風間ファミリーの、“呪い”を解きます
いつぶりだろうか。こんなふうに、仰向けで空を見上げるのは。確か去年のキャンプで、風間ファミリーと森の中で星を眺めた時だったと思う。
あの時は自然の夜風が気持ちよくて、そのままみんなでテントに戻らず眠ってしまった。それで卓也が風邪を引いて……。
それ以外にもよくあった。こうして夜空を見上げて、風に触れる一時。……だが、負けて空を見上げるのは初めてだった。
「負けた。そうだ私はユウに負けたんだ」
噛み締めるように呟く。
これで何度目か。呟きすぎて口がすっぱくなっているが、まだまだ言い足りなかった。
なのに不思議と、嫌な感じはしない。記念すべき初めて。それを奪ったのが愛する男だなんて、これ程嬉しいことはない。
しかもその勝者は、試合が終わって闘技場から出る際。百代の横を通り過ぎ様に、
『262戦、261敗1勝だ。次も俺が取るぜ』
……っと、言い残して去っていった。
一度勝っただけで満足などしていない、次もこの武神に勝つ気でいる。
ちょっと待て、かっこ良すぎか?このまま抱いてくれっ、て言いたかったぞ。
だが、それはできない。
約束だからだ。
「あーやっちまったなー」
ため息と同時に後悔を吐き出す。
星の数ある勝利のうち、この戦いで負けてしまうなんて。とんだチャンスを逃したものだ。
そう、川神百代には計画があった。
長年積もらせてきた、水城ユウに対する恋心。
どれだけアピールしても、あのバカは気づくどころか負け続きな自分を揶揄っているなどという勘違いをする始末。
そこで百代は考えた。
だったらもう実力行使しかない。
……それに、焦りもあったし。
この試合で勝てば相手を好きにできる。その約束を取り受け、勝利し、強引に行為に及ぶ……その筈だった。
「それで負けちまうとか、勝負運なさすぎるだろ私」
そのお陰で、嫌がらせはやめろというユウの約束を守らなければならなくなったのだ。
負けるだなんて微塵も思っていなかったというのに、ここぞという時に勝利を逃してしまうとは。
……それなのにどうしてか。百代の中には、思った以上にショックを受けていない自分がいる。
いや、悔しいのは事実だ。なんだったら今も、この河川敷の向こう側に向かって、チクショー!と叫び出したいぐらいには。
それ以上に、疑問が武神と呼ばれた女の胸中を占めていた。若干の清々しさすら感じている。
なんだろうか、この違和感は。
何か大切なものを忘れている気がしてならない。
ソコにあった筈なのに、今は埋もれて見えなくなってしまったもの。それを掘り起こそうと、必死で頭を回転させる。
「そもそも、どうして私は負けたんだ?」
勝てる試合だった、いつものように。
あの星砕きを当てた時点で、いつものように。
そして勝利の確信に気が入ってしまった。
やはりあの時の油断が、試合の勝敗を分けた決定的な一太刀を許してしまったに間違いない。
水城ユウが川神百代に勝てるわけがないと、その前提で出した約束。
勝利の先にあるご褒美タイム。
勝って当たり前、そして愛する男をモノにするという考えそのものが、敗北に繋がったのではないだろうか?
「諦めていたのは、私の方か?」
どうせ勝てるわけがない、水城ユウはそんな周囲の言葉に晒されながら修行を重ねてきた。
そんな、血の滲む努力の味を知らない腑抜け共の無知さを百代は嫌い、ユウの諦めない姿に心惹かれた。
だが、もしかしたら……。自分もそんな無知な者達と同類だったのではないだろうか?
ユウは私に勝てない、だからあんな約束をした。
絶対に諦めないユウが、私に勝つことを私自身が諦めていたとしたら……。
「ッ、そうかそういうことか!」
戦いを楽しむ、挑戦を受け入れる。いつしかそれらが、男への恋慕と性欲に埋もれていってしまったのだ。
優先すべきはそこじゃないだろうが……。百代は掌で額を抑える。
ユウは戦い以外の全てを削ぎ落として向かってきたというのに、百代は戦いではなく、勝利を当たり前のものとして闘技場に立った。
心が、勝負の土俵にすら上がっていなかった。
己の欲を優先する戦い。かつて求めていた、血湧き肉躍る戦いと最も縁遠いものだ。こんなの、あいつが挑み続けた川神百代の姿じゃない。
合点がいくと同時に、ガクリと肩を落とす。
やっちまった、そりゃ負けて当然だ。寧ろ、こんな精神状態で戦ったライバルに申し訳無さが込み上げてくる。
真剣勝負だというのに、勝利した先しか見ていなかった。背負うべき“誠”の文字を裏切った百代は、既に敗北していたのだ。
戦いでも、そして恋でも……。
「お姉様ぁー!」
そんな百代の意気消沈した心に染み渡るような、元気いっぱいの声。
聞こえてきた声に顔を上げると、此方に全速力で駆け寄ってくる妹の姿があった。
ああ……そういえば、医務室から勝手に抜け出してきたんだっけか。
あの様子から察するに、街中探し回って来たのだろう。息を切らしながら、一子は姉の目の前で立ち止まると、膝に手を置いて呼吸を整えた。
そして上がった顔には、真っ直ぐに見つめてくる瞳に涙を溜めてうるうると震えていた。
「やっと見つけたー!医務室からいなくなっちゃうんだもん!」
「おぉ、妹よ!お姉ちゃんを慰めに来てくれたのか?かわゆいなー、ホントお前はかわゆいな〜」
「にゅわぁ〜!」
胸に飛び込んできた一子を、そのまま抱くように腕を回して頭を撫でる。
試合に負けた弱味を微塵も見せることはなく、強い姉としての姿で可愛がってやる。
そこへ更に次々と、
「姉さん!」
「モモ先輩!」
一子に続くように仲間達の姿が夜の闇から現れる。会場で観戦していた風間ファミリーも、百代の敗北に驚きを隠せず駆けつけてきたのだ。
一様に心配そうな顔をしている皆に、百代は呆れ、いつもの意地の悪い笑みを浮かべる。
仲間を心配させまいと、笑顔の裏に弱味を隠しながら。
「おーおー、どいつもこいつも。傷心中の美少女を囲むとは、お前らドSだなぁ」
「その割には、なんかスッキリしてるね」
「おお、分かっちゃうか弟よ。実はお姉ちゃん、今悟りを開いたところでな。全ての謎は解けた、って感じだ」
なんら変わりのないいつもの軽口に、ファミリーの面々は安堵する。
よかった、いつもの百代だ。
試合に負けても、こうして冗談を言えるだけの余裕が彼女にはまだある。だから皆もそれに合わせ、いつものように笑い返した。
「へへ、流石はモモ先輩だぜ。もう立ち直ってら」
「だから言ったでしょキャップ。心配するだけ無駄だって。だってあんな試合、モモ先輩の負けじゃないよ」
息をするような、さも当然と言わんばかりの京の一言はこの場を凍らせた。さっきまでのアットホームな雰囲気に包まれていた空気が、ピシリッと音を立てて静止する。
百代さえ笑顔のまま固まり、ファミリーのメンバーも目を点にしながら視線が京に集まる。
その異常な一言に最初に反応したのは、一子だった。姉の胸の中で、京の失言に声を荒げた。
「ちょっと京!それはさっき話し合ったじゃない!あの勝負はユウ先輩の勝———」
「やめてよワン子、そいつの名前は聞きたくない」
だが、それも遮るように京が口を挟んだ。一子の言葉は最後まで紡がれずに呑み込まれる。
そこには、いつものクール表情はない。嫌悪感を全面に出した辛辣な口調で吐き捨てた言葉には、確かな敵意が含まれていた。
「モモ先輩が負けるなんて、そんなの絶対あり得ない」
「そ、そうだよ……。みんななんかあの人を許してる雰囲気だけど、あんなのノーカンだって!」
京に便乗する形で、卓也も声を荒げる。
椎名京と師岡卓也。二人にとって風間ファミリーとは、聖域に近い存在として見ている。
それを構成しているのは、リーダーのキャップと、メンバーによる結束力。そして何より、武神・川神百代の無敗伝説にある。
それらを核としたグループなのだ。だからこそ、この敗北は二人にとって到底受け入れられるものではない。
風間ファミリーの絆が深ければ深いほどに、今回の出来事は亀裂となってみるみる大きくなっていく。
特にこの輪を神聖視し、内面的な二人にとってその反応は華奢だったと言えよう。
珍しく感情的な姿を、この場にいる誰もが知っている。
今でも記憶に新しい。かつて、メンバーに入ったばかりのクリスが秘密基地にて言い放った失言。
自分らの全てを侮辱され、踏み躙られ、憤怒にかられた姿だ。
それにしたって許す?水城ユウを許すとな?
「ねぇギャップ!ガクト!二人もそう思うでしょ?モモ先輩が、仲間がやられちゃったんだよ⁉︎」
縋るように、卓也が風間ファミリーの仲間達に同意を求める。この敗北を、自分達の手で拭い去らなければ。その使命感に突き動かされていた。
川神百代に好意を寄せる翔一に、イケメンを妬みいつも先輩に愚痴を吐いている岳人。
この二人なら分かってくれると信じて……。だが、そんな仲間達の反応は卓也が期待していたものではなかった。
「モロ、さっきも言ったろ。俺はこの両の目ん玉でしっかり見たぜ。あの勝負をノーカンなんていうのは、男じゃねぇ」
「先輩は嫌ぇだが、俺様も今回だけはキャップに同意だぜ。あの試合の先輩は、間違いなく俺様よりイケメンだった」
卓也の気持ちもよく分かる。
だがそれ以上に、彼らは“メンバーという集団”として怒るのでなく、“一人の男”であることを選んだ。
翔一は水城ユウがどれだけ強いかを、そして戦いにかける熱意を知っている。憧れとして、ずっとその背を見てきたのだから。
同じく岳人も。あれだけボコボコに打ちのめされても、諦めずに向かっていく男気には感服する他ない。嫉妬や嫌いなどの感情で捻じ曲げられるものではない。
それは、武人の目から見ても同様だった。
賛同するように、クリスと由紀江も頷く。
「自分も、ユウ先輩の剣には誠の侍を見た。それを侮辱するというのなら、たとえ仲間でも許せない」
「わ、私もです!ユウ先輩の剣技は本当に見事でした!間違いなく、正々堂々と真っ向から打ち破った先輩の勝利です!」
「そんな……」
訂正はしない。そんな彼ら彼女らの姿勢は、卓也にとって意外だったに違いない。細身なれど滲み出る怒りの感情も鎮火していき、言葉を失う。
だが、京だけは違った。
百代が負けたというのに、あんな男を擁護する風間ファミリーの面々に、彼女は憤りを顕にする。
「二人とも、新入りだからそんなことが言えるんだよ……私達が何年、モモ先輩の勝利を見てきたか知らないくせに!」
風間ファミリーが水城ユウを許すというなら、自分は絶対にそれを認めない。
どこ吹く風のように椎名京の大切な世界を踏み躙る異物を、許せることができなかった。
「あいつには……あんな奴にだけは負けちゃダメなんだッ……」
「でも私知ってるもん!」
それでもなお引き下がらない京の態度に、とうとう我慢ならなくなったのだろう。
一子は今にも泣きそうな表情で、声を荒らげた。
「ユウ先輩だって!お姉様に勝つために凄く努力してきたの、私一番近くで見てきたんだから!」
ユウは、川神院で住み込みで修行をしている。だからこそ、同じ釜の飯を食う川神一子はよく知っていた。
たった一人で素振りをする、兄弟子の背中を。
つい最近まで、その周囲には同じ志を共にする仲間がいた筈なのに。
仲間に裏切られる……。それはどれだけ辛いことなのだろう。
風間ファミリーという強い結束の中にいる一子にとって、想像できない痛みに違いない。
それだけは理解できた。
かける言葉が見つからなかった。
虚しい……。なんて虚しいのだろうと、一子は離れた場所でそれを見つめていた。
見つめることしかできなかったのだ。裏切られ、嘲笑され続けるそんな兄弟子の心を癒す言葉を、川神一子は持っていなかった。
「ワン子、いい加減にしてよッ……ワン子が一番悔しがってると思ってたのに!」
「悔しいわよ!お姉様が負けて悔しいに決まってる‼︎でも、だからってユウ先輩を否定するのは間違ってるわ!そういう京とモロだって、あの人のこと全然知らないクセに!」
「このッッッ……!」
———知らないし、知りたくもないよ。
———他人のことなんてッ!!!
一番傷ついているであろうと思っていた一子でさえ、この態度。彼女のため、仲間の為を思っての怒りだというのに、酷い裏切りだ。
なに?なんなのこれ?分からない……。どうして私が責められているのか。
やめて、そんな目で見ないでよ!
私達は風間ファミリーだよ?仲間なんだよ⁉︎
私は仲間の為に、モモ先輩の為に……!
輪が……世界が遠のいていく。
心地の良い理想が、向こうの方から京を追い出していくこの感覚。……覚えがあった。
忘れたくても忘れられない、忌まわしい過去。
インバイ、バイ菌……そして椎名菌と。周囲から異物として排除される幼い自分が———京の足首を握っていた。
「ヒッ……!」
思わずその場から飛び退く。
さっきまで自分がいた場所を見ると、そこには何もない。
幻覚……だった筈だ。間違いない。
それなのにどうしてか、足首に触れられた感触が残っている気がした。
恐ろしい……。恐怖が彼女を包み込む。
またあの頃に戻ってしまう。
……けど大丈夫、私には味方がいる。
そう、京は知っている。呼吸すらも苦痛な暗闇の中であっても、救いの手は差し伸べられることを。
過去を振り払うかのように、かつて自分を救ってくれた存在に縋り付くように。
風間ファミリーから、愛する人へ視線を移す。
「ねぇ大和、何か言ってやってよ」
「京……俺は……」
私を救ってくれた人。
光を見せてくれた人。
何よりも大好きな人。
だから今回も、私を救ってくれる筈。
「大和ならわかるでしょ?ね?あんなのマグレだって。じゃなきゃ、モモ先輩が負けるはずないよね?」
媚びた、そして甘えるような京の言葉。
瞬き一つなく、その目をじっと見て答えを待つ。きっと、その口からは自分の望んだ通りの返事が帰ってくるに違いないと。
そんな打算を前にして、直江大和は口を噤んだまま何も答えない。いや……答えられなかったのだ。
川神百代の敗北。それをどう見るかという風間ファミリーの争いの中、彼はその輪から一歩引いていた。
仲間である筈の彼らに同調できないでいる自分に対しての疑問と、そして後悔の念。
信じられない……。俺だって、信じたくない。
あの最強の姉さんが負けただなんて……!
何せ、一番近くで見てきたのだから。
川神百代の勇姿を、その強く美しい生き方を。
舎弟として、いずれ追いつき隣に立つべく。
ずっと、一番近くで見守ってきた。
だが……。
「負けだ……。負けだよ京、完敗だ」
期待とは大きく反した言葉を口にした。
まるで、鈍器で頭を殴られたような感覚に、京の顔が一瞬で凍りつく。開いた瞳孔には、困惑と絶望の色が滲んでいた。
大和が肯定している……?あの男を?なんで……どうして?思考が上手く纏まらない。受け入れ難い現実に、目の前が真っ暗になっていく。
そんな京に宥めるように、大和は言葉を続ける。
「俺は、全部見た。燕先輩に言われた通り、姉さんとあいつの決勝を……見たよ」
あの人の言葉がなければ……どーせ今回も姉さんが勝つだろ?と、先入観に闘技場から目を背けていた。きっと、勝敗の瞬間を目にしていなかっただろう。非効率と見下してきた男の刃が、最強という二文字を斬り裂いた光景を。
脳裏に浮かぶ、水城ユウと川神百代の試合。
これまで何百と繰り広げられ、それを瞳の隅で収めてきた。
集中して観戦するようなものではない。試合が終われば「あ、姉さん勝った?」と席を立つ、それがいつもパターンだった。
だから今日、大和は初めてちゃんと見た。
最後まで見届けたのだ。
それはまさに、次元が違う戦いだった。
剣戟がぶつかる度、会場に暴風が巻き起こる。吹き飛ばされないように必死に堪えながら、その闘いを目に焼き付けようとした。
それ程までに、凄まじい試合だったのだから……。俺にはできない、踏み込むことは出来ない世界を見せつけられた。
そして、気づいたのだ。
カッコ悪いのは俺だった……。
「……どうして、何であいつの肩を持つの大和⁉︎」
蒼白した京が答えを求めてくる。
あなただけは、味方をしてくれると信じていた。
肩を掴み、声を荒げる。
そんなはずはないと訴える、かつて自分が救った少女に……大和はそっと手を重ねた。
「俺だって、姉さんが負けたなんて信じたくない。けど、これが現実だ。俺達は、きっと……酔ってたんだ」
川神百代の強さに……。
自分の賢さに……。
風間ファミリーの結束力に……。
若さからくる、根拠のない全能感に酔っぱらっていたのだ……。成功と勝利の美酒に飲まれて、それがブクブクと空虚なプライドを肥大化させていった。
成功と勝利の風間ファミリーが正しい。
挫折と敗北の水城ユウは間違っている。
自分とは正反対の存在を断じ、認めてなるものかと躍起になった。だが、それは間違いだったと悟る。
あの光景を見てしまえば、嫌でも思い知るだろう……。今、直江大和は現実を分からされた。
絶対に覆ることのない武神の敗北が、これまで積み上げてきた“正しさ”を崩壊させたのだ。
水城ユウという人間が、どれほど遠い場所にいるのかを。そして、その領域に至る為にとどれだけの苦難を乗り越えてきたか。
俺には、直江大和には出来ない。
勝手にライバル視して、
勝手に勝者を気取って、
勝手に見下して、
勝手に可哀想と同情した。
その全てが間違いだったと理解した時、漸く気づいたのだ。俺は土俵にすら、上がれていなかった……。
まず、あの男は俺なんか眼中にない。
いつだって、“勝利”だけを見て突き進んできた。その外野で俺がしてきた全ての出来事が、あまりにも滑稽に見えて……。
「笑えるよな、京……今、俺は……自分が恥ずかしくて、たまらないんだ……」
「やま、と……?」
「あぁ……くそッ、ちくしょう……何で気づいた時には全部遅いんだよ……!」
自虐の言葉が止まらない。
惨めで悔しくて……けどそれも全部、自分の弱さからきているんだ。何もかもが甘かった自分が悪いのだと現実が殴りつける。
こんなので、川神百代の隣に立つとか……!自惚れていた自分が、それがなによりも許せなかった。
涙が込み上げてくるのを必死に堪える大和を見て、京は何も言えなかった。
ただ無言、静寂だけが流れていくのみ。
夏場だというのに、風間ファミリーのいる周囲のみが急激に温度が下がっていくようだった。
肌寒さに鳥肌が立ち始めた、その時だ。
「そうか。よし、みんなの気持ちはよくわかった」
こんな空気を、彼女はいつもぶっ壊してきた。
高まっていく仲間達の言い争い、信じて疑わなかった信頼の亀裂に、静かに見守っていた当事者は、漸くその口を開く。
風間ファミリーに渦巻く葛藤を見抜いたのか、「ったく、仕方がないなぁ」と溜め息をついて呆れ笑う。
それはどこか納得したような、何かを受け入れたかのように目を閉じて小さく頷いていた。
百代はその手を握り拳に変えて……自らの右頬を思い切りぶん殴った。
ドゴッッッ!!!骨と骨のぶつかる鈍い音。いつもお仕置きなどで落とした拳骨よりも、強烈な一撃だ。
祖父の仕置き、揚羽の拳、ユウの斬撃等といった強者達の攻撃を幾度も喰らったことはあるが、己自身を殴り殴られるのは初めてだ。
しかも、気による防御はない。無防備に叩き込んだ一撃は、我ながら気を失いかねない威力であった。
「お姉様、何をッ⁉︎」
誰もが羨む尊顔が腫れ上がり、歪んでいる。
切った口から血を流し、痛みはどこまでもどこまでも深く、魂にまで突き刺さる。
だが、それでも百代の気丈な姿勢は変わらない。寧ろその目は、輝きを増すばかりだった。
「これは私自身の戒めだ。勝って当たり前……。それは私だけじゃなく、お前らにまで“呪い”になっていたようだな」
戒め。……そう刻んだ傷は、瞬間回復では治らない。今は気が空っぽなのもあるが、全快でも治すつもりはない。
自然治癒に任せ、痛みと共にこれまでの己を一新させるための儀式なのだから。
「お前らよく聞け。あの試合、私の負けだ。私が弱かったから、ユウに負けた。それが事実だ!」
ファミリー全員に、大きな声で言葉を送る。
最強と信じた仲間の敗北、結束力の高さからくる負の感情。それら全てを飲み込んで、武神は謳う。
「みんなの気持ちは受け取った。だが、死に物狂いで勝ち取った漢の勝利を否定することは私が許さない。なぁに心配ない。たった一度の敗北で挫ける私ではないさ」
今まで甘やかされてきたツケが回ってきたのだ。
勝って当然と染み付いていた感覚が敗北につながった。我ながら情けない!と、笑い飛ばしてみせる。
ならば心身共に鍛え直すまで。そして強くなるのが武人として当たり前の在り方だ。
普段と何も変わらない。どんな脅威も拳一つでぶっ飛ばす、いつもの川神百代の姿がそこにあった。
誰よりも何よりも強い。夜だというのに、後光さえ見せる胸を張った堂々たる様に、京も卓也も渋々と納得せざるおえなくなる。
そう、これが川神百代なのだと。
「お姉様、なんだか嬉しそう!」
「当たり前だ。私が惚れた男は、私より強い男なんだからな。ふっふっふ、ますます惚れ直したぞ」
拳は強く、心は熱く。水城ユウへの恋心は、薪を焚べたように益々強く燃え上がる。
その瞳は熱い情愛の炎によって、ギラギラと光を増していた。
「しかしまぁ、今はよそう。ある意味、この感情が敗因だからな。疎かにしていた精神修行もして、一から鍛え直しだ」
反省点はいくらでもある。恋を優先するよりも前に、今の自分にはやらなくてはならないことが多々ある。
己の弱さと愚かさを徹底的に叩き直すことだ。
再び、捨ててしまった誠の文字を背負い、それに相応しい女にならなければいけない。
それが出来なければ、私は一生このままだ!百代はそう心に誓いながら、痛みと血の味を噛み締めた。
「おおおおおお!待ってろユウ!次は私がかぁーーーーつ!!!」
月夜に向かって、猛獣は吠える。
勝負も恋も私の負けだ。
だからこそ、一から鍛え直しだな。
敗北、故の新たな武神伝説の幕開けとなる。
それは何も、百代だけの話ではない。
「おらぁぁぁあ!大和!京!モロ!走るぞ!」
「キャップ!?」
「ちょ、どうしたって言うんだよ!」
リーダーである風間翔一も、百代に習い突如として走り出した。意気消沈している大和に、未だ若干納得がいっておらず、表情に影を落としている京と卓也の手を掴んで。
それに驚く仲間達を他所に、 三人を引っ張って風の男は全速力で駆け抜ける。
「まだ納得してないんだろ?胸の中にモヤモヤが残ってるんだろ?だったら走るぞ!いくぞお前らぁ!」
「ああ……ああ!そうだな!走る!俺も走るぞキャップ!」
「えぇ!?何でそうなるのさっ!」
最初は困惑していた大和も、同じくして走り始める。それはまるで、過去を振り切るように。水城ユウ、彼に嫉妬していたかつてのイケテない自分を振り払うかのように。
その瞳孔は震えていた。しかし、迷いはない。
「立ち止まってるだけじゃダメだ!いつまでも俯いてるままじゃ、進めない気がする‼︎あぁ、もう走りたい!なんか言葉では言い表せないけど、今はとにかく身体を動かしたい!」
そしてそれは、大和だけではない。
他のメンバーも同じ気持ちだったようで……。皆んなは顔を見合わせると頷き合い、同意を示す。そしてそのまま百代の、翔一の、大和の後をついていった。
「待て待てぇ!俺様も走るぜ!あの試合見ちまったからには、筋肉が疼いて仕方ねぇ‼︎」
「なになにぃ?みんなで競争?負けないわよぉ!」
「それはこっちのセリフだ犬!自分も走るぞ!」
「え、ええっと……そんなに叫んで走ったらご近所に迷惑では……ひゃ!?」
「街は今でもお祭り騒ぎだ!それに、騒がしくない日なんて、川神らしくないだろまゆまゆ?私も身体鍛えたいからなぁ、行くぞぉ‼︎」
風間ファミリー、全員参戦。
少年少女は夜の川神を走り行く。
あの星々に向かって、その拳を掲げて叫ぶ。
この夜、いつになく川神は賑やかだった。
風間ファミリーが駆ける足音と声。そして、それを見守るように輝く月光だけが、静かに優しく照らしていたのだった……。
俺はいつか、もう一度姉さんに告白する。
結果なんて分かりきってる。
でも、じゃないと俺は進めない気がするんだ。
今更自分磨き?身体を鍛える?遅すぎる……。
カッコ悪い、カッコ悪過ぎる。
でも、それでいい。
いつか、自分が納得できる自分になるまで。
俺は走り続ける、あの先輩のように。
そう、誓ったんだ。
「ほら京!もっと早く走るぞ!俺よりも足早いだろ?」
「う、うん!」
想い人に手を引っ張られる。驚きにもたついていた彼女も、自分のペースで足を動かし始める。
なんだろう、不思議な気持ちだ。あんなにもこの胸に燻っていた黒いナニカが、過ぎ去っていく感じがする。
彼と、同じ方向を向いて走っている。それがなんだか嬉しくて……京は自然と笑顔になっていた。
そんな二人を見て、卓也も負けじと走り出す。
足取りは軽く、どこまでも駆け抜けられる気がした。
あ、今になって気づいた。
足首を握られている感覚が、消えていることに。
恋と性欲で暴走した性根を、敗北することで無理矢理改善させる
百代が、ユウが自分以外の女とくっつくことを受け入れるのはこれしかなかった
そして風間ファミリー
彼らが一歩を踏み出すには、絶対と感じていた百代の敗北しかないと思いました
小さい変化ですが、少しずつ変わっていくはずです
そして次回!お楽しみに!
…漸くイチャイチャ書ける