旅人の休暇は、予想外の連続ではあったものの、彼にとっては貴重な休息と自己発見の時間となっていた。体調も不卜廬の薬と十分な休養のおかげでかなり回復し、咳をした時の血の味もほとんど感じなくなっていた。今日は特に予定もなく、離れの自室で、窓から見える穏やかな璃月の景色を眺めながら、「さて、今日はどうしようか」と、ぼんやりと考えていたところだった。どこか景色の良い場所へ散歩にでも行こうか、それとも、最近少し興味が出てきた璃月劇の資料でも読んでみようか…そんな静かな思案の時間を破るように、部屋の扉が、コンコン、と優雅なノックの音を響かせた。
「旅人、入ってもよろしくて?」
声の主は、この離れの持ち主であり、彼の保護者(という名目の監視者)でもある、天権・凝光だった。彼女が、特に用事もなく彼の部屋を訪れるのは珍しい。旅人は少し驚きながらも、すぐに居住まいを正し、扉を開けた。
「凝光様、おはようございます。何か御用でしょうか?」
扉の外には、いつものように完璧な装いと、気品ある微笑みを湛えた凝光が立っていた。彼女は、ゆったりとした足取りで室内に入ると、部屋の中を見渡し、そして旅人に向き直った。
「いいえ、特に急ぎの用事というわけではないのよ。ただ、あなたの休暇中の様子が少し気になってね。体調はもう大丈夫?」
彼女の声は、上司としての気遣いと、どこか個人的な関心が混じり合ったような、柔らかな響きを持っていた。
「はい、お陰様で。すっかり良くなりました。これも凝光様が休暇をくださったおかげです。ありがとうございます」
旅人は、改めて感謝の言葉を述べた。
「そう、それなら良かったわ」
凝光は、満足そうに頷くと、部屋の中央にある椅子に優雅に腰を下ろした。そして、他愛もない世間話を始めた。最近の璃月港の天気の話、新しく開店した店の評判、先日見つかった古代遺跡の調査状況など…。旅人も、それに相槌を打ちながら、和やかな会話の時間を過ごしていた。凝光が、このようにプライベートな雰囲気で話しかけてくることは滅多にないため、彼は少し緊張しつつも、どこか心地よさを感じていた。彼女の知性と、時折見せる人間的な魅力に、彼は知らず知らずのうちに惹きつけられているのかもしれない。
会話が一息つき、部屋に穏やかな静寂が戻った、その時だった。
凝光は、ふと、何かを思いついたように、しかしその表情は変わらぬまま、唐突に、そして極めて自然な口調で、こう尋ねてきたのだ。
「…そういえば、旅人。貴方、恋人はいるの?」
「ブーーーッ!?」
旅人は、飲んでいたお茶を危うく噴き出しそうになった。彼の全身に衝撃が走り、思考が完全に停止する。こ、恋人!? なぜ、今、そんな質問を!? しかも、あの凝光様が!? 彼の動揺は明らかだっただろう。
「きゅ、急に…何を、おっしゃるんですか、凝光様!?」
彼の声は上ずり、どもってしまった。顔が、カッと熱くなるのを感じる。
凝光は、そんな彼の狼狽ぶりを見て、くすくすと楽しそうに笑った。その笑みは、いつものように計算されたものではなく、どこか悪戯っぽい響きを帯びている。
「あらあら、そんなに驚くことかしら? 貴方も年頃の男性でしょう? 興味がないわけではないでしょうに」
彼女は、ゆっくりと椅子から立ち上がると、戸惑い、後ずさろうとする旅人の方へと、優雅な、しかし抗いがたい足取りで近づいてきた。彼女の紫水晶の瞳が、妖しい光を湛えて、旅人を射抜く。
「こ、恋人なんて…俺には…その、記憶もありませんし…そんな余裕は…」
旅人は、必死に言い訳をしようとするが、言葉にならない。凝光の距離が、あまりにも近い。彼女の纏う上品な香水の香りが、彼の鼻腔をくすぐる。
そして、凝光は、彼のすぐ目の前で足を止めると、ふっと身を屈め、彼の耳元に、その艶やかな唇を近づけた。そして―――
ふぅぅぅ………
まるで熱い吐息を吹きかけるかのように、優しく、しかしはっきりと、凝光は彼の耳に息を吹きかけたのだ。
「アヒャーーーッ!?」
旅人の全身に、電流が走ったかのような衝撃が駆け巡った! 耳元から首筋にかけて、ぞわぞわとした、今まで感じたことのないような感覚が広がり、思わず奇妙な悲鳴を上げてしまった。彼は、反射的に飛びのこうとしたが、凝光の細い腕が、いつの間にか彼の肩に回されており、逃れることができない。
凝光は、彼のその反応を見て、満足そうに、そして蠱惑的に微笑んだ。
「フフッ…どうしたの、旅人? まるで、初めて女性に触れられたかのような反応ね」
彼女の声は、甘く、囁くようで、旅人の理性を溶かしていくかのようだ。
「こんな調子では…いつか、貴方のその力や立場を狙う、悪い女の『ハニートラップ』にでも、ころっと掛かってしまいそうだわ。見ていて、少し心配になってしまったのよ」
彼女は、そう言いながら、空いている方の手を、彼の首筋から肩へと、ゆっくりと滑らせた。その指先の感触が、彼の肌に(あるいは服越しに)焼き付くようだ。
「だからね…仕方がないから、私が直々に、貴方に『耐性』をつけてあげようと思って」
彼女の瞳が、妖しく輝く。その言葉は、親切心からくるもののように聞こえるが、その裏には、明らかに別の意図が隠されているのを、旅人は本能的に感じ取っていた。
「た、耐性…って、何を…!?」
旅人は、動揺しながらも、必死に抵抗しようとする。だが、凝光の腕は、見た目に反して驚くほど力が強く、彼の動きを巧みに封じ込めている。そして、彼女は、抵抗する旅人の身体を、ゆっくりと、しかし確実に、近くにあった長椅子へと押し倒してきたのだ!
(ま、待て! 押し倒されて…!? なぜ!? 耐性をつけるって、こういうことなのか!?)
旅人の頭の中は、完全にパニック状態だった。状況が全く理解できない。彼は、凝光の意図を測りかねていた。本当に、彼の身を心配して、何らかの「訓練」を施そうとしているのか? それとも…?
だが、凝光の真の狙いは、もちろんそんな純粋なものではない。彼女にとって、旅人は「自分のもの」――あるいは、そうしたいと強く願う対象だった。彼の能力、忠誠心、そして時折見せる人間的な魅力。その全てを手中に収めたい。他の誰にも、渡したくない。その独占欲が、彼女をこのような大胆な行動へと駆り立てたのだ。「ハニートラップへの耐性をつける」というのは、あくまで口実。その実、彼に自分の存在を強く刻み込み、他の女性が近づく隙を与えないように、「唾をつけておく」という、極めて計算高く、そして情熱的な所有欲の現れだったのだ。
長椅子に押し倒され、上から見下ろす凝光の、これまで見たことのないような、妖艶で、積極的な表情に、旅人は完全に言葉を失っていた。彼女の長い髪が、彼の頬をくすぐる。彼女の吐息が、彼の顔にかかる。彼の心臓は、経験したことのない速さで高鳴り、思考は完全に麻痺状態だ。
(これから…どうなるんだ…!?)
凝光の紫水晶の瞳が、まるで獲物を捕らえたかのように、じっと彼を見つめている。彼女の唇が、ゆっくりと、何かを語りかけるように動き始めた…。旅人の受難(あるいは幸運?)は、まだ始まったばかりだった。この状況を、彼はどう切り抜けるのだろうか? そして、この出来事は、彼と凝光の関係に、どのような変化をもたらすのだろうか…? 静かな離れの部屋で、二人だけの、甘く、そして危険な時間が、静かに流れ始めていた。
長椅子に押し倒された旅人は、完全に状況を掌握され、逃れる術を失っていた。上から覆いかぶさるように見下ろしてくる凝光の姿は、いつもの冷静沈着な天権としての威厳とは全く異なり、むしろ、獲物を追い詰めた妖艶な捕食者のような、抗いがたい色香と圧力を放っていた。彼女の吐息がかかるほどの距離、ふわりと香る上品な匂い、そして、彼の全てを見透かすかのような紫水晶の瞳。旅人の心臓は、破裂しそうなほど激しく脈打ち、思考は完全に白紙に近い状態だった。
彼は、かろうじて言葉を絞り出した。声は情けないほどに上ずり、震えている。
「こ、ここ…これから、一体、何をなさるおつもりですか、凝光様!?」
彼の問いかけは、懇願のようでもあり、悲鳴のようでもあった。一体全体、この璃月を統べる最高権力者の一人が、自分のような記憶喪失の男に対して、何をしようというのか。彼の混乱は頂点に達していた。
凝光は、そんな彼の狼狽ぶりを、まるで愛おしいものでも見るかのように、楽しげに、そしてゆっくりと観察していた。彼女の指先がそっとなぞる。その微かな感触だけで、旅人の全身に再び電流が走った。
「フフッ…」
凝光の唇から、吐息のような、甘い笑い声が漏れた。それは、普段の彼女からは想像もつかないほど、官能的な響きを帯びている。
「さあ、どうしましょうかしらね?」
彼女は、答えを焦らすように、ゆっくりと首を傾げた。その仕草一つ一つが、計算され尽くした誘惑のように、旅人の理性を揺さぶる。
「『耐性』をつけると言ったでしょう? その方法は、沢山あるわ」
彼女の指先は、彼の首筋へと滑り落ちていく。その動きは、まるで熟練した奏者が楽器を奏でるかのように、滑らかで、官能的だ。旅人は、息を呑み、身体を硬直させることしかできない。
「例えば…そうね。貴方が他の女性から誘惑された時に、動じないようにするための訓練。まずは、この凝光という、璃月で最も美しく、権力を持つ女に、慣れてもらう必要があるわよね?」
彼女の瞳が、妖しく細められる。
「貴方の、その…初心(うぶ)な反応を見る限り、かなり手強い訓練が必要になりそうだけれど」
彼女は、わざとらしくため息をついてみせた。その仕草すら、妙に色っぽい。
「知っている? 旅人。私たち璃月七星(リーユェチーシン)というのは、本当に多忙なのよ」
彼女の声のトーンが、ふと、真剣な響きを帯びた。だが、その真剣さもまた、今の状況においては、別の意味合いを持っているように聞こえる。
「璃月の未来のため、民の安寧のため、日夜、身を粉にして働いているわ。考えるべきこと、決断すべきこと、処理すべき書類…その量は、貴方の想像を絶するでしょうね」
彼女は、旅人の胸元に、そっと手を置いた。その手のひらの温かさが、薄い衣服越しに、彼の心臓の鼓動を直接感じ取っているかのようだ。
「それ故に、ね。私たちには、息抜きをする時間も、個人的な感情を満たす時間も、ほとんどないの。例えば…そう、人間が当然持つであろう、『欲』。それを発散する機会なんて、ほとんど皆無と言ってもいいくらいに」
彼女の言葉は、どこか寂しげで、それでいて、強い欲求を孕んでいるように聞こえた。彼女の瞳の奥に、普段は決して見せることのない、天権という仮面の下にある、一人の女性としての渇望のようなものが、ゆらめいているように見えた。
(…欲の、発散…?)
旅人は、その言葉の意味を、遅まきながら理解し始めた。彼女が言っているのは、単なる仕事のストレス解消という意味だけではない。もっと、根源的で、人間的な…そして、男女の間にある、あの…
彼の顔が、さらに赤くなるのが分かった。心臓の鼓動は、もはや警鐘のように激しく鳴り響いている。
「ぎょ、凝光様…それは…!?」
凝光は、彼の動揺を楽しむかのように、さらに顔を近づけてきた。二人の唇が触れ合うか触れ合わないか、というほどの距離。彼女の甘い吐息が、直接彼の顔にかかる。
「あら、勘違いしないで。別に、貴方を無理矢理どうこうしよう、というわけではないのよ? ただ…ね」
彼女の指が、彼の顎のラインを、優しくなぞる。
「貴方を見ていると、不思議と心が落ち着くの。そして、同時に…少しだけ、意地悪をしたくなる。貴方のその、真面目で、不器用で、それでいて強いところ…全部、私のものにしてしまいたい、って…そう思ってしまうのよ」
彼女の告白は、あまりにも率直で、そして強烈だった。それは、計算高い彼女らしからぬ、衝動的な感情の発露のようにも見えた。あるいは、それすらも計算のうちなのかもしれないが、今の旅人には、それを判断する余裕などなかった。
「貴方が、他の誰かのものになるなんて、考えたくもないわ。だから…ねえ、旅人。少しだけ、私に付き合ってくれる?」
彼女の瞳が、潤んでいるように見えた。それは、懇願のようでもあり、誘惑のようでもあり、そして、有無を言わせぬ命令のようでもあった。
旅人は、完全に言葉を失っていた。彼の目の前には、璃月を統べる美しく強力な女性が、その全てをさらけ出すかのように、彼に迫っている。彼の理性は、警鐘を鳴らしている。これは危険だ、と。だが、彼の本能は、彼女の持つ抗いがたい魅力と、その奥に隠された孤独や渇望のようなものに、強く引きつけられていた。
(どうすれば…いいんだ…?)
彼の脳裏に、様々な考えが渦巻く。抵抗するべきか? 受け入れるべきか? どちらを選んでも、その先には未知の世界が広がっている。彼の人生は、記憶を失ってから、常に選択の連続だった。だが、これほどまでに、重大で、そして…甘美な選択を迫られたことは、かつてなかった。
凝光の顔が、さらに近づいてくる。彼女の唇が、ゆっくりと、彼の唇へと……部屋には、二人の息遣いと、窓から差し込む月明かりだけが存在していた。時間は、まるで止まってしまったかのようだ。旅人の運命は、そして彼と凝光の関係は、今、まさに大きな岐路に立たされていた。彼の決断、あるいは、彼が何もできずに流されてしまうのか。その結末は、まだ誰にも分からない。ただ、この甘く危険な夜が、二人にとって忘れられない一夜となることだけは、間違いなさそうだった。
凝光の言葉、その吐息、そして抗いがたいまでの距離感。旅人の理性は完全に溶解し、本能だけがその場を支配していた。目の前の女性は、璃月を統べる天権であり、自分の保護者でもある。だが同時に、これほどまでに美しく、そして自分に対して強い執着と、脆さすら感じさせる欲求を向けてくる、一人の女性だった。抵抗する? できるはずがない。いや、もしかしたら、心のどこかで、抵抗したくない、とすら思っていたのかもしれない。