モブおじ精液でレベルアップ!? ~でも好みのショタっ子しか手助けしません!!~ 作:とけそうだら
カヴェナの朝は、今日も穏やかに始まった。
街路樹は朝風にそよぎ、鐘楼から澄んだ音が響く。朝露の残る石畳には、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
このあと『モーブル商会』を中心に、とんでもない騒動が巻き起こるとは思えないほど、清々しい朝である。
もっとも、当のモーブル商会は、開店前から騒々しかった。
「ラース! 上級治癒ポーションは十二本一組だ! なぜ十一本しか入っておらん!」
「ひぃっ! 一本だけ栓に傷があったので、交換しようと思って……!」
「ならば先に報告せんか! 数が合わずに帳簿と睨み合った三分間を返せ!」
「時間まで請求されるんですかぁ!?」
「商人にとって時間は金だ! 次から一秒につき銅貨一枚、給金から引くぞ!」
「働くほどお給金が減っていきますぅ!」
本日のモーブル商会は、大口注文の出荷準備に追われていた。
注文主は、高難易度ダンジョンへ向かうシルバー級冒険者の一行。
治癒薬や携帯食料、魔物除けの香、縄、簡易天幕など、大量の物資が店内へ並べられている。
作業に追われているのは、店主のジンジ・モーブルと、奴隷の魔族ラース。
そして、もう一人。
「モーちゃん。こっち、終わった」
分厚い黒縁眼鏡をかけ、体に合わない平民服をまとった黒髪の少年が、整然と並べた小箱を指し示した。
モーブル商会の新人アルバイト、『ライ』。
その正体は、ヴァルディス伯爵家の後継者、ライオット・ヴァルディスである。
「おおっ、ライくん! なんと美しい荷札でしょう! 文字も結び目も寸分の狂いなし! もはや梱包ではなく芸術ですぞ!」
「ただ、荷札をつけただけ」
「いえいえ! その『ただ』を完璧にこなすのが難しいのです!」
モーブルは満面の笑みを浮かべ、大げさに両手を広げた。
「いやはや、ここまで上達されては、もはやわしから教えられることなど残っておりませんなぁ。こんな単調な作業ばかりの店は、そろそろ卒業なさってもよいのでは?」
「……卒業?」
「ええ! ライくんほど有能な方なら、もっと華やかで、やりがいのある場所が他にいくらでもありますとも。これを機に、新しいことへ挑戦してみるのも――」
「ううん。お店で働くの、楽しいからいい」
「左様ですかぁ……」
遠回しな退職勧告は、今回もあっさり失敗した。
その隣では、ラースが自分の荷札とライの荷札を何度も見比べていた。
後輩ばかり褒められては、先輩として少々面白くないらしい。
「あ、あの、旦那様……僕の荷札も見てもらえますか?」
「あ?」
モーブルは荷札をつまみ上げるなり、露骨に顔をしかめた。
「なんだ、この酔っ払ったミミズが泥の上を這ったような字は。しかも商品名の横にハートまで描きおって。仕事中に遊ぶな、たわけ」
「これはハートじゃなくて、薬草の葉っぱですぅ!」
あまりにも露骨な扱いの差に、ラースはしょんぼりと肩を落とした。
モーブル商会における彼の序列は、商品や備品よりも下だった。
「……ラース先輩」
「……え?」
「私は、いいと思う。字も読みやすいし、葉っぱもかわいい」
「ライさん……!」
ラースの顔が、ぱっと明るくなる。
「やっぱりライさんは、最高の後輩です!」
「先輩も、最高の先輩」
二人は顔を見合わせ、くすりと笑い合った。
「ラース! 恐れ多くもライくんにお世辞を言わせた挙げ句、作業を止めてにやけておるとは、ずいぶんいい身分だな!」
「ええっ!? お世辞じゃありませんよぉ! それに、ライさんだって手を止めてますし……」
「ほう。見習いの分際で、わしに逆らうとはいい度胸だ。口答え一回、作業中断一回――合わせて今月の売上ノルマを三倍にしてやる」
「やっぱり僕だけ扱いがひどいですぅ!」
ラースが泣く泣く作業へ戻ると、ライオットはモーブルの注文書を覗き込んだ。
「次は?」
「ライくんのお仕事は、これで終了ですぞ。あとはわしらに任せて――」
「魔物除けの香が二束多い。それに、解毒薬の箱へ麻痺治療薬が一本混ざってる」
「なに?」
確認すると、その通りだった。
「……よく気づきましたな」
「商品台帳を借りて、覚えた」
ライオットが取り出した手帳には、商品の用途や保管場所、取り扱いの注意まで、几帳面な文字でまとめられていた。
「店に来られない日も、勉強しておけば役に立てると思ったから……」
ラースが目を輝かせる。
「さすがライさんです! 僕なんて、似た薬は今でもたまに間違えちゃうのに」
「それは今すぐ直せ! 次に間違えたら、貴様を瓶詰めにして返品するからな!」
褒められたライオットは、わずかに誇らしげな顔をすると、モーブルの袖をそっと引いた。
「モーちゃん。私、もっとお仕事したい」
「い、いやあ……そこまで熱心に働いていただかなくても結構なのですがなぁ……」
ライオットは、日に日に立派な店員へ成長していた。
普通の雇用主なら喜ぶところだが、モーブルとしては、この貴族の坊っちゃんに早々に飽きて辞めてもらいたい。
上級貴族の後継者を身分まで隠して平民の商店で働かせていると露見すれば、モーブルの首がいくつあっても足りないからだ。
ところが、飽きさせようと単調な仕事を与えるほど、ライオットは熱心に学び、店員として成長していく。
(なぜ辞めさせようとするほど、優秀な店員へ育っていくのですかな!?)
このままでは飽きるどころか、ますます店へ根を張ってしまう。
早急に別の手を考えなければならない。
「しかし、ライくん。どうしてそこまで、うちの店で働きたがるのですかな? 掃除に荷運び、荷札書き――どれも地味で単調な仕事ばかり。育ちのよいライくんが、夢中になるようなものとは思えませんが」
「……楽しいから」
「楽しいですと? うちの仕事など、九割九分は地味な雑用ですぞ?」
ライオットは、迷うことなく小さく頷いた。
「棚を拭けば、きれいになる。荷物を運べば、ラース先輩が助かる。お客さんに商品を渡せば、ありがとうって言ってもらえる。できることが増えるのも、誰かの役に立てるのも、楽しい」
灰色の瞳が、まっすぐモーブルを見上げる。
「だから私、もっとこの店の役に立ちたい。お客さんに喜んでもらって、モーちゃんのお店を……もっと儲かる店にしたい」
もっと儲かる店にしたい。
その一言が、モーブルの商人魂のど真ん中を貫いた。
「う、うぉぉぉぉ……!」
モーブルは脂ぎった胸を押さえ、感極まった声を上げる。
「わしを儲けさせたいですと……!? なんという健気さ! なんという商人思い! まさに店員の鑑ですぞ! ライくんの尊さは、もはや金貨をいくら積んでも値がつきませんぞぉぉぉ!」
「ん。そう?」
「そうですとも! 仕事を覚え、客を喜ばせ、仲間の苦労まで気遣う! しかも相手の身分で態度を変えない! まさに人の上に立つ者の理想そのものですぞ!」
ライオットは、自分が特別なことを言った自覚もないらしく、不思議そうに小首を傾げた。
平民の商人であろうと、奴隷の魔族であろうと、困っていれば自然に手を差し伸べる。
本人だけが、その無自覚な優しさこそ、人から慕われる理由なのだと気づいていなかった。
「いやはや……同じ貴族でも、どこぞの高飛車な金髪坊っちゃんとは大違いですなぁ」
「……金髪の坊っちゃん?」
「いえいえ、こちらの話です。世の中には、顔と家柄だけは一級品でも、人望となると銅貨一枚分もない坊っちゃんがおりましてな。ふひひひ……」
こうして、モーブル商会の平和な朝は、穏やかに過ぎていく――はずだった。
バァァァンッ!!
店の扉が、蝶番ごと吹き飛びそうな勢いで開かれた。
「モーブル! いるか!」
「ひゃいっ!?」
ラースは黒い尻尾を逆立て、その場で飛び上がった。
朝日を背負い、開店前のモーブル商会へ我が物顔で踏み込んできたのは、長い金髪をなびかせた美少年――ニーシャ・オブライエンだった。
名画から抜け出したような美貌。
そして、それを台無しにするほど尊大な表情。
「げっ! 噂をすれば、早くも厄介な金髪坊っちゃんが来おったか!」
モーブルは小声で吐き捨て、即座に営業用の笑みを貼りつけた。
「これはこれはニーシャ坊っちゃん! 今日も朝日が嫉妬するほどお美しく――」
「長い。黙れ」
「へぇ」
モーブルは一秒で口を閉じた。
ニーシャはローブから羊皮紙の束を取り出し、カウンターへ叩きつける。
物資の一覧、古びた地図、魔法陣の写し、魔物の生態記録。
「準備が整った」
「……何のですかな?」
「忘れたとは言わせないぞ」
ニーシャは細い顎を上げた。
「『深淵の魔法遺跡カタコンベ』だ。近日中に再攻略する」
モーブルの営業笑いが引き攣った。
「カタコンベを……再び?」
「前回は第九層で撤退した。だが、今回は違う」
地図には、罠の位置や休息地点、必要な薬品、撤退の判断基準まで細かく記されている。
「結界迷路の法則は解析した。門番の攻撃特性も調べた。対策用の魔導具も作った」
「ずいぶん入念ですな」
「次は勝つために行くんだから当然だ」
前回の無謀な単独突入とは違う。
少なくとも、準備に関してはニーシャも学んだらしい。
「ですが、未踏ダンジョンは、一人の天才が何でもこなせるからといって、攻略できるほど行儀のよい場所ではありませんぞ」
「分かってる」
ニーシャは不機嫌そうに顔を背けた。
「だから、今回は一人では行かない」
「……ほう?」
「あの野良犬を連れていく」
「野良犬?」
「カイルだ」
「カイルですと? あやつは、まだブロンズ級のひよっこ冒険者ですぞ」
モーブルは驚いて目を丸くした。
「粗雑で、頭も悪く、品性の欠片もない馬鹿だが――」
ニーシャは一瞬だけ言葉を切った。
「あのふざけた魔剣を握らせれば、前衛としては使える。ボクが術式を組み上げている間、敵を引きつける程度の役には立つ」
「ほほう……」
「何だ、その気色の悪い顔は」
「坊っちゃんが、他人へ背中を預ける日が来るとは思いませんでなぁ」
「評価したわけじゃない! あいつの性能を客観的に分析しただけだ!」
「へぇへぇ。そういうことにしておきましょう」
「ふん!」
ニーシャは照れ隠しのように鼻を鳴らすと、苛立たしげにカウンターを叩いた。
「とにかく、情報も装備も揃えた。同行者も決めた。あとは物資だけだ」
羊皮紙の一枚を、モーブルの鼻先へ突きつける。
「一週間分の食料と治療薬。それから、呪詛、麻痺、精神汚染への対策品。すべて最高級のものを、三日後までに揃えろ」
「三日ぁ!?」
「料金は払う」
「金の問題だけではありませんぞ! これだけの量を三日で揃えるには、仕入れ先へ無理を通し、職人どもを寝ずに働かせ――」
「できないのか?」
ニーシャの碧眼が、挑発するように細められた。
「カヴェナ一の商人と自称する者が、この程度の注文も揃えられないと?」
「誰ができないと言いましたかな!?」
モーブルの商売人としての意地に、あっさりと火がついた。
「二日半で、最高級品をすべて揃えてみせますよ!」
「なら決まりだ」
満足げに頷くニーシャへ、モーブルはじっと目を向ける。
「しかし、ずいぶんお急ぎですな。カタコンベは逃げませんぞ」
「時間なら十分かけた」
「そういう意味ではありません」
モーブルの声が少し低くなった。
「今回は仲間を連れ、準備もしている。それは立派な進歩です。だからこそ聞いているのですよ。何が、坊っちゃんをそこまで急がせているんですか?」
「…………」
ニーシャは唇を引き結んだ。
「ボクはもう、一人で何もかも成し遂げなければ価値を証明できないとは思っていない」
以前の彼からは考えられない言葉だった。
「でも、諦めたわけじゃない」
細い手が、胸元で強く握られる。
「ボクはエリザの隣に立つ。誰に笑われても、身の程知らずと言われても、それだけは譲らない」
その声には、いつもの自尊心だけでなく、切実な決意が宿っていた。
「カタコンベを踏破する。そして、今度こそ逃げずに、ボク自身の言葉で想いを伝える」
モーブルはしばらく黙ったあと、大きく息を吐いた。
「そこまで覚悟を固めておられるのなら、わしからは一つだけです」
「何だ」
「必ず生きて帰ること。それが取引の条件ですぞ」
「ふん。言われるまでもない」
ニーシャは尊大に言い切ったが、すぐに顔を険しくする。
「それに、あまり悠長にもしていられない」
「まだ何か?」
「ライオットだ!」
「えっ!?」
その名が飛び出した瞬間、モーブルの心臓が大きく跳ね上がった。
よりにもよってニーシャは、ポーションを検品していた新人アルバイト『ライ』の目の前まで歩み寄ると、彼が手にしていた小瓶を無造作に取り上げた。
(ば、バレた!?)
上級貴族ヴァルディス家の後継者が、身分を隠して平民の商店で働いている。
その秘密が、ついに同じ上級貴族であるニーシャへ露見したのか。
「そうだ! あの忌々しい、氷みたいな顔をしたライオット・ヴァルディスだ!」
(本人の目の前で本人の名前を叫んだぁぁぁぁッ!?)
モーブルの全身から冷や汗が噴き出す。
だが、当のライオットは表情一つ変えず、ニーシャの手元を見ていた。
「……それ、まだ検品が終わってない」
「何?」
「赤い印がある瓶は、栓を確認してから戻す決まりだから……」
「ああ、そうか。悪かったな」
ニーシャは興味なさそうに瓶を返した。
「うん」
ライオットも何事もなかったように、瓶の栓を確かめ始める。
どうやらニーシャは、目の前の冴えない平民少年が、憎き恋敵本人だとは夢にも思っていないらしい。
(……バレておらん?)
モーブルは、二人を交互に見比べた。
「聞けば、あいつが近々エリザへ正式に求婚するという噂がある!」
「……求婚?」
ライオットの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「そうだ! 何を考えているか分からない冷血男が、幼い頃からエリザを想い続けてきたボクを差し置いて!」
「…………」
ライオットはしばらくニーシャを見つめ、ぽつりと呟いた。
「……私、そんなことしないよ」
幸い、その声は頭に血が上っているニーシャには届かなかった。
(正体がバレたのではなく、本人の目の前で本人を罵っておるだけか……!)
安心してよいのか、頭を抱えるべきなのか分からない。
ニーシャの脳内では、ライオットは女帝の王配の座を狙う冷血な野心家。
その本人は今、時給銅貨三十枚の新人アルバイトとして、真面目な顔でポーションの栓を確かめている。
あまりにも壮大で、あまりにも馬鹿馬鹿しいすれ違いだった。
「つまり、その求婚話が、坊っちゃんを急がせているのですな?」
「ああ。だからボクは、噂に怯えて待つのをやめる」
ニーシャは細い胸へ手を当てた。
「カタコンベを攻略し、必ず生きて帰る。そして、あいつより先に、ボク自身の言葉でエリザへ想いを伝える」
その決意を聞き、モーブルはゆっくりと頷いた。
「坊っちゃんが前回の失敗から学ばれたことは、わしにも分かりますぞ」
「当然だ」
「結界迷路の法則を解析し、門番への対策も練った。さらに今回は、カイルを同行させる。以前の無謀な単独突入とは、まるで違いますな」
「ふん。あいつに雑魚の始末を任せれば、ボクは術式へ集中できる。それだけだ」
ニーシャは誇らしげに顎を上げた。
「なら、もう文句はないだろう」
「大ありですな」
「何だと?」
モーブルは、カウンターへ広げられた資料を太い指で叩いた。
「これは第九層の門番を倒すための計画であって、カタコンベを攻略するための計画ではありません」
ニーシャの眉がぴくりと動く。
「同じことだろう。門番を倒せば、先へ進める」
「進めるだけです。その先に何があるのか、誰も知らないのでしょう?」
「…………」
「地図もない。罠の種類も分からない。どんな魔物が出るかも、休息できる場所があるかも不明。門番を倒した時点で、そこから先は完全な未知です」
モーブルは指を一本立てた。
「そして、坊っちゃんの組んだパーティーは二人だけ。坊っちゃんは後衛の魔法攻撃、カイルは前衛の物理攻撃。見事なまでに攻撃へ偏っておりますな」
「それだけ火力があれば、敵を倒すには十分だ」
「敵しか出ないなら、そうでしょうな」
続けて、二本目の指を立てる。
「負傷したときの治療役は?」
「治療薬を持っていく」
「意識を失った本人に、誰が飲ませるのです?」
「……カイルがいる」
「そのカイルが倒れたら?」
ニーシャは答えなかった。
三本目の指が立つ。
「罠を見抜き、解除する斥候役は?」
「魔法で探知できる」
「未知の罠が、すべて坊っちゃんの知る術式で作られている保証は?」
「…………」
「呪詛を受けた場合。道に迷った場合。食料や魔導具を失った場合。門番との戦いで消耗した直後に、さらに強い魔物が現れた場合――二人だけで、すべて対処できますかな?」
ニーシャの表情から、わずかに自信が薄れた。
「人数を増やせば、それだけ足手まといも増える」
「数を揃えろとは申しておりません。必要な役割を揃えろと言っているのです」
モーブルは、いつもの軽薄な笑みを消した。
「前衛と後衛だけでは、パーティーとは呼べませんぞ。怪我人を治す者。罠と道を見極める者。物資を管理し、退路を確保する者。未知の場所へ挑むなら、それぞれの役割が必要です」
「ボクとカイルでは足りないと?」
「門番を倒すだけなら、足りるかもしれません」
モーブルは、きっぱりと言い切った。
「ですが、坊っちゃんの目的は門番を倒して満足することではない。未踏の深層へ入り、成果を持ち帰り、生きてエリザ様へ想いを伝えることでしょう?」
「……そうだ」
「ならば、門番の先まで考えて準備なさい。未知の領域へ踏み込む以上、慎重すぎるということはありません」
ニーシャは唇を引き結んだ。
「慎重にしていたら、ライオットに先を越される」
「慎重さと臆病は別物ですぞ」
モーブルは、ニーシャの目をまっすぐ見返した。
「準備を重ねることは、逃げることでも、覚悟が足りないことでもありません。仲間を連れていくなら、全員を生きて帰すところまで考える。それが、先頭に立つ者の覚悟です」
「…………」
「功を焦って、門番の先で全滅したところで、残るのは偉業ではなく無謀な失敗談だけです。天才であることを証明したいのなら、生きて成果を持ち帰りなさい」
「……魔法も使えない平民商人が、高みを知ったような口を利くな」
ニーシャは不機嫌そうに顔を背けた。
だが、その声には先ほどまでの勢いがない。
「ええ。わしには、坊っちゃんのような魔法の才能はありません」
モーブルは肩をすくめた。
「だからこそ、才能のない者が死地から生きて帰る方法だけは、嫌というほど考えてきました」
ニーシャの碧眼が、かすかに揺れた。
何か言い返そうと唇を開いたものの、結局、言葉は出てこない。
悔しげに顔を背け、カウンターへ広げられた地図へ視線を落とした。
細かな書き込みで埋め尽くされているのは、第九層まで。
門番の先には、地形も罠も魔物も記されていない、まっさらな空白だけが広がっている。
ニーシャはその空白を見つめたまま、無意識に拳を握りしめた。
モーブルの言葉が正しいと、素直に認めるつもりはないのだろう。
だが、自分の計画が門番の先まで届いていないことまでは、否定できないらしい。
モーブルはその横顔を見つめながら、内心でそっと息を吐いた。
(まあ、坊っちゃんも馬鹿ではありませんからな)
自尊心が高く、負けず嫌いで、少々どころではなく傲慢。
それでも、感情だけで同じ失敗を繰り返すほど愚かではない。
今は意地を張っていても、屋敷へ帰って頭を冷やせば、自分の計画に足りないものくらい見えてくるだろう。
回復役と斥候を加え、物資と退路を整えたうえで、改めて出直してくるはずだ。
これ以上言葉を重ねれば、かえって意地になって反発する。
ここは一度、考える時間を与えるべきだった。
「まあ、言うべきことは言いました。あとは屋敷へ戻って、もう一度じっくり計画を練り直すことですな」
「しつこい。分かってる」
ニーシャは不満げに鼻を鳴らした。
その返事を聞き、モーブルはようやく肩の力を抜いた。
(ふぅ……これでよし)
どうにか無謀な二人旅は思いとどまらせた。
あとは注文された物資を揃え、必要なら冒険者ギルドへ顔の利く治療役や斥候を紹介してやればいい。
危険なダンジョンへ潜るのは、若く才能にあふれた冒険者たち。
自分は安全な店の中で、彼らへ最高級品を売って利益を得る。
これこそ商人として、最も正しい立ち位置である。
「では、注文の品はこちらで手配しておきますぞ。坊っちゃんは屋敷へ戻って、もう一度じっくり計画を――」
「ああ。それと、お前も来い」
「――練り直して……はい?」
モーブルの笑顔が固まった。
聞き間違いだろうか。
ニーシャは地図を畳みながら、何でもないことのように続ける。
「カタコンベには、お前も同行しろ」
「…………」
店内に、奇妙な沈黙が落ちた。
モーブルは何度か瞬きをすると、ゆっくり自分を指差す。
「……わしが?」
「ほかに誰がいる」
「い、いやいやいや! 今までの話を聞いておられましたかな!? わしは坊っちゃんに、仲間と準備を増やせと申し上げたのであって、わし自身を人数へ加えろとは一言も――!」
「物資を管理し、退路を確保する者が必要だと言ったのは、お前だろう?」
「一般論としてです!」
「お前はポーターとして長年ダンジョンを生き延びてきた。荷運び、物資管理、野営、危険察知――自分で挙げた役割に、これ以上ないほど当てはまっている」
「わしの忠告が、全部わし自身へ突き刺さっておりますな!?」
モーブルの顔から、みるみる血の気が引いていく。
ニーシャはそんな彼を見上げ、さも褒美を与えるかのように言い放った。
「特別に、このボクと未踏ダンジョンへ挑む名誉を与えてやる」
「そんな名誉、今すぐ返品させてくだされぇぇぇぇ!」
「相変わらずうるさいやつだな。それに、いざというときは現地で『レベルブレイクの儀式』が必要になることも――」
「ぼ、坊っちゃん! その話を店内で口にしてはなりませんぞ!」
モーブルは慌てて飛びかかり、ニーシャの口を塞いだ。
恐る恐る背後を振り返る。
ラースはぽかんと口を開け、ライオットは純真な顔で小首を傾げていた。
「……儀式?」
「な、なんでもありません! ライくんは床掃除の続きをお願いしますぞ!」
「んんーっ! 汚い手でボクの顔を触るな!」
ニーシャは顔をしかめ、モーブルの手を振り払った。
「とにかく、お前のポーターとしての能力だけは評価している」
「そこまで具体的に褒めておいて、最後に『だけ』をつけますか!?」
「安心しろ。ダンジョンで死んだら、骨くらいは拾ってやる」
「安心できる要素が一つもありませんぞ!」
「このボクが直々に拾ってやるんだ。平民には過ぎた名誉だと思え」
「思えるか!」
モーブルは首を激しく横へ振った。
「お断りです! わしが得意なのは攻略済みの安全なダンジョン! 即死トラップと高位魔獣がひしめく未踏の死地など、完全なる専門外ですぞ!」
「お前、以前ボクに言ったよな。『坊っちゃんにふさわしい最高の仲間を用意する』と」
「営業トークです! わし自身が命を懸けるとは一言も言っておりません!」
「これは決定事項だ」
「断固拒否です!」
ニーシャの美しい口元へ、悪魔のような笑みが浮かんだ。
「……本当に断っていいのか?」
「な、何ですかな、その顔は」
ニーシャの美しい口元に、悪魔めいた笑みが浮かぶ。
「お前の秘密を知っている人間が、明日からボク一人ではなくなるかもしれない」
「ヒッ……!」
モーブルの心臓が縮み上がった。
彼は、世界から歴史ごと抹消された『レベル師』の末裔である。
その秘密が世間へ知れ渡れば、国家や上級貴族、裏社会までが放っておかない。
能力を利用するため、一生を拘束される可能性すらある。
「あ、悪魔だ……!」
モーブルは頭を抱えた。
未踏ダンジョンへ同行する、致命的な危険。
拒否して秘密を暴かれる、破滅的な危険。
どちらを選んでも地獄である。
「勘違いするな。ボクだって、脅すだけで命を張らせるつもりはない。カタコンベを攻略できた暁には、相応の報酬を与える」
「今まさに脅した口で、よく言いますな。先に申し上げておきますが、財宝の分け前程度では、命を懸けるには足りませんぞ」
「そんな小さな話じゃない」
ニーシャは腕を組み、傲然と顎を上げた。
「いずれボクが父上から爵位を継ぎ、オブライエン伯爵家の当主となった暁には――モーブル商会へ、我が家の正式な後援を与える」
「…………はい?」
モーブルの動きが止まった。
「今、何と?」
「二度も言わせるな。オブライエン伯爵家の名で、お前の商会を庇護してやると言ったんだ」
上級貴族、オブライエン伯爵家。
魔導国の建国以来続く名門であり、王宮の中枢や中央官僚機構、さらには国内の大商会にまで太い人脈を持つ家門である。
その後援を受けられるとなれば、単なる名誉では済まない。
「税や関税の優遇についても、可能な範囲で口を利いてやる。貴族との取引で理不尽な要求を受けたなら、オブライエン家の名を出せばいい」
ニーシャは、それがどれほど破格の申し出なのかも意に介さず続ける。
「お前には商売敵も多いんだろう? 有力貴族が後ろ盾につけば、くだらない妨害に頭を下げる必要もなくなる」
「…………」
モーブルの頭の中で、猛烈な勢いで算盤が弾かれ始めた。
税負担の軽減。
仕入れや輸送における便宜。
上級貴族との取引へ参入するための信用。
権力を盾に無理難題を押しつけてくる貴族や、商売敵からの妨害を退ける後ろ盾。
そのどれもが、金貨を積んだだけでは手に入らないものだ。
(オブライエン伯爵家の正式な庇護……商売上の旨味が大きいどころの話ではない!)
モーブル商会は、すでにカヴェナで名の通った店となっている。
だが、所詮は平民が一代で築いた商会だ。
金はあっても、身分と権力がない。
貴族に睨まれれば頭を下げ、法の隙を突いた嫌がらせを受けても、泣き寝入りせざるを得ない場面は少なくなかった。
だが、オブライエン家の紋章を背負うことができれば、その弱点は一気に埋まる。
しかも、話はそれだけではない。
ニーシャがカタコンベを踏破し、エリザの王配候補として名を上げれば。
そして将来、本当に女帝エリザの王配となれば――。
(王配の後援を受ける御用商人……!)
王宮への物資納入。
国家事業への参入。
国内外の有力商会や大貴族との取引。
モーブルが長年夢見てきた、この国一番の豪商。
それすら、もはや夢物語ではなくなる。
「もちろん、ボクが当主になるまで何も与えないつもりはない」
ニーシャは胸を張った。
「攻略に成功すれば、まず父上へお前の働きを報告する。正式な庇護はボクが爵位を継いだあとになるとしても、オブライエン家との取引口くらいは、その場で用意させる」
「…………」
「どうだ?」
危険は大きい。
未踏のカタコンベは、数多の天才を呑み込んできた死地だ。
どれほど莫大な利益が約束されようと、死ねば意味はない。
だが、ニーシャは前回とは違う。
ダンジョンを分析し、門番への対策を練り、カイルを仲間として連れていこうとしている。
足りない役割を補い、物資と退路を確保し、モーブル自身が知恵と経験を貸せば――勝ち目が皆無とは言い切れない。
(危険は特大。だが、成功したときの利益は、それを上回る)
未踏領域に眠る財宝。
歴史に残る名誉。
名門伯爵家の後援。
そして、将来の王配へ恩を売る機会。
二度と巡ってこない、一世一代の商機である。
震えていたモーブルの腹が、ぴたりと止まった。
「……分かりました」
ゆっくりと立ち上がり、ニーシャを見据える。
「オブライエン伯爵家の後援――その言葉、違えてはなりませんぞ」
「ボクを誰だと思ってる。オブライエン家の者は、一度交わした約束を違えない」
「よろしい」
モーブルの口元へ、不敵な笑みが浮かぶ。
「ならば、この命――坊っちゃんの栄光と、我が商会の未来へ投資させていただきましょう」
ニーシャの顔がぱっと明るくなった。
「ふん。今回だけは、賢明な判断だと褒めてやる」
「――ただし!」
モーブルは太い指を三本立てた。
「わしが命を懸けて同行する以上、これは単なる荷物持ちではありません。立派な共同事業です。ゆえに、三つの条件を呑んでいただきます」
「条件だと?」
「第一に、装備、物資、攻略計画を含めた準備の全権を、わしへ一任すること」
一本目の指を示す。
「第二に、攻略へ同行する仲間は、わしの裁量で選ぶこと」
二本目。
「そして第三に――わしが揃えた準備と人員へ、坊っちゃんは一切文句を言わないこと」
三本目を突きつけ、きっぱりと言い切った。
「以上です」
「……仲間までお前が決めるのか?」
「坊っちゃんとカイルだけでは、攻撃へ偏りすぎておりますからな」
モーブルは、ぬちゃりと悪どい笑みを浮かべた。
「坊っちゃんには主役として前を向き、思う存分魔法を放っていただく。その間、罠を見抜き、傷を治し、物資と退路を守る者たちを、わしが揃えます」
「足手まといは要らないぞ」
「その点はご安心を。荷運び冒険者としての経験と、この街に張り巡らせた人脈。坊っちゃんも、わしが単なる太った守銭奴ではないことくらい、ご存じでしょう?」
「単なる太った守銭奴だと思っていた」
「そこは否定してください!」
ニーシャはしばらく腕を組み、値踏みするようにモーブルを睨んだ。
やがて、不満げに鼻を鳴らす。
「……まあいい。ボクの邪魔をしない者なら、好きに選べ」
「交渉成立ですな!」
モーブルは揉み手をしながら、芝居がかった動作で深く頭を下げた。
「安心してください。坊っちゃんがどれほど文句をつけたくとも、実力だけは認めざるを得ない――とびきりの仲間をご用意してみせますぞ」
その濁った瞳の奥では、すでに攻略の盤面と、その先の商売までが組み上がり始めていた。
未踏の財宝。
名門伯爵家の後援。
そして、国一番の豪商へ至る道。
強欲という名の炎が、モーブルの胸で激しく燃え上がっていた。
◆
嵐のような交渉を終え、ニーシャはマントを翻して店を出ていった。
扉が閉まった途端、店内を張り詰めさせていた緊張が、一気にほどける。
「ふぅぅぅ……」
モーブルは分厚い腹を揺らしながら、肺の底に溜め込んでいた息を吐き出した。
つい先ほどまで守銭奴らしい図太さでニーシャと渡り合っていた背中も、今ばかりはどっと疲れ切って見える。
店の片隅で息を潜めていた二人の少年も、ようやく強張っていた肩の力を抜いた。
「ふぅ……やっと終わりましたね。開店前から、とんでもないことになっちゃいました……」
ラースは胸を撫で下ろしたものの、その表情は晴れなかった。
眉を八の字に下げ、不安そうにモーブルの背中を見つめる。
命の恩人であり、商売の師でもある主人が、生還者はいないと噂される未踏ダンジョンへ向かうことになってしまったのだ。
「未踏のダンジョンなんて……旦那様、本当に大丈夫でしょうか……」
その弱々しい呟きを聞き、隣でモップを握っていたライは、こてりと小さく首を傾げた。
「……うん」
灰色の瞳は、ニーシャが去った扉へ向けられていた。
しかし、その意識はすでに、これから編成される攻略隊へ向いている。
後衛火力を担うニーシャ。
魔剣を操る前衛のカイル。
そこへ治療役と斥候を加え、物資管理と退路の確保をモーブルが担う。
先ほどよりは、遥かにまともな編成になるだろう。
(それでも――足りない)
ライオットはゴールド級冒険者として、数多くの高難易度ダンジョンを見てきた。
未知の領域では、どれほど周到に備えても想定外は起こる。
地図にない分岐。
探知魔法へ反応しない罠。
従来の治療薬が効かない毒や呪詛。
退路を塞ぐ魔物の群れ。
そして、第九層の門番を倒した直後、消耗したところを襲われる可能性もある。
ニーシャは、それを力で切り抜けるだけの素質がある。
だが、モーブルは違う。
彼は賢い。
危険を察する勘も、物資を管理する能力も、野営の技術も一流だ。
長年ダンジョンを生き延びてきた事実が、その有能さを証明している。
けれど、それはあくまで、危険を避けながら生き残るための力だ。
敵に囲まれたとき、自力で突破する戦闘力はない。
高位魔獣の一撃を受ければ、防ぐことも耐えることもできない。
前衛と引き離された瞬間。
退路を断たれた瞬間。
あるいは、誰かを助けるために自ら危険へ踏み込んだ瞬間――。
(モーちゃんは、たぶん死ぬ)
冷静に分析すれば、そういう結論になる。
仲間を増やし、万全の装備を整えたとしても、未踏の深層へ進む以上、モーブルが生還できる可能性は決して高くない。
むしろ、あのお人好しならば、自分だけ逃げられる場面でも誰かを助けようとするだろう。
ライオットは手元のモップの柄を、こつ、と指先で叩いた。
胸に浮かんだのは、呆れでも、責める気持ちでもなかった。
思い出したのは、『慟哭の氷窟』での出来事だった。
味方であるはずの護衛に裏切られ、光も熱もない氷獄の底へ突き落とされた、あの日。
凍てつく暴風が吹き荒れる死地で、非力なポーターにすぎなかったモーブルは、自らの身体を盾にしてライオットを守った。
刺客の刃に肩を抉られ、血を流しながらも、決して抱きしめた腕を緩めなかった。
そして死の淵にあったライオットへ、今にも泣きそうな顔で、温かいスープを飲ませてくれた。
欲深くて、口を開けば損得ばかり。
それでも最後には、勘定を忘れて誰かを助けてしまう。
モーブルがそんな不器用なお人好しであることを、ライはもう知っていた。
氷の彫像のように空っぽだった自分へ、初めて「生きたい」と思わせてくれた人。
あの日にもらった温もりを、ライオットはまだ、何一つ返せていない。
「……ライさん?」
黙り込んだ横顔を、ラースが心配そうに覗き込む。
ライはそこでようやく瞬きをすると、何事もなかったかのように視線を落とした。
「大丈夫」
「え?」
「モーちゃんは、死なない」
ぽつりと零れた言葉は、慰めにしてはあまりに静かで、揺るぎない確信を帯びていた。
ラースはきょとんと目を丸くする。
「ど、どうして、そう言い切れるんですか?」
ライは答えなかった。
ただ、静かにモップを握り直す。
モーブル一人では、生きて帰れないかもしれない。
だが、自分がいれば話は別だ。
無愛想で、ぼんやりしていて、少し天然な新人アルバイト。
傍から見れば、そこにいるのはただの冴えない平民少年にすぎない。
けれど、その胸の内ではすでに、一つの決意が固まっていた。
(今度は、私がモーちゃんを守る)
激しく燃え上がるような決意ではない。
静かで、冷たく、決して揺らがない。
大切な人が死地へ向かうのなら、自分も共に行く。
ライオット・ヴァルディスにとって、それは悩む必要すらない、ごく自然な答えだった。
分厚い黒縁眼鏡の奥。
普段はどこか虚ろな灰色の瞳に、鋭い光が宿る。
A級魔獣すら一撃で屠る、ゴールド級冒険者の眼光が――誰にも気づかれぬまま、静かに瞬いていた。