※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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第五十六話 おしゃべりエルフと古代の『問いかけの箱』④

 探索二日目。

 

 ヴァーゼルの北門を出たばかりの街道で、ジョージ・ウィルハルケン男爵は、どこか誇らしげに胸を張っていた。

 

「昨日の反省を踏まえ、本日は動きやすさを最優先にした装いを選んでまいりました!」

 

 昨日、市場の朝日に嫌がらせのような輝きを放っていた、銀糸刺繍の上着ではない。

 飾り気のない厚手の布シャツに、泥で汚れても簡単には破れない丈夫な革のズボン。

 足元には、足首をしっかりと固定する山道用の編み上げ靴。

 家紋入りの華美な護身剣も置いてきたらしく、腰に下げているのは小さな水筒と革袋だけだった。

 育ちのよさからくる気品までは隠しきれていないものの、少なくとも昨日のような――市場の真ん中を歩く「誘拐推奨の宝石箱」には見えない。

 

 モーブルは髭を撫でながら、頭の先から爪先まで、値踏みするようにジョージを眺めた。

 

「ふむ。昨日よりは随分と、真っ当な人間らしい格好になりましたな」

 

「ありがとうございます!」

 

「昨日が絶望的にひどかっただけですけどねぇ」

 

 横から、ネリオが余計な一言を差し込んだ。

 彼はいつもの緑色の軽装マントを羽織り、背には小ぶりの狩猟弓、腰には大小さまざまなポーチを下げている。

 山歩きに慣れた探索者らしい、無駄のない身軽な装いだった。

 

「本当に、昨日の服はひどかったですよ。上着の銀糸を全部むしれば、山賊一家が一月は豪遊できます」

 

「そこまで高価なものではありません!」

 

「では、半月くらいですか?」

 

「金額の問題ではありません!」

 

「まあ、ご安心ください。本日の男爵様なら、せいぜい『少し金を持った商家の生意気な跡取り息子』くらいにしか見えませんから」

 

「……それは褒めているのですか?」

 

「誘拐されても、身代金が昨日の半分以下で済むという意味です」

 

「朝から縁起でもない見積もりをしないでください!」

 

 早朝から騒がしい二人をよそに、モーブルは背負った巨大な革鞄の肩紐を締め直した。

 特上の牛革で作られた鞄には、黒檀の箱をはじめ、携帯用の錬金道具、登山用のロープ、食料、応急薬、各種工具が隙間なく詰め込まれている。

 並の男なら、持ち上げるだけで腰を痛めかねない重量だった。

 

「それにしても……」

 

 モーブルは、不満を隠そうともせず鞄を背負い直した。

 

「なぜ今回も、わしが荷物と箱を一人で背負わされておるのだ」

 

「この中で一番、荷運びに向いた体形だからですよ」

 

「わしは腰痛持ちの商人だぞ!」

 

「冒険者歴三十年以上のベテランポーターでしょ?」

 

「本業は商人だ! 荷運びは副業だ!」

 

「副業で成人男性三人分を担ぎ、ダンジョンを踏破するんですか?」

 

「たまたまだ」

 

「三十年以上も?」

 

「ずいぶん長いたまたまだったな」

 

「それを世間では本業と呼ぶんですよ」

 

「店の売上が減るから認めん!」

 

 いつもの減らず口を交わしながら、三人は北へ続く山道へ足を踏み入れた。

 目指すのは、ヴァーゼルの街へ生活用水を供給する北部水源地。

 水源を抱く北山の一帯は、ウィルハルケン家が代々所有してきた土地である。

 そして古くから町との間で交わされた契約により、家には水路と貯水施設を維持する責任が課されていた。

 

 昨日、第一の歯車を組み込んだ黒檀の箱が、先代男爵の穏やかな声とともに示した言葉。

 

『誰の目にも触れぬ高みより、万の命を潤す源を訪ねよ』

 

 その示す先が、この北部水源地であることは間違いなかった。

 市場で知ったのは、人と金が絶えず巡る、賑やかな土地の表側。

 だが今度、三人が向かうのは――。

 誰にも見られることなく、今日もヴァーゼルの暮らしを支え続けている、山奥の静かな源だった。

 

♦

 

「……ところで、目的地まではあとどれくらいでしょうか」

 

 馬車を降り、山道へ入ってから、まだ十分ほど。

 ジョージ・ウィルハルケン男爵は早くも膝へ両手をつき、滝のように流れる汗を拭っていた。

 道と呼ぶには、あまりにも細く頼りない獣道が、切り立った斜面に沿って蛇のように続いている。

 

 右手には、湿った岩壁。

 左手には、一歩踏み外せば谷底まで真っ逆さまの断崖。

 足元では濡れた苔が容赦なく滑り、巨木の根が悪意ある罠のように張り巡らされていた。

 

「山道へ入って、ようやく十分ですね」

 

 先頭を軽快に進むネリオが、振り返りもせず答えた。

 

「そ、そんなはずはありません! 私の体感では、すでに一時間近く過酷な行軍を続けています!」

 

「人間は苦痛を感じると、時間を長く感じるそうですよ」

 

「では、実際には何分なのですか!?」

 

 ネリオは懐から小さな懐中時計を取り出した。

 

「十二分です」

 

「二分しか増えていません!」

 

 ジョージは、目の前が暗くなるような絶望に襲われた。

 最後尾を歩くモーブルが、呆れたように鼻を鳴らす。

 

「おやおや。昨日、市場で料金改定書を破り捨てたときの勇ましさは、どこへ落としてこられたのですかな?」

 

「仕方がないでしょう! 屋敷の廊下には、このような天を仰ぐほどの急斜面も、足を引っ掛ける木の根もありません!」

 

「立派な大理石の階段はあるでしょう」

 

「あれは段差が規則正しく並んでいます! こんな殺意に満ちた形ではありません!」

 

「では、その細い脚で、これまで何を鍛えてこられたのです?」

 

「貴族の嗜みとして、剣術を少々……」

 

「その割には、脚が生まれたての鹿みたいに震えてますけどねぇ」

 

 ネリオが楽しそうに指差す。

 

「震えてなど――うわっ!?」

 

 言い返そうとしたジョージの爪先が、苔むした木の根へ引っ掛かった。

 体が大きく前へ傾く。

 だが、地面へ顔を打ちつける寸前、ネリオが後ろ襟を掴んで引き戻した。

 

「おっと。危ない危ない」

 

「た、助かりました……」

 

「気をつけてくださいよ、男爵様」

 

 ネリオは何事もなかったように手を離す。

 

「ここで谷底へ落ちられると、次号の見出しが『悲報! 宝探し二日目、世間知らずの依頼主が早くも退場』になってしまいます」

 

「心配しているのは私の命ではなく、記事の見出しなのですか!?」

 

「わしとしては、未回収になる報酬の方が心配ですな」

 

 モーブルが間髪を容れず追撃した。

 

「お二人とも! 少しくらいは私自身の身を心配してくれてもよいのではありませんか!?」

 

「もちろん、心から心配していますよ」

 

 ネリオは邪気のない笑みを浮かべた。

 

「主役が山道で転落死して途中降板など、物語としてあまりに地味ですから」

 

「やはり記事の都合ではありませんか!」

 

 叫んだ拍子に残り少ない息まで吐き出し、ジョージはその場へへたり込んだ。

 

「す、少しだけ……休ませてください……」

 

「昨日は夕日を背に、『明日、北の水源へ向かいます』と格好よく宣言していたではありませんか」

 

「山道が、これほど物理的に理不尽だとは思わなかったのです!」

 

「馬車は麓までしか入れんと、昨日説明したはずですぞ」

 

「言葉で聞くことと、自分の脚で登ることは別問題です!」

 

「男爵様」

 

 ふいに、ネリオの声からからかう調子が消えた。

 ジョージが荒い息を吐きながら顔を上げる。

 

「何でしょう……」

 

「ヴァーゼルへ流れている水は、毎日この道を下りていくんですよ」

 

「……水に脚が生えているわけではないでしょう」

 

「そういう意味じゃありません」

 

 ネリオは、道の脇を指差した。

 斜面の草木に隠れるように、小さな石造りの溝が伸びている。

 苔と腐葉土に半ば埋もれていたが、明らかに人の手で築かれた水路だった。

 

「この水路を造った人がいる」

 

 ネリオは細い溝へ視線を落とす。

 

「大雨で崩れれば直す人がいる。泥や落ち葉が詰まれば、山へ登って一つずつ取り除く人がいる」

 

 石の隙間を、ごくわずかな水が流れていた。

 

「町の誰からも見えない山奥で、何度もこの斜面を往復している人たちがいるんです」

 

 そして、ジョージへ顔を向ける。

 

「その仕組みを維持する最終的な責任を負っているのが、ウィルハルケン家でしょう?」

 

 ジョージは息を詰めた。

 水路はどこかで詰まっているのか、流れる水は頼りないほど少ない。

 細い雫が乾いた石を伝い、途中で斜面へこぼれ落ちていた。

 

「父上も……この道を歩いたのでしょうか」

 

「それを確かめるために、せっかく泥だらけになれる靴を履いてきたんでしょう?」

 

 ネリオは再び前を向いた。

 

「さあ、休憩は終わりです。ここからが本番ですよ」

 

「せめて、あと三十秒……!」

 

「街の人たちの喉は、男爵様の筋肉が回復するまで待ってくれません」

 

「言っていることは完全に正しいのですが、私の脚が言うことを聞かないのです!」

 

「なら、当主として命令してください」

 

「私の筋肉はウィルハルケン家の使用人ではありません!」

 

 情けない叫びを山中へ響かせながらも、ジョージは歯を食いしばって立ち上がった。

 震える脚を持ち上げ、再び一歩を踏み出す。

 

◆

 

 それから、およそ一時間後。

 

「……もう、一歩も動けません」

 

 ジョージは道端の苔むした巨岩へ倒れ込むように腰掛け、完全にうなだれていた。

 整っていた黒髪は汗で額へ張りつき、上着の背中もすっかり色を変えている。

 

「脚の感覚がありません……。他人の脚を無理やり括りつけられているようです……」

 

「おや、大丈夫ですか、男爵様」

 

 ネリオが、まったく心配していない目で顔を覗き込んだ。

 

「ネリオ殿……」

 

「脚だけで済んでいるなら、まだ序の口ですよ」

 

「どういう意味ですか……?」

 

「そのうち腕も肺も心臓も、自分のものではない気がしてきます。最終的には魂が肉体から少し浮きますねぇ」

 

「それは山歩きではなく、臨死体験ではありませんか!」

 

 少し離れた場所では、モーブルも頑丈な切り株へ巨体を落としていた。

 

「ふん。だらしのない。坂道を少し登っただけで、みっともなく騒ぎおって」

 

 そう言う本人の額にも、大粒の汗が浮かび、呼吸は微妙に乱れている。

 ネリオの鋭い目が、その隙を見逃すはずもなかった。

 

「おやおや? 山ゴリさんも、随分と顔が赤く熟れてますねぇ」

 

「この程度、息が上がったうちに入らん。ただの有酸素運動だ」

 

「ん〜、首筋から湯気が出てますけど」

 

「燃費がいいだけだ」

 

「その荷物、あたしが代わりましょうか?」

 

「断る。荷を目的地まで無事に運ぶのが、ポーターの仕事だ」

 

「無理して倒れられると、回収が面倒ですしね」

 

「貴様に貸しを作るくらいなら、ここで野垂れ死ぬ方がましだ」

 

「では、気絶したら荷物だけ回収しますねぇ。山ゴリさんは重いので、丸太みたいに麓まで転がします」

 

「わしを木材として運ぶな!」

 

 二人がいつものように罵り合う傍らで、ジョージは水筒を取り出した。

 冷たい水を口へ含む。

 乾ききった喉を通り、疲れ果てた体の奥へ染み込んでいく。

 ジョージは、水筒を見つめた。

 

「……この水も、あの水源から来ているのですね」

 

「そうですな」

 

 モーブルが息を整えながら答える。

 

「屋敷にいれば、誰かに命じるだけで銀の器へ清水が注がれる。だが、その水は何もないところから勝手に湧いて、屋敷まで歩いてくるわけではありません」

 

「当たり前にあるものほど、それを支える手間は見えにくくなるんですよ」

 

 ネリオが木々の隙間から、遥か眼下を指差した。

 そこには、玩具のように小さなヴァーゼルの街並みが広がっている。

 いくつもの煙突から、細い生活の煙が朝空へ昇っていた。

 

「あそこに暮らす人たちが、毎日この山の水を使っている。飲み水にして、料理を作って、汚れを落として、家畜の喉を潤す。商売にも使う。この細い水路が止まれば、町の暮らしも止まります」

 

「ですが……」

 

 ジョージは眼下の町を見つめた。

 

「街で暮らす人々の多くは、この山の水路を意識したことすらないのでしょうね」

 

「そういうものです」

 

 ネリオは肩をすくめる。

 

「何事もなく動いている仕組みほど、誰が守っているのか気づかれない」

 

 モーブルが、苔に埋もれた水路へ目を向けた。

 

「先代男爵は、男爵様にそれを見せたかったのでしょうな。見えぬ場所で働く者と、見えぬまま支えられている暮らしを」

 

 ジョージは、しばらく何も言わなかった。

 やがて水筒の蓋を閉める。

 痛む膝へ両手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 脚は、相変わらず情けないほど震えている。

 足の裏にも、焼けるような痛みがあった。

 それでも今度は、誰かに促される前に、自ら道の先へ足を向けた。

 

「……行きましょう」

 

 モーブルが意外そうに片眉を上げる。

 

「もう泣き言はよろしいので?」

 

「十分休みました」

 

「おやぁ?」

 

 ネリオが楽しげに目を細める。

 

「さっきまで『私の筋肉は使用人ではない』と半泣きで訴えていた方とは思えませんねぇ」

 

「泣いてなどいません! あれは呼吸を整えていただけです!」

 

「なるほど。では記事には、『若き男爵、己の無力さに涙し、山中で激しく呼吸を整える』と書きますね」

 

「文字にすると余計に惨めなので、絶対に書かないでください!」

 

 ジョージの抗議を笑い飛ばしながら、ネリオは再び先頭を歩き始めた。

 モーブルも重い鞄を背負い直し、その後に続く。

 そしてジョージも、震える脚を叱咤しながら一歩ずつ進んだ。

 

 これまで、屋敷へ届く清らかな水しか見てこなかった。

 だが今は、その一滴が町へ届くまでに積み重ねられた、名も知らぬ誰かの仕事が見え始めている。

 父が遺した二つ目の問いは、まだ解けていない。

 それでもジョージは、その答えへ向かう道を、自分の足で確かに歩き始めていた。

 

♦

 

 生い茂る森を抜け、険しい山道をさらに登っていくと――。

 不意に、視界が開けた。

 

 三人の前に現れたのは、切り立った岩壁に囲まれた、小さな盆地だった。

 その中央に鎮座する巨岩の隙間から、水晶のように澄んだ水が、こんこんと絶え間なく湧き出している。

 湧水は、人の手で精密に組み上げられた巨大な石造りの貯水槽へ集められ、そこから幾筋もの水路に分かれて山の斜面へ流れ落ちていた。

 

「ここが……北部水源地……」

 

 ジョージは、思わず息を呑んだ。

 水面は鏡のように澄み、底に沈んだ白い小石や、砂が描く細かな波紋まで鮮明に見える。

 聞こえるのは、小鳥のさえずりと、絶え間ない水の音だけ。

 人と金と欲望が渦巻く市場の喧騒から遠く隔てられた山奥で、ここだけが静かに、ヴァーゼルの命を生み出し続けていた。

 

「きれいですね……」

 

「見惚れている暇はありませんよ、男爵様」

 

 ネリオは感嘆するジョージとは対照的に、周囲の岩肌や水路へ鋭い視線を走らせていた。

 

「まずは、箱の反応を確かめましょう」

 

 モーブルが大きな革鞄を下ろし、布に包まれた黒檀の箱を取り出す。

 第一の歯車を組み込まれた箱は、すでに淡い銀色の光を脈打たせていた。

 貯水槽へ近づくにつれ、その輝きは明らかに強くなっていく。

 

「やはり反応しておるな」

 

「ええ。この付近に二つ目の歯車があるのは間違いありません」

 

 だが、ネリオはすぐに眉をひそめた。

 

「……それより、妙ですねぇ」

 

「何がだ?」

 

「音です」

 

 ネリオは耳を澄ませた。

 

「これだけの量の水が湧いているのに、下流へ流れていく音が少なすぎる」

 

 モーブルも貯水槽の縁へ立ち、主要な水路を覗き込んだ。

 本来なら大量の水が勢いよく流れているはずの石溝には、細い小川ほどの水量しかなかった。

 

「どこかで詰まっておるな」

 

「おそらく、それもかなり大きなものが」

 

 三人は水路に沿って斜面を下った。

 貯水槽から二十メートルほど進んだところで、原因はすぐに見つかった。

 昨夜の大雨で斜面の一部が崩れ、大量の土砂と巨大な倒木が水路を完全に塞いでいたのだ。

 行き場を失った水は石溝の縁から溢れ、斜面へ流れ出して、広い泥濘(ぬかるみ)を作っている。

 

「そんな……!」

 

 ジョージの顔から血の気が引いた。

 

「このままでは、ヴァーゼルへ流れる水が止まってしまいます!」

 

「すでに街では、目に見えて水量が落ち始めているでしょうな」

 

 モーブルは、水を吸って黒く膨れた土砂と倒木を検分した。

 

「このまま放置すれば、残った水路も泥で塞がる。街の貯水分が尽きるまで、そう時間はかからんぞ」

 

「管理人は来ないのですか?」

 

「見回りを任されている木こりはいるはずですが、巡回は数日に一度でしょうね」

 

 ネリオが泥をブーツの先でつつく。

 

「昨夜崩れたばかりなら、まだ誰も気づいていない可能性が高いです。次の巡回を待っていたら、街の水が先に止まりますよ」

 

「では、私が山を下りて人を呼んできます!」

 

「阿呆」

 

 モーブルが一言で切り捨てた。

 

「山を下り、作業員と道具を集め、再びここまで登ってくる頃には日が暮れておる。その間も水は逃げ続けるのだぞ」

 

「なら、どうすれば……」

 

 ジョージは、水路の縁から溢れ出す水を見つめた。

 

「せめて、水が外へ逃げるのを止められれば……!」

 

 右手を突き出す。

 指先へ淡い青色の魔力が集まり、小さな円形の術式が浮かび上がった。

 

「局所障壁(ポイント・シールド)!」

 

 水路の破損箇所へ、半透明の青い障壁が出現した。

 だが、その大きさは直径三十センチほど。

 夕食用の大皿と大差ない。

 押し寄せた水が障壁へぶつかり、一瞬だけ白い飛沫を上げた。

 しかし次の瞬間には、上下左右から簡単に回り込み、何事もなかったように斜面へ流れ出していく。

 数秒後。

 ピシッ、と薄い硝子の割れるような音を残し、障壁は青い光の粒となって消えた。

 

「…………」

 

 ジョージは、突き出した右手を下ろせないまま固まっていた。

 

「ほぉほぉ、今のが男爵様の魔法ですか?」

 

 ネリオが尋ねる。

 

「……はい。私が使える唯一の魔法です。好きな場所へ小さな障壁を一枚だけ作れます。ただ、維持できるのは二、三秒ほどで……」

 

「なるほど。水路を塞ぐには、少々かわいらしすぎる鍋蓋ですねぇ」

 

「学院では『空飛ぶ大皿』と呼ばれていました……」

 

「他の魔法は使えんのですか?」

 

 モーブルが倒木を睨みながら尋ねた。

 

「これだけです。土を動かすことも、倒木を持ち上げることもできません」

 

「ならば結論は出ましたな」

 

 モーブルは容赦なく言い放った。

 

「魔法で楽をするのは諦めろ。人力だ」

 

「やはり、そうなりますか……」

 

「当然でしょ?」

 

 ネリオが、人の悪い――しかし頼もしい笑みを浮かべた。

 

「ここにいる三人で、今すぐ水路を開けます」

 

 ジョージは、目の前に積み重なった土砂を見つめた。

 大人が数人がかりでも動かせるか怪しい倒木。

 水を吸い、粘土のように重く固まった泥。

 無数に転がる大小の岩。

 

「これを……三人だけで?」

 

「正確には、山ゴリラ一頭、人間一人、そして可憐な美少年エルフ一人ですね」

 

「貴様、わし一人へ肉体労働を押しつけるつもりだな!」

 

「何をおっしゃいます。あたしは専門家として、現場全体へ的確な指示を出す重要な役割がありますから」

 

「一番動かず、口だけ動かす役目ではないか!」

 

「探索者は頭脳労働なんです。ねえ、男爵様?」

 

「なら、わしも商人だから頭脳労働だ! そこの小妖精を泥へ放り込め!」

 

「はい、男爵様どうぞ!」

 

 ネリオはモーブルを完全に無視し、ポーチから折り畳み式の小型シャベルを取り出した。

 

「まさかとは思いますが、使い方は分かりますよね?」

 

「失礼な。シャベルの用途くらい知っています!」

 

「こちらが持ち手で、刃が付いている方を土へ向けるんですよ」

 

「本当にそこから説明が必要だと思われていたのですか!?」

 

「昨日の服装を見たあとですからねぇ」

 

 ジョージは憤慨しながらシャベルを受け取った。

 勢いよく泥へ突き刺そうとする。

 だが、水を吸った粘土質の土は硬く、金属の刃は数センチしか入らなかった。

 もう一度、腕へ力を込める。

 やはり、刃は泥の表面を削っただけで跳ね返された。

 

「くっ……重い。それに、硬すぎる……!」

 

「腕だけで掘ろうとするからですよ」

 

 ネリオは自分のシャベルを泥へ当てた。

 

「刃の上へ足を掛けて、体重を真下へ乗せるんです。腕力だけで土と戦えば、三分で腰が壊れますよ」

 

 ブーツで刃を踏み込む。

 

 ――サクッ。

 

 シャベルが、滑らかに泥へ沈んだ。

 

「なるほど……」

 

 ジョージも刃へ足を掛け、おそるおそる体重を乗せた。

 

 ――サクッ。

 

「入った……! ほとんど力を使っていないのに!」

 

「感動している暇はありません。柄を倒して土を起こし、水路の外へ放り出す。はい、次!」

 

「はい!」

 

 ジョージは無我夢中で泥を掘り始めた。

 だが、方法が分かっても、土の重さが消えるわけではない。

 数回すくっただけで腕は焼けるように痛み、息も荒くなる。

 それでも歯を食いしばり、次の泥へシャベルを突き刺した。

 一方、モーブルは大鞄から頑丈なロープを取り出し、水路を塞ぐ倒木へ巻きつけていた。

 

「ネリオ! 遊んでおらんで、反対側を持て!」

 

「ええ? あたし、現場監督なんですけど!」

 

「いいから引け、この穀潰し!」

 

「仕方ありませんねぇ。これで『緊急特殊肉体労働手当』が発生しましたから」

 

「わしは一銭も払わんぞ!」

 

「では、男爵様へまとめて請求します!」

 

「なぜ、泥を掘っている私へすべての請求が集まるのですか!?」

 

「土地の所有者兼、依頼主だからです!」

 

「作業中まで金の話をしないでください!」

 

 三人はやいやい言いながら、ロープへ並んだ。

 

「せーので引くぞ。せーのっ!」

 

 ロープが張り詰める。

 泥へ埋まっていた倒木が、ズズッと鈍い音を立てて動いた。

 

「動いた! もう一度だ!」

 

 ジョージもシャベルを放り出し、泥だらけの手でロープを握る。

 三人の靴底が、ぬかるんだ地面を削った。

 

「もっと引け! 腰を落とせ!」

 

「山ゴリさん、本気のゴリラパワーを出してください! 腹の肉は何のためにあるんですか!」

 

「貴様こそ、その口の勢いの半分でも腕へ回せ! ただぶら下がっておるだけではないか!」

 

「あたしの体重では、これ以上引けば先に宙へ浮きますよ!」

 

「男爵様、腕だけで引くな! もっと腰を落とせ!」

 

「これでも全力です!」

 

「全力の者は、そんなへっぴり腰にはならん!」

 

「昨日は足取りを注意され、今日は腰の位置を怒られる! 私は一体、どこまで全身を矯正されるのですか!」

 

「土地を持つってのは、全身の筋肉を大地へ捧げる仕事なんですよ!」

 

「今、初めて知りました!」

 

 三人が一斉に力を込める。

 

 ――ズバンッ!

 

 倒木が泥から引き抜かれた。

 

 同時にロープの張力が消え、三人は反動で後方へ吹き飛んだ。

 

「うわっ!?」

「ぬおっ!」

「きゃんっ!」

 

 泥濘の上へ、三人が重なるように転がる。

 一番下敷きになったモーブルが、地鳴りのような声を漏らした。

 

「……重い。貴様ら、わざとわしの上へ落ちただろう」

 

「山ゴリさんが一番、面積とクッション性に優れた着地点だったので」

 

「やはりわざとではないか! 貴様の肉付きの薄い尻が腹へ刺さって痛いわ!」

 

「も、申し訳ありません!」

 

 ジョージは慌てて起き上がった。

 厚手のシャツも革のズボンも、すでに茶色い泥で完全に染まっている。

 ネリオも頬へ泥をつけたまま、楽しそうに笑っていた。

 

「あらあら、男爵様。随分と当主らしい、よい顔つきになってきましたねぇ」

 

「これのどこがですか! ただの泥まみれの遭難者でしょう!」

 

「ご自分の土地を、全身で受け止めていますからね。見事な愛郷心です」

 

「足を滑らせて転んだだけです!」

 

「記事には『大地へ身を捧げる若き男爵の献身』と書いておきます」

 

「それなら、少しは体裁が――」

 

「副題は『なお、足を滑らせて山ゴリラの腹へ着地』で」

 

「一切の記事化を禁止します!」

 

 最大の障害だった倒木を取り除いたことで、作業は大きく進んだ。

 三人は再びシャベルを手に取り、残った泥を掻き出し、水路へ転がり込んだ岩を一つずつ脇へ運んでいく。

 ジョージの柔らかな手には、すでにいくつもの血豆ができていた。

 柄を握るたびに潰れた皮膚へ泥が染み、鋭い痛みが走る。

 脚は鉛のように重く、腕も上がらない。

 それでも、ジョージは手を止めなかった。

 

「もう、その辺りでよいのではありませんか」

 

 モーブルが汗を拭いながら声をかけた。

 

「水路の半分は開いた。応急処置としては十分です。残りは見回りの者へ任せればよい」

 

「……まだ、半分も泥が残っています」

 

「街への水は流れると言っておるのだ。これ以上は、現場の作業員へ任せる仕事でしょう」

 

「ですが、この状態で次の雨が降れば、またすぐに詰まります」

 

 ジョージは血の滲む手で、シャベルの柄を握り直した。

 

「ここまで自分の足で来たのです」

 

 泥まみれの顔を上げる。

 

「ウィルハルケン家の名にかけて、今できることは、最後までやり遂げたい」

 

 モーブルはしばらく黙って、若者の目を見つめた。

 やがて不機嫌そうに鼻を鳴らし、自分のシャベルを泥へ突き立てる。

 

「ふん。ならば、口を動かしておらんで手を動かせ。日が傾く前に、すべて掻き出すぞ」

 

「はい!」

 

◆

 

 作業を始めてから、およそ二時間。

 水路へ残っていた最後の泥が、ジョージのシャベルによって外へ放り出された。

 

「では、開けますよ!」

 

 ネリオが貯水槽の直下へ設置していた仮の堰を、勢いよく蹴り外した。

 

 ――ドバァッ!

 

 貯水槽に溜まっていた清水が、一気に水路へ流れ込む。

 透明な水の奔流が、灰色の石溝を猛烈な勢いで駆け抜けていった。

 静かな山中へ、力強く、心地よい水音が響き渡る。

 

「流れた……!」

 

 ジョージは、糸の切れた人形のようにその場へ膝をついた。

 もう、立っている力さえ残っていない。

 それでも泥まみれの顔には、子供のように晴れやかな笑みが浮かんでいた。

 勢いを取り戻した水は、彼の目の前を歓声を上げるように通り過ぎ、山の斜面を駆け下りていく。

 

 遥か眼下にあるヴァーゼルへ。

 賑やかな中央市場へ。

 名も知らぬ人々が暮らす、一つ一つの家へ。

 

 町で暮らす者たちは、今この瞬間、山奥で誰が泥まみれになって水路を直したのか知ることはないだろう。

 それでも、この水は確かに届く。

 誰かの喉を潤し、鍋を満たし、汚れを洗い流し、明日の暮らしを支えるために。

 

「父上も……こうして泥にまみれていたのでしょうか」

 

 ジョージが、流れる水を見つめながら呟いた。

 

「父上は時折、泥だらけの姿で屋敷へ戻ってきました。家令に叱られながら笑っていて……私は、狩りで馬から落ちたのだとばかり思っていました」

 

「高貴な狩りにしては、随分と地味な汚れ方だったわけですねぇ」

 

 ネリオは貯水槽の古い石壁を調べていた。

 

「男爵様。こちらに、興味深い記録がありますよ」

 

 指差した先には、刃物で直接刻まれた小さな文字が並んでいた。

 

『第一水路決壊、緊急補修――ジョハン・ウィルハルケン、管理人オットー、石工三名』

 

 日付は十五年前。

 その下には、別の年の記録。

 さらに、その下にも。

 大雨や崩落のたびに、先代男爵の名が何度も石壁へ刻まれていた。

 

「父上は……何度もここへ来ていたのですね」

 

「先代男爵自ら、作業員へ混じって補修していたようですな」

 

 モーブルは珍しく、素直に感心した様子で髭を撫でた。

 

「なるほど。街の古い商人たちが、先代男爵へ敬意を払っていた理由が分かりましたわい」

 

「私は……何も知りませんでした」

 

 ジョージは、石壁に刻まれた父の名を震える指でなぞった。

 

「父が何のために屋敷を空け、何と戦っていたのか。私は、当主とは机の前に座り、運ばれてきた書類へ署名するものだとばかり……」

 

「書類へ署名するのも、当主の大切な仕事ですぞ」

 

 モーブルの声は、いつになく真面目だった。

 

「だが、自分が引いた一本の線が、どこへ流れ着くのかを知らねばならん」

 

 流れを取り戻した水路へ目を向ける。

 

「誰の暮らしを潤し、誰の首を絞めるのか。それを知らぬまま判を押す者は、当主ではなく、ただの看板です」

 

「水路と同じですねぇ」

 

 ネリオが、水音へ声を重ねた。

 

「始まりの数字だけ見ていても、途中が詰まっていれば、必要な場所へは一滴も届かない」

 

 そのときだった。

 

 ――カチリ。

 

 貯水槽の下部から、小さな機械音が響いた。

 

 三人が振り返る。

 水量が戻ったことで、泥に埋もれて止まっていた小さな石造りの水車が、カラカラと回転を始めていた。

 回転軸が、石壁の内部へ仕込まれた機構と噛み合っていく。

 

「ビンゴ。仕掛けが動きましたよ」

 

 ネリオが駆け寄る。

 水車の回転に合わせて、石壁の一部が滑らかに横へ動いた。

 その奥に隠されていた空洞から現れたのは、青い魔石を嵌め込まれた銀色の歯車だった。

 

「二つ目の歯車……」

 

 ジョージは、自分の泥と血に汚れた手を見つめた。

 一瞬、この手で父の遺品へ触れてよいのかとためらい、服の裾で泥を拭おうとする。

 

「今さら、その布で泥を気にしても仕方ないでしょう」

 

 ネリオが背中を軽く叩いた。

 

「今日の男爵様は、頭から爪先まで立派な『大地の色』ですよ」

 

「……そうですね」

 

 ジョージは泥まみれの手を伸ばし、銀色の歯車を取った。

 その表面には、古い共通語で一文字だけ刻まれている。

 

『源』

 

「源……」

 

「人の暮らしを、根底から支える命の源ですな」

 

 モーブルが静かに呟いた。

 ジョージが歯車を黒檀の箱へ近づける。

 歯車は引き寄せられるように宙へ浮かび、二つ目の窪みへ収まった。

 

 ――カチリ。

 

 明確な手応えとともに、途切れていたミスリルの回路へ青い光が走る。

 箱の表面を巡った魔力が、空中へ光の文字を描き出した。

 

『第三の問い』

 

 三人は息を呑み、その先を見つめる。

 

『泥の下へ明日を託し、季節の巡りを待つ者たちのもとを訪ねよ』

 

 文字が淡い光の粒となってほどけていく。

 その輝きの中に浮かび上がったのは、風を受けて一斉に穂を揺らす、広大な麦畑の幻影だった。

 黄金色の波が、地平の彼方まで幾重にも広がっている。

 

「次は……畑でしょうか」

 

「西部開拓畑ですな」

 

 モーブルが目を細めた。

 

「先代男爵が晩年、相当な金と時間を注ぎ込んで切り拓いた農地があったはずです」

 

「はい」

 

 ジョージは記憶を辿るように頷いた。

 

「ですが、あそこは現在、投資に見合う利益をほとんど生んでいないと報告を受けています」

 

「利益が出ていない?」

 

「土が痩せていて、収穫量も安定しないと。借金返済のため、売却する土地の最有力候補になっています」

 

 ネリオとモーブルが、同時にジョージの顔を見た。

 

「な、何でしょう……」

 

「昨日の市場と同じ匂いがしますねぇ」

 

「うむ。帳簿の数字から、実にきな臭い臭いが漂ってきますな」

 

「ですが、家令の報告書には、維持費ばかりかかるお荷物だと――」

 

「まーた、その書類ですか」

 

 ネリオが呆れたように肩をすくめた。

 

「今度も売却の判を押す前に、ご自分の目で見られるわけですね」

 

 ジョージは、空中に揺れる黄金色の畑を見つめた。

 泥にまみれ、傷だらけになった自分の手。

 背後では、清らかな水が力強い音を立てて流れている。

 石壁には、父がここで戦った証しが残されていた。

 

「……はい」

 

 その返事に、今度は迷いがなかった。

 

「明日の朝、西部開拓畑へ向かいます」

 

「今日のうちに向かわないのですか?」

 

 モーブルが意地悪く尋ねる。

 

「さすがに今日は、山を下りて泥を洗い流させてください。もう限界です」

 

「麓から開拓畑までは、馬車で一時間ほどですがな」

 

「到着する頃には日が暮れます! 夜の魔獣へ会いに行くつもりですか!」

 

「では、明朝ということでぇ」

 

「それなら許可してやろう」

 

「おやぁ?」

 

 ネリオがモーブルの脚へ視線を落とした。

 

「山ゴリさんも、本当はもう腰が限界だから、一晩休みたいだけでは?」

 

「貴様と一緒にするな! わしの足腰は至って強靭だ!」

 

「さっきから立ち上がろうとするたび、三回ほど座り直してますけど」

 

「苔で滑っただけだ!」

 

「そこ、完全に乾いてますよ」

 

「うるさいわァッ!」

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