Battletech:Tales of Jade Falcon Remnants 作:Sykyu
Union class Dropship , Medical Sect
BlueHole System, Nadir JumpPoint
Jade Falcon
9 January 3152
「ところでシタ君、寝たまえ。」
マリオの声がシタに届く。
つい先ほども、同じような言葉を聞いたような気がした。
時計を確認しても、さほど時間が経ったようには感じない。
シタは資料に目を戻しながら、マリオに答えた。
「先生こそ、お疲れではありませんか?」
努めて、柔らかい声を出そうとする。
疲労による吐き気は今は収まっていた。
何錠もの栄養剤と大量のカカオエキスを吸って、眠気も感じていない。
──私はまだ、頑張れる。
トヤーがゾリグの子を望み始めたのは、部隊がクリエフチから離れる数日前からの話だ。
サチコが彼女にインプラントの話を漏らしてからは、トヤーはその願いを口にしなくなってしまう。
ようやく今日、彼女が再びその願いを口にした。
シタはどうしても、トヤーのその願いを叶えてあげたい。
それが、彼女の過去を守れなかった女医にできるせめてもの償いだと思っていた。
「シタ君、寝たまえ。」
もう一度、マリオが同じことを言う。
声がさっきよりも大きく聞こえる。
それでも、シタは黙って首を振った。
僅かに不安を滲ませた表情で、トヤーが赤ん坊を見上げる姿が脳裏から離れない。
「シタ君のために言っているのではない。君の子供のために言っている。」
いつの間にかマリオはシタの目の前にやってきていた。
彼の懸念は杞憂であることを伝えようと口を開く。
そんなシタに彼は数字の羅列を見せつける。
「シタ君の血液の検査結果だ。自分で見なかったわけではあるまい。」
彼が指さした項目から、シタは目を逸らした。
その数字を診れば、全てがわかってしまう。
「3~4週目の値だ。」
無慈悲な医師が顔を背け続けるシタの代わりに数値の意味を口にする。
それを避けるための薬を飲んでいる。
だが、そんな抵抗も空しく、彼の尖兵はその化学の壁をあっさりと貫いて踏み入った。
それは、シタが望んでいた結果通りに他ならない。
「自覚がないのは、状況からまだ仕方がない。だが、数字から目を逸らすな。」
マリオの言葉は叱咤だ。
シタは医師として、やってはならないことをやっている。
そういう警告を含んでいた。
シタの目には涙が溢れ始めている。
先達に怒られたからでも、己の行いを反省しているからでもない。
彼女の望みの叶った喜びとそれを叶えてくれた彼への驚き、シャストルの海岸から舞い戻った彼に身を開いた時の悦び。
喪失に打ちひしがれ、絶望する女達に感じていた申し訳なさと、医師という建前を失ってしまった悲しみ。
これらが入り混じって、シタの中で暴風のように荒れ狂っていた。
シタはマリオに顔向けができない。
彼女は叱られているにも関わらず、心の内はどこか喜びに満ちていた。
唯一気になるのは、トヤーのことだけだ。
彼女を差し置いて自分だけがこの幸福を受け取るなど、どんな罰当たりか。
「あと、この薬はもう卒業だ。」
マリオの右手に白衣の右ポケットを探られて、彼女の茶色い防壁は取り上げられてしまう。
「そんなっ...。」
白衣の重みが減ると、まるで服を引き剝がされて、素っ裸にされたかのような不安感がシタを襲った。
壁は既に撃ち抜かれて、最奥への侵入を許してしまっている。
それでも、それはシタにとっては心の支えのような存在だった。
腹の奥から聞こえるはずのない鼓動が聞こえる。
──男の子...?
この直感に科学的な根拠はない。
医者の本分を忘れて言えば、身体の中を流れるチャクラの流れが彼女の背部を伝ってそれを脳に伝えている。
この子は間違いなく彼の子だ。彼の血を受け継いだ子が間違いなくシタのおなかの中で息づいていた。
意識すればするほどに、その存在は彼女の中で大きくなってしまう。
もはや、それを無視することはシタにはできなくなっていた。
「嬉しい...。」
シタが遂に漏らした言葉にマリオは少し呆れたような顔を向ける。
その表情は同じ医師に向けたものではなく、年寄りが若者に向けた顔だった。