H.L. Noire ~Neology~ 作:Marshal. K
一番街をダウンタウンへと戻る車内で、ベールズとカリオペはお互いの名刺を交換した。カリオペの自動車は黒と赤のツートンのハドソン・ホーネットだった。色といい車種といい、
「ボクはあの、ベル電話が新しくやってる
「わかった」カリオペは、まずそう答えてから一拍置いて、「で、緊急の時はどこにかければいいんだ?」
「急ぎだって言ってくれればいい。ベルがボクのところに電話して、知らせてくれるから」
「そうじゃない」
カリオペはそれ以上言わず、ベールズも答えなかったので、車内には重苦しい沈黙が下りた。我慢比べの様相を呈してくると、カリオペはフィゲロア街とフラワー街の間で車を路肩に寄せ、エンジンを切って腕を組んだ。ベールズは溜め息を吐いて負けを認めた。
「名刺、返して」
自分の名刺を受け取ると、手帳用の鉛筆で名刺の裏に電話番号を書き、カリオペに渡した。
「ホントに緊急の時以外は使わないで」
「なるほど、ふん」
カリオペはその
「噂って?」
「お前があの、アイリスって女と同棲してるって噂だよ」
「……誰がそんな噂を?」
なんとかシートから飛び上がらずにすんだベールズがそう訊くと、カリオペは憐みと嘲笑がない交ぜになった視線を、ベールズにちらりと向けてから答えた。
「みんなさ。あのな、あの女は有名なんだよ。特にハリウッド署の連中にはな」運転しながら器用に煙草を銜え、ロンソンで火をつけてカリオペは続けた。「ジャズクラブってところには、背伸びをしたいガキがちょくちょく来るんだよ。高校の四年生とか、学士課程の一年生とか、それくらいのやつらが。で、アイリスのやつは、クラブのロビーやホールでそんなガキを漁っちゃ、主導権が自分にあるように思いこませてそのまま自宅に連れ帰り、手ほどきをしてやってたんだ。高校の男子更衣室で神話めいて語られる猥談がいかに嘘っぱちか、身体で教え込んでやるわけだな。同じようなやりくちで、新人刑事を食っちまったりもする。男でも女でも構わずに、ぺろっとな」
カリオペは紫煙をフロントガラスに吹きつけ、話を続けた。煙は
「そのアイリスが、去年の夏からすっかり大人しくなっちまった。童貞漁りをすっぱりやめて、出番が終わったらとっとと帰るようになった。しかもだ、今年に入ってからはそれまで表につけさせてたタクシーを裏で待たせて、裏口から帰るようになった。いったいどういう心変わりなんだってな。かと思うと、お前が『ブルー・ルーム』に現れるようになった。それも頻繁に。確かにお前がハリウッド方面窃盗課に配置されてからだから、そうおかしくはない。だが、ダウンタウンに住んでてバスで通勤してくるお前が、帰りはバスでもタクシーでもなく徒歩だってのは、みんな不思議に思ってたんだ。
「で、ある日徒歩警邏員の巡査が見ちまったのさ。お前がハリウッドとブロンソンの角でタクシーに乗るのを。それも、アイリスが乗ってるタクシーにだ。別の刑事は仕事でサンセット
ベールズは顔を覆っていたが、耳まで真っ赤になっているのは隠し切れなかった。やがて、蚊の鳴くような声でカリオペに訊いた。
「どれくらい広まってるの、その……噂は」
「ハリウッド方面の連中は、制服も私服もみんな知ってる。誰もお前に言わなかっただけでな。で、警官ってのは噂好きだろ? 方面をまたいで仕事するときとか、異動するときとか、一杯やるときとかに、身内相手にはこういう噂話をするわけだ。すると――」
「市警じゅう全員が知ってるってわけ?」
「たぶん、そうだろうな」
「オーケイ」
ベールズは頭を抱えたい気分だった。しかし、こうも広まってしまったのなら、もはやどうにもならない。諦めるしかない。気を落ち着かせるためにベールズも一服つけることにしたが、動揺のあまり喫い口を空け忘れていて、火を吸いつけようとするとタバコ葉が口にこぼれてしまった。慌ててハンカチの中にタバコを吐き出すベールズを見て、カリオペはハンドルを叩きながらげらげら笑った。
ベールズがなんとか煙草に火をつけおおせると、カリオペはまだ笑いの残る声で訊いた。「それで、どう思う」
「どうって?」
「事件だよ。新米殺人捜査員がどうお考えなのか、聞いてみたくなってな」
「テストみたいなもの?」
「そう思いたいなら、それでもいいぞ」
ベールズは鼻白んだように鼻を鳴らすと、煙草を一服してから答えた。「まだわかんないよ。いろんな可能性が考えられるでしょ? 一番蓋然性が高いのは、いま流行りの
「どうかな。私はそうは思わない」
「なんで?」
「考えてみろ。ダリアが殺されて、もう半年がたつ。その間にどれだけの警官が捜査に投入された? 市警だけじゃなくて、保安官も州警察も人を出したし、
「じゃ、模倣犯で間違いないって考えてるんだね?」
「間違いなく、な」
*
スプリング街
バンバ・クラブは、そんな連邦裁判所庁舎のすぐ足下にあった。クリーム色の化粧漆喰に、スペインの宮殿の回廊にある柱を思わせるような
店がスペイン植民地様式なのは表構えだけで、裏はコンクリートと耐火煉瓦と漆喰だった。申し訳程度に棕櫚の木が植えてあるが、それもどちらかといえば表から見えるように配されているものだ。私道を抜けた裏手には、コンクリート舗装の駐車場が整備されていた。昨晩の客が置いていったらしい自動車がちらほらと停まっているほか、奥の方には従業員のものらしい車が固めて停めてあった。カリオペはそれを見て、「最初からここに停めておけばよかったな」と腹立たしげに言った。駐車場所を探して、この街区の周辺を散々ぐるぐる回った後だったのだ。
悪臭を放つ、緑色のペンキが剥げかけた木製の
「悪いな嬢ちゃん方」藪睨みの目で交互に二人を見ながら、「うちは昼までやってないんだ。表で待っててくれ」
ひどいイタリア訛りでそう言って、ドアを閉めようとしたが、それより先にベールズがドアとドア枠の間に足を挟みこんで止めた。
「ハコス刑事と森刑事、
「なんだってんだよ、忙しいのに」
そう言いつつコック帽の男はドアを開け、ベールズは足を引っ込めた。
「言っとくが、うちは違法なことはなんもしてねえからな。どんなタレコミがあったのか知らんが、でたらめだ」
「そういうことじゃない。ボクたちは殺人課なんだよ、風紀課じゃなくて。ウェストレイクで身許不明の遺体が出たんだけど、どうも昨晩、ここで呑んでたみたいなんだ。それで、誰かから話を聴けないかと思って」
コックは鼻を鳴らした。「それなら、あんたがたは運がいいよ。本当なら、昨晩のことを話せるような連中は夜の六時頃までいねえんだがよ。昨日の遅番のバーテンがいま、裏で寝てるんだ。客から貰いすぎちまったとかでさ」
「彼から話を聴ける?」
「叩き起こしてこよう。どのみちそろそろ帰ってくれねえと、こっちも邪魔なんでね」
そう言って、コックは二人を厨房へ招じ入れた。青いタイル張りの床、銀色や銅色や、鉄の黒色の調理器具。何十枚もの皿。吹き出す蒸気。炒め物をするじゅうじゅういう音と、フライパンをがんがん叩く音。イタリア語ないしイタリア訛りの英語で叫びあう調理員たち。様々なスープやソースの混じりあった、腹の虫を刺激する匂い。三人はそのただ中を抜けて、小さな廊下に入った。床は擦り切れた絨毯敷きで、壁は鏡板張りにみえるが、それらしいデザインの壁紙が貼ってあるだけのようだ。コックは『支配人』と箔押しされたドアを開けると無人の室内を指し示し、「ここで待っててくれ」と言って、厨房の方へ戻っていった。
支配人室は狭く、縦長の上げ下げ窓が一つあるきりで薄暗かった。安物のマホガニーの両袖デスクの向こうに、革張りのようにみえる執務椅子が一脚あり、手前側には座り心地の悪そうな木製の椅子が二脚ある。いずれも安物の書類棚やサイドボードが、壁のむき出しの耐火煉瓦を隠すように並んでいて、サイドボードの上には酒瓶とグラスがいくつか置かれていた。カリオペはその瓶を興味深そうに眺めていたが、やがてアーリー・タイムズを選んでグラスになみなみと注ぐと、満足気に長々と一口飲んだ。それからデスクを回り込んで執務椅子に腰を下ろし、デスクに足を上げ、ロイ・タンの白い包みを破って緑がかった安葉巻を銜えた。
「お前も一本つけるか?」
「いや、ボクはいい」
ベールズが辞退すると、カリオペはふんと鼻を鳴らし、ロンソンで葉巻を吸いつけた。
カリオペが葉巻をすぱすぱやり始めてまもなく、支配人室のドアが開いて男が一人、入ってきた。
「ええと、どうも?」
支配人のデスクを我が物顔で占領し、支配人の酒を勝手にやっているカリオペを見て困惑したようにそう言ったのは、三十代半ばくらいの男だった。客用椅子の一つの背もたれに尻を乗せていたベールズは、男にバッジを見せて言った。
「ハコス刑事、
「ええ、そうです。シェフのトニーからここで昨晩のお客について、刑事さん方の質問に答えろと言われまして」
「ま、座ってよ」
バーテンダーがもう一つの客用椅子に腰を下ろすあいだに、ベールズはその容姿をしげしげと観察した。
その男はやや日
バーテンダーは椅子に腰を下ろすと、あけっぴろげな笑顔を浮かべた。そんな表情を浮かべるのは、見ての通りのお人好しか、あるいはそう思われたい詐欺師のどちらであり、バーテンダーという連中は大抵の場合後者だとベールズは知っていたので、軽々に胸襟を開くような真似はしなかった。
「それで、何からお答えしましょう?」
「まずは、君の名前から」
「ギャレットです。ギャレット・メイソン」
「ギャレットね。ここの従業員なの?」
「いえ、違います。
「で、昨日はここで、遅番のバーテンとして働いてたんだね?」
「はい。夕方六時から閉店まで」
「昨晩ここに来た客に、金髪の女性はいなかった? 身長が五フィート半か少し高いくらいで、四十絡みの」
「そういうご婦人は、何人かいらっしゃいましたね」
「ライターの石を切らしていたはずなんだけど」
「ああ、それならセリーンのことでしょう。確かに昨晩、火を貸しましたよ」
「セリーン。下の名前は」
「確かヘンリーです。セリーン・ヘンリー」
セリーン・ヘンリー。頭文字は『C・H』だ。
「そのセリーンって人について、もうちょっと詳しく訊きたいな」
「といっても、私は大したことを知らないんですよ」
「そう? ボクから見るとバーテンって人たちは、よくお客さんの相談相手になってたり、いろんな密談を小耳に挟んだり――君が盗み聞きをしてるって言ってるわけじゃないよ――してる印象だけど」
「まあ、そういうこともあるかもしれません。でもセリーンの場合は別で、彼女は大抵ミスター・マッコール――ここのオーナーです――が、自分のボックス席でもてなすんです。古い友人だとかで。なので彼女とはいつも――私がバーに立っている時はいつもって意味ですが、注文された最初の飲み物をお出しするまで、他愛のない会話をちょっとするだけなんです」
「他愛のない会話ね。ちなみに、昨晩はどんな会話をしたの?」
「昨晩は確かに、大したものでしたね。というのも彼女、目に青タンをつくって、すでにかなりひっかけた状態で店に来たんですよ。ご注文はジン・トニックでしたが、作っている間じゅう旦那のことを大声で愚痴っていましたよ。彼に殴られたんだそうです」
「ほう」カリオペが口を挟んだ。「旦那ね。そいつのことは知ってるのか、ギャレット?」
「多少は。ジェイコブって名前で、奥さんともどもオーナーの友人だそうです。もっとも、彼は呑みに来るというより、潰れた奥さんを回収しに来るほうが多いんですがね」
「なるほどな」
カリオペはそう呟き、ベールズに目で主導権を返して、ウィスキーと葉巻に戻った。
「君は一晩中バーに立ってたんだよね?」
「はい」
「じゃあ、セリーンがいつ頃、どうやって帰ったかわかる?」
「さあ、どうでしょう。来るお客のことは気にかけていますが、帰るお客はいつも注意しているわけじゃないんで」
「誰ならわかるかな。ミスター・マッコール以外で」
「クローク係のシンディか、
「なるほど。ちなみに、ミスター・マッコールの連絡先はわかるかな」
「わかりません。トニーなら知ってると思いますが。彼はこの時間帯の責任者ですからね」
「わかった。ご協力感謝します、ギャレット」
「これくらい、なんでもありませんよ」
ギャレットとベールズは立ちあがり、握手を交わした。見かけによらず手はごつくて握力が強く、ぐっと力を込めて握られたベールズは一瞬だけぎょっとした。
「じゃあ、私はもう帰ってもいいんですかね」
「いいんじゃないかな。ああ、そのトニーってシェフを呼んできて。オーナーの連絡先が知りたいから」
「わかりました」
*
「
ディック・マッコールの家へ向かう車中で、カリオペはそう言った。ベールズはじとっとした半目でカリオペに視線を投げて訊いた。
「熟練殺人捜査員サマがどう考えてるか、聞いてもいい?」
「いいとも。簡単な事さ」カリオペはそう言い、煙草に火をつけてから続けた。「
「まあ、入ってたよ……」ベールズはしぶしぶながら答えた。
リゾールは一般家庭のキッチンやトイレから病院の手術室まで、様々な場所で使われる消毒薬だ。しかしセリーンの鞄に入っていた瓶の中身は少々異なり、メーカーが『婦人衛生用』と銘打って販売しているものだった。彼らの言い分によれば、『女性のデリケートな粘膜組織に使用することで、婦人病や流産のような、夫婦関係を悪化させる要因に対する有効な対策になる』とのことだが、実際には殺精子剤として使われているのだった。仮に上記のような効能を素直に信じているのであれば、『婦人衛生用リゾール』と書かれたラベルを剥がす理由はない。しかしセリーンは剥がしていた。
「ほらな」カリオペは得意げに、にやりと笑って続けた。「そういうことだ。セリーンはバンバで男漁りをしてたんだろう。賭けてもいいが、男連れであのクラブを出てるはずだぞ。で、一発ヤッてから家に帰るわけだ。当然、旦那は怒る」
「つまり、ジェイコブって旦那さんが犯人ってこと?」
「その可能性が高いだろうな。ああ、もちろん間男とごたついた可能性もある。だがオッズは五対一ってところだろう」
*
バンバ・クラブのオーナー、ディック・マッコールはダウンタウンの西に位置するバンカーヒル地区の北部に住んでいた。かつてはダウンタウンで商社や銀行を経営する層が住んでいたエリアだが、彼らは今やもっと北のほうへと移り住んでおり、一等地だったのは過去の話だ。それでも、この地区には今でも中流階級の上澄みにあたる人々が住み続けている。壮年で、地元企業の経営者か役員をしていて、落ち着いた妻がおり、子供たちはすでに独立していて気兼ねなく、休日にはロズリン・アンド・アレキサンドリア・ホテルで妻にちょっとした装飾品を買ってやる余裕のあるような人々が。
建ち並ぶ家々は広々とした平屋建てか、時には二階建てで、青い芝生ときれいな花壇に彩られた広い前庭の奥に引っ込んでいる。家々の間に塀や柵のような仕切りはなく、充分に育った灌木の茂みや背の低い立木の枝葉が、隣同士の視線を上品に遮っていた。
ディック・マッコールの家はそんな北バンカー・ヒル街の一画にあった。家の前の路肩に停めたカリオペのハドソンを降りたベールズは、その家をしげしげと観察した。
家は淡い黄色の板壁に空色のスレート屋根を持つ瀟洒な造りの平屋建てだった。広くて芝生が青々とまぶしい前庭には、素焼きの園芸用煉瓦で区切った花壇に縁どられたモルタル敷きのアプローチがあり、白いステップと細い柱の玄関ポーチを歩道と繋いでいる。向かって右手には母屋と棟続きの
ベールズとカリオペは二段のステップを登ってポーチに上がり、ドア枠に取り付けられた真鍮の呼鈴を押した。キン、コーンという二音式のチャイムの音が、ステンドグラスを嵌め込んだ白いドアの向こうから微かに聞こえてきた。しばらく応答がなく、ベールズがもう一度チャイムを鳴らそうとしたところで、誰かがドアの後ろに立ったのが窓越しにわかった。まもなく錠を外す音がして、五十絡みの男が顔を出した。
「何かご用かな……?」寝起きらしい、しゃがれた声だった。
「ミスター・ディック・マッコール?」
「ああ、そうだが……」
「ハコス刑事と森刑事、
「伺いたいこと……? 私の店のことかね?」
「違います。入っても構いませんか? よければ中で、ゆっくりお話ししたいんですが」
「ああ、構わんよ……」
マッコールが脇によけ、二人は中へ入った。カリフォルニアでは大きい家にしかない
「いえ、結構です」ベールズは答えた。
「そうか。私はコーヒーを沸かすよ。悪いがさっき起きたばかりなんでね、コーヒーを一杯か二杯飲まないと、頭がカボチャみたいに重くてしかたないんだ」
「それなら、ありがたく頂きます」
マッコールが家の奥へ姿を消すと、ベールズは煙草に火をつけ、応接間をじっくりと観察した。落ち着いた花柄の黄色い壁紙に、濃い緑褐色の絨毯。ニスが厚塗りされたウォルナット材の戸棚や整理箪笥、コーヒーテーブル。ソファと、ソファと揃いのベルベットの肘掛椅子には、しみ一つないリネンのクロスがかけられている。同じようなクロスはテーブルにも敷いてあり、その上にカットガラスの灰皿とマッチ箱、そして木製のシガレットケースが置いてあった。カリオペはそのケースを開いて、紙巻煙草を一本取り出した。アメリカでは珍しいフィルター付きの煙草で、カリオペはそれをしげしげと見、「ソブラニーか」と呟いてから銜え、マッチを擦って火をつけた。天井からは真鍮とガラスのこじんまりとしたシャンデリアが吊るされていたが、部屋の他の家具と同様に、品よく落ち着いた雰囲気をまとっている。戸棚の中にはカットガラスのデキャンタが何本かあり、琥珀色や透明な液体が入っているのが見えた。上流階級の人々は、こういった場所に置く酒瓶にメーカーやブランドがわかるラベルが貼ってあることを好まない。
ベールズは煙草片手に応接間を見て回りながら、家の奥のマッコールの動向にも耳を澄ませていたが、パーコレーターでコーヒーを沸かしたり、朝の痰を吐いたりする音以外の妙な行動に移る気配はなかった。
二人が煙草を喫い終えて少しすると、マッコールがエナメル塗りの盆に、白磁のコーヒーカップと、銀製と思しきポットを乗せて戻ってきた。
「待たせたね」
そう言って二人にコーヒーを出し、自分のカップにも注いだ。カリオペは儀礼的にちょっと口をつけてすぐに置いてしまったが、香りからずいぶんいい豆を使っているらしいと見当をつけたベールズは、マッコールが自分のカップを干すまでの間、その香りと味をのんきに堪能していた。
「それで、どんなご用かな、ミス――」
「
「ディックでいい」マッコールは自分のカップにおかわりを注ぎながら答えた。「セリーン? ああ、知っている。古くからの友人でね。彼女がなにか?」
「昨夜、殺害されました」
「セリーンが?」マッコールは目を見開き、口元まで運んでいたカップを空中で止めた。「殺された? いったいどうして……」
「それを調べているところなんです。おたくのバーテンから聞いたんですが、セリーンは昨晩もバンバ・クラブに来ていたそうですね?」
「ああ、来ていたよ。私がもてなしたんだ。なんてことだ……」
マッコールはカップをテーブルに置いて、頭を抱えた。こういう時には悲しみにひたらせてあげたくなるのが人の情で、ベールズも『ご愁傷さまでした。では、ボクたちはこれで』とかなんとか言って帰ってやりたいところだった。しかし、悲嘆に暮れている人にずけずけと質問をするのが警察官の仕事である。それで月々百十八ドルなにがしの給料を得ているのだから、おろそかにはできない。
「お辛い時なのはわかっています」ベールズは平坦な声でそう言い、「ですが、あなたの古い友人を殺した犯人を捕まえるためにも、どうかご協力いただけませんか」
「ああ、ああ……もちろんだ」
マッコールは、卓上のシガレットケースから煙草を一本取って、火をつけた。よく
「続けてくれ」
「ありがとうございます」ベールズは軽く頭を下げた。「セリーンとは、古くからの友人だとおっしゃいましたね」
「ああ。生まれが一緒なんだ。テキサスの方でね」
「彼女は、いつこっちに?」
「大学を卒業してすぐだ。だから二十年ほど前かな。こっちに出てきて、パイロット・スクールに入ったんだ」
「パイロット? 飛行機のパイロットですか?」
「ああ。水先案内人じゃないぞ。あの頃の彼女は、その方面じゃ有名人だったよ。当時の私は、ハリウッドのクラブの雇われバーテンで、彼女は高嶺の花だった。映画会社のお偉いさんや俳優たちに囲まれていてね」その頃を思い出すような遠い目をしながら、マッコールは煙草を一服した。「それでも、彼女がバーに寄った時に二言、三言、言葉を交わすうちに親しくなってね。いつのまにか彼女の家のパーティーに呼ばれるようになったんだ。バーテンとしてではなく、お客の一人として、友人の一人としてね。私が金を貯めて、念願の自分の店を構えた時にも、彼女はお祝いに来てくれたよ。それ以来、彼女は私の店の常連になったんだ」
「なるほど。旦那さんの方はどうですか。そちらもあなたと古い付き合いだと聞きましたが」
「ジェイコブか? ああ。彼もテキサスの出だから、そのよしみでね」
「セリーンと同じくらいの長さの付き合いですか?」
「いや、たぶんもう少し短いな。彼がカリフォルニアに出てきたのは、セリーンよりも後だからね。海兵隊に入って、手に職を付けたんだ」
「ではひょっとして、二人を引き合わせたのは――」
「私かって? 違うよ」マッコールは笑って、煙草の灰を灰皿に落とし、「だが、二人が出会ったのは私の店だった。戦時中の話だが、帰休中だったジェイコブ――彼はその時もう、私の顔なじみになっていたのでね――とセリーンが、あの店で出会ったんだ。二人は恋に落ち、結婚式を挙げ、ジェイコブはアジア戦線へ戻っていった。戦争が終わってから、二人はセリーンの家で一緒に暮らし始めたんだ。ジェイコブにとっては、それが忍耐の日々の始まりだったわけだが……」
「ほう」マッコールが顔をしかめ、尻すぼみに言葉を終わらせると、カリオペが前のめりに食いついた。「忍耐の日々、ね。じゃあ、その忍耐の限界ってやつを越えちまったんじゃないのか?」
「ジェイコブが? いや、いや、そうは思えないね」そう言いつつ、マッコールは視線を逸らし、眉をひそめた。何か思い当たる節がある、そういう仕草だった。「ジェイコブはセリーンに、なんていうか、ぞっこんだったんだ。彼女の求めることは何でも喜んでやったし、彼女にどんな仕打ちをされても、黙って受け止めて、許していた。それが彼の愛なんだよ」
ベールズは話を聴きながら自分の手帳をぱらぱらめくっていたが、バーテンダーからの聴取内容からマッコールの心当たりにふと見当がつき、訊いてみることにした。
「昨晩のことなんですが、セリーンがバンバを出た時のアシをご存知ですか? おたくのバーテンによれば、たいていは旦那さんが迎えに来てたって話ですが」
「いや、その」図星を突かれたらしく、マッコールはうろたえた。「ジェイコブは――彼は来なかった。電話したんだがね、断られたんだ」
「それならやはり、彼の忍耐は限界に達したんじゃないですか?」
「いや、しかし、私にはやはり、そうは考えられない……」
考えられないというよりは、考えたくないという感じの、弱々しい声だった。こめかみを押さえて俯いてしまったマッコールに、カリオペが何か言おうとしたが、追討ちをかけようとしたらしい気配をベールズが察して割り込んだ。「ディック、それじゃセリーンは昨晩、どうやって帰ったんですか? あなたは、泥酔した古い友人を歩きで帰らせるような人じゃないでしょ?」
「そりゃ、何回かかけ直したさ。でもジェイコブは、もう電話に出なくてな。そうこうしている内にセリーンが、あそこで知り合った新しい友人とデートに行くって、そう言いだしたんだ。やんわりと引き留めたんだが、彼女は一度言いだしたら聞かない性格でね」
「男ですか?」
「……ああ」
「常連の人?」
「いや、違う。初めて見る顔だった」
「二人は歩いて帰ったんですか? それとも、その男の車で?」
「わからないな。ただ、
「いま、調べられますか?」
「店に電話してもいいかね?」
ベールズが頷くと、マッコールはホワイエへ戻った。受話器を上げ、ダイヤルを回す音がする。
「――ああ、私だ、マッコールだ。トニーはいるか? 替わってくれ。――ああトニー。忙しいところ悪いが、確認してほしいことがあるんだ。駐車係の台帳を調べて、セリーンのポンティアックを返したかどうか教えてほしいんだ。――うん、うん、わかった。ありがとう」
受話器を置く音がして、マッコールが戻ってきた。
「返してあるそうだ。二人連れだったかどうかは昨晩の駐車係にしかわからないが、セリーンの言っていたことを考えると、二人で乗って帰ったんだろう」
「色とか車種とかはわかりますか?」
「茶色のポンティアックだ」
「ありがとうございます。電話をお借りしても? 市内ですので」
「いいとも」
自分のコーヒーを飲み干してから、マッコールと入れ替わりに電話の前に立ったベールズはまず警察本部の記録課に電話をかけ、セリーン・ヘンリー名義の茶色のポンティアックのナンバーを照会した。しばらく待たされてから『2B8899』だと回答を得ると、その自動車に広域手配をかけるよう要請した。
フックスイッチを押してから、続いて中央方面刑事部にかけた。当直警部補によると、ドネリー警部はすでに会見室へ向かったとのことだった。正午の会見に警部を手ぶらで向かわせるわけにはいかないので、会見室の控室に電話を回してもらい、警部に簡単な中間報告を行った。
「わかった。ちょっと待て」ドネリー警部はそう言い、送話口を手で覆って誰かに何か声をかけてから、ベールズにアドバイスした。「悪いことは言わない。旦那を捕まえに行け。それでこの事件は解決するだろう」
ベールズは、警部の考えがカリオペと同じらしいことに気づいてやや辟易しつつ、それを声に出さないように答えた。「わかりました」
「うん。ではな」
最後に、ボイルハイツの監察医務院に、ファウナをせっつくために電話をかけた。
「ベー、何事にも順番ってものがあるのよ」ファウナは溜め息混じりに言った。
「でもファウナ、これは殺人なんだよ。いい? 殺人なんだ」
「わかってるわ」根気強くファウナは答えた。「わかってる。けれど、他の人たちをないがしろにしていい理由にはならない。明日の夕方までには終わらせるから、電話を待って」
ロサンゼルス郡監察医務院には、
「わかった」今度はベールズが溜め息混じりになって、「なるべく早くお願い。電話を待ってる」
電話を切り、十五セント分の小銭を電話機の横に置くと、応接間に戻った。
応接間ではマッコールががっくりと肩を落とし、頭を抱えていた。カリオペのほうは二本目のソブラニーを銜えている。原因をなんとなく察してベールズが睨むと、カリオペは肩をすくめてソファから立ち上がった。
「ご協力感謝します、ミスター・マッコール」そう馬鹿丁寧に言い、「いい煙草をご馳走様でした」と付け加えた。
家を出るとすぐに、ベールズはカリオペに「彼に何を言ったの」と訊いた。カリオペはうざったそうに「そう噛みつくなよ」と苦言を呈してから続けた。
「住所を訊いたんだよ、
「それだけで、なんであんなに落ち込むんだよ」
「向こうが勝手に落ち込んだんだ。『住所を知ってるんだから、タクシーを呼んで乗せてやればよかったんだ』ってな。私は何も言ってない」
ベールズは『もっと慰めの言葉とかあるでしょ』と言おうと口を開いたが、結局言葉にせずにその口を閉じた。慰めの言葉と言っても、あの場では何を言っても薄っぺらにしか聞こえないだろう、と思い至ったのだ。
二人は黙って車に乗り、バンカー・ヒル地区を後にした。
*
ロサンゼルス市警察で刑事になる場合、通るルートは概ね決まっていて、その間はみんな同じような仕事をすることになる。
まず、巡査として満二年間勤めることで、巡査部長試験を受けることができる。受験に際して刑事になりたいかどうか訊かれ、イエスと答えると、刑事試験が追加で課されるのだ。両方の試験に合格することで、刑事になる資格を得ることができる。
試験に合格すると、最低でも巡査部長に昇任するまでの一年間は、警察署の風紀係で風紀取締員をすることになる。私服勤務に慣れさせるためだ。麻薬の密売人や街娼といった連中は、場末の末端犯罪者だが、警官を見分ける目に
ハリウッド方面第六警察署風紀係勤務を命じられたベールズが、アイリスと最悪の邂逅を果たしたのは、この期間のまさにど真ん中だった。ベールズはそれ以降、ハリウッド
風紀取締まりを卒業して、晴れて刑事に昇進した警察官は、いずれかの方面刑事部の交通課に配置される。自動車天国ロサンゼルスでは、年間とんでもない件数の交通事案や自動車窃盗事件が発生するため、どこの交通課も常に人手不足なのだった。
ベールズは中央方面刑事部の交通課に配置され、最初の一週間はベテランの交通捜査員と組まされたが、以降は単独行動だった。交通課では、ほとんどの刑事が一人で動く。そうせざるを得ないほどに、事案数が膨大なのだ。交通課勤めは長引くこともあるが、一か月足らずでベールズは当たりを引いた。なんてことのない轢き逃げ事件だと思われていたものが、実は保険金詐欺に絡む殺人事件だと判明したのだ。さらにベールズは、指導役だったベテラン刑事の助けと、交通課警部補の黙認とを受けて、殺人課の介入前にその事件を解決したのだった。裁判は夏の閉廷期の前に終結し、いまや被害者の妻はテハチャピの、その間男はサン・クエンティンの檻の中だ。
警部補はベールズの鮮やかな捜査と、一か月足らずでの交通課卒業――その功績で窃盗課への異動が決まったのだった――を言祝ぎ、彼女をハリウッドの有名なジャズクラブに連れて行き、祝い酒を振舞った。それが『ブルー・ルーム』であり、その日は一月の最後の水曜日だった。そしてベールズには、他人の善意を自分の都合で無下にできるような厚顔無恥さはなく、内心は半ば嫌々ながら『ブルー・ルーム』を訪れたのだった。
『ブルー・ルーム』はその日も盛況だった。広々としたダイニング・ホールは店名通りに青い壁に囲まれ、壁紙よりも濃い青の絨毯が敷かれていた。照明は意図的に絞られており、中央の奥まったところにあるバンドスタンドと、その手前の煌々と照明されたステージを際立たせている。ステージの周辺は音楽に合わせてスウィングやフォックストロットを踊りたい人々のために空けられており、その周りをいくつものテーブル席が、劇場の客席のように半円形に、わずかな段差をつけて幾重にも取り囲んでいた。
テーブル席に座る客層は様々だ。男女連れが多いが、夫婦と思しき人々もいれば、デート中と思しき男女もいる。まだ復員したばかりらしい軍服姿の男とドレスの女がいるかと思えば、企業か官庁の管理職とその秘書と見える二人組もいる。高級そうなスーツにボタンダウンのシャツを着て、ぴかぴかのウィングチップの革靴を履いた男たちは、ディナーと酒と音楽を楽しみつつゆるやかに商談を進めようとしているビジネスマンたちのようだ。ホールの端には長いバーカウンターがあり、バーテンダー二人が分担して切り盛りしていたが、そこに立っているのは主に仕事帰りに一杯やりにきたビジネスマンたちだ。薄暗いホールには音楽が満ち、客たちが言葉を交わす喧騒が満ち、そして煙草の煙が霞のように満ちていた。
「すごいもんだろ」
ゴードン・レアリー警部補――いまや彼も警部に昇任し、中央方面第一警察署の署長を務めているが――はバーカウンターに近いテーブル席で、スコッチ・ウィスキーのグラス片手に、ベールズにそう声をかけたが、彼女にはまるで聞こえていなかった。
アイリスは、その日もあの忌々しい真珠色のドレスを着て、バンドスタンドの伴奏に合わせてステージの上で『イージー・リビング』を歌っていたが、ベールズはその声にすっかり聞き惚れていたのだ。ビリー・ホリデイとは全然違う、甘ったるく、高音でやや掠れるその歌声は、人を魅了する魔力に満たされているようだった。少なくとも、ベールズはそう感じた。
一連のセットが終わり、拍手に送られてアイリスが退場すると、客の入れ替えが始まった。『ブルー・ルーム』は客の数が多いため、一時間単位で部制を取っているのだ。警部補は河岸を変えようとしたがベールズは、好意はありがたいが自分はどうしてもここに残りたいと告げた。レアリー警部補は、ベールズのその目を面白そうに眺め、昇進祝いに明日は丸一日休んでいいと言い渡すと、「火傷するなよ」と茶化すように言い残してクラブを出ていった。入れ替わりに、白いジャケットと黒いズボンのお仕着せに黒い蝶ネクタイを締めている黒人のボーイがやってきて、次のセットも残るなら、席代とは別に追加料金もかかりますと告げた。ベールズは料金を払おうと財布を出して、あの日アイリスが財布に残した青い紙切れのことを思い出した。それはこのクラブの招待券だったのだ。
券を受け取ったボーイが去り、ベールズはさらに一時間――厳密には、アイリスが舞台に立つのはその内の三十分足らずだが、アイリスの歌を楽しんだ。アイリスは様々な歌を歌った。スタンダードなスウィング、ポップなブギ、スローなブルース。どれもが逸品であり、それを聴く人々を虜にし、それを愛し、あるいは崇敬せざるを得なくなるような魅力――あるいは魔力と言っていいかもしれない――に満ちていた。
あっという間に三十分が過ぎ、アイリスは大きな喝采の中で、舞台裏へと下がっていった。人々は食事とお酒と会話に戻り、あるいはバンドスタンドが奏でる『ムーンライト・セレナーデ』に合わせて踊るために立ち上がった。ベールズはしばらくの間、虜にされたような目で誰もいなくなったステージを眺めていた。アイリスの歌声と数杯のカクテル――彼女はあまり酒に強い方ではなかった――で、文字通り天国にいるような気分に浸りきっていたのだ。やがて、全く唐突にベールズは尿意に襲われた。二時間の間に空にしたカクテルは全部タンブラー・カクテルだったから、驚くにはあたらない。ベールズは席を立ち、通りかかったウェイトレスに化粧室の場所を訊いた。バーカウンターの奥とロビーに、それぞれ一か所ずつあるとのことだった。ベールズはウェイトレスに礼を言い、ホールの奥まったところにある化粧室へと向かった。
*
アイリスは舞台を下りると楽屋へ向かい、用意されていたジン・フィズで渇きを癒し、クラブの支配人のルイス――イタリア系のごろつきが高級スーツに着られているような男だ――とギャラについて穏やかな言い合いをしてから、席を立って化粧室へ向かった。ホールの方の化粧室は、関係者も使うようになっているのだ。アイリスは舞台裏を横切り、関係者用のドアを抜けて、婦人用の化粧室に入った。用を足して手を洗い、ホールのフロアから半階分下がっているために
「よお、ねえちゃん」水兵は強い南部訛りで言った。「さっき歌ってたの、ねえちゃんだろ。聴いてたぜ」
「あら、ありがと」
アイリスは相手の動きから目を離さないようにしつつ、警戒を悟られないように柔らかい声でそう言ってのけた。
「いい声だったよ、聞惚れちまったぜ。あんた自身と同じで、とってもセクシーだ」
危惧した通りの方向に進みそうな話にげんなりとしながら、アイリスは「どうも」と当たり障りのない代わりに味もそっけもない返事をした。しかし男のほうは気にもとめない。
「なあ、どうだ? 今夜この後、俺と一晩過ごさねえか? 安心しなって、後悔させねえからさ」
「嬉しいお誘いね、けれど――」
「それなら、抜け出そうぜ。な?」男はアイリスがやんわりと断ろうとした言葉を遮った。「裏から出れば誰にもわかりゃしねえよ。いいだろ?」
赤い袖章が三本入った左腕が、逃げ道を塞ぐようにアイリスの顔のすぐ横に伸ばされ、彼女はそのまま壁際に追い詰められた。男の吐息はバーボン臭く、青い目は酒というより自分自身に酔って獣のように爛々としていた。
アイリスはどうしたものかと考えあぐねていた。男は酔っている分大胆になっている。彼女がその気になれば、脇腹に一撃入れるなり、股間を蹴り上げるなりして逃げ出すのは難しくない。一方で、騒ぎになれば店に迷惑をかけてしまう。あのごろつきみたいな支配人や、間違いなくマフィアと繋がりがあるだろうオーナーに特段思うところはなかったが、厄介者だと目をつけられたら出禁にされてしまう。それはまずい。対応に窮している間に、男の右手がドレス越しにアイリスの尻を掴んだ。
「ちょっと!」
アイリスが声を荒げたが、男はなおもにやにや笑いで手を止める気配はない。無遠慮に尻をまさぐられ、アイリスの頭に血が上った。後先考えずに平手を喰らわせようと右手を振り上げたところで、階段の上から鋭い声が飛んできた。
「マカリスター!」
ぴしゃりと殴りつけるような女の声に、男が階段に顔を向け、つられてアイリスもそちらを見た。一番上に立っていたのは、赤い縁取りのあるダークグレーのスーツを着込んだ赤毛の女だった。
*
「あれ、あいつは……」
ベールズは化粧室の前室に続く階段の手前で立ち止まり、その二人を見た。水兵服の男が真珠色のドレスの女に言い寄っていたのだ。ベールズはそのどちらにも見覚えがあった。ドレスの女は当然アイリスで、男の方はフレッド・マカリスターという海軍の一等操舵手だった。四十手前ながら見事な金髪を蓄え、整った顔立ちに美しい碧い目を持つ色男だ。
マカリスター操舵手は港湾方面部の有名人で、ベールズも港湾方面第五警察署勤務だった巡査時代に、たまたま虎の子と化した彼をぶち込んだことがあるのだった。逮捕歴はその時点ですでに四件あり、内訳は暴行が三件と性的暴行が一件で、いずれも飲酒紊乱のおまけつきだった。警察署に身柄を引き取りに来た衛兵伍長がこぼしていたところでは、操舵員としての本分は大変優秀にもかかわらず、酒が入ると見境なく喧嘩を吹っ掛けるか、さもなければ見境なく女に手を出す――そしてそれが喧嘩のもとになる――のが欠点だという。戦争のお蔭でなんとか一等操舵手まで昇任できたが、戦争が終わった今では、本人が私生活を改めない限り操舵長にはなれないだろう、とも言っていた。
そのマカリスターが、アイリスの尻をドレス越しに揉んでいたのだった。ベールズが行動を起こす前に、かっとなったのだろう、アイリスが右手を振り上げた。しかしいくら酔っているとはいえ相手は水兵だ。平手打ちの予備動作があんなに大ぶりでは、アイリスの手を掴んで止めるのは造作もない。
「マカリスター!」
ベールズは咄嗟にぴしゃりと――しかし騒ぎにはならない程度に声を絞って――呼びかけ、短い階段を前室へ下りていった。
「な、なんだあんた?」
訝しげなマカリスターをじろりと睨んで、ベールズは言った。「あんたは虎の子だったから覚えてないか。去年の三月に『レミーズ』で大暴れしてるあんたを叩きのめして、港湾署の汚い留置場にぶち込んだんだけど」
「あっ、あん時のアマポリか!」明らかに酒以外の要因――間違いなく怒り――で、マカリスターの赤ら顔がさらに赤くなった。「邪魔すんじゃねえよ、ポリ公が。俺たちは穏やかに話し合ってただけ――」憤然としたマカリスターの言葉をベールズが遮って、
「あのね、ボクはいま機嫌が悪いの。ナンパするならよその店でやって」
「てめえにどうこう指図される筋合いは――」
「ないよ」再びベールズが遮り、「ないけど、いまのボクは憂さ晴らしがしたい気分なんだ。あんたを飲酒紊乱でハリウッド署の汚い留置場にぶち込んで、四十八時間上陸を台無しにしてやったら、さぞかしスッキリするだろうけどね」
「なにを、この!」
マカリスターはベールズのほうに向き直って掴みかかろうとしたが、それより先にベールズの握り拳がみぞおちに軽く当てられ、うっと呻いてよろめきながら後ろに下がった。
「タクシーで帰るか、護送車で帰るかだよ、間抜け。ボクはどっちでもいいから自分で選んで」
マカリスターは数秒ほど、怒りでぎらついた目でベールズを睨みつけていたが、大きく舌打ちして階段へと歩き、去り際にベールズの靴に唾を吐きかけてから立ち去った。
「大丈夫だった?」ベールズは靴についた唾をハンカチで拭いながら、アイリスに訊いた。
「私? ええ、大丈夫。ありがとう」アイリスはそう答え、ちょっと逡巡してから付け足した。「あなたに助けられなくても大丈夫だったと思うけど、とにかく、ありがとう……ベー」
「あー……。ボクのこと、覚えてたんだ?」
「まあね」
アイリスにとっては少しバツが悪かった。以前手玉に取った女に助けられた形である。
「いいよ、大丈夫ならよかった」
バツが悪かったのはベールズも同じで、靴を綺麗にしたハンカチを畳むと、「ボクはこれで」と言ってそそくさと婦人用化粧室に入ってしまった。
アイリスは楽屋に戻り、相変わらず自分の取り分についてぐちぐち言うルイスの言葉を聞き流しながら舞台化粧を直していたが、心は上の空だった。襲われそうになったことでアドレナリンが出て昂奮しているのかと自分では思っていたが、時間が経つと、次第にそうではないことに気づき始めた。熾り火のようなものが腹の中で静かに燻っているような、言葉に表しがたい感覚を抱えたまま、アイリスはルイスの愚痴に生返事をし続けていた。
一方で化粧室に逃げ込んだベールズの方も、アンモニア臭い個室で落ち着かない気分になっていた。本人の前ではなんとか冷静さを保てていたが、あの時と変わらないドレスを、甘い声を、ほのかな香水の香りを前にして、彼女はあの夜を思い出さずにはいられなかった。アイリスの舌がベールズの口を、そして秘部を蹂躙し、巧みに絶頂へと導いたあの夜を。尿意は霧散し、ベールズはしばらくの間、下腹部の疼きに悩まされ続けた。
*
ベールズは日付が変わってからも『ブルー・ルーム』に残り、アイリスの歌声に飽きることなく耳を傾けていた。彼女はずっと同じテーブル席に座っていたが、周りの客層は十時頃を境にずいぶん変わってきていた。店に入った時にいた夫婦連れやビジネスマンたちは、ロサンゼルス・ラムズの選手やプロボクサー、ハリウッド・パークのホースマン、映画監督や脚本家、製作会社や配給会社の重役、俳優や女優、ファッションモデル、彼らが目当ての新聞や雑誌の記者、明らかに
夜の二時がせまり、アイリスが最後のステージを降りると、お客たちは酒で高まった気分を引きずりつつも、三々五々にロビーへ向かい始めた。州法に基づく閉店時刻が迫っているのだ。ベールズも席を立ち――招待客だったので勘定書きはなかった――チップに大枚五十セントを置いて、ロビーに続くドアの方へと向かった。
「失礼、ミス・ハコス・ベールズ?」
黒人訛りの強い声に呼ばれて振り向くと、お仕着せ姿の黒人がいた。追加料金を徴収に来たボーイとは違う顔つきで、ベールズは少し時間がかかったが、入店時にホールの入り口付近の案内台にいた
「そうだけど」
「アイリスが、以前あなたからお借りしたハンカチをお返ししたいと申しております。この後お時間が許すのでしたら、是非お越し願いたいとのことで」
ロビーやホールがどれほど華やかできらびやかでも、ジャズクラブの舞台裏というのは、たいてい薄暗くてじめじめしているものと相場が決まっている。それは『ブルー・ルーム』でも変わらなかった。羽目板張りの壁と、それを支える粗悪な木材の梁。耐火煉瓦と漆喰の裏壁。むきだしの配管と配線。羽虫がたかっている裸電球。ところどころひび割れた、コンクリート打ちっぱなしの床。厨房から漂ってくる料理の匂いと、どこかから漏れ出てくる下水の臭い。隅のほうの暗がりに、女物の下着がくしゃくしゃに丸めて捨てられているのが目につく。
アイリスはすっかり帰り支度を整え、舞台化粧を落とし、ドレスの上からローズレッドのミンクのコートに身を包んでベールズを待っていた。給仕長がベールズを連れてくると、アイリスはベールズを抱き寄せ、おもむろに唇を重ねた。それはあの夜のキスとは違う、唇を重ね合わせるだけものだったが、ベールズに再びあの時をまざまざと思い起こさせるには充分で、たったそれだけでベールズは心臓をぎゅっと握られ、腰が抜けてしまうような感覚に陥った。ハグとキスはごく短く、ベールズは物足りなく感じ、そしてそう感じた自分に仰天した。
抱擁を解くとベールズに質問をする暇を与えずに、アイリスは「こっち」とだけ言って、ベールズを裏口から例の裏通りへ連れ出した。いつかベールズがふらつきながら辿ったのと同じ道のりで、二人はカルロス街へ出た。
路地の入り口の目の前に、メーターを倒したタクシーが一台停まっていた。二人が乗り込むと、車は通りを東に向かい、角を曲がってブロンソン街を南下しはじめた。タクシーの車内でアイリスはベールズに体を寄せ、スーツのズボン越しに太腿を撫でた。ベールズはその手を握り返し、心臓が跳ね回るのが運転手にまで聞こえていやしないかと冷や冷やした。
タクシーはサンセット
アイリスがアパートメント3Aのドアを開け、中に入ってから後ろ手に
ベールズのハンカチは綺麗に洗濯されてきちんと畳まれ、ベッド脇のサイドボードの上に置いてあった。
翌日、ベールズはひどい頭痛と吐き気の中で目を覚ました。もう昼過ぎだった。一緒に起きたアイリスとともに深紅のタイル張りの浴室でぴったりくっついてシャワーを浴びながら、ベールズは今日が休みであることに感謝しつつ、警部補はこれを見越していたのだろうかといぶかった。
*
ダークグレーのシャークスキンのベストに揃いのズボンを穿いた男が、混みあったユニオン・ステーションのコンコースを歩いていた。彼の財布の中には『ギャレット・メイソン』名義の社会保障カードとカリフォルニア州政府発行の運転免許証が入っていたが、それらの身分証を使い始めてからまだ一年と少ししか経っていない。メイソンにとっては、臨時雇いの派遣バーテンというのはいい職だった。市内のあちこちで様々な情報を集められるのもそうだが、“名前を呼んでもなかなか反応しないぼけっとした男”でも詮索されないからだ。これが常勤の従業員だと、雇い主が要らぬ勘ぐりを始める可能性もあったが、流れ者の派遣バーテンのことを一々気にかける人間はそういない。自分が『ギャレット・メイソン』であることに慣れるにあたって、これほど好都合な職業はなかった。
メイソンであることに慣れ始めている男は、構内のベンチの一つに腰を下ろした。
「なんでこんな処理をしたんだ」
メイソンと背中合わせに座っている、濃紺のスーツに真っ白なパナマ帽を被った男が、『ロサンゼルス・ミラー』紙の早版を読みながらそう言った。明らかにこの辺りの出身ではない、東部の上流階級の洗練された発音の英語だった。スーツは誂えものとわかる軽いウールの高級品だが、最後に寸法直しをしてから更に腹がせり出してしまったようだ。手元で開いているのは犯罪特集の新聞記事で、ウェストレイクで発見された女性の死体について新聞が知り得る限りのことと、執筆者が妄想たくましくして書いた様々な仮説が載っている。男は五十絡みのように見えるが、黒っぽい髪の毛の半分近くが白っぽくなってしまっており、実年齢は見た目よりも若そうだった。
「目立たないように処理をしろと、私はそう言ったはずだが」
「目立たないように処理したさ」メイソンは、目の前にあるアーチ形の窓をぼんやりと眺めながら言った。「この狂った街で月にいくつ、そんな
人々はみな、出札カウンターなりプラットホームなりタクシー乗り場なりの自分の目的地へ向かって、忙しげに行き来している。二人の会話に注意を払う人間は誰もいなかった。
「まあいい。それで、探し物は見つかったのか?」
「いや。あんたが言ったようなものは全部回収して、あんたが用意したアパートメントに置いてきた。後で確認してくれ。ただ俺が見る限りじゃ、あんたがご執心のこととわかるようなことは書いてなかったし、明らかに隠されていたようなものもなかった。へそくりが五十ドルばかりあっただけだ」
パナマ帽の男は上品に溜め息をついて、落胆を表した。
「で、どうするんだ?」
「いったん警察の動きを待ってみようと思う。殺人捜査は向こうの方が、我々よりも上手いはずだ。しっかり聞き耳を立てて、仲間と思しき女を連中が見つけだしたら、必要に応じて介入する。その時にはまた連絡する」
「わかった」
「ああ、それと」立ち上がろうとしたメイソンを、男は背中合わせのまま呼び止めた。「場合によっては、それより早く担当者に接触してもらうかもしれない。そのつもりでいてくれ」
「それなら、もう接触したけどな」
「なに?」男は首こそ動かさなかったものの、初めて視線を新聞から離し、肩越しにメイソンの方を睨もうとした。「お前の家に来たのか?」
「いや。俺は昨晩、クラブに泊まったことにしたんだ。その方が色々と都合が良くてな」
「何を喋った?」
「俺が知っててもおかしくないことだけな。名前――もちろん絞り込める情報が出てから答えたぞ――とか、あのクラブでわかる範囲の交流とかな」
パナマ帽の男は懐疑的な目つきをしていたが、やがて視線を新聞に戻した。
「まあいい。面識ができたなら、それはそれで好都合だ。またそいつと話してもらうかもしれない」
「そりゃあいい」メイソンは遠くを見るような目になり、唇にうっすらと笑みを浮かべた。「その必要があれば、“お話”の先に進んでも構わないんだよな?」
「お前に任せる」パナマ帽は新聞を畳み、立ち上がりしなに言い残した。「任せるが、撥ねかえりはきちんと避けるか拭うかしろ。私のところまで飛んでくるようでは困るぞ」
メイソンはこっくりと頷き、パナマ帽は立ち去った。メイソンはその場に残り、うっとりした顔で来るかもしれないその時を妄想した。
あの女刑事。かなり小柄だったが、いい体型をしていた。スーツの上からでも――あるいはスーツを着ているからこそ、胸と尻の大きさがよくわかった。真面目そうで、熱心で、精力的な雰囲気が、表情からも声音からも窺えた。そして警官たち――というか公権力を持つ者たち全般が一般人に当たる時の、特有の空気感もあった。自分たちが会話の主導権を握るのが当然と考えている、自然とにじみ出る横柄さが。金髪好きのメイソンにとって、ベールズが赤毛なのは少々残念だったが、気の強そうな、それでいて芯は確かに女らしい感じのする雰囲気が、彼はたいそう気に入っていた。そしてその全てが逆転するときを思い描くと、メイソンは笑みを浮かべずにはいられなかったのだ。
女刑事がただの女になり、調べる者から調べられる者へ、質問を許されず、答えることしかできない立場へ、主導権を握られ、ただただ虐げられる身になった時、あいつはどんな顔をするのだろう? すがるような目で見てくるだろうか、それとも刺すような目で睨んでくるだろうか? 俺を罵るだろうか? たぶん。命乞いをするだろうか? それが避けられないと悟れば、するだろう。完全に屈服して用済みとなり、首を絞められて死神が背後に忍び寄って来る時、あいつは何を考えるだろう?
果てしない妄想の間に、メイソンは自らの下半身が疼き、膨らみかけるのを感じた。流石に公の場で処理するわけにはいかない。立ち上がり、続きは自宅で楽しむことに決めて路面電車の停留所へと足を向けたものの、メイソンはなかなかその顔から笑みを拭い去れなかった。