【序章:満ち足りた日々、ライバルの影】
初夏の爽やかな風が吹き抜ける週末。警視庁の武道館内にある弓道場は、都大会を間近に控え、独特の緊張感と静謐な熱気に包まれていた。中でも、ひときわ注目を集めているのが、女子の部で優勝を争うと目される二人の若き婦警、磯鷲 早矢(いそわし さや)と飛鷹 左京(ひだか さきょう)の姿だった。
早矢は、白い弓道衣に身を包み、背筋を凛と伸ばして的に向かっていた。その所作は、流れるように美しく、一切の無駄がない。精神統一された彼女の瞳は、的の中心だけを真っ直ぐに見据えている。最近の彼女は、公私ともに充実していた。長年、心のどこかで意識していた両津勘吉と、思いがけず深い関係になり、彼の不器用ながらも(彼女にはそう見える)真っ直ぐな愛情に包まれ、心身ともに満たされていたのだ。その充実感が、彼女の弓にも、かつてないほどの冴えと安定感をもたらしていた。
一方、早矢の隣の射場で弓を構えるのは、彼女の最大のライバル、飛鷹左京。彼女もまた、寸分の隙もない美しい構えを見せている。長く艶やかな黒髪をきりりと結い上げ、クールな表情は一切崩さない。彼女にとって、早矢は常に超えるべき壁であり、その存在が彼女をより高みへと押し上げてきた。今日の練習でも、彼女の放つ矢は、鋭く的を射抜き、その実力の高さを窺わせる。しかし、そのクールな仮面の下には、打倒早矢への、静かだが燃えるような闘志が秘められていた。二人の間には、互いを認め合うライバルだからこその、清々しいまでの火花が散っているように見えた。
そんな二人を、道場の隅から、面白くなさそうな、しかし、何か企みを秘めた目で見つめている男がいた。両津勘吉である。彼は、早矢に「応援と、弓道の勉強に来た」と言って、この場にいた。もちろん、弓道に興味など微塵もない。彼の目的は、ただ一つ。早矢のライバルであり、自分に対してどこか見下したような態度を取る(と彼が勝手に感じている)クールビューティー、飛鷹左京を、自らの手で屈服させること。そして、あわよくば、早矢との関係に、新たな「スパイス」を加えることだった。
(ケケケ…磯鷲の奴、俺様とイイ仲になってから、ますます腕を上げやがったな…だが、あの飛鷹とかいう女、いけ好かねえ面構えしてやがるぜ…あの澄ましたクールな顔を、絶望と屈辱に歪ませてやったら、さぞかし見物だろうなあ…ついでに、早矢の反応も見てみてえ…)
彼の頭の中では、既に、非道で悪質な計画が、着々と練り上げられていたのだ。
【水面下の暗躍、無垢なる協力者】
計画実行のためには、まず情報収集が必要だった。両津は、その夜、早矢を自分の部屋(という名の、例のアパート)に呼び出した。「明日の大会に向けて、景気づけに美味いものでも食おうぜ」という口実で。早矢は、二つ返事で喜んでやってきた。
部屋で二人きりになると、両津は、早矢を後ろから優しく抱きしめながら、さりげなく本題を切り出した。
「なあ、早矢。明日の大会、やっぱり一番の敵は、あの飛鷹左京なんだろ?」
「ええ、そうね。左京さんは、本当に強いもの。学生の頃から、ずっと競い合ってきたわ」
早矢は、素直に頷く。
「ふーん。あいつ、いつもクールぶってるけどよぉ、何か弱点とかねえのか? 例えば、プレッシャーに弱いとか、特定の状況が苦手とか…ライバルのことなら、よく知ってんだろ?」
両津は、あくまで「早矢を応援するため」「ライバル分析」という体裁で、巧みに情報を引き出そうとする。
早矢は、特に疑うこともなく、少し考え込んだ後、話し始めた。
「そうね…左京さんは、基本的には精神力も強いんだけど…極度のプレッシャーがかかると、ほんの少しだけ、射形が硬くなる癖があるかもしれないわ。特に、観客の視線が集中するような、決勝の射詰(いづめ)とかでは…あと、これはあまり知られていないけど、彼女、極度の潔癖症で、自分の道具が少しでも汚れたり、他人に触られたりするのを、すごく嫌がるのよ」
(…なるほどな。プレッシャーと潔癖症か…使えそうだぜ…)
両津は、内心でほくそ笑みながらも、「へぇー、そうなのか。よし、明日は俺様が、観客席からヤジでも飛ばして、プレッシャーかけてやるか!」などと冗談めかして言い、早矢に「もう、両ちゃんたら!」と、軽く叩かれる。彼は、早矢から重要な情報を引き出したことに満足し、その夜は、彼女をたっぷりと(下心を満たす意味でも)甘やかして過ごした。早矢は、彼が自分のためにライバル分析までしてくれていると思い込み、ますます彼への愛情を深めていった。彼女の純粋な好意が、無自覚のうちに、両津の悪質な計画に利用されていることなど、知る由もなかった。
そして、翌日の大会前。両津は、早朝、誰にも気づかれずに武道館の弓具置き場に忍び込んだ。彼は、早矢から聞き出した情報を元に、用意していた秘密兵器を取り出す。それは、ほんの僅かな力で曲がるように細工された、見た目には分からない特殊な「押し手カケ(弓を持つ左手に嵌める道具の一部)」と、そして、弓の弦(つる)に塗布する、無色透明で、しかし、引くたびに微妙に滑りを悪くさせる特殊なワックスだった。さらに、彼は、左京の弓の、通常は触らないような部分に、わざと少しだけ、粘つくような汚れ(油のようなもの)を付着させた。これらは、一見しただけでは絶対に分からない、しかし、極限の集中力が求められる弓道においては、確実に射手の感覚を狂わせる、悪魔的な細工だった。
(ケケケ…これで準備万端だぜ。クールな女王様が、どんな無様な姿を晒してくれるか、楽しみだな…)
両津は、ほくそ笑みながら、そっとその場を後にした。
【大会当日、忍び寄る狂気】
大会当日。会場は、多くの選手と観客で、静かな熱気に包まれていた。早矢は、両津からの(表向きの)応援を受け、リラックスした、しかし集中した様子で、次々と的を射抜いていく。彼女の射は、美しく、そして正確無比だった。
一方、飛鷹左京もまた、序盤は、そのクールな実力を遺憾なく発揮していた。寸分の狂いもない射形で放たれる矢は、吸い込まれるように的の中心を捉え、会場からはため息が漏れる。流石は、早矢の最大のライバル。
しかし、試合が進むにつれて、左京の射に、僅かな、しかし確実な「狂い」が生じ始めた。まず、彼女は、自分の弓を持つ左手の感触に、微かな違和感を覚え始めた。押し手カケが、引くたびに、ほんの僅かに、しかし確実に、手の中でズレるような感覚。そして、弦を引く右手の指にも、妙な滑りの悪さを感じる。
(…? 何かおかしい…? 今日のコンディションは悪くないはずなのに…)
クールな表情を保ちながらも、彼女の内心には、焦りの色が広がり始めていた。
さらに、彼女の集中力を削いだのは、弓に付着した、あの粘つくような汚れだった。潔癖症の彼女にとって、自分の神聖な弓具が汚れているという事実は、精神的に大きな動揺を与えた。控えの場所で、何度も布で拭き取ろうとするが、油性の汚れは、簡単には落ちない。そのことが、彼女の集中力を、さらに削いでいく。
そして、両津による、観客席からの「精神攻撃」も始まっていた。彼は、決して大声を出すわけではない。しかし、左京が射位に入る、まさにその瞬間に、わざと咳払いをしたり、小さな物音を立てたり、あるいは、隣の観客(これも両津が仕込んだサクラかもしれない)と、わざと聞こえるような声で、「おや? 今日の飛鷹選手、なんだか動きが硬いねえ」「プレッシャーかな?」などと囁き合う。それらは、一つ一つは些細なことだが、極限の集中状態にある射手にとっては、無視できないノイズとなり、確実に彼女の精神を蝕んでいった。
「……っ!」
普段ならありえない、矢が的を大きく外れるというミス。あるいは、弦が顔を打ちそうになるほどの、危険な失敗。左京の顔から、徐々に、血の気が引いていく。クールな表情は、焦りと、混乱と、そして屈辱によって、歪み始めていた。会場が、ざわつき始める。
「どうしたんだ、飛鷹選手…」「いつもの彼女じゃない…」
そんな声が、容赦なく彼女の耳に突き刺さる。
【決定的な敗北、疑惑の眼差しの中で】
そして、運命の、決勝戦。相手は、やはり、順調に勝ち上がってきた、磯鷲早矢だった。
会場の全ての視線が、二人の射手に注がれる。静寂の中、先に射位に入ったのは、早矢だった。彼女は、深く呼吸を整え、淀みない動きで弓を引き絞り、そして、矢を放った。
ヒュッ…! パシュン!
矢は、美しい放物線を描き、的の中心、ど真ん中を寸分違わず射抜いた。会場から、大きな拍手と歓声が上がる。
次に、左京の番。彼女の顔は蒼白で、手は微かに震えていた。弓具への違和感、精神的な動揺、そして、ライバルである早矢の完璧な射。全てが、彼女に重くのしかかっていた。
(…落ち着け…私ならできる…いつも通りに…!)
必死に自分に言い聞かせ、弓を構える。しかし、引き絞っていく過程で、やはり、押し手カケのズレと、弦の滑りの悪さが、彼女の繊細な感覚を狂わせる。そして、極度のプレッシャーの中で、観客席からの(気のせいではない)視線や囁き声が、彼女の集中力を完全に奪った。
「……!」
放たれた矢は、力なく、的の手前の地面に突き刺さった。
会場が、息を呑む音で満たされる。信じられない、というような、どよめき。
勝負は、決した。
しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。失意のまま弓を下ろした左京の元へ、審判員が近づいてきた。そして、彼女の弓具を、厳しい目で検査し始めたのだ。(おそらく、両津が事前に、「飛鷹選手の弓具に不正改造の疑いがある」という匿名のタレコミを入れていたのだろう)。
審判員は、弓に付着した不審な汚れと、押し手カケの(素人目には分からないが、専門家が見れば不自然な)歪みを指摘した。
「これは…一体どういうことかね、飛鷹選手?」
厳しい詰問の声。周囲からは、「まさか、不正を…?」「だからあんなに調子が悪かったのか…」という、疑いの声が上がり始める。
左京は、何も答えられなかった。不正など、するはずがない。しかし、現実に、自分の弓具はおかしく、そして、自分は惨めな敗北を喫した。何が起こっているのか、理解できなかった。ただ、ライバルである早矢の、心配そうな、しかし、どこか戸惑ったような視線が、彼女のプライドを、これ以上ないほどに打ち砕いた。
クールな射手、飛鷹左京は、大観衆の前で、予期せぬ敗北と、根も葉もない疑惑の渦中に突き落とされ、弓道家としての、そして一人の人間としての、最大の屈辱を味わうことになったのだ。
第1話終了時点: 左京のプライドは、両津の仕掛けた巧妙な罠によって、完全に粉砕された。彼女は、失意と疑惑の中で、孤立無援の状態に追い込まれる。両津の計画は、第一段階を完璧に成功させた。彼は、このズタズタになったクールビューティーに、これから、どのように「救いの手(という名の、更なる罠)」を差し伸べるのだろうか。そして、早矢は、この事態をどう受け止め、どう動くのか…? 物語は、暗い予感を孕みながら、次なる段階へと進む。