モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
探索四日目。
旧監視塔跡の探索へ向かう、当日の朝。
ヴァーゼルの町の北西門に現れたジョージ・ウィルハルケン男爵の姿を見て、モーブルは深々と、これ以上ないほど不機嫌に眉間へ皺を刻んだ。
「……男爵様」
「はい」
「なぜ、剣を二本も持っておられるのですかな」
ジョージの腰には、昨日までの家紋入りの細身の装飾剣とは違う、無骨で分厚い実戦用の短剣が下げられていた。
だが、問題はそれだけではない。
背中には巨大な長剣。左腕には分厚い鉄の丸盾。
胸には輝く鎖帷子。
さらに革の籠手と鉄の脛当てまでガチガチに装着しており、歩くたびに全身の金属がガチャガチャと盛大な音を立てている。
「強力な魔獣が出ると伺いましたので、私なりにできる限りの準備を整えてまいりました!」
「ん~、整えすぎ」
ネリオが、呆れたようにジョージの周囲をくるりと一周した。
「男爵様、今日は森の浅い遺跡の探索ですよ。隣国との全面戦争へ出征するわけじゃありません」
「しかし、装備は多いに越したことはないのでは?」
「限度がありますよ。そんなに重くて動けなくなったら、森の魔獣からすれば『包装を剥く手間が省けた缶詰』と同じです」
「か、缶詰……」
「でゅふふふふ! ええ、中身が温室育ちの引きこもり貴族ですから、さぞかし柔らかくて極上のお肉でしょうねぇ。飢えた魔獣にとっては、よだれが出るほど嬉しい最高級ディナー缶詰に違いないですよぉ!」
「それは嫌です!」
ジョージは慌てて胸元の鎖帷子を押さえた。
モーブルは呆れ果てたように首を振る。
「だいたい、誰にそんな頓珍漢な装備を選ばせたのですかな」
「屋敷の武具係です。魔獣が巣食う森へ直接乗り込むと話しましたら、『若殿の御身に万が一があってはウィルハルケン家が終わる!』と、涙ながらに次々と蔵から持ち出されまして……」
「止めなかったのですか?」
「皆があまりにも真剣な顔で心配してくれたので、どうしても断りきれず……」
「男爵様の致命的な欠点、また一つ見つかりましたねぇ」
ネリオはすかさず懐から手帳を取り出し、羽ペンを走らせる。
「『人が良すぎて
「書かないでください!」
「その仰々しい格好で森を歩いたら、あたしが書かなくても一生街中の語り草になりますよ」
モーブルは無言でジョージの背中から長剣を乱暴に引き抜き、遠巻きに付いてきていた護衛の家臣へ突き返した。
「長剣はいらん。短剣だけで十分です」
「ですが、モーブル殿――」
「そもそも、実際に魔獣と戦うのは、この口の減らない小妖精だ。男爵様ではない」
「お任せください!」
ネリオはポンと胸を叩き、得意げに胸を張った。
「一流の探索者であるこのあたしが、男爵様と山ゴリさんを安全に家まで連れて帰りますよ!」
「なぜ、わしまで貴様に守られる側なのだ」
「え、山ゴリさん戦えるんです?」
「ふん、商談なら絶対に負けん」
「魔獣は『見逃す代わりに命を金貨三枚で』みたいな値引き交渉には応じてくれませんよ」
「ならば、劇薬の毒を原価で飲ませてやる」
「それ、商談じゃなくてただの毒殺です」
「立派な正当防衛だ」
結局、ジョージはモーブルに言われるがままに長剣と重い鎖帷子を外した。
短剣と丸盾だけを身につけ、動きやすい軽装の上から厚手の外套を羽織る。
「これで、よろしいでしょうか」
「ええ。ようやく、戦場から逃げ帰ってきた家財道具持ちの敗残兵から、人間の冒険者らしくなりましたよぉ」
「先ほどまではそんなにひどかったのですか……」
「ん〜、安心してください! 男爵様は装備が減っても、その怯えきった小動物のような顔だけで十分に目立ちますから!」
「まったく安心できません!」
三人は朝霧の残る街道を抜け、ヴァーゼル北西に広がるウィルハルケン家所有の深い森へ向かって歩き始めた。
♦
旧監視塔跡は、かつてウィルハルケン家が所有する森と、その縁を通る街道の安全を見張るために建てられた、強固な石造りの小さな砦だった。
だが、街道のルートが別の場所へ移されてからは使われなくなり、今では石壁の半分が崩落し、緑の蔦と深い苔にすっかりと覆われている。
周囲には背の高い木々が密集し、昼前だというのに内部はひどく薄暗い。
入口近くの柔らかい泥には、人間のものではない、巨大な三本爪の足跡がいくつも生々しく残されていた。
「……これは、何の足跡です?」
ジョージが、身を震わせながら屈み込む。
ネリオは泥の凹みの硬さを指先で確かめた。
「
「猪、ですか」
「ええ。普通の猪より二回りほど大きくて、突進すればあの太い木の幹くらいなら、紙切れみたいに簡単にへし折ります」
「今から屋敷へ帰るという選択肢は……」
「ありますよ」
ネリオは、いつものからかいを含まない声であっさりと答えた。
ジョージがハッとして顔を上げる。
「危険だと判断したら、依頼主の命を最優先して連れて撤退する。それもプロの探索者の仕事ですからね」
「ならば――」
「ただし、四つ目の歯車は手に入りません」
「……ですよね」
「男爵様が、ご自分で決めてください」
ネリオの青い瞳が、まっすぐにジョージを見据えていた。
「進むか、戻るか。あたしたちに言われたからではなく、ご自分の意思で」
ジョージは、見上げるほど高い監視塔の廃墟を仰ぎ見た。
崩れた石壁の奥は、底なしの口を開けたように暗い。
森の奥深くから、獣の低い、血に飢えたような唸り声が聞こえた気がした。
足がガクガクと震える。
昨日の畑でネリオが予告した通りだ。
それでも彼は、震える手で腰の短剣の柄へと触れ、ゆっくりと息を吐いた。
「……進みます」
「よろしい」
ネリオは短く、満足そうに頷いた。
「ただし、ここから先はあたしの指示には『絶対』に従ってください。勝手に走らない。怪しい物へは絶対に触らない。魔物が出ても、おとぎ話の英雄ごっこはしない。いいですね?」
「分かりました」
「山ゴリさんもですよ」
「なぜ、このベテランのわしにまで注意する」
「この中で一番、物欲に負けて勝手に変な物を触りそうだからです」
「馬鹿にするな、わしは男爵様より遥かに慎重だ」
「開かずの箱を三日間、金槌で力いっぱい引っぱたき続けていた人が?」
「いい加減そこから離れろ!」
ネリオを先頭に、三人は油断なく監視塔跡へと足を踏み入れた。
内部には割れた石材や腐った木材が散乱している。
石の壁には、かつての激戦を物語る古い矢傷。
床には、兵士たちが使っていたであろう欠けた食器や、赤茶色に錆びた剣が虚しく転がっていた。
「止まって」
ネリオが、スッと片手を上げる。
ジョージとモーブルは、息を殺して同時に足を止めた。
「何か、ありますか」
「男爵様の右足。絶対に、そのまま一ミリも動かさないでください」
ジョージは、氷漬けにされたように固まった。
彼の靴の爪先のすぐ前に、極細の透明な糸がピンと張られていた。
薄暗い遺跡の中では、素人の目にはまず見えない。
「こ、これを踏んだらどうなるのです?」
「右の壁を見てください」
壁には、等間隔に小さな黒い穴が無数に開いている。
「一斉に矢が飛んできます」
「……何本ほど?」
「生きて数を数える必要はないレベルで」
「動かなくて本当によかった……っ!」
ネリオは細い工具で器用に糸を固定し、壁の内部にある複雑な機構を直接解除した。
――カチリ。
小さな歯車の回転が止まり、張られていた死の糸がふっと緩む。
「古い砦の防衛罠ですね。魔獣が知能を持って仕掛けたものではありません」
「何十年も前の罠が、まだ生きて動くのですか?」
「丁寧に造られた悪辣な罠は、仕掛けた主人が死んでも、こうして働き続けるんですよ」
「ほう。うちの給料泥棒の従業員どもにも見習わせたい労働意欲だ」
「もう! ご自分の従業員を、無差別の殺人罠と同じ基準で評価しないでください!」
ネリオは床のタイルの沈みや壁の隙間を確かめながら、極めて慎重に奥へ進んだ。
崩れた石階段を上り、細い通路を抜ける。
ところどころに新しい獣の鋭い爪痕や、硬そうな黒い獣毛が付着していた。
「森牙猪は、この奥の広間を巣にしているようですね」
「歯車もその奥でしょうか」
「箱の反応を見ましょう」
モーブルが革鞄から黒檀の箱を取り出す。
三つの歯車が嵌め込まれた箱は、脈打つように淡く光っていた。
監視塔のさらに上階へ向けると、その光が明確に強くなる。
「上ですな」
「ええ。ただ……」
ネリオが、ぽっかりと空いた天井を見上げた。
「上へ続く正規の階段は、完全に崩落しています」
石造りの螺旋階段は途中で完全に落ちており、上階まで数メートルの空間が虚しく開いていた。
唯一のルートは、壁に辛うじて残されている、古い鉄製の垂直の梯子だけだ。
「これを登るしかありませんねぇ」
ネリオが梯子へ手を掛けた。
ギィィッ、と、錆びた金属からひどく嫌な音が響く。
「三人分の重さを同時に支えるには、耐えそうもありません」
「なら、どうする」
「あたしが先に上がって、頑丈な縄を上から固定します。男爵様は、その縄を命綱にして次へ。山ゴリさんは最後です」
「なぜ、わしが一番最後だ」
「一番、自重が重いからです」
「おいこら、もっと気を遣った言い方があるだろうが」
「では、この中で最も『大地から深く愛されている』から」
「遠回しに言っても本質はデブと同じだ!」
ネリオは身軽な猿のように梯子をスルスルと上った。
途中で腐った足場が一つバキッと外れたが、壁のわずかな窪みに指を掛け、そのまま軽業師のように上階へ飛び移る。
すぐに、天井から太いロープがスルスルと下ろされた。
「男爵様、どうぞ」
ジョージは、ギシギシと鳴る梯子を見上げた。
「……下から見るより、思ったより高いですね」
「下を見なければ大丈夫ですよ」
「もし、途中で落ちた場合は?」
「下で山ゴリさんが、愛の抱擁で優しく受け止めます」
「勝手に決めるな!」
「大丈夫です。脂肪で柔らかそうですから」
「誰の腹が衝撃吸収材だ!」
ジョージは震える手で、冷たい鉄の梯子を掴んだ。
一段、また一段と上る。
錆びた梯子が悲鳴を上げるたび、背筋を氷の塊が滑り落ちるような悪寒が走る。
――ガキッ!
途中で、ジョージの足を乗せた鉄棒が折れた。
「うわっ!」
「縄を掴んで!」
上からネリオが鋭く叫ぶ。
ジョージは無我夢中で、垂らされたロープへしがみついた。
宙ぶらりんになった彼の下では、モーブルがしかたなく両手を広げて待ち構えている。
「いいですか、落ちるなら絶対に真っ直ぐ落ちてくださいよ! 横へ変な飛び方をされると、わしでも受け止められん!」
「最初から落ちる前提で指示を出さないでください!」
「なら早く自力で登りきれ!」
どうにか火事場の馬鹿力で上階の縁を掴み、ジョージは床へ這いつくばるようにして転がり込んだ。
「た、助かりました……」
「たかだか数メートル登っただけで、その疲労感ですか」
「本気で落ちかけたのですよ!」
「ふむ、記事には『若き男爵、天へ至る命懸けの試練を見事突破』と書いておきます」
「それなら、少しは男爵としての威厳が保たれ――」
「なお、高さはおよそ四メートル」
「具体的な数字を添えて現実に戻さないでください!」
最後に、下からモーブルが巨体を揺らして登ってきた。
梯子は幾度となく崩壊寸前の悲鳴を上げたが、どうにか三人とも無事に上階へ辿り着いた。
そこは、かつて見張り台として使われていた石張りの広間だった。
中央には、街道への襲撃を知らせるための古い真鍮の警鐘が吊るされている。
西側の壁は大きく崩れ落ち、ぽっかりと開いた先には、眼下を埋め尽くす広大な原生林が広がっていた。
幾重にも連なる木々の梢は、風を受けて緑の波のように揺れている。
さらに、森の谷間には魔力を含んだ白い霧が川のようにたまり、木々の隙間から差し込む陽光を受けて、淡い七色の輝きを放っていた。
緑の海の上を、虹色の川がゆっくりと流れている。
地上からでは決して見ることのできない、監視塔の高さがあって初めて望める景色だった。
視線を南へ向ければ、森の切れ目の先に、ヴァーゼルの町並みまで小さく見渡すことができる。
「……これは」
ジョージが、思わず息を呑んだ。
「このような景色が、ヴァーゼルにあったのですね」
「監視塔へ登れる者など、長い間いなかったでしょうからねぇ」
ネリオも、ほんの一瞬だけ探索者の鋭い目を緩め、虹色に輝く霧の海を眺めた。
「魔獣の巣にしておくには、少々もったいない眺めです」
「この景色を知っていたから、父上たちも、この場所を大切に――」
「男爵様」
ジョージの言葉を、ネリオの低い声が遮った。
先ほどまで景色を眺めていた青い瞳が、広間の奥へ鋭く向けられている。
そこで初めて、ジョージも気づいた。
美しい景色とは対照的に、広間の床には食い散らかされた大きな獣の骨が散乱している。
折れた肋骨。
砕かれた頭蓋。
乾いて黒ずんだ血の跡。
そして、広間の暗がりの奥から――。
ズゥゥゥン……。
地鳴りのような、重い呼吸音が響いてきた。
先ほどまで穏やかだった空気が、一瞬で冷え切る。
「……来ますよ」
ネリオの声が、鋭く落ちた。
次の瞬間には、すでに背中の短弓を抜き放ち、流れるような動作で矢をつがえている。
暗がりの奥から、重い足音が近づいてきた。
ドスン。
ドスン。
一歩ごとに石床が震え、天井から細かな砂埃がぱらぱらと落ちる。
やがて闇を押し退けるように姿を現したのは、巨大な猪だった。
肩の高さだけで、ジョージの胸元に届くほどもある。
全身を覆う黒い剛毛は、獣の毛というより、無数の針金を束ねた鎧のようだった。
不気味に歪んだ口元からは、大人の腕ほどもある太い牙が二本、天へ向かって突き出している。
その片方には、いつのものとも知れない赤黒い血が、こびりつくように残されていた。
「これが……森牙猪……」
ジョージの声が、情けないほど震えた。
「入り口に残っていた足跡から、大物だとは思っていましたが……」
ネリオは魔獣から目を離さぬまま、ゆっくりと弓の弦を引き絞る。
「予想以上ですね。森牙猪は、本来ならC級危険種ですが――恐らく、森一帯の群れを従える
森牙猪が、太い前脚で石床を掻いた。
ガリッ――!
硬い蹄が石を削り、火花と欠片が後方へ弾け飛ぶ。
『ブルルルルル……』
腹の底まで響く、低い唸り。
巨大な頭が沈み、二本の牙が三人へ向けられる。
来る。
そう理解したときには、すでに魔獣の巨体は動き出していた。
「避けて!」
ネリオの鋭い声が飛ぶ。
三人は示し合わせたように左右へ飛び退いた。
直後、森牙猪が先ほどまで三人の立っていた場所を、黒い弾丸となって突き抜ける。
凶悪な牙が、背後の石柱へ激突した。
――ズドォォォンッ!
砦全体が揺れるほどの轟音。
大人が二人がかりでも抱えきれない太さの石柱が、まるで乾いた枝でも折るように砕け散った。
石片が雨のように飛び散り、床の上を激しく跳ねる。
「ほ、本当に木の幹どころか、石柱まで粉々にするのですね……!」
床へ転がりながら、ジョージが目を見開く。
「敵の力に感心している場合ではないですよ!」
ネリオは体勢を立て直すと同時に、矢を放った。
ヒュンッ――!
風を切り裂いた矢は、狙い違わず森牙猪の肩を捉えた。
だが。
ガキンッ、と硬質な音が響く。
矢尻は黒い剛毛をわずかに掻き分けただけで、その下にある分厚い皮膚を貫くことなく弾き飛ばされた。
「硬い……!」
森牙猪が、怒りに満ちた咆哮を上げた。
『ブゴォォォォッ!』
巨体が激しく身を捩り、蹄が石床を叩き割る。
獲物を逃した怒りと、矢を受けた痛みが合わさり、魔獣の血走った目がさらに凶暴な光を帯びていく。
「ネリオ、下がれ!」
モーブルは腰のポーチへ太い手を突っ込み、小さな硝子瓶を掴み出した。
瓶の中では、白濁した液体が不穏に泡立っている。
「全員、目を閉じろ!」
モーブルは、その瓶を森牙猪の足元の床へ力強く投げつけた。
パリンッ! と砕けた瞬間、強烈な刺激臭を放つ白い煙が、爆発するように広がる。
「ブゴォォォォォッ!!」
目と鼻を焼かれた森牙猪が、苦しそうに激しく首を振った。
「今だ!」
ネリオが、流れるような動作で矢を二本続けて放つ。
一本は、皮膚の薄い耳の付け根へ。
もう一本は、前脚の関節の隙間へと深く突き刺さった。
「ギャァァァッ!」
魔獣の体勢が、ついに大きく崩れる。
「やったのですか!?」
「まだです!」
森牙猪は倒れなかった。
傷ついた前脚から血を流し、血走った目を剥き出しにしながら、自身に痛みを強いたネリオへと狂ったように突進を再開する。
「もうッ……しつこいですよぉッ……!」
ネリオは軽やかに横へ飛ぼうと、右足を踏み込んだ。
だが、長年の風雨と先ほどの衝撃に晒された古い石床が、その重みに耐えきれず無惨に崩落した。
「なななっ……!」
足元に致命的な亀裂が走り、ネリオの右足が膝まで穴へと深く沈み込む。
動けない。
目の前から、怒り狂った巨大な殺意が、牙を突き立てて迫り来る。
「ネリオ殿!!」
ジョージの頭が、極限の恐怖で真っ白になった。
逃げろ。
生存本能の奥底から、強烈な命令が脳髄を叩く。
あの牙は、屈強な石柱すら粉々に砕いたのだ。
人間の柔らかな腹など、触れた瞬間に肉片へと変わる。
怖い。
死にたくない。
足はガクガクと震え、歯の根が合わない。
それでも――。
『牙持つ闇を退け、弱き者の前に立った場所を訪ねよ』
亡き父が遺した第二の問い。その言葉が、逃げようとするジョージの背中を力強く叩き出した。
「う、うおおおおおっ!!」
ジョージは手にした小さな丸盾を両手で構え、穴から抜け出せないネリオと、迫り来る森牙猪の間へと身を投げ出した。
「男爵様!?」
ネリオの驚愕の叫び。
森牙猪の巨体が迫る。ジョージの構える丸盾など、彼我の体格差を思えば子供の玩具も同然だった。
受け止められるはずがない。
盾ごと砕かれ、後ろのネリオもろとも貫かれる。絶望的な未来が、嫌になるほど鮮明に見えた。
(この盾だけでは、絶対に無理だ……!)
ならば、魔法を使うしかない。
だが、ジョージが使えるのは、人一人を覆うことすらできない極小の障壁だけ。
大皿ほどの大きさしかなく、わずか数秒で霧散してしまう。
魔法学院では『空飛ぶ大皿』と嘲笑われた、何かを守るには小さすぎる役立たずの魔法。
だが、眼前に迫る二本の牙を見た瞬間、ジョージの脳裏にひとつの閃きが走った。
(すべてを防ぐ必要はない)
巨体そのものを受け止めることは不可能だ。二本の牙を同時に防ぐこともできない。
だが――。
(ネリオ殿を貫こうとしている、この“右の一本”の先端だけなら!)
ジョージは迫り来る右牙、その鋭利な先端の一点のみを睨み据えた。
「『
丸盾の表面へ、淡い青色の魔力が一気に収束する。
現れたのは、直径わずか三十センチほどの小さな円形障壁。山の水路も、畑の濁流も止められなかった、頼りない光の盾。
だが、その極小の障壁は、ジョージの盾を貫こうと迫る右牙の先端へと、寸分の狂いもなく重なっていた。
――ドゴォォォンッ!!
凄まじい衝撃音が弾け、森牙猪の牙が青い障壁へ激突した。
ピシィッ――!
薄い硝子が割れるような音とともに、障壁全体へ致命的な亀裂が走る。
「ぐっ……ああああぁっ!!」
ジョージの全身を、骨の髄まで砕けそうな衝撃が貫いた。
障壁は一秒と持たずに砕け散り、無数の青い光の粒となって四散する。
直後、殺しきれなかった運動エネルギーを伴い、魔獣の巨大な頭が丸盾へ叩きつけられた。
盾の鉄枠が大きく歪み、木板が断末魔の悲鳴を上げる。
両腕が痺れ、肩の関節が外れかける。
踏ん張った両足が石床を削りながら、ズザザザッと後方へ滑っていく。盾の縁が胸へ食い込み、肺から無理やり空気が叩き出された。
それでも――。
牙は、ジョージの盾を貫いてはいなかった。
最初の衝突の瞬間、《局所障壁》が牙の威力をわずかに削ぎ落とし、同時にその軌道を逸らして、鋭い先端を丸盾の「鉄枠」へと滑らせていたのだ。
たった一秒。
ほんのわずかな時間と、数センチの軌道のずれ。
だが、その針の穴を通すような小さな差が、ジョージとネリオの命を確かに繋ぎ止めていた。
「耐えた……!」
ネリオが、信じられないものを見るように青い瞳を見開く。
「うっそぉ!? 男爵様の、あの鍋蓋みたいな魔法が役にたった……!?」
「鍋蓋は余計ですっ!」
ジョージは口の端から血を流しながら、必死に盾を押し返した。
巨体を完全に止めることはできない。
障壁はすでに散り、盾にも深い亀裂が走っている。
次の瞬間にはすべてが砕かれる。
それでも退けない。
すぐ後ろには、動けない仲間がいる。
「モーブル殿! ネリオ殿を早く!」
「分かっておるわ!」
巨体からは想像もつかない俊敏さで駆け寄ったモーブルが、床の穴へ嵌まったネリオの両脇をガシリと掴んだ。
「痛っ! ちょっとぉ、か弱い美少年をもう少し丁寧に扱ってくださいよぉ――」
「死ぬよりましだろうが!」
モーブルは畑から大根でも引き抜くような強引さで、ネリオを穴から一気に引きずり出した。
その瞬間。
限界を迎えたジョージの丸盾へ、ミシリと決定的な亀裂が走った。
「男爵様、もういいです! 横へ飛んで!」
「ですが――!」
「あたしを信じて!」
ネリオの鋭い叫び。
ジョージは残るすべての力を振り絞り、ひび割れた盾を森牙猪の頭へ力任せに押しつけた。
「うおおおっ!」
魔獣の顔がわずかに上向く。
その反動を利用し、ジョージは全力で横へと転がった。
支えを失った森牙猪の巨体が、突進の猛烈な勢いを殺せないまま前方へ激しく流れる。
「今です!」
ネリオが懐から、細い銀色の杭を投げ放った。
杭は森牙猪の足元にある石床の隙間へ、吸い込まれるように深く突き刺さる。
――カチリ。
古い砦に眠っていた罠が、目を覚ました。
バサァッ!
天井の暗がりから、目に見えないほど細い金属線で編まれた巨大な網が落下する。
網は前のめりになった森牙猪の巨体を完全に包み込み、そのまま石床へ縫い止めるように絡みついた。
「ブゴオオオッ!?」
森牙猪は怒り狂って暴れ回る。
だが、動けば動くほど鋭い金属線が四肢と胴体へ深く食い込み、その圧倒的な暴力と自由を無慈悲に奪っていった。
「昔の侵入者用の捕縛罠です。まだ生きていて助かりました」
ネリオは荒い息を整えながら、網の端を壁の頑丈な留め具へしっかりと固定した。
「……とどめは?」
モーブルが短剣を抜き放ち、油断なく尋ねる。
「必要ありません。完全に身動きが取れなくなっているうちに、森の奥へ運びます」
「倒さないのですか……?」
ジョージは全身を打つような痛みに顔を歪め、床へへたり込んだまま問いかけた。
「この子は、元々この森で暮らしていただけですからね。人里へ下りて被害を出したなら討伐対象ですが、自分の縄張りを守っていただけの獣を、わざわざ殺す必要はありません」
ネリオは森牙猪の拘束状態を冷静に確認すると、太い首筋へ眠り薬をたっぷり塗った小さな針を突き刺した。
しばらくすると、暴れていた魔獣の動きは次第に鈍くなり、やがてスゥ、スゥと荒い寝息を立て始めた。
「後で森の奥深くへ運びます。目を覚ます頃には、この砦へ二度と戻れないよう入口も完全に塞いでおきましょう」
その言葉を聞いた途端、ジョージの全身から糸が切れたように力が抜けた。
ボトリ、と役目を終えた丸盾が二つに割れて床へ落ちる。
限界を超えた右腕は、自分の意思とは関係なく、ひどく小刻みに震え続けていた。
「……怖かった」
汗と泥にまみれ、床へへたり込んだジョージが、震える吐息と共に呟く。
「ええ。正直に言えば、見ているこっちが同情するくらい、格好悪いほど震えていましたねぇ」
「……やはり、見えていましたか」
「腕も、膝も、奥歯も、全部ガチガチと素晴らしいリズムを刻んでいましたよ」
「お願いです。その情けない姿だけは、絶対に記事へ書かないでください!」
「むふふふふ。どうしましょうかねぇ。読者は英雄の人間臭い弱点がお好きですから」
「そこは即答で約束してください!」
ネリオは小さく笑い、ふっと表情を引き締めた。
「でも、あなたは逃げませんでした」
ジョージは、未だに微かな震えが止まらない自分の両手を見つめた。
「……逃げたかったです。心底、逃げ出したかった」
「それでいいんですよ」
「よいのですか?」
「死ぬのが怖くない人間が前へ出るのは、勇気ではありません。ただの無謀か、あるいは狂気です」
ネリオは床に落ちた、役目を終えた丸盾を拾い上げた。
盾の中央には深い亀裂が走り、鉄枠には森牙猪の太い牙が滑った生々しい傷跡が刻まれている。
その一部には、《局所障壁》が砕けた際の淡い青い光が、蛍火のようにまだ微かに明滅していた。
「心臓が破裂しそうなほど怖くても、自分の後ろにいる誰かのために、泥臭くても逃げずに立つ。それこそが、本物の勇気というやつです」
「ネリオ殿……」
しんみりとした空気を振り払うように、ネリオは盾に残った青い光を指先でツンと突いた。
「それにしても。山でも畑でも何の役にも立たなかった、あの小さな『空飛ぶ大皿』が、まさか森牙猪の牙を逸らすとは思いませんでしたねぇ」
「私もです」
ジョージは、自分の右手を見つめ返す。
「今までは、魔法が小さいことばかりを恥じていました。もっと広く、もっと長く、もっと強い障壁でなければ、何の意味もないのだと……」
「でも今回は、極端に小さかったからこそ、あの尋常ではない威力を牙の先端という『一点』へ正確に重ねて、軌道を逸らせた」
「はい」
ジョージは、ネリオからひび割れた盾を両手で大切に受け取った。
「すべてを守る力はなくても、本当に守るべき一点へ差し出せば、役に立つこともあるのですね」
「ま、あたし一人なら、男爵様に盾になってもらわなくても、もっと華麗に避けられましたけどねぇ」
ネリオが、照れ隠しのようにわざとらしくそっぽを向き、口をとがらせた。
「強がるな、小妖精。床に足が嵌まって身動き一つとれなかった貴様が、どうやって華麗に避けるというのだ」
「あ、あれは不運な地形の罠ですよぉ! 万全の態勢なら、ひらりと蝶のように舞って――!」
「その間抜けな蝶が潰されるのを、男爵様の鍋蓋が守ったのだろうが」
「モーブル殿まで鍋蓋と呼ばないでください!」
モーブルは、ひび割れた盾へ残る青い光をじっと見つめた。
「魔法も、商売道具も同じことだ。この世に最初から『使い物にならん品』などそうそうない。使いどころを知らん愚か者が、勝手に価値を見落としておるだけのこともある」
ジョージは一瞬、ハッと目を見開いた。
学院で誰からも「役に立たない」と嘲笑われてきた自分の小さな魔法を、歴戦の商人が明確な「価値あるもの」として認めてくれたのだ。
やがてジョージは、真っ二つに割れかけた丸盾を愛おしむように胸元へ引き寄せ、深く、力強く頷いた。
「……覚えておきます」
命懸けの死闘を越え、三人がいつものような騒がしくも温かな空気を取り戻しかけた――まさに、その時だった。
不意に。
広間の中央に吊るされた巨大な真鍮の警鐘が、風もないのに、ひとりでに大きく揺れ動いた。
――ゴォォォン。
重く、低い鐘の音が、森全体へと荘厳に響き渡る。
同時に、モーブルの鞄の中の黒檀の箱が、強い光を放った。
「歯車の反応です!」
警鐘の下部にある古い魔力機構が回転し、真鍮の側面の小さな蓋が開く。
中から現れたのは、燃えるような赤い魔石を嵌め込んだ、銀色の歯車だった。
表面に刻まれた文字は――
『盾』
ジョージは、その熱を帯びた歯車を手に取った。
「父上も……昔、ここで誰かを守ったのでしょうか」
警鐘の太い支柱には、森牙猪の牙とは違う、鋭い刃物による古い傷が無数に残っていた。
その隣に、掠れた文字が深く刻まれている。
『魔獣大群襲撃の折、ジョハン・ウィルハルケン以下十二名、この地にて街道を防衛す』
「先代様は、家のわずかな護衛や雇われ兵たちと共に、自らこの危険な最前線で魔獣を食い止めたようですな」
モーブルが、感慨深げに読み上げる。
「たった、十二名で……」
「少数精鋭のたった十二名で、街道へ魔物の群れが下りるのを、命懸けで防いだのでしょうね」
ネリオが、古傷だらけの警鐘を見上げた。
「土地を所有する者が、安全な屋敷から人任せにするのではなく、自ら剣を取り、最前線へ立った。……だからこそ、ヴァーゼルの人々は彼を信じた」
ジョージは、父の名へそっと指を触れた。
「人の上に立つのではなく、人の前に立つ……」
「何か?」
「いえ。父なら、きっとそのように言った気がしたのです」
第四の歯車を、黒檀の箱へと嵌め込む。
――カチリ。
四本目の光が、力強く灯った。
『第五の問い』
『小さき声が忘れられる場所にて、名もなき明日を守る者を訪ねよ』
光の中に浮かび上がったのは、ヴァーゼルの町外れにある古い建物。
小さな中庭。
そこで無邪気に遊ぶ、たくさんの子供たちの姿だった。
「孤児院……」
ジョージが呟く。
「ヴァーゼルの東端に、古びた孤児院があります」
「最後の歯車は、そこですね」
ネリオが頷いた。
モーブルは太い腕を組み、低く唸った。
「市場、水源、畑、監視塔。そして最後に、孤児院か」
「何か、気づいたのですか?」
「いや」
モーブルは、四つの眩い光が灯った箱を見る。
「先代男爵が、何を息子へ見せようとしておったのか。……その真意が、ようやく分かってきただけですよ」