H.L. Noire ~Neology~ 作:Marshal. K
水曜日の昼下がり。ベールズとカリオペは
「どうした、そんな辛気臭い顔をして」早くも自分の分のサンドイッチを平らげたカリオペが、残ったグレイビーソースをフライドポテトですくいながら言った。
「いや。なんでもない、大丈夫」ベールズは自分のサンドイッチをもそもそと小さく齧り、のろのろとした仕草で再びソースに浸けた。
「いいかベー、『大丈夫だ』って嘘を吐くなら、もうちょっと大丈夫な顔をして言え。今度部内のポーカー大会に参加してみろ。いい訓練になると思うぞ」
「考えとく」
二人は裁判所帰りだった。今日の午前中にロサンゼルス郡裁判所で、アロンツォ・メンデスの第一回予備審問があったのだ。
「心配しなくても、
ベールズは相棒に相槌を打つことはせず、食べかけのサンドイッチを皿においてコーヒーカップを持ち上げ、冷めたコーヒーの液面を眺めた。自分の顔が映っている。燃えるように赤い髪、朝焼けの色あいの眼。
ぼうっと眺めていると、それがアロンツォ・メンデスの顔に変わった。レギュラーコーヒーのような褐色の肌、短く整えた黒髪、無感情に、しかし形容しがたい非難の色を湛えてこちらを見つめてくる、黒くて丸い目。顔はさらに、今日の法廷で
「オーケイ」カリオペは溜め息混じりに言った。「何が引っかかってるんだ?」
「……アロンツォはさ、あの日あの部屋に
「あるいは、彼女が次の獲物だったのかもしれない」カリオペはポテトを、人差し指のように天井に向けた。「地方検事はその線で行くつもりだ。あれを見せつけてびびらせ、そのまま一発やり、殺して棄てる。そういうつもりだったんだろうってな」
「でも、準備が整ってなさすぎる」ベールズはそう言い、こちらは人差し指そのものを天井に向けて続けた。「鑑識が言ってただろ? あの部屋で犯行が行われた痕跡は無かったって。なら、今回あの部屋で犯行に及ぶつもりだったなら、防水シートとかなんとか、そういうのがあってしかるべきだよ。でも無かった。彼女を殺すつもりはなかったんだよ」
「じゃあ、あの部屋にあった証拠品の山に、どう説明をつけるつもりなんだ」
カリオペの声は苛立たし気になっていた。実際、彼女は同僚ではなく、むかつく弁護士を相手にしているような気分になりつつあった。
「ボクたちが入った時、寝室の窓は開いてたよね。あそこには非常階段がある。ここはロサンゼルスで、今は夏で、大半の人は寝室の窓を開けて寝てる。カリもだろ?」
カリオペは渋々頷いた。
「鑑識はあの窓に器具痕はなかったって言ってた。たぶん、アロンツォは夜寝る時に窓を開けてて、仕事に行く時に閉め忘れたか、鍵をかけ忘れたかしたんだ思う」
「ああ、“玄関の鍵をかけ忘れる”くらいだからな」
カリオペの当て擦りを、ベールズは無視して続けた。「つまり、ボクの考えはこう。誰であれセリーン・ヘンリーを殺した何者かが、非常階段からアロンツォの部屋に押し入って、凶器その他の証拠品を置いていった」
「お前、就職する役所を間違えたな」
カリオペはこめかみを揉んでから、ラッキーストライクのパックを取り出して煙草に火をつけた。
「警察じゃなくて公選弁護人事務所に入るべきだったよ。タイプができて、簿記ができて、しかも弁護方針について素晴らしい助言ができる。いい弁護人秘書になれたと思うぞ」それから、煙を吐き出して続けた。「議論のために、その仮説があってるとしよう。じゃあ、なんでメンデスのやつは逮捕されてからこっち、一言もしゃべらないんだ? ホフマンと接見した後ならわかる、弁護士連中はそうアドバイスするからな。だが、捕まえた直後から何も、一言もしゃべらない。
「アロンツォには前科があるだろ」ベールズは指摘した。「彼は前に性的暴行で九か月食らった時に、担当の公選弁護人補と話をしてる。『何もしゃべるな、私たちが代わりに話す』って言われたことを、今回は最初からやってるだけなんじゃないかな」
「私の経験に照らして言えば、前科があって弁護士――公選と私選とを問わず――と話したことがあるやつでも、勾留手続きで『容疑を認めるか?』と訊かれたら、『俺がやった』あるいは『俺はやってない』と答えるのが普通だ。あれは私たちじゃなくて、留置する署の制服巡査部長がやるからな、取り調べの一種だって感覚が薄まるらしい。だが、その時からなあんにもしゃべらないってやつは、私が扱ってきた中じゃ全員クロだった」カリオペはベールズの目を覗き込んだ。「納得したか?」
「……うん」
「納得した声を繕う練習も、もっとしたほうがいいな」
*
二人が市庁舎に戻ると、デスクで電話番をしていた制服巡査――刑事の一人の助手だったはずだが、ベールズはまだ憶えきれていなかった――が二人に、ドネリー警部が呼んでいたと伝えた。
「なんだかよくわかりませんけど、えらい機嫌が悪そうでしたよ」
「お説教かな」
ベールズが言うと、カリオペが首を捻った。「メンデスの件は滞りなく進みそうだし、あの後に任された事件も一つは解決して、もう一つも糸口は掴んでる。叱責される覚えはないんだがな」
「とにかく、二人が帰り次第すぐに、執務室へ通せと言ってました。早く行ったほうがいいんじゃないですかね」
「言われなくても行くさ。ありがとな、ヨルゲンセン」
カリオペがヨルゲンセン巡査――忘れないようにしよう――に礼を言って、二人は殺人課と中央方面刑事部長室を仕切っているドアに向かった。カリオペがドアを開け、中に声をかける。
「警部、森とハコスです」
「入れ」
ジェームズ・ドネリー警部の執務室には、二人組の先客がいた。執務椅子に座ったドネリー警部の右手背後に、並んで立っていた。
どちらも中年男性で、片方はがっしりと小太りの中間やや後者寄りにおり、もう片方は徴兵検査の書類に兵役不適格のスタンプを押されそうなガリガリのっぽだ。小太りは砂色の髪を七三に分けて撫でつけており、痩せた方は黒髪をオールバックに固めている――歳のわりに生え際が後退しているために、広い額が強調されていた。
二人とも、夏用の軽いウールの黒っぽいスーツに身を包んでいる――小太りの方はもう少しがっしりしていたころに服を仕立てたらしく、腹回りがやや包みきれていないが。服装だけで言えば、あまり顧客のいない税理士か弁護士のような見た目だ。
しかし、ベールズとカリオペは部屋に入った途端に向けられた、こちらを値踏みするような鋭い視線から、すぐに同業者の匂いを嗅ぎ取った。連邦捜査官、それもFBIの捜査官であることに、今月のボクの給料を全部賭けてもいい、と彼女は思った。
「お二人さんに紹介しよう」ドネリー警部が挨拶も抜きに言った。その声は感情が欠落していて固い。「こちらは連邦捜査局のジョゼフ・ピカード特別捜査官とスティーブ・ケプラー特別捜査官だ。捜査官、この二人が森カリオペ刑事とハコス・ベールズ刑事だ」
「よろしく、刑事」小太り気味のピカード捜査官がそう言い、口許だけで笑いながら手を差し出したが、二人はそれを無視した。ピカードは空中で曖昧に浮かせていた手を引っ込め、咳払いをして続けた。「まあ、座ってくれ」
「結構だ」カリオペが即座に断った。「立ったままでいい」
二人の捜査官はむっとした顔つきになったが、それでもピカードは内ポケットから手帳を取り出し、ぺらぺらとページをめくり始めた。カリオペはそれを見て面白そうに目を細め、ベールズは注意して無表情を繕った。
相手を座らせて自分たちは立っていたり、すでに頭に入っているメモを態々時間をかけて見返したりするのは、被疑者を訊問する時の使い古された
ベールズは、不機嫌そうな表情のままのスティーブ・“がりがりのっぽ”・ケプラー特別捜査官を眺めて、もしボクたちが素直に座っていたら、ケプラーは間違いなく客用椅子の背後を威圧的に歩き回ってただろうな、と推測した。
「さて」ぱたん、と芝居がかった仕草でメモ帳を閉じて、ピカードが言った。「二人ともミスと呼ばれるのは不愉快だろうし、ここはカリフォルニアだから、お二人のことはカリオペとベールズと呼ばせてもらおうか。構わないかな?」
カリオペはピカードに胡散臭そうな視線を投げ、ベールズは変わらず無表情のまま固い声で「お好きにどうぞ」と言った。こんな細かいことで連邦捜査官に逆らったところで良いことはないが、面従腹背するのも癪だった。
「二人とも優秀な警察官だと、ドネリー警部から聞いている」
ピカードはベールズとカリオペの、あまり友好的でない態度を気にしていないかのように続けた。青い眼の目尻が若干ぴくついているところを見るに、寛容そうなのは見せかけだけのようだ、とベールズは思った。
「カリオペは戦前から、ベールズは戦時中から奉職して、この街で犯罪と戦ってきたらしいな。そんな二人にこんな質問をするのは心苦しいんだが、訊かせてくれ。君たちは愛国者か? 自分の国を愛していると、自信を持って言えるか?」
「ボクは自信を持って言えるよ。我が祖国オーストラリアを愛してるからね」
ピカードは、
「そっちはどうなんだ? 失礼ながら、どう見ても陸軍にも海軍にも入れなさそうな体格をしてるが」カリオペがやり返した。
ケプラーは髪の生え際まで赤くなり、元々皺の寄っている眉間がデス・バレー並みに深くなったが、その腕をピカードがそっと抑えて言った。
「我々か? 我々は国内にいた。いみじくもご指摘の通り、我々は少々――軍務に適さない体つきなのでね。とはいえ、遊んでいたわけではない。当局の任務があり、国内の敵と戦っていた」
ピカードはデスクを回り込んで、二人との距離を少しだけ詰めた。気楽そうに見せるためにデスクの天板に尻を乗せ、警部は明らかに不快そうな顔をしたが、何も言わなかった。
「
「そうか。なら、その布告無き戦争をしに戻ったらどうなんだ? あるいは
「もちろん、我々はその布告無き戦争のために、ここに来ているんだ、カリオペ」
最後の馴れ馴れしい呼びかけを耳にして、カリオペは『寒イボが立った』と言わんばかりの顔になって肩をすくめた。
「というわけで、仕事の話に移ろう。先週君たちが担当した事件、ヘンリー事件のことだが」ピカードは青い眼に期待を込めて、二人を交互に見やった。
「終わった事件だ」憮然とした態度でカリオペが言った。「法廷での手続きが始まっているし、証拠も万全、地方検事もやる気充分。あいつのガス室送りは決まったようなものだ。お前たちが蒸し返すような事件じゃない」
「残念ながら、そうでもないんだ。報告書を読ませてもらったが、君たちが把握していない背景情報があってね。彼女は我々が関心を寄せていた人物の一人だった。そして今月の頭に彼女が殺されたのを皮切りに、我々が関心を寄せていた女性が立て続けに三人、殺されている。いずれもダリア
「セリーン・ヘンリーは
「彼女は“我々が関心を寄せていた人物”の一人だった」
ピカードは繰り返した。その目つきを見るに、それ以上の情報を二人に与えるつもりはなさそうだった。
「それ以上のことは、君たちには教えられない」
「他の二人っていうのは?」ベールズが更に訊いた。
「一人はディアドラ・モラーだ。君たちも知っているだろう」
フロイド・ローズ刑事とラスティ・ギャロウェイ刑事が担当した事件だ。事件に絡んで色々とスキャンダラスな事柄があり、今なお街中の新聞という新聞を賑わせている。
「もう一人は?」
「アントニア・マルドナード夫人」
ベールズはカリオペの顔を見たが、カリオペはゆっくりと首を振った。
「誰?」
「ヒスパニック系のご婦人だ」ドネリー警部が口を開いた。「今朝、ユニオン・ステーションの、アラメダ街を挟んで向かいの
ベールズは警部の背後に掲げられている、中央方面区の壁掛け地図に視線を飛ばした。
「ここから二、三街区しか離れてない……」
「ああ、付け加えて言えば、
「お二人にはこの三件を調べてもらいたい」ピカードが、ベールズと警部に割り込んだ。「ヘンリー事件、モラー事件、そしてマルドナード事件。これらの事件には、いずれも我々が関心を寄せていた人物たちが被害者になっている、という共通点がある。すると、他にも共通している部分があるはずだ。それを念頭に、君たちにはこれらの事件を捜査してもらう」
「二人とも、一時的に本部追跡捜査課を兼務してもらう」ドネリー警部が、注意して繕った無感情な声で言った。「中央方面区外の事件にも波及する可能性を考えての、形式的な処置だ。書類上の上司はレオ――レオナルド・ピーターセン地方検事補となるが、二人には従前通り、私に報告書を出してもらう」
「我々にもだ」ピカードが再び割り込んだ。「どんなに些細に感じたことでも、どんなにつまらないことでも、仔細漏らさず報告するように。それが本当に些細かどうか、つまらないかどうかは、君たちではなく我々が判断する。これらの事件はロサンゼルス警察の管轄外の、連邦政府が管轄する事件と関係している可能性があるんでね」
「それを私たちに教えてくれないのか?」カリオペの声は、不機嫌さという
「君たちには通常どおりの捜査、あるいは再捜査の手続きを取ってもらう。その上で、さっきも言った通り、あらゆる事柄を細大漏らさず報告するんだ。重ねて言うが、これらの事件は国家安全保障問題に関する、君たちではとても手に負えない事件に関係している可能性がある。それを忘れないようにな」
カリオペは更に言い募ろうとしたが、警部が控えめに咳払いをしてじっと視線を送ると、言おうとした言葉を呑み込んで別のことを口に出した。「わかった」
ケプラーは渋面から一転して、弱い者いじめをする悪ガキのような、にやにや顔になった。ピカードも口調に満足を隠せずに、「よろしい。ベールズ、君もわかってくれたな?」
「カリがそれでいいなら」
ピカードは手帳をしまって、自分の名刺を半ダースほど警部のデスクに置くと、「では、よろしく」と言って執務室から出ていった。にやにや顔のケプラーが後に続き、ベールズの脇を通り抜けしなに、その尻をスラックス越しにぎゅっと掴んで――ベールズは危うく十代の女の子みたいな悲鳴をあげかけた――ピカードのコバンザメのようにそのまま立ち去った。
怒りと恥ずかしさで混乱して目を白黒させているベールズを尻目に、カリオペが憤然と言った。「で?」
「で、とはなんだ?」
「脳足りんの気取り屋を喜ばせておけば、こっちもそれでいいと、そういうことですか、警部?」
「私だって、好きでフェッドどもをもてなしてるわけじゃない。だが、月よりも高いところにいる御方が別の御方に電話をかけ、そうして始まった伝言ゲームがそこの電話機で終わった時、私にどうこうできる余地は毛筋一本分もなかった。あいつらに協力しろ。お望みのものを与えてやれ」
ドネリー警部はデスクの上から二枚の書類を取った。刑事部長のレターヘッドが捺された専用タイプ公用箋だ。短い文章が打ってあり、末尾にはブラウン部長本人の署名がある。
「追跡捜査課への異動辞令だ。これを持ってレオのところに行って、命令書を受け取れ。それが済んだら、速やかに捜査を始めろ。ああそれと、向こうで検事補が何を言おうとな、報告をする相手は私とフェッドだけでよろしい。そら行け」
*
ロサンゼルス市警察本部追跡捜査課は、市警のあらゆる部署の中で唯一、
庁舎はスプリング街を挟んで連邦裁判所庁舎の向かいに建っており、市庁舎からは北西のはす向かいにあった。一九二五年竣工、ボザール様式、鉄骨鉄筋コンクリート造、化粧タイルの十三階建て。正面玄関の大階段を登りつめた先には、大理石の床、真鍮の
二人はホールの奥にある二基の乗り場へ向かった。各階停止の公衆用エレベーターは開庁時間中、いつも混雑しているので、二人は裁判所がある七階と八階だけに停まる急行エレベーターに乗り、七階から階段で、地方検事局のある六階に下りた。
ロサンゼルス郡地方検事局の待合室は、途方に暮れた顔でベンチに座り込んでいる人々や、受付デスクで事務員と深刻そうな顔で話し込んでいる人々などでごったがえしていた。二人は部屋を抜け、事務室のドアが左右にずらりと並んでいる、南北に延びる廊下に出た。南の角には地方検事局の長であるドナルド・サンドラー地方検事の執務室があるが、二人が目指すのは正反対の北角だ。
この廊下も
廊下のはずれ近くの右手に捜査部の事務室が、続いて捜査部長副検事の執務室、さらに続いてレオナルド・ピーターセン捜査担当地方検事補の執務室があり、一番突き当りに警察官用の控室があった。二人はその開けっ放しのドアを抜け、煙草を吹かしながら捜査資料とにらめっこしていている刑事や、顔を突き合わせてなにやら相談事をしている刑事などが数人、待合室のものよりずっと座り心地が悪そうな木製のベンチに座っている部屋を横切った。
控室の奥に、北東の一番角にあたる部屋へ続くドアがあり、凹凸ガラスにはすっかり曇った金箔押しで『
北向きの窓が一つしかない室内は、市庁舎の事務室に負けず劣らず薄暗かった。向かい合った二台のデスクが二組、入り口近くと奥の方に、少し間隔を空けて置いてある。壁のほとんどは書類棚で埋められ、窓と
手前側のデスク二台に人はいないが、空席というわけではないようで、それぞれ『デニス・ブラドック刑事』『ジョゼフ・メドウズ部長刑事』と書かれた木の名札があり、タイプ打ちの書類や、手書きの回報や伝言メモが山積みになっていた。
奥のデスクの一台に、そろそろ青年から中年になろうという年頃の、太り気味の制服巡査が座っていた。お腹がゆるい時のうんちみたいな黄色のよれた背広に、便秘気味な時のうんちみたいな濃い茶色のズボンを併せた、がっしりした体格の壮年の男が、巡査の背後から何やら書類の書き方を指導しているようだった。
カリオペとベールズが近づくと、二人は口を閉じて書類を書くのをやめ、新参者たちをじろじろと見回した。その二人の顔つき――岩のようにごつごつした顔面、黒くて
「ミスター・ピーターセンはいるか?」
クラマー刑事は書類棚の向こうの執務室を、親指で指して答えた。
「ああ、部屋だ」それから疑念に顔をしかめて続けた。「何の用だ? お前たちが訪ねるべきなのは、重罪公判部のミスター・ドレイファスだろ」
「命令書を貰いに来たんだ」カリオペは淡々と答えた。「あくまで書類上の話だが、ここに籍をおくことになってな」
「お前たちがか?」巡査の方のクラマーが、うわずった声を上げた。「そんなわけがあるか。おい、いま座ってるこの椅子を手に入れるのに、俺が何年かけたと思ってるんだ?
「黙れジョナス」パパ・クラマー――ベールズは頭の中でそう呼ぶことにした――がぴしゃりと言った。「職務中にパパと呼ぶな、何度言ったらわかるんだ」
「ごめん、パ――
「ああ、来たな」仕切りドアが開き、その服装から地方検事補本人とわかる男が顔を出した。「二人とも、こっちに入ってくれ。フレッド、供述書はもうできそうか?」
「まもなくだ、ミスター・ピーターセン」
「よろしい。我らが新しい――そして美しい同僚たちが外回りに出た時には、それに目を通せるものと期待してるよ」
二人は地方検事補の執務室に入った。市警追跡捜査課と検事局捜査部長室に挟まれたその部屋は、前者の事務室と同じくらいの広さの、東向きの窓が一つだけある部屋だった。ただ、四人から六人用の中部屋を一人で占領していると考えれば、結構な執務室だと言えるだろう。
緑のシェードがかかったデスクランプの載ったテーブルは、すっきりと片付いていた。筆記具や
「まあ座ってくれ。コーヒーでも飲むかい?」
「いや結構だ」
カリオペがすっぱりと断り、ベールズは恨めし気な目で相棒を見やった。執務室と捜査部長室を仕切る壁際のサイドボード上に、手回しミルやサイフォンやアルコールランプが載っており、コーヒー好きのベールズは同好の志の匂いを嗅ぎ取っていたのだが、どうやらその期待までカリオペに見透かされていたようだった。
「命令書を受け取るだけでいいと警部から聞いてる。長居する気はないんだ、先生」
「その件なんだが、こちらの手違いでその命令書がまだできていなくてね。いまタイプさせているところなんだ」
カリオペが睨みつけたが、ピーターセンはどこ吹く風という表情で執務椅子に腰かけた。
「フローレンスは退職したんだったかな、カリオペ?」
「ああ。退役の海軍大尉と一緒になってな」
「そして今度は、君が教える立場というわけだ」
「何が言いたいんだ?」
「彼女は惜しいことに、刑事警部補で退職することになったがね。私が思うに、カリオペ、君はフローレンスと同じ道を辿るのみならず、市警で初めてそこから警部になった婦人警察官なるものと、私は確信しているんだがね」
「それはどうも。あなたの買い被りすぎじゃないことを祈ってるよ」
奇妙に馴れ馴れしい検事補と、同じくらい奇妙にとげとげしいカリオペが言葉を交わしている間に、ベールズは目の前の州政府側代理人をじっくりと観察していた。
レオナルド・ピーターセンは四十手前の男だった。短く整えた髪と太い眉は黒々としている。アーモンド形の目は、岩のようなグレー。顎や鼻周りには、今朝きちんと剃ったはずの髭の痕が青く浮かび上がっていた。こういった髭を
法廷に立っていない時の法曹家は普通、アイビーリーグの出身者が好んで普段着にしている、ツイードのスポーツジャケットにギャバジン織りのズボン、ペイズリー柄のネクタイ、ペニーローファーという出で立ちなことが多いが、ピーターセンはあたかも今、法廷の
「もう把握していると思うが、」ピーターセン検事補が、選ばれし者にだけ与えられる鍵を弄りながら言った。「一連の事件は非常に厄介なことになってきている。ただでさえモラー事件の件で、市長や警察局長――もちろん地方検事もだ――のところには、誰もその機嫌を損ねたくないようなお歴々からの電話が、ひっきりなしにかかって来ているところなんだ。かと思えば、今度は天からの声によって連邦捜査局が介入してくる。君たちも警官である以上、J・エドガー・フーバー長官の風評は耳にしたことがあるだろう? もちろん、世間の人々が言う『今世紀最高のアメリカ人』とか『ワシントン大統領以来最も誠実な公務員』とか、その類ではない方を?」
カリオペは渋々という体で頷いた。
ベールズもフーバー長官の『風評』は耳にしたことがあった。
主要メディアは彼を賞賛し、それ以外の情報が紙面や電波に載ることはなかった。ロサンゼルスのタイムズ紙やデイリーニュース紙はもちろん、遠く東部のニューヨーク・タイムズ、シカゴ・トリビューン、ワシントン・ポストといった名門紙、各地のラジオ局やその全国ネットワークも、口をそろえて彼を『偉大なアメリカ人』だと称えた。しかしながら、実際にFBI捜査官たちと――嫌々ながらとはいえ――仕事をすることがある警察官たちの間には、やっかみ混じりではあろうが興味深い噂が幾つも流れていた。
フーバー長官とそのナンバーツー、クライド・トルソン次官は決して休まないというのが、世間の人々の常識――FBIの広報官たちが血の滲むような努力をして定着させた常識――だった。二十四時間三百六十五日、ナチや
この春、長官と次官は二人でカリフォルニアの支局群を視察に訪れたが、ロサンゼルス支局を視察したその日はサンタアニタ・ダービーの開催日だった。彼らは“カリフォルニア紳士との社交のため”と称して、サンタアニタパーク競馬場に顔を出していた。彼らはニューヨーク支局を頻繁に視察したが、その日程は大抵、大リーグのニューヨーク対ブルックリンの試合や、フットボールの
こんな風評を書き立てる記者が一人もいない――それもゴシップ専門のクズ新聞ですら紙面に載せない――理由はひとえに、このフーバーという男が持っているとされる情報にあった。彼は自分の役所を総動員して、アメリカ中の様々な人々の知られたくない秘密を集めているのだという。本当かどうかは誰にもわからないし、その存在を疑っている人物も少なくないが、それは問題ではなかった。『あるかもしれない』という恐れがあれば充分なのだ。残念なことに、それが現実的に可能な地位にいる以上、フーバーからの“お願い”ないし“要請”を断るなど、トルーマン大統領ですら不可能だろう。敵に回すなど言語道断だ。
「あんなやつが口を挟もうとして来ているんだ、絶対裏があるに決まっている。それも、取り扱い要注意な裏が。そこで質問したいのだが、君たちは今回、
「あんたなら助けてくれる、というのか、ミスター・ピーターセン?」カリオペの声は、深い疑念を湛えて低かった。「一介の地方検事補にすぎない――そりゃあ、私たちやドネリー警部よりは高官だが――あんたが? むしろその保証はあるのか?」
「あるとも」ピーターセンは鍵を弄るのをやめ、デスク上に身を乗り出した。「さっきも言った通り、私は君が遠くない将来、刑事警部補を経て警部になるのは確実だと見てるんだ。君は実際家だから敢えて直截な言い方をするが、そんな君に早くから恩を売るという投資をすることが、私には大きな得になる。すでに噂に聞いていると思うが、私は来年の選挙でミスター・サンドラーに挑戦するつもりだ。だが、たぶん予備選挙で負けるだろう。彼は四四年の選挙の時にしたように、予備選挙でまた
「しかし、チャンスはまだある。知っての通り、ウォーレン州知事はハウザー州検事総長を
「でもその場合、」ベールズは口を挟んだ。「五一年にサンドラー検事総長が誕生するものと仮定しても、地方検事職の方は任期途中なわけですから、後任は郡参事会が任命するわけですよね。そして慣例として、次席地方検事が昇格して任命される――ミスター・サンドラーだって、ハウザー前地方検事の検事総長就任に伴って、次席検事から昇格したんですから。となるとあなたは、その時現職になっているはずのミスター・ロールに対抗しなくてはならない。あなたがさっき指摘した通り、現職候補に選挙で勝つのは難しいんじゃないですか」
「残念だが、ロールは有力候補というには程遠い」ピーターセンは上司にあたり、かつずっと年上のはずの次席検事を呼び捨てにした。「参事会による次席検事の昇格任命は慣例だが、あくまでも慣例であって、それに反する議決が下されないというわけじゃない。次席検事どころか、全く外部の弁護士が任命された前例もある。賭けてもいいが、ミスター・サンドラーが南東の角の執務室を去ったら、参事会員たちの家の電話機は『我こそはアーネスト・ロールよりも上手く地方検事局を切り回せる』と主張する連中からの電話で、鳴りやむことがなくなるだろう。無論、私がかける電話と、ロール自身からの懇願の電話も含めてな。
「となると、私が介入して任命を勝ち取れる可能性は充分残るわけだし、仮に参事会が前例を踏襲する気になったとしても、あいつが地方検事として力量不足だと知れれば、選挙でも充分挽回できる。注意すべきはロールよりも、むしろ他の候補たちだ。重罪公判担当のミスター・ドレイファスあたりとかだな。とはいえ、彼はブラック・ダリア事件や今回のモラー事件で、名前が随分クソまみれになってしまったから、当分は動きづらいだろう。つけいる隙は充分ある」
ぎしりと音を立てて、ピーターセンは背もたれに戻った。左手が再び、権威の鍵にのびる。
「どうかな、私が五三年には、ここより五十ヤード南の執務室に移り、六〇年頃には、はるか三百六十マイル北の執務室に座っている様子が思い描けないかな?」
「テクニカラー並みに鮮明にな」カリオペの声は静かだった。疑念の色は、かなり薄くなっている。
「もちろん、私はサクラメントで満足するつもりはない。州議会、連邦上院、そして司法長官まで目指すつもりだ」
州議会はともかく、司法長官まで行くと夢物語に近いな、とベールズは思ったものの、口には出さなかった。
「そして、これらの実現可能性を高めるために必要なのは、何においても票田だ。参事会員たちだって、再選を目指してないわけじゃないし、本人に再出馬する気はなくとも、自分の子飼いを後釜に据えたい気持ちは勿論ある。となると、彼らの歓心を買うものは票田だ。大きい得票数で当選した公職者の後援を受けたいと、どの参事会員も間違いなく思うだろうからな。そして、話は最初に戻って来るんだ。
「カリオペ、私は君が若くして婦人警部になることを疑っていないし、今の世論は逆風かもしれないが、ロス市警の“婦人課長”が“婦人部長”になる日は遠くないと思っている。君は高い確率で、初代の婦人警察次長になるか、そうでなくともその創設に深く携わったとして名を残すだろう。その上で適切に風向きを読めば、この州で初の婦人保安官に選ばれるのも夢じゃない。私としては、三百数十人の――あるいは、将来的にはそれ以上の――婦人警察官という票田を取りまとめられる地位に就くであろう人物に、今のうちから恩を売っておくのは
長い沈黙が下りた。にこやかなピーターセンと、対照的に鋭い眼のカリオペがにらみ合う中、立ったままで居心地が悪い事この上ないベールズは目をきょろきょろさせ、追跡捜査課との仕切りドアの凹凸ガラスに濃紺の制服が映っているのに気がついた。どうやら、クラマー父子が――少なくとも息子の方は確実に――この話を盗み聞きしているようだった。
「少し考えさせてくれ、ミスター・ピーターセン」カリオペが静かに、しかしもう相手を“信頼できない相手”とは見なしていない口調で言った。「あなたの主張はわかったし、私の利益もわかった。私の相棒の利益の話が出なかったのは残念だが――」
話に含まれていなかったために、完全に気楽な部外者のつもりでいたベールズは驚いてカリオペの顔を見、ピーターセンも少しだけ眉を上げた。
「――とにかく、考える時間が必要だ。なにせ向こうは、上は市長から下はドネリー警部まで、既に権力を持っているんだからな」
「もちろん、構わないさ。熟考してくれ。それと、私のことはレオと呼んでくれていい」
ベールズは再び驚き、今度はにこやかなピーターセンの顔をまじまじと見つめてしまった。検事補以上の検事局高官たちはみな、幹部警察官未満――つまり警部補以下の警察官には、ミスターを付けて呼ぶよう求めるのが普通だった。その検事補たちの中でも取りわけ権威主義的だと言われるピーターセンが、幹部でもない婦人警察官相手に愛称呼びを許すなど、カリオペの隣にいたのがベールズでなくとも驚いただろう事態だったのだ。事実、ベールズに知りようはなかったが、仕切り壁の向こうでクラマー父子は腰を抜かしていた。
当のカリオペは気にする風もなく淡々と答えた。「それは遠慮させてもらおう、ミスター・ピーターセン。その特権を得た理由が、この個室であんたに『ご奉仕』したからだとか言いふらされたら困るんでね。私は何と言われようと構わないが――」
カリオペは隣のベールズを見た。ベールズはカリオペの、さして婉曲でもない婉曲表現を早々に解して、耳まで真っ赤になってしまっていた。ピーターセンもデスクの向こうから、面白がるような視線でベールズを眺めていた。
「カリオペ、やはり私は、君こそ初代婦人部長となるべきだとの思いを強くしたよ」
「それはどうも」カリオペは素っ気なく答えた。「他に用件がないなら、たぶん昼前には既にタイプが終わってたと私が見るところの命令書を、いい加減出してもらえないか。将来の婦人保安官としては、不運にも変態的殺人者の犠牲になったご婦人を、いつまでもほったらかしにしておきたくはないんだが。それは選挙に響きそうなんでね」
「
ピーターセンは笑い、ボタン電話機から受話器を取って、ダイヤルの下に並んでいるボタンを一つ押し、続けてもう一つ押した。
「――私だ、命令書を持って来てくれ」
*
「ちょっと意外だったんだけど」ベールズはカンカン照りのスプリング街の歩道を歩きながら、カリオペに言った。
「何がだ?」
「さっきの、ほら、婦人部長とか保安官とかって話。カリがそこまで出世に興味があるタイプって思ってなかったから」
「別に、興味はないさ。もちろん、タダでその椅子に座れるっていうなら、断りはしないがな」
テンプル街との角の信号機が変わるのを待つ間、二人はそろって煙草に火をつけた。
「じゃあ、なんで?」
「いいかベー、いみじくもピーターセンが指摘したように、どうも今回、私たちは面倒な立場になりそうだ。
ラッキーストライクの煙とともにカリオペが吐き出した連邦捜査官の声真似は、高慢ちきな特徴をしっかりとらえて誇張していて、ベールズは思わず鼻から紫煙を吹き出してしまい、隣で信号待ちをしていたお堅い会社員ないし公務員風の眼鏡の男から、信じられないものを見るような目を向けられてしまった。
「どうも、連中は私たちに目隠しをして、クソ壺の上に張り渡したロープの上でタップダンスをさせようとしてるって気がするんだ。ドネリー警部は残念ながら、命綱としては当てにならない。私たちのことを気に入ってくれてるのは確かだが、彼には仲のいい奥さんがいて、目に入れても痛くない三人の娘と一人の息子がいる。彼らを養うための給料や恩給をふいにしてまで私たちを助けてくれる、とは期待しない方がいいな」
信号機がカーンと鐘を打ち鳴らし、赤い札と青い札を入れ替えると、二人はスプリング街を渡った。
「命綱は多いに越したことはない。そういうこと?」
「そういうことだ」
市庁舎が目の前に迫ってくると、カリオペは立ち止まった。
「さて、分担を決めようか。あいつら、二人の人間に三件の事件を任せるなんて、無茶なことをしてくれやがったからな。モラー事件は私が調べよう」
口を開いたベールズを、カリオペは掌を向けて制した。
「モラー事件の担当者は誰だった?」
「ローズ刑事とギャロウェイ刑事」
「そうだ。で、ローズのやつはお前の就任初日の件を、間違いなく根に持ってる。それについて議論はしないぞ。事はお前がどう感じたかじゃなくて、ローズがどう捉えたか、だからな。連中はいま、ドネリー警部の大いなる怒りを喰らって、中央署の刑事係に降格派遣されてる。お前が行ったら火に油を注ぐだけだよ」
「わかったよ」ベールズは諦め混じりの紫煙を吐いた。「モラー事件は任せる」それから、今日発生した事件と、心の中で何かが引っかかっている事件を天秤にかけた。「ボクはマルドナード夫人を調べてくる。ヘンリー事件も気になるけど、さっきのカリオペじゃないけど、哀れなご婦人をいつまでもお待たせするわけにはいかないからね」
「よし。じゃあまた、夕方にな」
二人は道路脇の側溝に吸殻を投げ捨てた。
*
中央警察署は一番街とヒル街の角から、少しだけ東に行った南側に位置している。十九世紀半ばに建てられ、もうじき百歳を迎えようとしている庁舎には建て替えの話が何度も出ているが、そのたびに予算不足で却下され、あるいは後回しにされてきた。
しかしながら、中央警察署とホーレンベック警察署――これも七十五年以上前に建てられた庁舎だ――の老朽化は、最早無視できないほど深刻になっており、庁舎新築の話は市議会で、初めて具体性をもって進みだしている。十年後には中央警察署と、その背後に建つ旧ロサンゼルス市拘留所は更地になり、中央警察署は五番街の空き地――二年前の建築条例改正を受けて解体撤去された
ベールズはおじいちゃん庁舎に入ると階段を登り、二階に上がった。前述の特徴の内、『薄暗く』の部分は、二階には当てはまらなかった。天井が高く、北向きとはいえ大きな窓が取り付けられていることもあり、一階よりもずっと明るい。元々この庁舎が建てられた時、一階に警察本部が、二階に市裁判所が入居していたのだ。二階が広々として明るい造りなのは、その名残だった。
『悪臭が漂っている』に関しても、半分ハズレていた。二階の悪臭は饐えた汗の臭いではなく――それも少なからず存在していたが――複雑な化学薬品の刺激臭だったからだ。ロサンゼルス市裁判所は遠い昔に郡裁判所に吸収され、現市庁舎が完成すると警察本部も出ていった。いま、かつての治安判事法廷を居抜きで占拠しているのは、科学を武器にする警察官と職員たちだ。鑑識課と科学捜査課の実験室や事務室が、かつての法廷を細かく仕切って、いくつも入居していた。上下水道やガスの配管を通すために、かつての松材の床板は剥がされ、元の床よりも一段高いところにリノ・タイルの新しい床が敷かれていて、百年前からある煤けた漆喰仕上げの壁とちぐはぐな対照をなしていた。
ベールズは科学捜査課の領域をくねくねと進み、ドアの一つの前で足を止めた。かつては治安判事執務室として使われていた部屋だったが、今はそのドア板に箔押しで『レイ・ピンカー 主任科学捜査技師』と掲示されている。ベールズはそのドアを押し開けた。
「やっと来たか」
そう言ったのはこの部屋の主、ロサンゼルス市警察科学捜査課のレイ・ピンカー主任技師だ。柄入りの赤いネクタイを締めたチョークストライプのシャツの上に、科学捜査官たちの内勤時の制服といえる厚手のウールの白衣を羽織り、実験室でも現場でも使っているグレーのギャバジン織りのズボンを穿いて、自分のデスクに尻を乗せていた。薄い黒髪――まだ四十路に入ったばかりのはずだが、頭髪は十余計に歳を取っているかのようだ――をぺったりとなでつけているのと、額が広いのとで、まるで卵のような輪郭が強調されている。それに撫肩で、身長もせいぜい五フィート十インチ程度と、いかにも知性的な優男、といった見た目だ。しかし、その鋭い目つきは、筋金入りの叩き上げ刑事たちのそれにも劣らず、どんな証拠も見逃さない。
「ドネリー警部から、『マルドナード事件の捜査主任が替わるから、現場と遺体の状況を説明してやれ』と言われてな。準備はできてるよ」
「ありがとう。ハイ、ファウナ」
「ハイ、ベー」
ピンカーの脇には、ロサンゼルス郡検屍官を務めるセレス・ファウナが控えていた。彼女もピンカーと同じ白衣を羽織り、紺のギャバジン織りのズボン、フリル控えめのブラウスに濃紺のリボンタイという出で立ちだった。ドア脇のコート・ハンガーに、彼女の濃い緑の背広が掛けてあるところを見るに、どうやら白衣はここで借りたもののようだ。
「二人とも、時間を割いてくれてありがとう。できるだけ早く終わらせるように努力するよ」
ピンカーのデスクの上には、指紋が転写されたガラスプレートと、分厚い指紋原簿、指紋照合の手引書などが出しっ放しになっていた。法廷で通用する指紋鑑定報告書を書ける技師は、市警にはピンカーを含めて数人しかいないのだ。他にも、指紋以外の様々な痕跡鑑定、薬毒物鑑定、血液鑑定、弾道鑑定と、ピンカーの手が空くのを待っている鑑定検査は、大行列をなすほどあるはずだ。その事情はファウナも同じ――市の常勤監察医は彼女を含めて三人しかいない――で、彼女の解剖や検査を待っている遺体は安置室の保冷抽斗の中に、これまたずらりと並んでいる。ベールズはその最前列に、ドネリー警部と、おそらくFBIの権力で無理矢理割り込んだ形なのだ。
むかつく連邦捜査官どもの言い草ではないが、アントニア・マルドナード殺害犯を確実にガス室送りにするためにも、二人からは現場と遺体の状況を細大漏らさず聴き取っておかなければならない。しかし同時に、彼らを待っている人たち――生死問わず――のためにも、できるだけ手短に済ませる必要もあった。
「まず現場の概況を聞かせて」
「見取り図を用意しておいた、そっちを見てくれ」
かつての治安判事執務室は、治安判事とその秘書が相部屋する関係上、元々広い造りだった。その部屋の真ん中には中型の実験用テーブル――隅に流し台やガス栓がついている――が鎮座していて、街路地図から引き延ばして転写したらしい現場の
「現場はユニオン・ステーションのすぐ西、東西をアラメダ街とロサンゼルス街に、南北をアリソ街とサンセット
見取り図によると、裏通りは街区のほぼ真ん中を南北に走っていた。ピンカーが指した地点よりも少し南に行ったところで、東西の表通りに繋がる横丁と交差している。
「第一発見者はネイト・ウィルキー、市と契約してるゴミ処理会社の収集員だ。北ロサンゼルス街沿いの路地をパッカー・トラックで流して、早朝のゴミ収集をしてたらしい。で、彼女を発見して泡を食って、公衆電話があるユニオン・ステーションに向かったらしい。実際にはここ、裏通りの南端に電話ボックスがあるんだが、思いつかなかったそうだ。まあ、そこの電話機は壊されてたんで、結果的には正しい判断だったわけだが。
「駅では中央署交通係のクライド・ハート巡査が、鉄道会社からの通報で、貨物列車に無賃乗車していた
「わかった、ひとまず現場はここまで。ファウナ、被害者の状況は?」
「被害者は遺留品から、アントニア・マルドナード夫人、ヒスパニック系女性、満二十一歳と推定される」ファウナはメモを見ずに淡々と言った。「近親者による確認か、連邦政府に
「解剖したの? もう?」
ベールズが驚いて声をあげると、ファウナは冷たい視線を注いできた。
「私の執務室に、ある人が電話してきたの。この女性を最優先で解剖しろ、とね。私は自分のところのお客様に、入ってきた順番以外で優劣をつけることはしない主義だけれど、今回はその主義を曲げざるを得なかった。解剖報告書はもう、あなたのデスクに載ってると思う」
「ごめん」ベールズは咄嗟に謝った。
「あなたのせいじゃないことはわかってる。あなたにそんな権力ないもの」ファウナは肩をすくめてみせた。「被害者に戻りましょう」
そう言ってファウナは、
「凶器は薄くて幅が広く、絞頸に充分な長さがある紐状ないし帯状のものと推定された。これはさっき、ボイルハイツの検査室から電話があって、現場に遺されていたシルクのストッキングが凶器と断定されたわ」
写真がもう一枚追加された。血で赤黒く染まったストッキングが、地面の上に広げて置かれている。そのそばに黄色い鑑識標識Aが、写真に写り込むように配置されていた。
「見ての通り、」ファウナは写真の方を曖昧に手で指しながら言った。「外傷が複数個所。さっきも言った通り、後頭部に重度の鈍的外傷が見られる他、全身に挫創が五十八か所、いずれも生前につけられたもの。左目付近が強く殴打されていて、眼窩底に骨折がみられる。これらの成傷器は検査中。体表に十七か所の切創があった。刃渡りの短い、薄くて鋭利な刃物でつけられたもの。これの成傷器も検査中だけど、たぶん剃刀の刃ね、専門家の個人的な意見としては。同様のもので、左手薬指の付け根から第二関節にかけて、皮膚と肉が削り取られている。切断面に見られる鬱血がとても小さいから、これらは死後につけられたものとみていい」
「明確な拷問の痕跡は?」
「明確にそれとわかるものはなし」
「性的暴行は?」
ファウナが写真を選り分け、解剖台の上で褐色の両脚を左右に広げ、その間を写したものを数枚、上に持ってきた。引きの写真、黒い陰毛に覆われた性器と肛門のクローズアップ、クスコー式膣鏡で拡張された膣内の写真と、ストランゲ式肛門鏡で拡張された直腸の写真。
「肛門が八分の一インチ拡張されていて、直腸内壁が二インチにわたって挫滅している。創傷と粘膜の状態、遺留物がないことからみて、何かすべすべした固いものを挿入されたみたい。一インチから一インチ半くらいの太さで、あまり湾曲していないもの」ファウナは指先を、直腸の写真から膣の写真に移した。「粘膜の状態からみて、殺害の直前に性交はなし。手指や道具によるものまで含めてね。処女ではないし、それなりの回数は性交に応じているけれど、妊娠、出産、堕胎の経験はなし。子宮や卵巣は健康で、性病に罹患している兆候もなし」
「倒錯してるな」ベールズは小さく呟いた。
「なんて?」
「なんでもない。腹部の落書きは?」
ベールズは首を振ってごまかし、写真の一枚を指した。褐色のお腹に赤い文字で“KISS THE BLOOD”と大書きされている。
「口紅だと思う。鑑定は科学捜査課とピンカー博士に任せてるけど……」
ファウナが視線を送り、ピンカー技師が答えた。「簡易検査の結果で言えば、間違いなく口紅だ。前回ハコス刑事が担当した事件、ヘンリー事件の時と同じ口紅かどうかは、いま検査中だ。ただ、目視の限りでは同じに思える」
「ヘンリー事件の時の口紅は、カルテルのクラシック・カーマインだっけ?」ベールズが訊いた。
「そう、それだ。市販品で、アメリカ中の
「わかった」
ベールズは現場の見取り図に目を落とした。遺留品の場所を示す点がそちこちに散らばり、鑑識標識のアルファベットと現場写真のフィルム番号、証拠品保管袋の管理番号が書き添えられている。やたらと多い。それどころか、建物にまで点が振られている。
「こんなに遺留品があったの?」
「ああ」ピンカーが厳しい顔で頷いた。「大部分は被害者の私物のようだ。で、こんな風に――」
ピンカーは写真の一つを一番上に持ってきた。地面にどす黒い、太い線が引かれている。手前には藤色の女物の帽子があり、線はそこから、建物の一つの裏口階段の方を指しているようだった。
「遺留品と遺留品の間に、途切れ途切れに線が引かれていた。これは赤と黒のペンキを混ぜたもので、鑑定の結果、街中の金物店で一ガロン四ドルで計り売りされているものだとわかった。購入者を辿ることはできない」
ピンカーは証拠品保管袋に入った、くしゃくしゃの紙片を取り出した。掌サイズの厚紙で、右端は千切り取られたらしくぎざぎざになっている。『ロサンゼルス郡』『利用者』という文字が印刷されていて、『アントニア』という手書きの文字――おそらく署名の一部――と、『利用者番号:L31』『生年月日:一九二六』『有効期限:一九四九』という文字がタイプしてあった。
「これを遺体の右手が握りしめていた。死の直後、まだ硬直がそう強くない段階で握らされたものと、私たちはみている。で、遺体から線を辿った先にあったのがこれだ」
数枚の写真、いずれも被写体は藤色の帽子だ。暗い紫褐色のリボンが巻かれていて、鍔の裏側に赤のマジックマーカーで『アントニア』と名前が書いてあった。
「内側の縫い目などに遺されていた毛髪は、遺体のものと色及び血液型が一致している。したがって、これは被害者のものとみていいいだろう」
次の証拠品保管袋が置かれた。エメラルド・グリーンのスエードの、オープン・トウのドレスパンプス。例の赤黒いペンキが側面に付着している。ベールズが取り上げて見ると、靴底の内側に『ケリーブルック』のブランドロゴが箔押しされていた。安物ではないが、決して高い買い物でもない。シアーズの通信販売で、一足十ドルそこそこで買えるようなものだ。
「これはここ、裏口階段の脇にゴミ缶があって、その中に遺されていた。で、次はこれだ」
次の遺留品は小さな鍵だった。裏口の円筒錠や室内錠に使われるようなもので、テグスで作った輪に結わえ付けられている。数字の『5』が刻印されていた。
「これはこっち、アラメダ街への路地の分岐点のところに、角のビルの温水配管があって、そのテグスの輪で吊るしてあった」
次は二つ折りのメモ用紙だった。どこでも買える安物の、灰色がかった更紙で、三つのサイコロの絵が描かれている。出目は二、三、五。隅の方にペンキが塗られていた。
「これは路地の真ん中に置いてあった。風で飛ばないように石を重しにしてな。この絵の意味については、皆目見当がつかない」
次は封筒だ。メモ用紙とは打って変わって、真っ白なボンド紙の上質な封筒で、『A・マルドナード夫人、手交』と赤いマジックマーカーで表書きがあった。封はされておらず、中はからっぽ。差出人の署名や住所もない。
「こいつはクレイン社の高級書簡用封筒で、扱っている店舗は少ない。ただ、顧客は政治家から金持ちから、医者だの弁護士だのまで多岐にわたる。各所に照会をかけてるが、回答が揃うまで時間がかかるだろうな。これは、アラメダとアリソの角のビルの屋上に鳩小屋があってな、その中にあった」
「よくわかったね、そんなところ」
「野郎、ビルの非常階段にもペンキを塗ってたからな。ご丁寧に、一番下の梯子を下ろした状態で」
見つけてほしがっていたわけだ。ベールズが怒りと呆れの溜め息をついている間に、ピンカーが次の証拠品を出した。
「エナメル塗り金メッキの
ベールズはパウダーケースを矯めつ眇めつ眺めた。メーカーズ・マークはないから、そう高価なものではない。それでも二十ドルくらいはするだろう、とベールズは見積もった。
「金メッキ・ジルコニウムの結婚指輪。さらに一軒隣のビルの、屋上の通風塔にテグスで吊るしてあった」
続いて取り出されたのは指輪だった。黄色がかった金色の安ぴかものだが、赤黒い血と肉片がこびりついている。
「付着している血液および組織片は、被害者と同一の血液型を有していた。たぶん、彼女の左手薬指から削り取られたものだろう。部分指紋がかなりたくさん検出されたが、指紋カードからの照合に使えるようなものは一つもない」
ピンカーは別の写真を、ベールズの前に滑らせた。「で、これがゴールだ」
それはビルの屋上の角を写したものだった。タール舗装の床に、赤黒いペンキで横向きに線が引かれている。ゴールライン、ということだろうか。その向こう、手すり壁の角になっているところに、女物の
ピンカーが一掴みもある証拠品保管袋を実験台の上に置いた。鋲を打った赤いスエードに金メッキ真鍮の口金がついた抱鞄、二十世紀フォックスのオールナイト映画館の半券、鍵が一本だけついているキーリング、二十五セント銀貨二枚、そして、遺体の右手が握っていた紙片と対になりそうな、左側がぎざぎざになっている厚紙。
「これ、取り出していい?」
「ああ」
二枚の紙片を袋から出して、つなぎ合わせる。ぎざぎざのところがぴったり嵌まって、一枚のカードができあがった。
“ロサンゼルス郡公立図書館
利用者カード
アントニア・マルドナード 署名
利用者番号:L3166
生年月日:一九二六年七月七日
有効期限:一九四九年六月九日”
「図書館には問い合わせたの?」ベールズは二人に訊いた。
「ああ、お前の前任者にあたるオブライエン刑事――前任者と言っても、三時間くらいしか担当してないがな――が、九時の開館を待って電話で照会してる。で、ついさっきテレックスで、利用申込書の写しを送ってくれたよ」
ミシン目で切り取られた連続帳票に、申込書の内容がタイプされていた。ピンカーから手渡されたそれに、ベールズはざっと目を通した。
「住所は北ヒル街七百十二番地か。オブライエン刑事は、もう?」
「いや、まだ行ってない。というか、これが送られてきた時には、もう外されてたんだよ」
「じゃあ、近親者告知はボクの仕事か」
再びカードを別々の袋に戻し、テーブルの上を見渡す。疑問が一つ、浮かび上がった。
「帽子と靴以外の遺留品は、たぶんこの鞄に入ってたものだよね?」
「その可能性が高いな」
「中身が少ない気がする。財布とかがないのもそうなんだけど、それ以上に物が少ない」
ピンカーがファウナに視線を送り、ファウナが言った。「私もさっき、同じことを言ったの。女の人のハンドバッグにしては、中身が足りないって」
「ご丁寧に、自分の鞄の中身を見せてくれたよ」ピンカーは顔をしかめた。「まったく、なんだってそんなに沢山持ち歩いてるんだ? 仕事絡みの書類とか煙草とかはともかく、喉飴に目薬に、なんとかクリームと口紅、ブラシと櫛、紙ナプキンと
「ボクの鞄も似たような感じだよ。お休みの日はそこに、バッジと拳銃が加わるけど」
「主よ、
三人は実験台の上の地図、写真、証拠品の数々を見回した。
「現状わかってるのは、こんなところかな」ファウナがそう言いながら、白衣を脱ぎ始めた。「私のところでもレイのところでも、進行中の検査はまだあるから、そっちは結果がわかり次第、電話連絡するわ」
「ありがとう、二人とも。じゃ、ボクはこれで」
ベールズは出る前にドア脇のコート掛けからファウナの背広を取ると、借り物の白衣をピンカーへ返したファウナにそれを投げ渡してから、近親者告知のために外へと歩いて行った。