H.L. Noire ~Neology~ 作:Marshal. K
「ねえ、起きてよ」
ベールズは、すべすべと平たくて固いものの上に横たわっていた。肘をついて体を起こすと、薄暗く殺風景な部屋が目に入った。淡い緑のタイル敷きの床と、濃い緑のペンキ塗りのコンクリート壁。その中央に鎮座している、ひんやりとした大理石の台の上にベールズは乗っていた。すぐ脇に、吊下げ式の指針ばね秤があり、そのアルミニウムの上皿には、ぬらぬらしたピンク色の脳が載っている。針はだいたい十ポンドあたりを、ゆっくりと振れながら指していた。頭上にはどっしりとしたカーバイド無影灯があるが消灯していて、ぴかぴかの反射板に、ベールズの顔が無数に映り込んでいた。
監察医務院の剖検室だ、とベールズにはわかった。自分が乗っているのが解剖台である、ということも。排液用の溝が刻みつけられた縁に腰かけ、声のしたほうに向き直る。壁際のステンレス製流しの横、保存液漬けの臓器入りの瓶がぎっしりと並んだカウンターに、女が一人、お尻を乗せていた。ベールズは一瞬、それをセリーン・ヘンリーだと思ったが、なぜか白黒の彼女は、よくよく見ればアントニア・マルドナードに他ならなかった。光沢写真に写っていた、結婚式の白いドレス姿。
「やっと起きた」死者は笑って続けた。「どう、わかったでしょ? あいつは誰にでも手を上げるの。私にも、近所の人にも、バッジを持ってるあなたにさえ。暴力衝動が服を着て歩いてるようなものなのよ。あの男が私を殺したの。他の可能性が考えられる?」
「それを一つ一つ考えて、取消し線を引いていくのがボクの仕事だよ」ベールズは言い返した。「たとえエンジェルが犯人だとしても、ボクを殴ったからって君を殺したことにはならない。そんなので陪審員を説得できるもんか」
「できるわよ。そうでしょ、陪審員の皆さん?」
死者がベールズの肩越しに呼びかけ、彼女は振り向いた。背後に、本来そこには無いはずの遺体保冷庫が鎮座していた。無数の冷蔵抽斗が白い冷気を吹き出しながら開き、ぼろぼろのスーツやドレスを身に着けた、朽ちた死体たちが上体を起こして、アントニアに応じて唱和した。
「有罪です、被害者殿!」
「黙れ!」ベールズは叫んだ。
そろそろ彼女にもわかってきた。これは夢だ。死者は所詮、自分の脳が見ている幻覚に過ぎない。
アントニアに目を戻すと、相手は白黒写真の中の死者から、色のついた本当の遺体へと変わっていた。変色し、汚損され、腫れあがった顔を持つ、変死体LAC-47081302号。
「誰であれ君を殺した犯人は、ボクが見つけてガス室送りにする」それはベールズにとって、自分に対する宣言でもあった。「だから君は死者らしく、もう口を閉じて、お姉さんかお母さんが迎えに来るまで、あそこでお仲間と一緒に大人しくしていて」
遺体は弾けるような笑い声を立てた。「あっはっはっはっは! 本気で言ってるの? そんななりで、人殺しを捕まえられるって? 冗談は死んでから言ってよ」
ベールズはぎょっとした。自分の身体から血が流れている。目から、鼻から、口から、いつの間にか身体中に刻みつけられていた、刃物で切りつけられたような傷口から。赤黒い腐った血が溝を流れ、解剖台の下の琺瑯引き廃液槽に落ちる、ぼたぼたという音がしている。
ベールズが悲鳴を上げると、静かな声が彼女をたしなめた。
「静かに。ここは安らぎの場所なんだから、騒がしくしちゃだめ」
「ファウナ!」
いつの間にか解剖台の脇に、検屍官のセレス・ファウナが立っていた。この夢の中で、彼女自身を除いて唯一の生者に会って、ベールズは安堵した。
「本当に?」死者がベールズの考えを読み、嘲った。「自分は死んでないと、本気で思ってるの? 人間がどれほど簡単に死ぬかなんて、あなた自身よく知ってるくせに。それなのに自分は無敵だと思ってるなんて、呆れたわね」
ファウナは白衣を羽織り、長い髪を白い頭巾の中にまとめて、布マスクをしている。ファウナがベールズに向けている眼は――普段ファウナが死者たちに向けている、慈しみの眼だった。
「大丈夫、すぐに終わるから」優しい声は、ファウナが生者と死者とを問わずにかける、慈しみに溢れた声だ。「あなたがどれほど疲れていても、どれほど重いものを負っていても、もう大丈夫。私がそれを取り払って、休ませてあげるから」
ジジッと音がして無影灯に明かりが入り、解剖台の上に仰向けにさせられたベールズを、白く強烈に照らした。彼女の身体は冷たく固い死者たちの手によって押さえつけられ、解剖台に釘づけにされていた。
「やめて、ファウナ! お願い!」
ファウナは聖者の微笑みを目に浮かべて、巨大なノコギリを取り上げた。一フィート半はあろうかという刃が、カーバイド灯の光を受けてギラリと光る。
冷たい刃が、左の鎖骨のすぐ下にあてがわれる。
「やだ! やだ! やだやだやだやだやだやだやだやだ!!!!!!」
胸から血飛沫がほとばしり、激痛にベールズの視界は霞んだ。無影灯の光が嘘のように暗くなり、全てが遠ざかっていく。夢の中だということをすっかり忘れてベールズは、『ああ、これが死ぬということなんだ』と、谷底に墜ちていくいくような絶望とともに思った。
*
目を醒ました時、ベールズの目の前には女の顔があった。左右で色の違う瞳。褐色の肌。心配そうな顔。
「アイリス……?」
ベールズの声は、声にならなかった。彼女の口は砂漠のように乾いていて、舌はざらざらで、喉はぴったりとくっついていた。身体の感覚はほとんどなく、雲の上に浮いているような気がした。胃はむかつき、いまにも吐きそうだった。
「べー、ベー? 目が醒めたの?」
ベールズは頷き、なんとか声を絞り出した。「吐きそう……」
陶器の洗面器が差し出され、彼女はそれに胃液を吐いた。気分がすっきりし、同時に背筋に軽い悪寒が走った。そのぞくぞくする感覚が奇妙に心地よく、彼女は再び枕に頭をあずけた。
右手に温もりを感じ、アイリスの香水のシトラスの香りが鼻をくすぐると、ベールズの心は安らいだ。今なら意識を失っても、二度とあの剖検室には戻らないだろうという根拠のない確信を抱いて、彼女はすとんと眠りに落ちた。
ベールズの体感では一瞬の後、彼女は再び、今度はもっと明澄に意識を取り戻した。
そこは薄暗い部屋だった。ベールズが寝ているベッド、優しい花柄の壁紙、石膏の天井板。ベッド脇には点滴があり、管がシーツの下に伸びている。どうやら夜のようだ、とベールズはぼんやり思った。部屋の照明は落とされ、入り口近くの整理箪笥の上に置かれた電気スタンドの明かりが、室内を薄く照らしている。ぴりっとするクレゾールの匂いを感じて、病院、それも個人医院の病室らしい、とベールズは思った。
アイリスの姿はなかった。それでも、甘酸っぱい残り香があるような気がして、彼女はアイリスを呼ぼうと息を吸った。そして、すさまじい激痛に襲われて悶絶した。息を吸おうが吐こうが、呼吸にともなって胸が強い痛みを発した。悲鳴を上げることすら不可能なほどだった。
足音が聞こえ、ベールズは痛みの中で希望を抱いて視線を上げたが、その目に映ったのはアイリスではなく、白衣を羽織った小柄な人影だった。
「目が醒めた?」その人影が言った。低く落ち着いた女の声で、へんてこな発音の英語だった。「じゃ、ちょっと診察するから。痛いと思うけど、我慢せずに泣いたり喚いたりしていいからね」
白衣の女はベールズのパジャマの前を開き、その胸を締めつけていた包帯を解くと、
その悪魔の化身は、どうやら混血らしい、とベールズは見て取った。白人のそれに近い白っぽい肌をしているが、顔つきはアジア系特有の、平坦で童顔な顔立ちだった。腰まである黒っぽい長い髪の毛をしていて、前髪をきれいに切り揃えている。まるで十代の少女のようにも見えるが、その目つきと声音は明らかにベールズと同年代か、もう少し年上の女のものだった。白衣の下に藤色のブラウスを着込んでいて、その胸は顔立ちと同じくらい平坦だ。やっぱり少女なのかもしれない、と、ベールズは皮肉交じりに思った。
「いいね」
失礼な値踏みをされていると知ってか知らずか、年齢不詳の女はベールズの胸に新しい包帯を巻きながらそう言った。「ひびが入った肋骨が二本、でも折れてはないよ。脇腹の打撲は、腎臓がちょっと心配だから、血尿が出ないか様子見だね。鼻が折れてたけど、骨は無事だったから整復して、固定しておいたよ。たぶん痕は残らないはず。奥歯が一本抜けて、その隣もぐらぐらしてたから、歯医者を呼んで抜いてもらったよ。彼がブリッジを作ってくれるはずだから、今度嵌めてもらいに行ってね」
訛りの強い英語は、今のベールズでは半分も理解できず、頭が痛くなってきた。同時に、へんてこな訛りの正体がなんとなくわかってきた。強いアジア訛りのあるカナダ英語だ。
医者は包帯を巻き終わると、シーツをまくって尿瓶の中身を検めた。濃い色の尿が少し溜まっていたが、血は出ていないようだった。自分の小便をじろじろ見られ、ベールズはなんだか辱められている気分になった。
尿瓶を取り替えてから、医者はベールズの腕に注射した。すると、あっという間に痛みが和らぎ、彼女には目の前の医者が、一瞬で悪魔の化身から天使の遣いに変わって見えた。
「今夜はゆっくり休んで。明後日くらいにはたぶん、家に帰れると思うよ」
そう言って、混血の天使の遣いは部屋から出ていった。
*
「目を醒ましたって?――おっと」カリオペはベールズの病室に入り、その様子を見て言葉を切った。
金曜日の昼前だった。ベールズは大きな枕に背中をあずけて、ベッドの上で上体を起こしていた。夏らしいレモン色のワンピースに身を包んだアイリスが、薄切りにした林檎を果物フォークでベールズの口に運び、ベールズはあんぐりと口を開けて食べさせてもらおうとしてたところだったのだ。
「すまんな、悪いタイミングに割り込むのは、私の特技なんだ」
「いいよ、入って」痛みに顔をしかめつつ――胸の痛みは、その程度まで和らいでいた――ベールズは言い、それから林檎を器用に、しかし行儀悪く前歯で受け取り、口の中に運んで咀嚼した。
カリオペは誰もいない隣のベッドの脇から籐編みの椅子を略奪してくると、それをベールズのベッド脇の、アイリスとは反対側に置いて腰を下ろした。
「調子はどうだ?」
ベールズは、ゆっくり咀嚼していた林檎を飲み込んでから答えた。「まあまあだね」
「そうか。まあ、ゆっくりしてろ」
「そうはいかないよ」ベールズは気持ち、前のめりになった。「アントニアの事件をほったらかしにしておけないだろ」
「私、ちょっと煙草喫ってくるね」アイリスが立ち上がった。「ごゆっくり」
アイリスはいそいそと、ハンドバッグを探って煙草のパックとシガレット・ライターを取り出しながら病室を出ていった。
「それで、エンジェルとヒッポリトはどうなったの?」
「ヒッポリトは死んだよ。お前が撃ち殺した」カリオペは煙草を銜えながらそう言い、火をつける間だけ少し黙ってから、紫煙とともに続きを吐き出した。
「たいした腕前だな、お前。あれだけボロ雑巾みたいにされてたのに、片肺を撃ち抜けるなんてな」
「本当にたいした腕前なら、胴体以外のところを狙ってたよ」
悄然とした様子のベールズをカリオペはじろじろ眺め、どうやら本当に意気消沈しているらしいと見て取った。「まあ、そう罪悪感を抱くような相手じゃないさ。遅かれ早かれ、フォルサムかサン・クエンティンの州立刑務所にぶち込まれてただろう手合いだ、あのヒッポリトって奴は」
「エンジェルは?」
「やつは逃げた。あのアパートメントはキッチンに勝手口があってな、そこから非常階段に出られるようになってたんだ。お前が銃をぶっ放した時、家庭争議の通報――同じ階の住人が、お前たちの取っ組み合いの音を聞きつけて通報したんだよ――を受けて制服が二人、下のロビーまで来てたんだが、エンジェルはその非常階段を使って、彼らに出くわさずに逃げだしたわけだな」
ベールズは、意識を失う前に鳴り続けていた電話のことを思い出した。あれは通信課が架けていたものに違いない。ベールズは下宿屋に行った時と同じように、マルドナード家のアパートメントに向かうことを、無線電話でKGPLに知らせておいたからだ。通信課の指令員が電話通報を受けた時に、その住所に警察官がいることに気づき、警邏車を派遣するのと前後して安否確認のために架電していたのだろう。
「エンジェルに広域手配はかけたの?」
「ああ。だが、まだ網にかかってない。それで、あいつが捕まるのとお前が退院するのと、どっちが早いかわからないから、逮捕が先になった場合に備えて、何を訊くべきかお前から聴いておこうと思ってな」
ベールズには弱めの鎮痛剤が投与されていて、頭の回転が普段より鈍かった。それを痛感しつつ彼女は、パーソンズ下宿屋のラペンティ夫人から聴いた話を、なんとか搔い摘んで話し、その上でアントニアの足取りと、エンジェル自身のアリバイを訊くように言った。カリオペはそれをメモに取り、最後の方を書き続けながら訊いた。
「あいつがやったのかどうか、訊かなくていいのか?」
「アントニアのことをあんまり誤魔化すようなら、訊いてみて」
カリオペは鼻から溜め息をついた。「お前、あの部屋をまだ見て回ってなかったのか」
「その暇もなしに、ここに担ぎ込まれちゃったからね」
「じゃ、教えてやろう。あのアパートメントのキッチンに、洗いたてでまだ濡れてるシャツが干してあってな、その右袖と前合わせに血痕があった。洗い落そうとして、落とせなかったんだな」
今度はベールズが溜め息をつく番だった。『エル・ドラド』を経由しているにしても、今のところアントニアが最後に立ち寄ったであろう場所はエンジェルのところで、彼がアントニアに、少なくとも暴力を振るっただろう証拠がある。やはりエンジェルないしヒッポリトが犯人なのだろうか。
ベールズが回らない頭を頑張って悩ませていると、カリオペがついでという感じで言った。
「ああ、それからな。エンジェルが逃げた勝手口なんだが、そこに果物屋の木箱が置いてあったんだ。どうせ野菜か果物が入ってるんだろうと思ってたが、開けてびっくり、酒が入ってた」
「お酒?」
「ああ。十六オンス壜で一ダース。国産ブランデーのラベルが貼ってあったが、栓はお手製の蜜蝋で封されてて、収入印紙も貼ってなかった」
「密造酒か」
「風紀課のギャンブル警部補によると、このところ増えてるキューバからの密輸酒だそうだ。とっても上物のテキーラで、
ベールズはその情報を頭の中で、しばらく吟味していた。アロンツォ・メンデスは非メキシコ系のヒスパニックだが、密輸酒と関わりはなさそうだった。モラー事件がどうだったのかはわからないが、一旦脇に置いておいてもよさそうだ。
「そうだ、モラー事件といえば、そっちの捜査はどうだったの、カリ?」
「ふむ」カリオペは唸り、腕を組んだ。「私の掴んだ情報を話す前に、一応事件を整理しておこうか。お前も新聞やらなんやらであの事件のことを知ってると思うが、ひとまず公式な捜査書類に書いてあることに絞ってみよう」
「異議なし」
「事件発生報告書によると、事件の端緒は八月十二日の朝十時だ。ブロードウェイ・トンネルの北口の上に小さな児童公園があるんだが、そこへ散歩にやってきた四歳の男の子が遺体を発見した。アカツユの木の枝に、近所の人が作ったぶらんこがあって、それで遊ぼうとしたところ、その下に遺体が遺棄されていたんだな。遅れて遺体を発見した母親が息子を連れて、公園の近くにあった元冷蔵庫修理工のハロルド・ノックスの家に駆けこみ、そこから一一六に電話通報した。
「検屍報告書によると、推定死亡時刻は十二日の夜半前後から午前二時頃までの間。死因は絞頸による窒息。遺体は全裸で、ひどく損壊されていた。生前に、顔面を含む全身を鈍器で殴打された他、男物の八号の靴で踏みつけられた痕があり、大小様々な骨折、挫傷、内出血、内臓破裂などがあった。それから胴部を中心に、鋭利な刃物でつけられた切創もあったが、これは死後に行われたものと監察医は見ている。頭部に重度の鈍的外傷があるが、これは致命傷じゃなかった。頸部に索状の絞痕があり、解剖の結果、絞頸による窒息が死因と判断された。頸部から採取された繊維片と、絞痕の形状を照合した結果、サイザル麻の三打ちのロープが凶器と断定された。アメリカ中の農家の納屋だとか、船や港湾の用具庫だとか、消防署や教会の倉庫に必ずあるような代物で、購入者から被疑者を辿るのは断念された」
ベールズは、カリオペが息継ぎをするのを見計らって訊いた。「性的暴行の痕跡は?」
「それについちゃ『デイリーニュース』紙がデタラメを書いてたが、実際には無しだ。性器にも肛門にも、手を触れた痕跡すらない。とんだイカレ野郎だ、全く」カリオペは苦々しい口調で言って、紫煙を吐き出してから続けた。
「臨場捜査報告書によると、遺留物はほとんどなかった。発見されたのは割れたビール瓶だとか、くしゃくしゃの煙草のパックだとか、精液のミイラみたいなのが入ったコンドームだとかの古いゴミばかりで、今回の事件に繋がりそうなものはゼロに等しかった。ただ一つだけ、駝鳥革のハンドバッグが遺体の傍に遺されていた。財布と紙幣クリップに三十二ドルの紙幣が、小銭入れには二ドルちょっとのばら銭が遺されていて、強盗の線は否定された。それからカリフォルニア州の運転免許証があって、そこから身許が判明した。免許証によると、鞄の持ち主はウェストレイクに住むディアドラ・モラー夫人、当年四十四――あと四日で満四十四歳だった――、白人、金髪で、背格好も含めてその人相が遺体のそれと一致していたので、ローズ刑事はその名前を記録課に照会した。すると、その日の早朝に旦那のヒューゴ・モラーが、中央署に失踪人届を提出した記録があった。フロイドとラスティはモラーのところへ話を聴きに行き、まあ、すったもんだの末にモラーを逮捕した。後に、モラーは
「証拠はモラーに不利な方に揃った。午後になってから、ベルモント高校の駐車場で被害者のシボレーが発見された。そのトランクからタイヤレバー、サイザル麻のロープ、作業服が発見され、それらには被害者の血液型と一致する血痕が遺されていた。タイヤレバーの指紋は拭き取られていたが、被害者の後頭部挫滅創の成傷器であると断定された。こいつはクライスラーの純正ツールで、戦前型のクライスラーに乗っているモラーは、同じ道具を所持していることを認めたが、彼が『そこにあるはずだ』と主張していた自宅ガレージからは発見されなかった。ロープには血痕の他にも皮脂や肉片が遺っていて、これらも被害者のものと一致した。作業服はモラーのもので、彼の指紋、汗、皮脂などが遺っていた。彼は『自分の作業服は家事室にある』と主張していたが、家事室の洗濯物からは発見されなかった。家事室のドアにはこじ開けられた痕跡があったが、モラーはロックピック・セットを所持していて、鍵を忘れた際に何度かこじ開けたことがあると認めた。したがって、不法侵入があった、あるいはなかったとは、いずれも断言できない。
「更に不利な状況証拠として、モラーはフロイドとラスティが訪れた際に、血痕のある靴を焼却しようとした。モラーは『これはウサギの血だ』と弁明し、後から検屍官もそれを裏付けたが、その場では疑いを深めただけだった。そして、モラーにはアリバイがなかった。直前に夫婦喧嘩をしたために、自動車でマルホランドまで走りに行っていたと言うんだ。それがお決まりの気分転換なんだとな。ただ、その割にはマルホで違反切符を切られた履歴がほとんどない――知っての通り、あの辺りは
カリオペは皮肉っぽく言い、短くなった煙草をサイドボードの上の灰皿に押しつけた。ベールズは溜め息をつき、あの当日の新聞の見出しを思い出した。『元・“妻殺しの男”、釈放』『出廷したアリバイ証人は、不倫相手で大富豪の娘!』『独占取材:なぜハリウッド成金の娘は“立ちんぼ”に精を出していたのか』『西海岸随一の成功者、その冷たい家庭のオモテウラ』などなど……。
「つまり、新聞屋さんお得意の大袈裟な誇張を削ぎ落せば、捜査の成り行きは概ね報道通りってことだね」
「そうだな。だが、一切公開されていない事実がある。実はフロイドとラスティは、被疑者をもう一人逮捕してたんだ」
ベールズは眉を上げた。「それは初耳かも」
「そいつはイーライ・ルーニーって
「掛け値無しの屑野郎だね」ベールズは痰を吐くような口調で言った。「ボクがハリウッド署の風紀係にいた時、中学一年生のおっぱいを揉んだ廉でしょっ引かれてきたよ。ボクが被害者の接遇を担当したから憶えてる」
「ルーニーは、フロイドたちがベルモント高校の駐車場に停められていた被害者の車を調べてた時に、ちょうど高校に女の子漁りに来たんだな。当然とっ捕まって、その時に身体捜検を受けたんだが、ディアドラ・モラーが持っていたはずの金のブローチを、その時やつは持ってたんだ」
「それでよく起訴されなかったね」
「被害者が殺された明け方に、駐車場で拾ったんだと弁解したんだ。やつは目利きだから――なにせ強盗もするときてるからな――価値のある物だとわかったが、だからこそ女の子を釣る餌にできると考えて、売っ払わずに持ち歩いてたんだそうだ。理屈は通ってる。変態なりの理屈だがな。それに、被害者が持っていた三十五ドル弱の現金は手付かずだった。ルーニーは仮釈放中で、保護観察官があてがった仕事も辞めちまっている。三十五ドルもあれば二か月は左団扇だというのに手を出さないとは、ちょっと考えられない。とにかくそんなわけで、モラーの方が証拠的に不利だったこともあって、あいつらはイーライを起訴しなかったんだ。もっとも、高校への不法侵入――仮釈放条件違反だ――の件で仮釈放取消しになって、今は郡裁判所庁舎の拘置所で次の護送列車を待つ身だがな」
「イーライが真犯人だった可能性は?」
「無くはない」カリオペはそう言い、足を組み替えながら付け足した。「ただ、私にはしっくりこないな」
「その根拠は?」
「この事件には――というか、
「金のため、って可能性は?」ベールズは薄い線だと思いつつも反論した。「強盗って意味じゃなくて。誰かに雇われてやってたとしたら? その雇い主からたっぷり積まれたから、金のブローチとか三十五ドルぽっちの現金とかは無視したって可能性は?」
「ないと思う。言っちゃ悪いが、あんな生まれつきの貧困白人が三十五ドルを端金と思えるような大金を手に入れたとしたら、使わずにはいられないだろうよ。もっといいものを着て、もっといい部屋に住んで、高級レストランやナイトクラブや、競馬場で豪遊して、フロイドを怪しませるような経済状況になってたはずだ。だが、やつは相変わらず救世軍が慈善で配ってる襤褸をまとい、
ベールズは鈍い頭に鞭を入れて、なんとか思考をまとめようとした。
FBI。そういえば、連中は一連の事件に何らかの共通点があるはずだ、と言っていた。しかし今のところ、“被害者が女性である”という点以外での共通点は、ほとんどない。被害者の年代は二十代、三十代、四十代とばらばらで、二人は白人だが、アントニア・マルドナードはニューメキシコ出身のヒスパニック系だ。白人二人もセリーン・ヘンリーはテキサス出身だが、ディアドラ・モラーはロサンゼルス生まれロサンゼルス育ちときている。
ヘンリー夫人は、カリオペが『娼婦の真似事』と揶揄するくらいに放埓で酒乱だったが、モラー夫人は嗜む程度しか飲酒せず、いくつかの婦人団体に加入して積極的に活動していたなど、セリーンの対極に位置している。マルドナード夫人はお酒に溺れていたが、そうなったのはここ二か月ほどで、それまでは日曜礼拝を欠かさない敬虔なキリスト者らしく、ほとんど酒を口にしなかったという。そして彼女は前二者と異なり、煙草を喫わない。
セリーンはパイロット時代から派手好きで、賃銀奴隷の夫から見ればとんでもない浪費家だった。ディアドラはセリーンほどの浪費癖はないにしても、比較的高価な宝飾品を好む傾向にあり、夫の頭痛の種になっていた。しかし、アントニアはその点――おそらく宗教的な理由だろうが――清貧だったようだ。エンジェル・マルドナードの収入は、彼の人種ゆえに他の二人よりも更にさもしいもののはずだが、アントニアを専業主婦として寝室付きのアパートメントで暮らせる程度の余裕はあったわけだ。
ベールズが、ぶつぶつと低い呟きを漏らしながら考えているのを、カリオペはしばらくの間、何も言わずに見守っていたが、やがて籐椅子から立ち上がりながら言った。
「まあ、お前はもう少しゆっくりしてろ。エンジェルの方は私と、中央署の連中に任せろ。しっかり見つけ出して、きっちり落とし前をつけさせてやるからな」
「わかった。ありがと」
カリオペが去り、入れ替わりにアイリスが戻ってきた。二人はぽつぽつと、とりとめのない会話を交わしていたが、やがて夕方になると、アイリスは『トロカデロ』のステージに立つために病院を出ていった――退院したらベールズの秋物を揃えるために、一緒に百貨店巡りをするという約束を取りつけて。
夕方にはイナニスが例によって地獄の――しかし、もう初日ほど痛くはない――触診をして、明日には退院できるよ、と言った。
その夜。ベールズはこっそりと病床を抜け出した。サマーセット夫人という住み込みの看護婦は夜、ライ麦ウィスキーを呑んでぐっすり眠るので、呼鈴を思いっきり鳴らしでもしない限りまず目を醒まさないことを、ベールズは学んでいた。
ヒッポリト・マルドナードは前科持ちのヒスパニック系で、つい最近まで
彼女は階下に降りると診察室の前室にある、受付を兼ねた秘書のデスクに向かい、そこにある電話機から市内電話を一本かけた。呼出信号が十回鳴り、十一回目が鳴っている途中で回線が繋がった。
「もしもし? ボクだけど」
電話の向こうの相手は無言だったが、やがて溜め息を吐きだす音がして、心底厭そうに言った。「……勘弁してください」
「タマを握ってるのがどっちか、忘れちゃった? そういう態度を続けるなら、お互い不幸な形で結末をつけざるを得ない。わかってるだろ? ぐらはお前の御し方をボクに、ちゃあんと教えてくれたんだよ。それを忘れるな」
相手が不服そうな唸り声を短く上げて黙ると、ベールズも短く訊いた。「いるの?」
「ええ。いっそ、あんたを撃ち殺してくれればよかったんですがね」
「ボクはいま鎮痛剤でいい気分になってるから、それは聞き流してあげる。時機が来たら電話するから、それまであれこれ理由をつけて、そこに引き留めといて」
「ちょっと――」
ベールズは相手の返事を聞かずに受話器を置き、病室に戻って眠った。
*
アイリスが呼んだタクシーで、二人はベールズの家へ向かった。ベールズが入院している間に、警察とタクシー会社からの給与小切手と、諸々の請求書がポストに届いているはずで、それを回収する必要があったからだ。
彼女の住所はダウンタウン地区の南端、ロサンゼルス街の十一番街と十二番街の間にあった。鉄筋コンクリート造の五階建て、灰色の化粧煉瓦仕上げの安っぽい外装。エレベーターは無い。一階は四つの店舗、二階はその事務所になっていて、三階から上が賃貸アパートメントになっている。一階に入っているのは薄暗いコーヒーショップ、怪しげな稀覯書店、胡散臭い保険代理店、潰れた靴屋という顔ぶれで、靴屋には移転を知らせる貼り紙などは無く、すっかり黄ばんだ郡保安官の差押令状が、ドアを塞いでいる羽目板に釘づけにされているだけだった。
ベールズのアパートメントは十二号室で、五階の一番奥にある。ベールズはアイリスに支えてもらって、なんとか階段を登りきった。アパートメントのロビーは一階のコーヒーショップに隣接しており、そこに充満している揚げ物油の臭いが、階段室にも各階の廊下にも満ちていて、疲れているベールズに吐き気を催させた。二人はなんとか十二号室に辿り着き、狭い居間の張りぐるみのソファに揃って腰を下ろした。
「つかれたー!」アイリスが足を延ばしながら言った。「五階分も階段を上がったの、すごく久しぶり」
「その価値はある部屋だから」ベールズは背後のドアを、親指で指しながら続けた。「寝室付きで月極め三十六ドルだからね。ピコ
「でも……あっつくない?」
アイリスの褐色の肌は上気し、汗が浮きでていてた。ベールズを五階まで支えて登ったから、というだけでなく、本当に部屋が蒸し暑かったからだ。「最上階だからね……」と諦め気味に呟くベールズを置いて、アイリスは勢いよく立ち上がり、居間に一つしかない上込み窓を開け放った。さっと風が通り、部屋はたちまち涼しくなったが、引き換えにロサンゼルス街の喧騒と、排気ガスの臭いと、
ベールズはちょうど、市章が印刷された封筒を破いて、財務部のレターヘッドが捺された書類を取り出したところだった。用箋の最下部にはミシン目が刻まれ、切り離して小切手として使えるようになっている。額面は三十六ドル九十五セントだ。
「これ、何日分?」
ベールズは頭の中にカレンダーを思い浮かべて計算した。「十一日分」
「十一日働いてこれ?」アイリスの声は叫び声のぎりぎり一歩手前、という感じだった。「お巡りさんは安月給ってのはよく聞くけど、つまり、日給三ドルそこそこってこと?」
「色々控除があるんだよ」ベールズは明細票をアイリスに渡した。「ほら、ここに書いてるだろ? 日給五ドル八十三セント、それが十一日分で六十四ドル十三セント。ボクは独身子無しだし、ここは家賃補助の対象になるような家じゃないし、出勤は徒歩扱いだしで諸手当はなし」
「残業代は?」
「警察にはそんなものありませーん」ベールズはぐるっと目を回して見せた。「んで、連邦所得税が二十パーセント、州所得税が二パーセント、連邦社会保障税も二パーセント。それから、警察消防年金基金の積立費と、労働組合の組合員費もあって、それら都合二十七ドル十八セントを差し引くと、ボクの手許に残るのは三十六ドル九十五セントってこと」
アイリスは「はー」と声に出して溜め息を吐き、ソファの背もたれにもたれかかった。「大変だね、宮仕えって」
「源泉徴収のない人にはわかんないだろ」
「いや、あるよ源泉徴収」
「えっ!?」ベールズはタクシー会社の社名が印刷された封筒とレターオープナーを、揃って取り落とした。「ジャズ・シンガーに源泉徴収なんてあるの?」
「あるよ。一九四三年からこっち、ギャラも源泉徴収の対象になっちゃったから。おかげで確定申告が大変だよ、あっちこっちのクラブに顔出してるんだもん。二回くらい申告間違いやって、ひどい目にあってさ。それ以来、税理士に大枚払って申告書を作ってもらってるんだよ」
「音楽界って大変なんだね……」
「音楽事務所に所属してれば、もうちょい楽なんだけどね。でも、税理士費用は経費として申告できるから、巧く調整すれば所得税がちょっと浮くんだよ」
「セコいなあ……」
「知らないの? 多少はセコくないと、ジャズ・シンガーごときじゃあんなアパートメントに住めないんだよ」
ベールズはタクシー会社の給与小切手に受取の署名をしていたが、書き終わって目を上げると、アイリスが自分のことを、じっと見つめていることに気づいた。ひどく真剣な――飢えたような目をしている。
「な、なんだよ……」
「ごめん、ベー」言葉に反してアイリスの表情は、謝罪する人間のそれではなかった。「もうちょっと、できれば夜までお行儀よくしてようって思ってたんだけど……私、我慢できそうにない」
「何を言って――」
その言葉を遮って、アイリスはベールズに襲いかかった。アイリスの舌が、ベールズの前歯をこじ開けるようにして侵入し、性急に、貪欲に、ベールズの口内をむさぼり、味わおうとする。ベールズはアイリスの両肩をつかみ、押し戻して抗おうとするものの、かたち以上の抵抗はできなかった。ひびの入った肋骨が痛むのもあるし、それに――
息継ぎのために唇が離れると、二人の間に銀色の糸が引いた。ベールズはそれを、手の甲で弱々しく拭いながら、「ばかやろぉ……。ソファ汚したくないんだけど、ベッドまで待てないの……?」
「だめ、待てない」
アイリスは断固としてそう言い、再びベールズの唇を奪った。今度はゆっくり、じっくり、蕩かすように、酔わすように。やがて、かたちばかりの抵抗を示していたベールズの両腕が、アイリスの肩から背中へと回され、固く閉じられていた両脚から力が抜けるのが、アイリスにはわかった。
スイッチが入った。
ソファの上でベールズを押し倒し、舌づかいのギアを徐々に上げていく。ベールズも積極的に自分の舌を絡めてきて、汗ばんだ二人の身体も、それを真似るようにぴったりと重なり、絡み合う。褐色の太腿が、空色のワンピースの裾を押し上げながら白い両脚の間に押し入り、わずかに湿ったクロッチごと、秘部をゆっくりと擦る。息遣いと、衣擦れの音と、生温かい水音だけが、部屋の空気を支配している。
大怪我をして入院したと聞いて、どれだけ私が心配したか、という言葉を、先程のアイリスは呑み込んだ。それを今から、その身体にしっかりとわからせてやる。刻み込んでやる。
アイリスは相変わらずぎらぎらした目で、涙ぐんでいるベールズの、朝焼けのような瞳を見つめながら、ベールズのワンピースのボタンに手を伸ばした。
*
日曜日の未明ともなると、さしものダウンタウン・ロサンゼルスの街路でさえひと気がなくなり、すっかり静まり返ってしまう。とはいえ、人っ子一人いないかと言えばそうでもなく、早朝勤務のために憂鬱そうな顔で出勤する、あるいは深夜勤務上がりの疲れ切った顔で帰宅する労働者や、こんなとんでもない時間に犬の散歩をする人や、看板を出さないことで州法違反の取り締まりを逃れている
純白の絹のサマードレス――もう他に着られるものが無かった――に身を包んだベールズは、制服姿の巡査と並んで、九番街とオリーブ街の角に立っていた。交差点の向かいには二十四時間営業のカフェ・バーがあったが、現代的で大きなガラス窓の向こうを見る限り、客はいない。九番街を空車のタクシーが一台通り過ぎ、
それから間もなく、オリーブ街を紫色のポンティアックが下ってきて、ベールズたちが寄り掛かっているヘイデン・ミュージック社の建物の前で停まった。運転席から男が一人降り立ち、ベールズと巡査は自動車のところへ歩み寄った。
「連れてきた?」
「ええ」ベールズが短く訊き、男も短く答えた。
その男は浅黒い肌に縮れた黒髪を持ち、陸軍払下げのアイゼンハワー・ジャケットとカーゴパンツを身につけていた。焦茶色の目はぎょろりと大きく、ベールズと巡査に交互に視線を投げ続けている。警戒ないし用心の視線だった。
男は後部ドアを開けると、巡査と二人がかりで中に座っていたもう一人の男を担ぎ出した。路面電車停留所のベンチに座らされたその男は、誰あろうエンジェル・マルドナードだった。ベールズはそのポケットを探り、人造皮革の財布を見つけ出すと、中身を確かめた。エンジェル本人名義の免許証があり、現金は七ドルしか入っていなかった。
「ずいぶんぼったくったんだね」
ベールズがそう言うと、男はヒスパニック訛りで憮然として返した。「冗談じゃねえ、もともと大した額を持っちゃいなかったよ、そのおっさんは」
ベールズはふんと鼻を鳴らすに留め、財布をエンジェルのポケットに戻した。「ほら、とっとと帰って」
「俺にも分け前をくれよ、ねえさん。そのおっさんからは大して取れてないんだから」
「お前の分け前は、当分の間の営業許可だよ。それでだって儲けものだと思いなよ、
男は唇を噛み、小さく呟いた。「くそったれ、チビのネズミが」
「何か言った?」
「いえ、何も」
「じゃあ、とっとと帰れ」
南米男とポンティアックが去ると、ベールズはハンドバッグから自分の財布を取り出して、十ドル札を一枚抜き出した。紙幣はたちどころに巡査のポケットへ消えた。
「後はいつも通り、手筈通りにお願い」
「任せてくださいよ」
巡査が