※この作品はR-18です。

H.L. Noire ~Neology~   作:Marshal. K

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Celine Henry Case #3

 

 ユニオン街のそのあたりは、戦前からの閑静な住宅街だった。どの区画にも狭い前庭があり、その奥に慎ましい平屋建ての家が建っている。母屋の横手に一台用の車庫(ガレージ)か駐車スペースがある家が多く、モルタル舗装の短い私道(ドライブウェイ)が、車庫と公道の間を繋いでいる。たいていの家の駐車スペースや私道には、数年落ちのフォードやシボレーが停まっていたが、今年のモデルが停めてある家も少なくない。

 一家の主人が昼食を摂りに帰ってきているのだろう、家の前の路肩に中古のクライスラーやオールズモビルが停まっている家があちこちにあった。多くの家の前庭には青々とした芝生が生え、立派に育った立木があったり、しっかりと手入れされた花壇にカラフルな花々が咲き誇っていたりしている。小型の自転車や、砂遊び用の樹脂製バケツやスコップが出しっ放しになっている家もあり、そういった家には小さい子供がいるらしいことが伺える。

 いわゆる労働者街であり、シフト監督や職工長のような責任ある地位に就いている賃金労働者たちが、専業主婦の妻と子供たちと一緒に暮らしている、そんな地区だ。

 

 ヘンリー邸もそんな慎ましい住宅の一つだったが、家の前の路肩には何台もの自動車が停まっていた。

「なんだこれは」ハドソンを降りたカリオペがそう言い、ベールズも厳しい顔でヘンリー邸を見やった。

 家の前に停まっていたのは白黒のフォード警邏車が二台、黒一色のフォード公用車が一台、それに警邏車と同じ白黒のシボレーのセダンデリバリーが一台、これは現場鑑識班の車だ。救急車や検屍局の車は見当たらない。歩道と玄関を結ぶアプローチの入り口に巡査が立っており、車庫へ続く私道の入り口には黄色い木製の現場保存バリケードが立ててあった。

 二人が巡査に歩み寄ると、彼はカリオペの顔を見て姿勢を正した。

「ケラーだな?」カリオペが話しかけた。

「イエスマム」

「何があったんだ?」

「空き巣です。裏の窓が割られていて、中がひどく荒らされているそうです」

 カリオペはちらっとベールズに視線を飛ばしてから、ケラーに訊いた。「誰が来てる?」

「コールドウェル刑事とフェルプス刑事です」

 どちらも強盗・窃盗課の刑事だ。

「入っていいか」

「どうぞ」

 ケラー巡査が脇によけ、二人はアプローチに入った。

 ヘンリー邸は、そのあたりの他の家々と比べると、家も庭も荒れていた。前庭には雑草がはびこり、アジアからの外来種であるススキが風に揺れている。母屋は平屋建てで、クリーム色の化粧漆喰と赤い――というか建てられた当時は赤かったと思われるテラコッタ瓦の屋根、赤いペンキ塗りの窓枠というスペイン植民地(スパニッシュ・コロニアル)様式の建物だったが、壁の漆喰はあちこちでひび割れており、屋根瓦はすっかり日灼けして、辛うじてピンク色と呼べなくもないほどまで褪色してしまっている。木製の窓の枠やサッシには赤いペンキが塗ってあったが、あちこち剥がれて木材の白がまだらに浮かび上がっていた。

 二人が向かう先にある玄関ドアは、明らかに最近取り換えられたものらしかった。黒々とした鋼鉄のどっしりしたドアで、一目で最新のものとわかる錠がノブの上下に二つ、ついていた。玄関ドアの頭上には、青いペンキ塗りの鉄製の箱が設置されている。その箱の正面には白いペンキで『空き巣警報(BURGLAR ALARM)』と書いてあった。戦後になってから民間にも普及し始めた防犯用非常ベルだが、まだまだ高価であり、この界隈には少々不釣り合いだ。

 二人が玄関に辿り着くよりもさきにドアが開き、背広姿の男が二人、家の中から出てきた。

「ハリー、久しぶり」

 ベールズは二人の男たちの片方、マルーンレッドのペンシルストライプの背広の男に声をかけた。ハリーと呼ばれた男はベールズを見、右手を上げて答えた。「ベールズか? 久しぶりだな。『クールリッジ事件』以来か?」それから隣のカリオペに目をやり、「殺人課に入れたのか。おめでとう」と言った。

 そのカリオペは二人の顔を見比べ、ベールズに訊いた。「コールドウェルと知り合いなのか」

「まあね。ボクが窃盗課にいた時、クールリッジの強盗事件に一緒に動員されたんだよ」

 サン・ペドロ港に入港した米軍の徴用貨物船『クールリッジ』号が強盗に遭い、積荷の余剰軍用物資が強奪された事件は、世間を震撼させた。大量の軍用銃器とその弾薬、そして医療用の麻薬が行方不明になったのだ。どんなに世情に無関心な人間でも、これでは治安の悪化を懸念せざるを得ない。

 ロサンゼルス警察は管轄の港湾方面刑事部に限らず、刑事部全体をあげて捜査員を動員したので、当時はハリウッド方面刑事部窃盗課に在籍していたベールズや、今と変わらず中央方面刑事部強盗課に在籍していたコールドウェルなども駆り出されたのだった。そのおかげでベールズは多くの盗犯刑事たちと知己を持ち、見識を深めたり技巧を盗む機会を得たが、事件そのものは今なお未解決のままだ。

 

 ハロルド・“ハリー”・コールドウェル刑事は三十代の若い男だ。身長は五フィート四分の三より少し低いくらい。茶髪に石色の目、四角い顔に太めの眉が走っているが、鼻は細目でしゅっとしているため整った顔立ちに見える。アイルランド系のようだが、言葉はアーカンソーあたりの訛りが比較的強く出ていた。

 先述の通りの背広にグレーのズボンを合わせ、赤とオレンジのチェック柄のネクタイを締めている。フェルトの中折れ帽は茶色で、より濃いめの色合いのリボンを巻いていた。靴は本革のしっかりしたものだったが、履き潰されてくたくたになっており、しっかり磨いてあるにもかかわらず――あるいはむしろそのせいで――細かい傷がたくさんついているのが目についた。

 そのコールドウェル刑事がその場を見回し、自分が唯一そこにいる全員を知っている人間だと把握して、紹介を始めた。

「二人に紹介しよう。といっても、新聞やラジオや噂話でご存知だと思うがね。コール・フェルプス刑事だ。コール、こっちは殺人課の森カリオペ刑事とハコス・ベールズ刑事」

「よろしく」

 フェルプス刑事はそう言い、二人と握手した。

 ベールズはフェルプス刑事と直接の面識はなかったが、彼のことはよく知っていた。というのも、市警察はフェルプスをある種の広告塔として使っていて、その半生は新聞やラジオ――そして身内同士での噂話――でさんざん報じられたからだった。ロス市警の人間であればたいていは、彼のことについてベールズと同じくらいの知識を持っていた。

 それによれば、コール・フェルプスはサンフランシスコの海運業者の息子だった。スタンフォード大学卒の二児の父。太平洋戦争が始まると海兵隊士官候補生学校を経て海兵隊少尉に任官し、“ファイティング・シックス”の異名をとる第六海兵連隊の隊附将校として沖縄戦役に従軍。激戦の中で少尉の身ながら残存部隊の指揮を執り、日本軍を見事撃退した功績によって銀星章(シルバースター)を受け、中尉に戦時昇進した。その後の掃討作戦中に敵ゲリラ兵の奇襲を受け負傷、後送され、紫心章(パープルハート)を受けて傷痍退役となった。そして復員後の一九四六年十月に、ロサンゼルス警察に巡査として入庁し、今年一月に警察局長特例で刑事に昇進したのだった。

 

 いま、ベールズが初めてじかに会うフェルプス刑事は、そういった華々しい戦果を感じさせる歴戦の軍人というよりは、大卒の金持ち息子の印象の方が強く出る、優しげな男に見えた。かつては金髪だったとおぼしき明るい茶髪にグレーのつぶらな瞳の目、丸っこい鼻、丸みがかった顔と、全体的に童顔だ。いかにも警官らしく視線はするどいが、他の警官とはどこか違う感じがする。具体的にどう違うのか、ベールズにはよくわからなかったが、ただ“違う”という印象を強く抱いた。

 ブルックス・ブラザーズの誂えらしい紺のピンストライプの三つ揃いのスーツに赤いネクタイを締め、スーツと揃いの中折れ帽にはグレーのリボンを巻いている。黒い靴は本革で、イタリア製のようだ。左手の薬指には金色の結婚指輪がある。金のかかった服装だがセンスはきわめて保守的だった。ジジ臭いと言っていい。法曹家ならともかく、若手の刑事が普通するような恰好でないのは確かだった。

 フェルプスがカリオペと、次いでベールズと握手を終えると、カリオペがコールドウェルに訊いた。「空き巣らしいと聞いたが、どんな感じなんだ?」

「誰かが裏の窓を割って侵入したらしい。裏手の家のご夫人が裏庭で洗濯物を干そうとして、窓が割れてるのを見つけて通報してきたんだ。昨晩遅くか、今朝早くってところだろうな。そっちはどうしてここに?」

「ウェストレイクで女の遺体があがったって話は聞いてるだろ?」

「ああ。今朝からKGPLはそればっかりだったからな。ここの?」

「そうらしい」

「なんてこった」コールドウェルはラッキーストライクを一本銜えると、パックをフェルプスのほうに差し出して訊いた。「お前も一本つけるか?」

「いや、結構だ」

 袖にされたコールドウェルはカリオペたちに、ぐるりと目を回して見せた。「面白い男だよ、軍隊上がりなのに煙草を全然やらないんだ。そっちはどうだ?」

「私はもらおうか」

「ボクはいいよ、自分のがあるから」

 フェルプス以外がめいめいの煙草に火をつけると、コールドウェルは一服してから言った。「さっき空き巣らしいと言ったがな、俺はちょっと違和感を覚えてる。フェルプスも納得していない」

「どういうことだ」

 コールドウェルはカリオペの問いには答えず、ベールズのほうを見て言った。「ベー、お前も現場を見てみてくれ。お前の意見も聴いてみたい」

「ボクの? いいの?」

「ああ」

「わかった。侵入路は?」

「裏の窓だ。行けばわかる」

 

 家の横手は狭かった。自宅の居間とお隣の駐車スペースの視界を遮るためだろう、白いペンキ塗りの板塀が立っており、家の横手の壁ぎりぎりに迫っていた。

 裏庭の面積は前庭と大差なかった。横手と違い、裏手の家の裏庭との間には、境界を示すためらしい足首くらいの高さで並んでいるモルタルブロックくらいしか仕切りがない。裏手の家の裏庭では、シーツやシャツや下着が物干しロープに吊るされ、乾いた西海岸の風に踊っていた。

 ヘンリー邸の勝手口は、表通りから見て左手の角にあった。そのすぐ隣に上げ下げ窓が一つあり、その下側の窓のガラスが割れ、半開きになっていた。一番下の木製サッシもへし折れている。下側の窓枠にも真新しい傷痕がいくつもついていた。ベールズはそれを丹念に調べ、「初心者じゃないな……」と呟いた。

 真夜中に侵入盗をしようという時にガラスをたたき割ると、ご近所中が飛び起きてしまうような大きな音がする。しかし、窓枠とサッシの間に先端が尖っているか、へら状になっている頑丈なものを差し込み、てこの原理でサッシをへし折れば、そんなに大きな音を立てずにガラスを割ることができる。家人がいればさすがに気づいたはずだが、隣人たちはわざわざベッドから出てこないだろう。穴の大きさは大したことないが、掛け金を外すには充分だ。

 ベールズはそのあたりを見回した。裏の家の洗濯物がよく見える。つまり、あっちの住人が洗濯物を干そうと思えば、この割れた窓は自然に目に入るということだ。通報は全然不自然ではない。一方で裏庭に面している窓は、どちらの家もキッチンや浴室のものだけのようだから、何か物音がしたからといって覗かれる心配はない。仕事はしやすかっただろう。

 この三週間雨はなく、セリーンあるいはジェイコブが庭に水を撒いたような様子もないため地面は固く、足痕は全然なかった。ベールズをはじめとした警官たちの靴の痕すら、ほとんど残っていないほどだ。

 ベールズは勝手口のドアを調べた。アルミサッシの真新しいドアで、いい錠がついている。こじ開けようとした痕跡は見当たらなかった。ノブを捻るとすっと開いた。施錠されていたかどうか後でハリーに訊かなくちゃ、とベールズは頭にメモした。

 キッチンに入ったベールズは「うわっ」と声を出してしまった。アメリカではお馴染みの白黒市松模様のタイル床のキッチンは、混沌の一言だった。割れた窓の破片が落ちているのは当然として、その他にもあらゆるものが床に散らばっていたのだ。様々な鍋、様々な皿、キッチンフリッパーやレードルのような調理器具、カトラリー、ペーパータオル。戸棚という戸棚は全て開けられ、中身は全部引っ張り出されていた。調味料や乾燥食品が床に散らばり、それが入っていたらしい瓶や缶も転がっている。小麦粉の小山があり、そばにはその容れ物だったらしい紙袋が、裏表をひっくり返して捨てられていた。流しは真っ白で、ほとんど解けて麦粒サイズになったアイスクリームと思しきものが、真ん中にちょこんとあった。流しの横の調理台には、蝋引き厚紙のアイスクリーム・バレルが空っぽになって横たわっている。ケルビネイターの電気冷蔵庫のドアが開けっ放しで、ハムの塊や卵、チーズ、バドワイザーの瓶がそのあたりの床に転がっていた。ガスレンジのオーブンも開けっ放しだが、さらにコンロの天板も外され、脇に立てかけてあった。ゴミ箱もひっくり返されていたが、こちらはそもそも大した内容物がなかったらしい。くしゃくしゃの紙ごみや、パンの耳の食べ残しなどがあるだけだった。朝食用テーブルに敷いてあったらしい蝋引きのテーブルクロスが雑に畳んで、テーブルの下に置いてあった。

 ベールズは溜め息を吐き、「これは確かに、タダの空き巣じゃないよな……」と呟いた。

 キッチンの脇にある家事室も荒らされていた。洗濯カゴがひっくり返され、女物のパジャマやハウスドレスや下着が散らばっている。洗濯用の粉石鹸が白い小山を作っており、ボール紙の箱が放り捨ててあった。ベールズはヒューズボックスを開けてみたが、中のヒューズは全てあるべき場所に収まっていた。断路スイッチは固く、最近動かされた様子はなかった。

 キッチンから続きのダイニングルームに入ると、ベールズの感じる違和感は更に強くなった。外壁の化粧漆喰と同じようなクリーム色の壁紙と、濃い赤の絨毯が敷かれた部屋で、窓には白いシェードが下ろしてあったが、ここも荒れ果てていた。部屋の片隅で陶器の花瓶が粉々になっており、しおれたオーキッドと一緒に落ちていた。そのあたりはほとんど濡れておらず、水やりを怠っていたらしいことが伺える。ベールズが、そっと壁紙に触ると、壁がへこんでいるのがわかった。かなりの勢いで叩きつけたに違いない。すくなくとも両隣には聞こえるような、大きな音がしたはずだ。別の隅では酒瓶とグラスが、やはり割れて落ちていた。瓶には『オールド・ターキー』のラベルがあり、グラスはオールドファッションドだったようだ。ここでも壁はへこんでいた。瓶の残骸からはウィスキーの香りが強くしたが、あたりは濡れていなかった。やはり割られた時には空になっていたのだろう。

 応接間を兼ねるリビングルームが横にあり、ここもひどいの一言だった。コーヒーテーブルやソファや肘掛椅子は全部ひっくり返され、鋭利な物で切り裂いて詰め物を取り出してある。本棚は空っぽで、中身はその近くの床に積み重なったり、部屋の対角線上のところに散らばったりしている。ステレオ機能を搭載した最新のレコードプレーヤー付きラジオは側板をこじ開けられ、中の機械が露出していた。そのあたりの床にはレコード盤のジャケットが、中身を引っ張り出された状態で散乱していた。ナイフか何かで切り裂かれているものもあった。書きものビューローの抽斗は全部引っ張り出され、部屋の隅に叩きつけられていたが、鍵のかかる抽斗だけはその場でこじ開けられ、ビューローの足元の床に落ちていた。壁に飾ってあったらしい風景画の額縁も叩き割られ、中の印刷画を引っ張り出してあった。コーヒーテーブルのあたりに敷いてあったらしいラグは丸められ、玄関近くの隅に立てかけられていた。中で羽虫が何匹か死んでいるボウル状のすりガラスがあり、天井を見上げると、外された照明カバーだとわかった。

 リビングルームから寝室へ向かう途中で、玄関のそばにある非常ベルの操作パネルを確認した。通電ランプは点いており、動作スイッチの鍵穴は『切』に合わせてあった。鍵は挿し込まれていない。たぶん、現場にあった鍵束の中についているのだろう。

 寝室もひどい荒らされようだった。落ち着いた緑色の壁紙と、黒っぽい絨毯の部屋だったが、散らかりすぎた室内に内装が醸し出そうとしていた雰囲気の良さは、かけらも残っていない。四つある枕は全部切り開かれ、羽毛があちこちに舞っていた。黒いワニス塗りの化粧台からは鏡が取り外してあり、横の壁に立てかけられている。抽斗という抽斗はすべて抜き取られ、ひっくり返されていた。ベッド脇のサイドボードの上に、点きっぱなしの電気スタンドが乗っていたが、その傘はむしり取られていた。その近くに、化粧台から持って来たらしい宝石箱が落ちていた。鍵は力ずくでこじ開けてあったが、ベールズの見る限り、中身のネックレスやブレスレットには手を付けていないらしかった。もっとも、それらをランプの光にかざしてみたベールズには、全部二束三文の安物だとすぐにわかった。侵入犯もそれがわかったのだろうか。化粧台の天板の真ん中には、『ティファニー』のロゴが箔押しされたケースが一つ、ぽつんと鎮座していた。開けてみると、金色の婚約指輪と結婚指輪のセットが納まっていた。婚約指輪には見事なルビーが嵌まっており、どちらも十八金の刻印がされていた。鏡台の脇に落ちていたケースには、大粒のブラック・サファイアの周りに細やかなダイヤが散りばめられたライス大学の卒業指輪が入っていた。どれもなかなかの値打ちものだ。クローゼットやタンスの中身は、全部ベッドの上に放り出されていた。真っ赤なイブニングドレス一着と、派手な色合いのカクテルドレスが何着か、一張羅らしいブルックス・ブラザーズの黒いスーツが一着、ワイシャツ数枚、女物のミンクのコート、男女の下着や靴下。ドレスやコートは裏地がはいであり、スーツは肩のところが切り裂かれていた。

 寝室から続きの狭い浴室の戸棚も、中身が床に散らばっていた。いくつかの薬瓶はひっくり返され、睡眠薬や鎮痛剤と思しき錠剤が床に散らばっている。天井近くにある水洗便器の水槽の蓋が外され、便器に立てかけてあった。鋳物の浴槽を動かそうとしたらしく、浴槽の足があるあたりの黄色いタイル床に引っかき傷がついていた。

 

 ベールズは頭を抱え、二本目の煙草をぷかぷか吹かし、うんうん唸りながら家の中を行ったり来たりしていたが、やがて玄関から出て、コールドウェルやカリオペのいるところに戻った。

「どうだった?」コールドウェルが勢い込んで訊いてきた。

「変だね。本当に。巡査が現着した時、玄関と勝手口のドアは施錠されてたの?」

「玄関は閉まってたが、勝手口のドアは開いてたらしい」

「わかった」

 ベールズは短くなった煙草を落として足で踏み消すと、明確に説明を求めている表情をカリオペから読み取り、主にそちらに向かって話し出した。

「ここってほら、非常ベルがついてるでしょ」そう言って、ちょうど頭上にある『空き巣警報』の箱を指して続けた。「スイッチはオフになってた。ヒューズを抜いたり断路スイッチを切ったりした様子はない。操作キーもここにはない。たぶん侵入犯は、非常ベルが切れてるのを知ってて入ってる」

「底抜けのアホが、非常ベルのある家に泥棒に入った可能性は?」

「ないね。底抜けのアホならガラスを叩き割って、ご近所さんをみんな叩き起こしてたはずだよ。でも静かにこじ開けるほうを選んでる。だから侵入犯は底抜けのアホじゃなくて、それなりに場数を踏んだ泥棒だよ。そして普通の泥棒なら、非常ベルがある家はまず狙わない。高級住宅街ならともかく、このあたりじゃね。

「たぶん、セリーンから非常ベルが切れてるのを聞き出してたんだと思う。それでも用心して、ヒューズボックスに一番近いキッチンの窓から入ることにした」

 ベールズはもう一度、非常ベルの箱を見上げた。

「この手の非常ベルは窓を割ったり、鍵以外のもので錠をこじ開けようとすると鳴るわけだけど、正規の鍵を使ってても回し方がまずかったりすると、誤検知して鳴ったりすることがあるんだよ。酔っぱらって手許が覚束ない時とか、特にね。操作キーがあればすぐに切れるから、ちょっと鳴るだけならご近所さんも『またか』くらいに思って、そこまで気を惹かない」

「もしセリーンが嘘を吐いてたとしても、ヒューズを抜くかどうかして電気を止めれば、ご近所さんは気にしない。そういうことか?」

「そういうこと」

「わかった」カリオペは視線で『続けろ』と言った。

「で、侵入犯のことなんだけど。金目のものっていうよりも、『特定の何か』を探してたって印象が強いかな」

「それだ」コールドウェルが口を挟んだ。「俺もそう思った」

「金目のものが目当てなら、抽斗を片っ端から引っ張り出すことはあっても、アイスクリームを流しに出したり、ソファの詰め物をはがしたり、コートの裏地を剥いだりしないと思うんだ。その『特定の何か』が隠されてるって確信がなければ、あんな荒らし方はしないと思う」

 カリオペが訊いた。「なんなんだその、『特定の何か』ってのは?」

「わからない。手紙とか写真とか、その類じゃないかなって思うんだけど」

「なぜそう思うんだ?」

「どっちもこの家にないんだよ」ベールズは親指を立てて、家を指した。「普通、リビングとか寝室には家族の写真が置いてあるものでしょ? でも、どこにも写真一枚ない。リビングには書きものビューローがある。普通はそこに日記とか、送られてきた手紙とかが入ってるよね。遠くの親戚とか、昔の友達からのがさ。でも一つもない」

「住所録(アドレスブック)もなかった」今度はフェルプスが言った。「金目のものよりも交友関係とか、そういう情報に興味があったように見える」

「それと、収支もかな。どんなずさんな人でも家計簿くらいはつけてるものでしょ? それもない。売り掛けの伝票とか、小切手帳とかもない」

「俺の経験からいくと、そういったものを狙う押し込みの犯人ってのは、たいてい私立探偵なんだが」コールドウェルは煙草の煙を鼻から吹き出した。

「でも、拷問した挙句殺人までする私立探偵はいないでしょ。営業停止どころじゃ済まないし」

 拷問の上で殺した場合、第一級殺人が確定する。殺意のない、通常なら過失致死になるようなケースでも、拷問の結果の場合は殺人罪で訴追されうるのだ。第一級殺人の刑の下限は二十五年であり、上はガス室送りである。

「収支はボクも気になってたんだけど、他をあたるしかないかあ」

 フェルプス刑事が訊いた。「何か気になることがあったのか?」

「うん。遺留品の抱鞄なんだけどね、偽物のグッチの模造駝鳥革(オーストリッチ)でボロボロだったんだよね。なのに、鞄の中には金張りでエナメル塗りのパウダーケースがあったんだよ。煙草もチェスターフィールドだったし。かと思ったらライターは戦時中の偽ジッポだったりするし」

「偽グッチを買うくらいには見栄があり、金張りのパウダーケースを買えるくらいには金があるのに、鞄はボロいまま?」

「うん」

「普通は鞄の方を先に買い替えるよな?」

「そうだよ。大切な人からのプレゼントとかなら話は別だけど、ここの遺留品を見る限り、そんなこと気にする性格でもなさそうだしね」

 結婚指輪を外していたのも、そのためかもしれない、とベールズは思った。十八金の、それなりに値の張るものではあったが、見た目にはやや地味だ。そして指輪のことを考えたことで、セリーンが中指に嵌めていたはずの指輪の件をマッコールに訊き損ねたことを思い出した。後で電話をかけるか、明日以降に出直して対面で訊くかしなければ。

「ところで、旦那はどこにいるんだ?」

 カリオペがあたりを見回しながらした質問に、コールドウェルが答える。「さあな。裏の奥さんが言うには、しばらく前から別居してるらしい。住所は知らないとよ」

 カリオペが鼻から溜め息をついたところで、表通りを青い戦前型のフォードが一台、徐行しながら通り過ぎた。フォードはそのまま右隣の家の私道に乗り入れ、駐車スペースでキーッと甲高い音を立てて停まった。ブレーキの油が足りていないようだ。

「ボクが話を聴いてくる。いいよね?」

 ベールズが眉を上げながら訊くと、コールドウェル刑事は隣家の方に手を振って短く答えた。「お好きに」

 ベールズは続いて、フォードから降りてきた女性――遠目にも中年くらいとわかる疲れた顔つきをしている――を目を細めて見ているカリオペに視線をやると、投げやりな声で「お前に任せる」と返された。最後にフェルプスに目をやった。

「一緒に行ってもいいか?」

「お好きに」

 ベールズが先ほどのコールドウェルを真似て答えると、真似られた当人は苦笑を浮かべ、フェルプスは眉を上げてひょうきんな顔をしてベールズを笑わせた。

 

 二人は一旦歩道に出てから、隣家の私道に入った。先ほどの女性はまだ青いフォードの脇にいて、板塀越しに心配そうな視線をヘンリー邸に向かって投げていた。年の頃は四十路から四十代前半といったところだろう。お出かけ用らしい白とコーラルピンクの婦人背広(レディース・ジャケット)に、コーラルピンク単色のペンシルスカート、白いパンプス、ナイロンストッキング。パステルカラーの彩り豊かな花柄のネッカチーフを首に巻いており、揃いの柄のリボンが白い帽子に巻かれている。お腹の前で心配そうに組んでいる手の指には安っぽい金色の結婚指輪が見えた。

「すみません、奥さん」ベールズは声をかけた。「ハコス刑事とフェルプス刑事、ロス市警(LAPD)です。お隣のことで、いくつかお聞きしたいことがあるんですが」

「セリーンに何かあったんですか」

「ミセス・ヘンリーのことをご存知なんですか、ミセス――」

「ホーガンです、ジェニファー・ホーガン。セリーンに何かあったんですか? 彼女は無事なんですか、お巡りさん(オフィサー)?」

「刑事(ディテクティブ)です、ミセス・ホーガン。すみませんが、詳しいことはお教えできないんです」フェルプスが厳しく、しかしどことなく申し訳なさそうな声でそう言った。「ミセス・ヘンリーと親しかったんですか、ミセス・ホーガン?」

「ええ、もう二十年近くお隣りどうしなんですもの。子供が同じ時期にできたので、子育てでも協力しあったりしたんです」

「でしたら、いくつか質問に答えてもらえると助かります」フェルプスはそのまま、ホーガン夫人に質問を返す暇を与えずに続けた。「昨晩、こちらの家で大きな物音がしたりしませんでしたか? ものをひっくり返したり、投げつけたりするような音が」

「ええ、しました」

「何時ごろのことか、憶えていますか?」

「九時半ごろだったと思います。ジェイコブが――セリーンの夫が九時過ぎに帰って来て、すぐにひどい言い合いが始まったんです。言い合いはそのうち物の投げつけ合いになったらしくて、彼は九時半になるより前に出ていきました。それからセリーンは十時ごろまで、大きな音で音楽をかけながら、お酒を飲んで、家の中で家具に当たり散らしていたんです」

 ベールズは得心して、フェルプスとちょっとだけ目を見交わした。花瓶や酒瓶を壁に叩きつけて割ったのは、押し込み犯ではなくセリーンだったのだろう。泥棒は普通、ガラス瓶を叩き割って大きな音を立てたりしない。ヘンリー邸に押し入った犯人も、ご近所の注意を惹きたくないのは普通の泥棒と同じだったはずだ。

 フェルプスが几帳面にメモを取っている間に、今度はベールズが質問を投げた。「それで、セリーンはその後出かけたんですね?」

「そうです。もうすっかり酔っぱらっているのが声を聞くだけでもわかるくらいだったんですが、自動車で。危ないとわかっていましたが、止めませんでした。彼女はこうと決めたら何を言っても聴かない――とりわけ腹を立てている時や酔っている時には――って、長い付き合いで知っていましたから」

 確かディック・マッコールも似たようなことを言っていた、とベールズは思い出した。『一度言い出したら聞かない性格』だと。加えて、バーテンダーの証言とも一致する。『目に青タンを作って、すでにかなりひっかけた状態でやって来た』と言っていたはずだ。

「セリーンはそれ以降、ここに帰ってきましたか?」

「いいえ。でも、わかりません。私も日付が変わる頃には、もうベッドに入っていたので。あの、お巡りさん――」その声が恐怖と動揺で震えていたので、ベールズはわざわざ呼称を訂正しようとはしなかった。そして同時に、スムーズに情報を引き出せるのはここまでだと悟った。

「セリーンに何か――恐ろしいことがあったんですね。教えてください。セリーンは無事なんですか?」

 息を吸ったフェルプスを、ベールズは目で制した。これ以上ごまかしても、彼女は喋ってくれなくなるだけだ。そしてセリーンの死を伝えるのは、担当の殺人捜査員である自分とカリオペの仕事だ、とベールズは考えた。

 ベールズは短く、感情を交えずに言った。「お気の毒ですが、ミセス・セリーン・ヘンリーは昨晩、殺害されました」

「殺害?」

 ホーガン夫人の両目が、いましも目玉が眼窩から飛び出してしまいそうなほど見開かれた。彼女は陸に揚げられた魚のように口をぱくぱくさせてから、絞り出すような声で訊いた。

「死んだの? セリーンは、死んだの?」

「はい。失礼」ベールズはそう言って、よろよろと後退ったホーガン夫人の腰を支えた。「お宅に入りましょう、ミセス・ホーガン。落ち着ける場所で座って、お水かお茶を飲みましょう」

「ええ、ええ、はい……すみません」ホーガン夫人はすっかり涙声になっていた。「でもいったいどうして……どうしてセリーンは殺されたんですか? どうして? なぜ?」

「ボクたちは、それを調べているんです」

 

 それから一時間近くかけて、涙と悲嘆にくれるホーガン夫人からできる限りのことを引き出すと、ベールズは自分の名刺を置いて、フェプルス刑事とともにホーガン邸をあとにした。

 ヘンリー邸の前に戻って来ると、ちょうどカリオペの黒と赤のハドソンが戻ってきて、フォード警邏車の後ろに停まるところだった。マッコールに件の指輪のことを訊きに、ダウンタウンへ戻ってもらっていたのだ。路肩の警邏車は一台だけになっており、現場鑑識のシボレーはいなくなっていた。

 ベールズはハドソンから降りてきたカリオペに訊いた。「どうだった?」

「ああ。大粒のガーネットの指輪だそうだ」

 カリオペは大きな紙袋を携えており、その中をがさがさ掻き回してから、油紙で包まれたホットドッグを取り出した。

「食うか?」

「いや、ボクは――」ベールズは断ろうとしたが、それを遮って彼女のお腹がぐうと鳴った。「おい! ボクより先に返事するな!」

 顔が真っ赤になったベールズを見て、カリオペはげらげら笑い、ドッグをぽんと投げ渡した。

「食えよ。何か腹に入れておかないと、そのうち倒れるぞ。コール、あんたは?」

「もらおう、俺の分もあるんなら」

「俺の分は? ないのか?」ヘンリー邸から出てきたコールドウェルが、不服そうに訊いた。

「ああ、あんたはやり手なんだから、自分の昼飯くらい用意できるだろ。冗談だよ」

 それからカリオペは立番のケラー巡査にもドッグとコーラの瓶を渡し、十分間休憩するように言いつけた。

 四人は縁石に腰かけたり、警邏車のフェンダーにお尻を乗っけたりしてドッグをぱくつきながら、情報を共有し合った。

「ガイシャの動きをまとめるぞ」カリオペは、口の中のパンとソーセージをチェリーコーラで流し込んでから言った。「彼女は昨晩九時ごろから九時半ごろにかけて、旦那のジェイコブ・ヘンリーと言い合いをした。言い合いは手が付けられなくなって物の投げ合い――証人によればセリーンによる一方的な投げつけ――に発展し、我慢の限界に達したジェイコブはセリーンを殴り、目に青痣をこしらえたらしい」

「肯定」口いっぱいにドッグを頬張ったまま、ベールズはもごもごとそう言った。これは泣き濡れるホーガン夫人から、なんとか引っ張り出した情報の一つだった。『ジェイコブに青タンを作られた』と、酩酊し怒り狂ったセリーンが喚いていた、と。

「それが九時半より少し前。ジェイコブは出ていき、セリーンは十時前までこの家で酒を呑み、物に当たり散らして家の中を荒らしていたが、自動車で出かけた。以降、彼女はこの家に帰っていない」

「危ねえなあ」コールドウェルがしかめっ面で言った。「よく誰も轢かず、どこにもぶつけずに官庁街(シビックセンター)まで行けたもんだよ」

「セリーンはその後、『バンバ・クラブ』へ行き、さらに酒を呑んだ。そこで現在身許不明の男と知り合い、駐車係(ヴァレー)の記録によると十一時にガイシャ自身の車で退店している。駐車係の坊主はダウンタウンの安アパートメントに住んでたんで、ちょっと寄ってきてつついてみたが、男の方が運転席に乗ったそうだ。そいつの車を預かった憶えはないと言っていたから、その男は徒歩か電車で店に来たんだろう」

「ちぇ」ベールズは舌打ちした。「あそこに自動車が残ってれば一発だったのに」

「そうそう上手くいかないのが、この仕事だ。マッコールによると、それから十一時半ごろまで断続的にジェイコブの別居先に電話をかけていたらしい。一回も出なかったらしいけどな。電話番号を記録課(R&I)に調べさせたが、電話帳に出てないそうだ」

「それならボクがわかる。ジェイコブはお隣りさんに、セリーンに何かあった時にって連絡先を教えてたんだよ。ハントリー通り千五十番地の二号。MI(ミシガン)局の二二二一番、だよね?」ベールズの言った電話番号に、カリオペが首肯した。「この番号は後で調べよう。ホントに十一時から十一時半まで断続的にかけたのか、ホントに最初の一回以外出なかったのか、電話会社(パシフィック・ベル)に問い合わせる」

「記録課にやらせてる。だが、お前も警察に三年いればもう知ってるだろうが、電話会社のやつらは返事が遅い」

「じゃ、ひとまずそっちは保留で。指輪はガーネットだって?」

「ああ。大粒の赤いガーネットの指輪だそうだ。マッコールは当初、前の旦那からの婚約指輪だと言っていたが、『ロズリン・アンド・アレキサンドリアに問い合わせてお前が言っていたことと違ったら、奥さんの目の前でしょっ引いてやるぞ』と脅したら、自分が贈ったものだと認めたよ」

「マッコールが?」

 ベールズは目を丸くしたが、それを見たカリオペは『まだまだだな』という風に笑った。「セリーンについて話してる時のマッコールの目つきに気づかなかったか? まあいい。

「数年前――ジェイコブとセリーンが知り合うよりも前、前の旦那と別れた後に、あの指輪を贈ってちょっとだけ付き合っていたそうだ。ジェイコブは前の旦那からの贈り物だと思っているし、前の旦那は指輪のことなど何も知らんだろう、とよ」

 でももし、何かの拍子にその指輪の贈り主を知ったら? 自分が贈った結婚指輪は嵌めず、前の男が婚約指輪代わりに贈った指輪を身につけ、その男のクラブで男漁りをし、毎日朝帰りをしているとジェイコブが知ったら?

「どんな聖人でも、我慢の限度ってものはあるよね?」

「ああ。イエスだってリンゴの木に八つ当たりしたくらいだ」

「イチジク」コーラをちびちび飲んでいたフェルプスが口を挟んだ。「喉を潤せなかった腹いせにイエスが枯らしたのはイチジクの木だ」

「どっちでもいい。私が言いたいことはわかるだろ。マッコールがどう言おうと、ジェイコブ・ヘンリーはキリストじゃない。本当に他の人間より我慢強いのかもしれないが、限度は絶対にある。住所もわかったことだし、ぜひとも話を聴いてみる必要がありそうだな」

「家にいるといいんだけど。そろそろ昼休みも終わっちゃう頃だし」

「じゃあ急がないとな」

「俺たちは一応、別の角度から調べるよ」コールドウェルがそう言った。「押し込み犯はそっちの犯人と同一人物なのかもしれないし、そいつとグルなのかもしれない。全くの別件がたまたま重なっちまったのかもしれない。とにかく、盗犯捜査の観点から調べを進めてみる」

「わかった。じゃあなハリー、コール」

「じゃあな。ホットドッグとコーラをごちそうさま」

 

 

 

 ハントリー通りは、三番街のボイルストン街とビクセル街の間の街区(ブロック)の上に、かすがいをかけるような形でかかっている住宅街だった。千五十番地はそのちょうど真ん中あたりの北側にある連棟住宅(テラスハウス)で、化粧漆喰の壁とテラコッタ瓦の屋根を持つ家々が、屋根瓦と同じテラコッタ焼きの煉瓦が敷かれた細長い中庭の左右に、軒を連ねてずらりと並んでいた。

 角灯型の門灯が吊られた化粧漆喰のアーチを抜けて中庭に入ると、アパートメント二号は右手側の棟の一番手前にあった。

 最初に現場を見た時に比べれば、ジェイコブ・ヘンリーが奥さんを殺した可能性もないことはない、と言える程度に疑い始めていたので、ベールズはジェイコブを訪問するに際して、カリオペのやり方でいくことに、あらかじめ同意していた。アパートメントに呼鈴はなく、カリオペはどっしりした――ように見えるが実際にはかなり薄っぺらい――木製のドアを拳でどんどん叩いた。

「はあい」

 中年の男の声が聞こえてくると、二人は頷き合い、スーツの下から拳銃を抜き取って待った。ベールズの手にある銃は、刑事に昇進したときに支給された短銃身の三十八口径コルト拳銃――通称ディテクティブ・スペシャル――で、七か月来の相棒だ。制服時代に支給されていた標準銃身のものより取り回しはいいものの、撃った時の跳ねあがりが大きく、ベールズはいまだに扱いにくく思っていた。

「何かご用――」がちゃりとドアが開くなりカリオペがドア板を思いっきり蹴り飛ばし、ジェイコブを後ろへ飛びさがらせた。

「ロス市警(LAPD)だ!」カリオペは私物らしい陸軍制式自動拳銃(コルト・アーミー)――いったいどうやって手に入れたんだろう? とベールズは思った――の銃口を、ジェイコブにぴったりと向けて言った。「ジェイコブ・ヘンリーだな?」

「そうだ、そうだよ。なんなんだあんたら!」

 泥色の作業着を着込んだジェイコブは狼狽えながら後退りし、薄い鉄製の屑籠をひっくり返して大きな音を立てた。もっとも、突然ドアを蹴り開けられた挙句に二丁の拳銃――しかも片方は四十五口径――をつきつけられているので、狼狽えない方がおかしいともいえる。

「なんなんだ、だと? お前の妻が殺されて、警察が家に来てるんだ。用事なんて明白だろ」

「殺された? 俺の妻が? なんてことを言うんだ、この罰当たりめ!」

 ジェイコブは逆上したが、二組の銃口に狙われている状況では、両手を上げたまま罵る以外に出来ることはない。ベールズはその様子を見て、演技ではなさそうだと思った。ジェイコブに銃口を向けたまま、室内をざっと見回す。

 奥にギャレーキッチンのあるダイニングには、缶詰の豆かなにかを煮たらしい匂いが漂っていた。流しに片手鍋があり、その木製の柄が濡れているのが見える。どうやら豆を煮た鍋を洗っていたところのようだ。室内にラジオは見当たらない。ダイニングテーブルの上には、吸殻でいっぱいの灰皿と並んで新聞があるが、朝刊の『ロサンゼルス・イグザミナー』紙のようだ。厚さからして号外ではなさそうで、セリーンの身許の話も載ってはいないだろう。奥にリビングと思しき部屋があるが、そちらはダンボール箱が山積みになっている。荷解きをする余裕がないのか、ラジオどころかまともな家財道具もなさそうだった。

「今日はラジオを聴いてないの、ジェイコブ?」ベールズは油断せず、銃を向けたまま訊いた。

「ラジオ? 工場にいる間は聴いてたよ。でも見ての通り、ここにはない。たぶん、あそこの箱のどれかに入ってるだろうけどよ」

「座って、ジェイコブ」ベールズは銃をしまいながらそう言った。カリオペはそれを横目で見、不服そうな表情を浮かべはしたものの、大きな自動拳銃をスーツの下に入れた。

 ジェイコブがダイニングテーブルの、汚れた皿と新聞が前に置いてある椅子に腰かけると、ベールズは警察バッジを取り出して、ジェイコブに見えるように掲げた。

「ハコス刑事と森刑事、ロス市警(LAPD)。あなたの奥さんのセリーン・ヘンリーが昨晩、殺害されたことをお伝えします」

 ジェイコブはぽかんとした表情を浮かべた。「冗談だろ?」

「冗談ではありません。大変お気の毒でした」

 ベールズはちらっと卓上の新聞に目をやった。今朝の朝刊。一面には、まだ身許がわかっていなかったセリーンの遺体発見を報じる記事がでかでかと載っている。ジェイコブはその視線をたどった。「そんな……嘘だ」

「お辛い時なのはわかっていますが、いくつか質問をさせてください。いや、先にお部屋を見て回っても構いませんか?」

「この部屋をか? 構わないが、なぜ?」

「そういう決まりなんです。それに、奥さんのことをあれこれ訊きますから、あなたにはもう少し――落ち着いてもらってからのほうがいいので」

 ジェイコブは『勝手に見て回れ』とばかりに手を振って、答えの代わりにした。

「カリ、ここで彼を見てて。お水か何かあげて、もう少し落ち着いてもらって」

「ふん」カリオペは鼻を鳴らして答え、ラッキーストライクのパックを取り出して一本銜えた。「煙草でもどうだ、ジェイコブ?」

 ベールズはぐるりと目を回したものの、その場を任せてダイニングキッチンを見て回った。どうやらリビングは実質的に物置と化しているらしく、ジェイコブはダイニングキッチンと寝室で生活(リビング)しているらしかった。板張りの床は歩くたびにぎいぎい軋み、いきなり床板が抜けるんじゃないかとベールズをびくびくさせた。

 狭いギャレーキッチンと朝食用テーブルがあるあたりと、ジェイコブが座っているダイニングテーブルがあるあたりは、安っぽいマホガニーのカウンターで仕切られており、その上にバーボンの瓶とグラス数脚、リンゴが二個入っている籐編みのカゴ(バスケット)、電話機、そしてメモ帳が載っていた。キッチンと冷蔵庫には、ほとんど物がなかった。缶詰と瓶詰の保存食品がいくつか、ハムとチーズとマーガリン、ビールとコーラとオレンジジュースの瓶。ゴミ箱には果物の皮と食べ残し以外に生ゴミはなく、流しの片手鍋の他に鍋といえば、フライパンとパーコレーターが一つずつあるだけだ。ここでは簡単な朝食と昼食を摂るだけで、夜は外食だったのだろう。

 この種類の安物件にしては珍しく、薄っぺらいとはいえきちんとした壁とドアで仕切られた寝室に入る。ここにもいくつかダンボール箱があったが、リビングよりは整頓されていて生活感があった。ベッドは乱れていて、あまりシーツを取り換えていないらしい。饐えた汗のつんとした臭いがして、ベールズは顔をしかめた。サイドボードにアルミニウムの電気スタンドがあり、その横に写真立てが置かれていた。飛行機の露天操縦席に座り、飛行帽を被って額にゴーグルを上げた女性が、カメラに向かって親指を上げている。左手だった。中指に大きな――人間の目玉くらいありそうだ、とベールズは思った――宝石のついた指輪をしている。白黒なので断定できないが、たぶんこれはセリーンの、パイロット時代の写真なのだろう。そして中指につけているのが、件のディック・マッコールが贈ったという指輪らしい。寝室にこんな写真を置いていて、しかも伏せたりしまい込んだりしてはいないあたり、ジェイコブのセリーンに対する未練のほどが窺えた。

 クローゼットには吊るし売りの木綿のスーツが二着あり、その下にくたくたになった革靴がおいてあった。靴を手に取ったベールズは、ちょっと驚いた。思ったよりも大きかったのだ。ひっくり返して靴底の刻印を確認する。十一号だった。セリーンの身体についていた足痕を思い出す。あまり大きくなかった気がした。平均的か、それよりやや小さいくらいじゃなかった? まあ、大きい靴をそのまま履く人も珍しくはない。しかし。

 ベールズはその靴を持って寝室を出ると、ジェイコブのところへ向かった。

「ミスター・ヘンリー、この靴を履いてくれませんか」

「なんだって?」頭を抱えていたジェイコブは顔を上げ、何を言っているんだという顔をした。

「この靴です。履いてくれませんか」

「いいけど、なんで――」

「つべこべ言わずにとっとと履け」カリオペが凄んだ。

 ジェイコブは作業靴の編み上げ紐をほどき、脱いだそれを脇に置いてベールズから革靴を受け取ると、その靴紐を結び始めた。その間にベールズは作業靴を取り上げ、臭いを嗅がないように顔から極力離して靴底の刻印を読んだ。十一号だ。

「履いたぞ」

「どうも」

 ベールズはしゃがみ込み、靴を掴んで様子を見た。靴は足にぴったりはまっていた。なんなら、少しきつめでさえある。十二号では大きすぎるだろうが、十号以下の靴はまず入らないだろう。

「ありがとうございます。もう脱いでもらって構いません。ちょっと失礼して、電話を借りますよ」

「ああ、もう。好きにしてくれ」

 ベールズは再び監察医務院に電話した。回線の向こうで受話器を取った相手は不機嫌で、それを隠そうともしなかった。「あのね、ベー、明日の夕方までに解剖報告書が欲しいなら、私の邪魔をしないのが一番賢明だと思うよ」

「ごめんファウナ、それはわかってる。でも、どうしても今すぐ確認したいことがあるんだよ。すぐ済ませるから」

「わかった」その言葉は大きな溜息とともに吐き出された。「何?」

「セリーンの遺――身体に下足痕がついてたよね。あれのサイズはわかる?」

「求めてるのは断定? それとも、私の個人的な意見?」

 ファウナがそう訊いてくるときは、まだ公式には断定できないが、個人的な意見は固まっている段階だとベールズは知っていた。「専門家としての意見をお願い」

「紳士用の八号」ファウナは言下に答えた。「多少の誤差はあるかもしれない。けれど、個人的には八号だと思ってる」

「とすると、平均よりも足が小さめの男の人、ってことになるかな?」

 男性の靴のサイズで平均的と言われているのは、九号から十号だ。男物の場合、七号より小さい靴は作られていない。それは子供用か、特注品ということになる。

「十一号や十二号ってことはないよね?」

「ないわね、絶対に。そこは断定してもいい」

「わかった。ファウナ、忙しいのにありがとう」

 電話を切り、メモ帳の横に電話代の五セント玉を置こうとした時だった。光の角度の関係で、メモ帳に溝が刻まれているのが見えた。どうやらジェイコブは、かなり強い筆圧の持ち主らしい。ベールズはそれを手に取ると、備え付けの鉛筆の芯を寝かせて、一番上の用紙を浅く塗りはじめた。

「何をしてるんだ?」カリオペが訊いた。

「映画で観た探偵の真似事」

 間もなく、灰色になったメモ用紙に白抜きで文字が浮かび上がった。

 

――連絡ありがとう。君の助けが必要になったら電話するよ。ジェイコブ

 

 書いたメモ用紙を折りたたんでメッセンジャー・ボーイに渡したのだろうか。あるいは、電報を電話託送する時に、綴りを確認するために電文を書き下したのかもしれない。この部屋の現状を考えれば、メモ用紙を便箋代わりにした可能性もある。なんにせよ、誰かに宛てたメッセージだ。それは間違いない。誰に? そこが問題だ。 何をどう助けてもらうのか? そこも問題だった。

 ベールズはメモ帳を元の場所に戻し、空いていた椅子――おあつらえ向きに、円形のダイニングテーブルの周りには三脚の椅子があった――を取って、ジェイコブと向き合うように座った。

「落ち着きましたか、ミスター・ヘンリー?」

「ああ、まあ」声は相変わらず打ちひしがれた男のそれだったが、芯には落ち着きが戻ってきていた。

「では、いくつか質問をさせてもらいます」

 ベールズはそう言って、薄い黒革で装丁された手帳をめくり、万年筆のキャップを外した。

 

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