※この作品はR-18です。

H.L. Noire ~Neology~   作:Marshal. K

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The Waltz of Murders #2

 

“パーソンズ下宿屋(ボーディング・ハウス)

 寝室 十五ドル・毎月

 寝台 十ドル・毎月

 ペット不可

 

 入居のご相談は家政婦まで”

 

 北ヒル街七百十二番地の庭先には、白ペンキ塗りの木の看板が出ていて、ベールズは路肩に停めた無線車の中から、それを読んでいた。それから、可もなく不可もない広さの前庭の向こうの建物に目を転じた。

 それは、今世紀の初頭あたりに建てられたらしい、アメリカン・クイーンアン様式の二階建ての邸宅だった。杮板張りの壁、台形に張り出した出窓、玄関ポーチを中心に一階を取り巻くテラス、ポーチの頭上にはバルコニー。場所柄――バンカーヒル地区のすぐ北――を考えれば、かつてこの街の有力者の邸宅として建てられたものだろうとは、ベールズにも想像がついた。

 ベールズは無線電話のスピーカー・マイクを手に取った。カーラジオのチューナー・ボタンを押し、ベニー・グッドマン楽団のスウィング音楽を流しているKTIの六四〇キロサイクルから、警察無線が流れているKGPLの一七三〇キロサイクルに合わせる。コードを手繰り、ダッシュボードの下に取り付けられている中継器を探り当てると、スイッチを『送信』に切り替えた。

 

「一=四=キング号車からKGPL」

 KGPLからの返答は、カーラジオから流れてきた。「一=四=キング号車、どうぞ」

「14K、一時閉局する(コード六)。なお、緊急連絡は北ヒル街七百十二番地、北ヒル七一二、パーソンズ下宿屋方まで願います」

「14Kはコード六、KGPL了解」

 

 無線電話とラジオのスイッチを切り、ベールズは無線車――本来は幹部警察官専用公用車として使われる、ぴかぴかの黒いビュイック・ロードマスター――を降りた。それは中央警察署を出る前に、車両課に電話で要請したものだった。殺人課と追跡捜査課の兼務だという話を、車両課のプリングル巡査部長は当初冗談だと思ったらしく、半笑いで言った。

 

「あんたがそうなら、俺はFBI長官だぜ。そしてプリングル長官は、お前に割り当てられる公用車は残っていないと仰せだ。諦めな」

 対するベールズ、「人事課に問い合わせて二十分以内に折り返さないなら、ドネリー警部からそっちの課長に電話してもらって、あんたをニュートン街署の警邏員送りにしてやる。とっととそのケツを上げろ、プリングル“巡査”」

 

 プリングルはそれを、典型的な空威張りだと受け取ったのだろう。それでも一応、時間ぎりぎりで人事課に問い合わせはしたらしい。もう後九十秒ほどでベールズが、中央署の刑事室で一時的に借りていた電話に手を伸ばそうとした矢先、その電話が鳴った。プリングルは平身低頭せんばかりの態度で、車両課員が公用車を中央署に回送中だ、二十分を回るかもしれないが、どうかニュートン街署送りは勘弁してほしい、公用車を捻出するのに時間がかかったのだ、などと懇願した。

 いい気分になって、中央警察署の玄関前で待っていたベールズの目の前に現れたのがこの、本来ならベールズごときに――たとえ追跡捜査課員の肩書があろうと――割り当てられるはずがない高級車だったのだ。彼女が腰を抜かしたのは言うまでもない。

 殺人課と追跡捜査課。その二つを兼務するというのはつまり、ジェームズ・ドネリー警部とレオナルド・ピーターセン地方検事補という、市警に対して、公式なものも非公式なものも合わせて最も大きな影響力を持つとされる二人がバックについている、ということだった。本当に実行する気はなかったものの、先程のベールズの脅し――巡査に降任させて、市警で最も殉職率が高い警察署送りにする――は、傍から見る分には充分実現可能なものだったのだ。ベールズは今更になって、自分が急に手にした権力の大きさに怖気を振るっていた。

 

 青々とした芝の敷かれた前庭を横切り、二段のステップを登ってポーチに上がると、真夏の午後のカリフォルニアの、殺人的な太陽から逃れられて、ベールズはほっと一息ついた。陽射しはきついけれど、南部カリフォルニアは乾燥しているから、日陰は涼しくて快適だ。ベールズが着ている黒に近いダークグレーのスーツは、夏用のシアサッカーで熱はこもりにくいものの、色ゆえにそれ自体が熱を保ってしまう。

 新しい夏用のスーツを仕立てるべきか、でもお金がなあ……などと考えつつ、ベールズは玄関ドアの横に取り付けられていた、真鍮と白いベークライト・ボタンの呼鈴を押した。建物の奥の方でジリジリジリとベルが鳴るのが聞こえ、年配の女性の声が「少しお待ちくださーい!」と、同じくらい奥から飛んできた。

 しばらく待っていると、ぱたぱたと小走りするスリッパ履きの足音が聞こえてきて、まもなく、六十歳くらいの女性がドアを開けた。茶髪を後ろでひっつめていて、大きな鼻と大きな口、意志の強そうな青い眼を持った、厳しいおばあちゃんタイプだ、とベールズは見て取った。薄ピンクのブラウスに薄い水色のスカート。首許に巻いている白い布は、掃除中にマスクとして使っていたのだろう。

 

「ああ、入居をご希望の方?」その、家主か家政婦と思しきおばあちゃんが口を開いた。「紹介状はお持ちかしら? ええ、うちは職業婦人にも部屋を貸しますけれど、確かなところで働いている証明書をお持ちでないと、お断りすることにしているんです」

 

 ベールズの服装――スラックス・スタイルのレディース・スーツ――から、部屋探し中だと勘違いされたらしい。ベールズは紹介状ではなくバッジを取り出した。

 

「ハコス・ベールズ刑事、ロス市警(LAPD)。家政婦さんですか?」

「私はバーバラ・ラペンティ夫人、ここの家主です。申し訳ないけれど、いまは空室が――」

「違います」ベールズは、入居を断ろうとしたラペンティ夫人を遮った。「部屋を探してるわけじゃありません。こちらにアントニア・マルドナード夫人はお住まいですか?」

「ええ、います。彼女が、なにか?」

「よければ中で、座ってお話できませんか、ラペンティ夫人? ここではちょっと……」

「では、談話室(パーラー)へどうぞ」

 

 ラペンティ夫人が一歩下がり、ベールズは屋内に入った。

 屋敷の大きさに比して玄関ホールは狭く、廊下がそのまま、まっすぐ奥まで続いていた。石膏の天井も、花柄の壁紙も、模造ペルシャ絨毯も、屋敷に比して新しい造作のようだ。どうやら、下宿屋に改装されたのは比較的最近らしい、とベールズは考えた。

 

「ああお巡りさん(オフィサー)、靴をちゃんと拭いてください」

 

 ラペンティ夫人がぴしゃりとそう言い、一瞬頭が下宿人時代――巡査一年目には、ジョージア街警察署に近い下宿に住んでいたのだった――に戻ってしまったベールズは、呼称の訂正も忘れて素直に一歩戻り、パンプスを泥落としのロープマットにこすりつけた。それから、いったい何をやっているのかと自分自身に呆れかえった。

 談話室は玄関から見て右手にあった。前庭に面した出窓や横手のフランス窓には、分厚い遮光カーテンが引かれていた。たぶん、家具や絨毯が傷まないように、陽射しを遮っているのだろう。屋敷と同じくらいの古さのものらしい、厚いニス塗りのマホガニーの家具が配置された室内には、中央にソファや肘掛椅子、コーヒーテーブルが配置されていた。ラペンティ夫人は、彼女の指定席らしい花柄の大きな肘掛椅子の前でベールズを待っており、テーブルを挟んで反対側のソファを指し示した。

 

「どうぞ、お座りになって」

「ありがとうございます」

「それで、アントニアがどうしたのかしら?」ベールズのお尻がソファに触れるよりも早く、ラペンティ夫人は切り出した。「言っておきますけれど、彼女はいい娘よ。あなたのお勤め先のご厄介になるとは、ちょっと考えられませんけれど」

 ベールズはその言葉に若干の嘘の気配を感じはしたものの、それには触れずに答えた。「アントニア・マルドナード夫人は、昨晩亡くなりました」

「亡くなった?」ラペンティ夫人の口が、ぽかんと開いた。「それは……死んだ、ということ?」

「はい」

「なんてこと……いったいどうして? 事故か何かかしら……?」

「殺害されたものと、警察ではみています」

「なんという……。失礼」

 

 ラペンティ夫人は手早く十字を切り、彼女が口の中でもぐもぐと祈りを捧げる間、ベールズは視線を外して黙っていた。

 

「……失礼、お待たせしました。それで、私に何ができますでしょう?」

「まず、アントニアの部屋を見せてください。その後で彼女について、いくつか質問させてもらいます」

「わかりました。アントニアの部屋はこちらです」

 

 そう言うなりラペンティ夫人は椅子から立ち上がり、横手の戸口の方へ向かおうとしたが、椅子の脚にひっかかってぐらりとよろけた。

 

「危ない!」

 

 ベールズは咄嗟に夫人の腕をつかみ、滑りやすい模造絨毯の上でなんとか踏ん張って、夫人の身体を引き戻した。

 

「大丈夫ですか?」

「ええ、ええ……大丈夫です」ラペンティ夫人は自分の額に手をやった。「すみません、思っていたより動転してたようで……」

「無理もありません。こちらに座っていらしてください。場所を教えてもらえれば、ボク一人で部屋を見に行きますから」

 

 厳密には、家主の立ち会いを求めないのは規則違反だったが、ラペンティ夫人の憔悴のしようを見ていられず、ベールズはそう言った。厳格な手続きの行使と報告書の作成が求められる、正規の令状による捜索とは違うので、これくらいの融通は利く。

 

「いえ、大丈夫ですとも。動いている方が気が紛れますから。アントニアの部屋は五号室、二階の一番奥です。私は合鍵を取って参ります」

「わかりました。では、部屋の前で待っています」

 

 ラペンティ夫人が廊下の奥の部屋へ入るのを見届けると、ベールズは薔薇色のカーペットが敷かれた階段を昇って、二階に上がった。階段は建物のちょうど真ん中あたりにあり、ベールズは二階の廊下をぐるりと見回した。

 ドアが廊下の両側にいくつも並んでいる――階下と同じく壁が比較的新しいところから見て、建てられた当初からの間取りではなく、下宿屋として改装した時に細かく区切ったようだ。個室ないし二人部屋が全部で六室。表側の二室は広いようだが、看板の“寝台 十ドル・毎月”を考えると、たぶん六人くらいの大部屋になっているのだろう。六人部屋の仮定が正しければお世辞にも広いとは言えないが、ベールズはもっとあくどい悪徳大家――月額三十ドルの独身者用アパートメントに二段ベッドを六台つっこみ、一人ひとりから月額三十ドルずつ徴収している又貸し大家――を知っているから、別にひどいとは思わなかった。一番街より北の中華街(チャイナタウン)、ロサンゼルス川の向こうのボイルハイツやリンカーンハイツ、それにダウンタウン・ハリウッドの裏通りでは、そんなぼったくりアパートメントは珍しくない。

 ラペンティ夫人に言われた通り廊下を奥へ進むと、左手の一番奥に、数字の“5”を象った真鍮プレートが取り付けられたドアを見つけた。

 ふと、鑑識で見た遺留品が頭をよぎった。“5”と刻印された小さな鍵。屈みこんで錠前を調べる。ちゃちな室内錠だ。まさに、あの鍵で開閉するような錠。鍵穴にはひっかき傷が幾筋かついていた。窃盗課にいたベールズに言わせれば、それは酔っ払いが鍵でよくつける傷だった。泥棒がこじ開けようとしたわけではないはずだ。

 ベールズは試しにノブを握り、捻ってみた。施錠されていれば回らないはずのノブがするりと回り、ラッチはあっさり外れ、ドアは気前よく開いてしまった。ベールズは驚き、室内に踏み込もうとして――一歩後ろに下がった。

 

「お待たせしました、お巡りさん」

 

 ぱたぱたと足音を立てて、ラペンティ夫人が二階へ上がってきた。マスク代わりの布は、もう首許にない。

 

「ちょっと手間取ってしまって――まあ、なんてこと! 勝手にこじ開けるなんて!」

「鍵がかかってなかったんです」ベールズは釈明し、部屋の中に手を振った。

 

 ラペンティ夫人は室内を覗き込み、息を呑んで両手で口を覆った。悲鳴は声にならず、取り落とした合鍵の束がちゃりんと音をたてたのが、その代わりだった。

 アントニアが借りていた五号室の中は、さながらハリケーンが通った後のようだった。部屋中のあらゆるものがひっくり返され、床には物が散らばり、衣服がベッドの上の旅行鞄から垂れ下がっている。裏庭に面した上げ込み窓――この部屋で唯一の窓――が、下のサッシをへし折られ、ガラスが割れて半開きになっていた。侵入経路は一目瞭然だ。

 

 ベールズはそっとドアを閉じた。「ラペンティ夫人、昨晩――おそらく昨晩だと思いますが、何か物音を聞いたりしませんでしたか、この部屋や裏手から?」

「ああ、えっと、その」

 

 ラペンティ夫人はひどく動揺しているようだった。薄い青のハンカチを握りしめ、激しく瞬きを繰り返し、息は速くて浅い。ワインの匂いがベールズの鼻をくすぐった。恐らく気付けに一杯呑んでから来たのだろう、少し遅れた理由はこれか、とベールズは思った。

 

「奥さん、一旦下におりましょう。ボクがこの部屋を調べ終わったら、改めて質問しますから、それまでゆっくりお待ちになって、気分を落ち着かせてください」

「ええ、ええ、そうします、お巡りさん、ありがとうございます……その、」ラペンティ夫人は言いにくそうに続けた。「わかってくださると思いますけれど、女手一つで下宿屋を切り盛りするのは難しいことなんです。あなたも働いてらっしゃるなら、おわかりでしょう? つまりその……私にも守らなければならない外聞というものがあるのです。どうか、このことは表沙汰にしないでいただきたいのですが……」

「もちろん、構いません」

 

 ベールズは嘘をついた。もちろん、その必要がなければ伏せておくことも可能だが、ここから重要な証拠が発見されでもすれば、当然押し込みの件も含めて公表しなければならないだろう。他方で、被害者の家主から訊き出すべき事柄を、まだ一つも質問していない。参考人聴取を円滑に進めるためにも、これは必要な嘘だった。

 たった四年間の警察官人生で、真顔で嘘をつくのが上手くなっちゃったなと、我が事ながら嫌な感慨を覚えながらベールズは続けた。

 

「ただ、この部屋の鑑識作業は行わなくちゃいけません。侵入者がマルドナード夫人を殺害した犯人かもしれませんし、そうじゃないかもしれませんが、とにかく証拠を採っておかなきゃいけないので。大丈夫です、ボクが一人でやりますから」

 

 本当なら鑑識課の現場鑑識班を呼びたいところだが、白黒のシボレーの鑑識バンと、胸に警察バッジを留めたグレーの背広集団が襲来すれば、近所の人たちにはまるわかりだ。当座は嘘をつき通さなければならないため、それは却下。

 

「一緒に下におりましょう。ボクも車へ道具を取りに戻らなきゃいけないので」

 

 ベールズは鍵束を拾い上げるとラペンティ夫人の、ハンカチを握りしめていない方の手を取った。

 

「すみません、ありがとうございます、お巡りさん(オフィサー)」

「刑事(ディテクティブ)です、ラペンティ夫人」

「失礼、刑事さん」

 

 

   *

 

 

 鑑識作業の第一歩は、現場の様子を記録することだ。本来は専門の写真技師が、『スピードグラフィック』の速写カメラで写真を撮るのだが、外勤員用の簡易鑑識キットにカメラは含まれていないし、そもそもベールズにはカメラを扱う技量がない。そんなわけで、今の状況で現場の様子を記録する手段は、見取り図とスケッチの作成に限られる。

 

 続いては遺留物の保全と採取。これは、まず足元から始めるのが鉄則だ。他にどんなに気になるものがあろうと――危急の場合や止むを得ない場合を除いて――まず、微細な証拠をうっかり踏んづけて台無しにしてしまう危険を排除しなければならない。

 ベールズは廊下の床に鑑識キットが入っているグレーの折鞄を広げると、そこで四つん這いになり、部屋の戸口のところから室内の板張りの床を丹念に調べ始めた。虫眼鏡や小型のカーバイド灯を使って床を調べ、落ちている物は片っ端から――綿埃から毛髪、僅かな砂利、小さな繊維片、どこかの家具から欠けたらしい木片、フケと思しき組織片まで――セロファン製の透明な粘着テープやピンセットで採取し、テープはガラスプレートに貼り付け、証拠品保管袋に落とし込む。ピンセットで採取した大きめの遺留物は、試験管に落とし込んでしっかり栓をする。袋や試験管のラベルに通し番号を振り、あらかじめ描いておいた現場の概略図に、採取位置を書き込んでいく。床の上に置かれている物や落ちている物も取りのけ、その下を丹念に調べてから、元々あったように戻す。床といえば、足痕があればそれも転写して採取するところなのだが、床板は固く乾いていて、採取可能な足痕は見当たらなかった。

 床が終われば、次はその他だ。壁、家具、ベッド、その他の遺留品。侵入経路の――そしておそらく脱出経路でもある――窓から始めて、部屋中のありとあらゆるものから微細な遺留物を採取し、誰かが手を触れた可能性のある部分に片っ端からアルミ粉末を振りかけて指紋を採り、ガラスプレートに転写する。室内にはガソリンの異臭が微かに漂っていて、思った通り、指紋はほとんど採取できなかった。指紋と思しき皮脂を拭き取った痕跡と、薄手の革手袋特有の手袋痕だけが、室内から採取できた指掌紋痕跡だった。

 窓の器具痕――何か梃子のようなものでこじ開けたらしい、とベールズは見て取った――を仔細にスケッチして、窃盗課の手口カードと照合できるようにした。もっとも、手口原簿に綴じ込まれているカードの数は膨大だ。当たりが出ればラッキー、くらいの感覚でいたほうがいいだろう。

 

 窓の外にはウッドデッキがあり、粗末な木の階段が裏庭へと続いていた。ベールズは廊下のドアからデッキに出て、同じように遺留物の採取と痕跡の調査を行った。微細な遺留物はいっぱい――大部分は砂利。指紋はあちこちにあったが、ほとんどはすっかり掠れた古いものだ。アントニアの部屋の窓の周辺には一つもない――拭い去られた痕跡と、手袋痕を除いて。足痕はない――裏庭まで下りてみたが、地面は固く乾いていて、足痕が残る余地はなかった。

 

 この一連の作業に、ほとんど四十分かかった。現場鑑識を呼べば、彼らは複数人で手分けして作業するから、半分くらいの時間でもっと丹念な鑑識作業ができただろうな、とベールズは思った。とはいえ、今は手元にあるもの――簡易式の鑑識キットと、警察学校以来ほとんど鑑識作業をしていない自身の腕前――で我慢するしかない。

 

 本来なら鑑識員がやる仕事を終えたベールズは、今度は捜査員として、改めて室内を見回した。

 備え付けの整理箪笥からは全部の抽斗が引き抜かれ、中身は床の上に散らばり、抽斗は上下をひっくり返して重ねて置かれている。抽斗の裏や奥を確認し、二重底になっていないか調べたのだろう。ここまでやるなら恐らく、箪笥の中まで徹底的に調べているはずだ。ベールズも頭を突っ込んでみたが、少し黴臭い箪笥の中には何もなかった――何かを隠していたような、例えばセロファンテープを貼り付けていたような痕跡すらない。

 ベッドはシーツもカバーも剥がされ、マットレスがむき出しになっている。枕は鋭利な刃物で切り裂かれて、羽毛が窓から吹き込んでくる風で、部屋の反対側に吹き寄せられていた。ベッドの下に置かれていたらしい――埃のつき方でそう推察できる――キャンバス張りの旅行鞄が、ベッドの上で開きっぱなしになっていた。その中に仕舞われていたらしい服――夏物のワンピースや冬物のセーター、エメラルドグリーンのサテンのカクテルドレス、オールシーズンのハウスドレスなどなど――は、ベッドの上や周りの床の上でくしゃくしゃになっていた。襟や袖口のように折り返してあるところや、裏から当て布を縫い付けてあったところなどが、ことごとく剥がされている。鞄の内張りも剥がされていた。薄ピンクの木綿のワンピースが、鞄の端から内張りと絡み合って、だらんと床に垂れ下がっていた。

 

 ベールズは整理箪笥の脇にしゃがみ込み、そこに散らばっているものを検めた。

 文房具――エスターブルックの量産万年筆、未使用のものから短くなったものまで多彩な鉛筆、ペンナイフ、陳腐な花柄の便箋綴り、更紙のメモ用紙綴り、マニラ紙の安くて頑丈な封筒が半ダース、半分ほど使われた一セント切手と三セント切手の綴り、瓶入りの糊。

 下着類――様々な色合いや模様のキャミソール、ブラジャー、パンティ、ガーターベルトとストッキング。一揃いしかない黒いサテンのコルセット、パンティ、ガーター・ストッキングの組み合わせは、たぶんカクテルドレス用だろう。近頃流行りの“ロケットおっぱい”・ブラジャーも一つあったが、刃物でパッドを切り裂いて中を調べてあり、無残な形に潰れてしまっていた。これは他のブラジャーや、パッドのある下着は全部同じ被害に遭っている。レース飾りやアップリケを剥がされている下着もあった。

 書簡類――封筒入りの手紙や、二つ折りの書簡や、祭日の賀状(グリーティング・カード)、絵葉書。彼女の離婚を心配し、実家に帰ってこないかと提案――その言葉遣いは、どちらかというと嘆願に近い――する、ニューメキシコ州の母フランチェスカ・マルチネスからの手紙。同じく離婚を心配しつつ、こちらは前途を励ましている、オレンジ郡の姉妹リタ――署名によるとマルガリータ・マトス夫人――からの手紙。姉か妹かは明記されていなかったが、その言葉遣いや単語選びから、自身も姉を持つ身であるベールズは、リタは姉の可能性が高いと推測した。いずれも宛名がまだ『パーソンズ下宿屋方気付、アントニア・キャロライン・マルドナード夫人』となっているところから、離婚はまだ手続中で成立していないようだ。

 書簡を検めていたベールズの手が止まった。アントニア自身が用意していたものと同じような、安物のマニラ紙の封筒に混じって、真っ白で上質なボンド紙の封筒があったのだ。ベールズは文房具に詳しくなかったので、それが今朝、遺棄現場で発見された高級封筒と同じものかは判らなかったが、よく似ているのは間違いない。現場の封筒には赤いマジックマーカーで『A・マルドナード夫人、手交』と手書きしてあったが、こちらの封筒には表書きがきちんとタイプ打ちされ、六セント切手が貼付され、消印されている。消印の日付は二日前だ。封緘は赤い蝋封を模したステッカー・シールで施されていて、床の上のペンナイフらしき刃物で切って開封されていた。

 ベールズは中の便箋を広げた。封筒と同じ上質ボンド紙の、レターサイズの便箋で、表書きと同じくタイプライターで文面が打ってある。便箋の最上部には、弁護士事務所のものらしいレターヘッドが捺されていた。

 

“ハントリー、ハントリー、ロング法律事務所(アンド・アソシエーツ)

 カリフォルニア州ロサンゼルス市

 ダウンタウン地区西七番街七二七番地

 ルーズヴェルト・ビルディング六〇七事務室

 

 一九四七年八月九日

 

 カリフォルニア州ロサンゼルス市

 ダウンタウン地区北ヒル街七一二番地

 パーソンズ下宿屋方気付

 エンジェル・マルドナード夫人、アントニア・キャロライン・マルチネス様、

 八月七日にお話しました件の続報として、カリフォルニア州高等法院(スーペリアー・コート)に対する貴女様の申し立てが認められ、公判日程が決まりました事をお知らせします。

 

 貴女様の事件、マルドナード対マルドナード事件は、事件番号四七八九六五番とされ、九月十七日に開廷します。つきましては貴女様、及び貴女様の配偶者エンジェル・クリストファー・マルドナード氏に対する、中央地方裁判所からの公式召喚状を手交しますので、可及的速やかに、当事務所までお越しいただけますと幸いです。

 

 当職としましては、貴女様のようなお立場にある御婦人には必要ではなく、また一般的でもありませんが、貴女様が公判当日に、召喚状の求めるところによって出廷なさるよう、強く勧めるものであります。

 当職の経験から申しますと、このような裁判手続きにおける原告婦人の出廷は、判事及び陪審員諸氏に対して、非常に良好な印象を与えることに繋がります。そしてもし、貴女様の配偶者が公判当日に欠席した場合(貴女様のお話では、その可能性が非常に高いとのことでしたが)、手続きはますます、我々にとって有利に進むことでしょう。

 敬具。

 

 ハントリー、ハントリー、ロング法律事務所所属弁護士(アソシエート)

 法学士(LL.B.) 法務博士(J.D.)

 フレデリック・D・タッターソル 署名”

 

 すると、現場にあった表書きが手書きの封筒には、裁判所からの召喚状が入っていた可能性が高い。この部屋に無いからには、犯人が持ち去ったのだろう。

 あとは決済済みの請求書が数通あるくらいで、大した収穫はなかった。

 

 書簡の下に埋もれて、マホガニーの額に入った8×10(エイト・バイ・テン)の白黒写真があった。結婚式の様子らしい。ヒスパニック系の男女が並んで写っている。男の方は白いモーニングコート姿――貸衣装だろう――の丸顔で、つぶらな瞳をしていた。これがエンジェル・C・マルドナードか。女の方はウェディングドレス姿で、小さな椅子に腰かけている。腫れと腐敗で膨れ上がった遺体の顔とは、当然似ても似つかないが、これが在りし日のアントニア・マルドナードの姿なのだろう。膝の上で上品に組んだ手には、左手に指輪と、何か腕飾りをつけている。目を凝らすと、なにやら小さな装飾がたくさんついているのがわかった。それに、首には大きなペンダントのついたネックレスをかけている。ブレスレットもネックレスも、遺棄現場でもこの部屋でも見つからなかった。

 

 ベールズは再びウッドデッキに出て、先程の鑑識作業中に気になっていた物に向かった。それはアントニアの部屋の窓のすぐ下に落ちていた。銑鉄製の槍のようなもので、一フィート半ほどの長さがあり、片方の端は糸鋸か何かで切断された痕がある。切断面は綺麗で、ごく最近切り取られたようだ。園芸用のピケットフェンスかなにかの先端部分らしい、とベールズは見積もった。先端部分の装飾に傷がついており、白いペンキのついた細かい木片が付着している。窓枠の器具痕にあてがってみると、ぴったり嵌まった。これでこじ開けたようだ。

 

 室内に戻り、領置する証拠品を片っ端から証拠品保管袋に入れ、通し番号を振っていく。アントニアの私物と思しきものは全て回収。それから、侵入犯がべたべた触った可能性の高い抽斗や、侵入に使ったと思われる銑鉄のピケットも回収だ。備え付けのテーブルを整理して、私物のシェーファーの万年筆と、鑑識キットに入っている公用箋で、臨場捜査報告書と領置目録を作成した。

 書き終わるとベールズは、その書類を持って階下におり、ラペンティ夫人の待つ談話室へ向かった。

 

 

   *

 

 

 ラペンティ夫人は談話室の、例の花柄の肘掛椅子に座って聖書を読んでいた。ベールズが入っていくと、ラペンティ夫人は聖書を閉じて立ち上がろうとした。

 

「構いません、座ったままで」ベールズは掌を向けて制し、報告書と目録をラペンティ夫人に渡した。「マルドナード夫人の部屋から、証拠になるかもしれない物を預からせてもらいます。その報告書と目録に目を通して、ボクの署名の後に副署してもらえますか」

「いいですとも」

 

 ラペンティ夫人は、書類を受け取って読んでいたが、目録に並ぶ品数の多さに目を剥いた。

 

「こんなに持っていくんですか?」

「はい。侵入犯が触った可能性のある物は、全て」ベールズは身を乗り出して続けた。「さっきも申し上げた通り、侵入犯とアントニア殺害犯が同一人物である可能性もあります。彼女の命を不当に奪った人間を一刻も早く捕まえるためにも、どうかご協力ください」

「……わかりました」

 

 ラペンティ夫人はベールズが差し出した万年筆を断り、窓際にある簿記机(ビューロー)に向かうと、そこのペンで署名をした。

 

「ありがとうございます」

 

 ベールズは書類を受け取り、テーブルの隅に重ねて置いた。

 

「では、アントニアのことについて、いくつか質問させてもらいます」ベールズはメモ帳の新しいページを繰り、左上に『B・L、被害者の家主 八・十三・四七』と鉛筆で書いた。「先ほどお知らせした通り、アントニアは殺害されました。彼女に対して、殺すほど強い感情を持っている、あるいは持っていた人物に、心当たりはありませんか」

「エンジェルよ、あのろくでなし亭主」ラペンティ夫人は即答した。「彼女は一昨日の晩、『明日になったら弁護士のところへ離婚手続きの書類を取りに行って、それをエンジェルに渡す』と言っていました。それは嬉しそうにね」

「エンジェル・クリストファー・マルドナードですか?」

「知りませんよ、あんな男の洗礼名なんて」

「では洗礼名はいいので、他に彼についてご存知のことはありますか?」

 

 ラペンティ夫人は、いかにも『あんな男のことなど考えたくはないのですけれど』と言いたげに顔をしかめ、ベールズの背後のどこかを見ながら、椅子の肘置きの上で指をぱたぱたさせていたが、やがてゆっくりと言った。

 

「彼女は――アントニアは十七で結婚したんです。ニューメキシコの田舎から出てきてすぐ、フォードの工場で働いていたエンジェルと出会ってね。姉が同じように、十七で出てきて結婚したそうよ。今はどこか、郡外にいるらしいですけれど」

 

 オレンジ郡のリタのことだろう、とベールズは思った。同郡はロサンゼルス郡の南東に隣接している。

 

「それで彼女も、姉のようにさっさと結婚してしまったのね。けれどエンジェルは、最初こそいい夫として振舞っていたけれど、すぐに暴力亭主の本性を剥き出しにしたそうですよ。気に食わないことがあれば、指摘するよりも先に手を出し、機嫌が悪ければ罵声を浴びせ、恨みがましい目でもしようものなら失神するまで殴りつけたと、彼女から聞きました。この話をしていた時の彼女ときたら、本当に怯えきって、震えていて……」ラペンティ夫人は溜め息をついた。「彼女はいい娘でした。ほんの少し、宗教気狂(きちが)いの気はありましたけれどね、でもいい娘でした」

 

 ベールズはその話を書き留めた。家庭争議。誰かが通報していれば、警察が介入して、中央署に報告書がファイルしてあるかもしれない。エンジェルが犯人と決めつけるのは早計だが、もしそうなら、令状請求の疎明資料や、裁判での補強証拠として使えるだろう。

 

「離婚のことについて、もう少し詳しく伺いたいんですが」ベールズはメモの最後の方を速記しながら、目線だけ上げて訊いた。「まだ離婚は成立していなかったんですよね? 二人はいつ頃から別居してたんですか?」

「二か月前です。六月に入ってすぐだったと記憶してますけれど、『彼女が他の男に色目を使った』と、エンジェルが言いがかりをつけて、それはもう手ひどく彼女を殴ったのですよ。次の日の昼過ぎに、痣だらけの顔をして大きな旅行鞄を抱えて、ここへ逃げ込んできたんです」

「それでもまだ、彼女は指輪をしていたんですか?」

「ええ、ええ、していましたよ。あんな亭主に義理立てすることはないのにと、私も言ったのですけれどね。月曜日には仮処分(ディクリー・ナイサイ)が認められたと話していましたし、指輪を外してしまっても誰も咎めやしなかったでしょうに――もちろん、あの暴力亭主は違う意見でしょうけれど」ラペンティ夫人は遠い目をして続けた。「アントニアにとっては、結婚や離婚の法的な手続きと、貞操の問題は別論だったのでしょうね」

「指輪の他に、いつも身につけている装飾品はありましたか?」

「ネックレスですね。女の人の肖像、たぶん何かの聖人なのでしょうが、それが描かれたペンダントのついたネックレスを、それこそ寝ている時以外はいつも身につけていました」

「ブレスレットはどうですか? 上の部屋の結婚写真で、なにか小さな装飾がついたブレスレットを、彼女はつけていたんですが」

「ああそれ。いいえ、彼女はつけたがりませんでした。あの暴力亭主からのメッセージなんですよ」ラペンティ夫人は膝の上に置いていた聖書の、革装丁の表紙をぽんぽんと叩いた。「聖書からの引用が彫ってありましてね、『妻は夫に、キリストに対してそうするように服従せよ』と。一方的もいいところです、本来はその後に、『夫は妻を、キリストが教会を愛するように愛せよ』と書いてあるのに、自分勝手に殴りつけるのですもの。いいえ、彼女はあのブレスレットを仕舞い込んでいました。確か、寄木細工の宝石箱があって、それに仕舞っていたはずです」

「寄木細工の宝石箱、確かですか?」

「ええ、一度見せてもらいましたもの。サイコロの形をしたツマミが三つ、ついていて、それを捻って開けていましたよ」

 

 そんな特徴的な代物はなかったと、侵入犯に負けず劣らず部屋中調べ回った自信のあるベールズは思った。侵入犯が持ち去ったのか、あるいはアントニア自身が何らかの理由で、昨日までに持ち出していたのか。もちろん、ベールズが訪れる前にラペンティ夫人が合鍵で入っていて、あの部屋の惨状を目にし、泥棒にその罪を擦り付けようと盗んだ可能性もゼロではない。けれど、いま警察官のベールズを目の前に堂々と供述している様子を見るに、その可能性は低そうだ、と彼女は判断した。

 ハリウッドの名優でさえ、警察官の前で嘘をつく時には視線が泳いだり、それを抑えつけるために不自然に強い目つきになったりする。他にも、体勢を変えたり、足を組み替えたり、爪を弄りだしたり、喫い差しの煙草を揉み消したり……。こういった行動は無意識的なもので、意識してそれを抑えようとすると、却って別の変な挙動が表出したりする。素人では見逃してしまってもおかしくはないが、嘘つき連中を四六時中相手にしている警察官から見れば、夜のネオン管広告よりもわかりやすい。二年も警察官をやっていれば、熟練の詐欺師相手でもない限り、たいていの嘘は看破できるようになるものだ。

 そんなわけで、勤続五年目のベールズは、ラペンティ夫人が宝石箱を盗んだ可能性をリストの一番下に追いやった。

 

「昨日のアントニアの足取りを教えてください」

「昨日は九時頃に出かけて行きました」

「朝の九時ですか?」

「いえ、夜の」

「それ以前に外出はしなかった?」

「ああ、いえ、昼の二時過ぎに一度出かけて、夕方に戻ってきました。例の弁護士先生のところに行って、召喚状を貰ってきたと言っていましたよ。ここで、この部屋でみんなにそれを見せて回っていました」

「その後、夜の九時にまた外出したんですね?」

「ええ。亭主にこれを渡すんだ、と言ってね」

「夕食は? ここで摂ったんですか?」

「ええ、私が賄いを作るのですよ。よければその日の献立も、お教えできますけれど――」

「いえ、そこまでは」

 

 ベールズは掌を上げて制した。どのみち彼女の胃腸の中身は、解剖報告書や検査報告書に書いてあるだろう。

 

「では、彼女はここからエンジェルの家に行ったんですね?」

「ええ――そう思います」

 

 この聴取が始まって、初めて不自然な間が空いた。ラペンティ夫人の目が泳ぎ、一瞬だけ、切子細工(カットガラス)のデキャンタが何本か置かれている戸棚に向いたのを、ベールズは見逃さなかった。酒か。

 

「ラペンティ夫人、あなたが善良な人で、いわば“死者を悪く言う”ことに抵抗があるのは理解します。けど、ボクはハーストの手先じゃなくて、警察官なんです。ボクがこんな質問をするのは、犯人を捕まえるためです。有ること無いことセンセーショナルに書き散らして、新聞を売りさばくためじゃありません。犯人が誰なのか、それを突き止めるためには、昨日の彼女の足取りを正確に知る必要があるんです。どこで目をつけられたのか。どこで声をかけられたのか。どこで殺されたのか。お願いします、彼女のためにも、どうかご協力いただけませんか」

「……犯人は、あのエンジェルだと思いますけれどね」

「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。それはボクが、直接話をして判断します、ご心配なく」

 

 沈黙が下りた。ラペンティ夫人はベールズの足元をじっと見つめ、ベールズはメモをゆっくりとめくりながら、事件の概要を見返していた。意地の張り合いだ。『私はあなたが話題を変えるまで、話を続ける気はありません』対『私はあなたが教えてくれるまで、話を続ける気はありません』

 ただ、ラペンティ夫人には迷いがある。家主なのだから、その気になればベールズを叩き出せるのに、そうしていない。ベールズに迷いというか、焦りがないわけではないけれど、必要とあらばこのまま、夜まででも明朝まででも座っているつもりだった。となれば、どちらが先に根負けするかは明白である。

 

「……酒場だと思います」

 

 静かにラペンティ夫人がそう言い、ベールズは目を上げた。

 

「北ロサンゼルス街の『エル・ドラド』というところに入り浸っていると、マージーから――ここの他の入居者から聞いたことがあります」ラペンティ夫人は『北ロサンゼルス街』を、まるで『退廃の街ソドム』とでも言うような語調で発音した。「昔から酒呑みだった、というわけではないのです。ここに来た頃は、それこそお酒なんて手も付けなかったのに。けれど、怒り狂ったエンジェルに死ぬまで殴られる夢を、何度も何度も見るのだといって辛そうで……私や他の娘が、ブランデーを呑んで寝るよう勧めたんです。しばらくはそれで効いていたようだったのですが……」

「お酒を過ごすようになったんですね?」

「はい……」

 

 そして、下宿の酒では足りずに呑み歩くようになったのか、とベールズは胸の中で思った。暴力亭主の幻影。逃避。依存。絵に描いたようなアル中への転落。哀れな絵面をベールズは、さっと頭の隅に追いやった。過度な憐憫や同情は、捜査員にとって毒でしかない。

 

「別居前の住所はご存知ですか? つまり、エンジェルの住所ですが」

「詳しい所番地はわからないのですが……バンカーヒルの北側の斜面だと聞きました」

 

 そこは二十世紀の初頭に、メキシコ革命とその後の混乱で流れ込んできた移民たちのために開発された地域だった。安アパートメントや粗末な建て売り住宅が、庭という概念をゴミに出してしまったように建て込んでいて、今ではメキシコ系に限らず、戦後景気にあやかろうと戦間期に流れ込んできた中南米からの移民たちや、大不況の頃に中西部や中南部からやって来た貧困白人たちが、ごちゃ混ぜになって住んでいる。

 

「ありがとうございます、ラペンティ夫人」ベールズは手帳を閉じ、バッジケースから名刺を出してテーブルに滑らせた。「もし何か、思い出したことがあったら、ボクのところに連絡してください」

「わかりました」

 

 ベールズが玄関から出る時、ドアを閉める前にラペンティ夫人は言った。「どうせ、あのろくでなし亭主が犯人に決まっています。さっさとぶち込んでしまって」

 

 ベールズは軽く手を上げるに留めて、鑑識キットに加えて証拠品の山で重くなった折鞄を抱えて無線車に戻った。

 

 

   *

 

 

 再び中央警察署へ。一階の奥にある、薄暗くて空気が澱んでいる刑事室で、空いているデスクを借りたベールズは市警記録課と、陸運局の警察用窓口に電話をかけて、ロサンゼルス市内、ダウンタウン地区在住のエンジェル・クリストファー・マルドナードについての情報を照会した。担当者が折り返し電話してくるのを待つ間に、タイプライターで臨場捜査報告書の副本を清書し、鑑識課に出す遺留物と遺留痕跡の取扱依頼書を打った。タイプ打ちが早いのは、ベールズの密かな自慢だった。

 

 二階の鑑識課の窓口に証拠品と書類を提出し、借りもののデスクに戻って、ラペンティ夫人の供述聴取書をタイプし始めた途端に電話が鳴った。

 陸運局からの回答で、ダウンタウン地区で自動車を持っているエンジェル・クリストファー・マルドナードは一人だけだった。登録原簿の記載情報によると、登録車両は戦前型のシボレー・セダン。住所はロサンゼルス市ダウンタウン地区、北ヒル街三百三十番地の3E号室。一九二四年生まれの当二十三年。交通事故の履歴は無し。登録時に提出された自動車操縦者運転免許証の写しによれば、ヒスパニック系男性、既婚。黒髪に茶色い目、身長五フィート四インチ、体重百三十五ポンドの中肉中背とのことだ。

 

 情報を書き留めて受話器を置くと、間髪入れずにまたベルが鳴った。記録課からは、陸運局と同じ人定住所に加えて、いくつかの警察的な情報も寄せられた。

 暴行での逮捕歴数件。妻に対するもの、お隣りの住人に対するもの、同僚に対するもの――それでフォードの工場から馘首されたらしい。最後の逮捕手続記録――アントニアを失神するまで殴り、救急病院送りにした――によると、現在はイースト・ダウンタウンの工場団地の紡績工場で働いているようだが、あの辺りの工場は、貧困層の搾取工場として悪名高いところばかりだ。逮捕の方は、警告処分と罰金で終わっている。従って前科は無し。

 スピード違反で何度も検挙されていて、直近の二件の違反切符が未納で、召喚状が発付されている。古い方の召喚状は、二日前の月曜日が期日だったが出頭しなかったらしく、罰金十五ドルの支払命令書が送達されていた。納付期限は来週の金曜日だ。

 関連する情報として、ヒッポリトという名の弟が同居している、とも記録課は言った。ナイフで流血沙汰を起こして殺人未遂で逮捕され、司法取引で加重暴行――相手が女性だったようだ――で起訴され有罪答弁をした。郡刑務所で七か月勤めて、初夏に保護観察付きで仮釈放され、兄エンジェルを身柄引受人として同居しているという。仮釈放条件違反があった場合、ロサンゼルス郡保釈委員会から市警にその旨通知されるが、その記録は今のところ無いらしい。もっとも、担当の保護観察官次第なところもあるから、仮釈放態度が本当に良好なのかどうかは、この記録からはわからない。

 

 電話を切ったベールズは溜め息をついた。妻を殴った兄。女を刺した弟。裁判所命令は無視されている。バッジを見せても、一筋縄でいくかは怪しいところだ。とはいえ、近親者告知をしないわけにはいかないし、ラペンティ夫人の言い分ではないが、エンジェル今のところ、被疑者リストの最上段にいる男だ。

 ベールズは二行しか打っていない聴取書を破り捨て、書類仕事の続きは後回しにして署を出た。

 

 

   *

 

 

 北ヒル街三百三十番地にあったのは、スパニッシュ・リバイバルとロマネスク様式を足して二で割ったような建物だった。コの字型で左右対称な造りや、玄関の上に重なるバルコニーや、最上階にところどころ見られるアーチ形の窓はロマネスク風だが、一階は化粧煉瓦で二階以上は漆喰仕上げの壁と、三階と屋上の間をとりまく波模様の刳形(モールディング)は、極端にスペイン風だ。西に傾き始めた陽の光を受けて、スペイン風の印象がより強くなっていた。

 ヒル街に面して駐車場があり、建物はその奥に建っている。停まっている自動車は、どれもこれも戦前型の中古車か、フォードの黒塗りのビジネスクーペのような、極めて安い車ばかりだ。エンジェルの型落ちのシボレーは、駐車場の入り口近くに停まっていた。搾取工場がはねるには早い。今日は仕事を休んだのだろうか。それとも、夜の勤務時間帯なのか。

 正面玄関の真鍮の郵便受けには、3E号室のところに『A・マルドナード』とへたくそな字で書かれた紙が貼ってあった。郵便物は入っていない。自動車を置いて逃亡したわけではなさそうだ。今のところは。

 

 建物の中は薄暗くて涼しく、安アパートメントにつきものの、煮込みすぎたキャベツの匂いが漂っていた。刺激的なチリソースの匂いも薄っすらとしているのは、場所柄ゆえだろうか。色褪せた緑色の壁紙と、ペルシャ絨毯を模したような模様のタイル床の廊下が左右に伸びていて、正面には木組みの階段がある。エレベーターは見当たらない。踏板に足をかけると、背筋に冷や汗が流れるようなギーッという音を発し、ベールズはおっかなびっくり三階まで登った。三階の階段室の横手の3A号室からは、子供が何人か、きゃあきゃあ騒いでいる声が、薄いドアと壁越しに二階まで響いていた。

 3E号室は、北側の一番突き当りにあった。備え付けの本締(デッドボルト)錠とは別に、ベールズの顔の高さに鍵穴のついた真鍮プレートが増設されていた。たぶん、夜間錠(ナイト・ラッチ)だろう。ドア枠に呼鈴のボタンがあり、ベールズがそれを押すと、薄っぺらいドアの向こうからベルの音が聞こえてきた。まもなく、安物の絨毯かカーペットをどすどすと踏む音が近づいてきて、ドアが開いた。

 ドアを開けたのは、褐色の肌を水色のストライプのシャツと、デニムのズボンで包んだ若い男だった。人相や体格は、記録課から教わったエンジェル・マルドナードのそれと一致している。アントニアの部屋にあった結婚写真と同じ、丸顔でつぶらな瞳。そのせいで、当年とって二十三歳のはずだが、まだ飲酒や喫煙が法律上許されていない年齢に見えた。

 

「ミスター・エンジェル・マルドナード?」

「ああ、そうだ」エンジェルはそう答え、ベールズを上から下までざっと見てから続けた。「悪いけど、何も買わないよ。金欠だし、生きるのに必要なものは揃ってるから」

 ベールズはバッジを呈示した。「押し売りじゃありません。ハコス・ベールズ刑事、ロス市警(LAPD)」

「ああ、その」エンジェルは少し狼狽えた。「交通切符の話だろ? さっきも言ったけど、今月は金欠なんだ。金曜に賃銀が入ったら、すぐに小切手を送るから、それでいいことにしてくれないか? な?」

「交通違反の話でもないんですよ。アントニア・マルドナード夫人は、あなたの奥さんですよね?」

「ああ」エンジェルは、今度は苛立たし気な表情になった。「そうだよ。あのクソッタレ妻の、クソッタレ亭主だ。それがどうした? 俺が俺の家で、俺の妻をどうしようと、それは警察の出る幕じゃないだろ」

「それは時と場合によりますね」

 

 ベールズは背後から見られているような、ちくちくする感覚を首筋に感じた。それに、人が死んだという話をするには少々耳障りすぎる、楽しげな子供たちの声。

 

「ミスター・マルドナード、中に入れてもらえませんか。奥さんについてお話したいことがあるんですが、ここではちょっと……」

 

 エンジェルは視線をベールズから、廊下の反対側の突き当りに移し、それから渋々といった態でドアを大きく開け、彼女を室内に通した。ドアを閉め、夜間錠をきちんとかけると、ベールズに言った。

 

「アランダのばあさんだよ、あっちの突き当りの3B号室だ。いっつもドアを細く開けて、誰が誰を訪ねてくるのか監視してる。共産主義者(ボルシェヴィキ)のスパイみたいな、どうしようもない覗き屋だよ。どうせあの人が通報したんだろ?」

 

 ベールズはそれには答えず、居間へ進んだ。ソファに囲まれたコーヒーテーブルが、安物の絨毯が敷かれた居間の中央にあり、ソファの一つにもう一人の男が座っていた。エンジェルと同じ褐色の肌、黒髪、茶色い目。葡萄色のポロシャツに、黒っぽい木綿のズボン。身長はエンジェルと同じか、わずかに低い程度だ。事前に記録課から聞いていたから、それがエンジェルの弟ヒッポリトなのだろう、とベールズは考えた。

 

「ミスター・マルドナード、彼は?」

「イポリト、弟だ」エンジェルは弟の名前を、スペイン語風に発音した。

「英語はわかるんですか?」

「いや、あんまり」

 

 ベールズはバッジを再度取り出し、ヒッポリトにも見せ、ページが少ない脳内英西辞書を駆使して言った。

 

「ハコス・ベールズ。警察(ポリシア)。わかった(コンプレンデ)?」

 

 ヒッポリトは不機嫌さと不信感がない混ぜになったような表情を浮かべつつも頷き、ベールズはそれを確認して、ヒッポリトの向かいのソファに腰を下ろした。

 

「それで、うちのがどうしたって?」エンジェルは肘掛椅子の一つに座りながら言った。「言っとくが、アントニアをぶったことを謝れと言われても、俺は謝らないぞ――」

 ベールズはエンジェルを遮った。「お気の毒ですが、マルドナード夫人は昨晩殺害されました」

 

 エンジェルは文字通り固まった。何を言っているのかわからない、と顔に書いてある。ちら、とヒッポリトの方を窺うと、よくわかっていない顔をしていた。“殺害(murder)”という単語がわからなかったのかもしれない。

 

「ふざけるなよ!」どん、と床を踏みつけるようにして、エンジェルが立ち上がった。「アントニアに頼まれたんだろう、そうやって俺を脅して、金を搾り取れって! おい、アントニアはどこにいるんだ、教えろ! 俺が行って、とっちめてやる!」

「今日はラジオを聴いてないんですか、ミスター・マルドナード?」

「持ってるわけないだろ、そんなもの! 吐けよ、アントニアの居場所を!」

 

 エンジェルはベールズの襟首を掴み、ソファから持ち上げた。首が絞まって、ベールズがげっと短い嗚咽を上げた。

 

「やめろ、エンジェル!」

「吐けよ、オージーの淫売!」

 

 ベールズの頬に衝撃が走り、首がぐりっと左に捻じれた。目の前で火花が弾ける。ベールズはぱちぱちと瞬きしてから、一瞬遅れて何をされたか理解した。

 

「殴ったな、このろくでなしスペ公(スピック)!」

 

 ベールズはエンジェルの襟を掴み返すと、その丸っこい鼻めがけて頭突きを喰らわせた。鼻血が吹き出し、ベールズの顔やスーツの胸を濡らす。エンジェルに突き飛ばされ、彼女はソファに尻餅をついた。とはいえ、これは想定内。素早く体勢を整えて、両脚を揃えて持ち上げ、相手の膝を払った。エンジェルはコーヒーテーブルに尻餅をつき、安物の松材のテーブルは破壊的な音を立てて真っ二つになった。

 

「アンヘル!」ヒッポリトがそう叫び、ぱっとソファから立ち上がった。

 

 ヒッポリトの手が腰のポケットにのび、ベールズは慌てて背広の下に手を突っ込んだ。女刑事、特に胸が大きい女刑事の弱点。胸が邪魔で拳銃を咄嗟に取り出せない。ヒッポリトが取り出したものがきらりと光り、彼はそれをかざして突進してきた。ベールズはなんとか銃を取り出しおおせたが、構えるのは間に合わない。すばやく、横に薙ぐように手を振る。ガギンと金属と金属がぶつかる音がして、相手の飛び出しナイフがどこかへ飛んでいく。

 一方ベールズの身体には、ヒッポリトの身体が勢いそのままに正面から突っかかってきた。二人は絡み合ってソファに倒れ込み、衝撃でソファの脚が折れてひっくり返り、そのまま暖炉の前に投げ出された。ベールズの手から離れた拳銃が、炉辺の化粧煉瓦に跳ねる音がする。女刑事の弱点、その二。男と女は、先天的に骨格や肉付きが違いすぎる。一度組み付かれてしまえば、抜け出すのも引っくり返すのも、ほぼ不可能になる。いくら足をバタつかせても、身体を捻ろうとしても、自分の体重より丸々三十ポンドは重い男に、腰の上でしっかりと馬乗りされていたら、どうしようもない。

 ヒッポリトが、ベールズにはよくわからないスペイン語――わからないが、罵倒の類なのは語勢からなんとなくわかった――を喚きながら拳を振り上げ、彼女は咄嗟に両腕で顔を守った。力強い一撃。たった一発で彼女の両腕は痺れ、口から細い悲鳴が漏れた。ベールズも警察官である以上、普通の未婚女性よりずっと身体を鍛えてはいるものの、男にはやはり敵わない。痺れきった腕をむんずと掴まれ、ガードを外される。ヒッポリトは力の抜けた彼女の腕を、左手一本で楽々と拘束した。

 そして、容赦も避けようもない一撃が、ベールズの顔に襲いかかった。左頬に一撃。びんたではない、拳でのパンチ。ベールズの首は、エンジェルにびんたされた時とは比べ物にならない衝撃で捻じれ、口になかにどばっと血が溢れた。続いて裏拳が鼻面に命中し、鼻血がほとばしった。正面を向かされた彼女の左頬めがけて、パンチがもう一撃。ベールズの歯が、なにか固くて大きなものを噛んだ。涙で霞んだ視界の中で、彼女は自分が赤い血と白い歯を吐いているの見た。

 

 ベールズの身体から力が抜けてしまうと、ヒッポリトは立ちあがった。ベールズも肘をついて身を起こそうとするが、力むとすさまじい激痛が歯茎から身体中を駆け抜け、うまく力が入らない。

 そうこうしている内に、脇腹に鋭い一撃が突き刺さり、ベールズはごろごろと床を転がった。頭がごつんと固いものに当たって止まり、彼女は喉元までこみあげてくるげろを必死で抑え込んだ。いま吐いたら確実にむせて、窒息してしまう。

 喘ぐベールズの目に、自分の拳銃が映った。たったいま頭をぶつけた炉棚の脇、幸運にもヒッポリトから死角になっているところに転がっている。もう痛いとかなんとか言っていられない。エンジェルは加勢に来ないが、止めにも入ってこない――テーブルに倒れ込んだ時に、受け身を取り損ねるかどうかして気絶したようだ。このまま相手の好きにさせていたら、そのうち撲殺されるか刺殺されてしまう、それは間違いない、という気がした。

 目の前が真っ赤になるほどの激痛を耐えて、ベールズは腕を伸ばした。脇腹をもう一度蹴られ、彼女は暖炉の横の壁に叩きつけられた。二つ目の幸運。ベールズは壁にはね返ってうつ伏せになり、ちょうど拳銃が腹の下に隠れる格好になった。全然幸運じゃない事態。ベールズの意識は一瞬飛んだ。これ以上のダメージには、もう身体が耐えられない。それには、拳銃の反動も含まれる。しかし、他に道はない。

 いつからか、電話が執拗に鳴り続けていたが、ヒッポリトはそれを無視してナイフを取り戻しに、ベールズとは反対の方へ歩いて行っていた。ベールズは腹の下から拳銃を取り出し、痺れて震える手で構えた。鼻と口から血がだらだらと流れ続けている。視界が真っ赤に染まっているのは、痛みのせいか、眼球で内出血が起きているのか、それとも、頭から血が出て流れ込んでいるのか。いまの彼女には、三十八口径の制式拳銃すら重すぎた。持ち上げるだけで激痛が走り、構えているだけで抉るような痛みが脳を苛む。

 

 ベールズは照準を、視界を染める赤と同化しつつある、葡萄色のポロシャツの背中に合わせ、引鉄を引いた。轟音が耳朶を打ち、衝撃が彼女を再び壁に叩きつけた。ポロシャツの男が崩れ落ちるのが見える。それが幸せな幻覚でなければいいな、と思いながら、ベールズは意識を手放した。

 

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