武神、敗れる。
決して脅かされるこはのないと思われていた最強の座が今日この日、覆された。
この結果は、武の世界に生きる者達の脳に、かつてない閃きを走らせることとなる。その閃きが齎した衝撃は、武士の血を多いに激らせるのだった。
歴史が変わる。世界を震撼させる大ニュースは、瞬く間に全大陸へと広がることだろう。
既に川神の街はその話題で持ちきりだ。
あるものはこう言う。
『嘘だ!まぐれだ!』と。
あるものはこう言う。
『おめでとう』と。
あるものはこう言う。
『未だに信じられない』と。
否定、肯定、祝福、賛美、考察、驚愕……。誰もが確信していた予想を覆した勝利者、水城ユウは良くも悪くも有名人だ。
武神に負け続きの懲りない挑戦者。長年そう言われ続けたライバルは、その研鑽の果てにある頂きへ遂に到達した。
川神を取り巻く世界は今、たった一人の青年の話題に数えきれない程溢れていることだろう。
新たな最強の座に君臨した剣士。
俄には信じがたいものの、事実として受け入れなければならない。そして事実を受け止めるためには、動かねばならない。
かつてない興奮が地球を満たす情勢の荒波の中で、それとは異なる別の小さな勝敗が今、決まろうとしていた。
「あっという間だったなー」
若獅子タッグマッチトーナメント準優勝者、松永燕は夜空の真下で一人声をこぼす。
場所は、歴史に残る瞬間が生まれたトーナメント会場。あれだけ人々が密集し、万人の声に溢れ返っていた会場が、今ではとても静かだ。
人っ子一人いない。誰もが驚愕と感動を胸にこの場を去り、今では生き物の気配は一切しない。
未だに残る戦いの余韻に浸る。
瞼を薄く閉じ、思い返すはこれまでの連なり。
再び家族と一緒に。その想いで歩んできた道。
そして巡って来た九鬼からの依頼。
全てを変える大チャンスが故の、成功を絶対のものにするべく近づいた男の子。
彼との出会いが、燕の全てを変えた。
利用から同志に、同志から興味に、興味から……憧れに。いつしか目が離せなくなった男子とのこれまでの日々。
とても楽しかった。本当に、心の底から。
彼との思い出の一つ一つは幸せで、何気なく交わした言葉や仕草まで、起想するだけで胸が熱くなる。
だからこそぶつけるつもりでいた。
これまで感じたこと、想い、感情。それが水城ユウの心に最も届く方法なのだと、全てを言葉ではなく拳に込めて。
「いい勝負だったなー」
結果こそ負けだったが、悔いはない。
全力でやることをやって負けたのだから。
松永燕も一人の武人だ、失敗は潔く認めよう。全てを賭けて挑んだ挑戦の結末に、納豆小町は満足していた。
それどころか嬉しささえ感じている。
何せこの目で、自分を下した男が、武神に挑み続けた青年が、同じ志を持った彼が、栄光を勝ち取った姿を見届けられたのだから。
あの場にいる全員が、百代の勝利を疑わなかった試合。燕だけが水城ユウの勝利を信じて、最後まで目を離さなかった。
一秒たりとも、彼の勇姿を。
血の一滴、汗の一滴、呼吸の音、掛け声、動きの全てをかけがえのない一瞬のものとして。
———弱点っつーか、悪癖だけどな。スロースターターってところと、瞬間回復に頼り過ぎて防御が疎かな面かな。
流石は武神の長年のライバル。
欠点、悪癖、短所。あらゆる全てを把握し、遂にはその刃を届かせてみせた。
誰もが困惑と驚愕に言葉を失っている中で———燕は一人笑っていた。
「かなわないなぁ、キミには」
そして……思い出の海から顔を上げる。
閉じた瞼を開き、自身の胸の前に手を重ねる。
服越しでも伝わる心臓の鼓動。
いつもより早くて、自分にしてはらしくない。だけど決して不快じゃないその脈動を心地よく思いながら、夜空を見上げた。
「しっかし、これからどうしよっか。おとんも平蜘蛛に賭けてたんだけどな〜」
はい、ノスタルジーに浸るのはこれにておしまい。燕は気付として自身の頬を叩き、今後の方針へと思考を切り替えた。
なにはともあれ、九鬼からの百代討伐の依頼は失敗に終わったのだから。一応負担は向こうが請け負ってくれる契約だから、そこら辺の心配はないのだけれど。
心配すべきなのは別のところにあるが……。
「もう九鬼にスポンサーは頼めないし……。一応、失敗した時用のサブプランは考えてあるけど……」
以前に計画の打ち合わせに極東本部へ訪れた際、九鬼のメイドの軽口から聞かされたオーパーツ。
九鬼本部の中にあるというパンドラメモリ。
世界一の企業が保有する、世界の機密情報の全てが詰まっている重要機密。リスクは大きいが、もしあれを手に入れれば……。
「いや〜、やめとこやめとこ。流石にリスクとリターンが見合ってないしね」
引き攣った頬で軽く笑い飛ばす。流石の燕も、その選択はないと己に客観的な判断を下した。
何より、そんなものに手を出そうものなら、今度こそ本当の意味で自分はユウの隣に立つ資格がなくなってしまう。
家族も大事だが、それ以上に彼の同志であるということが、燕にとってなによりも大切なことだった。
———百代の情報ならくれてやるから、もうこんなことやめろ。他人にも自分にもよくねーから。
全てが変わるきっかけとなったあの言葉を胸に。再び頬を叩いて、欲に惑わされかけた己を叱咤する。
「うし!一から地道にやりますか!やっぱり私には納豆しかない!粘り強く、いこー!」
夜空に拳を突き上げて、決意を新たにする。
本当に、私は彼に隅々まで染められている。
あの出会いと言葉がなかったら、リスクを承知の上で行動していたことだろう。
私の想い人は、どれ程の辛い境遇に立たされても諦めなかった。
長い長い、青春すらもかなぐり捨てた血の滲む努力の果てで栄光を掴んだ瞬間を目撃したのだから。
ならば自分も、その生き方に習うまで。
今後の方針は決まった。
燕が一人決意を改めていると、
「燕」
夜の静寂に染み渡る、もう一つの声。
気配を潜めることもなく、ただ真っ直ぐに此方へ歩いてくる。夜空に輝く月をバックに、振り返った燕は自分の名を読んだ相手と向き合う。
そこに立っていたのは、焦がれてやまない想い人。今日という日に最大の大仕事を成し遂げた、元挑戦者の姿があった。
どうしてここに?同志をこの目に収めた瞬間、ドキッと心臓が大きき脈打った。
ただでさえ激しかった鼓動が速度を増す。
全身に緊張が巡るものの、それを感じさせないようにするべく下唇にグッと力を込めて、いつもの松永燕の姿を形作った。
「おりょ!こんなところに最強さんがいる!すっごい偶然!サインくださーい」
「書き方わかんねーよ」
軽い調子で歩み寄ってくる燕に、ユウ呆れたようには頬を掻く。
緊張を隠して明るく振る舞ってみたが、少し声が上擦った。バレていないか心配になる。
そんな燕の心境を知ってか知らずか、ユウは普段通りの態度だ。川神院の手厚い治療を施されているものの、武神との試合で刻まれた数多の傷が月明かりでよく見える。
足取りもゆっくりで、どこかふらついている。
それでも彼は立ち、その足で歩いていた。
夜空を照らす星々の月の下、二人は向かい合う。
「どんな気分?長年の夢が叶って」
「まだ実感湧かねぇ。つーか、半分意識飛んでたし。それに勝ったつっても、まだたったの一勝だからな」
「勝ち越すまでやる気⁉︎何年かかるんだろ〜」
「そうだな……。負け分取り戻すまでかなりかかるだろうな。それに、他にもやりたいこと見つかったし」
「ほほう!興味深い!では、ヒーローインタビューといこっか。それはなんなのかお聞かせ願います?武者修行?それとも弟子育成?」
マイクを持つジェスチャーで、興味深々な燕に対し、ユウの表情はどこか不安気な色があった。
言いあぐねているのか、俯いて口元を歪ませている。いつもの彼の様子とは、明らかに異なる。
決意を固めるように、目の前に立つ少年はゆっくりと深呼吸をして……同志と向き合った。
真っ直ぐに向けられたその瞳、決して軽口などではない真剣な意思に、燕は思わず硬直してしまう。
暫しの沈黙が流れた後、意を決したように水城ユウはゆっくりと語り始めた。
「百代との戦いの時、お前の声が聞こえた」
ドクン———さっきの比ではない。胸を突き破りそうな程に、大きく鼓動が高鳴った。
汗が噴き出す。
息の根を止められたように呼吸が苦しい。
全身が強張り、指先を動かせない。
心臓の音がうるさいくらい耳に響く。
それはユウ自身も同じなようで、口調はどこかぎこちない。それでも、一言一言が強い意味を帯びていた。
「いつもならこんなことなかった。集中して、戦い以外の情報をいつもは遮断してたのに……。本当ならあの星砕きの時点で俺は負けていた。なのにどうしてか、お前の俺を呼ぶ声が一歩を踏み出させてくれた」
噛み締めるように、言葉を重ねていく。
同時に、その顔は紅潮に染まっていく。
「俺はずっと、百代を倒すために鍛えてきた。だから……こういうのはよく分からねぇ。だけど、今抱いてるものが……つまり……。そういうもの、だっていうことは……その……実感してる」
一字一句聞き逃さぬよう、意識を集中させる。
「正直、戸惑ってる。こんな気持ち初めてだ……。何て言えば正解なのかわからない。こういう時って好感度とか口説き文句とか、ロマンチックな雰囲気ってのも必要なのかもしれねーけど……。悪い、そんな器用じゃねーから、今ここではっきり言う」
徐に、ユウは己の胸に手を当てて燕を真っ直ぐに見つめた。
呼応するように高鳴る鼓動に突き動かされるまま……何よりも大切な言葉を贈るのだった。
「好きだ、燕。俺と付き合ってくれ」
———時が、止まった。
見開いた眼を瞬かせることなく、ただ無言で見つめ返す他ない。
夜空に輝く月の照明の下、彼の顔がよく見える。紅潮した顔は、これまで見たどんな表情よりも真剣で、引き込まれる程に美しく見えた。
多分川神百代ですら見たことのない、松永燕しか知らない水城ユウの顔。
まるで夢のような。しかし、頬に伝う小さな熱の感触で、ようやく実感した。
ああ……これは夢じゃなさそうだ。
今この時が現実であると理解した瞬間、燕の全身を電流のような衝撃が走った。
松永燕を構成する細胞の一つ一つが震え上がり、脳髄を痺れさせるほどの甘美な感覚に支配される。
心の奥底から湧き上がる衝動に身を任せるように……燕の半開きで止まっていた口は大きく開いた。
「ユ、ユウくんったらも〜!冗談とかいうんだね!燕さん驚いちゃった!あははは!」
我ながら誤魔化しが下手だ。
動揺しているのが丸わかりである。
照れ隠しのおちゃらけた仮面など意味をなさず、ユウの目は細まっていく。
「冗談に聞こえたのか?じゃあ今ここで、俺がお前のことを好きになったところ百個言ってやるよ。まずは……」
「待って待って!そういうのマジ顔で言うのやめてホント、心臓に悪いから!」
「仕方ねーだろ!人生初の一世一代の告白を冗談って言われたんだぞ?もう全部吐き出すしかねぇよ!」
「ぐぬぬ……。十八のくせに、純情体育系中学男子みたいな恋愛価値観持ちおってからに」
「ほっとけ!それで顔真っ赤にしてるクセに!」
ゼーハー、ゼーハー……!
お互い吐き出しあい、肩で大きく息をする。
気まずい……。照れ隠しが悪手となり、さっきまでの雰囲気が全てぶち壊しだ。
燕はチラリとユウを窺うと、
「わ、私なんかでいいの?」
「お前じゃなきゃ嫌だ」
「モモちゃんとかは?」
「あいつはライバル」
「私、モモちゃんよりおっぱいちっさいよ?」
「十分スタイルいいだろ。てか、俺が惚れたのはそこじゃなくてだな」
「エッチ」
「お前が言ったんだろーがよ!」
ふざけるのもこれで終わりだ!と、無理矢理話を修正させるユウ。答えを聞かせれくれ。目がそう訴えていた。
燕も、いい加減覚悟を決める。
背筋に力を込めて、今度は茶化すことなく、真剣に想いを伝えるために……。
私と彼が知り合ったのは、運命的な出会い……。とは、口が裂けても言えない。
偶然を装い、計画的に基づいた上で彼に近づいた。
全ては、ある計画のため。長年の宿願を叶えるべく、その遂行確率をより高いものとするための情報収集。
罪悪感は勿論あった。
それでも、あの時の私が最優先すべきは……
———だけど今は違う。
もし、我儘を許されるなら。
君のものになれるなら。
君を私のものにできるなら。
彼女はゆっくりと頷いた。
それは紛れもない肯定の証。
その手に、納豆カップを取り出して……
「末長く、
ネバネバなお付き合いでお願いします!」
「言うと思った!」
綺麗な月の下、二人の影は重なった。