、何の問題もない!」

 

「ひぃっ!」

 

 モーブルの怒声に、ジョージは椅子の背へ逃げるように縮こまった。

 

 依頼人の父親の遺品を大槌で百回以上叩いた張本人とは思えない、見事なまでの逆ギレである。

 

「山ゴリさん」

 

 ネリオが呆れたように頬杖をついた。

 

「相手は一応、男爵様ですよ。貴族相手に逆ギレして怒鳴り散らす商人が、どこにいるんです?」

 

「ここにおる」

 

「胸を張って答えることじゃありませんよぉ!」

 

「貴族の醜聞を嬉々として記事にし、社会的に葬り去っておる貴様にだけは言われたくないわ」

 

「社会的制裁ではなく、正確な報道です」

 

「言い換えただけだろうが」

 

 モーブルは不機嫌そうに鼻を鳴らし、黒檀の箱へ顎をしゃくった。

 

「それより、なぜ開かん。貴様が手を出しても無理な、本当の理由を説明しろ」

 

「この箱、今の状態では完成していないんですよ」

 

「未完成だと?」

 

 ネリオは単眼鏡をモーブルへ手渡し、箱の側面を指差した。

 

「ここを見てください。魔力回路が不自然な位置で途切れているでしょう」

 

 モーブルが単眼鏡を覗き込む。

 

 複雑に絡み合う銀の線の中に、確かに五か所だけ、意図的に切り取られたような空白があった。

 

「本来、この部分には別の魔導部品が組み込まれていたはずです」

 

「魔導部品……」

 

「形状から考えて、おそらく小さな歯車ですね」

 

 ネリオは、五つの窪みを順番に指で示した。

 

「欠けているのは五つ。すべて集め、正しい位置へ組み込まなければ、箱の深部へ魔力が流れません」

 

「では、その歯車がなければ……」

 

 ジョージがおそるおそる尋ねる。

 

「開きません」

 

「絶対に?」

 

「絶対に」

 

「どれほど優れた錬金術師でも?」

 

「山ゴリさんが三日三晩かけて、身をもって証明してくれたでしょう?」

 

「余計な実証例を持ち出すな!」

 

 モーブルは腕を組み、憎々しげに箱を睨みつけた。

 

「所在も分からぬ部品を、五つも探し出せというのか」

 

「それが、先代男爵から託された最初の『問い』なのでしょうね」

 

 ネリオはジョージへ視線を移した。

 

「この箱がウィルハルケン家へ遺された品である以上、歯車も家に縁のある場所へ隠されている可能性が高い。ですが、正確な場所までは、まだ分かりません」

 

「そんな……」

 

 ジョージの顔へ、見る間に落胆の色が広がった。

 

「返済期限まで、もう二十日も残されていないのです。場所も分からない歯車を、広大な所有地の中から五つも探し出すなんて……」

 

「勝手に絶望するでない」

 

 低い声で遮ったのは、モーブルだった。

 ジョージが顔を上げる。

 

「場所が分からんからこそ、この小妖精を呼んだのだ」

 

 モーブルは親指でネリオを示した。

 

「性根と記事の品性はスラムのドブネズミ以下だが、探し物に関する鼻だけは本物だ」

 

「珍しく褒められたと思ったら、前半の悪口で全部台無しです!」

 

「むしろ、褒めすぎたくらいだ」

 

「では、お返しに山ゴリさんの長所も言いましょうか?」

 

「いらん」

 

「他人の財布を見つけるのが異常に早い」

 

「ただの守銭奴ではないか!」

 

「相手の懐具合を嗅ぎ分ける能力なんて、ほとんど野生動物ですよ」

 

「誰が野生動物だ!」

 

「体格も含めて」

 

「結局そこしか見ておらんではないか!」

 

 またしても始まった二人の怒鳴り合いを前に、ジョージの唇から、ふっと小さな笑いがこぼれた。

 自分でも思いがけなかったのか、慌てて口元を押さえる。

 

「も、申し訳ありません」

 

 だが、先ほどまで彼の顔を覆っていた絶望の色は、ほんの少しだけ薄れていた。

 

「構いませんよ。笑えるうちに笑っておいた方がお得ですから」

 

 ネリオはそう言うと、箱の左右を指差した。

 

「男爵様。ミスリルの象嵌に紛れて、指先ほどの小さな窪みが二つあるのが分かりますか?」

 

「え……あ、本当だ」

 

「巧妙に隠されたスイッチです。この箱は、ウィルハルケン家の血統に反応するよう作られている可能性があります」

 

「私が押せば、何か起こると?」

 

「二つ同時に押し込み、そのまま待ってみてください。うまくいけば、手掛かりを吐き出すかもしれません」

 

「もし自爆したら?」

 

「ん? 安心してください。あたしは逃げ足にだけは自信があります!」

 

「私の安全は!?」

 

「男爵様に何かあれば、山ゴリさんの報酬が消えます。命懸けで守ってくれますよぉ!」

 

「当たり前だ! 依頼人を危険に晒す三流商人がどこにおる!」

 

「箱を大槌で叩いた商人が、すぐそこに」

 

「まだ引っ張るのか、そのネタを!」

 

 ネリオに促され、ジョージは恐る恐る両手を伸ばした。

 箱の左右にある窪みへ指を添え、深呼吸を一つ。

 同時に押し込む。

 

 ――カチッ。

 硬かったスイッチが、わずかに沈んだ。

 

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 

 何も起こらない。

 

「やはり、そう都合よく――」

 

 モーブルが鼻を鳴らした、その瞬間。

 

 ――キィン。

 

 澄んだ魔力の残響が、貴賓室へ響いた。

 

「なっ……!」

 

 ジョージの指先から魔力を吸い上げるように、黒檀を走るミスリルの象嵌が淡い銀色の光を放ち始める。

 五つの窪みから細い光が伸び、箱の中央で複雑な文字を描き出していく。

 

「そのまま、手を離さないで!」

 

 ネリオの声が鋭くなった。

 ふざけた表情は完全に消え、鮮やかな青い瞳が光の軌跡を追っている。

 やがて銀の文字が空中へ浮かび、一つの文章を形作った。

 

 

『第一の問い』

 

 部屋の空気が、微かに震える。

 

『我らの土地の声が最も集い、日々の実りが巡る場所を訪ねよ』

 

 

 低く、穏やかな男の声だった。

 それを聞いた瞬間、ジョージの顔が強張った。

 

「今の声は……」

 

「心当たりが?」

 

 ネリオが尋ねる。

 ジョージは箱へ指を添えたまま、呆然と頷いた。

 

「父です」

 

「先代男爵の?」

 

「はい。間違いありません。幼い頃、何度も聞いた……父の声です」

 

 空中の文字は、やがて細かな光の粒となって消えていった。

 箱の象嵌も、元の鈍い銀色へ戻る。

 ジョージは名残惜しそうに、冷たい黒檀の表面を撫でた。

 

「父上は……この箱に、自分の声を遺していたのですね」

 

「血統認証と音声記録を組み合わせた術式ですか。先代様は、随分と凝った仕掛けを用意したものですねぇ」

 

 ネリオは手帳へ問いを書き留める。

 

「『我らの土地の声が最も集い、日々の実りが巡る場所』。これは恐らく――」

 

「ヴァーゼル中央市場ですな」

 

 モーブルが即座に答えた。

 

「おや。あたしより先に答えるとは、生意気ですよ」

 

「一流の商人を何だと思っておる。人と品と金が集まり、毎日絶えず巡る場所。しかもウィルハルケン家の所有地となれば、中央市場以外にあるまい」

 

「酒場かもしれませんよ。人の本音と財布の中身がよく巡ります」

 

「酔っ払いの愚痴を『土地の声』に含めるな」

 

「でも、本音というものは大体、酒と金のそばに落ちてますよぉ」

 

「……癪だが、それは否定できんな」

 

 ジョージが二人の顔を見比べる。

 

「では、最初の歯車は中央市場に?」

 

「その可能性が高いですね」

 

 ネリオは黒檀の箱を持ち上げた。

 

「歯車へ近づけば、箱が魔力的な共鳴を起こすはずです。これを持って市場を探せば、正確な場所まで絞り込めるでしょう」

 

「箱を持ち歩くのか?」

 

 モーブルが露骨に顔をしかめる。

 

「当然でしょう」

 

「いつ更地を作るか分からん爆弾を抱えて、人混みを歩けと?」

 

「大丈夫です。山ゴリさんは無駄に厚みがありますから、いざというときは立派な肉の盾になりますよ」

 

「誰が肉の盾だ!」

 

「か弱い依頼主へ持たせるつもりですか?」

 

「それは……」

 

「それとも、あたしのような小さく可憐な美少年エルフに背負わせるとでも?」

 

「九十四歳のエルフが何を抜かす」

 

「年齢はただの数字です!」

 

「貴様が言うと妙に腹が立つな!」

 

 ネリオは聞こえないふりをして、ジョージへ向き直った。

 

「明朝、日の出とともにカヴェナを発ちましょう。ヴァーゼルへ着くのは夕刻。市場の探索は、最も活気づく翌朝です」

 

「あ、明日の朝ですか」

 

「何か都合が?」

 

「いえ。ただ……私は市場へ、ほとんど行ったことがなくて」

 

 ジョージは恥じるように俯いた。

 

「必要な物は、商人たちが屋敷へ届けてくれていました。市場の場所代や物価についても、管理人から書類で報告を受けるだけで……自分の足で歩いたのは、幼い頃に父へ連れられた一度か二度しかありません」

 

「それは好都合です」

 

 ネリオが悪戯っぽく笑った。

 

「何が好都合なのです?」

 

「むふふ、坊ちゃん男爵の見るものすべてが、新鮮な記事になります」

 

「私の無知を記事のネタにしないでください!」

 

「見出しは『衝撃! 若き男爵、銅貨一枚でパンが買えると知り号泣!』」

 

「それくらい知っています!」

 

「では、『驚愕! 野菜が畑から生えると知って腰を抜かす!』」

 

「私をどれほど浮世離れした馬鹿だと思っているのですか!」

 

「いたずらに依頼人の不安を煽るな」

 

 モーブルがネリオの頭を大きな掌で掴み、そのまま横へ押しのけた。

 そして、顔を赤くしているジョージを見下ろす。

 

「男爵様。市場を知らぬなら、今から知ればよいだけのことです。知らんこと自体は罪ではない」

 

 ジョージが顔を上げる。

 

「知らぬまま知ったつもりになり、書類だけを見て場所代や契約条件を決める方が、よほどたちが悪い」

 

 モーブルは低く、落ち着いた声で続けた。

 

「家の当主として大切なのは、自分の足で歩き、己の目で見て、正しい算盤を弾くことです」

 

「モーブル殿……」

 

 ジョージの胸に、温かなものが込み上げる。

 この男は強欲で口も悪い。

 だが、その芯には、商人としての確かな矜持がある。

 そう思いかけた、次の瞬間。

 

「ただし、わしの店で何か買う際は、知識不足を理由に値切るのは禁止ですぞ。今後は友人価格として、定価の三割増しで買ってもらいますからな」

 

「えっ。いつ友人に?」

 

「今です」

 

「しかも高くなっているではありませんか!」

 

「友情と商売を混同してはいけませんぞ」

 

「ちょっとぉ、珍しく山ゴリさんに感心した、あたしの純真な気持ちを返してくださいよ!」

 

「貴様の純真など、銅貨一枚の価値もないわ」

 

「せっかくのいい話が、たった二言で台無しですよ!」

 

 二人の掛け合いに、ジョージの口元が思わず緩んだ。

 先ほどまで胸を塞いでいた不安も、完全に消えたわけではない。

 それでも、その顔にはわずかながら前へ進もうとする意志が戻っていた。

 

「分かりました。明朝、こちらへ参ります」

 

「ええ。動きやすい格好で来てくださいね」

 

 ネリオはジョージの上等な装いを、頭から爪先まで眺めた。

 

「市場へ行くのに、宝石付きの靴や羽根飾りの帽子は必要ありませんから」

 

「その程度は分かっています!」

 

「さて、どうでしょうねぇ」

 

「分かっています!」

 

 こうして、三人が最初に向かう場所が決まった。

 カヴェナから西へ離れた町、ヴァーゼル。

 ウィルハルケン家は町そのものを統治しているわけではない。

 

 町の中央市場を含む一帯と、その周辺の農地や山林を代々所有し、場所代や地代を家業の収入としている貴族の家である。

 

 亡き先代男爵が『我らの土地の声が最も集う場所』と呼んだのは、その所有地の中心にあるヴァーゼル中央市場。

 商人と住民が行き交い、品物と金が絶えず巡る、人々の暮らしの心臓部だった。

 

 

 翌朝。

 三人は、まだ薄暗いカヴェナの街を発った。

 西へ続く街道を馬車に揺られ、ヴァーゼルへ到着したのは、日が傾き始めた頃。

 その夜はウィルハルケン家の屋敷で旅の疲れを癒やし、市場が最も活気づく翌朝から、最初の歯車を探すこととなった。

 

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