※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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第五十五話 おしゃべりエルフと古代の『問いかけの箱』③

 探索一日目。

 東の空が白み、野原から流れてきた朝靄が、まだ町の低い屋根の間に薄く残っている頃。

 辺境の田舎街ヴァーゼルの中央市場は、すでに一日の始まりを迎えていた。

 

 荷車の木輪が、土の混じった古い石畳を鳴らす。

 近隣の農村から運ばれてきた、朝露の残る野菜。

 籠の中で騒がしく羽ばたく鶏。

 牧場から届いた羊毛や乳製品を並べ、声を張り上げる商人たち。

 通りの端にある小さなパン屋からは、薪窯で焼いた黒パンの香ばしい匂いが漂っている。

 

 カヴェナのような大都市の市場と比べれば、店の数も人の数も決して多くはない。

 それでも、ヴァーゼルと周辺の村々で暮らす者にとって、ここは品と金と噂が集まる、町で最も賑やかな場所だった。

 

 そんな市場の入口で――。

 ジンジ・モーブルは額を押さえ、腹の底から深い溜め息を吐いた。

 

「……男爵様」

 

「は、はい」

 

「昨日、わしは『動きやすい格好で来てください』と、はっきり申し上げたはずですぞ」

 

「ですから、これでも手持ちの中では最も簡素な服を選んだのですが……」

 

 ジョージは困惑しながら、自分の姿を見下ろした。

 確かに、昨日着ていた最高級のベルベット装束と比べれば、幾分か控えめではある。

 だが、淡い青色の上着には銀糸の刺繍が細かく施され、革靴は朝日を弾くほど磨き上げられている。

 腰に下げた細身の護身剣に至っては、金色の柄へウィルハルケン家の銀鷹の紋章が、これでもかと堂々と刻まれていた。

 どこからどう見ても、庶民へ紛れるための服装ではない。

 町の市場を見て回るというより、祝祭の先頭を歩く者の装いだった。

 

「ああ、なるほど!」

 

 ネリオが納得したように頷く。

 

「簡素の基準が、完全に温室育ちのお貴族様なんですねぇ」

 

「そ、それほど目立ちますか?」

 

「はい! 財布が服を着て歩いています!」

 

「財布……」

 

「しかも、家紋付きの高級財布です」

 

「そこまでですか!?」

 

「ここがスラム街なら、『高額商品を持っております。どうぞ誘拐してください』と、全身で宣伝しているところですよぉ」

 

「ゆ、誘拐……!」

 

 ジョージは慌てて外套の前を閉じ、銀鷹の刻まれた剣の柄を隠そうとする。

 

「隠す場所がそこだけだと思っている時点で、すでに手遅れですがねぇ」

 

「ほ、他にも何か問題が?」

 

「服、靴、剣、立ち方、歩き方、視線の泳ぎ方。それから、知らない人と目が合うたびに小さく会釈するところです」

 

「会釈まで駄目なのですか!?」

 

「礼儀正しすぎて、逆に育ちのよさが漏れています」

 

 ネリオは、にやりと笑った。

 

「『世間知らずですが、お金だけはあります』という情報が、一目で伝わりますねぇ」

 

「なんと危険な自己紹介でしょう……」

 

「辺境の田舎街だからといって、善人しか住んでいるわけではありませんぞ」

 

 モーブルが呆れたように口を挟む。

 

「ここにもスリや盗人、酔っ払いを狙う小悪党くらいはおるでしょう。人混みでは財布と荷物から意識を外さぬことです」

 

「分かりました。十分に気をつけます……」

 

 すっかり萎縮したジョージの横で、モーブルは黒檀の箱を厚手の布で幾重にも包み、肩掛けの大きな革鞄へ収めていた。

 

「箱は、わしが持ちます」

 

「ですが、モーブル殿にそこまでしていただくのは心苦しいです。私が持った方が――」

 

「結構です」

 

 モーブルは即座に遮った。

 

「万が一すられでもしたら、わしの莫大な報酬が……コホン。ウィルハルケン家の尊い未来が露と消えますからな」

 

「今、報酬と言いませんでしたか?」

 

「言っておりません」

 

「はっきり聞こえましたけど」

 

「朝靄の中では、音も歪んで聞こえるものです。そんな細かいことを気にしていては、立派な当主にはなれませんぞ」

 

「そこを教訓にすり替えないでください!」

 

 三人は人の流れへ乗り、中央市場の中へ足を踏み入れた。

 市場はすでに、農夫や牧夫、行商人、町の主婦たちで賑わっていた。

 

 荷車へ無造作に積まれた赤カブや豆、根菜。

 藁を敷いた籠へ並べられた卵。

 軒下へ吊るされた干し肉。

 荒削りの木箱に詰められた林檎。

 鍛冶屋の前では、農具を打ち直す槌の音が響き、布屋の露台には地元で織られた素朴な毛織物が並んでいる。

 銅貨や銀貨が人の手から手へ渡り、時折、少し大きな取引に金貨が使われる。

 

「いらっしゃい! 今朝採れた赤カブだよ!」

 

「北の牧場で刈った羊毛だ! 三束まとめて銀貨一枚!」

 

「焼きたての黒パンだよ! 昼まで置いたら固くなるから、今のうちに買っていきな!」

 

 四方から飛び交う声に、ジョージは忙しなく視線を動かした。

 

「す、すごい人ですね……」

 

「これでも、以前に比べれば少ない方だ」

 

 モーブルの言葉に、ジョージが目を瞬く。

 

「これで、少ないのですか?」

 

「三年前なら、朝の鐘が鳴る頃には、この通りの端まで露店が並んでおった」

 

 モーブルは、町で最も広い通りの先へ目を向けた。

 

「近隣の村から来る荷車も、今の倍はあったでしょうな」

 

 言われてみれば、賑やかな市場の中にも、使われていない露台がいくつも残されていた。

 板が外され、雨ざらしになった売り場。

 店名を削り取られた古い看板。

 かつて家畜を繋いでいたらしい杭だけが残る空き地。

 人通りのある場所でありながら、そこだけぽっかりと抜け落ちたように寂れて見える。

 

「商売をやめた者が多いのでしょうか」

 

「商人は、儲かる場所から好き好んで離れたりはせん」

 

 モーブルは空いた露台へ目を向けた。

 

「農夫も行商人も同じです。ここへ品を運ぶだけの価値がないと判断した者が増えておる」

 

「ここで商いを続けられない理由がある、ということですか」

 

「そういうことですな」

 

 ジョージは、先ほどまでとは違う目で市場の空白を見つめた。

 

「その辺りも、歩きながら見ておきましょう」

 

 ネリオがモーブルの鞄を軽く叩いた。

 

「まずは、箱の反応を確かめます」

 

 モーブルは周囲の目を警戒しながら、布に包んだ黒檀の箱をわずかに覗かせた。

 ミスリルの象嵌は、鈍い銀色のまま沈黙している。

 三人は、人の間を縫うように市場の通りを進み始めた。

 

 魚を塩漬けにして売る行商人の前。

 反応なし。

 

 農具を並べた鍛冶屋の露店。

 反応なし。

 

 町で最も大きな穀物商の店先では、ジョージが期待を込めて箱を見つめたが、やはり銀の模様は光らなかった。

 

「本当に、市場で合っているのでしょうか」

 

「慌てない、慌てない」

 

 ネリオは歩きながら、露台の商品ではなく、屋根を支える柱や古い看板、石畳の継ぎ目にまで視線を走らせていた。

 

「探し物というのは、向こうから『ここにありますよ』と手を振ってくれるとは限りません」

 

「では、どうやって見つけるのです?」

 

「痕跡を探すんですよ」

 

 ネリオは楽しげに目を細めた。

 

「隠した人間の癖。場所を選んだ理由。そして、誰に見つけてほしかったのか」

 

 やがて足を止め、忙しく行き交う人々へ静かに目を向ける。

 

「宝探しで一番大切なのは、隠された物そのものではありません。隠した人の頭の中を探すことです」

 

 意外なほど真面目な答えだった。

 

「先代男爵は、息子に五つの場所を巡らせようとした」

 

 ネリオは、素朴な市場の風景を顎で示した。

 

「なら、ただ歯車を拾わせたいわけじゃない。その場所でしか見られない何かを、男爵様へ見せたいはずです」

 

「私に……見せたいもの」

 

「それを見つけるまでは、歯車も姿を現してくれないかもしれませんね」

 

 ジョージは、改めて周囲へ目を向けた。

 

 自分の畑で採れた野菜を売ろうと、声を張り上げる農夫。

 銅貨一枚を巡って、笑いながら値段を競り合う商人と主婦。

 近隣の村から重い荷物を運び込み、額の汗を拭う若者。

 少しでも見栄えがよくなるようにと、売れ残った林檎を何度も並べ直す老女。

 

 人付き合いを苦手とし、これまで屋敷へ閉じこもってきたジョージにとって、それらはすべて初めて間近に見る光景だった。

 帳簿の上では、ただの売上や取引件数にすぎなかった数字。

 だが、その一つ一つの向こう側には、こうして懸命に働き、暮らしを支えている人々がいたのだ。

 

「土地の声……」

 

 父の言葉を、男爵は小さく繰り返した。

 そのときだった。

 

「だから、待ってください! あと三日、いえ、二日だけでも!」

 

 通りの先から、年老いた女性の悲鳴に近い声が聞こえてきた。

 三人が振り向くと、露店の前で一人の老女が市場の管理人らしき男たちに詰め寄られていた。

 古びた露台には、形の不揃いな林檎が数籠並べられている。

 管理人の一人が、露台へ貼られた営業札を無造作に引き剥がした。

 

「期限は昨日までだ。場所代を払えん者に、市場で商売をする資格はない」

 

「ですが、先月から急に二倍になるなんて……! 孫が病気で、薬代も必要なのです。今日の売上さえあれば、必ず――」

 

「事情は皆同じだ。特別扱いはできん」

 

 管理人は老女の籠を持ち上げ、道の端へ放り出そうとした。

 その手首を、モーブルが掴んだ。

 

「待て」

 

「ああ?」

 

「商品を粗末に扱うな。打ち身がつけば、それだけ価値が下がる」

 

「何だ、あんたは」

 

「通りすがりの善良な商人だ」

 

 管理人がモーブルの顔を見る。

 そして、すぐに顔を引きつらせた。

 

「あんた、まさかカヴェナのモーブル商会の……」

 

「ほう。わしの顔を知っておるか。話が早くて助かる」

 

 モーブルは管理人の手から林檎の籠を奪い返し、露台へ戻した。

 

「場所代が二倍になっただと?」

 

「え、ええ。今月から、ウィルハルケン家の負債整理を目的とした『市場維持加算金』が追加されまして……」

 

「市場維持加算金?」

 

 ジョージが思わず呟く。

 管理人はその声に振り向き、外套の下から覗く上質な服と、ただならぬ気品を見て、慌てて姿勢を正した。

 

「これは、貴族様でございましたか。お見苦しいところを――」

 

「誰が、その分担金を決めたのです?」

 

「誰と言われましても……この市場区画の所有者である、ウィルハルケン男爵家からの通達です」

 

 ジョージの顔から、さっと血の気が引いた。

 

「私の家から?」

 

「はい。こちらに正式な料金改定書もございます」

 

 管理人は懐から折り畳まれた羊皮紙を取り出した。

 ジョージが受け取り、そこに記された文面を目で追う。

 ウィルハルケン家が所有する市場区画の債務返済を目的として、露台使用料、荷車搬入料、倉庫利用料を一時的に引き上げること。

 有効期間は半年。

 そして最後には、間違いなくウィルハルケン家当主――ジョージ自身の署名と、見慣れた印章が押されていた。

 

「これは……私の署名です」

 

 ジョージの声が震えた。

 

「おやおやぁ。身に覚えがない、と?」

 

 ネリオが覗き込む。

 

「いえ……先月、家令から緊急の増収策だと説明を受け、いくつかの書類に署名しました。ですが、細かな内容までは……」

 

「読まなかったんですか?」

 

「概要は聞きました。ウィルハルケン家の財政を立て直すために必要だと。私は財務に明るくないので、家令の判断を信じて……」

 

「なるほどねぇ」

 

 ネリオは表情を変えず、淡々と事実だけを突きつけた。

 

「書類の中身も見ず、専門家が言うなら間違いないと、判を押したわけですね」

 

 ジョージは答えられなかった。

 言い訳の余地すらない、その沈黙だけで、十分な答えになっていた。

 

「何か問題があるのですか?」

 

 管理人が不安げに尋ねる。

 

「これは所有者である男爵様ご自身が承認された、正式な料金改定です。我々は管理契約に従い、徴収を行っているだけで――」

 

「黙れ」

 

 地を這うような低い声で告げたのはモーブルだった。

 管理人がビクッと口をつぐむ。

 モーブルは料金改定書をジョージの震える手から奪い、素早く内容を確かめた。

 

「市場の場所代を一律で倍。荷車一台ごとに搬入料。商品を保管する倉庫代も引き上げ。なるほど、書面の上ではじつによくできた増収策だ」

 

「では、やはり必要な措置だったのでしょうか」

 

「阿呆」

 

 モーブルは料金改定書を、ジョージの胸へ容赦なく突き返した。

 

「市場で商う者の『体力』が、全員同じだと思っておるのか」

 

「え……」

 

「大商会なら、場所代が倍になろうが耐えられる。商品の値に上乗せすれば済むからな。だが、自分で育てた野菜や果物を一籠売って暮らしておる者はどうだ。一日の利益が銅貨十枚しかない者から、場所代をさらに五枚取れば、商売そのものが成り立たん」

 

 モーブルは空いた露台を顎で示した。

 

「見ろ。あれが、お前が中身も見ずにした『署名』の結果だ」

 

 ジョージは、弾かれたように市場を見渡した。

 使われていない露台。

 消された店名。

 商売を続けられず、この場所を去った者たちの跡。

 

「ですが……使用料を増やさなければ、借金は返せません」

 

「使用料を払う店を潰して、誰から金を取るつもりだ?」

 

モーブルの鋭い言葉に、ジョージは息を呑んだ。

 

「今日の銀貨一枚を欲しがって、明日から金貨を生む店を潰す。それは商売でも土地経営でもない。ただの愚かな食いつぶしだ。市場とは、金を奪い取る場所ではない。金を巡らせる場所だ。売る者が儲かり、買う者が品を得る。市場が栄えれば、地代も施設利用料も長く安定して所有者へ入る。最初の商いを潰せば、その先には一銭も流れん」

 

 ジョージは手の中の料金改定書を見つめた。

 そこには自分の署名がある。

 内容を十分に理解しないまま、家臣を盲信して書いた名前。

 自分の無知が凶器となり、目の前の老女から孫の薬代すら奪おうとしていたのだ。

 

「私は……何も知りませんでした」

 

「知らなかった、で終わらせますか?」

 

 ネリオが静かに尋ねた。

 ジョージは強く唇を噛み締め、手の中の羊皮紙を握る。

 

「私は、ここまで料金を引き上げた覚えすらありませんでした。ですが、ここにあるのは確かに私の署名――ならば……これは私の責任です」

 

 そう言うと、ジョージは料金改定書を両手で掴んだ。

 

 ビリッ。

 

 市場の管理人が目を見開く。

 

「な、何をなさるのです!」

 

 ジョージは羊皮紙を二つに裂き、さらに四つへ引き裂いた。

 

「本日をもって、市場維持加算金を停止します」

 

「しかし、そんなことを突然お決めになられては、家令殿が――」

 

「私が当主です」

 

 声は微かに震えていた。

 だが、それでもジョージは管理人から真っ直ぐに目を逸らさなかった。

 

「この料金改定を認めたのは私です。誤りを正す責任も、私にあります」

 

「ですが、正式な撤回通知がなければ……」

 

 ジョージは腰の小物入れから紙と携帯用の筆記具を取り出した。

 露台の端を借り、その場で撤回通知を書き始める。

 慣れない立ち書きで文字は少し歪んでいたが、内容は明確だった。

 

 市場維持加算金の即日停止。

 徴収記録の全面開示。

 過剰に徴収した金銭の返還。

 そして、露台使用料・荷車搬入料・倉庫利用料の再検討。

 最後に自らの署名を入れ、指輪の印章を押す。

 

「これを市場管理所に掲示してください。写しを一時間以内に屋敷へ届けること。私も本日中に戻り、家令から直接説明を受けます」

 

「は、はい……!」

 

 管理人は撤回通知を受け取ると、逃げるように立ち去っていった。

 残された老女は、呆然とジョージの顔を見上げている。

 

「あの……貴族様。今のお話は、本当に……」

 

「はい。少なくとも、今日から追加の分担金を払う必要はありません」

 

「ありがとうございます……ありがとうございます……!」

 

 老女は涙ぐみながら、何度も何度も深く頭を下げた。

 ジョージは慌てて、その細く震える肩へそっと手を添える。

 

「どうか頭を上げてください。謝るべきなのは、私の方です。無知だったとはいえ、あなた方をこれほど苦しめる決定に判を押してしまった」

 

「ですが、取り消してくださったではありませんか」

 

「それだけで、失われたものがすべて戻るわけではありません」

 

 ジョージは、使われなくなり寂れてしまった露台へ痛切な視線を向けた。

 

「去っていった方々のことも調べます。すぐにすべてを元通りにできるとは言えませんが……必ず、話を聞きます」

 

 ふと気づけば、市場のあちこちからさざ波のようなざわめきが広がっていた。

 騒ぎを聞きつけた商人や買い物客たちが、遠巻きに三人へ好奇の目を向けている。

 ジョージは無数の視線に晒されていることに今さら気づき、途端に居心地悪そうに身を縮めた。

 

「ず、随分と見られていますね……」

 

「ん〜? 当たり前では? この市場の持ち主が、ど真ん中で自分の料金改定書をビリビリに破り捨てたんですから」

 

 ネリオは嬉々として手帳へ筆を走らせていた。

 

「よし、ひらめきました! 見出しは『若き男爵、朝の市場で突然の紙破り! 果たして乱心か英断か!』」

 

「乱心と書くのはやめてください!」

 

「では、『市場騒然! 世間知らずの坊ちゃん、初めて自分の失策を知る』」

 

「前の方がまだましです!」

 

「どちらも書くな」

 

 モーブルが太い手で手帳を奪おうとするが、ネリオはするりと身をかわした。

 

「いい記事になりますよぉ。土地の持ち主が失敗を認めたという話は、ここで商う人たちにとって悪い知らせじゃありません」

 

「ですが、私が無知だったことも知られてしまいます」

 

「もう市場中に知られてますよ」

 

「そんな……」

 

「安心してください」

 

 ネリオはにっこりと笑う。

 

「商人たちは、土地の持ち主が無知だったことより、無知を隠して偉そうに振る舞うことの方をよっぽど嫌います。失敗したなら、次にどうするかを見せればいいんです」

 

 ジョージはしばらく黙っていた。

 やがて、まだ不安を残しながらも、小さく頷く。

 

「……そうですね」

 

「それに、記事の最後には格好いい一文も入れておきますよ」

 

「本当ですか?」

 

「『泥船の船長、ようやく甲板へ姿を現す』」

 

「ウィルハルケン家を沈みかけの船にしないでください!」

 

「実際、沈みかけとる」

 

「モーブル殿まで!」

 

 そのとき。

 

 キィン――。

 

 布に包まれた革鞄の中から、微かな共鳴音が響いた。

 

 三人の表情が変わる。

 

「箱が……!」

 

 モーブルは急いで周囲を確認すると、老女の露店の陰へ移動し、鞄から黒檀の箱を取り出した。

 銀色の象嵌が淡く光っている。

 

「反応しています!」

 

「近いですねぇ」

 

 ネリオは箱を受け取ると、探知機のようにゆっくりと身体の向きを変えた。

 北へ向けると光が弱まり、南へ向けると光が強くなる。

 

「こっちです」

 

 三人は市場の中央へと小走りで向かった。

 進むにつれ、箱の明滅は確かな輝きへと変わっていく。

 やがて辿り着いたのは、石造りの小さな屋根の下に鎮座する、古びた真鍮の天秤だった。

 大小さまざまな商品を量るため、市場が管理している共用秤である。

 

「これに反応しているようですね」

 

 ネリオが天秤の周囲を調べる。

 ジョージは古びた支柱に刻まれた文字を見つけた。

 

「『すべての商いに、公正なる重みを』……」

 

「先代男爵の言葉ですな」

 

 モーブルが、どこか懐かしむように答える。

 

「ご存じなのですか?」

 

「この共用秤を市場へ置いたのは、あなたの父君だ。商業ギルドの厳しい検定を受け、商人と客の間で重さを巡る争いが起きた際、誰でも無料で使える『絶対の基準』としてな」

 

「父上が……」

 

 ネリオは天秤の皿を指先で軽く押し下げた。

 左右の皿が揺れ、やがて――片側だけが不自然に低く沈んで止まる。

 

「おや」

 

「どうした?」

 

「この秤、狂ってますよ」

 

 ネリオは支柱の側面から基準用の分銅を取り出し、モーブルへと放り投げた。

 受け取ったモーブルは、片手で重さを確かめた瞬間、微かに顔をしかめる。

 

「……軽いな」

 

「分かるのですか?」

 

「わしを誰だと思っておる。これは一ポンド用の分銅だが、銀貨二枚分ほど削られておるわ」

 

 よく見ると、分銅の底部には不自然に平らに研磨された跡があった。

 

「誰かが、共用秤の基準そのものを偽っていたということですか」

 

「市場の使用料だけでは飽き足らず、商品の重さでも誤魔化して不当な利益を得ておった下劣な者がいるらしい」

 

 モーブルの声が、氷のように冷たくなる。

 

「商人の風上にも置けん」

 

 ジョージは驚いて、思わずモーブルの顔を見た。

 

「モーブル殿にも、そのような倫理観が……」

 

「ほう、それはいったいどういう意味ですかな、男爵様?」

 

「い、いえ。失礼しました」

 

「わしは客から徹底的に相応の利益を搾り取るが、秤そのものを偽るような真似は絶対にせん。信用を切り売りするような三流は、いずれ自分の首まで安値で売る羽目になるのだ」

 

「なるほど。山ゴリさんは相手を騙すときも、正しい秤で堂々と騙すんですねぇ」

 

「騙してはおらん。高度な商談の結果として、相手が喜んで多めに金を払っておるだけだ」

 

「それを世間では銭ゲバ商人と言うんですがねぇ」

 

 ネリオは笑いながら、分銅の収納部へ細い工具を差し込んだ。

 

「ここに何かありますね。ですが、仕掛けが噛み合っていません」

 

「歯車か?」

 

「恐らく。ただし、共用秤が正しい状態に戻らなければ、取り出せない仕組みです」

 

 モーブルは削られた分銅を憎々しげに睨みつけた。

 

「正しい基準用の分銅が必要だな」

 

「あの……それなら」

 

 背後から、先ほどの老女がおずおずと声をかけた。

 三人が振り返る。

 

「先代様がこの秤を置かれた頃の分銅なら、市場管理所の古い倉庫に残っているかもしれません。今の物へ取り替えられるまでは、皆あれを大切に使っていましたから」

 

「案内していただけますか?」

 

 ジョージが頼むと、老女は深く頷いた。

 間もなく、埃を被った古い分銅が市場管理所の奥から運び出された。

 

 モーブルが手の平で正確な重さを確認し、ネリオが削られた分銅とすり替える。

 正しい一ポンドの分銅を右の皿へ。

 反対の左の皿には、老女の林檎を一籠。

 天秤がゆっくりと揺れた。

 

 右へ。

 左へ。

 

 やがて二つの皿は、寸分の狂いもなく同じ高さで静かに静止した。

 

 ――カチリ。

 

 支柱の内部から、精密な機構が噛み合う音が響く。

 

「来ましたよ」

 

 ネリオが支柱の側面を押すと、今まで継ぎ目すら見えなかった真鍮の板が手前へと開いた。

 その奥に収まっていたのは、親指ほどの大きさの銀色の歯車だった。

 精緻な魔導文字が刻まれ、中心には淡い緑色の魔石が嵌め込まれている。

 

「これが……最初の魔導部品」

 

 ジョージは震える手で、その歯車を受け取る。

 ひんやりとした金属の表面には、古い共通語で一文字だけが深く刻まれていた。

 

『巡』

 

「巡る……」

 

「金も、品も、人も、市場を巡る」

 

 モーブルが静かに言った。

 

「先代男爵が、最初の歯車をここへ隠した理由でしょうな」

 

 ジョージは手の中の歯車を見つめた。

 その向こうでは、老女が再び林檎を露台へ並べている。

 市場の商人たちは、まだ遠巻きにこちらを見ていた。

 先ほどより期待を含んだ目もあれば、依然として疑うような目もある。

 たった一枚の料金改定書を破り捨てただけで、すべての信頼が戻るわけではない。

 それでも、ここから始めなければならないのだ。

 

「私は今まで、地代と利用料の数字ばかりを見ていました」

 

 ジョージがぽつりと呟いた。

 

「市場から地代と利用料がいくら入ったか。去年より増えたか、減ったか。それだけを聞いて、自分たちの土地で行われる商いを理解したつもりになっていました」

 

 手の中の歯車を、強く握る。

 

「ですが、帳簿の数字の一つ一つに、ここで汗を流して働く人々の確かな暮らしがあったのですね」

 

「ようやく気づきましたか、お坊ちゃん」

 

 ネリオが優しい声で笑う。

 

「はい。随分と遅くなりましたが」

 

「遅いかどうかは、これからの男爵様次第ですよ」

 

 その言葉に、ジョージは真っ直ぐに頷いた。

 黒檀の箱を開き、側面に並ぶ五つの窪みのうち、一番左へ銀色の歯車を近づける。

 まるで磁石に引き寄せられるように、歯車がジョージの指先から離れた。

 

 カチリ。

 

 第一の歯車が、箱へ完璧に収まる。

 その瞬間、途切れていたミスリルの象嵌の一部に、眩い光が走った。

 銀色の光は箱の表面を巡り、再び空中へと文字を描き出す。

 

 

『第二の問い』

 

 三人は息を呑んだ。

 

『誰の目にも触れぬ高みより、万の命を潤す源を訪ねよ』

 

 文字の背後に、空を突くように切り立った山と、そこから流れ落ちる清らかな水の幻影が浮かび上がる。

 

 ジョージの顔が引きつった。

 

「まさか……北の水源地」

 

「ご存じですか?」

 

「ヴァーゼルへ水を引いている源流です。水源のある北山の一部も、ウィルハルケン家が代々所有しています。ですが、かなり山奥にあると聞いています。獣道のような険しい道で、馬車も麓までしか入れないと……」

 

 ネリオの顔が、ぱあっと花が咲いたように輝いた。

 

「いいですねぇ! 市場の次は秘境の水源……ようやく宝探しらしくなってきましたよぉ!」

 

 一方、モーブルの顔は見る見るうちに曇っていった。

 

「待て。山を登るのか?」

 

「そう書いてありますね」

 

「わしは登山の依頼など引き受けた覚えはないぞ」

 

「つい先日、『モーブル商会の看板にかけて必ず開ける』と、たいそう格好よく宣言してましたよね」

 

「山へ登るとは聞いておらん! わしは最近、腰痛がひどいのだ。過度な運動は医者から止められておる」

 

「医者に行ったんですか?」

 

「行ってはおらんが、たぶん止められる!」

 

「自己診断じゃないですか」

 

「わしの腰のことは、わしが一番よく分かっておる!」

 

 喚くモーブルを尻目に、ネリオは呆れたように肩をすくめた。

 

「でも、契約書には『必要に応じて現地調査を行う』としっかり書いてありましたよぉ」

 

「なぜ貴様がわしの契約書の内容を知っておる!?」

 

「さっき馬車の中でチラッと読みましたんで」

 

「勝手に人の契約書を盗み見るな!」

 

「大丈夫です。まだ記事にはしてません」

 

「その『まだ』が一番不安なのだ!」

 

 騒ぎ始めた二人をよそに、ジョージは箱の上に浮かぶ山の幻影をじっと見つめていた。

 市場だけで、これほど自分の知らない家の土地の姿があった。

 ならば、水源では何を見ることになるのだろう。

 父は何を見せようとしているのだろう。

 

「行きましょう」

 

 ジョージが凛とした声で言った。

 モーブルとネリオが同時に振り返る。

 

「明日、北の水源へ向かいます」

 

 声にはまだ頼りなさが残っている。

 それでも、昨日までのすがるだけの青年の顔ではなく、前を向く当主の顔になっていた。

 

「父が遺した次の問いを、この目で確かめたいのです」

 

 ネリオは楽しげに目を細めた。

 

「了解しました、男爵様」

 

 モーブルは心底嫌そうに大仰なため息をつき、天を仰いだ。

 

「……先に言っておきますがな、登山用装備一式、案内料、運搬費、危険手当はすべて別料金ですぞ」

 

「ええ。必要な費用はしっかりお支払いします」

 

「うむ。正当な対価さえ払っていただけるなら、山でも谷でも問題はない」

 

「腰痛は?」

 

「特別料金と聞いて完治した」

 

「実に悪徳商人らしい見事な回復力ですねぇ」

 

 ネリオが感心したように、うんうんと頷く。

 

 市場の喧騒の中に、モーブルの怒鳴り声とネリオの笑い声が響き渡る。

 その傍らで、ジョージは箱に収まった最初の歯車を静かに見つめていた。

 

 父の遺した五つの問い。

 その一つ目を解いた彼が得たものは、金貨でも宝石でもなかった。

 市場を巡る金と、その向こうにある人々の暮らし。

 これまで帳簿の上でしか知らなかった、血の通った「土地の声」だった。

 

 しかし、五つの歯車のうち、手に入れたのはまだ一つ。

 次に彼らを待つのは、街を遥かに見下ろす険しい山道。

 誰の目にも触れぬ場所で、ヴァーゼルの人々の命を支え続ける清らかな水源だった。

 

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