※この作品はR-18です。

H.L. Noire ~Neology~   作:Marshal. K

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Celine Henry Case #4

「ミスター・ヘンリー、あなたは昨晩セリーンに会いましたか?」ベールズはジェイコブに訊いた。

「ああ、会ったよ。いくつか話しあいたいことがあって。ただ……」ジェイコブはこめかみを掻いて続けた。「ちょっと、話しあいというか言い合いになっちまって……手が付けられなくなって、俺はすぐ帰ったんだ」

「それは何時頃のことですか?」

「その――すまん、正確な時間はわからなくて……たぶん、九時とか? もっと遅かったかもしれないが……そのあたりのはずだ」

 

 曖昧だが、隣人のホーガン夫人の証言とそう矛盾していない。夫人が言ったように、飛び出すように帰ったなら、正確な時刻を憶えていなくてもおかしくはないだろう。ベールズはそう判断した。

 

「セリーンはそのあと外出しました。行き先をご存知ですか?」

「さあ」ジェイコブは急に前かがみになり、床板がぎいっと不満の声を上げた。ベールズの靴がひどく気になるようで、そこを見ながら激しくまばたきを繰り返した。「たぶん、どこかのバーだろ。俺は知らない。ほんとだよ」

「ねえ、ジェイコブ」万年筆の尻でメモ帳をとんとんと叩きながら、ベールズはさらりと敬語を抜いて言った。「ボクたちはなにも、君のケツを蹴飛ばしに来たわけじゃないんだよ。ただ、ボクたちに嘘をつくようなら、こっちもそうせざるを得なくなるんだけど」

「脅してるのか?」

「いや。チャンスをあげてるだけ。人間は誰でも、ちょっとは記憶違いをしてたり、思い出すのに時間がかかったりするでしょ?」

「……いま思い出したが、セリーンの行きつけは『バンバ・クラブ』って、官庁街(シビックセンター)のナイトクラブだ」そう言ってジェイコブはベールズの顔を窺い、表情が変わらないのを確かめた。「知ってたんだな」

「まあね」

 

 ベールズが短く答えると、ジェイコブは溜め息を吐いた。

 

「なら、あそこの連中からも話を訊いたんだろ……。昨晩、あそこのバーテンが電話してきたんだ、『セリーンが手をつけられなくなってきたから、迎えに来てほしい』って……。でも、俺は行かなかった。いやだと言って、電話を切ったんだ……」声が震え、ジェイコブは一息つく必要にせまられた。「そのあとも何回か電話が鳴ったが――全部無視した。俺は……俺は迎えに行くべきだったんだ。そうしてれば、今ごろセリーンは……」

「じゃ、君は一晩中ここにいたんだね?」

「ああ……ああ、そうだ」

「電話は何時ごろまで鳴ってた?」

「十一時――十一時半ごろまでだったかな。ひょっとしたら真夜中ごろまでだったかもしれない。だが、それくらいだ」

 

 ベールズはそれを書きとめた。これは電話会社(パシフィック・ベル)からの回答次第では、間接的なアリバイになりうる。ただし、ここから交換台に問い合わせてもわかることではあるから、その問い合わせの有無も照会に含めたほうがいいだろう。

 

「でも、君が本当に一晩中ここにいたとしても、奥さんを殺してないとはいえない」

「……どういうことだ?」

「君には強力な動機があるよね。セリーンは呑んだくれの娼婦だった――」ジェイコブが怒りを含んだ視線で刺してきたが、ベールズは構わず続けた。「君は彼女のために身を粉にして働いてるのに、彼女はそのお金で贅沢三昧をして、男遊びまでしてる。そのうえ君に感謝の一つもせずに、罵声を浴びせて殴りつける始末。そりゃ、手の一つも出したくなるよね?」

「俺は――俺は妻に手を出したことはない」煮えたぎる怒りを抑えつけている声だったが、視線は明後日の方向を向いている。

 ベールズは穏やかに言った。「でも、昨晩は違った。でしょ?」

「何のことかわからないな」

「いや、わかってるはずだよ。お隣りのミセス・ホーガンがしっかり聞いてた。君が出ていった後、セリーンは君のことを独りで罵っていたらしいからね」

「世話焼きばあさんめ……」ジェイコブは怒り混じりの溜め息を漏らした。「ああ、そうだよ。俺はセリーンを殴った。目に痣を作ってやったよ。でもな、その前にあっちがフライパンで殴りかかってきたんだ、他にどうしろってんだよ」

「セリーンに手を上げたことは認めるんだね?」

「ああ」

 タイミングを計ったようにカリオペが割り込んだ。「それが気持ち良かったんじゃないのか?」

「……どういう意味だ?」

「そのまんまの意味さ」カリオペはそう言いながら立ち上がると、ジェイコブの背後に回って身をかがめ、彼が座っている椅子の背もたれに両手をついてその口を耳元に寄せた。

「周りの人間はお前のことを、セリーンにぞっこんで愛ゆえに全てに耐えている聖人君子だと言っていたがな、実際には違うんだろう。お前はただの意気地なしだ。愛なんかじゃない。お前は女房にもっとひどく殴り返されるのが怖くて、愛を言い訳にして手を上げられないだけの腑抜け野郎だ」

「違う、違う! 俺はセリーンを愛していた!」

「違うもんか、腑抜け野郎!」カリオペは出し抜けにテーブルを殴り、食器や灰皿がガチャンと大きな音を立てた。「どうせお前のディックも大したことないんだろう。え? お前の度胸と同じくらいふにゃふにゃで、セリーンを満足させられなかったんじゃないか? それで彼女は娼婦同然になったんだろう。結婚指輪を外して、誰彼構わず股を開いてまわり、お前が満たしてくれないものを満たそうとしてたんだ」

「その罰当たりな口を閉じやがれ!」

 カリオペはせせら笑い、馬鹿にしたような調子を一切崩さずに続けた。「昨晩、お前は初めて彼女を殴った。女を殴ったことどころか、人を殴ったことすら初めてだったんじゃないか、え? それはそれは気持ちよかっただろう。胸がすくような気分になったはずだ。お前は勢いのままに家を飛び出したが、それが忘れられなかった。胸はすっきりしたが、お前がいままで腹の底に溜め込んできたものは、依然そこにあった。

「そうこうしてる内にクラブから電話があって、また燃え上がったんだろう。それをすっきりさせるために、お前はもう一度彼女を殴る必要があったんだ。愛想が尽きたとばかりに迎えを断れば、あとの電話に出なくても寝てたんだと言い訳がつく。お前はユニオン街の家を張って、彼女が帰ってくるのを待ち伏せたんだ。犯人はお前だと悟られないために鍵を使わず、裏口の窓を割って押し入り、セリーンを連れ去ったんだ。空き地に連れて行き、彼女を殴り、踏みつけ、犯してからまた殴った――」

「違う、違う違う違う違う!」

「違わない! お前がやったんだ!」カリオペが椅子をなぎ倒し、ジェイコブは床にどすんと転がった。ジェイコブが片肘をついて身を起こそうとすると、カリオペはそれを足で払って転がし、彼の鼻先から髪の毛一筋分しか離れていないところを、どしんと踏みつけた。

「お前がやったんだ!」どしん。「呑んだくれの娼婦に罰を与えるために、お前は彼女を滅多切りにしたんだ!」どしん。「女に鼻面を引きまわされていた自分のことを忘れるために、彼女を踏みつけたんだ!」どしん。「彼女が誰のものなのか思い知らせるために、生きている間にも死んだ後も彼女を犯したんだ! お前だ! お前がやったんだ!」

「違う、俺じゃない!」ジェイコブの声は、もはや涙声だった。「神に誓って違う! 我が主イエスに誓って、俺は彼女を愛してた!」

「そうとも、お前は彼女を愛してたんだろう」カリオペは静かに言い、おもむろに椅子を持ち上げると、それをジェイコブの目と鼻の先に叩きつけた。安物の椅子が一撃でばらばらになり、弾け飛んだ横木がジェイコブの顔面を直撃したが、カリオペは構わなかった。「だが、彼女はお前を愛さなかった。お前は愛人たちと違って凡庸で、意気地なしで、短小で、愛する価値は何一つないと、戦争が終わってからセリーンは気づいたんだ。お前はそれを知っていた。ずっと昔から知っていた」

 

 カリオペは屈みこみ、ジェイコブの前髪を掴んで無理矢理持ち上げ、涙まみれのその顔を鼻先が触れ合いそうな距離から覗き込んだ。

 

「そして昨日、それを全部清算したんだ。お前こそが、彼女が愛するに相応しい男だと証明するために。そうだろう。神に誓うと言うなら、神に告白しろ。お前が自分の妻に、アル中の売女(ばいた)に何をしたのか、父なる神に告解するんだ。神の善き羊飼いに誓って、真実を話すがいい」

 

 カリオペは、まるで汚いものを捨てるようにジェイコブを放し、その頭がごつんと音を立てて床に落ちるままにした。

 

「違う……違う」ジェイコブは胎児のように体を丸めて泣いていた。「天に座(ま)します神こそ知りたもう、俺はやってない……本当にやってないんだ。俺はセリーンを愛していた。俺は殺してなんかいない……」

 

 カリオペは一歩引き、ベールズに目で合図を送ったが、当の本人は椅子の上で固まっていた。床の上で自分自身を掻き抱き、子供のようにしくしくとむせび泣いているジェイコブを、ベールズは茫然自失の態で眺めているだけだった。カリオペは舌打ちし、その肩をばしんと叩いて言った。

 

「しっかりしろ。こいつを落ち着かせて、護送車が来るまでもう少し何か引き出せないかやってみろ。私は電話をかけて、その後は外で待ってる」そう言って、どすどすと電話機のあるところへ歩き去った。

 

 

 ベールズはその後、カリオペが中央警察署に電話をかけて護送車の派遣と、ペンタトール注射と嘘発見器の用意を要請するのを聞きながら、憔悴しきったジェイコブに寄り添って色々と水を向けてみた。

 電話横のメモについてそれとなく訊いてみると、サン・バーナーディノ市の軍隊仲間に宛てた郵便書簡(レターカード)だと返ってきた。ピート・ブランチャードとかいうその男は、ロサンゼルスへ出てきた時にセリーンの現状を偶然目にして、『マリブにあるアルコール依存療養所に伝手があるので、もしそのつもりがあるのなら、彼女を入院させるよう口利きできる』と書き送ってきたのだという。ベールズはその話を信じた。ジェイコブはもう、嘘をつけるような心理状態ではなかったからだ。とはいえ念のために、ブランチャードの住所は聞き出しておいた。

 それ以上目ぼしい収穫はなかった。

 

 

   *

 

 

 ジェイコブ・ヘンリーを乗せたインターナショナル・ハーヴェスターK型の護送トラックが縁石から離れるのを並んで見送りながら、ベールズはカリオペに言った。

 

「知らなかったよ。ボクの新しい相棒がサディストのクソ女だったなんて」

「そうか」カリオペの返答は静かだった。ロンソンのシガレットライターに火をつける、かちっという音の方が大きく感じられるくらいに。「お前は私が思った通りのやつだったな。ジェイコブに同情しきって、はらわたが捩れる思いであそこに座ってたんだろう。アホみたいにぽかんとして」

 

 さっきまで捩れていたはらわたは、今では煮えくり返っていたので、ベールズは銜え煙草のカリオペに平手打ちを喰らわせてやろうかと振り向き、その目をきっと睨みつけた。

 カリオペの目は、どんよりと曇っていた。間違っても、暴力に昂奮したサド女の目ではなかった。ベールズがその目つきにたじろぐ間に、カリオペは二口しか喫っていない煙草を側溝に放り投げると、自分のハドソンへすたすた歩いて行った。運転席のドアを開けてから、車内に滑り込む前に無感情な声で言った。

 

「サディストのクソ女か。私は毎日毎晩、自分がそうであったらいいと思ってる。お前からそう見えてたなら、まずまず成功だな。あいにく私は刑事の仕事というと、このやり方しか知らないんでね」

 

 

   *

 

 

 夕方のロサンゼルス市庁舎。南棟六階、中央方面刑事部殺人課の事務室。薄暗く陰鬱なその部屋は、ベールズの気分にそっくりだった。ベールズは自分のデスクで捜査書類の原稿を書いていた。デスクの抽斗に入っていた安物の事務用万年筆は、市警察のレターヘッドが捺された薄っぺらい公用箋を引っ掻くような書き心地で、ベールズの暗い苛立ちを嘲笑っているようだった。

 マグカップ四杯分の警察コーヒー――コーヒーとは名ばかりのぬるい泥水のような代物だが、とにかくカフェインは摂取できる――をお供に必要な書類を一通り書き上げたベールズは、万年筆にキャップをはめ、かすれ気味のインクで書かれた文章を読み返した。

 

 ジェイコブ・ヘンリーの被疑者供述書。チオペンタール――幸せな気分になれる魔法のおくすり――を投与され、キーラー式ポリグラフ装置に繋がれたジェイコブは、昼にカリオペに言ったのと同じことを繰り返した。『俺はやっていない』と。訊問は中央警察署で行われ、ちょうど科学捜査課はその庁舎の二階にあったから、科学捜査官のレイ・ピンカー技師は、供述書に添付する鑑定報告書を超特急で作ってくれた。『被疑者が虚偽の供述をしている可能性は、非常に低い』と。それから、中央警察署長のゴードン・レアリー警部に宛てた、ジェイコブ・ヘンリーの釈放手続要請書。

 レターサイズの公用箋十六ページ分――タイプライターで清書したらもっと増えるだろう――に及ぶ捜査報告書には、今日一日のベールズとカリオペの捜査活動が細々と書き記されている。ディック・マッコールとジェニファー・ホーガンの供述に関しては摘要に留め、個別に参考人供述書を作成した。四つの供述書――ジェイコブの分は別宅で録取した第一回供述書と、中央警察署で録取した第二回供述書に分かれている――はタイプ清書後に中央警察署へ送られ、ジェイコブの分は署で、あとは署員がそれぞれの自宅に持参して署名を求め、済み次第ドネリー警部に送達される。

 パシフィック・ベル電話、正式にはパシフィック・コースト電話電信会社(テレホン・アンド・テレグラフ)への照会依頼書。すでに電話口で依頼は発出されているが、書面での依頼と回答が、大陪審と法廷では求められるから、この依頼書を一々作成して送付する必要がある。面倒ではあるが、誰であれセリーン・ヘンリーを惨たらしく殺した人物をガス室送りにするためには、避けて通れない書類の一つだ。

 中央署のトマス・フーリハン巡査から、地取り捜査の報告書が上がってきていた。思った通りの内容だった。あの周辺は商業地区で、犯行時刻と推定される時間帯はほぼ無人になる。商店主たちや店員たちは誰も、該当する時間帯はその辺りにいなかった。収穫ゼロ。フーリハン巡査は気を利かせて中央方面風紀課に、現場の公園を縄張りにしているホモたちの情報を問い合わせ、彼らにも聴取していた。成果はゼロ。彼らは当日、イングルウッド市で行われた内輪のパーティー――間違いなくホモたちの乱交パーティー――にいて、あの辺りにはいなかったという。それにはダース単位で証人がいるらしい――法廷では使えない証人とはいえ。裏取りはまだのようだが、自分が風紀係にいたころの経験に照らしてベールズは、満更嘘ではなさそうだ、と思った。とはいえ一応、裏取り捜査の命令書を出しておく。

 最後に、捜査報告書の摘要書。これは事務室の隅にある旧式のスミス=コロナのタイプライターで、自分でタイプ打ちしたものだ。長大な捜査報告書の内容を、レターサイズのタイプ用箋三ページ分にまとめたものである。

 ベールズは、自分の手に馴染んでいる私物のシェーファーの万年筆で必要な書類に署名すると、その書類の山を事務室の外のタイピスト・プールまで運び、捜査報告摘要書以外の書類原稿を渡した。ドネリー警部の執務室は、殺人課の事務室のすぐ隣にあり、どちらのドアもタイピスト・プールに面していて、さして離れていない。というのも、方面刑事部の各課は警部補の主任がそれぞれ統括するが、殺人課は慣例的に方面刑事部長が直率するからだ。

 

 ドネリー警部は在席中だった。温厚そうな警部が摘要書に目を通す間、ベールズはこっそりと執務室を観察した。ヒラの刑事や内勤警察官、タイピストなんかが使っているものとは全然違う、楢材(オーク)の立派な両袖デスクがあり、警部は年季の入った革張りの執務椅子に腰かけていた。ベールズはデスクを挟んで反対側の客用椅子に座っている。こちらの椅子は事務室にごまんとあるものと同じ、市役所備え付けの木製の椅子だった。座り心地は悪いの一言に尽きる。デスクの上には書類がたっぷりと載っていた。殺人課の刑事たちから上がってきた捜査書類、各課の主任たちが上げてきた重要事件の捜査書類、次席警部が取りまとめて上げてくる庶務関係の書類に、上司である方面部長や刑事部長からの命令書。もちろん、警部自身が書かねばならない命令書や報告書や上申書などの原稿もある。

 隣の殺人課と異なり――そして市警本部の大部分の事務室と異なり――警部の執務室は明るかった。窓を二つ占有しているとはいえ、これらは南向きで、夕方の今では採光性に乏しい。しかし吊り下げ照明の電球は明るく、室内を煌々と照らしている。警部は市の施設課にしかるべきコネがあるらしい、とベールズは見た。

 殺人課との仕切り壁を含む左右の壁は、書類キャビネットでほとんど覆い隠されていた。重要な捜査資料や命令書などが保管されているのだろう。警部の右手にあたる壁だけがキャビネットから免れており、年季の入ったテレタイプ社製の印刷電信機(テレプリンター)が鎮座している。足踏みミシンとタイプライターを悪魔合体させたようなこの装置は、警察専用の電信回線に繋がっており、急送命令書や緊急手配書などの一斉送受信に使われるものだ。また、全米電話電信会社の加入電信(テレックス)網にも接続しているので、州警察や保安局とも通達を即時にやりとりすることができる。

 廊下と執務室を区切る松材と凹凸ガラスの仕切り壁の前には、楓材(メープル)のサイドボードが置いてあった。天板には白いレースのクロースが敷かれ、銀メッキ真鍮のトレイの上にコーヒーサイフォン、アルコールランプ、陶器のコーヒーカップ四個が並んで置かれている。それと、明らかにお酒用らしいカットガラスのグラスも二個。酒瓶は見あたらないが、たぶん抽斗の中だろうとベールズは見当をつけた。

 

「ふむ」ドネリー警部が摘要書の端をデスクでとんとんと揃え、ベールズはそちらに注意を戻した。「新米殺人捜査員の一日としては、悪くない報告書だ。このジェイコブという旦那だが。『既婚女性が殺されたら旦那を疑え』は殺人捜査の鉄則の一つだ。こいつがシロだという点には、どれくらい自信があるのかね?」

 

 警部の背後の窓が開いているのと、電動扇風機があるのとで室内は涼しかったが、ベールズは少し汗ばんでいた。声こそ優しかったが警部の目は鋭く、ベールズは面談ではなく訊問を受けているような気分になりつつあった。

 

「かなりあります。カリがシメ上げ――あー、“彼女なりのやり方”で訊問しましたが、『俺はやってない』の一点張りのままです。自白剤を注(う)って嘘発見器にかけましたが、レイも同じ意見だと鑑定書を書いてくれました。ジェイコブではないようです」

「なるほどな。では、ジェイコブの線は一旦置いておこう。とはいえ念のため、釈放後も中央署刑事係から誰か一人やって、監視をつけておく。その命令は私が出しておこう。それで、ジェイコブではないとして、他に被疑者のあてはあるのか?」

「はい。セリーンと一緒に彼女の車でクラブを出たという男が有力でしょう。すでにセリーンの車には広域手配を発出しています。明日の朝までに見つからなければ、盗難車手配も出して自動車屋にも周知を図るつもりです」

「その手配は、いま出すといい」

「しかし、最後に目撃されてから、まだ二十四時間経っていません。規則では――」

「私がいいと言っているんだ」穏やかだか有無を言わせない口調で、警部はベールズを遮った。「これは殺人事件の捜査だからな、それで足りる」

 

 ドネリー警部は書類に埋もれていた電話機を探し出し、受話器を取り上げて交通課の主任に内線電話をかけた。

 

「ルーリーか? 盗難車手配を急ぎで一件かけたいんだが。――いや、違う。殺人課の事件だ。――わかった。おい、ハコス」警部が送話口を手で覆って訊いてきた。「その自動車の車種と年式、色、ライセンス・ナンバーは?」

 

 ベールズが答えると、警部はそれをルーリー警部補に伝えて、電話を切った。

 

「ルーリーは仕事が早いからな。手配はすぐに出るだろう」

「ありがとうございます、警部」

「構わん。それで、こいつは見つかると思うか?」

「五分五分だと思います」実際には、可能性は低いと思っていたが、ベールズはそう答えた。

「そうか」

 

 警部は椅子にもたれて――古い執務椅子がぎいっと軋んだ――視線を明後日の方向にむけて考え込んでいたが、やがておもむろに口を開いた。

 

「現場の公園だが。その手の場所にはよからぬ輩が出没するものだ。不倫カップル、娼婦とその客、ホモ、そいつらをカモにする強盗、愚連隊(グリーサーズ)」

「はい。中央署のフーリハン巡査が、あの辺りにたむろしているホモたちから話を訊いています。アリバイがしっかりあるようです」

「確かなアリバイか?」

「そのようです。裏取りは必要ですが」

「私が言っているのはな、ハコス、法廷で使えるか? という意味だ」

「それは……」言葉を濁したベールズに、警部は眉を上げてみせた。「……いいえ警部、彼らは法廷では証言したがらないと思います。たとえ恋人なり愛人なりを、ガス室から救うためでも」

 

 アメリカ人は同性愛者、特に男の同性愛者に対する嫌悪感が途轍もなく強い。この国では黒人であるよりも、ナチであるよりも、共産主義者であるよりも、ホモの男である方がずっと生きづらい。女の同性愛はお目こぼしされる傾向にあるものの、男より多少はマシという程度だ。

 だから多くのホモたちは、“正常な異性愛者”に擬態して生きている。自分の性的志向をなんとか抑えつけて、妻子を儲けている者も珍しくない。しかし、法廷で自分がホモだと暴露すれば、全てを失う。裁判所は二つ返事で離婚許可を出し、妻に全面的な親権を与えるだろう。正当な解雇事由になるため、公職者や会社役員、勤め人などであれば失職する。自営業者であれば取引は激減し、従業員も一斉に離職するだろう。まともな働き口を得ることも、起業することも、もはや二度と叶わない。そんな状況になるから、銀行も信用組合(クレジット・ユニオン)も金を貸さない。残るのは連邦と州の最低限の社会保障と、離婚賠償や養育費の支払命令だけだ。

 つまり、ドネリー警部の言い分はこうだ。どうせホモたちは仲間に猟奇殺人模倣犯(ダリア・フリーク)のレッテルを張られても、自分の一生を棒に振ってまで法廷に出てくることはない。セリーンと一緒だった男が見つからなければ、適当そうなホモを見繕ってシメ上げ、そいつをガス室送りにして解決しろ。

 

「よろしい。明日はそのホモたちの裏取り捜査に向かうように。必要なら現地の警察署から、刑事か巡査を連れていけ。屈強で荒事が得意なやつをな。当直主任が渋るようなら、私の名前を出して電話させろ」

 

 ベールズは気が進まなかったが、これは命令だと警部の口調からわかった。ベールズは顔からも声からも表情を消して、「了解しました(イエス・サー)」とだけ答えた。

 

「よろしい。進展の有無を問わず、明日も夕方に報告するように」

「イエス・サー」

「繰り返すが、新人の初日のはたらきとしては素晴らしかったぞ、ハコス」警部はちらと時計に目をやった。「君は確か、副業を登録していたな?」

「はい。タクシー会社の簿記係です」

「運転手じゃなかったか?」

「去年までは、そうでした」

「そうか。では、もう退がってよろしい。明日も励めよ」

「イエス・サー」

 

 ベールズは退庁前にタイピスト・プールに寄り、まだタイプ清書されていなかった裏取り捜査の命令書原稿を取り下げ、不要になってしまったそれを破り捨てた。タイピストの一人が、ホールの隅にある印刷電信機で送信用テープをパンチしていた。ルーリー警部補の仕事が早いというのは、本当らしかった。

 

 

   *

 

 

 ひたすら金を数え、計算機を回し、帳簿に書き込む。それがベールズの副業だ。

 七時前の『サウスベイ・チェッカーキャブ』社の営業所。何人ものタイピストたちや簿記係たちが自分のデスクについている事務室に、ベールズはいた。デスクの上には安い緑色の人工皮革の天板が敷いてあり、その上には帳簿が数冊開かれている。向かって右手側には使いこまれた卓上計算機が、左手側には同じくらい使いこまれたアンダーウッドのタイプライターがあり、その奥にはブリキの現金箱が置かれていた。

 ベールズの仕事はこうだ。上がりの運転手たちから売上金と日報を受け取り、金を数え、数字を計算する。手元の現金の額と日報の売上額に間違いがなければ、手引書に従って歩合を計算し、売上簿と賃金簿にそれぞれ記入する。隔週払いの運転手たちの賃金は、あとで常勤の簿記係たちが計算し、給与票(ペイ・スリップ)――明細書の下側が小切手になっていて、ミシン目で切り離せるようになっている――を作成して給料日に郵送するが、日払いの運転手たちの分は、ベールズたち時間勤務の簿記係が売上計算とあわせて担当する。

 ベールズは最後の一人の給与票をタイプ打ちし、それを渡したところだった。

 

「今日の支払いは六ドル二十五セントです。確認してください」

「う、うん」

 

 どもり気味な若い運転手はデスクペンを手に取り、ろくに目も通さずに、給与票と賃金簿の受取欄に署名した。その様子をベールズは複雑な気分で見守っていた。もし彼がもう少し明細に注意を払えば、会社が『厚生施設維持費』などという名目で八十六セントもピンハネしていることがわかるだろう。そんな施設はありもしないのに――刑務所にあるような木製の硬いベンチと、これまた刑務所にありそうなカビ臭い冷水器(ウォータークーラー)だけしかない、狭苦しい待機室を『厚生施設』と呼べるなら、話は別だが。

 運転手が給与票を折りたたんでポケットにつっこむと、ベールズは帰り支度を始めた。それぞれの帳簿を締める。業務手引書、吸取紙、メモ用紙の綴り、鉛筆などを抽斗にしまい、計算機とタイプライターにカバーをかける。緑のシェードがかかった卓上灯を消し、抱鞄(ハンドバッグ)を肩にかけ、給与票用紙の綴りと帳簿、現金箱を抱えて椅子から立った時、例の運転手がまだデスクの前に、さっきより少し離れて立っているの気がついた。

 

「なにか?」ベールズは軽く首をかしげ、眉を上げて訊いた。

「あ、あのさ、えっと……君ってさ、刑事さん、だよね?」ベールズがすっと目を細めると、運転手――ジャッソン・サントレッリという名前だ――は慌てたように待機室の方に手を振った。「し、新聞に出てたんだ、君の写真が! それでわかったんだ!」

 

 『ヘラルド=エスクプレス』紙だな、とベールズは思った。労働者ウケするハースト系のタブロイド夕刊紙で、今朝の現場に記者が来ていた『イグザミナー』紙と同じ系列の新聞社だ。イグザミナーは朝刊、ヘラルド=エスクプレスは夕刊と分かれているので、記者たちは時に、締め切りの都合によってはお互いのネタを融通し合う。ベールズが今朝現場に行った時、夕刊の最終締め切りまでは、まだぎりぎり時間があった。あそこでイグザミナーの記者が撮った写真が、ヘラルド=エスクプレスに融通されたのだろう。

 

「それで?」

「えっとね、君が担当するって、新聞に書いてあった例の事件なんだけど、ほら、ブラック・ダリアと関係するかもってやつ。ダリア事件のことは僕も興味があって、その、自分でも色々調べてるんだ。それで……もし、よければこの後、あの、話を聴かせてもらうことって、できないかな? ご飯とか食べながら、さ」

 

 デートのお誘いとしては、なかなか斬新だ。ベールズはそう認めざるを得なかった。こっちを捜査主任と知っていて声をかけてくるあたり、度胸がある。あるいは無鉄砲なのか。

 しかし面白いとはいえ、ベールズに応じるつもりはなかった。というのも、このジャッソンという運転手は問題児なのだ。運転が乱暴なので、自損他損を問わずよく事故を起こしては、支配人に呼び出されている。幸いにも軽微な範疇にとどまっていて、運転免許もタクシー免許もまだ有効だが、一度は社長に呼び出されてこっぴどく叱られたはずだ。しかし、改善は見られない。どうやら社長の“友人”――つまり、同じファミリーの正規構成員(マフィオーソ)ということだ――の甥っ子という立ち位置で、社長はその“友人”に借りがあるらしく、解雇されてもおかしくない勤務態度ながら、いまだに雇われ続けているわけだ。

 そしてどうやら、彼はその叔父に憧れているらしい。向こう見ずで迂闊なマフィオーソ志望者。自分が警官でなくとも付き合いたくない相手だ。

 

「ごめん、今日は――」

「ベールズ?」断りの言葉を途中で横から遮ったのは、珊瑚色のレディース・スーツに身を包んだ受付嬢のシンシアだった。「ちょっといいかしら。事務所の代表電話に警――あなたの勤め先から電話が入ってるの。あなたに急ぎの用事があるみたい」

「ありがとうシンシア、すぐに出る。公衆電話?」

「ええ、そっちでお願い」

「わかった。ごめんね、ミスター・サントレッリ」ベールズは首だけをジャッソンの方に向けて、立ち去りながら言った。「その話はまた今度」

「う、うん。あの――」

 

 ジャッソンはまだ何か言おうとしていたが、ベールズは無視して事務室の奥へ歩を進め、簿記主任(ブックキーパー)に帳簿と給与票用紙と現金箱を引き渡すと、事務室の外の薄暗い廊下に出て従業員通用口へ向かった。

 

 通用口のすぐわきには従業員便所があり、アンモニアの臭いと芳香剤の香りが打ち消し合うどころか混じりあって、その周辺に吐き気を催す悪臭を漂わせていた。便所のドアの向かいのコンクリート壁に、事務所勤務者用の勤怠時計(タイムレコーダー)が二台――事務員用と整備員用――掛けてあり、そのすぐ横に公衆電話が一台並んでいた。受話器は外されており、ベールズはそれを取り上げて話しかけた。

 

「もしもし?」

「こちらはロサンゼルス市警察局、フライシャー警部補です。そちらは?」

 

 フライシャー警部補は中央方面第一警察署の、三人いる当直主任の一人だ。

 

「ハコス刑事、殺人課(ホミサイド)、バッジ124W(ウィリアム)番」

「ハコス、お前が手配していた自動車が見つかったぞ」フライシャー警部補は上官の口調に切り替えてそう言った。「茶色のポンティアック、ライセンス2B8899番、登録者はセリーン・ヘンリー。違いないか?」

「間違いないです。現場は?」

「『ターキー・ボウル』ってドライブイン・ダイナーだ。ウェストレイク地区、西三番街一五三五番地」

「遠いな……」ベールズは思わずそう呟いた。

 

 ここから自動車で――ここはタクシー会社なのだ、拾う車には困らない――丸々一時間はかかる。その上、ダウンタウンはサウスベイ・チェッカーキャブ社の営業地区外だ。メーターの倍は出さなければ乗車拒否されるだろう。その出費は痛い。メーター分の十ドルちょっとしか経費として請求できないとなれば、なおさらだ。といって、五セント均一運賃のバスや路面電車では、二時間以上かかるのが目に見えている。

 考えあぐねていると、警部補が話を続けた。

 

「お前がまだサンペドロにいるだろうってことは、森から聞いてる。こうして電話してるわけだしな。現場には森が向かってる。もう間もなく着くころだろう。詳しいことはお前の都合のいい場所で報告するから、伝言を残せとよ」それから、明らかに躊躇してから言い足した。「場所はハリウッド地区でも構わない、らしいぞ」

 

 その口調から、フライシャー警部補も“例の噂”を知っているらしいことを、ベールズは読み取った。ベールズは耳まで真っ赤になり、口からは「えう」というようなへんてこな音を出してしまった――間違いなく送話器が拾ったらしく、警部補が失笑するのが回線越しに聞こえた。しばらく逡巡した末、ベールズは開き直ることに決めた。

 

「では、カリにはハリウッド街道(ブルバード)の『111』(ワン・イレブン)ってジャズクラブで待ってるよう伝えてください。ボクは十時頃に行きつくと」

「わかった、そう伝えよう」

 

 ベールズは電話を切り、勤怠時計――振り子時計の下に、番号が刻印された釘が何本も縦に並んでいるような見た目をしている――の自分の番号の釘を『出勤』から『退勤』へ倒した。内蔵の鑽孔テープにベールズの退勤時刻がパンチされる、がちゃんという音を背後に、ベールズはタクシー会社の営業所を出た。

 

 

   *

 

 

 一度サンセット街道(ブルバード)沿いのアイリスのアパートメントに帰り、真夏に一日中着ていたスーツと下着から自由になると、ベールズはシャワーを浴びてから身だしなみを整え、『111』(ワン・イレブン)へタクシーで向かった。二つの場所は、チップ込みでも三十五セントで済む程度しか離れていない。

 時刻は十時過ぎ、早い夜のお客と遅い夜のお客が入れ替わる時間帯で、ロビーはごった返していた。ベールズは人の波をかき分けて進み、タキシードを着込んだごろつきみたいな給仕長(メートレ・ディ)をなんとか見つけだした。

 

「ジュリー、ジュリー! やっと見つけた」

「よう、ミス・ハコス」ジュリアンのその声は、服装よりも見てくれのほうに相応しい、相手を怯えさせる声だった。「いい時間に来たな。今ならテーブルを取るのは簡単だぞ?」

「お願い。それと、肌が真っ白な女の人が来なかった? 目は真っ赤で、髪がちょっとピンクががってる」

「お前が言ってるのが森カリオペのことなら、ああ、来てるぞ。バーにいる。誰か待ってるらしい」

 カリオペもこの店では知られていたのか、と少し肩透かしを喰らった気分になりながらも、ベールズは給仕長にお礼を言って、ホールへ入った。

 

 カリオペは円形のバーで、グラスの縁に薄切りのライムを挿した、少し茶色がかった炭酸入りのカクテルを呑んでいた。ぱっと見には昼間と同じ黒ずくめのスーツ姿のようだったが、近づくとベールズと同じ考えだったのがすぐにわかった。明らかに着替えたらしく、スーツにもシャツにも皺ひとつなく、ズボンの折り目で指が切れそうだった。シャツは昼のものと異なる黒光りするシルクで、細く白いネクタイには金糸が織り込んである。髪には念入りに櫛を通してあり、滝のように滑らかだ。一日中働いた汗の臭いは一切せず、タルカムパウダーとローズの香水の香りがしていた。

 

 カリオペは隣にやって来たベールズを一目見て、ちょっと眉を上げてにやりと笑った。「おめかしして来たんだな。逢い引きの為か?」

「好きに想像して」

 

 そう言いはしたものの、事実その通りだった。

 ベールズが着ているのは、六月にアイリスと一緒に『ブロードウェイ・ハリウッド』百貨店で選んだカクテルドレスと、揃いの色の踵が高めのパンプスだった。ローカットのドレスの、つやのあるレーヨン・サテンは黒っぽい緑とも、緑がかった黒とも言えそうな色合いで、セミ・フォーマルからくだけたカクテルパーティーまで幅広く使える。大統領官邸(ホワイトハウス)や州知事官邸(スタンフォード・マンション)での晩餐会は無理にしても。近頃流行りのチャイニーズドレスのように、スカート丈を足首の少し上までを覆う長さにするかわりに、両側に大胆な切れ込みが入っていた。歩けば薄いストッキングだけでなく、白い太腿と、ストッキングとコルセットを繋いでいる黒いガーターベルトがちらりとのぞくようになっている。七月ごろは、正直かなり恥ずかしかった――そしてアイリスは明らかに、ベールズが恥ずかしがっているのを愉しんでいた――けれど、今ではすっかり慣れていた。

 ベールズはカウンターに肘をつくと、バーテンダーに目で合図して呼び寄せた。

 

「マルガリータをちょうだい」

「マルガリータ? なんだそれは」

 

 自分のカクテルグラスを傾けていたカリオペが、横からそう訊いてきた。爪には本人の目のように赤いマニキュアが施してあり、ベールズの目を惹いた。

 

「テキーラとライムのカクテル。最近流行ってるんだよ、知らなかった?」

「初耳だな。考えたのはメキ公(メックス)か?」

「ロサンゼルスのバーテンって説も聞いたけど、個人的には、たぶんメキシコ由来だと思う。カリのそれは?」

「ジョー・リッキーだよ」

「ベースは当然ライ?」

「ああ」

「だと思った」

 

 ベールズは煙草を一本抜き出すと、黒い鼈甲のシガレットホルダーに挟んだ。ちょうどバーテンダーがベールズのカクテルを持って来たところで、彼は自分のジッポを出して、火をつけてくれた。

 

「ありがと」一服し、爽やかなテキーラを舐めてから、ベールズは訊いた。「それで、セリーンの車はどうだった?」

「今朝早くに店員が交代した時から、ずっと停めっぱなしになってたそうだ。ジョゼフ・ネスコって、あの店の夜勤のグリル・コックだが、そいつが通報してきた。早朝に停めっぱなしだった自動車が、今日の夕方にもまだ停めっぱなしで頭にきて、レッカーしてもらおうと思ったんだと。対応したのはクライド――クライド・ハート巡査だ、たぶんお前も知ってるだろ」

「うん、知ってる。中央署交通係の」

「そいつだ。で、クライドは手配書をよく読むタイプの警官だったから、お前が出してた広域手配の対象車両だとちゃんと気づいた。それでレッカー会社を呼ぶ前に、刑事指令課(DHD)に連絡した。で、DHDの当直のアホはお前を捉まえられず、私に回してきたってわけだ」

「それで、そのネスコってコックさんは、車についてなんて言ってたの?」

「誰が乗ってきたかはわからんそうだ。それで、ダメ元でいくつか質問してみたんだがな、なんとなんと、ネスコはセリーンを憶えてた。そしてなんと、セリーンの連れ合いのことを知っていた。常連だそうだ」

 

 ベールズは黙ってマルガリータを啜りながら聴いていた。

 

「そいつはアロンツォ・メンデスってスペ公(スピック)で、ダウンタウンの冷凍倉庫に勤めてる。メンデスは昨晩十一時過ぎに、セリーンを連れてやって来たそうだ。二人でビールとチーズバーガーをやりながら、しばらく楽しそうに話してたらしいが、やがて言い合いになった。セリーンはメンデスをつまらん男だと罵り、一人で出ていった。それが十一時半過ぎだそうだ」

「セリーンは自動車で? それとも徒歩で?」

「徒歩だそうだ。あんまり足元が覚束ないようだったんで、ネスコがタクシーを呼んでやろうかって訊いたが、うるさいと突っぱねられたらしい。余計なお世話だ、と」

「そのメンデスって男の方は?」

「メンデスは日付が変わる頃までビールをちびちびやってたらしいが、その後帰ったとよ。こいつも徒歩だったらしい」

 

 ベールズは溜め息を吐いて、グラスの縁を見つめた。メンデスが自分の自動車を持っているかどうかで、話が変わってくる。持っているなら、セリーンの家付近で待ち伏せをし、攫って犯行に及ぶことも可能だ。しかし車を持ってないなら、メンデスはひとまずシロになる。記録課と州の陸運局に問い合わせたほうがよさそうだ。

 煙草をもう一服してカリオペのほうに目を向けた時、ベールズはその表情に気づいた。カリオペは得意げなニヤニヤ顔を浮かべていたのだ。

 

「なに、その顔は」

「お前が欲しがってる情報をやろうかと思ってな。私はツイてた。というのも、そこに勤めてるウェイトレスの一人が、復活祭(イースター)の少し前までメンデスと付き合ってたんだ。やつは自分の車を持ってる。戦前型の茶色いフォードだそうだ。住所はダウンタン。フレモント街と四番街の角に住んでるそうだ」

 

 テキーラ以外の原因で自分の身体が昂奮するのが、ベールズにはわかった。

 現場にあったタイヤ痕は『ファイアーストーン』社製のものだった。フォードの純正タイヤがそれだ。そしてメンデスの住所は、現場からもセリーンの家からも、そう離れていない。

 

「いけるね?」

「ああ、充分可能だ」

「行ってみる?」

 

 四番街とフレモント街の角なら、ここから自動車で二十分程度だ。自分がはやっているのがわかる。それでも、動かずにはいられない気分だった。

 

 カリオペは渋面を作った。「あのな、夜の予定があるのはお前だけじゃないんだぞ」

「わかってる。メンデスだって外出中かもしれない。でも――」ベールズはボーイの一人が、遠巻きにこちらを窺っているのに気づいた。手招きして呼び寄せる。

「ミス・ハコス、お席がご用意できました。こちらの方もご一緒されますか?」

「ごめん、ちょっと用事ができちゃって」

「かしこまりました」

 カリオペは溜め息を吐き、ボーイに訊いた。「電話はどこだ?」

「廊下に出られて、左手の奥です」

「わかった」ベールズがボーイに二十五セント銀貨をやって下がらせると、カリオペは続けた。「電話を一本かけさせろ。そうしたら、ダウンタウンまでランデヴーに付き合ってやる」

「ありがと」

 

 カリオペが去るとベールズは、カウンターに一ドル札を二枚置いて二人分の代金を払い、バーテンダーに濃いコーヒーを頼んだ。それを飲んでテキーラの酔いを醒まそうとしていると、タキシードを着込んだ体格のいい男が隣にやって来た。

 

「どうも」男は指を鳴らしてバーテンダーを呼び、スコッチを一杯注文した。「失礼、ミス・ハコス・ベールズですか?」

「ええ」ベールズは短く答えて、男を見た。

 

 男は若かった。二十代半ばか、それを少し過ぎたくらいだろう。茶色っぽい髪をポマードできちっと七三に固めている。身長は五フィート半程度だが、体重は百六十ポンドか、百七十あるかもしれない。太っているのではなくがっしりしている感じで、間違いなく軍隊上がりだ。タキシードは金ぴかの派手な代物で、はっきり言って悪趣味だった。

 

「何かご用でも?」

「私はエドワード・マクゴードリックといいまして、ここのオーナーをしてるんです。あなたがお席を断られたと聞いて、何かこちらに不手際があってのことかと思いまして」

「いえ。急用ができたんです。できるものなら、このままいたかったのですが」

「そうですか」オーナーは明らかにほっとした様子を見せたが、目は妙に忙しなく動いていた。

 挙動不審なオーナーの真意を測りかねていると、電話を済ませたらしいカリオペが戻ってきた。

「待たせたな。いま駐車係(ヴァレー)に車を回させてる」

「すぐ行くよ。では、ミスター・マクゴードリック。また来ますね」

「お待ちしていますよ」オーナーはウィスキーのグラスを掲げてみせて、ベールズを送り出した。

 

 二人がホールから出ようとすると、お客たちから拍手が起きた。ちょうどステージにアイリスが上がってきたところだったのだ。後ろ髪を引かれる思いをしながら、ベールズは店を出た。

 

 

   *

 

 

「さっきの金ぴかのタキシードの人だけど」ハリウッド街道(ブルバード)を東に向かう車内で、ベールズはカリオペに訊いた。「あそこのオーナーだって。知ってる?」

「いや。そうなのか?」

「彼が自分でそう言ってた」

「私が知ってる限りでは、あそこはエプスタインのやつが持ってたはずだが。ミッキー・コーエンの“友人”だよ」

「ホントに? 彼はなんだか、めちゃくちゃカタギっぽく見えたけど」

「名前はなんて?」

「エドワード・マクゴードリック」

「知らんな」カリオペは首を捻った。「聞いたことのない名前だ。そいつがどうした?」

「よくわかんないんだよ。席を断ったのはこちらの不手際か、とかなんとか話を訊きにきた感じを出してたけど、なんだか探りを入れにきたみたいだった」

「お前に? なんの探りを入れるっていうんだ?」

「それがわかんないんだよ。だから不気味なんだ」

 

 

   *

 

 

 アロンツォ・メンデスの住まいは四番街とフレモント街の南側の角に面している、一九三〇年代に建てられたアパートメント・ビルで、両方の通りに面して出入口があった。カリオペは四番街に面した出入口の前の路肩にハドソンを停めたが、そこには真鍮製の集合ポストと、呼鈴の押しボタンがずらりと並んだこれも真鍮製のパネルがあり、いかにも正面玄関という感じだった。壁の石材パネルはすすけていて、玄関ドアのペンキはあちこち剥げている。全体的に古ぼけた印象のビルだった。

 アパートメント4Aの呼鈴ボタンの横に、鉛筆で『A・メンデス』と書かれた紙が貼ってあった。子供みたいなブロック体の文字だった。カリオペが二度ボタンを押したが、玄関ドアの錠はかちりとも音を立てなかった。

 

「くそ、留守か」それ見たことか、という口調だった。

 

 ベールズはかがみこみ、ぼろぼろの夜間錠(ナイトラッチ)をしげしげと見た。それから手を伸ばし、ドアを押した。ドアはするりと開いた。

 

「窃盗課じゃ超能力も教えるのか」

「いや。でも、これくらいの時代に建てられたアパートメントの錠がいかに壊れやすくて、いかにほったらかしにされてるかは教わるよ。泥棒には大助かりだからね」

 カリオペはふんと鼻を鳴らし、薄暗いホールと廊下を覗き込んだ。「こんなところに押し入っても、盗むものなんかありゃしないだろ」

 

 ホールには煮込みすぎたキャベツの匂いと、どこかの住民が炒めたニンニクの匂いが漂っていた。床のタイルはところどころ割れており、カリオペはその一つに蹴つまずいて罵り声をあげた。エレベーターは無く、暗い階段はぎいぎい大きな音を立て、ベールズは踏板の壁側に寄って登った。いつ踏み抜いてしまってもおかしくなさそうで怖かったのだ。

 四階の廊下も薄暗かった。左右の壁には真鍮と曇りガラスの、ガスランプ風の電灯が設置されていたが、階段室に一番近い一つ以外は全て消えている。アパートメント4Aは廊下の一番突き当りにあった。唯一灯っている電灯から一番遠いから当然だが、4Aのドアのあたりは手許も見えないほどの暗さだった。

 カリオペがドアを激しく叩いたが、室内からはうんともすんとも返答はなかった。

 

「ちょっと見せて」

 

 ベールズはそう言って、ドアの前に屈みこんだ。暗い中で、鍵穴の形状から錠のメーカーに見当をつける。抱鞄(ハンドバッグ)を探り、大きさも形状も様々な鍵が一ダースは下がっている鍵束を取り出した。

 

「なんだそれは」

 

 新鮮な驚きを含む問いをカリオペが投げたが、ベールズは無視して鍵を選り分け、一本を鍵穴に試した。鍵穴は抵抗し、一本目はあえなく袖にされた。

 

「中華街(チャイナタウン)に腕の立つ金庫破り――元・金庫破りがいてさ。コカインにハマって、商売道具の目も手先もだめにしちゃって、今じゃごみ溜めみたいなところでその日暮らしをしてるおじいちゃんなんだけど」

 

 二本目は鍵穴に受け容れられたが、タンブラーは屈しなかった。しばらくがちゃがちゃやってみてから、ベールズはその鍵を降板させて次の鍵を探った。

 

「これはそのおじいちゃんが、脂がのりにのってた頃に作った合鍵たち。世界中の錠前の八割方は開けられるって豪語してたし、実際出来のいい鍵ばかりなんだ。コカイン取引を見逃してあげるかわりに、こいつを五十ドルでせしめたんだけど、それっぽっちじゃ本来は一本たりとも手に入らないような代物だよ」

「悪徳警官め」面白がるような口調のカリオペの声に、タンブラーが回るかちゃりという音が被った。

 ベールズは『開けゴマ』を注意深く鞄に戻し、素知らぬ顔でカリオペに言った。「アロンツォは鍵をかけ忘れてたみたい」

「不用心なやつだな。こんなアパートメントに住むべきじゃない」

 

 二人は暗い部屋に押し入った。カリオペが電灯のスイッチを見つけて、かちりと捻った。

 その部屋はリビングダイニングだった。そう座り心地の悪くなさそうな油布張りのソファと、安い胡桃材(ウォルナット)のコーヒーテーブル。テーブルの上にはアルミニウムの灰皿があるが、中は綺麗だ。灰皿の横にはキャメルのパックと、日本人街(リトルトーキョー)のジャズクラブ『ブルー・ホエール』のブックマッチが一つずつ並んでいた。

 テーブルと同じウォルナットのサイドボードの上には、電話機と並んでモトローラのトランジスター・ラジオが一台、それと写真立てが三つ。一つには粗末な木造住宅の前に、家族と思しき六人の男女が並んでいる写真が入っていた。大昔の復活祭に撮られたものらしい。二つ目には戦闘服姿の兵隊が二人写っていた。背景は鬱蒼としたジャングルのようで、アフリカか東南アジア、あるいはオキナワのようだ。鉄帽を目深にかぶり、顔には濃い影が落ちていて、二人の人相を見分けるのは困難だった。三つ目の写真は、旧式のビュイックと男のツーショットだ。作業服姿のその男は、白黒写真でもそれとわかる浅黒い肌で、黒い髪と太い眉を持っている。顔立ちは明らかにヒスパニック系のそれだった。これがアロンツォ・メンデスなのだろう。背景は自動車展示場兼修理工場のようで、一街区(ブロック)南にあるクームズ自動車商会ではないか、とベールズは思った。

 

 円形のダイニングテーブルとリビングスペースの間に、黒いペンキ塗りの合板のカウンターがあり、酒やリキュールの瓶が何本かと、グラスやタンブラー数脚、陶器のアイスペール、アイスピックなどが載っていて、ちょっとしたバー・コーナーになっていた。

 

 ダイニングの奥にはしっかりしたキッチンがあったが、あまり使われている様子はない。流しの横にカットガラスのボウルがあり、リンゴがいくつかとチーズが一切れ入っていた。

 

 キッチンの横にアパートメントの奥へ続く短い廊下があり、その先に寝室があった。ドアを開けると、部屋の窓が開いていたために風が流れて、ベールズはまともにそれを吸い込み――慌てて顔を覆って咳き込んだ。腐った血の臭いがした。ドア横の壁を手探りし、スイッチを探り当てて捻ると、作り直されていないベッド――部屋の広さのわりに大きいダブルベッドだ――の脇にあるダンボールの箱が、電灯の黄色っぽい光の中に浮かびあがった。ベールズはハンカチで鼻を覆ったまま、その箱を覗き込んだ。

 

「ほう」この程度の臭いは平気らしく、口元を覆っていないカリオペが目を細めた。「宝箱を見つけたらしいな」

 

 箱の中には血まみれのシャツが一着はいっていた。ベールズが広げると、血痕は前面と右の袖口に集中的に飛び散っていた。その下には革靴と、赤黒い血がべっとりとこびりついたボックスレンチ。靴は小さめで、底には固まった血や肉片がこびりついていたが、サイズ刻印はなんとか読み取れた。

 

「八号だ」

「決まりだな。鑑識を呼んでくる」

 

 カリオペはそう言い、さっさとリビングのほうへ行ってしまったが、ベールズは何かが引っかかっている気がして、寝室を探り続けた。

 サイドボードには灰皿とブックマッチ――これは『バンバ・クラブ』のものだ――があり、手巻き煙草らしき吸殻が一つあった。一段目の抽斗には煙草用の巻紙と、樹脂製の透明な小袋入りの乾燥大麻(マリファナ)二袋、除隊時に掠めたらしい陸軍制式自動拳銃(コルト・アーミー)が一丁と、四十五口径自動コルト拳銃弾の箱が一箱あった。拳銃の弾倉(クリップ)には目いっぱい七発の実包が装弾されていて、薬室にも一発装填してあった。保管方法としては危険だが、押し込み強盗や侵入者への対策としては有効だ。二段目の抽斗にはコンドームの大箱が一つと、婦人衛生用リゾールが一瓶、アルミ包装されたタンポンがいくつか入っていた。

 クローゼットには厚手の作業着が二着と、ズボンとズボン吊り、ネクタイが数本ずつあった。上着はないが、驚くにはあたらない。最近はそういうファッションが普通になってきているし、金がないなら――そうでないと考える理由は、今のところない――春になったら質入れしてしまうだろう。帽子はすっかり黄色くなったカンカン帽が一つあるだけだった。床に作業靴と革靴が一足ずつ置かれていた。どちらもサイズは八号だ。

 

 寝室から続きの浴室にも、血の臭いが漂っていた。代用陶器の浴槽にバスタオルがかかっていたが、これにも薄い血の痕があった。床には石鹸の空き箱が一つ落ちていたが、石鹸皿は空だった。浴槽の排水口の周りには、流れきらなかった残り湯とともに固まった血がこびりついていた。まるで血まみれの誰かが、石鹸を丸々一個使って身体中の血痕を洗い落とそうとしたようだった。洗面台には剃刀があったが、刃に赤黒い血がべっとりと付着していた。

 

 リビングに戻ると、カリオペはソファの一つにグラス片手に座っていた。コーヒーテーブルの上には、バーから持ってきたらしいジャック・ダニエルの瓶と、どこか――おそらくキッチンの電気冷蔵庫だ――から持ってきた炭酸水の瓶が並んで置かれていた。

 

「鑑識はこっちに向かってる」カリオペがグラスを持ち上げてみせた。「ウィスキー・ソーダだ。呑むか?」

「いや」

 

 ベールズが短く断ると、カリオペはそのままグラスに口をつけて長々と一口呑んだ。それからロイ・タンを一本取り出し、テーブルの上のマッチを擦った。

 

「どうした」マッチの頭薬が燃え切るのを待ちながら、カリオペはベールズに訊いた。「そんな辛気臭い顔をして。喜べよ、警部はお前を気に入るはずだぞ」

「わっかんないなあ」

 

 ベールズは髪の毛をしっかりセットしてあるのを忘れて、頭を掻いた。手にヘア・クリームがべっとりとつき、ベールズは舌打ちした。

 

「何がわからないんだ。動機があり、機会があり、手段がある。そしてなにより、動かぬ物的証拠がお前の十ヤード後方にある。アロンツォ・メンデスがやったんだ。これ以上明快な事件はないぞ」カリオペは言葉を切り、葉巻をマッチの炎で炙った。

「あれを処分せずに出かける?」ハンカチで手を拭いながら、ベールズは反論した。「こんな、誰が押し入ってきてもおかしくないアパートメントに、あんなものを放置して? ありえなくない?」

「常識的に考えればな。だが犯罪者って連中には、しばしば常識が通用しない。人を殺してる時点で、すでに常識から外れちまってるしな」カリオペは葉巻を一服して、濃い紫煙をベールズに吹きかけた。「お前も、もうしばらくこの課にいればわかるさ。人殺しって連中がいかに、常識にそぐわない行動を取るか。理由は色々だ。傲慢だったり、現実逃避だったり、単純に愚かだったり。こんなことは、別に珍しくもないんだ」

「でも――」

 

 アパートメントのドアが大きな音を立てて蹴破られ、ベールズは「きゃっ!」と悲鳴を上げて振り向いた。シャツとズボン姿の男が一人、アパートメントに飛び込んできた。

 

 

   *

 

 

 アロンツォ・メンデスは女の子と笑い合いながら、自宅アパートメント・ビルの階段を登っていた。数日前に、勤め先の自動車修理工場に戦前型のシボレーを持ち込んできた娘で、素敵な目と豊かなバストを持っていた。修理の時に連絡先を聞き出していたので、仕事上がりに電話をかけ、デートに連れ出したのだった。ブロードウェイのクリフトンズ・カフェテリアで夕食を摂り、八番街のRKO劇場で『ミネソタの娘』を観た後でも、彼女はまだメンデスと一緒にいたいと言った。彼はそれを田舎娘流の、ベッドをともにする遠回しな誘い文句だと解釈し、自室へと案内したのだった。

 薄暗い階段を登りつめたメンデスは、自室のドアがある廊下の突き当りに目をやって息を呑んだ。廊下は階段以上に暗く、彼の部屋のあたりは闇に沈んでいたが、そのためにドアの下の隙間から明かりが漏れているのがよくわかった。電灯が点いている。誰かが彼の部屋に押し入ったのだ。

 

「ケイティ」メンデスは小声で娘に呼びかけた。

 

 彼女の名前は偶然にも、彼らが観た映画でロレッタ・ヤングが演じていた娘と同じ名前だった。

 

「ちょっとここで待っててくれないか」

「どうしたの?」ケイティは平板なカンザス訛りでそう訊いた。

「どうやら泥棒が入ったらしい。まだ中にいるかも」

「まあ!」ケイティは目をまんまるにして、両手を口に当てた。まるで映画のケイティの真似をしているようだった。

「どうしよう。警察を呼ばなきゃ」

「呼んだってどうにもならないよ。連中はヒスパニックのことなんか、気にもかけないからな。ちょっと待っててくれ。もしまだいたら、ぶん殴って表に放り出してやる」

「頼もしいのね」

 

 すっかり感心した様子のケイティに胸を張ってみせてから、メンデスは廊下をゆっくりと奥へ進んだ。格好いいところを見せたくてああ言いはしたものの、メンデスはちょっぴり不安に駆られていた。室内には海兵隊を出る時にちょろまかしてきた拳銃があるのだ。あっちがあれを見つけて持っていたらどうしよう?

 ドアの前に辿りつくと、メンデスはポケットから折り畳みナイフを取り出した。ボタンを押し、音を立てないように静かに開く。ドアに耳をつけると、二人の女が言い合っているらしい声が小さく聞こえた。女? 女の強盗だって? そんなことがあるのか?

 意を決してメンデスはノブを捻り、ドアを一息に蹴り開けた。

 

 室内には二人の女がいた。ソファに黒いスーツ姿の女が腰かけ、手前側にセクシーなドレス姿の女がいる。そのドレスの女は短い悲鳴をあげて、こちらに振り向いた。

 

「なんだお前ら!」メンデスは叫んだ。「何してるんだ、ここは俺の部屋だぞ!」

「アロンツォ・メンデスか?」低い声でそう言いながら、カリオペは立ち上がった。

「おい、動くな! 何をしてるんだって訊いてるんだよ!」

「ロス市警(LAPD)だ」カリオペは上着の下からバッジを出して、メンデスに見えるように掲げた。「アロンツォ・メンデス。セリーン・ヘンリー殺害の容疑で逮捕する。両手を上げて後ろを向け」

「は? 何なんだあんたら! 勝手に人の家にあがりこんで、挙句に殺害? 逮捕? 冗談じゃない!」

「アロンツォ、両手を上げて。話は署で聴くから」

 ベールズがそう言って、手錠を出すために抱鞄(ハンドバッグ)の中をかき回しながら歩み寄ると、メンデスは背後に隠していたナイフを構えた。「いやだね、あんたらが警察だなんて信じない! 近づいてみろ、マスみたいに切り裂いてやるぞ!」

「ナイフを捨てろ、メンデス!」すでに拳銃を構えおおせていたカリオペが、照準をぴったりとメンデスに合わせて叫んだ。「二度は言わない。ナイフを捨てて、その場で腹這いになれ!」

「いやだ!」

 

 しばらくのにらみ合いの末にメンデスは、そちらのほうが無防備だと思ったのだろう、ベールズに襲いかかった。ベールズは自分の鞄を盾にして喉を守り、切り裂かれた鞄から中身が散らばる音と同時に、カリオペの四十五口径が火を噴いた。メンデスはぎゃっと叫んで倒れ込み、誰かが甲高い悲鳴を上げて階段を駆け下りていった。

 

 

   *

 

 

 アロンツォ・メンデスは死ななかった。銃弾は肩を貫通し鎖骨を砕いたが、命取りなほど出血しなかった。

 三十分後、ベールズとカリオペはアパートメント・ビルの玄関前に立ち、救急医と救急車運転手がメンデスを担架に載せ、救急車に運び込むところを見守っていた。メンデスはモルヒネを投与されていて、すっかり落ち着いていた。時ならぬストロボが油断しきっていたベールズの顔を照らしたのは、まさにその時だった。

 

「うわっ!」ベールズは叫び、顔を手で覆ったものの、もう遅かった。青い残像が焼きついた目を凝らすと、スピードグラフィックのカメラを構えた記者が見えた。安物のレディース・スーツに黄色っぽい金髪。

「ちょっ、おい、ポルカ! そのフィルムを渡せ!」

「やなこった!」イグザミナー紙の女記者はそう返し、ベールズに舌を出して見せた。「明日の朝刊をお楽しみに、お二人さん!」そう言い残して、素早く野次馬に消えていった。ベールズは後を追おうとしたが、踵の高い靴に足を取られて転びかけ、早々に追跡を諦める羽目になった。

「ああもう、くそったれ!」

 

 ベールズの罵声が、ダウンタウン・ロサンゼルスのビルの間にこだました。

 

 

   *

 

 

 ベールズはすっかりくたびれ切って、サンセット街道(ブルバード)のアイリスのアパートメントに帰った。

 通常の逮捕手続きに加えて、カリオペが銃をぶっ放したために、内規に従って方面部監察官宛てに正副三通の発砲始末書を作成しなければならなかったのだ。発砲始末書は微に入り細を穿つことを求められる書類だが、同時に九割方は紋切りの定型文でもあり、ロサンゼルス市警察に二年もいれば、すっかり書き慣れてしまう。しかし謎の規則によってカーボン転写紙の使用も、署のタイピストの利用も禁じられているため、二人は長大な始末書を三通分、全て自分でタイプしなければならなかった。加えて明朝には、監察課の調査官から呼び出されることになるだろう。メンデスは生きているし、後ろめたいことは何もないので、停職も懲戒委員会も大陪審もないことはわかりきっているものの、狡賢い密告屋から執拗な訊問を受けると考えるだけで気が滅入った。

 おまけにベールズは、遅い時間に地下鉄(サブウェイ)――六番街のメイン街とロサンゼルス街の間にあるパシフィック電鉄ビルから、ビバリー街道(ブルバード)とグレンデール街道(ブルバード)の交差点までの地下区間を走る路面電車を、ロサンゼルス市民は地下鉄と呼ぶのだ――に乗ってしまったので、当然の帰結として変質者に遭遇したのだった。ひょろりと背が高い黒人で、ベールズが内心で『自慢する権利が無くもないな』と思った逸物を彼女の目の前で開陳し、ドレスの広い襟ぐりからのぞいているベールズの乳房をオカズにマスターベーションを見せつけようとしたのだ。その金玉を蹴り上げて手錠をかけ、護送車に引き渡すのにまた時間を取られてしまった。日付はとうの昔に変わり、もうじき朝の三時になろうとしていた。

 

 ベールズは正面玄関の呼鈴を鳴らし、ロビーの椅子で舟を漕いでいた夜勤ドアマンに玄関ドアを開けてもらうと、機械的に二十五セント銀貨を渡して自動運転エレベーターに乗り、三階に上がった。

 アイリスはもう寝ていると思ったのでアパートメント3Aのブザーは鳴らさずに、壊れた鞄の代わりに調達した茶色い油紙の買い物袋を掻き回して鍵を探していると、がちゃりと錠の外れる音がしてドアが開いた。

 

「アイリス……まだ起きてたんだ」

「うん」

 

 短い返答は妙に冷えた声をしていて、ベールズは一瞬たじろいだ。

 アイリスは平坦に「入って」と言い、ベールズは部屋に入った。アイリスがドアに鍵をかけなおす間に、ベールズはコート掛けの横でパンプスを脱いだ。ひりひりする踵と腿をいたわりつつスリッパを履くと、天国に辿り着いた心地になった。そしてアイリスの方を見て――一気に現実に引き戻された。

 アイリスは白いナイトガウンを羽織って、ドアを背にして立ち、冷たい表情でベールズを見つめていた。その視線は刺すようにきつく、ベールズは再びたじろいだ。

 

「あの人は誰?」その声は氷のように冷たく、感情が一切欠落しているようだった。

「あの人って……?」

「あなたが『111』(ワン・イレブン)から連れ出した、黒いスーツの女の人」

「ああ」謎の安堵感がベールズの胸に広がった。「あれは森カリオペ、ボクの新しい相棒だよ。仕事の打ち合わせでさ、ボクがサンペドロのほうにいたこともあって、時間的なアレコレであそこに来てもらったんだよ」

 

 ベールズは段々早口になっていた。その言葉は自分にさえ言い訳めいて聞こえて、ベールズはますます困惑した。

「それでちょっと、急ぎの用事ができちゃって。二人でダウンタウンまで戻って色々しなくちゃいけなくなって、それで――」ベールズを遮って、アイリスが吹き出した。身体を折り曲げてお腹を押さえながら笑うアイリスを見て、ベールズは遊ばれていたのだと気づいた。

 

「……カリのこと、知ってたんだね」

「うん。ごめん、ごめん」ひいひいと喘ぐように息をし、目尻に溜まった涙を指で拭い取りながら、アイリスは続けた。「あの人も結構有名なんだもん。こっちには滅多に来ないけど、セントラル街のクラブにはよく顔を出してるし」

 

 アイリスはベールズのプライベートスペースを侵し、身体が触れ合う距離まで近づいた。シトラスの香水の香りがふわりと漂い、ベールズの鼻をくすぐった。

 

「それにしたってベー、さっきのはものすごーく言い訳っぽかったよ。まるで本当に彼女とそういう関係になってるみたいだった」

「ばっ、そんなわけ――!」

 

 髪の毛と同じほどまで紅潮したベールズを、アイリスは愉しそうに眺めていたが、やがてその唇を物理的に封じた。

 二人はお互いの唇の柔らかさを確かめるように甘噛みを繰り返していたが、すぐに唇どうしをぴったりと重ね合わせ、互いの舌を絡めた。

 ベールズは背伸びをしてアイリスの首をかき抱き、舌を相手の歯茎に這わせ、積極的に味わった。疲れ切ってはいたが、むしろそのために、アイリスを味わいたいという根源的な欲求を抑えて休むべきだという理性の意見は、完全に無視された。彼女はもはや獣だった。このままアイリスを貪りつくそうという原始的な欲望に支配された獣。

 しかし、アイリスのほうが上手だった。彼女にとっては、剥き出しの欲望をぶつけられることは初めてではなかった。それを受け容れるのも、いなすのも彼女次第であり、どちらも得意だった。

 アイリスはベールズの背後に手を回し、ドレスのホックを外した。少し屈んでやると、ベールズは素直に両腕を下げ、ドレスはするすると足元に落ちた。白い蝶が刺繍された黒いレースのパンティに包まれた尻を撫で、早くも湿りつつあるクロッチに沿って内腿に指を這わせると、ぞくぞくするような甘い感覚が身体に走ったベールズは、小さく身震いした。アイリスはそれを機に、一瞬動きを止めたベールズの舌を自らの舌で絡め捕った。ベールズは一瞬、逃げるように半歩後ろに退がったものの、決心したように戻り、ガウン越しにアイリスの背を抱きしめた。

 

 二人は主導権を争うように舌を使い始めた。さらに盤外戦術として、アイリスがベールズの黒いコルセットをゆるめて隙間をつくり、そこから指を忍び込ませて、固くなった乳首の周辺を焦らすように撫ではじめると、ベールズもアイリスのガウンを脱がせ、その下に着ていた黒いシルクのネグリジェも引き下ろした。アイリスは余裕たっぷりといった感じで腕を下ろし、抵抗せずに脱がされたものの、ベールズが上体を密着させ、二組の乳首を擦りあわせ始めると、さすがに目を閉じて肩を震わせた。

 リビングの中央で立ったまま、二人は互いの汗ばんだ肌を密着させ、乳房を擦りあわせ、太腿で下着越しに股間を慰撫しあった。ついには互いのパンティの下に手を入れ、濡れそぼった陰毛の下の裂け目を責め合った。アイリスはキスをやめ、ベールズの首筋を吸い、歯を立て、舌を走らせ、その濃厚な味と香りを楽しんでいたから、劣勢に立たされていたのはベールズのほうだった。

 

 しかし終わりは、アイリスの戦術的降伏によってもたらされた。快楽をためこむベールズと対照的に、アイリスはそれを素直に受け容れ、身を震わせて絶頂した。よろめいてベールズから離れ、口から首に、指から秘部に糸を引き、自身の股間からぽたぽた雫を垂らしながら、アイリスはラグの上に尻もちをついた。身体を震わせるごとに秘裂がひくひくと痙攣するのが見え、そこからとめどなく溢れ出す蜜がラグの色を変えた。

 一方、頂きへの途上で手綱を放されたベールズは熱に浮かされたような目で、自分の右手にべっとりと付着したアイリスの愛液を眺めていた。粘り気があり、やや濁っているそれを口に含み、舌の上に残っているアイリスの唾液とともに転がした。それからアイリスのところへ歩み寄ると、ふうふうと息をつこうとしているアイリスの頭をつかみ、自分の股間に押しつけた。それはほとんど無意識というか、欲望に衝き動かされた結果の行為だった。

 他方のアイリスは絶頂に身を震わせてはいても、意識は比較的しっかりしていた。だから、目の前にぐしょぬれの黒いレースがせまり、次の瞬間には自分の顔に押しつけられた時にも、状況を把握するのは早かった。彼女は素早く両手を広げて指をパンティの両側に入れ、それを引き下ろした。ベールズは相変わらず、アイリスの頭を掴んで自分の下腹部に押しつけていたが、アイリスはうまく角度を調整して、クロッチにねっとりと糸を引く蜜壺に自慢の長い舌を侵入させた。ベールズの内側は、アイリスにとっては裏庭も同然だった。弱いところを的確に、しかし優しく慈しむように味わわれ、ベールズは自分がどんどん高いところへ導かれるのを感じた。荒い息は甘いよがり声に変った。

 

「アイリス……もっと、アイリス……お願い」

 

 そんな風に求められては、アイリスも再び昂らない理由はなかった。舌さばきをほんの少し強めにして、膝が震えだしたベールズのために両手でその尻を支えてやりながら、太腿を擦りあわせて自らを慰めた。ベールズも、片手ではアイリスの後頭部に指を立てつつ、もう片手では自分の乳房をつかみ、指先で乳首を転がしていた。しかし胸から得られる快楽は、他者に秘裂を侵される快楽には全く及ばなかった。

 目の前がちかちかと白く明滅し、アイリスの名前を呟くように連呼しながら、ついにベールズの溜め込んだ快楽が爆発した。喉の奥から絞り出すような、甲高いきゅーっという叫び声とともにベールズは達した。アイリスの顔を力いっぱい下腹部に押しつけると、激しく吹き出す潮がその顔面をびしょ濡れにし、アイリスの胸にも、ベールズの脚にも、脱げかかっていたストッキングやパンティにも降りかかり、ラグを湿地のようにぐしょぐしょにした。一気にベールズの匂いに包まれたアイリスは、その濃さにびくりと痙攣し、浅く絶頂した。

 ベールズはラグの上にくずおれ、自分の愛液と潮に浸かり、明けきらない絶頂に身を震わせていた。それなりに息を整えたアイリスは、ベールズの下着――コルセット、ガーターベルトとストッキング、足枷のようなパンティ。いずれもセクシーな黒いレース――を優しく脱がせた。偶然か故意か、アイリスの指先が数回、ベールズの充血した乳首や陰核を撫ぜ、そのたびにベールズは「んっ」と可愛らしくよがって、小さく潮を吹いた。アイリスの劣情に三度火をつけるには、充分すぎる痴態だった。

 

 ベールズは抱え上げられ、寝室に運ばれ、真っ白なシーツの上に寝かされた。汗と蜜が早くもシーツに染みを広げ始めている中で、アイリスはベールズの腹の上に馬乗りになった。ベールズはすっかり潤んだ目でそれを見た。アイリスは無抵抗のベールズを、上から下まで余すところなく味わった。首筋、鎖骨、腋、乳房と乳首、へそ、尻、太腿。至るところに痕を残し、アイリスは腹越しにベールズの子宮に口づけを与えると、ついに再び裂け目とその奥を責めた。ベールズは短い間に二度も達した。

 最後にアイリスは脚を絡ませ合い、もはや人事不省に陥っているベールズの秘裂に、自分の秘裂を重ね合わせた。敏感な粘膜どうしが擦れてベールズは悲鳴を上げたが、その声は悦びにあてられて甘く、嬌声と何ら区別がつかなかった。陰核どうしが触れ合った時には、二人が同時に身体を戦慄かせて喘いだ。ついに二人は同時にのぼりつめ、真っ白な霧に頭を覆われて倒れ込んだ。

 二人はそのまま翌朝まで、愛し合ったあとの匂いに包まれて、抱き合って眠った。

 

 

 翌朝、というか昼になってから、二人は執拗に鳴り続ける電話のベルで目を覚ました。ベールズは監察調査官の聴取に遅刻した。

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