※この作品はR-18です。

モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~   作:とけそうだら

61 / 65
第六十一話 おしゃべりエルフと古代の『問いかけの箱』⑨

 夜の冒険者の街カヴェナは、昼間の熱狂的な喧騒がまるで幻だったかのように静まり返っていた。

 大通りから行き交う荷馬車の姿は消え、軒先に吊るされた魔導灯も、一つ、また一つと眠りにつくようにその明かりを落としていく。

 

 そんな寝静まった街の片隅で、『フォックス広告』の二階の窓にだけ、ぽつりと橙色の光が灯っていた。

 

 社員たちはすでに家路についている。

 一階の事務所には使い込まれた机が整然と並び、壁際には、明朝街中で配られる『カヴェナ通信』の真新しい束が天井へ届くほど高く積み上げられていた。

 普段なら社員たちの怒鳴り声と印刷機の轟音がせめぎ合う社内も、今は積み上げられた紙へインクがゆっくりと馴染んでいく音さえ聞こえそうなほど、心地よい静寂に包まれている。

 

 だが、二階の社長室だけは相変わらずの混沌だった。

 壁一面を隙間なく埋め尽くす本棚、丸まった地図、古代遺跡の石片、正体不明の奇妙な骨、未整理の取材資料と没記事の山が所狭しと並んでいる。

 街から寄せられる苦情も密告も真偽不明の噂話も、すべて同じ投書箱へ無造作に詰め込まれていた。

 仕事場と資料庫と物置を、力ずくで一部屋へ押し込めたような――実にネリオらしい空間である。

 

 二人がヴァーゼルからカヴェナへ戻って、三週間が経っていた。

 その間、モーブルはウィルハルケン家の債権者たちとの熾烈な交渉に奔走し続けていた。

 

 長年の商売で築き上げた人脈を総動員し、強欲な商会主、冷酷な金融業者、堅物の公証人、果ては役人にまで根回しを行った。

 債権者ごとの裏の事情まで徹底的に洗い出し、現実的な返済計画を組み直す。時にはプライドを捨てて深く頭を下げ、時には別の有利な取引を餌にして強引に譲歩を引き出した。

 

 使える伝手も、培ってきた知恵も、商人としてのえげつない駆け引きも、一切の出し惜しみはしなかった。

 その血を吐くような奔走の甲斐あって、大半の債権者からは返済期限の延長を取りつけ、目前に迫っていた「領地差し押さえ」という最悪の事態を、ひとまず回避することに成功したのだ。

 

 もちろん、すべての問題が解決したわけではない。

 十万枚の借金が消えたわけでも、ハイエナのような債権者たちがウィルハルケン家の豊かな土地を完全に諦めたわけでもなかった。

 それでも、今月末に迫っていた破滅へのカウントダウンだけは、己の手で力ずくで食い止めたのである。

 

 今夜、モーブルとネリオは、現地での一連の出来事を記事にまとめる最終の打ち合わせと、その三週間に及ぶ苛烈な交渉の慰労を兼ねて、この社長室へ集まっていた。

 

 

「――というわけで! 次号の記念すべき特集記事、そのトップ見出しはこちらに大決定でぇす!」

 

 その心地よい静寂を、ネリオ・フォックスライドの甲高い声が景気よく叩き壊した。

 完成したばかりの版下を、インクの染みついた机の上へ――バァン! と勢いよく叩きつける。

 そこには、紙面の四分の一を占領するほど巨大な文字で、堂々とこう記されていた。

 

『借金十万枚! 爵位剥奪まであとわずか! 泥まみれ男爵の崖っぷち家業再建生活!』

 

「却下だ」

 

 向かいの来客用椅子へ窮屈そうに巨体を押し込んでいたジンジ・モーブルは、見出しを一瞥しただけで冷酷に切り捨てた。

 

「どぅひょぺええええッッ!!? み、見出しだけで即刻廃刊ですかぁッ!? せめて本文にも一度くらい目を通してくださいよぉッ!」

 

「やかましいわ馬鹿エルフ! 夜中に近所迷惑な奇声を張り上げるな!」

 

 モーブルは自分も思わず怒鳴りかけ、慌ててこほんと咳払いをして声を落とした。

 それから太い指で、問題のゲスな見出しをバンバンと容赦なく叩く。

 

「あのな。相手は下級とはいえ、由緒ある貴族だぞ。あまりにも体面が悪すぎる。この下世話な一行だけで、火にくべて却下するには十分だ」

 

「ええーっ? ヴァーゼルの丘の上では『売れるな』って、山ゴリさんもけっこう乗り気だったじゃないですかぁ。まさかこの三週間で、悪徳商人の心にも綺麗な良心が生えてきたんですか?」

 

「阿呆! 当事者である男爵様をその場でからかうのと、活字にして新聞へ印刷し、カヴェナ中へばら撒くのとではまったく話が違うわ!」

 

 モーブルは、借金額と爵位剥奪の文字を順番に叩いた。

 

「男爵様から『絶対に伏せろ』と固く頼まれた致命的な情報を、二つもまとめて大見出しにする馬鹿がどこにおる。貴様はまず、己の面白さを優先して無駄に敵を増やす悪癖を改めろ」

 

「安酒場の客は、上品なワインより度数の高いスキャンダルを求めているんです。大衆向けの新聞に高尚な節度を求めるなんて、ずいぶんと贅沢な読者ですねぇ」

 

「わしはその安酒を飲みに来た客ではない。貴様が売上というスパイスを効かせすぎて、男爵様という極上の素材に『毒』を混ぜんよう、直々に毒見役を任されておるのだ!」

 

 ネリオは不満そうに頬を膨らませた。

 

「でもでもぉ……『借金で苦しむ若き男爵』なんて、薄味のスープじゃ誰も振り向きませんよぉ。そこに『借金十万枚! 爵位剥奪寸前!』という極上のスパイスを放り込んでこそ、読者という飢えた魚が食いつくんです! 部数は軽く五割増しですよ!」

 

「しつこい! 男爵様の信用は、今まさに薄氷の上にあるのだぞ。貴様の下世話な見出し一つで債権者との交渉がひっくり返れば、ヴァーゼルの再建計画まで潰れかねん」

 

 モーブルは太い指で、見出しの中央をドンと容赦なく叩いた。

 

「街が立ち直れば、人が集まり、物が動き、新たな商いが生まれる。モーブル商会にも、宣伝を担うフォックス広告にも、長く利益をもたらすだろう。目先の発行部数と引き換えに、将来の巨大な市場を潰してどうする」

 

「へええ……なるほどぉ」

 

 ネリオは、わざとらしく何度も頷いた。

 

「つまり、男爵様を必死に庇うのも、ぜんぶ将来の利益のためなんですねぇ? あたしはてっきり、山ゴリさんが男爵様へすっかり情を移しちゃったのかと思いました」

 

「何をくだらんことを」

 

 モーブルは、ふんと強く鼻を鳴らした。

 

「一流の商人は、将来金を生む商いを、目先の小銭欲しさに潰したりせん。わしは慈善家ではない。儲かる見込みがあるからこそ、汗水垂らして投資しておるにすぎん!」

 

 ネリオはしばらくの間、モーブルの顔をニヤニヤとじっと見つめていた。

 やがて、獲物を追い詰める狐のように、さらに深く、にんまりと口元を緩める。

 

「……なるほどなるほど。そういうことにしておきたいんですねぇ」

 

「何がだ」

 

「この三週間、寝る間も惜しんで、自分の足が棒になるまで男爵様のために駆け回っていた人が、よく言いますよ」

 

「有望な投資先を守っただけだ」

 

「昔の貸しまで引っ張り出して、プライドの高い公証人や債権者へペコペコ頭を下げたのも?」

 

「必要な商取引の交渉だ」

 

「自分の商会に不利な条件まで呑んで、強引に返済延期を取りつけたのも?」

 

「すべて将来の利益を見込んだ、緻密な経営判断だ!」

 

 モーブルは、妙にむきになって語気を強めた。

 

「何度も言わせるな。わしは無償の善意で動くような甘い商人ではない!」

 

「はいはい。ほんっと、素直じゃないなぁ」

 

「人の話を聞け!」

 

「口では利益だの投資だの言っていますけど、結局は、善良で不器用な男爵様を放っておけなかったんでしょう?」

 

「阿呆! 勝手にわしを善人へ仕立て上げるな!」

 

 モーブルは机を叩き、さらに声を荒らげた。

 

「わしはただ、モーブル商会の看板を掲げた以上、商人としての筋を通しておるだけだ!」

 

「それを世間では、人がいいって言うんですよぉ」

 

「言わん!」

 

 ネリオはくすくすと、悪戯っぽく笑った。

 

「まあ、そうやって図星を突かれるたび、利益の話へ逃げ込むところも、山ゴリさんの可愛いところなんですけどねぇ」

 

 ネリオは机へぐっと身を乗り出し、にやにやとモーブルの強面を覗き込んだ。

 

「お金のことしか考えていないふりをして、実はめっぽう人がいい。褒められそうになると、照れ隠しですぐ商売の話を始める。そりゃあ、あの超・偏屈なセシル様が、山ゴリさんにだけ甘くなるのも分かりますよぉ」

 

「こ、こら! こんなところで唐突にママ――いや、お師匠様の名を出すんじゃない!」

 

 口を滑らせた瞬間、モーブルの顔が引きつった。

 ネリオの細い目が、獲物を見つけた狐のように輝く。

 

「へええ……ママ、ですかぁ?」

 

「聞き間違いだ!」

 

「んふふふふぅ♡ よしよし、いい子いい子。あたしがママの代わりになでなでしてあげまちゅからねぇ〜♡」

 

 ネリオは両手をわきわきと動かしながら、さらに顔を近づける。

 

「ついでに、頑張ったご褒美として、ほっぺへ熱いキスもしてあげまちょうかぁ?♡」

 

「断固としていらん! わしを赤子扱いするなァッ!」

 

 ネリオがふざけて伸ばした手を、モーブルは顔を真っ赤にして鼻息荒く払いのけた。

 

「まったく、油断も隙もない小妖精め……」

 

 ネリオは悪びれもせず、ぺろりと舌を出した。

 

 そして、ふざけた見出しの版下をくるりと裏返す。

 その裏面には、先ほどの下世話な煽り文句とは似ても似つかない、落ち着いた見出しが端正な書体で記されていた。

 

『忘れられた辺境の町に、もう一度、人と商いを――若き男爵のヴァーゼル再建計画』

 

 モーブルは、机の上の版下と、悪戯っぽく笑うネリオの顔を交互に見比べた。

 

「……貴様、最初からこちらを使うつもりだったな?」

 

「さぁて、どうでしょうねぇ」

 

「わしの反応を見るためだけに、わざと下品な方を先に見せおって」

 

「記事を書くには、読者がどこで驚き、どこで怒り、どこで続きを読みたくなるのかを見極める必要がありますからねぇ」

 

 ネリオは、いけしゃあしゃあと小さな胸を張った。

 

「山ゴリさんは、意外と一般市民に近い、素朴で純粋な感性をお持ちなので、試し読みにちょうどいいんですよ!」

 

「誰が素朴で純粋だ!」

 

「じゃあ素直になれない善良な守銭奴代表!」

 

「悪口と褒め言葉を無理やり同居させるな!」

 

「でも、だいたい合っていますよねぇ?」

 

「……もう、やめだ。言い返すのも疲れたわ」

 

 モーブルは深く、腹の底からため息をついた。

 これ以上まともに相手をするだけ無駄だと悟ったらしい。

 

 気持ちを切り替えるように傍らの赤いペンを手に取り、版下の数か所へ容赦なく線を引いていった。

 

「よし、細部を詰めていくぞ。記事で扱うのは、市場、水源、果樹園、監視塔、孤児院を巡った話までだ」

 

「はいはい、分かっていますよぉ。街の魅力が読者へビンビン伝わる、明るく楽しい記事に仕上げますってば」

 

「……本当だろうな」

 

「むぅ。正義のジャーナリストに対して、ずいぶん信用がありませんねぇ」

 

 ネリオは不満げに唇を尖らせた。

 

「あたしだって、書いてよいことと悪いことの線引きくらいはできますよぉ。一応」

 

「最後の二文字で、余計に不安になるわ」

 

 モーブルは赤いペンを止め、版下から顔を上げた。

 

「それと、これだけは厳守しろ。具体的な投資額、修繕の優先順位、どの土地から手を入れるつもりなのか――そのあたりは絶対に書くな」

 

 ネリオの羽ペンが、ぴたりと止まった。

 

「……ふぅん。随分と慎重ですねぇ」

 

「まあな」

 

 モーブルは版下から目を離し、机の端に積んでいた書類へ手を伸ばした。

 ウィルハルケン家の借用証書。

 債権譲渡の記録。

 複数の商会から届いた土地買収の申込書。

 そして、その分厚い束の下から、大切に保管されていた『黄ばんだ古い書状の束』を静かに取り出した。

 

「男爵様の借金には、どうにも腑に落ちん点がある」

 

 その一言で、室内の空気が一変した。

 つい先ほどまで戯けていたネリオの顔から、飄々とした笑みが完全に消え去る。

 

「たとえば?」

 

「借入先も、借りた時期も、本来の返済期限も、もとは見事にばらばらだった」

 

 モーブルは数枚の借用証書を机へ並べた。

 

「ところが、この一年ほどで複数の債権が顔の見えない代理人たちへ次々と譲渡され、大半の期限が示し合わせたように『今月末』へと集中しておった」

 

「偶然と呼ぶには、悪意の筋が通りすぎていますねぇ」

 

「それだけではない」

 

 モーブルは土地買収の申込書を抜き出した。

 

「北部の水源地。西部の果樹園。旧街道沿いの土地。それに、監視塔を含む森の一部」

 

 太い指が、買収対象となっている土地を一つずつ重々しく叩く。

 

「いずれも、現在の相場を大きく上回る異常な額が提示されておる」

 

「高値で買ってくれるなら、借金を抱えた男爵様には好都合なのでは?」

 

「値段に見合う『まともな理由』があるならな」

 

 人通りの絶えた旧道。町外れの鬱蒼とした森。

 まだ本格的な収穫も始まっていない未完成の果樹園。現状だけを見れば、提示額の半分でも買い手がつくか怪しい土地ばかりだった。

 

「それらを、わざわざまとめて買おうとしている?」

 

「そうだ。しかも、この土地の買収話は、最近になって突如始まったものではない」

 

 モーブルが、黄ばんだ書状の一枚をネリオの前へ滑らせた。

 

「これは先代男爵――ジョハン様が密かに保管していたものだ」

 

 古い書状には、ウィルハルケン家の土地を買い取りたいという執拗な申し出が記されていた。

 差出人は一つではない。

 商会、金融業者、名も知らぬ貴族の代理人。

 時期も名義も異なっていたが、彼らが希望している土地は、現在の申込書とひどく不気味なほど一致していた。

 

「先代の頃から、ずっと狙われていた……?」

 

「少なくとも、異常な買収の申し出は何度もあったらしい。提示額も、当時の相場から見れば正気の沙汰ではないほど高い」

 

「先代男爵は、どう返答したんです?」

 

「すべて突っぱねておる」

 

 モーブルは、書状の余白へ残された先代男爵の筆跡を指した。

 短い一文だけが、紙を破らんばかりの強い筆圧で記されている。

 

『この土地は売却しない』

 

「理由は?」

 

「何も残されておらん。ただ、何度条件を吊り上げられても、決して応じなかったようだ」

 

 ネリオは古い書状と、現在の申込書を交互に見比べた。

 

「先代へ正面から持ちかけても、絶対に売ってもらえなかった。だから代替わりしたあと、今度は『借金』という首輪を利用して、合法的に手放させようとした……」

 

「可能性はある」

 

 モーブルは、ヴァーゼルの詳細な地図を手元へ引き寄せた。

 北部の水源地から旧街道へ。

 旧街道から西部の開拓地へ。

 そして森の奥にある旧監視塔へ。

 太い指が、点と点を結ぶように滑っていく。ネリオの細い目が、わずかに開いた。

 

「……新しい街道、ですか」

 

「わしも最初はそう考えた」

 

 旧街道を整備すれば、カヴェナから西方へ抜ける近道になる。

 北部には宿場や工房を支えられる水源があり、西部には倉庫や厩舎を建てられる平地がある。

 監視塔も、修復すれば街道の警戒拠点や魔導通信の中継地点として利用できるだろう。

 

「一帯を巨大な物流拠点として見れば、高値を出す理由はありますねぇ」

 

「しかも半年前から、旧街道周辺へ『国の測量官』らしき者が出入りしていた記録もある」

 

「公表前の西方交易路の国家計画を、誰かが掴んでいる……」

 

「そう考えれば、一応の筋は通る」

 

 先代の頃から買収を持ちかける。

 それを拒まれ続けたため、代替わり後に債権を裏で買い集める。

 返済期限を揃え、支払いに窮したウィルハルケン家へ、相場を超える価格で売却を迫る。

 

「借金を返すためなら、高値をつければ喜んで手放すと考えたわけですか」

 

「表向きはな」

 

 モーブルは地図を睨んだまま、地を這うような声へ落とした。

 

「だが、街道計画だけでは絶対に説明のつかん点がある」

 

「何がです?」

 

「買い手どもは、街の中心部や市場周辺には、ほとんど興味を示しておらんのだ」

 

 彼らが異常なまでに執着しているのは、水源、旧道、森、監視塔。

 いずれもヴァーゼルの『外縁部』にある土地ばかりだった。

 

「物流拠点を作るつもりなら、町へつながる中心部の土地も欲しがりそうなものですけどねぇ」

 

「測量の内容も妙だ」

 

 モーブルは、現地調査へ立ち会った作業員の証言書を取り出した。

 

「道幅や斜面だけではない。水脈の深さ、地中の空洞、魔力の流れ、監視塔周辺の岩盤の強度まで執拗に調べておる」

 

「街道を造るというより……まるで、地下にある『何か』を探しているように聞こえますねぇ」

 

「だから解せんのだ」

 

 ヴァーゼル周辺には、知られている限り、巨額を投じるほどの鉱物資源はない。

 それでも買い手は、提示額を引き上げることはあっても、別の土地への変更には頑なに応じなかった。

 水源や監視塔を売却対象から外せば、露骨に交渉そのものを打ち切ろうとする。

 利用目的を尋ねても、返ってくるのは「将来の開発のため」という曖昧な言葉だけだった。

 

「高い金を払ってでも、そこを――その『地下』を手に入れなければならない理由がある」

 

 推理を口にするネリオの声からも、いつもの軽さが完全に消えていた。

 

「一部の債権者も、返済条件の話し合いより先に、土地の引き渡し時期を執拗に尋ねておる」

 

「金の回収より、土地の確保を急いでいる」

 

「そういうことだ」

 

 モーブルの顔から、いつもの大げさな怒りは消えていた。

 そこにあるのは、得体の知れない不気味な商談の裏側を嗅ぎ取った、百戦錬磨の商人としての冷徹な警戒心だった。

 

「ルブルース公爵家との遠い縁も、関係しているんですかねぇ?」

 

「まだ分からん」

 

 モーブルは即座に釘を刺した。

 

「公爵家そのものが関わっているとは限らん。だが、その傍系や周辺の役人なら、未公開の国家事業へ触れる機会はある」

 

「誰かが交易路の情報を流した可能性はある、と」

 

「可能性の一つだ」

 

 モーブルは机へ並べた書類を見下ろした。

 

「だが、街道だけが目的と決めつけるのは早い。なぜ先代の頃から同じ土地を執拗に狙っていたのか。なぜ地下まで調べているのか。なぜ債権の期限を強引に揃える必要があったのか」

 

「もっと大きな目的が、別に隠されているかもしれない」

 

「うむ。それが古代の財宝なのか、裏の国家事業なのか、それともまったく別の何かなのか。今は何一つ分からん」

 

 ネリオは腕を組み、しばらく地図を見つめていた。

 

「……山ゴリさん」

 

「何だ」

 

「相手が本当に『土地を手に入れること』を何よりも最優先にしているのだとしたら。あたしたちが気をつけるべきなのは、借金や売買の罠だけではありませんよ」

 

 モーブルの眉間に、刃物で刻まれたような深い皺が寄った。

 

「男爵様、か」

 

「ええ」

 

 先代男爵は、何度条件を上げられても決して土地を売らなかった。

 そして現在の当主であるジョージも今、土地を守り、ヴァーゼルを再建しようと立ち上がっている。

 

「交渉でも借金でも土地を奪えないと分かれば、男爵様自身を『排除すべき障害』だと考える者が出てくるかもしれません」

 

「脅迫、誘拐――あるいは、不幸な事故に見せかけて命を奪うか」

 

 モーブルの声が、さらに一段低く、冷酷な響きを帯びた。

 

「そこまでやる相手かどうかは分かりません」

 

「だが、可能性がある以上、考えずに甘い見通しで動くわけにはいかん」

 

 モーブルは地図の上へ、その太い手をドンと置いた。

 

「男爵様には、土地の買収と債権の不審な動きについて、こちらが把握していることをすべて伝える」

 

「変に不安がらせないために、黙っておくという選択は?」

 

「なしだ」

 

 モーブルは即答した。

 

「ご自身の命に関わるかもしれん話を、本人にだけ伏せるわけにはいかん。それでは、これまでと同じように何も知らぬまま、他人に己の運命を委ねさせることになる」

 

「同感です」

 

「今後は絶対に単独で遠出させるな。行き先や移動の予定も、必要以上に外へ漏らさせん。身の回りには、物理的に腕の立つ、信用できる者を置く」

 

「突然届いた怪しい招待状や贈り物にも、細心の注意を払った方がよさそうですねぇ」

 

「うむ。今後、男爵様へ親しげに近づく者についても徹底的に調べるぞ」

 

 ネリオは羽ペンの尻で、こつこつと地図を叩いた。

 

「借金の延期を取りつけたからといって、安心している場合ではありませんね」

 

「むしろ、戦いはこれからだ」

 

 モーブルは版下へ再び赤い線を引いた。

 

「基金の額、債務の内訳、具体的な投資先、修繕の順番。こちらの手札は絶対に記事へ載せん。闇に潜む相手に次の一手を考える材料を与えるだけだ」

 

「けれど、監視塔の景色や果樹園の品質は、人を呼ぶために大々的に宣伝しなければならない」

 

「そこが難しいところだ」

 

「何も見せなければ、町は再生しない。けれど、詳しく明かしすぎれば、土地と命を狙う相手まで動かしかねない」

 

「見せる情報と隠す情報を、慎重に選ぶしかあるまい」

 

 ネリオはパタンと手帳を閉じた。

 

「記事で人を呼ぶ方針は変えません。ただし、基金や借金の詳細、具体的な投資先は厳重に伏せる。土地を狙う者についても、確たる証拠が揃うまでは書かない」

 

「うむ」

 

「その代わり、あたしは裏で、債権を買い集めた商会と、土地の買い手を調べます」

 

 ネリオの細い目が、夜の闇を見透かすように鋭く光った。

 

「名義が違っても、代理人、公証人、資金の出所を辿れば、どこかで同じ尻尾へ行き着くかもしれません。先代男爵へ届いた買収の書状も、現在の申込書と徹底的に照合します」

 

「頼む」

 

「……ああ、そう言えばもう一つ気になっていることがありました」

 

 ネリオは何かを思い出したように、羽ペンをくるりと回した。

 

「黒檀の箱に入っていた、あの古びた指輪は何だったんですかねぇ」

 

「指輪?」

 

「ほら、基金の証書と一緒に入っていた、宝石も飾りもない黒ずんだ指輪ですよぉ。一部が欠けていて、売り物にもならなそうな」

 

「ああ、あれか」

 

 モーブルは大して興味もなさそうに鼻を鳴らした。

 

「ただの遺品だろう。ジョハン様か、それ以前の当主が大切にしていた形見ではないのか」

 

「大事な証書と同じ箱へ入れるほどの品ですけどねぇ」

 

「思い出の価値と、市場での価値は別物だ。値打ちも用途も分からん古道具を眺めていても仕方あるまい」

 

「山ゴリさんらしい、身も蓋もない結論ですねぇ」

 

 ネリオは軽く答えたものの、どこか腑に落ちない様子で首を傾げた。

 あれほど厳重な箱の中に、再建基金の証書とともに収められていた、ひどく貧相な指輪。

 ただの形見と言われれば、それまでだ。

 それでも、なぜかネリオの胸には、小さな引っかかりが残っていた。

 

「測量官の素性もだ」

 

 モーブルの低い声が、ネリオの思考を現実へ引き戻した。

 

「誰の命令で、何を調べていたのか洗え」

 

「男爵様の周囲に、急に近づいてきた者もですね」

 

「頼む。ただし、暴走して記事にはするなよ」

 

「今は、ね」

 

「今はね、じゃないわ! 貴様のその物言いがいつもわしを不安させるのだ!」

 

「決定的な証拠が揃ったら、一面ぶち抜きの大特集にします!」

 

「わしの話を聞け!」

 

 モーブルの怒声に、ネリオは肩をすくめた。

 

「では、あたしは表の宣伝と、裏の調査」

 

「わしは債権者との交渉を続けながら、再建資金を厳重に管理する」

 

「男爵様には、ご自身の土地と家業を学んでいただきつつ、しばらく身辺へ最大の注意を払ってもらう。ということですね」

 

「そうだ」

 

 モーブルは静かに言い切った。

 

「相場を超える額を積まれたからと、理由も知らず土地を手放させるわけにはいかん。まして、その土地を守ろうとする男爵様ごと、何者かに奪わせるわけにはいかんのだ」

 

 ネリオは地図を見つめ、やがて小さく、力強く頷いた。

 

「急いで、焦らず。見せるべきものは見せて、隠すべきものは隠す。そして――」

 

「男爵様の安全を、最優先に考える」

 

 二人の視線が、地図の上で交差した。

 

 ヴァーゼルの再建計画は、確かに動き始めている。

 しかし、その行く手を阻むものは、莫大な借金と町の衰退だけではないのかもしれない。

 

 誰が、何のために債権を買い集めたのか。

 なぜ先代の頃から、相場を超える金額で同じ土地を欲しがっていたのか。

 測量官たちは、ヴァーゼルの地下に何を探していたのか。

 そして、土地を守ろうと立ち上がった若き当主へ、次にどのような手が向けられるのか。

 

 答えは、まだ何一つ出ていない。

 だからこそ急がなければならない。

 そして、急ぐからこそ――誰よりも慎重でなければならなかった。

 

 室内へ、再び重い沈黙が落ちる。

 ランプに照らされた机の上には、複雑に入り組んだ借用証書と、赤字だらけの版下。

 その隣には、先代男爵が命がけで拒み続けた、古い土地買収の申込書が不気味に並んでいた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。