「勝負あり!勝者、川神百代‼︎」
鼓膜に響く審判の声。
全身を駆け巡る激痛。
全てを出し切った疲労感が、一呼吸ごとに太鼓のように身を叩く。
それと同時に、周りからの歓声と拍手も遅れてやってきた。お見事!流石は総代のお孫!といった、勝利者を持ち上げる声。
腫れ上がった瞼のせいで狭まった視界から、俺を下した勝者の顔が見える。
心満意足を絵に描いたような、最高の面持ち。
……悔しかった。俺なんかじゃ届かない所にいるんだと、いつもの如く思い知らされた。
それが堪らないほど胸を締め付けて、今感じる痛みよりも苦しく感じられた。
血の味しかしない口内をギュッと噛み締めて、次はどうやって勝つか……。と考えながら意識を手放すのだった。
それは、ライバル川神百代との試合。
毎日のように行っている勝負の敗北結果が、合計五十敗を超えた時のことだった。
試合結果がもはやお約束になりつつある、そんな周囲の認識が浸透していった春の季節。
だーめだこりゃ、と俺は一人項垂れていた。
どれだけ腕を磨こうとも、どれだけ勝利の可能性を模索しても、それをあざ笑うかのように悉く跳ね除けられて行く。
毎度実力と才能の差に打ちのめされる俺とは裏腹に、あいつは日に日に強くなっていくばかりだ。
それでも何か策はないか、どうにかしてこの剣を届かせられないか。などと頭を悩ませる俺の背後から、ケラケラと意地悪な笑い声が聞こえてきた。
「まぁ〜負けたのかよお前。懲りねぇなぁ」
厳格な武の修練を重ねる川神院において、そんな言葉遣いをする人間は一人しかいない。
見なくても分かる。
背後にいるのは川神院師範代、釈迦堂刑部だ。
「うわ出たよ……」
「人を妖怪みてぇに言うんじゃねぇ」
「妖怪でしょ、妖怪・酒おやじ」
「せめて、酒鬼って呼べや」
相変わらず昼間だというのに缶ビールを片手に、毎度のことのように負けた俺を揶揄いに現れる。
本当によく飽きないなこの人……。呆れながら、悪ガキのようなニヤけ面と片手の缶ビールを横目見る。
武の道を極めると言うことは、=品行方正と言うわけではないらしい。百代も然り。
武道と酒に溺れる生粋のダメ人間。こんなのでも壁を超えられるんだから、世の中分からないものだ。
それでも、達人の領域に辿り着くまでに、いったいどれだけの修練と努力を重ねたのか。それは想像を絶する苦境の行進なのだろう。
なんやかんやその道の先人であることには変わりなく、師範代に有難いお言葉を求める。
「何か必勝法とかないですか?」
「ンなもん俺が知りてぇよ!……けどまぁ、一つだけアドバイスくれてやる。とっておきだぜ?」
「なんすか?」
食いついた俺がそんなに面白いのか。釈迦堂師範代は、ニヤけた顔をさらに歪ませて声を潜ませる。
「こいつぁ、一度見せちまったら二度と同じ相手には使えねぇ。しかも周りに野次馬がいりゃあ、対策取られちまうマジもんの切り札よ」
切り札———。その魅力的なワードに興奮しない男はいない。
内なる男心を刺激され、耳を傾ける。
師範代は勿体つけたように一拍溜めた後、その秘策を俺に伝えてくれた。
まぁ……。結局、あまりにも限定的過ぎて最後まで百代相手に使えなかった戦法だが。
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ーーー
———ジェノサイドチェーンソー。
九鬼家従者No.零、ヒューム・ヘルシングの代名詞と呼ばれる即死の一撃。
……ただの蹴りである。
これを持ってして、九鬼家を脅かす数多くの敵対者や組織を断罪してきた。
……ただの蹴りである。
極限まで鍛え抜かれた肉体あっての、ノーモーションで繰り出される瞬殺の足激。
……ただの蹴りである。
反応することさえも容易ではない、それは見る者によっては落雷と見紛う。
……ただの蹴りである。
例外はなく、直撃して耐えられた者はいない。
……ただの蹴りである。
お仕置き用、断罪用、即死用と使い分けており、前二つは死んだ方がマシ。後者は本気で命を奪いかねないほどの威力を誇る。
……ただの蹴りである。
かつてはこの技を持ってして、若き日の川神鉄心と幾度雌雄を決したことか。
……要するに、ただの蹴りなのである。
(それが、この威力かよ……)
刀を握っている感触がない。確かにそこにあると分かるのに、腕が引き千切れ飛んだかのような錯覚に陥る。……ただの蹴りによって。
壁超えだとしても、ただの老人。……などと侮った気は毛頭ない。松永家に足を踏み入った瞬間から、いつでも全力の一撃を見舞える体勢と気概を持っていた筈だ。
しかし……。想像通り、想像以上だった。
予想を遥かに越える疾さ、威力。
危機察知を極限まで研ぎ澄ませていたのが功を成した。思考が攻撃を認識する直前に、身体が敵意に反応して刀を振るうことで、なんとかカウンターを決められた形になった。
まぁ、向こうは大したダメージではないだろうが。
(総代とライバルだって、聞いてたが……。こいつは、マジもんだな)
勿論、負けるつもりはない。
今もなお、思考は目の前の金髪執事に勝つ算段を構築しつつある。だが、ありとあらゆるパターンが蹴り一発で無に消すビジョンしか着地しない。
更に、腕を中心に走る痺れ……。雷の属性か。
いや、これは追加効果による痺れなのか、それともただの激痛が齎した麻痺なのか、判別のつかない気持ち悪さを感じさせる。
もし百代が喰らえば、瞬間回復の使用を困難にさせる作用もあるだろう。十分に武神を下せる実力を備えていると断言してもいい。
(戦法は基本的に蹴り一辺倒か……。たった一つの得意な一芸を極めた武道家。多彩を不要としたスタイルは、俺と同じか……)
今の一撃で理解した、実力も格上であると。
己の上位互換を前にして、剣士は笑う。
「俺があんたに勝てば、帰ってくれるか?」
「ああ、零位の俺が負ければこの場の誰よりも強いことが証明されるからな。そんな輩を相手にしては、他の連中は撤退するしかあるまい」
「そうかい。それだけ聞けりゃあ、十分だッ‼︎」
呼吸を整え、精神を集中させる。腹から練りあげた気を全身に巡らせ、自らの武を全開解放した。
小手先の技術は不要。
この相手には、長引かせればそれだけで負けに繋がる。一撃一撃に渾身を込めて、狙うのは瞬殺だ。
柄を握る両手に万力を込め、振り上げた刀を持ってして袈裟懸けの一閃を放つ。
相手が雷ならば、此方は疾風。初激からトップスピードで懐に潜り込み、その首筋目掛けて真剣を走らせる。
確実に必勝のルート。直撃する———そう思っていた全身全霊の一振りは、掠りもすることなく空を切った。
一瞬よりもさらに早い。見逃すはずもない存在感が視界から消えたと同時に、腹部に衝撃が走る。
速度は光。質量は鉄塊。意識と肉体を乖離させる感触に、ああ、切り倒される木ってこんな感じなんだな……。とチェンソーを連想させられた。
再び剣士は吹き飛ばされる。
意識が一瞬飛ぶほどの威力に視界が暗転する中、驚くほど冷たい男の声が嫌に耳にこびり付く。
「いたずらも大概にしろよ、餓鬼」
(……なるほどな……これが零位かッ)
ボールのように蹴り飛ばされ、地面に転がり落ちながら、敵の強さを冷静に推し量る。
胸中に抱いた率直な感想は、実にシンプルなものだった。
強い、なんてものではない。水城ユウが今まで戦ってきた、どの相手とも次元が違う。
百代の実力を例えるなら、底なしの才能。
対してヒューム・ヘルシングの実力を例えるなら、頂点の見えぬ聳え立つ山。
才能だけに胡座をかくことなく、それを研ぎ澄ます鍛錬と修羅場の数々を詰み重ねてきた。
武道家としての経験値が、違いすぎる。
だが、そんなことは百も承知。
それでもと、再度刀を握る手に力を込めた。
実力差のある相手との勝負なんて、いくらでもしてきた。そんなのいつものことなのだから、今更知ったことじゃな———
「ほほう、二撃目も耐えたか……。いいだろう、それでは三度目の正直と行こう」
雷と共に、ヒュームは既に剣士の目前へと肉薄していた。しかも、攻撃体勢は整いつつある。
片足を大きく振り上げる姿勢は、さながら天から落雷が堕ちる数秒前を彷彿とさせた。
「上……等ッ‼︎」
一切の躊躇もなく、真っ向から立ち向かう。
踵落としが放たれようとしている残りコンマ数秒の中で、地面を踏みしめたユウは即座に一歩前に踏み込んだ。
蹴りが届くよりも先———繰り出した一刀の間合いがヒュームを捉えた。
(この餓鬼、俺の動きを……!)
一芸特化は、あらゆるモーションから必殺に昇華させられる利点があるが、それ故に軌道を読みやすい。
自身も同じタイプであるからこそ分かる欠点。
交差する双方の一閃。ほぼ同時に地面が砕けた。
互いに蹴りを繰り出し、斬撃を叩き込むという工程を経た上で、両者は鍔迫り合いへと移行する。
刀と足裏の衝突は、金属同士のぶつかり合いを想起させるほどの衝撃を生み出していた。
力のせめぎ合いは空気を圧縮され、火花が、雷が、風が、嵐となって吹き荒れる。
維持される拮抗状態。一刀と蹴りが交わるという極めて稀な状況は、一歩間違えれば均衡はどちらか片方に傾く。
それは自分さえも例外ではないにも関わらず、ヒュームの余裕に満ちた表情は崩れない。
「どうやら、百代に勝利して天狗になっているわけではないらしい。だがお前が見ている以上に、世界は広いッ」
鍔迫り合う脚が、光を宿す。
ピリピリッと音を立てたと思うと、生じた変化は雷鳴を呼び寄せた。閃光と轟音、そして光速で駆ける脚が視界を埋め尽くす。
圧倒的速度で放たれたヒュームの雷を纏った蹴りが、生意気な小僧を強引に押し込み吹き飛ばした。
初激と二撃目とは比較にならない威力は凄まじく、地面を砕きつつ数十メートルも突き進んでようやく停止した。
相手の体力を度外視した落雷が、容赦なく身体を感電させる。その目の前に、まるで何事もなかったかのように着地し、ヒュームは倒れた餓鬼を見下ろす。
「大口を叩いた割にもうグロッキーか?赤子は泣くのが仕事だぞ?それとも悪ふざけを後悔した、ただの幼児か?どっちだ、お前は?」
「あんたも大概、口が減りませんね……」
投げかけられた挑発に、ユウは悪態を吐きながら立ち上がる。
刀を突き刺し、それを支えにし。見れたものではない醜態でありながら、未だその顔には生意気な笑みが張り付いていた。
「そんなにイキっといて負けたら、一生の恥ですよ?」
「ふっ、負ける気で戦場に立つ者などおるまい」
帯電した脚が、大地を踏み砕く。
———ここまでが前座、本番はここからだ。
既に満身創痍と言っても過言ではない相手に対して、ヒュームはその力を惜しげもなく解放した。
若者に対して使うには勿体無い、最強と呼ばれるに相応しい全力を見せつける。防御など上から押し砕き、意識を刈り取る威力。
速度はもはや人間の知覚できるものではなく、常人には認識することすら叶わないだろう。
だが———見える。
迫る死神の鎌を、ユウは正確に捉えていた。
放たれる殺気、モーションから繰り出される攻撃のタイミングを予測し、そこへ反射的に斬撃を放つ。
またしても金属音が響き渡り、二人の距離が開く。今度は先程の様に追撃はなく、互いに睨み合ったまま沈黙が流れた。
(なるほど……。やはりただの餓鬼ではないか)
必勝を確信した蹴りが防がれた。
それは偶然や奇跡などではない。弾かれた脚に、痛みという実感を感じられるのがその証拠だ。
肉体を蝕む麻痺も激痛も凌駕した極限の集中が、稲妻に等しい神速に確かに反応したのだ。
それは紛れもない事実だった。
災害に等しい理不尽な暴虐を前にして、大抵の相手はなす術なく崩れ去るのがいつものこと
だがこいつは、この短時間の中で打ちのめされながらも自身の速度に食らいつきつつある。
壁を超えた更に先、自分や川神鉄心のいる領域に踏み入れようとしているのだ。
その事実に、ヒュームは驚きはしない。己の中に存在する餓鬼への評価を、一段階引き上げる。
心底気に入らないが、この男もまた水城ユウという武士の実力を認めていた。
『マシな赤子がいるようだな』
『ほほう、気付いたようじゃな。モモのライバルの水城ユウじゃ。中々の有望じゃぞい』
『ライバルか……。の割には連敗のようだが?』
『それでも立ち向かっていくのがユウの良きところよ。お主の若い頃によう似とるわい』
『……おい、何故そのような話になる』
『ほっほっほ、自覚がないのかの?外見じゃ無くて中身がの……』
ほれ、と。幾度も雌雄を決したかつての宿敵は、心底愉快に笑って指を示す。
そこには、一心不乱に刀を振り続ける少年の背中があった。
『人の話をロクに聞かず、自分を押し通すとこ』
気を高めろ、血を沸かせろ、細胞を奮い立たせろ。決して折れぬ闘志が、勝利への渇望が、背中を押して力を振り絞る。
水城ユウはいつだってそうしてきた。
百を超える敗北も、噛み締めた土の味も、鮮明に思い出せる地面の感触も、その悔しさも。
全部全部、糧にして這い上がった先で届いたあの時の刃の感触を思い起こす。
朧げな、しかし確かに実感のある勝利の記憶。この思い出だけで、どんな敵を前にしても弱音を吹き飛ばしてくれる。
こうして、今ここに立っていられるのだ。
「ふぅ……」
深く息をつき、再び刃を構える。
貧欲な衝動に身を委ね、ユウは勝利に向かう一歩を踏み出した。一撃に込める力を倍加させ、肉薄する刀のスピードを加速させる。
迎え撃つヒュームとの攻防は相変わらず防戦一方だが、それでも最初よりまともな戦いの形となっていた。
剣撃と蹴撃がぶつかり合い、火花が散る。荒れ狂う余波で周囲の木々が激しく揺れ動き、大地が抉れる。
二人の攻防は、人の領域を遥かに超えていた。
第三者の介入を許さぬ領域の中で、攻防は止まらない。いや、止まることができないと言った方が正しいだろう。
一度でも停止すれば、麻痺している痛みと疲労が一気に押し寄せてくることを、ユウは理解しているからだ。
今は、この勢いに酔いしれている状態を維持して駆け抜ける。
対百代のために鍛えた無尽蔵のスタミナ。それを発揮し、いうなれば今の水城ユウは暴走機関車だ。
疲れ知らずに暴れ続ける小僧の戦い方に、ヒュームは眉を顰めていた。
(間違いない、追いつきつつある……。この短時間で俺のスピードに)
格下であるはずの餓鬼ががむしゃらに振り回す剣が、この首に到達しうるという確信。
刃を交わす度に鋭さを増していく剣技とスピード。ついには、蹴りを捌いて一撃を届かせるにまで至る。
徐々にではあるが、動きが追いついてきている。
その速度は水城ユウの本来の限界を遥かに超え、人間が到達し得る極限まで高められていた。
しかし、それでも“最強”には届かない。
「ッ⁉︎」
貫くような電流と蹴りを掻い潜り、遂に鋒が皮膚に届きかけたその瞬間、ユウの視界に不敵に口角を上げたヒュームの顔が映った。
刹那、腹部に強烈な痛みと衝撃が走り、視界が暗転する。凄まじい速度で放たれた一撃が胴体を捉えたのだと気づくのに、数秒もの時を有した。
攻撃に全霊を傾けたせいで防御にまで意識を割く余裕が無くなっていたのが原因だろう、気づいた時には呆気なく吹き飛ばされていた。
鮮血が舞い、身体が宙に浮く感覚を覚え込まされながら、アスファルトへと叩きつけられる。
身体が熱い。全身ではなく、頭と腹部が重点的に。その箇所が燃えているかのように、激痛という熱が身体を焦がしていく。
「年甲斐もなく本気になってしまったな」
彼にしてみれば、ここまで怒りを覚えるのは珍しい事だった。それ故に、手加減などと言う生温い考えは吹き飛び、ただ目の前の敵を葬ることのみにシフトした。
「最初の三発を喰らったのが効いてきたようだな。集中のしすぎだ、視野が狭まってきている。そしてなにより———身の程知らずであることが、お前の敗因だ」
「勝手に、決めんな……‼︎」
上から目線の指摘にユウは、背筋に絡みつく敗北の予感を振り払い立ち上がる。
腹部の出血は酷く、呼吸は荒く、視界もぼやけている。それでもなお、二つの瞳はしっかりと色を失わず闘志を宿らせていた。
「まだ立つか、中々根性のある小僧だが……。大人は忙しいのでな、これで最後とする」
空気が乾燥し、風向きが変化する。
あらゆる流れが、一人の男を中心に回っていた。
ヒュームの気勢に呼応するように、彼の身体中から黄金の闘気が迸る。夜の街が昼と変わらぬ光に包まれ、一個人の存在を誇示する。
百戦錬磨の戦士が、全霊をもって相手となろう。この一脚こそ、最強を名乗る男が誇る必殺である。
故に、加減も慈悲もない。相手がどのような状態であろうと関係ない、本気で仕留めにかかる。
これこそが、見込みのある若者に対する———
「餞別だ。受け取れッ」
「やだねッ‼︎」
黄金を帯びる脚から繰り出される、神速の蹴り。まともに受ければ間違いなく敗北が決定する脅威に向かって、ユウは躊躇なく駆け出した。
一直線、相手に回避運動はない。
ありとあらゆる対応も策も、全てを串刺しにする渾身の一撃を、真正面から迎え撃った。
「…………バカが」
愚策も愚策。真剣を突き出す若者の無謀さに、失望を隠さぬため息を吐き捨てる金髪の老執事。
期待していたからこそなおのこと、その失意は計り知れないものだった。
「その刀は——————限界だ」
交差する銀光と金光、同時に刀身が砕け散った。
人智を超えた攻撃を幾度も受け続けた日本刀は、とっくにその強度の限界を迎えていたのだ。
キラキラと、破片が夜の闇に舞い散る。刃を失い、その柄だけが侍の手に残される。それは同時に、若者の敗北を決定づけた。
無情にもヒュームの脚は止まらない。今度こそ、確実に意識を刈り取るべく頭部へと終幕の一撃を振り抜く。
終わった———誰もが、ヒューム・ヘルシングの勝利を確信したその瞬間を———彼女は知っている。
「あ……」
止まった時の中で少女は声を溢す。
同じだ、これはあの場面の再現だ。
この場にいる全員が、水城ユウが勝利するなどと微塵も思っていない。
そんな孤軍奮闘の中で、あらゆる確信、下馬評を真っ向から覆した瞬間。
奇跡でもない、まぐれでもない。
絶対に勝つ。そう確信した勝利を掴んだ栄光の姿を、少女は知っていた。
———なに?
その予感は現実のものとなる。
突如、ヒュームの身に襲来した違和感。
起こりえるはずのない衝撃が腹部に発生し、波紋となってじわじわと全身に巡っていった。
それは斬撃ではなく、打撃。
確かに餓鬼の頭部へトドメを喰らわせたはずが、それよりも疾く、硬く握り込んだ右拳がヒューム・ヘルシングの腹部に叩き込まれていた。
刀を無くし、ならばと切り替えた最終の一手。
『戦いの最中に、戦法を切り替えてみろ。いつもの刀からなんでもいい、別の戦闘スタイルでな』
『……それだけ?なんか効果あるんですか?』
『あるんだな〜、これが。先入観ってやつは厄介でなぁ、拳で来る!と思わせて実は蹴りでした!ってな。ハマると相手のペースを崩せる。上手くいきゃあノックアウトよ。度肝を抜かれた奴の表情ときたら、爆笑もんだぜぇ?』
だがこれは、初見だからこそ有効な手だ。相手に刀以外の選択肢があると、悟らせてしまったら意味を成さない。
これまで長年刀一本で戦ってきたからこそ、拳という選択肢は出ないと相手に擦り込ませてきた。
百代にも、百代以外にも。
刀が限界なのは知っていた。
だから囮に使った。
武器を失った以上、もう戦う術はない。
そう思わせて、本命の拳を叩き込むために!
川神院に入門した時、剣よりも一番最初に教わった川神流の技———
「川神流……無双……正拳突きッッッ!!!」
人生で一度のジョーカーを切る。
これまでカウンターか鍔迫り合いでしか触れられていなかった、まともなクリーンヒットが炸裂した感触を、遂に肌で実感するのだった。
……だが、それを噛み締める余裕は今はない。
目の前の老執事の顔から、笑みが消えたからだ。
「……遊びすぎたな」
フンッ!と腹筋を中心に瞬間的に力を集束させ、抉り込んでいた拳を弾き飛ばす。まるで巨大なゴムの壁のように、硬いだけでなく衝撃を弾く弾力を持ち合わせた筋肉だ。
さらに、受けたダメージをも強引に殺される。
確実に不意をついた。まさか直撃を喰らうとは想像だにしていなかっただろう、絶対的強さ故の慢心を狙ったはずだ。
だが、ヒュームは言ったはずだ。
その程度で勝てるほど、世界は甘くない。
「執念は見事と言わざるをえない。認めよう、一人の武人として……。だが、一発は一発。たかがそれだけで———」
ダメージは大きいが、戦闘不能には至らない。
闘志が表情にも現れ、鬼気が迫る。
再び黄金が纏われる。閃光のように駆け抜け、稲妻の速さで獲物を狩り、瞬く間に勝利を掴む。
ヒューム・ヘルシングの勝利は揺るがな———
「満足するわけねぇだろぉぉぉぉぉぉおお!!!」
その確定された勝利という運命を、ぶち壊すために水城ユウはここにいる。
たかが一発喰らわせた程度で、勝てるなどと最初から思ってはいない。ダメージが殺されるのも予測済み。
こちとら、何千発もクリーンヒット喰らわせようが回復してくる女と何十年もどつきあいしてきてんだよッ!!!
肉薄のタイミングに合わせて、懐に飛び込む。
刀は無く、身体も満身創痍。今の体勢で攻撃できる手段など、ほぼ限られてくるだろう。それでもなお、獲物を確実に狩れる決定的な瞬間を作り出した。
この日初めて……。というよりかは数年振りに、最強の執事は対処のモーションを強いられる。
が、後の祭りだ。
対処する者と、予測していた者の決定的な動作の差が明確に現れた。ユウの方が一手早い。
右手を振りかぶり、再び無双正拳突きをあの土手っ腹に叩き込む……のではない。
今度は、拳ではなく斬撃のモーションに切り替える。全体重が乗った逆手斬り、黒い一閃が、新品同然の燕尾服を斬り裂き赤色のアクセントを刻むのだった。
その光景を目にした李が、あ……。と声を溢す。
あ〜。とステイシーが苦笑いを浮かべる。
お前……。と、あずみが李を睨む。
全く……。と、クラウディオが額を抑える。
刀を失い、瀕死の身一つしか残されていないと思わせた最強を切り裂いた黒い凶器、それは紛れもない苦無であった。
川神院から持参してきたものではない。
李静初が、ユウに松永家の危機を伝えるために投げた忍び武器が、序列零位の左肩から右の横腹にかけて、大きな鮮血の一線を刻み付けた。
長い長い武道家としての人生における、片手で数える程度しか負ったことのない致命傷。それを、まだ二十にも達していない若造が負わせた。
止めどなく鮮血が流れ、鬼の仮面に亀裂が走る。
そして……。
「く、ククククッ……。ハーッハハハハハ‼︎」
高笑いが、川神の夜に轟いた。
誰もが耳を疑いたくなるほどの、腹の底から絞り出した大笑い。まるで、この日を待ち望んでいたかの様な反応を見せる。
無傷ではなくなかった致命的な深手にも関わらず、傷なんて度外視して腹を抱えて笑い続けている。
そのあまりにも常軌を逸した様子に、
「残りの気ィ、全部込めたつもりだったんだけどな……。余裕見せやがって……!」
ユウは警戒を強めた。
残った体力と気をこの苦無に詰め込んで放ったというのに、それほど致命的になっていない。
肩で大きく息をし、膝は今にも崩れそう。闘気も体力も底を尽きたユウには、もう戦う力は残っていない。
しかし……。それでも未だ闘志は燃える。まだ戦えると言わんばかりに、苦無を握りしめた。
戦いは未だに決着はつかず。
追い討ちをかけるように、攻撃態勢を取ったユウに対してヒュームも迎撃体勢に移る……。が、次なる動作は中断される。
「そこまでだ!両者、その手を下ろすのだッ」