※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

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第五十七話 おしゃべりエルフと古代の『問いかけの箱』⑤

 探索三日目。

 

 西部開拓畑へ向かう馬車は、こちらの都合など一切考慮せず、朝から容赦なくガタゴトと揺れていた。

 

 その車内で、モーブルは親の仇でも睨みつけるような顔をしながら、両腕を固く組んでいる。

 

 車輪が道の窪みを踏むたび、太い眉がぴくりと跳ねた。

 

「……解せん」

 

「何がです?」

 

「なぜ、わしの全身の筋肉が、一斉蜂起でも起こしたかのように悲鳴を上げておるのだ」

 

 対面の席では、ネリオが瑞々しい果実を齧りながら、間髪入れずに答えた。

 

「それを世間一般では『筋肉痛』と呼ぶんですよ」

 

 シャリッ、と小気味よい音が鳴る。

 

「それにしても妙ですねぇ。あたしの記憶が正しければ、山ゴリさんは冒険者歴三十年以上の、由緒正しきアイアン級ポーターだったはずですが」

 

「それがどうした」

 

「昨日、山の上で随分と勇ましく吠えていましたよねぇ」

 

 ネリオはわざとらしく胸を張り、低い声で真似をする。

 

「『ふん。この程度は、ただの有酸素運動だ。筋肉痛になどならん』」

 

「昨日の時点では、本当にどこも痛くなかったのだ!」

 

 モーブルは顔をしかめ、腰を僅かに浮かせた。

 

 その瞬間、馬車が大きな石を踏み、巨体が座席へ叩き戻される。

 

「ぬおっ……!」

 

「おや。今のは随分と元気な悲鳴でしたねぇ」

 

「黙れ! なぜ一晩たってから、滞納金の取り立てのように全身へ押しかけてくるのだ!」

 

「ああ、それはですね」

 

 ネリオは納得したように頷いた。

 

「人間の老化した肉体は、疲労という名の負債を計上するのに時間がかかるんですよ」

 

「誰の肉体が処理の遅い零細商会だ!」

 

「昨日の時点では、帳簿整理が間に合わなかったんでしょうねぇ。それで今朝になって、全身の各部署から請求書が一斉に届いたと」

 

「なぜ筋肉どもが、わしへ無断で債権者になっておる!」

 

「しかも情け容赦のない、一括返済です」

 

「せめて分割払いにさせろ!」

 

「昨日、『疲労などない』と負債の存在を否認したせいで、期限の利益を喪失したんでしょう」

 

「筋肉痛へ勝手に契約条項を追加するな!」

 

「延滞利息も、しっかり上乗せされていそうですねぇ」

 

「悪徳高利貸しより容赦がないではないか!」

 

 ネリオは楽しそうに二口目を齧った。

 

「まあ、自業自得ですよ。昨日のうちに素直に疲労を認めておけば、もう少し穏便に済んだかもしれません」

 

「だいたい貴様、実年齢ではわしの倍以上生きておるくせに、何を瑞々しい若者の代表みたいな顔をしておるのだ!」

 

「エルフと人間では、生命力の元本が違いますから」

 

「わしを資金ショート寸前の債務者扱いするな!」

 

「若さの追加融資も、そろそろ審査が厳しそうですねぇ」

 

「勝手に申し込むな!」

 

「担保にできそうな若さも残っていませんし」

 

「審査すらせずに否決するな!」

 

「では、筋肉を担保に」

 

「その筋肉が現在、債権回収に来ておるのだ!」

 

 その隣では、ジョージも馬車が道の窪みを拾うたびに、「ひっ」と短い悲鳴を漏らしていた。

 両腕を体へ寄せ、少しでも揺れを逃がそうとしているが、馬車には若き男爵を労わる気など毛ほどもないらしい。

 

「私も……腕と背中の筋肉から、絶え間なく抗議を受けています……」

 

「男爵様は、その日の夜から痛みが来ましたねぇ」

 

「それは、どういう意味でしょうか」

 

「肉体がしっかり若い証拠です。山ゴリさんとは違って、請求書が即日発行されたんですよ」

 

「早く届いたところで、喜べる知らせではありません!」

 

「まあまあ、ご安心ください」

 

 ネリオは果実を持ったまま、にっこりと微笑んだ。

 

「本日の予定は、畑仕事ですから」

 

「その一言の、どこに安心できる要素が?」

 

「昨日使わなかった細かな筋肉まで、満遍なく平等に痛めつけられますよぉ」

 

「筋肉痛の未回収分を、追加徴収する予定みたいに言わないでください!」

 

「明日の朝には、全身へ漏れなく請求書が届くでしょうねぇ」

 

「恐怖の取り立て予告はやめてください!」

 

 馬車はヴァーゼルの賑やかな中心街を離れ、西の荒涼とした境界地域へと進む。

 やがて、道の両側に広大な農地が見え始めが、それは豊かな穀倉地帯と呼ぶには、少しばかり寂しく、泥臭い風景だった。

 畑の一部には青々とした作物の葉が綺麗に並んでいるものの、多くの区画は、掘り返されたばかりの不毛な土が剥き出しになっている。

 無数の農民たちが、汗にまみれながら水路を掘り、バケツで石を拾い上げ、地道に土へと肥料を混ぜ合わせていた。

 その泥臭い労働の風景の中でも、一際広く、そして一際過酷そうに見える一帯こそが、目的の西部開拓畑であった。

 

 馬車を降りた三人を出迎えたのは、日に焼けて深い皺の刻まれた、一人の中年農夫だった。

 

「これは……もしや、ウィルハルケン男爵様、でございますか?」

 

 農夫は驚愕し、慌てて泥のついた麦わら帽子を胸に当てて頭を下げた。

 

「まさか、このような最果ての荒れ地にまで、当主様自らがお越しになるとは……」

 

「突然の訪問、申し訳ありません。この開拓畑の『本当の姿』を、どうしてもこの目で見せていただきたくて」

 

「畑を、ですか……?」

 

 農夫の灰色の瞳に、一瞬、鋭い警戒の光が宿った。

 

「……例の、『土地売却』の件での御視察ですか」

 

 ジョージは、その真っ直ぐな言葉に息を詰まらせた。

 

「……ご存じ、なのですか」

 

「男爵家の管理人が、先週、冷やかし半分で調査に来ましたからな。収穫量の少ない『お荷物』の土地を早期に整理し、近隣の他家へ売るか、いっそ畑を潰して羊の放牧地へ転用すると、偉そうに書類を捲りながら仰っていましたよ」

 

 その言葉に呼応するように、周囲で鍬を振るっていた無数の農民たちがピタリと手を止め、遠巻きに三人へと冷ややかな視線を向け始めた。

 その目の色は、昨日の市場の人々よりも、さらに頑固で、氷のように冷たかった。

 

「……まだ、正式に決定したわけではありません」

 

「ですが、売却の最有力候補に入っているのは事実でしょう」

 

「はい」

 

 ジョージは、今度は目を逸らさずに、堂々と農夫の目を正面から見据えて答えた。

 

「だからこそ、書類の数字ではなく、自分の目で見極めに来ました」

 

「見て、貴族様に何が分かります?」

 

 農夫は、泥と傷でゴツゴツと分厚くなった自分の掌を、突きつけるように広げてみせた。

 

「温室育ちの貴族様には、ここにある土はどれも、ただの薄汚い『泥』にしか見えないでしょう」

 

「――その通りです」

 

 ジョージは、自嘲気味に微笑んで素直にその事実を認めた。

 

「私は農業については、何一つ知識を持ち合わせていません。ただ屋敷の机の上で、報告書に記された『低い収穫量』と『高い維持費』の数字だけを見て、この土地を判断していました」

 

 男爵のあまりにも率直な告白に、遠巻きに見ていた農民たちの間に、小さなどよめきが走る。

 

「ですが、知らないまま、そこにないものとして土地を売却することが、どれほど愚かで取り返しのつかない間違いであるかは、昨日、身をもって学びました」

 

「昨日……?」

 

「ええ。山の上の水源地で、二時間ほど必死に泥を掘り、大樹を引っ張っていました」

 

 ジョージは、自分の両手を農夫の前に差し出した。

 そこには、昨日潰れた豆の跡と、赤く腫れ上がった生々しい労働の傷跡が残っていた。

 

「……男爵様ご自身が、泥を?」

 

「はい。おかげで現在、服を動かすだけで激痛が走る、見事な筋肉痛です」

 

「男爵様、そこまでご自分のヘタレな裏事情を、初対面の農民の前で正直に暴露しなくてよろしいでしょうが」

 

 モーブルが、こめかみを押さえて横から口を挟む。

 ネリオはすでに、楽しげに手帳を取り出してインクペンを走らせていた。

 

「『筋肉痛男爵、今度は最果ての泥へ挑む』。うーん、読者ウケの良そうな、実に親しみやすい連載タイトルになりそうですねぇ」

 

「筋肉痛を私の公式の肩書きにするのは絶対にやめてください!」

 

 ジョージの必死の抗議に、対峙していた農夫の厳しかった口元が、わずかに、本当にわずかだけ緩んだ。 

 しかし、彼はすぐにいつもの真面目な百姓の顔へと戻る。

 

「……私は、この開拓畑の農民たちを取りまとめている、モトと申します」

 

「ジョージ・ウィルハルケンです。よろしく、モト」

 

「お名前は、存じております」

 

「……そう、ですね」

 

 少し気まずそうに咳払いを挟み、ジョージは広大な畑の土へと、真剣な視線を向けた。

 

「モト。この土地の収穫量が、報告書の目標に届かない『本当の理由』を、私に教えていただけますか」

 

 モトはしばらくの間、黙って若き男爵の目を見つめていた。

 やがて、畑のずっと奥、地平線の近くを指差す。

 

「……歩きながら、お話ししましょう」

 

 三人はモトの先導に従い、境界線を越えて畑の内部へと足を踏み入れた。

 実際に歩いてみると、土の表情は場所によって全く違っていた。

 黒くしっとりと柔らかい肥沃そうな場所もあれば、灰色で粘土のように固く締まった、作物を拒絶するような場所もある。

 

「ここは元々、作物を育てるための土地ではありませんでした」

 

 モトが、地面をブーツで軽く踏みしめながら説明する。

 

「大きな石がゴロゴロと転がり、一度雨が降れば底なしの沼のように水が溜まり、逆に日照りが続けば鉄板のように土が固まる。近隣のどの農家も見向きもしなかった、呪われた荒れ地です」

 

「では、なぜここを畑に?」

 

「十年前、先代様がね……行き場を失って街へ流れ込んできた難民や、戦で故郷の土地を失った哀れな者たちへ『生きるための仕事』を与えるため、ご自分の私有地であったこの荒れ地を、あえて開拓すると宣言されたのです」

 

 ジョージは、ハッとして足を止めた。

 

「父上が……難民たちのために?」

 

「ええ。最初の三年は、何を植えてもろくに芽すら出ず、全滅の繰り返しでした。四年目になって、ようやく小ぶりの豆が少しだけ採れた。それだけの土地です」

 

「それほどまでに、気の遠くなるような時間が……」

 

「土というものはね、男爵様。貴族様が上から命令したからといって、次の日に都合よく豊かにはなってくれないのですよ」

 

 モトはしゃがみ込み、畑の土を両手で一握り、愛おしげにすくい上げた。

 

「秋になれば何百車分もの落ち葉を混ぜ、家畜の糞を運び、特定の草を育ててはそのまま土へと鋤き込む。気の遠くなるような数の石を一つずつ拾い上げ、手作業で何キロもの排水路を掘る。それを何年も、何年もひたむきに繰り返して、ようやく……作物が根を張れる『生きた土』になるんです」

 

「ですが、私の手元にある報告書には、開拓から十年を迎えた現在も、総収穫量は当初の目標の六割にすら届いていない、維持費ばかりを食う土地だと……」

 

「昨年までの数字だけを見れば、家令殿の報告も間違いではありません」

 

 モトは立ち上がり、さらにその先へ広がる緑の区画を指差した。

 そこには、背丈こそまだ低いものの、太い幹と青々とした葉を持つ果樹が、何列にもわたって整然と植えられていた。

 

「ですが、あの果樹こそ、この開拓畑の本当の目的なのです」

 

「本当の目的……?」

 

「先代様は、ただ荒れ地を耕し、ありふれた作物を育てようとしていたわけではありません」

 

 モトは、果樹園へ向かってゆっくりと歩き出した。

 

「水が多すぎる時期にも、土が固くなる日照りにも耐えられる強い根。そして、実った果実には高い甘味と、体を養う豊かな滋養を持たせる。その両方を備えた、この土地だけの果樹を作ろうとなさったのです」

 

「父上が、品種改良を……?」

 

「ええ。果樹農家の知恵を借りながらも、最後にどの枝を接ぎ、どの苗を残すかは、先代様ご自身が決めておられました」

 

 モトは、若い木の幹へ手を添えた。

 

「丈夫な土地の原種へ、香りと甘味に優れた品種を何度も接ぎ合わせる。実の質が悪ければ、また最初からやり直す。そうして作られた、ヴァーゼルの土に合わせた特別な果樹です」

 

「そのようなことまで……」

 

「先代様は仰っていました」

 

 モトは、懐かしむように目を細めた。

 

「『辺境の荒れ地だからこそ作れる、ここにしかない価値を育てる。いずれヴァーゼルの名を聞けば、誰もがこの果実を思い浮かべるようにしてみせる』と」

 

 ジョージは、驚きを隠せないまま果樹の列を見つめた。

 父は、土地を耕していたのではない。

 この辺境の町に、新たな産業そのものを根づかせようとしていたのだ。

 

「ですが、果樹は植えてすぐに実を結ぶものではありません」

 

 モトは続けた。

 

「根を張らせ、枝を育て、この土地へ馴染ませるだけで長い年月がかかった。先代様が亡くなられたあとも、我々は残された苗を守り続けました」

 

 そして、枝先に実った青い果実を見上げる。

 

「あの木々が初めて実をつけたのは、昨年のことです」

 

「昨年、ようやく……」

 

「ええ。ただし、まだごく少量の試験収穫でした。町で売るほどの量もなく、ヴァーゼルへ立ち寄った行商人へ、他の農産物とまとめて引き取ってもらいました」

 

「では、果実は町の外へ?」

 

「おそらく、東の方面へ運ばれたはずです。ですが、何分にも少量でしたから、ヴァーゼルの名を付けて売られたわけではありません。どこかの西部産の果実として、他の品と一緒に売られたのでしょう」

 

 モトの顔に、わずかな悔しさが浮かんだ。

 

「今年は、どのくらい実りそうなのですか?」

 

「昨年の倍以上を見込んでおります」

 

 モトは、力強く並ぶ果樹を見渡した。

 

「まだ若い木ばかりです。来年、再来年と枝が育てば、収穫量はさらに増えていくでしょう」

 

「では、ようやく成果が現れ始めたのですね!」

 

「少しずつですが、確実に。ようやく土が、我々の血と汗に応え始めてくれたのです」

 

「なぜ、その重要なことが報告書に記載されていないのですか?」

 

「今年の収穫は、まだ始まっておりませんからな」

 

 モトは乾いた笑みを浮かべた。

 

「家令殿の書類へ載るのは、すでに収穫され、市場で金へ変わった過去の結果だけです」

 

 まだ青い果実を指差す。

 

「これから熟す果実も、来年さらに増える収穫も、帳簿の上ではまだ存在していないのですよ」

 

 ジョージは、言葉を失った。

 帳簿に記されているのは、すでに終わった過去だけ。

 この土地へ注がれた十年分の労働も、亡き父が作り上げた特別な果樹も、これから実るはずの未来も。

 そのすべてが、数字の網目から綺麗にこぼれ落ちていた。

 

「……もし、この土地を他家に売却した場合、買い手はここをどうするつもりなのですか」

 

「決まっています。こんな面倒な土の改良など止め、果樹をすべて引き抜いて、一面を羊の放牧地にするでしょうな。短期的には、平民を雇うよりその方が遥かに安上がりで、確実な利益が出ますから」

 

「では、ここにいる農民たちは……」

 

「また、生きるための土地を失い、路頭に迷う難民に逆戻りです」

 

 モトの声は、恐ろしいほど平静だった。

だが、

 その静かな言葉の奥には、すべてを諦めたような、しかし決して消えない深い怒りの炎が燃えたぎっていた。

 

「先代様はね、『ここを十年かけて、誰もが羨む最高の果樹園にして見せる。だから俺を信じて、共に土を耕してくれ』と仰った。だが、六年目に突然亡くなられた。残された我々は、先代様と交わしたその約束だけを信じて、今日まで飢えを凌ぎながら土を作り続けてきたのです」

 

 ジョージは、自分の足元の、黒々とした土を見つめた。

 

「私は……約束の十年を待つこともせず、目先の金のために、あなた方の十年を売ろうとしていた……」

 

「男爵家に莫大な借金があり、首が回らない状態であることは、我々も風の噂で知っております。仕方のないことです」

 

「――いいえ、仕方のないことなどではありません!」

 

 ジョージは、その場に深く膝をつき、生きた土へと両手をそっと触れた。

 昨日の山奥の粘土質の泥とは違う。

 乾いているように見えて、指の腹で優しく崩すと、中にはひんやりとした生命の湿り気がある。

 小さな虫が土の隙間を元気に動き回り、目に見えないほど細い果樹の根が、明日へと向かって力強く伸びていた。

 

「見た目は同じ泥でも……この土は、確かに生きている」

 

「ええ」

 

 モトが、男爵のその姿を静かに見つめながら答えた。

 

「土も、人も、本当に価値あるものが育つには……それ相応の時間が要るのですよ」

 

 ――その時だった。

 

「モトさん!! 大変だ、また東側の壁が崩れたぞ!!」

 

 畑の端から、一人の若い農夫が、血相を変えて激しく駆けてきた。

 

「昨日の大雨で、東側の主要排水溝の土壁が完全に決壊しました! このままだと、泥水が逆流して若い苗木が並ぶ苗床まで一気に水浸しになります!」

 

「何だとっ!?」

 

 モトは顔色を変え、一瞬で貴族への礼儀を忘れて激しく走り出した。

 三人も、その背後を急いで追う。

 畑の東側の境界線では、ネリオの予言通り、昨日の大雨の負荷に耐えきれなくなった排水溝の土手が大きく崩れ、濁流が畑の内部へと激しく溢れ出していた。

 低い位置にある繊細な果樹の苗床には、すでに膝元まで茶色い泥水が溜まり、若い苗木の根元を容赦なく押し流そうとしている。

 

「全員、土嚢を運べ! 決壊口を塞ぎつつ、水を一度、南側の古い空き溝へ迂回させるんだ!」

 

 モトの怒号のような指示の元、周囲の農民たちが一斉に動き始める。

 しかし、押し寄せる濁流の勢いに対して、圧倒的に人手が足りていない。

 

 ジョージは、決壊口から噴き出す泥水を見つめた。

 

「今度こそ……少しでも時間を稼げれば!」

 

 右手を前へ突き出し、泥水の真正面へ狙いを定める。

 

「『局所障壁(ポイント・シールド)』!」

 

 淡い青色の円盤が、崩れた土手の中央へ現れた。

 濁流が障壁へ激突し、茶色い飛沫が盛大に弾ける。

 だが、やはり小さすぎた。

 

 泥水は障壁の両脇から蛇のように回り込み、上からも容赦なく乗り越えて苗床へ押し寄せていく。ジョージは歯を食いしばり、続けてもう一枚の障壁を生み出そうとした。

 

 しかし、新たな術式が形を結んだ瞬間、最初の障壁が掻き消える。

 

「くっ……!」

 

 右を塞げば左から流れ、左を塞げば右から溢れる。

 大皿ほどの障壁一枚で止められるほど、濁流は甘くなかった。

 

「男爵様!」

 

 ネリオが土嚢の上から叫ぶ。

 

「昨日より水の勢いが強いのに、同じ鍋蓋で勝てると思ったんですか!?」

 

「分かっています! ですが、何もせずに見ているよりは……!」

 

「お気持ちは分かりますが、魔法で水遊びをしてる場合じゃありません!」

 

 最後の障壁が、ピシリと砕けて消滅した。

 ジョージは悔しげに拳を握ったが、すぐに顔を上げる。

 役に立たない魔法へ固執している時間はない。

 彼は激しく流れる泥水を踏み越え、モトの肩を強く掴んだ。

 

「モト! 私には、何をすればよいですか!? 私にもできることを、今すぐ指示してください!」

 

「男爵様……っ!?」

 

 モトは驚愕のあまり目を見開いたが、若き男爵の目の本気度を察するや否や、近くに突き刺さっていた一本の重い鍬(くわ)を力強く指差した。

 

「なら、あの列の土を掘って、臨時の導水路を掘削してください! 浅くて構いません! 水が完全に苗床へ到達する前に、南の古い溝へと逃がす路を繋ぐんです!」

 

「分かりましたっ!」

 

 ジョージは、泥だらけの鍬を両手で力いっぱい引き抜いた。昨日の金属シャベルよりも柄が遥かに長く、重心のバランスが取れずに酷く扱いにくい。

 渾身の力で土へと振り下ろすが、刃は表面の泥を少し弾くだけで、大して掘り進められない。

 

「もっと腰を深く落とすんだ、お坊ちゃん! 腕の力だけで振るから刃が跳ね返される!」

 

 土嚢を担ぎ込んできた農民の一人が、作業しながら必死に叫ぶ。

 

「はいっ……!!」

 

 もう一度、昨日のモーブルの教えを思い出し、泥塗れの足を踏ん張って腰を落とす。

 全体重を乗せて、鍬を大地の奥へと振り下ろした。

 

 ――ザシュッ!

 

 今度は、固い土の層が見事に真っ二つに割れた。

 ジョージは歯を食いしばり、鍬を強く手前へと引いて、細い水の路を作っていく。

 溢れ出していた泥水が、その即席の溝へと、少しずつ嬉しそうに流れ込んできた。

 

「そうだ、そのまま真っ直ぐ南の溝まで繋げろ!」

 

「はいっ、お任せください!」

 

 その隣の区画では、130キロの巨漢であるモーブルが、平民の農民たちを遥かに凌駕する圧倒的なパワーで、巨大な土嚢を両脇に二袋ずつ抱えて疾走していた。

 

「なぜだっ!! なぜ、わしが二日連続で、こんな無給の奴隷のような力仕事をさせられておるのだぁっ!」

 

「山ゴリさん、文句を垂れ流す暇があるなら、あっちの決壊口へあと四袋持って行ってくださいな!」

 

「一袋だけでも、水分を吸ってオリハルコン並みに重いわ、この小妖精ッ!」

 

「昨日の山の上の大樹に比べれば、羽毛のように軽い軽い! ほら、急いで!」

 

「比較対象のスケールが完全におかしいだろうが!」

 

 ネリオ自身は、卓越した探索者としての視力を活かし、排水路の先々の地形を確認しながら、的確な指示を農民たちへと飛ばしていた。

 

「南の古い空き溝は、途中の屈折ポイントで大きな岩が詰まってます! そこの力自慢三人、あたしに付いてきてください! その石さえ退ければ、水は一気に畑の外へ抜けますから!」

 

「おい貴様、なぜ初見の畑の排水トラップの構造まで完璧に把握しているのだ!?」

 

「古代遺跡に仕掛けられた『水没の罠』の構造に比べれば、平民の畑の水路なんて、子供の三輪車の構造みたいなものですよ!」

 

「農民たちの血と汗の結晶を、殺人罠と一緒にするな!」

 

「流体力学の仕掛け通りにしか、水は流れないって意味ですよ!」

 

 ジョージは、もはや自分が貴族であることも、筋肉痛の激痛すらも完全に忘れ去り、無我夢中で鍬を大泥へと振り下ろし続けた。

 

 一度。二度。三度。

 

 昨日潰れたばかりの手のひらの傷口が再び激しく裂け、生々しい血が鍬の柄を赤く染めていく。

 激しい激痛が脳髄を突き刺すが、それでも、彼は決してその手を止めようとはしなかった。

 

「男爵様、もう十分です、私と交代してください!」

 

 見かねた若い農夫が、途中で鍬を奪い取ろうと駆け寄ってくる。

 

「いいえ、まだです! まだ完全に繋がっていません!」

 

「しかし、手から血が溢れて――」

 

「血の一滴や二滴、父上が十年間守り続けた、この果樹の苗木たちの命の重さに比べれば、何ほどのこともありませんっ! 下がっていてください!」

 

 渾身の咆哮と共に、最後の土の壁を鍬で激しく叩き割る。

 

 ――ゴォォッ!

 

 ジョージが掘り進めた一本の細い臨時の導水路が、南側の主要排水路へと、見事に一直線に開通した。

 溜まっていた濁流が、歓声を上げるようにして、一気に畑の外へと流れ始めていく。

 

「繋がった……っ! 水が、抜けていくぞ!」

 

「今だ、決壊口へ土嚢を叩き込め!」

 

 モトの指示の元、農民たちが一斉に崩れた土手を塞ぎ止める。

 水の流れは完全に制御され、苗床へ迫っていた絶望的な逆流は、嘘のように少しずつ引いていった。

 

 しばらくして、畑全域に完全な平穏が戻った。

 緊迫していた空間のあちこちから、へたり込むような安堵のため息が漏れ出す。

 ジョージは、泥だらけの鍬をまるで勝利の杖のように地面へ突き立て、辛うじてその身を支えて立っていた。

 髪の毛から爪先まで、全身泥と汗と自らの血でぐちゃぐちゃに汚れている。

 

「いやはや。またしても、見事なまでにドロドロの泥人形になりましたねぇ」

 

 ネリオが、クスクスと肩を揺らして笑う。

 

「……昨日よりも、さらに悲惨な汚れ方かもしれません」

 

「下級貴族の、お直し一回分の衣装としての資産価値は、完全にゼロを通り越してマイナスですな」

 

 モーブルが、肩の凝りを解しながら呆れたように言った。

 ジョージは、自分の無残に汚れた姿を見下ろし――そして、ふっと、これまで見せたことのないような、深く静かな笑みを浮かべた。

 

「……ですが、不思議です」

 

「何がです?」

 

「昨日までは、服の一着が泥で汚れるだけで、世界の終わりかのように不快でした。ですが今は……不思議と、誇らしいような、温かい気持ちで満たされているのです」

 

「それはそれは、素晴らしい変態への第一歩(成長)ですねぇ」

 

「はい……って、そちらの不名誉な意味ではありません!」

 

「単に、高級な服が立て続けに二着もゴミになった現実に対して、脳の防衛本能で諦めがついただけだと思いますけどねぇ」

 

「せっかくの私の精神的な気付きを、そんな俗っぽい経済的損失の理屈で片付けないでください!」

 

 そこへ、まとめ役のモトが、周囲の農民たちを従えてゆっくりと三人の方へと歩み寄ってきた。

 モトはジョージの正面に立つと、泥のついた麦わら帽子を深く胸に当て、

 

「……男爵様」

 

 そう、低く響く声で告げると、衣服の汚れも気にせず、その場に深く、深く頭を下げた。

 

「我がウィルハルケン家の、大切な苗木たちの命を救っていただき……本当に、ありがとうございました」

 

 彼の動きに追随するように、周囲にいた数十人の農民たちも一斉に、若き男爵へと向かって、深い感謝の敬礼を捧げた。

 ジョージは、生まれて初めて受ける「本物の敬意」に、激しく狼狽えた。

 

「あ、頭を上げてください、皆さん! 私は……私はただ、ウィルハルケン家の当主として、代々受け継いできた自分の土地を、当然のように守っただけです!」

 

「……昨日までのあなた様なら、きっと『仕方のないことだ』と言って、屋敷から一歩も出ずに見捨てていたでしょうな」

 

 モトの真っ直ぐな言葉に、ジョージは言葉を詰まらせ、ただ静かに微笑むことしかできなかった。

 

「男爵様。改めて、お尋ねいたします」

 

 モトの灰色の瞳が、若き領主の目の奥を射抜くように見つめた。

 

「……この開拓畑を、本当に他家へ売却されるおつもりですか」

 

 畑中が、息を呑むような静寂に包まれる。

 ジョージは、ゆっくりと周囲の畑を見渡した。

 水を吸って力強く生き返った、若い苗木の緑。

 十年の歳月をかけて、ようやく愛らしい実をつけ始めた、健気な果樹の枝。

 そして、泥にまみれながら、自分たちの一生をこの土へ捧げて働いている、誇り高き農民たちの顔。

 

 ここにあるすべての営みは、現在の家の帳簿の上では、まだ一銭の利益にもなっていない「ただのマイナス」だ。

 だが――彼らは、決して何も生み出していないわけではない。

 目に見える収穫という形に変わる前の段階で、すでに十年間分の、血の通った労働と未来への希望が、この土の奥深くへと生々しく積み重なっているのだ。

 

「――売りません」

 

 ジョージは、はっきりと、凛とした声で答えた。

 

「この西部開拓畑は、ウィルハルケン家が、その名誉にかけて最後まで守り抜きます」

 

「ですが、男爵様。今月末までに支払わねばならん莫大な借金はどうされるのです?」

 

「別の……土地を切り売りするのではない、真っ当な方法を、私が死に物狂いで探します」

 

「言うのは簡単ですが、商売の現実は甘くありませんぞ、お友達」

 

 モーブルが、あえて冷徹なトーンで現実の釘を刺す。

 

「分かっています、モーブル殿」

 

「感情論だけで綺麗事を並べれば、ウィルハルケン家の財政も、残された他の私有地も、すべて共倒れになって破滅する可能性がある。それは商売人として見過ごせませんな」

 

「それでも! この土地を今、目先の金貨のために他家へ売却することは、明日実るはずの莫大な収穫を、自らの手でドブへ捨てるのと同じくらい愚かな行為です!」

 

 ジョージは、まっすぐにモーブルの濁った捕食者の目を見つめ返した。

 

「昨日、あなたが中央市場のど真んで、私に身をもって教えてくださったではありませんか。今日の銀貨一枚を欲しがって、明日から金貨を生むはずの店を潰すのは、ただの無能な『食いつぶし』だと。……ここを開拓畑から羊の放牧地へ変えるのは、まさにその食いつぶしそのものです!」

 

「ふん。店ではなく畑ですがな」

 

「同じです。本質は何一つ変わりません」

 

 モーブルは黙ったまま、若き男爵の据わった目を見返した。

 やがて、鼻の下の髭を満足そうに揺らす。

 

「ならば、お坊ちゃん。その畑を守りたいという青臭い感情を――債権者どもの首を縦に振らせる、冷徹な『数字』へ変えてみせましょうかね」

 

「数字に……ですか?」

 

「当然でしょう。先代男爵との約束がどれほど尊いものであろうと、債権者は借用書の上で感動の涙など流してはくれませんからな」

 

 モーブルは、値踏みするような足取りで果樹園へ踏み入った。

 

「まずは、この土地に何があり、それをどれだけの金へ変えられるのか。材料を一つずつ洗い出しますぞ」

 

 枝の状態を確かめ、まだ青い実を太い指で慎重につまむ。

 

「こちらはイチジク。奥は葡萄……ほう、マスカットまであるではないか」

 

 さらに別の区画へ進み、薄い産毛に覆われた淡い色の実を見上げる。

 

「そして、こちらは白桃か」

 

 モーブルの足が、不意にピタリと止まった。

 葉の形と、まだ熟していない白桃の輪郭を、まるで長年探し求めていた秘宝でも見つけたように食い入るように見つめる。

 

「……待て」

 

「どうしました、モーブル殿?」

 

「モト殿。昨年、この果樹園で採れた果実は、行商人へ売ったと申されましたな」

 

「え、ええ。量が少なかったため、まとめて引き取っていただきましたが」

 

「行き先は東方面だと?」

 

「そのように聞いておりますが……何か問題が?」

 

 モーブルは白桃の枝から手を離すと、今度はマスカットの房をじっと見つめた。

 

「まさか、あれが……」

 

「あれ、とは?」

 

「昨年、カヴェナの取引先から、珍しい果実が手に入ったと言って分けてもらったことがあるのです」

 

 モーブルは、舌の上の記憶を探るように髭を撫でた。

 

「白桃が一つと、マスカットが一房。産地は西部のどこかとしか聞いておらんでしたがな」

 

「味は、どうだったのですか?」

 

「……美味かった」

 

 短い、しかし絶対的な断言だった。

 食と商品に厳しいモーブルが、何の装飾も嫌味もなくそう言い切ったことに、ジョージは目を瞬かせた。

 

「白桃は、噛めば果汁が溢れ、ただ甘いだけではなく香りにどこか気高さがあった。マスカットは皮ごと食べられるほど柔らかく、後味に一切の雑味がない」

 

 モーブルは、改めて果樹園全体を舐め回すように見渡した。

 

「あのとき、仕入れ元を探してみようと思ったほどです。しかし、名もない行商人をいくつも経由していたせいで、産地まで辿れなかった」

 

「では、モーブル殿が昨年食べた果実は……」

 

「十中八九、ここのものですな」

 

 モトが、信じられないものを見るように目を見開く。

 

「我々の果実が、カヴェナで……」

 

「名もない『西部産の果物』として、買い叩かれたのでしょう。品質だけなら一級品だったにもかかわらず、産地も作り手も分からん。買い手にとっては、たまたま手に入った得体の知れない珍しい果物でしかなかった」

 

「それでは、どれほどよい果実を作っても……」

 

「毎年、初めて見る品として安く買い叩かれます」

 

 モーブルは、太い指を一本立てた。

 

「ですから、果実を売るだけでは駄目なのです」

 

「では、何を売るのですか?」

 

「――『ヴァーゼル』という名前を売るのです」

 

 ジョージとモトが、同時に目を瞬かせた。

 

「ヴァーゼルの名前を……?」

 

「近頃、帝都アルセリウムでは、質のよい果実が滋養に富み、日々の体調を整える特別な食べ物として注目されております」

 

 モーブルは、商談を始めるように語り出した。

 

「高位の貴族や魔導官はもちろん、健康へ金を惜しまん富裕層の間で、上等な生果の人気が高まっておる。カヴェナでも同じです。金を持つ商人や成金冒険者たちが、安っぽい菓子より質のよい果物を求め始めている」

 

「そのような流行が……」

 

「商売の風向きを知らんところが、いかにも屋敷育ちですな」

 

「うっ……」

 

「ですが、これは神が与えた好機です」

 

 モーブルは、果樹園の奥まで続く木々を指差した。

 

「先代男爵が品種を改良し、十年かけてこの土地へ根づかせた、ほかでは手に入らぬ果実。そして、帝都とカヴェナでは、ちょうど質のよい果物への需要が伸びている。これほど分かりやすい商機を前にして、産地名も付けず、行商人へ一括の安値で投げ売るなど論外中の論外です」

 

「では、どうすれば?」

 

「まず、品質を三段階に分けます」

 

 モーブルは指を折って説明する。

 

「最上級の実は、一つずつ厳しく選別する。傷を防ぐ柔らかな敷物と共に特製の木箱へ詰め、箱にはウィルハルケン家の銀鷹と、『ヴァーゼル産』の文字を焼き印で堂々と刻む」

 

「家の紋章を、果物の箱にですか?」

 

「産地と品質を保証する、最強の印です」

 

 モーブルは当然のように言い切った。

 

「誰が、どこで作ったか分からぬ怪しい果実ではない。ウィルハルケン家が品質を保証した、ヴァーゼルでしか育たぬ特別な果実として売る」

 

「それが、ブランドというものですか」

 

「そうです」

 

 モーブルは満足げに頷いた。

 

「帝都の貴族が一度食べて気に入ったとする。翌年も同じ果実が欲しいと思ったとき、『西部のどこかで採れた桃』では探しようがない。だが、『ヴァーゼルの白桃』という名前があれば、客はその名を指名して金に糸目をつけず買うようになる」

 

「果実の味と、街の名前を結びつけるのですね」

 

「その通りです。最初は果実の味がヴァーゼルの名を売る。やがてはヴァーゼルの名そのものが、果実の値を何倍にも引き上げるようになる」

 

 ネリオが感心したように目を細めた。

 

「なるほどねぇ。『荒れ地へ十年を捧げて生まれた、奇跡の果実』という物語まで付ければ、帝都のお貴族様はこぞって飛びつきそうです」

 

「事実以上に大げさな脚色はするなよ、小妖精」

 

「事実だけでも十分に記事になりますって」

 

 ネリオは、すでに手帳へ見出しを書き始めていた。

 

「『辺境の荒れ地に実った黄金の希望――亡き男爵と農民たちが育てた、ヴァーゼルの奇跡』」

 

「……それは、悪くありませんね」

 

 ジョージが小さく呟く。

 

「ね、ね! そうでしょう!」

 

「ただし、私が登山の当日に『即日発行』でひどい筋肉痛になったことは書かないでくださいね」

 

「ええっ!? そんなぁ……若き当主の情けない一面こそが、読者の共感を呼ぶ最高のエッセンスなのにぃ!」

 

「果実の宣伝に私の情けなさは必要ありません!」

 

「こほん、よろしいかな」

 

 モーブルの野太い咳払いで、二人がピタリと口を閉じる。

 

「最上級の果実は、『ヴァーゼル産』の名を冠し、生果のまま帝都アルセリウムやカヴェナの高級店へ高値で売る。続いて、イチジク」

 

 モーブルは指を差す。

 

「見栄えは少し落ちるが味に問題のない二級品は、乾燥果実、ジャム、蜜煮へ回す。イチジクは乾燥させれば甘味が凝縮し、長期保存も利く。高級な菓子やパンの材料として飛ぶように売れるでしょう」

 

 次に、葡萄とマスカットへ目を移す。

 

「葡萄は干し葡萄にできるが、本命は果実酒ですな。マスカットは香りがよい。上等な房は生果として売り、形の悪いものは白い果実酒へ加工する」

 

「マスカットから、お酒を……」

 

「糖度と香りが十分なら、商品価値は天井知らずです。ただし、酒は造ればすぐ金になるわけではありません」

 

 モーブルは釘を刺すように付け加えた。

 

「醸造設備も必要だ。失敗して酢になる危険もある。熟成させている間は、樽と倉庫に莫大な金が眠ったままになる。その費用と期間まで含め、手元に利益が残るか計算せねばならん」

 

 最後に、白桃の木を見上げる。

 

「白桃は傷みやすい。辺境のヴァーゼルから帝都まで、生のまま大量に運ぶには向きません」

 

「では、帝都へは売れないのでしょうか」

 

「最上級のものだけを、特製の低温保存箱へ入れ、傷まぬよう宝物のように運ぶのです」

 

 モーブルは太い指で空中へ線を引く。

 

「数が少なくても構わん。いえ、むしろ希少であること自体が、とてつもない価値になる」

 

「残りの白桃は?」

 

「収穫したその日のうちに、蜜漬け、ジャム、果実蜜へ加工する。潰れた実も酒や菓子の材料へ回す」

 

「捨てる部分を減らすのですね」

 

「同じ収穫量でも、廃棄を減らせば利益は増える。これは商売の基本の『キ』です」

 

 モーブルは、果樹園全体を見渡した。

 

「乾燥イチジク、干し葡萄、白桃の蜜漬け、特製ジャム。葡萄とマスカットを使った果実酒」

 

 そして、もう一度、はっきりと言い切る。

 

「だが、中心に置くべき商品は、あくまでヴァーゼル産の上質な生果です」

 

「加工品が中心ではないのですか?」

 

「加工品は、収穫を無駄にせず確実な利益へ変えるためのもの。産地の絶対的な名声を作るのは、食べた者を一口で黙らせる、最上級の果実です」

 

 昨年食べた味を思い出して、モーブルはわずかに口元を緩めた。

 

「あの白桃とマスカットなら、十分にその大役を果たせる」

 

「モーブル殿……!」

 

 ジョージの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「私たちのために、そこまで先のことを考えてくださるのですか?」

 

「ふん。盛大な勘違いをされては困りますな」

 

 モーブルは即座に不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「まだ、この畑が利益を生むと決まったわけではありませんぞ」

 

 太い指を一本ずつ折りながら、必要な項目を並べていく。

 

「今年の品種ごとの予想収穫量。最上級品として選別できる割合。加工へ回せる量。木箱や保存設備の費用、燃料代、輸送費。そして、帝都アルセリウムとカヴェナで、実際にいくらで、どれだけ売れるのか」

 

「それらを、すべて調べるのですね」

 

「当然です。希望だけを並べても、算盤の玉は一つも動かん。必要な費用を差し引き、それでも確実に利益が残ると数字で証明できて、初めてこの畑の未来を語れるのです」

 

「なるほど……」

 

「そして、事業として成立する見込みが立ったなら」

 

 モーブルは堂々と胸を張った。

 

「保存設備の調達、木箱の製造、品質管理、帝都とカヴェナへの販路開拓は、すべてこのモーブル商会が請け負いましょう」

 

「それは、ありがたいお話です!」

 

「もちろん、無償ではありませんぞ」

 

「やはり……」

 

 ジョージの純粋な期待に満ちた顔が、分かりやすく曇る。

 

「一定期間、ヴァーゼル産果実の優先販売権をいただく。売買が成立するたび、適正な仲介手数料もきっちり頂戴します」

 

 モーブルは悪びれる様子など微塵も見せず、果樹園へ向かって両腕を広げた。

 

「この果実の評判が上がれば、農民たちの収入は安定する。ウィルハルケン家の収益も莫大に増える。ヴァーゼルの名も帝都へ広がる。そして、販路を築いたわしの商会にも、大量の金貨が転がり込む」

 

髭の下に、計算高さを隠そうともしない満足げな笑みが浮かんだ。

 

「誰か一人の儚い善意に依存するのではなく、関わる者全員がしっかり利益を得る。だからこそ、商売は長く、強く続くのです」

 

「あーあ」

 

 ネリオが、心底呆れたように大げさに肩を落とした。

 

「せっかくの感動的な名場面が、結局は優先販売権と仲介手数料に着地しましたねぇ。この守銭奴ゴリラは」

 

「ふん。何とでも言え」

 

 モーブルは腕を組み、鼻を鳴らした。

 

「善意だけで苗木が買えるか? 感動だけで壊れた農具が直せるか? 先代男爵との約束を鍋で煮詰めれば、冬の食料になるとでも思っておるのか」

 

 周囲で泥にまみれて働く農民たちと、若い果樹の列を見渡す。

 

「金が正しく巡らなければ、どれほど立派な果樹園も、いずれ立ち枯れる。守ると決めたのなら、誰の同情にもすがらず守り続けられる『仕組み』まで作るのが、当主の責任というものだ」

 

「言い方は完全に銭ゲバ魔人ですが……」

 

 ネリオは悔しそうに手帳をパタンと閉じた。

 

「商売の本質としては、癪なことに百パーセント正しいんですよねぇ」

 

 

 ――そのときだった。

 

 カチリ。

 

 果樹園の奥から、小さく硬質な機械音が響いた。

 ジョージが、はっと振り返る。

 

「今の音は……?」

 

「あたしのポーチではありませんねぇ」

 

 ネリオの尖った耳が、ぴくりと動いた。

 音のした方角へ導かれるように歩き出し、三人は果樹園の中央へ向かった。

 そこには、若い果樹の列に囲まれて、一本だけひときわ大きなイチジクの木が立っていた。

 幹には長い年月を物語る深い皺が刻まれ、力強く伸びた枝が、周囲の若木を庇うように青々とした葉を広げている。

 

「この木は……?」

 

「先代様が十年前、この荒れ地へ最初に植えられたイチジクの原木です」

 

 モトが、懐かしそうに目を細めた。

 

「何を植えても枯れていたこの土地で、初めて根を張ってくれた木です。我々にとっては、開拓が無駄ではないと教えてくれた、希望そのものでした」

 

 ネリオは素早く根元へしゃがみ込み、太い幹を覆う苔と土を慎重に払い落とした。

 やがて、絡み合う根の間から、古びた真鍮製の文字盤が現れる。

 上部にはウィルハルケン家の銀鷹が刻まれ、その下には、細い溝で区切られた何段もの空欄が並んでいた。

 さらに下部には、人の手のひらほどの浅い窪みが設けられている。

 

「男爵様。文字盤へ触れてみてください」

 

 ジョージは、泥と血に汚れた指先を、真鍮の表面へそっと重ねた。

 

 その瞬間――。

 銀鷹の紋章から、淡い黄金色の光が溢れ出した。

 光は細い筋となって文字盤の表面を走り、何も刻まれていなかった空欄へ、古い共通語の文字を一つずつ浮かび上がらせていく。

 まるで見えない筆が真鍮をなぞっているかのように、亡き父の言葉が一行ずつ刻まれていった。

 

『目の前にある収穫の数字だけを見るな』

『根は、人の目に触れぬ暗い土の下で、静かに明日の実りを育てている』

『人も、土地も同じだ』

『今日まだ実らぬものを、価値がないと切り捨ててはならない』

 

 最後の一文字が刻まれると、黄金色の光はゆっくりと文字の奥へ沈み込んだ。

 あとには、亡き父が息子へ遺した言葉だけが、消えることなく真鍮板へ刻まれている。

 ジョージは震える指先で、その文字をそっとなぞった。

 

「父上……」

 

 大きな枝が風に揺れ、青々とした葉が優しい音を奏でる。

 その隙間には、小さな青いイチジクの幼果がいくつも実っていた。

 今はまだ、硬く、青く、食べることも売ることもできない。

 だが、季節を待ち、正しい手間を注ぎ続ければ、やがて甘い果実へ育つ。

 

「男爵様」

 

 ネリオが、文字盤の下にある窪みを指差した。

 

「そこへ、この畑の土を入れてください」

 

「土を……ですか?」

 

「ええ。この窪みには、土に含まれる魔力や成分を読み取る、古い錬金術式が組み込まれています」

 

 ネリオは単眼鏡を取り出し、縁に刻まれた細かな術式を丹念に調べた。

 

「そこらの土を入れれば開く、という仕掛けではありません。草木の根や小さな生き物を育めるほど、正しく耕された土にしか反応しない」

 

「ということは……」

 

「先代男爵がこの仕掛けを作った十年前には、まだ開けられなかったでしょうね」

 

 ネリオは文字盤から、その上に立つイチジクの大樹へ視線を移す。

 

「この荒れ地が本当に生きた畑へ変わったとき、初めて次の答えへ進めるように作られているんです」

 

 モトが息を呑んだ。

 文字盤へ刻まれた言葉を、食い入るように見つめる。

 

「先代様は……我々がいつか、この土を育て上げると信じておられたのか。ご自分が亡くなったあとも、我々が約束を諦めず、土を耕し続けると……」

 

 ジョージもまた、父の言葉から目を離さなかった。

 

「ええ。父は、この木だけではなく、この土地で働く皆さんのことも、最後まで信じていたのだと思います」

 

 ジョージは膝をつき、先ほどまで自分が鍬で掘っていた黒い土を、両手ですくい上げた。

 大切なものを返すように、文字盤の窪みへ入れていく。

 

 一握り。

 もう一握り。

 黒い土が窪みを満たした瞬間、縁に刻まれた錬金術式へ黄金色の光が走った。

 

 ――カチリ。

 

 イチジクの幹の一部が、音もなく手前へせり出した。

 開いた空洞の中には、琥珀色の魔石を中央へ嵌め込まれた、三つ目の銀色の歯車が収められていた。

 精緻な魔導文字が刻まれた表面には、古い共通語で一文字だけ刻印されている。

 

『実』

 

「実り……」

 

 ジョージが、小さく呟いた。

 

「目の前の枝へぶら下がっている果実だけが、本当の実りではない、ということでしょうな」

 

 モーブルが静かに告げる。

 

「土を育てた十年も、働く場所を得た人々の暮らしも、これから生まれる商いも――すべてが、この土地の実りです」

 

 ジョージは、琥珀色の歯車を手に取った。

 その手は泥と血に汚れていたが、今度は拭おうとはしなかった。

 黒檀の箱へ近づける。

 歯車は磁石に引かれるように宙へ浮かび、三つ目の窪みへ収まった。

 

 ――カチリ。

 

 三本目の魔力回路へ、眩い琥珀色の光が走り抜ける。

 

 市場の『巡』。

 水源の『源』。

 そして、畑の『実』。

 

 三色の光が箱の表面を巡り、複雑な幾何学模様を描き出した。

 

『第四の問い』

 

 光の粒が空中へ広がり、新たな言葉を形作っていく。

 

『牙持つ闇を退け、弱き者の前に立ちはだかった、我が誇りの場所を訪ねよ』

 

 文字の背後へ、深い森の幻影が浮かび上がった。

 昼間でさえ光の届かない、鬱蒼とした原生林。

 その最奥には、崩れかけた石造りの塔が立っている。

 割れた窓の奥で、血のように赤い二つの目が、不気味に輝いていた。

 ジョージの顔が強張る。

 

「この場所は……まさか……」

 

「心当たりがおありで?」

 

 ネリオが単眼鏡を片づけながら尋ねる。

 

「ヴァーゼルの北西に広がる原生林です。ウィルハルケン家が代々所有してきた森で、その最奥には古い監視塔が残されています」

 

「男爵様、まさか、あそこへ行かれるおつもりですか!?」

 

 モトが悲鳴に近い声を上げた。

 

「それほど危険な場所なのですか?」

 

「危険どころではありません!」

 

 モトの顔から血の気が引いている。

 

「かつては森と街道を見張るために使われていましたが、今では魔獣の巣です。数年前にも、森へ入った腕利きの木こりが、影のような獣に襲われて、命からがら逃げ帰ってきました」

 

 モーブルの首が、ぎぎぎ、と音を立てそうなほどゆっくりネリオへ向いた。

 

「……おい、小妖精」

 

「何でしょう?」

 

「貴様、この宝探しを『初心者向けの可愛らしい仕掛け』と言っておらんかったか?」

 

「仕掛けの難度は初心者向けですよ?」

 

 ネリオは平然と答えた。

 

「現地を魔物が不法占拠しているかどうかは、仕掛けの難度とは別問題です」

 

「一番重要な生存上の問題を、別項目に分類するな!」

 

「まあまあ。あたしは数々の死線を潜り抜けてきた、銀級の探索者ですから」

 

「貴様はよくても、わしと男爵様は戦闘の専門じゃないぞ!」

 

「山ゴリさんなら、その体重だけで下級魔獣の一匹や二匹、押し潰せそうですけどねぇ」

 

「わしを攻城兵器のように扱うな!」

 

 二人の掛け合いをよそに、ジョージは空中に浮かぶ幻影を見つめていた。

 黒い森。

 崩れた塔。

 闇の中で輝く、赤い目。

 数日前の自分なら、「危険」という一言を聞いただけで屋敷へ逃げ帰っていただろう。

 高額な報酬で冒険者を雇い、自分は安全な部屋で報告を待つ。

 それで十分だと思っていた。

 だが、市場も、水源も、畑も、自分の足で歩かなければ見えないものばかりだった。

 誰かの報告だけを読んでいたのでは、父の問いに込められた意味へ辿り着けなかった。

 

「……行きます」

 

 ジョージが静かに告げた。

 モーブルとネリオが振り返る。

 

「旧監視塔へ、私自身の足で向かいます」

 

「男爵様。今までとは訳が違いますぞ」

 

 モーブルの表情から、先ほどまでのふざけた色が消えた。

 

「今度は、泥や筋肉痛では済まん。本物の牙と爪を持つ魔物が相手です。一度判断を誤れば、本当に命を落とす」

 

 ジョージの喉が鳴った。

 泥のついた拳が、微かに震えている。

 

「……怖いです」

 

 情けないほど、正直な声だった。

 

「今すぐ逃げ帰りたいくらい、怖い」

 

 それでも、ジョージは幻影から目を逸らさなかった。

 

「ですが、父上はあの場所で、森へ入る木こりや、街道を行く人々を守ろうとしたのでしょう」

 

「恐らくは」

 

「ならば、私も見なければなりません」

 

 握った拳へ、さらに力を込める。

 

「この土地と家業を預かる者が、人々を何から守らなければならないのか」

 

「父上が、あの場所で何を見て、何の前に立ったのかを」

 

 ネリオの細められていた目が、わずかに開いた。

 いつもの人をからかう笑みはない。

 そこにあるのは、覚悟を決めた若者を見定める、一人の探索者の眼差しだった。

 

「……了解しました」

 

 ネリオは手帳を懐へしまい、静かに頷いた。

 

「次は少々命懸けの、最高に刺激的な取材になりそうですねぇ、男爵様」

 

「……この状況でも、まだ記事にするのですか」

 

「当然です! あたしは真実を追う記者ですから!」

 

「私が恐怖のあまり泣き叫ぶ姿だけは、絶対に書かないでくださいよ」

 

「はいはい、ご安心を。どんな醜態も、あたしの筆にかかれば勇壮な物語になります」

 

「本当ですか?」

 

「ええ。『若き男爵、迫り来る魔物を前に、剣を握る右手が超高速振動を開始!』」

 

「恐怖で震えているだけではありませんか!」

 

 夕暮れの開拓畑へ、ネリオの笑い声と、ジョージの抗議が響き渡った。

 モーブルは呆れたように頭を振りながら、地面へ置かれた黒檀の箱を見つめていた。

 箱には三本の魔力の光が灯っている。

 

 残された歯車は、あと二つ。

 最初の歯車が教えたのは、人と品と金が巡る、暮らしの心臓たる市場。

 二つ目が教えたのは、誰の目にも触れぬ山奥から、町の命を支え続ける水源。

 三つ目が教えたのは、すぐには結果の出ない土へ未来を託し、長い年月を耐え抜いた者たちの実りだった。

 

 ジョージ・ウィルハルケンは、まだ頼りない。

 山道ではすぐに音を上げ、泥の中では何度も転び、農具の使い方さえ満足に知らなかった。

 それでも、一歩進むたびに、自分の足で土地に立つことを覚え始めている。

 

 そして次に待つものは、清らかな水でも、未来を育てる優しい土でもない。

 本物の牙と爪を持つ、暗い森の脅威。

 亡き父がかつて、ヴァーゼルの人々の前へ立ち、その身を盾とした場所――旧監視塔。

 そこでは、男爵の肩書きも、金貨を詰めた財布も、身を守ってはくれない。

 

 必要とされるものは、ただ一つ。

 恐怖を抱えたまま、それでも守るべき者の前へ立つ勇気だけだった。

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