※この作品はR-18です。

H.L. Noire ~Neology~   作:Marshal. K

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Celine Henry Case #1

 

 一九四七年八月の第一月曜日も、空が青々と晴れ渡るロサンゼルスは暑かった。ハコス・ベールズは、窓を全開にしていてもオーブンの中のようだったタクシーを降りて後席の観音開き(スーサイド)ドアを閉めると、助手席の窓越しに料金を支払った。

 

「お釣りはあげるよ」

「毎度」

 

 汗染みだらけの黄褐色(カーキ)の制服ワイシャツと同じくらい汗臭くて気怠そうな声を残して、運転手が黄色いデソートのタクシーとともに走り去ると、ベールズは振り返って、目の前にそびえ立つ白亜のビルを見上げた。

 ロサンゼルス市庁舎。一九二八年竣工、鉄骨鉄筋コンクリート造のアールデコ様式。地震の多いカリフォルニアでは珍しい、三十二階もの高さをもつ高層ビルだ。南北方向に赤いテラコッタ屋根の十階建て翼棟(ウイング)を持ち、中央塔はその最上部に、イオニア風の柱とピラミッド状の屋根からなる霊廟風の塔屋を戴いている。

 赤い縁取りのあるダークグレーのスーツに身を包み、深紅のネクタイを締め、白い抱鞄(ハンドバッグ)を細い肩紐で肩から提げているベールズは、歩道を横切り、メイン街に面した東側のエントランスから庁舎の地階へ入った。大理石の壁、ヴォールト天井、真鍮とガラスの吊り下げ照明、幾何学模様が描かれた床といったアールデコの粋を集めたホールを抜け、ぴかぴかに磨き上げられた銅張りのドアと真鍮の壁に囲まれたエレベーターに乗り、六階へ上がる。

 竣工当時は最新鋭だった、係員のいない――かわりに疲れた顔の職員たちでぎゅうぎゅうの――自動運転エレベーターを降りると、大理石の案内カウンターや用務員室、休憩室等に囲まれた中央塔のホールを抜け、南棟へ向かう。

 欄間の凹凸ガラスに『ロサンゼルス市警察局』と箔押しされた、大きく開かれた両開きの仕切りドアを抜けると、景色はがらりと変わった。壁はすすけた化粧漆喰で覆われ、床はくすんだ色のリノリウムタイル。実用一点張りの、いかにもお役所らしい廊下を、ベールズは奥へ進んだ。南棟の五階から十階はロサンゼルス市警察の警察本部が占めており、六階には、市役所がある官庁街(シビックセンター)を含むダウンタウン地区を管轄する、中央方面刑事部がオフィスを構えているのだ。

 左右に並ぶ松材と凹凸ガラスの仕切りドアの窓には『風紀・麻薬課(VICE/NARCO)』や『強盗・窃盗課(ROBBERY/BERGLARY)』などの掲示が、剥がれかけの箔押しで出ていたが、ベールズはちらっと目をやっただけで通り過ぎた。上着を脱いでショルダーホルスターと拳銃をむき出しにしている刑事たちや、無帽の内勤巡査たちとすれ違ったが、誰もベールズに声をかけなかったし、彼女のほうからも案内を求めたりしなかった。

 彼女がようやく立ち止まったのは、廊下の一番突き当りだった。そこは小ホールのように少しだけ広くなっていた。タイピスト・プールを兼ねているらしく、数台のデスクでレディース・スーツに身を包んだタイピストたちが仕事をしていた。周辺の壁には書類棚がずらりと立ち並び、外来者用の待合ベンチや、広域手配の通達に用いる印刷電信機(テレプリンター)などが合間合間に配置されている。部屋の隅には、大規模捜査や公開捜査の際に使われる小型の電話交換機が設置されているが、今は使われていないらしく空席で、操作部に毛織のカバーがかけられていた。

 小ホールの周囲の壁には三つのドアがあった。一つは東側の部屋のドアで、『会報室(MEETING ROOM)』と箔押しされている。正面やや東寄りには『ジェームズ・ドネリー警部』の掲示。そして西側には『殺人課(HOMICIDE)』。ベールズは西側のドアに歩み寄り、曇った真鍮のドアノブを捻って、押し開けた。

 その部屋は南北に広く、薄暗かった。縦長の窓は採光性が悪く、天井から吊られた照明の白熱電球は、市の施設課がいつまでたっても交換しないために虫の息で、自分の周りの闇を払うので精いっぱいだ。そして、部屋の天井あたりどころか頭のすぐ上くらいまで揺蕩(たゆた)っている紫煙が、余計に視界を悪化させている。室内には時計のカチカチいう音と、どこか奥の方で、誰かが二本指でタイプライターを打つ音だけが響いていた。

 

「おっ、来たな」

 

 室内をきょろきょろ見回していたベールズに、低い男の声がかけられ、ベールズはそちらに目を向けた。向かいあうように置いた二台の木製デスクの島が三々五々に配置された室内で、デスクの一つに三人の男たちが集まっていた。内の一人、焦げ茶色のスーツに生姜色のネクタイを締めた壮年の黒髪の男が、デスクの端に尻を乗せたままベールズに手を振っている。ベールズがそちらに歩いていくと、指の間に挟んでいた煙草を持ち替えて手を差し出してきた。

 

「おはよう、そしてようこそ殺人課へ、ハコス」

「おはようございます、警部」

 

 ベールズは朝の挨拶を返して、その日から自身の新しい上司となる中央方面刑事部長、ジェームズ・ドネリー警部の手を握った。節くれだった、大きくて固い手だった。ベールズは窃盗課時代についた癖で、警部の人相と服装を素早く品定めした。

 ドネリー警部はその名が示す通り、アイルランド系の人物だった。身長は五フィート四分の三程度。細面で額の広い顔には、優しい父親のようにおおらかな表情を浮かべているが、警察官の職業病としてその目つきは鋭かった。細い顔と、それを強調する黒くて太い眉のせいで痩せぎすに見えるが、体格はいいほうだ。その齢(とし)でお腹周りがあまり出ていないことに、ベールズは密かに感心した。先述の通り焦げ茶色のチェック柄のスーツ上下に生姜色のネクタイを締めており、スーツは少しくたびれているが、ワイシャツは白く清潔で、ズボンはきちんとプレスされている。大きな手には結婚指輪があり、奥さんと、年齢からいって子供も一人か二人はいるはずだが、夫婦仲は悪くないようだ。少なくとも、旦那の服装にきちんと気を配る程度の絆と余裕があるらしい。強いアイルランド訛りの声は低く、やや掠(かす)れ気味で、アイルランドの草原を吹き抜ける風を彷彿とさせた。

 握手を終えると、警部は他の二人――中年と壮年が一人ずつ――にベールズを紹介した。

 

「フロイド、フィンバール、彼女がハコス・ベールズ刑事だ。今日から殺人課勤務になる。ハコス、こっちはフロイド・ローズとフィンバール・“ラスティ”・ギャロウェイ。うちのエースだ」

「よろしく」

 ベールズは短く言い、二人が握手を求めなかったので、軽く会釈するにとどめた。

「噂は聞いてる」

 フロイド・ローズと紹介された中年の刑事がそう言い、ベールズはローズに視線を移した。

 

 ローズ刑事は四十前後だった。がっしりした体格と角ばった顔。鋭い目は髪と同じ黒っぽい茶色。身長は六フィート弱といったところで、警部より二インチほど高い。名前はアイルランド系だが、顔つきはどことなくイタリア風だ。明るいグレーのヘリンボーンの背広に濃紺のズボンを合わせ、水色のボタンダウンのシャツに黒いペイズリー柄のネクタイを締めている。黒いフェルトの中折れ帽には、本物のシルクらしいダークグリーンのリボンが巻いてあった。ぴかぴかの黒い靴は本革らしく、ベールズが見たところではフローシャイムの新作のようだ。ドネリー警部に負けず劣らず固そうな手に指輪はない。いかにもやり手の刑事らしい風貌だが、服装には金がかかっていた。背広とズボンに百五十ドル、帽子に二十ドル、靴に三十ドル、しめて二百ドルはかかるはずだ。月百二十ドル足らずの刑事の給料には不釣り合いであり、当然の帰結としてベールズは、汚職刑事か金持ちのボンボン息子だろうと見当をつけた。

 ベールズが勝手に人を品定めしている間にも、そのローズ刑事の言葉は続いていた。

 

「例の宝石強盗の一味を捕まえたヤツだろう? ブロードウェイ・ハリウッドのネオン塔に、レスラーを磔(はりつけ)にしたんだってな」

「ええ、まあ、はい」

「はっ、謙虚なやつだこと」

 ローズは鼻で嗤い、椅子に座っているラスティ・ギャロウェイと紹介された壮年の男と目を見合わせると、ギャロウェイ刑事も笑い返して後を継いだ。

「全くだ。その謙虚さでよく刑事になれたもんだな、え?」

 ギャロウェイが喋ると、口に銜えている安葉巻の、煙草というよりは焚き火に濡れ雑巾を放り込んだような臭いが、朝の九時だというのにむんむんと漂っている安物のバーボンの、硝酸のような臭いと一緒に襲ってきて、ベールズは思わず顔をしかめた。

 

 ラスティ・ギャロウェイは五十絡みで、おそらくドネリー警部と同年代くらいだと、ベールズは見積もった。体格は大きいが、顎周りの肉付きや腹の大きさから判断するに、元々はローズのように『がっしりした』体つきだったのが、歳とともに筋肉が脂肪に取って代わられてしまったようだ。身長はおそらくローズと同じくらい。顔のパーツは、大きな四角い顔面の中央に集中している。糸のように細い目、四角い鼻、潰れた耳、薄い唇。彫りが深いのも手伝って、冷酷そうに見える顔つきだ。ごついが脂肪がついてぷにぷにし始めている手には、左手の薬指に指輪の痕が見える。着古してへろへろになった、枯芝色のストライプの背広に焦げ茶色のギャバジンのズボンを合わせており、ズボンと同色のレジメンタルのネクタイを締めたワイシャツは汚いクリーム色で、もともとその色なのか、煙草の脂(やに)で黄ばんだものなのか、ベールズは計りかねた。短く刈り込んだ黒っぽい髪の毛の上には、背広と合わせた中折れ帽を被っているが、リボンのデザインや鍔(つば)の曲げ具合は戦前の流行りにあわせたものだ。人工皮革製らしい靴も傷だらけで、最近片方の靴紐が切れたらしく、左右で靴紐の色が少し違った。老いてなお獰猛なブルドッグ、というのが、ベールズがギャロウェイに抱いた印象だった。上から下まで合わせて五十ドル程度の服装であることも、汚職抜きに安月給の巡査時代を耐え抜いた叩き上げ刑事の品質保証マークのようなものだ。

 もっとも、叩き上げの刑事だからといって人格者とは限らない。むしろ人格者の警察官なんて希少品だ。にやにや笑いのギャロウェイ刑事は葉巻を指に挟み、ウィスキー臭混じりの安葉巻の煙をベールズに吹きかけながら続けた。

 

「風紀取締まりをどうやってやり過ごしたんだ? お前みたいな初心(うぶ)っこじゃ、売女(ばいた)を一人引っかけるのも一苦労だろうに。それともあれか? おフェラ豚をしょっ引く代わりに、署長のナニを咥えてやってたのか?」

 

 二人はどっと笑い、警部もにやりとした。

 警察に勤めてもう四年目になるので、ベールズも下品な当て擦りには慣れていた。それでも、就任初日に上司の前で辱められるのは流石に癇に障り、努めて声は抑えつつ言い返した。

 

「そうですね。でも大変でしたよ。ほら、ボクの口は小さいから。お二人はずいぶん“大きい口”をお持ちのようですから、ウォーレル局長にでも試してみたらどうですか? 思ったより簡単に警部補になれると思いますよ」

 

 笑い声が止み、室内に火傷しそうな殺意が満ちた。部屋のどこかから響いていた、たどたどしいタイプライターの音も、ぴたりと止まってしまった。

 紅潮した顔でローズ刑事が何か言いかけ、警部がそれを目で制して言った。「よし、よし、そこまでだ。フロイド、フィンバール、そろそろ自分たちの仕事をしにいけ。ボイルハイツ地区の黒んぼ(ニグロ)殺しの件、あれはどうなったんだ」

「まだ捜査中です。二、三、進展はありましたが」

 ローズがそう返すと、警部は煙草を灰皿に押しつけながら言った。

「今週中に中間報告を出せ。記録係(コールドケーシズ)に回すかどうか、それで判断する。行っていい」

 

 二人が重々しい足音とともに出ていくと、警部はラッキーストライクのパックから二本目の煙草を叩き出し、年季の入ったジッポのシガレットライターで火をつけてから、ベールズに言った。

 

「ハコス、お前にも最初の事件をやろう。婦女殺しだ。コルトン街の、グレンデールとベルモントの間へ行け。そこから先は、巡査が案内してくれる」

「あの、相勤員は? ボクにはつかないんですか?」

 

 警察官は二人一組で行動するのが原則であり、慣例だ。それこそギャロウェイのようなベテランならともかく、ベールズに単独行動が許されることなど、囮捜査などを除けばまずありえないことだった。

 ドネリー警部は、巻紙がちりちりと音を立てるほど強く煙草を吸い、溜め息のように勢いよく吐き出して言った。

 

「お前には森をつける。若いがいい刑事だ。やる気があって、仕事の要領もいい。ただ、あいつが正午までに出勤してきたことは数えるほどしかなくてな」九時過ぎを指している、壁に掛けられた丸い時計を見上げて、警部は再び溜め息を吐いた。「行ってこい。相勤は直接現場へ行かせる。連絡先の交換を忘れるなよ」

 

 

   *

 

 

 ちょうど一年前の真夏のことだった。ハコス・ベールズは薄いピンク色の木綿のワンピースに身を包み、今でも使っている白い抱鞄(ハンドバッグ)を肩から提げて、ハリウッド街道(ブルバード)を歩いていた。土曜日の夜九時の通りは盛況だった。軒を連ねるジャズクラブの輝くネオンサインに彩られた歩道には、着飾った男女が行きかい、レストランやダイナークラブでの夕食の後に、音楽や演劇や映画といったおたのしみを求めてのそぞろ歩きを楽しんでいる。片側三車線の車道は自動車でいっぱいだった。時折、いかしたシボレーやポンティアックが路肩に寄せては、髪を流行りのダックテールに固めた伊達男が身を乗り出して、一人または複数人で連れ立っている女たちに声をかけている。

 ベールズはその中を歩き、車に乗っていたり陳列窓(ディスプレイ)に寄り掛かっていたりする男たちからのお誘いをいなし、時折ジャズクラブのドアマンにその日の出演者や演目(セット)を尋ねたりしていたが、まもなくその日の獲物を見つけた。

 それは褐色の肌を、黒いフリルのついた真珠色のドレスで包んだ女だった。ドレスの裾は長いが胸元は大胆なほどに開いており、女目線でも羨ましい、形のいい柔らかそうな乳房を見せつけていた。『ブルー・ルーム』というジャズクラブの横手に裏通りへと続く路地があり、女はその入り口で煙草を喫いながら、通りを行きかう人々と車を眺めていたのだった。その立ち居振る舞いや目つきから、ベールズは娼婦の特徴を感じ取ったのだ。その直感は間違っていなかったが、しかしそれはベールズにとって大きな失敗となった。

 

「ね、ちょっと」 ベールズはその女に歩み寄り、声をかけた。

「なあに?」

 

 そう応じた声は、どことなく世をひねたような立ち姿に反して、クリームのように甘い声だった。その時になってベールズは、相手の瞳の色が左右で違うことに気づいた。まるでルビーとサファイアを別々に嵌め込んだようで、魅入られるような、人を惹きつける目つきをしていた。

 ベールズは少し戸惑ったものの、二年やった巡査時代の経験と、もう半年に渡って風紀取締員をしている自分の勘を信じて、話を進めた。

 

「ボク――じゃない、私さ、最近彼氏と上手くいってなくて。ちょっとご無沙汰で、さ。その、よければ……」視線を逸らし、ちょっとだけ脚をもじもじさせて、「彼氏も元々そんな――上手じゃなかったし。ちょっと付きあってくれると助かるんだけど……」

 女は目を細めて煙草を吸い、風に流れる銅(あかがね)色の長い髪を鬱陶しそうにさばいてからふうっと紫煙を吐くと、「いいよ」とさらりと言った。

「どこでしたい? あなたの部屋? それとも、二街区(ブロック)南の素敵なホテルがいい?」

「その……できれば、手早く済ませたいかな……」

「じゃ、そこでする?」

 女はそう言って、暗い路地を指し示した。

 

 娼婦の言う『素敵なホテル』というのは大抵の場合、女衒(ピンプ)の息がかかっている木賃宿(フロップハウス)のことを指している。この女衒というのが問題で、時にマフィア関係者だったり、警察関係者だったりすることもあるのだ。そんな場所で取り締まりなんかしようものなら、自宅付近で待ち伏せされて、袋叩きにされてもおかしくない。せっかくパスした刑事試験も合格を取り消されて、記録課の内勤巡査部長みたいな、どう足掻いたって実績を積みようがないポストへ回されることもあり得る。避けるに越したことはない。路地でことに及ぶ提案を向こうからしてくれたのは、ベールズにとって渡りに船だった。

 

「お願いできる……?」

「もちろん。お好きなように」

 

 煙草を路肩の側溝に投げ捨てた女に手を取られて路地へ入りながら、ベールズはしめしめと思っていた。女の風紀取締員による取り締まりの成功率は、男のそれより低い。幸いなことに、ロサンゼルスの娼婦たちの半数以上が、女でも構わず客に取る。両刀使いだから、というわけではなく、単に金になるならなんでもありというだけだ。とはいえ、男に比べると断られることも多く、ベールズも例に漏れず苦戦していたのだった。

 

 

 未舗装の路地は暗く、小便とげろの臭いが漂っていた。女は、「ここじゃ表から見えちゃうから」と言って、ベールズを裏通りまで連れて行った。

 そこは、表通りに軒を連ねるクラブやバーやレストランの裏口が並ぶ、コンクリート舗装の通りだった。街灯はないが、いくつかの店が裏口の防犯のために保安灯を設けているので、路地ほど真っ暗というわけではない。早朝や夕方には、ゴミ収集のパッカー・トラックや様々な業者の配達バン(セダンデリバリー)が一方通行とはいえ通るため、道幅はそれなりに広い。どの店の裏にも、金属製のゴミ缶(ビン)や木製のゴミ容器(ダンプスター)が置かれていて、そこから生ゴミの臭いが漂ってきている。それが、店々の厨房の換気扇から排気されてくる生暖かい料理の匂いと入り混じって、いわく言い難い空気を作り出していた。

 女はベールズに、『ブルー・ルーム』の耐火煉瓦積みの裏壁にもたれるよう言うと、ベールズが勘定の話を持ち出す前に、ワンピースの裾をたくし上げにかかった。

 

「ちょ、ちょっと!」

 ベールズが慌てて制止すると、女は不思議そうな顔をして彼女を見上げた。

「どうしたの? 下着を見られるのが、そんなに恥ずかしい?」

「いや、そうじゃなくて」実際にはそれもあったが、ベールズは必死で釈明した。「お代はどうするのかなって。前金とか取らないの?」

「十ドル貰うけど、全部後払いでいいよ」

 

 それは困る、という言葉がベールズの喉元まで出かかった。大抵の娼婦は、事後のトラブルを避けるために前金を取る。全額前払い制の厚かましいやつもいるが、風紀取締員にとっては、前金は実にありがたかった。というのも、犯罪としての売春はお金のやり取りがあって初めて成立するのだ。建前上、実際に行為に及ぶわけにはいかない以上、前金を受け取ったのをもって逮捕するのが、風紀取締まりの常套手段なのだ。故に、目の前の女がやる気満々で、全額後払いでいいなどと言いだすのは、取締員にとっては困った状況だった。

 といって、以上のような理由を話すわけにもいかず、ベールズはなんとかそれらしい理屈を捻り出した。

 

「ほら、その、お互い後でギスギスするのは嫌でしょ? 先にボクが五ドル払っておけば、後でどうなっても、お互い後腐れが無いと思うんだけど」

 その理屈はしかし、女によっていとも容易く打ち破られた。

「満足できなかったら、タダでも全然構わないよ」

「た、タダ!?」

 それは本当に困る、という感情がありありと顔に出たベールズとは対照的に、女は牙のような八重歯をむき出しにしてにたりと笑い、続けた。「うん、タダ。私ね、普段はここらへんのジャズクラブで、アイリスって名前で歌ってるの。それが本業なんだ。で、そっちがまあまあ儲かってるから、あなたから十ドル貰えなかったからって、別に困りはしないんだよね」

「それは……」

 うっかり『ボクが困るんだ』と続けてしまいそうなベールズを、アイリスと名乗った女は愉しげに眺めてから、トドメの一撃を見舞った。

「そうだよね、困るよね。私がお金を受け取らなかったら、しょっ引けないもんね?」

 

 ベールズは驚きのあまり、声も出なかった。

 実のところ、ちょっと前から彼女の表情を観察していたなら、読心術に長けていなくとも、このくらいの借問は容易に思いつく程度には、ベールズの態度はあからさまだった。その驚きは、傍目には滑稽極まりなかったが、彼女自身は驚愕のあまり、一瞬思考が停止していた。その隙にアイリスは素早くベールズのワンピースの裾をたくし上げ、慣れた手つきで折り込んで、ずり落ちてこないようにした。今やスミレ模様のレース飾りがついた可愛らしいパンティを、人目がないとはいえ公衆の道路で晒してしまっているにも関わらず、ベールズは動くことができなかった。

 

「どうして……」辛うじてそう、愚かな問いを呟けたくらいだった。

 アイリスは、どことなく憐みの混じった目でベールズを見、諭すような口調で答えた。

「私ね、これでもハリウッド署の人たちに結構知られてるの。ベテランの風紀取締員とか、この辺りの巡査とかは、一々私を取り締まろうとしないんだよ。点数にならないから。初心(うぶ)っぽい子が声をかけてきて、タダだと言って困った顔をしたら、それは十中八九、刑事試験に受かったばかりで私のことを知らない見習さんだってわかるわけ。警官じゃなければ、タダだって言われたら困惑こそしても、困りはしないからね」

 

 徐々にショックの波がひいてきたベールズは、自分の今の風体に加えて、売春婦――厳密には違うわけだが――に説教されている自分に気づいて、どんどん恥ずかしくなってきていた。顔も耳も、まるでウォッカを一気飲みでもしたかのように真っ赤になった。

 

 それを見て、アイリスは再び愉しげな笑みを浮かべると、ベールズの両頬を包むようにつかんで言った。「それじゃ、初心な見習刑事さんに、社会勉強をさせてあげる」

 

 そして素早くベールズの唇に自分の唇を重ねた。二度目の驚愕に襲われ、閉じ損ねたベールズの前歯の間から、長くヌメヌメとしたアイリスの舌が押し入り、それ自体が意志を持つ生き物のように、ベールズの舌を絡め取った。

 白い抱鞄が地面に落ち、財布と手錠が半分顔を出したが、ベールズに気がつく余裕はなかった。

 

 

 続く十五分間で、ベールズは様々なことを学んだ。女の躯体(からだ)を悦ばせられるのは、男ではなく同じ女であること。充分な長さと器用さがあれば、舌だけでどれほど多くのことができるのか。そこに指の技巧が加われば、どれほどの快感を生み出せるのか。女の体が、どんなに敏感に快楽を感じられるのか。自分の身体に、自分自身でさえ知らなかった性感帯がどれほど多くあったのか。

 それは『勉強』といって差し支えないかもしれないが、傍から見る分には『蹂躙』という表現のほうがぴったりだっただろう。

 勉強ないし蹂躙の十五分が終わった時、ベールズの足元には、冬場だったら間違いなく湯気が立っていただろう大きな水溜まりが出来上がっていた。アイリスが、その腰を支えていた手を離すと、ベールズは煉瓦の壁をずるずるとつたって崩れ落ちた。ワンピースの裾をたくし上げられ、パンティは足首まで下げられていたから、濡れたコンクリートの地面にじかにお尻を触れることになったが、びくびく痙攣しながら荒い息をつき、餓(かつ)える肺に酸素を送り込むことしかできないでいるベールズにとって、そんなことは些細なことでしかなかった。

 アイリス――器用なことに、口周りと右手以外はほとんど汚れていない――は、比較的きれいな左手で器用にベールズの鞄を探ると、白いハンカチを見つけだした。それで自分の手と口元を拭うと、さらに鞄を漁り、黒革のバッジケースを取り出すとそれを開いて、証票の署名を確認した。

 

「ふーん、ハコス・ベールズっていうんだ。ベーって呼んでいい?」

 

 当然だが、ベールズは答えない。ぜえぜえいう呼吸の音が響くだけだ。アイリスは、バッジケースからベールズの名刺を抜き取って鞄に戻し、名刺は乳房の間に押し込んだ。それから、ドレスの襞の間に隠されたポケットから青い紙切れを取り出すと、鞄の中からベールズの財布と、大学の卒業祝いに贈られたシェーファーの万年筆を見つけ出し、紙切れの裏にサインして財布に入れ、ちゃっかりと十ドル札を一枚抜き取ってから鞄に戻した。

 そしてアイリスは、両膝を立てて大股開きの格好でへたり込んでいるベールズの前にしゃがむと、ハンカチで両脚についているべとべとを綺麗に拭きとってあげた。地面と同じくらいびしょ濡れのパンティを足から外し、どうしたものかと少し思案してから、鞄やポケットに入れて持って帰るわけにもいかないだろう――当然、履いて帰るのは論外だ。臭すぎる――と思い直し、手近のゴミ缶に放り込んだ。そして服の裾を下ろし、脚を閉じて横座りさせると、顎をつかんでじっくりと顔を見た。

 ベールズの顔は、汗、涙、鼻水、よだれといった、そこから出得るあらゆる体液にまみれており、真っ赤に紅潮したその表情は、とろとろに蕩(と)けきっていた。証票に貼り付けてあった、制服姿の肖像写真(ポートレート)の真面目な表情の面影は、一切そこになかった。アイリスは満足気に笑って言った。

「私、水曜の夜はたいてい『ブルー・ルーム』で歌ってるから。他の曜日でもここらへんのドアマンに訊けば、私がどこで歌うかはすぐわかると思うから、いつでも聴きに来て。今度は私の歌声で、あなたを天国に行かせてあげる」

 立ち上がると、すっかり生臭くなったベールズのハンカチを持ったまま、「これは今度、洗濯して返すね」と言い残してコンクリートの階段を登り、『ブルー・ルーム』の裏口へ消えていった。

 

 ベールズはそのあともしばらく立ち上がれなかった。もしも酔っ払いやならず者が通りかかったら、抵抗もできずに犯されてしまってもおかしくない状況だったが、誰も通りかからなかった。一度だけ、はす向かいの店から厨房の雑用係が出てきて、生ゴミの入った袋をゴミ缶に入れたが、ベールズには目もくれず、気づきもせずに厨房へ戻っていった。

 そのゴミ缶のがちゃんという音で、ベールズはようやく正気に返ったのだった。生まれたての子鹿のように震える足を叱咤して裏通りを歩き、北の路地からハリウッド街道の反対側のカルロス街に出ると、ブロンソン街との角にある電話ボックスまでなんとか歩き、タクシーを呼んで家に帰った。下着もなく、体液の臭いをぷんぷんさせている状態では、もう取り締まりどころではなかった。タクシーに乗ることさえ恥ずかしくはあったが、ダウンタウンまで徒歩で帰れる自信はなかった。幸いにも真夏だったために、タクシーは窓も換気装置(ベンチレーター)も全開にしていて、運転手が臭いを気にしているような様子はなかった。ベールズは人生で唯一この日だけ、タクシーに車載冷房が備わっていないことに感謝した。

 

 

   *

 

 

「お客さん、着きましたよ」

 

 運転手のその声で、ベールズははっと我に返った。郡裁判所庁舎(ホール・オブ・ジャスティス)の北にあるタクシー溜まりで拾ったタクシーは、グレンデール街道(ブルバード)とコルトン街の角から西に少し入ったところで、路肩に寄って停まっていた。ベールズは口の端から垂れていたよだれを手の甲で拭い、運転手に訊いた。

 

「いくら?」

「五十セントです」

 

 ベールズは一ドル札で支払い、わざとらしく細かい小銭で差し出されたお釣りから十セント玉だけ残して受け取り、タクシーを降りた。

 コルトン街をベルモント街へ向かって少し歩くと、ある靴屋の横手の、街区(ブロック)の奥へ続く砂利道の入口に、白黒のフォード警邏車が一台停まっていて、制服巡査が三人、そのそばで煙草を喫っているのが見えた。ベールズはそこへ歩み寄り、バッジケースを取り出しながら声をかけた。

 

「ハコス刑事、殺人課(ホミサイド)」巡査たちにバッジを見せ、「一八七(コロシ)があったって聞いてきたんだけど、現場は?」

「この奥の、丘の上です」

「わかった、ありがとう」

 

 靴屋の裏手は空き地になっていて、そのあたりの商店の店主や従業員たちのものらしい自動車が何台か停まっていた。慎ましいフォードやシボレー、中古のオールズモビルやマーキュリーなどが並んでいる。空き地の更に北は、未開発の荒地だった。南北をコルトン街とテンプル街、東西をグレンデール街道とベルモント街に挟まれたこの街区には、少しでも空いている土地を片っ端から整地して、家を建てて切り売りする最近の宅建ブームの手が、まだ伸びて来ていないらしい。

 街区のおおむね中心に丘があり、なんとかそれとわかる小道を辿って登ると、そのてっぺんはちょっとした公園のようになっており、そこが現場だった。どこか別に自動車が通れるような道があるのだろう、青い木製の現場保存バリケードが並ぶ周辺には、さらに二台の警邏車と、赤と白のキャデラック・リムジンの改造救急車、黒一色のシボレーのセダンデリバリー(ライトバン)などがぎっしりと停まっていた。バリケードのところには四角い顔つきの制服巡査が立ちはだかっており、その周りに一目で新聞記者とわかるスーツ姿の男たちが群がっている。うちの何人かは『スピードグラフィック』の速写カメラを手にしており、時折ストロボが激しく瞬いて、巡査の顔に制帽の庇の影を落としていた。

 

 記者の一人が振り返り、丘を登ってきたベールズを見つけて声を上げた。「あっ、おい! ハコス刑事だ!」

 

 次の瞬間には、巡査に代わってベールズが記者たちに取り囲まれていた。手帳を持った手が突き出され、次から次へと質問が飛んでくる。

 

「人狼(ウェアウルフ)の特徴があるって話ですが、ダリア殺しと関連があると思いますか!?」

「人狼の模倣犯とされる殺人事件が増えていますが、それについて一言!」

「ノーコメント。ノーコメントだって」足を緩めずに歩きながら、ベールズは答える。「いま着いたばっかりなの、見てわからない? ノーコメント。正午に警部が会見するから、それを待って」

 

 バリケードの前に辿り着くまでの間に、記者たちは一人二人と剥がれていって、最後まで残っていたのは一人だけになった。黄色っぽい金髪の女で、グレーの真麻のシャネル風レディース・スーツ――あくまで『風(スタイル)』であり、安物だ――を着込み、鍔(つば)の広い白い帽子を被っていて、その帽子の青いリボンに『PRESS』と書かれた報道員証を挟んでいる。

 

「なあベー、イグザミナーにスクープをくれない? あたしとベーのよしみでさ」

「だめだって、ポルカ」ベールズは溜め息交じりに応じて続けた。「着いたばかりでまだ何もわかんないんだよ。記者相手に何か言うわけにはいかないよ」

「ちぇー」ポルカと呼ばれた記者はわざとらしく肩を落とすと、去りしなにベールズに指を向けながら言った。「情報提供、いつでもお待ちしてますよ。便利使いできる記者が一人くらいいたほうが、ベーにもお得だと思うよ?」

「別にそんなことは――」

 

 その時にはすでに、ポルカは社用車らしいクリーム色のシボレーへ立ち去っていた。ベールズは鼻からふうっと息を吐くと、立番の巡査に向き直って訊いた。

 

「ハコス、殺人課(ホミサイド)。初動を執った巡査は誰?」

「フーリハン巡査です。奥にいます」

 

 バリケードの奥は、近所の有志が整備したらしい小さな公園になっていた。灌木の茂みのそばに簡素な木のベンチが二つあり、奥の木には古いトラック用タイヤを吊るしたぶらんこがある。手前のベンチのそばに制服巡査が三人集まって立ち話をしていた。ベールズはそこに歩み寄り、声をかけた。

 

「フーリハン巡査は?」

「自分です」

 

 奥にいた一人が敬礼してそう答えた。垂れ気味の目に赤い頬という、幼く見える出でたちだ。しかし黒い目のもつ鋭さは、彼が間違いなく警察官であることを示している。

 

「通報者は誰?」

「それも自分です。警邏中に発見したんです」

「じゃあ、ここが受持区なんだね?」

「そうです、その一部です」ベールズが目で先を促し、フーリハンは続けた。「見ての通り、ここは児童公園みたいなものですが、夜の間はちょっと治安が悪いんですよ。この辺りは商業地区で、夜はすっかりひと気が絶えちまうもんですから。カップルが逢引に使ったり、ホモ連中が徘徊したりとか。そいつら目当てにガラの悪い連中が引き寄せられたりとかね。それで、ま、ちょっとしたいざこざは時折ありましたが……」

 

 フーリハン巡査は声を途切れさせ、公園の中央に目をやった。そのあたりはロープで囲われており、濃い緑色の毛布を掛けられたものが見える。

 

「こんな――こんなことは初めてです」

「遺体には誰も触ってないよね? 記者がずいぶん来てたみたいだけど」

「はい。応援は街頭電話(ゲームウェル)で呼んだんですが、連中は帯域の広いカーラジオを積んでるでしょ? KGPLの指令を聞いて、ハゲタカみたいに集まってきたんですよ。運よく無線車が近くにいたんで、あいつらが来るより先に現場を封鎖できましたが」

「地取り捜査は?」

「応援の連中が行ってます」

 下でたむろしていた巡査たちのことだろう、とベールズは思った。

「君も行って、様子を見てきて」

「了解」

 

 フーリハンと二人の巡査が立ち去ってしまうと、ベールズは張り渡されたロープをまたぎ、狭い安アパートメントの寝室くらいの広さの現場に入った。

「おはよう、ベー」

 

 落ち着いた優し気な声でそう挨拶してきたのは、ベールズの顔なじみでロサンゼルス郡検屍官を務めるセレス・ファウナだった。実用性を重視した頑丈そのものな緑色のツイードの背広の上から、どっしりとした白衣を羽織っている。

 

「おはようファウナ。どんな感じ?」

「被害者? 白人女性、たぶん四十代。殴られて、切りつけられて、ここに捨てられた。そんな感じ。見る?」

「お願い」

 

 ファウナがしゃがみ込み、検屍局章が刺繍されたダークグリーンの毛布を恭しく取りのけた。

 毛布の下から現れたのは、痛々しいまでに汚損された遺体だった。真夏のロサンゼルスの気温は華氏八十度を超える。遺体はすでに傷みはじめていて、ファウナが毛布をどけたことでその臭いがむっと立ち上がったが、ベールズが顔をしかめたのは臭いのためではなかった。遺体は全裸で、なにか鋭利なもので切りつけられたような傷と、重いもので殴られたような痣と、口紅で書かれたと思しき真っ赤な落書きで全身が覆われていたのだった。ベールズは言葉に詰まり、半ば助けを求めるような顔でファウナを見た。

 

「直腸温から推定される死亡時刻は、早くても真夜中過ぎ、遅くても夜の二時ごろ」

 

 ファウナは淡々と言った。情がないというわけではない。むしろファウナは、生きている人間にも死んでいる人間にも、分け隔てない慈愛を注ぐことで、つとに有名だった。しかし、犯罪捜査の場で情に流されることがないくらいには、この仕事に通じてもいた。

 

「断言はまだ避けるけれど、目視の限りでは、死因は鈍的外傷ね」

「鈍的外傷――重いもので殴られて、ってことだよね?」

「その通り」

「凶器はわかる?」

「現場にはないわ。そして解剖するまでは、どんなものでも凶器の可能性がある。野球のバット、角材、ボックスレンチ、革棍棒(ブラックジャック)。ムキムキ人間の拳や膝って可能性もね」

「これは遺棄だよね? 殺害現場はここじゃないでしょ?」

「おそらく。切創は全て死後につけられたものだけど、死蝋化させてあるわけじゃないし、これだけ切り刻めばかなりの量の血が流れたはずよ。吐血の痕跡があるし、舌も半分噛み切っていたし。いまこの現場にある血痕じゃ、とても足りないと思う」

 

 最初のショックが治まり、ベールズは遺体をじっくりと観察した。

 死後十時間程度しか経っていないからか、遺体は比較的よく人間の形を保っていた。身体中のあらゆるところに、痣か傷か口紅があるために、肌の色を見分けるのが困難だったが、黒みがかった薄い紫色に変色し始めているようだ。これはファウナの死亡時刻推定を裏づけている。もつれ気味の金髪は頭の後ろでぐしゃぐしゃにまとめられていた。右目の周りに大きな青痣ができている。両頬は腫れあがり、死後の凝固で黒ずんでいた。胴体にもカラフルな――そして一様に黒ずんだ――打ち身が多数あり、さらに黒っぽい靴の痕がいくつも残されている。腹といわず胸といわず、とにかく踏みつけた感じの乱雑な足痕だ。強く衝動的な暴力性が窺える。両手首と両足首には、なにかひも状のもので縛られていたらしい痕跡も残っていた。

 右手を確認したベールズはぎょっとした。五指全てが関節のところであらぬ方向に曲がってしまっているのだ。ベールズは顔を上げ、ファウナに訊いた。

 

「拷問?」

「かもね。それは生前に行われているから。指先もよく見て」

「……爪がない」

 

 右手の爪は全て剥がされていた。

 左手を確認すると、こちらは一見無事なようだったが、「爪の先をよく見て」とファウナに促され、ベールズは左手五指の爪が赤黒く染まっていることに気づいた。

 

「爪の下に薄くて鋭利なもの――針とかナイフの刃とか――を差し込むと、そんな感じになるわ。とても痛かったはずよ」

「舌を噛み切るくらいに?」

「ええ」

「左手の中指のこれは?」

 左手の中指は、第二関節から下の部分が肉ごと剥ぎ取られ、白い骨が露出していた。

「たぶんだけど、指輪か何かを切り取ったんだと思う。長年同じ場所に嵌まっている指輪を死後に除去しようとすると、私も同じような処置をすることがあるから」

「指輪か……」

 

 薬指には指輪も、その痕もなかった。独身らしい。

 胴体の真ん中には、口紅で大きな文字が手書きされていた。

 

「“FUCK YOU BD”、それに“TEX”か……ファウナ、なにか思い当たること、ない?」

「全然」肩をすくめて見せて、「BD、ブラック・ダリアとか? でも彼女、テキサス出身じゃなかったでしょ?」

「この女(ひと)がそうなのかも。わからないけど」

 下腹部には口紅で卑猥な記号が描かれていた。

「性的暴行の痕跡は?」

「目視の限りでは、無し」

 両足の見分――膝がなにかで叩き潰されていた――を終えたベールズは、立ち上がってファウナに訊いた。

「ダリアの事件ってさ、たしか新聞で報道されたんだよね。落書きのことも」

「ええ。ロサンゼルスの新聞を読んでいれば、人狼の犯行を完全に再現――被害者がエリザベス・ショートではないという点を除けば――するのは、そう難しくないわ」

 

 ベールズは溜め息を吐いて被害者を見下ろした。これはブラック・ダリアの完全な再現とは言えない。というのもベッティ・ショートの遺体は死蝋化された上で、腰のところで両断されていたからだ。一方こちらの被害者は、拷問された上で死んでいるという点を除けば五体満足だ。

 

「それに、ショートは拷問されたわけじゃなかったんだよね。手の指を折ったりとか爪を剥いだりとかは、されてなかったんでしょ?」

「ええ」

「わかった。もう運び出していいよ」

 

 模倣犯が独創的な方向に走ったのかもしれない。あるいは、人狼ことダリア殺しの犯人が新しいことに挑戦しようとしているのか。

 現場を見回すと、別の毛布が目に入った。地面に敷かれていて、その上に抱鞄(ハンドバッグ)と、様々な品物が几帳面に並べて置かれている。遺体とその毛布の間に黄色い鑑識標識があり、近寄ってみると一対のタイヤ痕があった。

 

「ファウナ! このタイヤ痕は?」

「ああそれ。それはファイアーストーンの市販品のタイヤの痕よ。乗用車用の」

「ああ、つまり、アメリカ中にごまんと流通してるってこと?」

「そういうこと」

 

 つまり、絞り込みの役には立たないということだ。もちろん、アメリカにある全ての自動車がファイヤーストーンのタイヤを履いているわけでもないから、手掛かりには違いない。

 ベールズはタイヤ痕をまたいで毛布のところへと向い、抱鞄を手に取った。

 その鞄は、一見すると駝鳥革(オーストリッチ)のように見え、グッチのタグが誇らしげについている。しかし駝鳥革に見える表面は、よくよく見れば人工皮革をそれっぽく加工したものだ。駝鳥革よりも固いし、粗雑な加工のために、表面にひび割れが走っている。ぴかぴかの金色の口金も、薄い金メッキがあちこちで剥がれて、曇った真鍮の地金が見え隠れしていた。内側を覗き込めば、鞄としての縫製もかなり甘いことがわかる。なんならタグの刺繍も、『グッチ(GUCCI)』が『グッキ(GUCCHI)』になってしまっていた。これはわざとかもしれないが。ベールズは十ドルそこそこの偽物だろうと判断したが、香具師(やし)やペテン師のたぐいが、『本物のグッチ(グッキに限りになく近い発音で)製品を、今ならあなたにだけ、最大お値引き価格二十四ドル九十九セントで!』などとやっていることもあるので、持ち主がこの鞄にいくら払ったのかはわからない。

 鞄の中は空っぽで、毛布にずらずらと並べられている品物が、元々鞄の内容物だったものらしかった。

 

「ブックマッチがやたら多いくらいで、特に変なものはないかな……」

 

 そう呟きつつ、ベールズは中身を一つ一つ品定めした。鞄は底が深いものだったので、並べられている内容物も多かった。

 金張りの手鏡付きパウダーケース。持ち手が綺麗なピンク色のエナメル塗りの爪やすりと、小さな糸切りハサミ。カーマインレッドの口紅――十九世紀に流行った濃い赤色の口紅をリバイバルしたものだ――は新品で、遺体に散々落書きした後には見えない。白いハンカチは本物の絹で手触りがよく、金糸の縁取りも美しい。

 財布や紙幣クリップ、小銭入れ、小切手帳などは見当たらなかったが、なにかの釣り銭をじかにつっこんだらしい二十五セント銀貨が二枚あった。鍵束には九本の鍵がついていた。内の三本は小さなリングで一纏めにされており、一番大きい一本にポンティアックの刻印があることから、その三本は車絡みだとベールズにはわかった。戦前までの自動車は一部の高級車を除いて、始動キー、ドアロックのキー、トランクのキーなどが別々になっていることがほとんどなのだ。残る鍵は家の鍵らしい、とベールズは見積もった。玄関の鍵と裏口の鍵、ガレージドアの鍵。残りの小さい鍵たちは、家の中にある鍵のかかる戸棚や抽斗のものだろう。チェスターフィールドのパックが二箱あり、片方はまだセロファン包装に包まれていた。開封済みのほうも、中身は四本しかなくなっていない。あまり煙草を喫わないのか、どちらも買ったばかりなのか。シガレットライターは銀色で、『C・H』と刻印がある。銀張りのジッポに見えるが、おそらくニッケルメッキであって銀ではないだろう――ぴかぴかすぎる――し、どうやら本物のジッポでもないようだった。戦時中に流通していた模造品の一つのようだ。ダウンタウンのナイトクラブのブックマッチが、なぜか半ダースもあり、内の一冊が四本だけ使われている以外は新品同然だった。パーカーの万年筆は本物のようだが、ペン先は純正品ではない真鍮製の安物に取り換えてあった。小さな模造革装丁の手帳があり、ベールズはそれをぱらぱらめくってみたが、買い物の予定やちょっとした約束のメモくらいで大したものはなかった。おそらくその手帳用だろう、ちびた鉛筆も一本入っていた。

 あとはゴム紐で丸く束ねたナプキンが一束と、アルミ包装されたタンポンと、いくつかの小瓶。ラベルのない茶色い瓶は空で、ベールズが栓を抜いて嗅いでみると、ウィスキーの匂いが鼻を刺した。もう一つのラベルのない瓶は緑色で液体が入っており、こちらからはリゾール消毒液の匂いがした。あとの二本はラベルがあり、書かれている通りのものが入っているようだった。アスピリンとミント飴。

 ベールズは偽物のジッポを手に取ると、きんっとリッドを撥ね上げ、フリントを回した。手応えが軽く、火はつかなかった。振ってみると、オイルはしっかり入っているらしく油面の揺れ動く音が微かにした。

 

 

   *

 

 

 救急医と救急車運転手が遺体を台車に載せ、救急車のほうへと運んでいく音は聞こえていたが、聞覚えのない声が「おい、待て」と言って彼らを止めるのが聞こえ、ベールズは振り返った。黒ずくめのスーツを着込んだ長身の女が、白いリネンをめくって遺体を検めている。救急医たちに抵抗する素振りはなく、警察関係者だとすぐにわかった。

 ベールズは偽物ジッポを毛布の上に戻し、そちらに歩いていった。

 

「森刑事?」

 女はベールズのほうをちらっと見、「ああ」とだけ短く答えた。リネンを丁寧に戻し、救急医たちに「行っていい」と告げると、ベールズに向き直った。

「カリオペだ。森カリオペ」

「ボクはベールズ。ハコス・ベールズ」

「警部から聞いてる。お前のお守りをしろってな」

 

 カリオペと名乗った刑事はそう言いながら、ラッキーストライクのパックから煙草を一本抜き出し、親指の爪に軽くうちつけて喫い口を空けた。ベールズは、カリオペがロンソンのシガレットライターで煙草に火をつける間に、その人着を検めた。

 カリオペの肌はとんでもなく白かった。白人ではあるが、その基準からいってさえ白い。大理石のようなとか、蝋人形のようなとか形容されるような、浮世離れした白さがあった。前髪と、腰まで届く長い後ろ髪は、どちらも毛先がきれいに切りそろえてある。その髪も白っぽかったが、わずかにピンクがかっていた。瞳は暗い赤だ。全体的にいわゆるアルビノの傾向が散見される外見とは裏腹に、服装はほとんど黒一色だった。スーツ上下、シャツ、中折れ帽、そして靴が黒で、細身のネクタイと帽子のリボンだけが、本物のシルクの光沢をもつ輝くような白だ。顔や手の透き通るような白とあわせて、全体でバランスのとれたツートンになっている。服装という点においては、カリオペはローズ刑事の仲間だった。明らかに誂えものとわかるスーツ、最新の流行にあわせたスタイルの中折れ帽、ぴかぴかのウィングチップの革靴。二百ドル、ともすると二百五十ドルはしかねないコーディネートだ。相勤員が汚職刑事かどうか、慎重に見極める必要がある。ベールズはそうひとり決めした。

 カリオペは、ベールズから不躾な視線を感じつつも、わざとゆっくり一服してベールズに時間をやってから訊いた。

 

「それで、どうだった新人君(ブライト・ペニー)。あっちの遺留品から、なにか手掛かりになりそうなものは見つかったか?」

「まあね」

 

 当て擦り――今朝がた市庁舎で喰らったものに比べれば、なんてことはない――を受け流しながら、ベールズもキャメルを一本銜えて火をつけると、遺体の状況と鞄の中身をかいつまんで説明した。死因は鈍的外傷であり、拷問のような暴行も見られること。死亡時刻は真夜中頃であること。人狼本人ないし模倣犯の特徴があること。身許のわかるものがないこと。ライターの石が切れていて、ナイトクラブからブックマッチを失敬してきていること。

 

「さしあたりはその、ダウンタウンの『バンバ・クラブ』ってところから始めようと思うんだけど」

「『バンバ・クラブ』だと?」

「知ってるの?」

「ああ」カリオペは、煙草をもう一服してから続けた。「アリソ街にあるナイトクラブだ。南部から来た男がやってる。連邦裁判所の向かいの、スプリング街との角だよ」

「行ったことがあるの?」

「何度かな。役所から近いだろ」

「案内してくれる?」

 カリオペは『やれやれ』とばかりに肩をすくめ、ちびた煙草を丁寧に揉み消して、鰐革(クロコダイル)の煙草入れにしまいこみながら言った。「ご自由にどうぞ。ただ、無駄足だと思うぞ」

「なんで?」

「バンバは正午まで閉まってる。まだ昼前だ」

 ベールズはスーツの袖をまくって、タイメックスの腕時計を確認した。午前十一時過ぎ。

「この時間なら、開店前の準備とかで誰かしらいるでしょ?」

「かもな。だがナイトクラブの従業員って連中は、たいてい早番と遅番に分かれてる。昨日の夜に勤めてたやつらは、八時ごろまで出てこないと思うぞ」

「ま、とりあえず行ってみよう」勇み足かもしれない、とは自覚しつつも、ベールズは煙草を落とし、足で踏み消しながら続けた。「いまのところ、他は行き止まりだしね」

 

 カリオペは溜息を吐き、手振りでついて来いと言って、現場保存バリケードのほうへ歩きだした。

 

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