天竜人と奴隷の少女 作:ましろ
私がこの世界が歪んでいることに気付いたのは、おそらく五歳の誕生日の朝だった。寝室の天井に描かれた神々の絵を見上げながら、外から聞こえる悲鳴に目を覚ました。絹のシーツから身を起こすと、窓辺に寄り、大理石の庭園を見下ろした。
庭では父の奴隷たちが、新しく購入した人間たちを「馴致」している最中だった。鎖に繋がれた十人ほどの男女が、衛兵の鞭の下で跪くことを強要されていた。一人の男が抵抗した瞬間、衛兵長が腰の爆弾の起爆装置に手をかけた。次の瞬間、男の首輪が破裂し、赤い霧が噴き上がる。周囲の奴隷たちは恐怖に震え、顔を地面に押し付けた。
「ご主人様、朝食の時間でございます」
背後で執事の声がした。振り返ると、七十歳を越える老人が、首に爆発首輪を嵌められたまま、恭しく頭を下げている。彼の左頬には、我が家の紋章が焼き印されていた。
食堂に向かう廊下で、母が寵愛する少年奴隷が壁際に直立していた。青白い肌の美少年は、昨日まで抵抗していたらしい。両手には鎖の跡がくっきりと残り、瞳には生気がなかった。母はそんな彼を「可愛い人形」と呼んでいた。
「今日は新しい奴隷が入る日だえ」
朝食の席で父が言った。銀のナイフでステーキを切り分ける手つきは優雅そのものだった。
「南海の島から連れてきた姉妹だえ。特に妹の方は好みの色白アマス」
私はフォークを握りしめた。昨晩、図書室で見た世界地図を思い出す。南海の島々には「楽園」と書かれていたはずだ。あの悲鳴を上げていた人々は、きっとその「楽園」から連れてこられたのだろう。
「…なぜ奴隷が必要なのですか?」
思わず口にした質問に、父のナイフが止まった。
「ふふっ、可愛いことを聞くアマスね」母がグラスを傾けながら笑った。「天竜人は神の末裔。下々の者たちは私たちに仕えるために存在しているの」
父は深刻な顔をして私を見下ろした。
「お前はまだ幼いから分からないだろうが、これが世界の理なんだえ。奴隷がいなければ、誰が私たちを楽しませてくれるえ?」
その夜、私は寝付けなかった。ベッドの脇で跪いている侍女の呼吸が気になって仕方ない。彼女は昨日、庭で花を摘んでいた少女だった。今では首輪を嵌められ、私の寝息を伺っている。
「…眠ってもいいよ」
小声で言うと、少女は怯えたように頭を振った。天竜人の許可なく動くことは、彼女にとっては死を意味するのだ。
窓の外では月が歪んで見えた。まるで、この世界そのものが歪んでいるように。
騒動は突然訪れた。朝もやが宮殿の庭を覆う頃、遠くから銃声が聞こえ、それから全てが狂い始めた。窓から外を見下ろすと、奴隷たちが一斉に走り出していた。首輪が爆発する音、衛兵の怒号、そして解放を叫ぶ歓声が入り混じり、世界がひっくり返ったように感じた。
「反乱だえ! 卑しい虫けらどもが!」
父の声が宮殿内に響き渡った。母は真珠のネックレスを掴みながら、顔を歪ませていた。
「許せないだえ! 全員処刑するだえ!」
私は大理石の柱の陰に身を隠し、事態を見守っていた。外では政府軍と解放軍が激突し、血の匂いが風に乗って流れてきた。何時間が経っただろう。やがて静寂が訪れ、衛兵長が血まみれで報告に現れた。
「ご主人様ご夫妻が…襲われました」
その言葉に、胸に鈍い衝撃が走った。愛情と呼べる感情はなかったが、突然の喪失はやはり空虚感をもたらす。父の威厳ある顔、母の高笑いが、もう二度と聞けないと思うと、奇妙な感覚に襲われた。
「生き残った奴隷は?」
「半数は逃亡、残りは拘束されております」
政府高官たちが次々と詰めかけ、私を取り囲んだ。彼らの顔は怒りに歪んでいた。
「許しがたい所業だえ! 全員公開処刑するだえ!」
「生きたまま皮を剥ぐだえ! 他の下々の者たちへの見せしめだえ!」
私は重いため息をつき、手を振った。
「逃げた奴隷はもういい。捕まったやつらは…好きにしろ」
高官たちは驚いたように私を見たが、すぐに残酷な笑みを浮かべた。彼らがどう処遇するか、想像に難くない。私の脳裏には、かつて庭で爆発した首輪の光景が浮かんだ。
宮殿は急に広すぎる空間になった。両親の亡骸が運び出され、血の跡だけが残された玉座の間は、不気味な静寂に包まれていた。執事も侍女たちもいない。政府から派遣されたCP5のエージェントが数人、控えめに距離を取って立っているだけだ。
「当主様、今後のご指示を」
エージェントの一人が低声で尋ねた。
私は広すぎるダイニングテーブルを見回した。今までは食事が並び、奴隷たちが給仕していた。今は誰もいない。コーヒーカップを持ち上げても、誰も注いでくれない。
「…不便だな」
本音が零れた。エージェントたちは困惑した様子で視線を交わした。他の天竜人たちは怒り狂い、復讐に血眼になっているという。だが私は、ただ日常の崩壊に戸惑っていた。
図書室に籠もり、書類に目を通す。資産は膨大だが、管理する者がいない。宮殿の維持だけでも数百人の人手が必要だ。政府は「新しい奴隷を手配しましょうか」と提案してきたが、あの爆発首輪の光景を思い出すと、胸がざわついた。
「一人でいい。私専用の奴隷が欲しい」
窓から見えるマリージョアの街並みは、まだ煙が上がっていた。解放の余波は続いている。だが私は、この異常な状況ですら、どこか他人事のように感じていた。ただ一つ確かなのは、世界が変わってしまったということだ。
マリージョアの騒音が耐えられなくなったのは、両親の死から三週目に入った頃だった。宮殿の窓から見える街並みは、未だに黒煙が立ち上り、時折銃声が響く。捕まった奴隷の処罰が続いているらしい。CP(サイファーポール)のエージェントたちが毎日のように報告に来るが、その内容はどれも煩わしいものばかりだ。
「当主様、本日も三人の奴隷商人が処刑されました」
「天竜人連合会議では、報復作戦の計画が進行中でございます」
机の上の紅茶が冷めていくのを見ながら、私は重いため息をついた。この騒動がいつまで続くのか、考えるだけで気が滅入る。父の時代から仕えていた老執事なら、こんな時に適切な助言をくれただろうが、彼も逃亡奴隷の一人となって消えた。
「ここを離れる」
突然の宣言に、CPのエージェントたちが一斉に緊張した表情を浮かべた。
「しかし当主様、現在の治安状況を考えると―」
「うるさい」
私は立ち上がり、壁に掛かった世界地図を眺めた。シャボンディ諸島も混乱の最中だろう。となれば、もっと遠くに行く必要がある。指が地図の上を滑り、西の海に浮かぶ小さな島々に止まった。
「ここへ行く」
エージェントたちが顔を見合わせる。選んだのは、世界政府加盟国の中でも最も辺境に近い島だった。農業と漁業が主な産業で、観光客もほとんど訪れない。まさに「忘れられた島」と呼ぶにふさわしい場所だ。だが、ここならば喧騒から離れられる。
出発の準備は驚くほど速く整った。天竜人の移動となれば、政府も全力で動く。翌朝には専用の海軍艦艇が手配され、私のための特別室まで用意されていた。甲板に出ると、マリージョアの港が次第に遠ざかっていく。あの忌まわしい騒音から解放される安堵感が、波の音に混じって押し寄せた。
十日間の航海の後、目的の島が見えてきた。緑濃い山々と白い砂浜が印象的な、絵に描いたような平和な島だった。港町はこぢんまりとしており、市場の活気ある喧騒が聞こえてくる。ここなら、あの忌まわしい解放運動の余波も届いているまい。
「当主様、奴隷市場について調べました」
CPのエージェントが小声で報告してきた。
「正式な市場はありませんが、裏通りの倉庫街で…小規模な取引が行われているようです」
島の中心部から外れた地区は、道幅も狭く、建物も老朽化していた。路上には不審な視線を向けてくる男たちがたむろしている。政府高官の制服をまとったCP0の一団に護衛された私は、明らかに場違いな存在だった。
「あの建物です」
エージェントが指さしたのは、外見からは普通の倉庫と見える建物だった。しかし入り口には屈強な男たちが立ち、中からかすかに鎖の音が聞こえた。中に入ると、思った以上に広い空間が広がっていた。天井から吊るされたランプの不気味な明かりが、室内を不規則に照らし出す。
「お客様、何かお探しですか?」
脂ぎった男がにやにや笑いながら近づいてきた。彼の歯の隙間から黄金の詰め物が光る。
「当主様は天竜人です。適当な対応は慎みなさい」
CPのエージェントが威圧的に言うと、男の顔から血の気が引いた。
「天、天竜人様でございますか! このような田舎にまでご足労いただき、誠に―」
「いいから、商品を見せろ」
男は慌てて頭を下げ、奥の部屋へと案内した。そこには十人ほどの奴隷が鎖で繋がれ、壁際に並べられていた。どれもみすぼらしい格好で、目に生気がない。市場の規模が小さいせいか、どれも見るからに粗悪品ばかりだ。
「当主様、これでは…別の場所を探しましょうか?」
CPのエージェントが心配そうに囁いた。しかし私は既に興味を失っていた。こんな粗末な品々では、宮殿の一室を飾るに値しない。ふと視線を動かすと、倉庫のさらに奥に、別の小部屋があるのに気付いた。
「あそこは?」
「あ、あちらは…特別な商品でして…」
男の言葉を無視し、私は自ら歩き出した。CPが慌てて先回りし、部屋の扉を開ける。中は薄暗く、湿った空気が充満していた。
薄暗い小部屋に漂うカビ臭い空気が喉に絡みつく。天井から吊るされた一つのランプが、不規則に明滅しながら部屋の奥を照らし出す。その光の輪の中に、一人の少女が鎖で繋がれていた。
少女の姿が視界に入った瞬間、私は初めて「欲しい」という衝動を覚えた。今まで何百という奴隷を見てきたが、こんな感情は初めてだ。彼女は壁に繋がれた鎖の長さぎりぎりの位置で、膝を抱えて座っていた。薄汚れた布のようなものをまとっているが、それは衣服と呼べる代物ではない。露わになった手足にはむちの跡や古い火傷の痕がくっきりと刻まれ、左足首は不自然な角度に曲がっていた。
「こちらは特殊商品でして…」奴隷商人が卑屈な笑みを浮かべながら説明してくる。「反抗期に入りまして、前の所有者様が手を焼かれたそうで…」
私は商人の言葉に耳を貸さず、一歩、また一歩と少女に近づいた。床のわらじいふたつの痕跡が、激しい抵抗の跡を物語っていた。CPのエージェントが緊張して背後で息を詰まらせる中、私は少女の前にしゃがみ込んだ。
彼女の顔に日光が当たったことがなかったのだろう。肌はろうのように青白く、頬は痩せこけておりるかのように窪んでいた。髪はあるべき長さの半分ほどで不自然に切られ、染料でも混ざったのか一部が変色している。しかしその瞳だけは、驚くほど透明だった。雨に洗われた硝子のように、感情の一切込められていない、虚ろな目だった。
「名前は?」
私の問いかけに、少女はゆっくりと顔を上げた。それでも視線は私を通り越し、どこか遠くを見ているようだ。まるで既に魂がこの肉体から抜け出したかのように。
「返事をしろ」CPのエージェントが早速威圧的な声を上げた。
商人が慌てて介入する。「申し訳ありません、天竜人様。こいつは半年ほど一言も話さず…前の所有者様が舌を切ろうとしたらしいんですが、手間取りまして…」
私は手を挙げて商人を制止した。視線を戻すと、少女は私のマントの裾を漠然と見つめていた。そこには天竜人の証である紋章が刺繍されている。彼女の眼差しには恐怖も憎悪もなかった。ただ、深い諦めだけがある。
「これと、あと三人購入する」
突然の宣言に商人の目が輝いた。「は、はい!どのような者をお求めでしょうか?」
倉庫のメインスペースに戻り、私は冷ややかに目を走らせた。「労働に耐えられる者を」
最終的に、若い男二人と中年の女を選んだ。皆、私の視線に触れた瞬間に震え上がり、泣き出す者もいた。天竜人の購入がどんな運命を意味するか、彼らはよく知っているのだろう。一方で少女は、鎖を外されても変わらず無表情のままで、CPのエージェントたちに引きずられるように歩いていた。
手続きは驚くほど速く進んだ。特に天竜人相手となれば、書類など形ばかりのものだ。三人の労働用奴隷には爆発首輪を装着させたが、少女には何も装着しなかった。その首には既に古い首輪の痕がくっきりと残っており、付け直すのが無粋に思えたのだ。
船に乗り込む際、労働用奴隷たちは恐怖に打ち震えていた。一人の男が突然跪き、「お慈悲を」と泣き叫んだので、煩わしさにCPのエージェントが蹴りつけたのを制止したくらいだ。しかし少女だけは、何事にも動じない様子で、窓から海を見つめていた。彼女の瞳に映る水平線は、歪んだ鏡のように淀んでいるようだった。
「当主様、特別な…扱いが必要でしょうか?」
年配のCPエージェントが意を汲んだような声で尋ねてきた。
私は少女の横たわる姿を見下ろしながら、「必要ない」と答えた。彼女は何も求めていないし、私も今のところ何も与えるつもりはない。ただ、「持っていたい」というだけだ。
船のデッキに出ると、水平線の向こうに夕日が沈みかけていた。この島の名も知らないし、今後二度と訪れることもあるまい。しかしこの航海が、何かを変える予感だけが、胸の奥で脈打っていた。
大理石の階段を上がりながら、現実感が徐々に全を取り戻していった。宮殿の巨大な扉は、両親の時代と同じように静かに開き、私の帰還を告げた。しかし中はやけに静かだ。かつては百人近い奴隷たちが動き回り、あらゆる雑務を処理していた空間が、今はがらんどうのように感じられる。
「当主様、お帰りなさいませ」
玄関ホールに立っていたのは、私が連れて帰ったばかりの中年女性奴隷だった。首輪の存在に怯えながらも、懸命に笑顔を作っている。他の二人の男奴隷もすぐに現れ、頭を深く下げた。彼らには既に、宮殿の基本的な清掃や庭の手入れといった任務が与えられていた。
「奴隷部屋は南翼の二階に準備しました」
CPのエージェントが報告してきた。「監視体制も整えております」
私は小さく頷き、少女の方を向いた。彼女は相変わらず無表情で、広すぎるホールをぼんやりと見上げている。埃まみれの裸足が高級絨毯の上に立つ様は、どこか異様な調和を醸し出していた。
「あれを風呂に入れさせろ」
指差した少女に、女性奴隷がぎょっとした表情を向ける。「で、でも当主様、あの子はまだ…」
「従えないなら、お前を海に捨てる」
女は震えながらも「承知しました」と言い、少女に向かってゆっくりと歩み寄った。驚いたことに、少女は抵抗もせず、女についていった。あれほど激しく抵抗した痕があるというのに、今はまるで操り人形のようだ。
図書室に入り、積もりに積もった書類に目を通す。両親の死後、放置されていた財務報告書、資産管理表、世界政府からの通達…。机の上の銀のベルを鳴らすと、男奴隷の一人が震えながら入ってきた。
「紅茶を」
必要最低限の指示しか与えなかったが、十分すぎるほど恐怖を引き出せたようだ。男は真っ青になり、小刻みに震えながら退出していった。
十分も経たないうちに、少女が連れ戻された。洗い立ての白いドレスを着せられ、髪も短いながらきれいに梳かれている。しかし彼女の様子は何も変わっていない。むしろ、きれいになることでかえって不自然さが増したようにさえ見える。
「手当ては?」
「はい…傷の消毒と骨折の応急処置はしましたが、本格的な治療には医師が必要かと…」
外見からは分からない内傷もたくさんあるのだろう。医者を呼ぶのも面倒だ。私はため息をつき、「明日にしろ」と告げた。
夜が更けるにつれ、宮殿の静寂がより一層際立ってきた。かつては奴隷たちの足音で絶えず賑わっていた廊下も、今では私の足音だけが冷たく響く。南翼の奴隷部屋を視察すると、三人の労働用奴隷が粗末ながらも清潔な寝具を与えられ、休息を取っていた。彼らは私の姿を見るなり、慌てて起き上がり、壁に張り付くようにして頭を下げた。
「明日から、東棟の掃除を始めろ」
彼らが理解したか確認もせず、私はそう告げて部屋を出た。爆発首輪を装着しているとはいえ、夜間の監視はCPに任せきりにしていた。逃亡を防ぐための常識的な措置にすぎない。
台所を覗くと、女性奴隷が明日の朝食の準備をしていた。私が現れると、彼女は恐怖で手に持っていたスプーンを落とした。
「ご、ご主人様…何かお望みで?」
「続けろ」
彼女は震える手でスプーンを拾い上げ、作業を再開した。冷蔵庫には十分な食材が並び、奴隷たちもきちんと食事を取れるようにしてある。以前の執事たちが使っていたメニュー帳もそのまま残してやった。効率的に働かせるためには、健康管理は欠かせない。
少女は私の寝室に隣接する小部屋に寝かせていた。医師を呼ぶ前に、まずは栄養状態を改善する必要があると判断したからだ。ドアを開けると、彼女はベッドの端で丸くなり、壁を見つめていた。差し入れたスープには手を付けていない。
「食べろ」
命令しても反応はない。私はため息をつき、ベッドの脇に立った。
「名前は?」
相変わらずの無反応。彼女の視線は虚空をさまよっている。
「お前はもう私の所有物だ。反抗しても無駄だ」
そう言いながら、私は彼女の左足首の不自然な角度を見た。下手に治療すれば、一生跛になるだろう。道具としての価値が下がっては困る。
「明日、医者を呼ぶ」
ようやく少女のまつ毛がかすかに震えた。医者という言葉に反応したのか、それとも単なる偶然か。その目には依然として何の感情も読み取れない。
「寝ろ」
ドアを閉めようとした時、ふと気がついた。この部屋にはかつて、母が寵愛していた少年奴隷が住んでいた。あの少年は毎晩、泣き声を押し殺していたというのに、この少女はあまりにも静かだ。
自室に戻り、窓からマリージョアの街を見下ろす。他の天竜人たちの屋敷からは、今なお怒号や悲鳴が聞こえてくる。奴隷を虐殺する音だろう。私の宮殿だけが、異様な静けさに包まれている。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、宮殿の大理石の床を黄金色に染めていた。目覚めてすぐ、私は隣室の様子を確認した。少女は相変わらずベッドの端で小さく丸まり、昨夜と全く同じ姿勢を保っている。差し入れたスープは少し減っていたが、それが自発的に飲んだのか、それとも女性奴隷に無理やり飲ませたのかは分からない。
「当主様、医師が到着しました」
CPのエージェントが控えめに告げた。
診察は簡素なものだった。老齢の政府付き医師が少女の傷を調べ、骨折した足首に副木を当て、いくつかの薬を処方した。彼女は医師の触診にも全く抵抗せず、まるで人形のように無反応だった。
「長期間の『調教』と栄養失調が考えられます」医師は小声で報告した。「特に精神的なダメージが深刻でございましょう。話す能力自体はあるようですが…」
医師が去った後、私は労働用奴隷たちの作業状況を確認した。東棟の掃除は順調に進んでいたが、三人とも過度に緊張しているせいか、効率はあまり良くない。女性奴隷が食器を磨いている手は震えており、たびたび銀の皿を床に落とす音が響く。
「壊した分はお前の食事から差し引く」
そう告げると、女は恐怖で顔を歪ませたが、それでも以前の所有者たちに比べれば、私の言葉はまだ穏やかな方だろう。同じ天竜人の中には、食器を一枚落としただけで奴隷の指を切り落とす者もいる。
昼過ぎ、書類仕事に飽きた私は、ふと少女の様子を見に行った。彼女はベッドから移動させられ、窓辺の椅子に座らされていた。陽光が彼女の痩せた頬に当たり、初めてその肌に少し血色が見えたように思えた。
「外が見えるか?」
質問に答える代わりに、彼女はゆっくりと窓の外に目をやった。宮殿の庭には、かつて父が植えさせたエキゾチックな花々が咲き乱れている。その美しさは、彼女の無表情な顔にすら映らないようだった。
「お前には名前がないのか?」
沈黙。
「それとも、答える気がないのか?」
相変わらずの無反応。
私はため息をつき、彼女の前に立った。これほど意思疎通の取れない存在と向き合ったことはない。天竜人として、あらゆる者から畏敬の念を抱かれてきた私にとって、この無反応はある種の挑戦のようにさえ感じられた。
「お前は私の所有物だ。いつかはそれを理解する」
夕方、CPのエージェントが他の天竜人たちの近況を報告してきた。ある家では逃亡奴隷の家族全員が処刑され、別の家では新しい奴隷を購入するために大規模な狩りが行われているという。報告を聞きながら、私は少女のことを考えていた。彼女にも家族はいるのだろうか。もし生きているなら、今頃どうしているだろうか。
「当主様、何かご不満が?」
「…いいや、何でもない」
夜の食事は、CPの監視下で女性奴隷が作ったものだった。私は黙って食べ、余った分は奴隷たちに与えるよう指示した。以前なら、残り物は全て捨てられていたのだ。
ベッドに入る前、もう一度少女の部屋を覗いた。彼女はようやく寝付いたようで、浅い呼吸をしている。医師の薬が効いたのか、それとも単に疲れ切っただけか。ふと、彼女の痩せた手が微かに動くのを見た。まるで、見えない何かを掴もうとするように。
「…夢を見ているのか」
ドアを静かに閉め、私は自室に戻った。このままではいけないという思いが、日に日に強くなっていく。だが、どうすればいいのかはまだ分からない。ただ一つ確かなのは、この少女が他の奴隷とは違うということだ。なぜなら、彼女だけが私の心をかき乱すからである。
翌朝、しきたりに従い天竜人たちの月例集会に出席した。マリージョア中央にあるゴージャスな会議場には、二十家族の天竜人代表が集まっていた。入り口でCP0の厳重なチェックを受けながら、私は周囲の会話に耳を傾けた。
「逃亡した家畜どもは、ここまでで八割方処分したえ」
「我が家の庭で公開処刑したら、残りの奴隷が震え上がって面白かっただえ!」
豪華な絨毯の上を歩きながら、異様な光景が目に入った。ある天竜人が、首輪と鎖につながれた少年奴隷を「ペット」のように引き連れているのだ。少年の肌には新しい火傷痕があり、まともに歩くこともできないようだ。所有者は時折、楽しげに鎖を引っ張り、少年を転がせて笑っていた。
「おや、ホルマス家の若造じゃないか」
突然声をかけられ、私はゆっくりと振り向いた。シャルリア家の当主、肥満体の中年男性がこちらをじっと見ている。
「聞けば、お前んちの奴隷も全員逃亡しただえ?複数回も鞭打ちの刑を逃したお前の責任だえ」
私は静かにため息をついた。「必要なくなった道具が消えただけです」
「ふん、甘いだえ」彼は豪快に笑い、手に持っていたワイングラスを傍らの奴隷少女の頭にぶつけた。少女は痛みに悶えながらも、声ひとつ上げずに涙をこぼす。「見ろ、こうして躾ければ家畜も従順になるんだえ」
会議そのものは形ばかりのものだった。世界政府からの報告、税金の徴収状況、奴隷管理の強化策…。重要な議題として、奴隷狩り艦隊の派遣が決まった時、天竜人たちは一斉に歓声を上げた。特に熱心だったのがドンキホーテ家で、当主自らが「可愛い女の子と美少年をたくさん捕まえるえ!」と叫んでいた。
帰路、私はふと道端の光景に目を奪われた。ロージャル家の奴隷たちが庭の手入れをしているのだが、その中の一人が明らかに関節が不自然に曲がったまま働いていた。どうやら「人間家具」として改造されたらしい。他の奴隷たちも、それぞれ何らかの身体的損傷を負っている。
宮殿に戻ると、労働用奴隷たちが玄関掃除に励んでいた。彼らは私の姿を見るなり、直立不動の姿勢を取った。
「ご主人様、留守中に北棟の書庫整理を完了しました」
男性奴隷の一人が緊張して報告する。彼の体には鞭の痕ひとつない。
「食事は?」
「きちんと三食、ご主人様の指示通り与えられております」
女性奴隷が小声で答えた。彼女たちは天竜人の奴隷としては異常なほど健康そうに見える。
部屋に入ると、少女が昨日と同じ窓辺の椅子に座っていた。医師の薬が効いたのか、顔色は少し良くなっている。私と視線が合うと、すぐに俯く…と思いきや、今回はじっと見つめ返してきた。無感情な視線ではあるが、確かな変化だ。
「外はどうだ?」
質問に答えはなかったが、彼女の指がわずかに動いた。窓の外には、労働用奴隷の一人が庭の手入れをしている姿が見える。逃げもせず、爆発首輪も恐れず、ただ淡々と仕事をこなしている。
「あいつらは幸運だ」私は思わず呟いた。「他の天竜人の奴隷に比べればな」
突然、少女の唇がかすかに震えた。初めての反応に、私は息を飲んだ。しかし結局、彼女は何も発さず、再び無の世界に戻っていった。
夜、書類を整理しながら、今日見た光景を思い返していた。ドンキホーテ家の歓声、ロージャル家の「人間家具」、シャルリア家の残酷なふるまい…。それら全てが、この世界の「普通」なのだ。私はそれを変えようとは思わないが、少なくとも自分の所有物には、そんな無意味な苦痛を与える必要を感じない。
意を決し、私は少女の部屋に向かった。ドアを開けると、彼女はベッドに横たわり、天井を見つめていた。医療用ランプの薄明かりが、彼女の骨ばった輪郭を浮かび上がらせる。
「明日から、この宮殿の書庫整理を手伝わせる」
当然ながら反応はない。
「…拘束はしない。逃げたければ逃げてみろ」
それでも無言。だが、彼女のまぶたが微かに震えたのを、私は見逃さなかった。少しずつ、ほんの少しずつ、彼女の中に何かが戻りつつあるようだった。
月日が流れ、ホルマス聖の宮殿には変化が訪れていた。広大な建物の維持管理には最低でも三十人の奴隷が必要だったが、現在所有しているのはわずか四人。仕方なく、他の天竜人から共用奴隷が派遣されてきていた。
宮殿の西棟で、ホルマスが購入した中年女性奴隷と、ロージャル家から派遣されてきた若い女性奴隷が床磨きをしていた。
「ねえ、あなたたち、本当に一日三食食べられるの?」ロージャル家の奴隷が訝しげに尋ねた。彼女の首には新しい火傷痕があり、左小指が欠けていた。
「ええ、ご主人様のお恵みで」中年女性は静かに答えた。「昨日は野菜スープにパン、それに果物まで…」
「嘘でしょ!?」若い奴隷の目が大きく見開かれた。「私たちは二日に一度の食事で、腐りかけのパンか雑穀粥だけよ」
二人の男性奴隷が重い家具を運んでいるところに、シャルリア家の奴隷が加わった。彼は背中に鞭の跡を無数に刻んでいた。
「おい、聞いたぞ…お前ら、夜もちゃんと寝られるんだってな?」
「はい、南翼の奴隷部屋にはそれぞれベッドが…」
「ベッド!?」シャルリア家の奴隷は声を上げた。「俺らは地下室の鎖につながれて寝るんだぞ! たまにネズミにかじられるけどな」
台所では、ホルマス家の女性奴隷が共用奴隷たちに料理を教えていた。
「ご主人様は残った料理を私たちにくださいます。だから無駄にしないように…」
「信じられない…」ドンキホーテ家の奴隷少女が震える声で言った。「うちでは料理を一口でも味見したら、舌を切られるわ」
ある日、マリージョアに来たばかりの労働用奴隷の一人が、共用奴隷の少年と話していた。
「爆発首輪、重くないか?」
少年は首を傾げた。「え?君たちのは爆発しないの?」
「いや、装着はしてるが…ご主人様はリモコンを一度も手に取ったことがない」
夕暮れ時、共用奴隷たちが宮殿を去る前に、皆で囁き合っていた。
「ここは天国だよ…」
「ほんの一週間でも、こんなに体の傷が癒えるなんて…」
「もし逃げるなら、ここに逃げ込みたい…」
しかし彼らは皆、首を振った。そんなことをすれば、この穏やかな宮殿に災いが及ぶことを知っていたからだ。
一方、ホルマス聖はこうした会話を全て把握していた。CPからの報告で、奴隷たちの会話内容は逐一伝えられていたのだ。だが彼は特に何も言わず、ただ黙って書類に目を通し続けた。これが特別なことだと認識していないからだ。道具を適切に扱うのは、所有者として当然のことなのだから。
共用奴隷たちが宮殿の裏庭で休憩を取っていた。ホルマス聖が許可した故の、聖地においては極めて珍しい光景だ。彼らは日陰のベンチに腰を下ろし、冷たいレモンウォーターを飲みながら囁き合っていた。
「あの…ホルマス様って、本当に変わってるよね」ロージャル家の若い女性奴隷が恐る恐る口を開いた。「昨日、書類を落としたんだけど、ただ『拾え』って言われただけだった」
シャルリア家の中年奴隷は首を振りながら答えた。「うちのご主人様なら、即座に鞭で十発だ。先月は書類の綴じ方が気に入らないって言って、秘書役の奴隷の指を三本切断したぞ」
「でもなんでこんなに待遇が違うんだ?」ドンキホーテ家の少年が不思議そうに聞いた。「天竜人ってみんな同じだと思ってた」
ホルマス家の労働用奴隷の一人が静かに話し始めた。「ご主人様は…奴隷を道具だと思ってるらしい」
「道具?」
「ええ。斧や箒と同じように。斧の刃が欠けたら研ぐし、箒の柄が壊れたら直す。無意味に壊したりはしない」
共用奴隷たちは一瞬沈黙した。この発想自体が、彼らにとっては革命的に思えた。
「あの…南の部屋にいる子のことは知ってる?」別の労働用奴隷が小声で言った。「あのボロボロの少女」
「ああ、たまに見かける」ロージャル家の女性が目を輝かせた。「すごく綺麗なドレスを着てるけど、足が不自由で…ご主人様が毎日会いに行ってるんでしょ?」
「購入した時からあの状態らしいよ」ホルマス家の女性奴隷が頷いた。「最初はもっとひどかったって。医者を呼んで、少しずつ治療してるみたい」
「え? 天竜人が奴隷の治療?」シャルリア家の奴隷は驚きを隠せない。「うちでは病気の奴隷はすぐに海に捨てられる」
「ご主人様はあの子を…特別な道具だと思ってるんじゃないかな」年配の労働用奴隷が考え込むように言った。「高価な美術品のように」
「でも、あの子何してるんだろう?」ドンキホーテ家の少年が興味津々で聞いた。「ご主人様と毎日何話してるの?」
労働用奴隷たちは顔を見合わせた。
「実は…あの子、一言も話さないんだ」
「え!?」
「ご主人様が部屋に入っても、ずっと無言で窓の外を見てるだけらしい」
「それで…怒られないの?」ロージャル家の女性が目を丸くした。
「ご主人様は毎日『今日の調子は?』とか『何か欲しいものは?』って聞くけど…返事がなくても、ただ隣に座って本を読んだりするだけなんだ」
共用奴隷たちは信じられないという表情を浮かべた。天竜人が奴隷の返事を待つだなんて、他の家では考えられない光景だった。
「あの子…前はもっとひどい目に遭ってたんだろうね」ホルマス家の女性が寂しげに呟いた。「ご主人様が買う前の所有者は、舌を切ろうとしたらしいから」
「でも、ここに来てからは…」男性奴隷が続けた。「少しずつだけど、目で追うようになった。ご主人様が部屋を出る時、ちらっと背中を見送るようになった」
ふと、宮殿の二階の窓に人影が見えた。ホルマス聖が、例の少女の部屋に入っていくところだった。奴隷たちは一斉に息を飲み、思わず見上げた。
「あの子…幸せなのかな」誰かが呟いた。
答えはなかった。ただ、レモンウォーターのグラスに映った夕日が、ゆらゆらと揺れていた。
三週間が過ぎた今日も、私は例によって少女の部屋を訪れた。ドアを開けると、彼女は相変わらず窓辺の椅子に座り、外の庭を眺めていた。先日仕立てさせた新しい青いドレスが、彼女の骨ばった肩にかかっている。色こそ似合っていたが、まだ彼女の中に宿るべき"何か"を象徴するまでには至っていない。
「天気は良いな」
毎日のように続けるこの一方通行の会話。今日も返答はないだろうと、私は既に諦めかけていた。彼女の横に置かれたスープは半分ほど飲まれ、パンにもかじり跡がついている。せめてもの進歩だ。
窓の外では共用奴隷たちが庭の手入れをしている。数日前に比べ、彼女の視線が少し長くそれらしき方向に向いていることに気づいた。
「あの者たちは、夕方にはそれぞれの家に帰される」
私はそう告げると、ベッドサイドテーブルに置いてあった本を手に取った。「今日はこれを読む」
椅子に腰を下ろし、ページを開こうとしたその時——
「……そ……と……」
かすかな、風のような声がした。
一瞬、錯覚かと思った。しかし、彼女の乾いた唇が微かに動いたのを見逃すはずがない。本をそっと閉じると、私は動きを止め、息を殺して待った。
少女の指が膝の上で震えている。無表情だった顔に、かすかな苦悶の色が浮かぶ。まるで長年錆びついた鍵穴に、初めて鍵を差し込もうとするような、ぎこちないもがき。
「……そ……の……」
一粒の汗が彼女のこめかみを伝う。言葉を紡ぐことが、どれほどの苦行かを物語っている。
ようやく、ひらがなひとつが形になった。
「……なんで……」
砂埃のようにかすれた声。舌が思うように回らないのか、発音は不明瞭で、唇から零れた息の量が音を上回っているかのようだ。
私はゆっくりと身を乗り出した。彼女の目には、初めて映えるような光があった。だがそれは喜びではなく——混乱に近い、純粋な当惑だった。今まで経験したことのない種類の戸惑い。鞭も鎖もない空間で、自分の立ち位置が計れない困り方。
「なんで、か」
私が繰り返すと、彼女は微かに頷いた。おそらく、彼女の知っている世界では、奴隷が声を出すのは痛みに喘ぐ時か、卑屈に懇願する時だけだったのだろう。
「お前は私のものだ」
この答えが正解かどうか、彼女の眉間に寄る皺が解けない。この少女にとって「所有」の概念は、痛みと恐怖と同義だったに違いない。
「……う……」
もうひとつ、言葉を絞り出そうとする。唇が震え、首筋に汗が光る。無理はさせたくない。だが、ここで遮ることは彼女の努力を否定するに等しい。
「……う……え……」
途切れ途切れの息遣い。少しずつ、とても少しずつ沈殿していく言葉の欠片。
待つ時間が、果てしなく長く感じられた。最後に——
「……う……」
小さな、消え入りそうな声が部屋に落ちた。
「そ……ら……」
彼女は自分の発した言葉に驚いたように、急に目を見開いた。まるで思わず零してしまった秘密のように。すぐに視線を落とし、両手でドレスの裾をぎゅっと掴む。初めての、意思のある反応。今まで見たことない、生きた仕草。
私はゆっくりと頷いた。
「ああ、空だ」
窓の外には、夕日に染まる雲がゆっくりと流れていた。
それからも私は、彼女の変化を日々観察した。最初は無表情で、まるで人形のようだった彼女が、少しずつ、しかし確実に変化していく様子は、まるで枯れかけた花に水を注ぎ、再び命を吹き込むような感覚だった。
「今日は、少し顔色がいいな」ある朝、私は彼女の部屋を訪れ、そう言った。彼女は以前よりはるかに健康そうで、頬には薄らと赤みが差していた。髪は艶やかに光り、瞳には以前にはなかった微かな輝きが宿っている。
「…ありがとう、ございます」彼女はかすかに微笑んだ。まだ言葉はぎこちないが、以前よりははっきりと話せるようになっていた。
「お前には、名前が必要だ」私は彼女を見つめながら言った。「これからは、お前を『ソラ』と呼ぶ」
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。その表情は、まるで初めて何かを与えられた子供のようだった。
「ソラ…」彼女は自分の名前をゆっくりと口にした。その声は、まだ弱々しかったが、確かに喜びが込められていた。
「気に入ったか?」私は尋ねた。
「はい…」彼女は小さく頷き、再び微笑んだ。「ソラ…好きです」
その日から、彼女は「ソラ」として、私の元で過ごすことになった。彼女の変化は、私だけでなく、他の奴隷たちにも明らかだった。彼女が通り過ぎると、皆がちらりと視線を送り、小声で囁き合う。彼女の美しさが日に日に増していることを、誰もが感じていた。
「ご主人様、ソラ様は…本当に美しくなられました」ある日、年老いた執事が私に言った。「まるで、別の人のようです」
「ああ」私は頷いた。「確かに、以前とは別人のようだ」
しかし、私にとって彼女はあくまでも「私の所有物」だった。美しくなったからといって、その本質は変わらない。ただ、その所有物が日々、より価値を増しているという事実が、私に特別な喜びを与えていた。
「今日は、外に出てみるか?」ある晴れた日、私はソラに提案した。彼女は驚いたように目を丸くした。
「外に…出ても、いいのですか?」
「ああ。お前の足もずいぶん良くなった。少し散歩するくらいなら問題あるまい」
彼女の瞳は一瞬輝いたが、すぐに不安そうに俯いた。
「でも…私、外に出るのは…」
「心配するな」私は彼女の肩に手を置いた。「私がついている」
彼女はゆっくりと顔を上げ、私の目を覗き込んだ。その瞳には、信じられないという驚きと、かすかな期待が混ざっていた。
「…はい」
その日、私はソラを連れて、宮殿の庭を散歩した。彼女は初めて見る外の世界に驚き、花に触れ、風を感じ、空を見上げた。その姿は、まるで生まれたばかりの子鹿のようだった。
「気に入ったか?」私は尋ねた。
「はい…」彼女は小さく頷き、花に触れた指をそっと握った。「とても…きれいです」
その瞬間、私は奇妙な感覚に襲われた。彼女の喜びが、なぜか私の心を温かくした。それは、所有する物が期待通りに機能する喜びとは、少し違うものだった。
「これからも、たまに外に出してやろう」私はそう言い、彼女の驚いた表情を楽しんだ。
その夜、私は書斎で一人、ソラのことを考えていた。彼女の変化、美しさ、そしてあの無邪気な笑顔。それらは全て、私の手によって生み出されたものだ。その事実が、私に不思議な満足感を与えた。
「ご主人様」ドアをノックする声がして、ソラが現れた。「お休みになる時間です」
「ああ」私は本を閉じ、立ち上がった。「今日は楽しかったか?」
彼女はかすかに頬を赤らめ、小さく頷いた。
「はい…とても」
私は彼女の頭を軽く撫でた。彼女は驚いたように目を閉じ、その触れ合いを楽しんでいるようだった。
「明日も、何か楽しいことをしてやろう」
「…はい」
彼女の声には、かすかな期待が込められていた。私はその変化を楽しみながら、彼女と共に寝室へと向かった。彼女は私の後ろを、少し離れて歩く。かつての無気力な姿はもうなく、今では確かに「生きている」と感じられる。
しかし、その平和は突然破られた。
その日。マリージョアの宮殿庭園で、春の陽気が穏やかに広がっていた。ソラはホルマス聖の許可を得て、初めて一人で庭の散歩を楽しんでいた。青いドレスの裾が風に揺れ、彼女は小さな花に触れては微笑み、蝶を追っては楽しげに歩いていた。ここ数ヶ月で、彼女の顔には確かに生き生きとした表情が戻りつつあった。
だがこの日。庭園の奥から、鋭い悲鳴が聞こえてきた。思わずその方向に目を向けると、金色の天幕の下で、派手な衣装をまとった天竜人女性が奴隷の少年を鞭で打ち据えているところだった。少年の背中には血が滲み、地面に転がって懇願する姿がソラの視界に飛び込んだ。
「ごめんなさい! もうしません! お許しを!」
ソラの体が一瞬で凍りついた。その光景は、彼女の中に封印していた記憶を急激に呼び覚ました。かつて自分が受けた虐待、痛み、絶望——全てが鮮明によみがえり、彼女の呼吸は浅く速くなっていった。
「やめて…やめて…」
彼女の唇からは、かすかな呟きしか出なかった。足は震え、視界が歪んでいく。周囲の音が遠のき、耳鳴りだけが響く。彼女はその場にしゃがみ込み、必死で目を閉じた。
「ソラ様!?」
ホルマス家の女性奴隷が駆け寄り、ソラの異変に気づいた。しかし、誰も天竜人の行為を止めようとはしない。他の奴隷たちは視線をそらし、ただ事態が過ぎ去るのを待つだけだった。
「何があった?」
ホルマス聖が庭園の小道から現れた。彼はソラが震えている様子を見て、一瞬眉をひそめた。
「あ、あの…ロージャル家のご主人様が…」女性奴隷が小声で説明した。
ホルマス聖はちらりと虐げの現場を見たが、特に反応を示さなかった。天竜人同士の干渉はタブーであり、ましてや奴隷の扱いについて口を挟むことなどあり得ないことだった。
しかし、ソラの状態を見て、彼は静かに近づき、彼女の前に跪いた。
「ソラ」
その声に、ソラはゆっくりと目を開けた。彼女の瞳には恐怖が渦巻いており、涙が頬を伝っていた。
「…ひ…どい…」
かすかな声が震えた。ホルマス聖は一瞬考え、それからソラの肩に手を置いた。
「見る必要はない」
彼はソラを優しく立ち上がらせ、自分のマントで彼女の視界を遮った。虐げの現場から背を向け、宮殿の方へと歩き始めた。
「ご主人様…」ソラの声はまだ震えていた。「あの子…助けて…」
ホルマス聖の足が止まった。彼は深く息を吐き、静かに言った。
「できない」
その言葉は冷たく、しかし現実を突きつけるものだった。ソラは小さくうなだれ、再び震え始めた。
「帰ろう」
ホルマス聖はソラを宮殿へと導いた。後ろではまだ少年の泣き声が響いていたが、彼は決して振り返らなかった。
宮殿に戻ると、ホルマス聖はソラをソファに座らせ、温かい紅茶を取らせた。彼女の手はまだ震えており、カップをうまく持てない。
「…忘れろ」
ホルマス聖はそう言い、ソラの前に座った。彼女はゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた瞳で主人を見つめた。
「でも…私…ああいう目に…」
「お前は違う」
ホルマス聖の声には、いつもより少し力が込められていた。
「私の所有物は、あのような扱いを受けない」
ソラはその言葉を噛みしめるようにして、ゆっくりと頷いた。彼女の震えは少しずつ収まっていったが、瞳の奥には深い悲しみが残っていた。
「今日は休め」
ホルマス聖は立ち上がり、執事に指示を与えた。ソラは温かい毛布に包まれ、自分の部屋へと連れて行かれた。
その夜、ホルマス聖は書斎で一人、今日の出来事を考えていた。窓の外にはマリージョアの街並みが広がり、どこかでまた奴隷の悲鳴が聞こえているような気がした。
「愚かなことだ」
彼は独り言のように呟いた。ソラの恐怖は理解できたが、それに干渉するつもりはなかった。ただ一つ、彼の所有物が傷つくことだけは許さない——それだけが、彼のルールだった。
一方、ソラはベッドで眠れずにいた。天井を見つめながら、今日見た光景と、主人の言葉を繰り返し思い出していた。
「…私だけ…助かって…」
彼女の頬を新しい涙が伝った。ホルマス聖の庇護下にあることへの罪悪感と、あの少年を助けられなかった無力感が、彼女の胸を締めつけた。
しかし同時に、主人が自分の震える体をマントで包んでくれた時の温もりも覚えていた。あの瞬間だけは、確かに守られていると感じたのだ。
ソラは毛布にくるまり、小さく身を縮めた。外では、またしても誰かの悲鳴が風に乗って聞こえてきた。
彼女は、この場所が何なのか、自分がなぜここにいるのか、そしてなぜ特別に扱われているのか、理解できないままだった。毎日、同じ疑問が頭を巡る。この広大な宮殿、豪華な食事、そして自分を「特別」に扱う人々。すべてが謎に包まれている。
「ここはどこ?」ある日、彼女はついに、一人の奴隷に尋ねた。その女性は驚いたように目を丸くし、周りを見回した。
「ここはマリージョアの宮殿ですよ。天竜人様の住まいです」
「天竜人?」彼女は初めて聞く言葉に首を傾げた。
「天竜人様は、世界を治める偉い方々です。あなたは、ホルマス様の大切な方です」
「なぜ、私だけが?」
「それは…」女性は困ったように顔をしかめた。「私にはわかりません」
次に、年配の奴隷に尋ねた。
「なぜ、私は特別なの?」
「それはホルマス聖のお考えです。私たちにはわかりません」
誰に聞いても、同じ答えしか返ってこない。彼女は不安に駆られ、次第に質問の声を荒げていく。
「教えて!私がここにいる理由を!なぜ私だけが違うの!?」
「申し訳ありません、私たちには…」
「知らない!?みんな知らないの!?」
彼女の心は混乱に包まれた。この場所の正体も、自分の立場も、何もわからない。恐怖が全身を駆け巡り、呼吸が荒くなる。
「落ち着いてください。ホルマス様がお世話してくださっているのです。それでいいではありませんか」
「いいわけない!何もわからないのに!」
彼女は部屋に閉じこもり、震える手で頭を抱えた。この不安は、誰にも理解されない。特別扱いされる理由がわからない恐怖。この場所の正体がわからない恐怖。すべてが不透明で、何も信じられない。
「どうして…どうして誰も教えてくれないの…」
涙がこぼれ落ちる。外の世界のことも、自分の過去のことも、何もわからない。このまま、謎に包まれて生きていくしかないのか。この不安は、誰にもわかってもらえない。
「ホルマス様だけが知っていることです。私たちには…」
「やめて!もう聞きたくない!」
彼女は叫び、部屋の隅にうずくまった。誰も真実を教えてくれない。この不安と孤独に、どう対処すればいいのか。何もわからないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
窓辺に立つソラは朝日に照らされる庭を眺めていた。花々が風に揺れる美しい光景が、ほんの少しだけ彼女の心を和ませる。しかし胸の奥ではいつも同じ疑問が渦巻いている。
ここはどこなのか
なぜ私はここにいるのか
そっと窓ガラスに触れる指先に冷たさを感じた時、背後からホルマス聖の気配を察する。彼女は慌てて姿勢を正し、高鳴る胸を抑えた。いつものように無言で部屋に入ったホルマス聖は彼女の横に立つ。
「朝食は済んだか」
平坦な声。返事をしようと喉が締まる。聞きたいことは山ほどあるが、口にすればこの穏やかな時間が壊れるかもしれない。怒られるかもしれない。捨てられるかもしれない——辺境の牢屋に逆戻りするかもしれない。
「はい」
結局それだけが精一杯だった。ホルマス聖は一瞬彼女を見つめ、再び窓の外へ視線を向ける。沈黙が流れる中、ソラはこっそりと彼の横顔を盗み見た。何を考えているのか。自分をどう思っているのか。
「今日は庭を散歩しよう」
突然の提案に目を見張る。散歩?二人で?喜びと不安が入り混じる。話すチャンスかもしれないが、もし何か間違えたら——
「はい」
小さく頷く。ホルマス聖は返事を待たずに歩き出し、ソラは慌てて後を追う。廊下で揺れる彼のマントは、いつもと同じように遠く感じた。
庭では花の香りと鳥の声が広がっていた。ホルマス聖はゆっくりと歩を進め、ソラは少し離れてついていく。ふと彼が立ち止まり、一輪の花を指さした。
「この花は珍しい種類だ」
ソラはそっと近寄り、朝日に輝く赤い花びらを見つめる。
「きれいです」
思わず零した言葉に、ホルマス聖はかすかに目を細めた。再び歩き出す背中に、ソラの胸はざわつく。聞いてくれたのだろうか。それとも——
「お前は花が好きか」
突然の問いに顔を上げると、ホルマス聖がまっすぐに見下ろしていた。初めての趣味を尋ねる声に、胸が締め付けられる。
「はい」
短い返事の後、ホルマス聖は少し考え込むように沈黙した。
「明日から部屋に花を飾るようにしよう」
歩き出す背中に、ソラの胸は熱くなる。同時に恐怖も込み上げてきた。優しさに慣れるほど、失うのが怖くなる。ふと袖に触れそうになった手をぎゅっと握りしめる。二人の間の見えない壁は、今も厚いままだ。
散歩を終え、部屋に戻る。ホルマス聖はいつものように無言で去っていく。ドアが閉まる音を聞きながら、ソラは部屋の中央に立ち尽くす。
「聞けなかった」
こみ上げる涙を必死に堪える。泣けばあの牢屋に戻されるかもしれない。窓の外で揺れる花を見つめ、明日届くという花を想像する。小さな期待と、それがもたらすかもしれない苦しみ。言葉にできない想いが、二人の間に重く横たわっていた。
ホルマス聖は朝食の席で、ソラに向かって静かに告げた。
「明日、シャボンディ諸島に行く」
ソラの手に持ったフォークが一瞬止まったが、すぐに食事を続けた。返事はなかったが、彼女の肩の線がわずかに硬くなったのが分かる。
翌朝、宮殿の正面には政府の特別船が待機していた。CPのエージェント数名が警護に付き、ホルマス聖はソラを連れてゆっくりと船に乗り込んだ。ソラは初めて見る外の世界に目を丸くしていたが、表情は変わらない。
船が港に着くと、シャボンディ諸島の独特な風景が広がっていた。泡が舞う空気、カラフルな建物、そしてどこか緊張感のある雰囲気。ホルマス聖は自らシャボンコートを装着し、ソラにも小さなシャボンを与えた。
「ついて来い」
ホルマス聖はそう言うと、CPの警護の中を歩き始めた。ソラは少し遅れてついていく。彼らの一行を見た島民たちの反応は様々だった。
「天竜人様だ…」
「久しぶりに見たな…」
「あの女は奴隷か?首輪がないぞ」
通りすがりの商人が急いで道を空け、子供たちは母親に引き寄せられた。観光客らしきグループは驚いたように立ち止まり、カメラを下ろした。レストランの従業員は急いで店内に駆け込み、シャッターを下ろす音が聞こえた。
「ご主人様、奴隷市場は1番グローブにございます」
CPのエージェントが小声で報告した。
ホルマス聖はゆっくりと頷き、歩みを進めた。ソラは周囲の視線を感じながら、無表情で主人の後を追う。彼女の視線が、たまに路上で働く奴隷たちに向けられるのが分かった。
「天竜人様が歩いてる……」
「珍しい……あの女、首輪がついてないぞ」
遠くから見ている住人が囁き合う。ホルマス聖はそれらの声に一切反応せず、目的地に向かって淡々と歩き続けた。
道中、街の様子は常に異様だった。天竜人であるホルマス聖が通る道の両側には、人々が一斉にひれ伏し、顔を地面に押し付けていた。商人も兵士も、子供も老人も、皆が一様に頭を下げ、息を殺している。
市場に近づくにつれ、人々の反応はより顕著になった。ある店の主人は急いで高価そうな商品を店頭に並べ始め、別の商人は奴隷たちを急いでひれ伏させた。
「天竜人様、ご機嫌麗しゅうございます」
「天竜人様、この街にいらっしゃるとは光栄です」
ソラはその光景に息を飲んだ。これまで自分が暮らしていた宮殿では、天竜人に対する敬意は感じていたが、街中でこれほどまでに絶対的な権力を持っているとは知らなかった。彼女の指先が微かに震え、喉が渇く。
彼女の心は不安でいっぱいだった。このまま奴隷市場に連れて行かれ、新しい主人に売られるのではないか。それとも、自分がもう不要になったと判断されたのか。足が重く、歩くのが辛い。
奴隷市場の控室に入ると、豪華な絨毯が敷かれた広い部屋だった。ホルマス聖はゆっくりと椅子に腰を下ろし、ソラを見つめた。
「座れ」
ソラは震える足で椅子に座った。部屋には二人きり。外からは市場の喧騒が聞こえる。
「ここは…」ソラは声を絞り出す。「私を売る場所ですか?」
ホルマス聖は眉をひそめ、不思議そうに彼女を見た。
「売る?なぜそう思う?」
「だって…ここは奴隷市場です。そして私は…」
「お前は私の所有物だ」ホルマス聖の声は低く、しかし確かな響きがあった。「売るつもりはない」
ソラは目を丸くした。その言葉に、胸の重りが少し軽くなる。
「では…なぜここに?」
ホルマス聖はしばらく黙り、紅茶を一口飲んでから答えた。
「お前を連れてくることに理由はない。お前は付き従う義務がある」
「それは……」
「お前は特別だ」ホルマス聖は不思議な表情を浮かべた。「なぜか、お前だけは…違う」
ソラの心臓が高鳴る。特別。その言葉が胸に刺さる。
「私が…特別?」
ホルマス聖は自分の言葉に驚いたように眉をひそめた。まるで、自分が言った言葉の重みに気づいたかのようだった。
「…そうだ。お前は他の奴隷と違う。なぜか…気になってしまう」
その瞬間、二人の間の空気が変わった。今まで曖昧だった関係が、はっきりと形を変えようとしている。
「私を…気に?」
ホルマス聖は目を伏せ、少年らしい顔つきで、紅茶のカップを回した。
「お前が笑うと…気分が良くなる。お前が悲しむと…胸が痛む。これは…普通ではない」
ソラは息を飲んだ。天竜人であるホルマス聖が、奴隷である自分に対して、そんな感情を抱いているとは。
「私も…」ソラは声を震わせた。「ご主人様のことが…」
ドアが開き、奴隷商人が入ってきた。
「ホルマス聖、準備が整いました」
ホルマス聖はソラを見つめ、静かに頷いた。
奴隷商人の案内で、オークション会場へと向かう。薄暗い通路を抜けると、扇状に広がった観客席とステージが見えた。会場にはすでに数十人の買い手が集まっており、足元にはたくさんの奴隷が鎖につながれていた。
「こちらへどうぞ、ホルマス聖」
商人が最前列の特別席へと導く。ソラはその横に立ったままで、周りの視線が気になってしまう。天竜人に連れられた女――会場の誰もが彼女の立場を測りかねていた。
「お前も座れ」
ホルマス聖の言葉に、ソラは小さく驚いてから隣の席に腰を下ろした。彼らの後ろでささやき声が広がった。
「天竜人様が自ら座席に…?」
「あの女、いったい…?」
「首輪もなければ、鎖もついてないぞ…」
オークションが始まるまでの時間、ソラはひたすら膝の上で手をもみほぐしていた。ホルマス聖があのようなことを言ったのはなぜか。この場所に自分を連れてきた本当の理由は…
「理由を言おう」
突然、ホルマス聖が口を開いた。声は低く、ささやくように周りに聞こえないようにしている。
「理由…ですか?」
「お前に勘違いさせたままで良くないと思った」
ソラは緊張して息を詰めた。いよいよ本当の目的が明かされるのか…
「宮殿の奴隷が足りない」
「…え?」
「共用奴隷を使い続ければ、いつか他の天竜人たちから問題視される。そこで…新しい奴隷を買い揃えに来た」
ソラは理解できない表情を浮かべた。それだけの理由で今までのあの言葉を…?
「それなら…なぜ私を…」
「お前は必要だから連れてきた」
ホルマス聖はソラをまっすぐ見つめてそう言うと、ステージのほうを向いた。オークションが始まる合図のベルが鳴ったのだ。
「第1ロット、健康な男子奴隷5名!」
ステージに若い男性奴隷たちが引き上げられた。売り子が彼らの特徴を読み上げると、会場から次々と入札の声が上がる。
ソラはホルマス聖の横顔を見つめた。彼は淡々と入札に参加していた。市価の範囲で5人の奴隷を落札すると、次の出品に向けてまた端正な姿勢に戻った。
「部下たちのために…ですか?」
「そうだ」
ソラはその答えに納得できない表情を浮かべた。隣にいる男性は、先ほど「自分は特別だ」と言ったほどの人間だ。それが奴隷の補充といった実務的な目的だけで…
「お前は何か思っているな」
「…いえ」
「言え」
「本当にただ…宮殿のために奴隷を買いに来ただけなのですか?」
質問が口から飛び出した後に、ソラは自分が何をしてしまったのかに気づいて凍りついた。天竜人に対してそんな質問をしていいのだろうか…
ところがホルマス聖は特に苛立った様子もなく、むしろ考え込むように目を細めた。
「…違うのかもしれない」
「…え?」
「お前を連れてくる必要はなかった。しかし…」
「…しかし?」
「何というか…お前がいないと不安になる」
ソラの胸が高鳴った。それは奴隷所有者としての言葉ではなかった。人間らしい情緒が、そこに確かに垣間見えたのだ。
「お前について考えることが…最近多い」
「ホルマス様…」
次の出品が始まったが、ホルマス聖はまったく興味を示さなかった。今はソラと向き合うことに集中しているようだった。
「私は…理解できません。なぜ私だけが…」
「私にもわからない」
誰もがうつむく中、ただ一人堂々と座る天竜人。その隣で、奴隷の少女が不思議な表情を浮かべている――そんな奇妙な光景が、シャボンディ諸島の奴隷市場で展開されていた。
オークションが終わり、ホルマス聖は新たに10人の奴隷を購入していた。若く健康な男女で、宮殿の労働力として申し分ない者ばかりだ。CPのエージェントたちが彼らを船に乗せ、爆発首輪の装着を始める。
ソラは船のデッキに立ち、波間にきらめくシャボンディ諸島を見つめていた。風が髪を揺らし、青いドレスの裾を優雅になびかせる。彼女の横顔には複雑な表情が浮かんでいた。
(私はいったい何なのだろう…)
ホルマス聖の言葉が頭の中で反響する。「お前がいないと不安になる」「お前について考えることが多い」。天竜人が奴隷に対して抱くべきではない感情。それでも、彼の声には確かな温もりがあった。
(特別だと言われて…嬉しい)
その思いに、ソラは自分自身に驚いた。奴隷としての立場を忘れてしまいそうになる。彼女はそっと自分の腕を握りしめ、現実に引き戻そうとした。
(でも、私はやっぱり…)
船の下のデッキから、新しく購入された奴隷たちの怯えた声が聞こえてくる。彼らはこれからどんな運命が待っているのか、不安でたまらない様子だ。ソラはその声を聞きながら、自分がどれほど特別な扱いを受けているかを痛感した。
「風が強くなってきたな」
背後からホルマス聖の声。ソラは慌てて姿勢を正し、振り返った。彼は相変わらず無表情だが、目元がいつもより柔らかく見えた。
「はい…少し肌寒いです」
「中に入れ」
短い会話。それだけなのに、ソラの胸は奇妙に熱くなった。彼が自分のことを気遣ってくれたのだ。奴隷としてではなく、一人の人間として。
船室に入り、ソラは窓際の席に腰を下ろした。海が次第に暗くなっていく。マリージョアに向かう船旅はまだ長い。
(あの人は私をどう見ているんだろう)
ホルマス聖は書類に目を通しながら、時折ソラの方を見た。彼女が窓の外を眺める後ろ姿に、何かを感じているようだった。
(もし私が…普通の奴隷だったら)
ソラは新しく購入された奴隷たちのことを考えた。あの人たちと同じように、鎖につながれ、首輪をはめられ、恐怖に震える日々を送っていたかもしれない。
(でも、私は…)
船が波に揺られるたび、ソラの心も揺れ動いた。喜びと罪悪感、期待と不安が入り混じる。この複雑な感情に名前をつけることはできなかった。
「そろそろマリージョアが見える」
ホルマス聖が窓の外を指さした。遠くに、天竜人の宮殿がそびえ立つ島のシルエットが見えてきた。ソラはその光景を眺めながら、不思議な安堵感を覚えた。
(あそこが…私の居場所)
彼女はそっと胸に手を当てた。鼓動が速い。これからもホルマス聖の傍にいられるという安心感と、それがいかに異常なことかという自覚が、彼女の心を引き裂いていた。
船が港に近づくにつれ、ソラの表情は次第に落ち着きを取り戻していった。どんなに特別な立場でも、彼女はあくまでホルマス聖の所有物なのだ。その現実を、彼女は受け入れようとしていた。
(それでも…きっと)
デッキに出て、岸壁が近づいてくるのを見つめるソラの横に、ホルマス聖が立った。二人の間には言葉はいらないようだった。海風が、彼らの間に流れる不思議な絆を優しく包み込んでいく。
マリージョアの社交界は、天竜人たちの権力と欲望が渦巻く場所だった。ホルマス聖が招かれた茶会の会場には、豪華なドレスをまとった女性たちが主人たちの傍らに控えていた。しかし、よく見ればその目は虚ろで、首には目立たないように加工された首輪の痕がくっきりと刻まれている。
「ホルマス君、久しぶりだえ」
ドンキホーテ家の当主が高笑いしながら近づいてきた。彼の腕には、青白い肌の美少年が鎖でつながれている。少年の首には絹のリボンが巻かれていたが、その下には火傷の跡が覗いていた。
「新しいおもちゃを買ったえ。前のは飽きて海に捨てたえ」
ソラはホルマス聖の少し後ろに立ち、その会話を聞きながら体を硬直させた。少年は無表情で主人の腕に寄り添っているが、目には深い絶望が宿っていた。
「おや、これは…」ドンキホーテがソラを見て目を細めた。「君もついに寵愛奴隷を?美しいえ」
ホルマス聖はわずかに眉をひそめただけだった。「単なる所有物だ」
「ははは、皆最初はそう言うえ!」ドンキホーテはソラの顎を指で持ち上げようとしたが、ホルマス聖がさりげなく遮った。「可愛がってやるえ。飽きたら私に譲ってくれえ」
ソラはその言葉に背筋が凍るのを感じた。寵愛奴隷――それは天竜人社会では「妻」や「愛人」と呼ばれながら、実は単なる性的玩具に過ぎなかった。使い捨ての道具。飽きたら捨てられる存在。
会場を眺めると、あちこちに同じような光景が広がっていた。天竜人たちの傍らには、美しい男女の奴隷が鎖やリボンでつながれ、主人の手の届く位置に置かれている。ある老齢の天竜人は、足元に若い少女を犬のように座らせ、時折髪を撫でては軽蔑的な笑みを浮かべていた。
「ソラ、ワインを持って来い」
ホルマス聖の声にハッとして我に返る。ソラはうなずき、テーブルに向かう。その途中、袖を引かれた。
「あなた、新しいの?」紫色のドレスを着た女性奴隷が囁いた。彼女の首には宝石の首飾りが巻かれていたが、その下には古い傷跡が見えた。「気をつけて…私も最初は優しくされた。でも3ヶ月もすれば…」
ソラは言葉を失い、ただ目を見開くだけだった。女性の腕には無数の針の跡があり、目はすでに魂が抜けているようだった。
ワインを持ってホルマス聖のもとに戻ると、彼は他の天竜人たちと政治談義に興じていた。ソラは静かに傍らに立ち、心の中で自問する。
(私は…この人たちと同じなの?)
ホルマス聖はこれまで一度もそんな風に彼女に触れようとしなかった。しかし、それは単に時期が来ていないだけなのかもしれない。特別扱いされていると思っていたのは、単なる幻想なのか。
「君の奴隷、ずいぶん物思いにふけってるえ」シャルリア家の当主が笑った。「調教が足りないえ。貸してやるから、一週間で従順にしてやるえ」
「必要ない」ホルマス聖の声は冷たく、しかし確固としていた。
ソラはその言葉に一瞬安堵するが、すぐにまた疑問が湧く。なぜ自分だけが違うのか。いつかはあの女性奴隷たちと同じ運命をたどるのか?
茶会が終わり、宮殿に戻る道すがら、ソラはふと質問した。
「ホルマス様…私は…」
「何だ」
「あの人たちのように…なるのでしょうか?」
ホルマス聖は歩みを止め、ソラをまっすぐ見つめた。その視線は複雑で、何かを考えているようだった。
「お前は違う」
それだけ言うと、再び歩き出した。ソラはその言葉にどれほどの真実があるのか、確信が持てなかった。天竜人社会の常識と、ホルマス聖の言葉。どちらを信じればいいのか――
宮殿の門をくぐる時、ソラはふと、寵愛奴隷たちの虚ろな目を思い出した。あの目に自分が映る日が来るのだろうか。それとも、ホルマス聖は本当に違うのか。
パーティーが終わった日の晩。夜の宮殿は静まり返っていた。ソラは自室の窓辺に立ち、マリージョアの美しい街並みを見つめながら深く考え込んでいた。月明かりが彼女の整った顔立ちを浮かび上がらせ、青みがかった髪に淡い光を宿していた。
(私はいったい何のためにここにいるんだろう)
指先で窓ガラスに触れ、冷たい感触に意識を集中させる。今日見た寵愛奴隷たちの姿が脳裏をよぎる。あの虚ろな目、首輪の痕、魂の抜けた笑顔――。
(私はあの人たちとは違う…そうホルマス様はおっしゃった)
胸に手を当てると、心臓の鼓動が速いのに気づいた。購入された時と比べて、彼女の体は見違えるほど美しくなっていた。十分に「寵愛奴隷」としての価値はある。それなのに、ホルマス聖は一度もそんな風に彼女に触れようとしない。
ソラは鏡の前に立ち、自分をじっと見つめた。青い瞳、整った鼻筋、血色の良い唇。かつての痩せこけた姿からは想像もできない変化だ。
(この美しさが価値なの?)
しかし、それだけだろうか。ホルマス聖は彼女がまだボロボロだった時から、特別な関心を寄せていた。美しくなる前から。
ベッドに腰を下ろし、これまでの日々を思い返す。ホルマス聖が彼女に求めてきたものは何か。労働でもなく、性的奉仕でもなく…ただ「存在」そのものだった。
(私の何が彼を引きつけるのか)
ソラは部屋の中をゆっくりと歩き回った。本棚に手を伸ばし、ホルマス聖がくれた本に触れる。彼が読んで聞かせた詩集、彼女のために選んだ歴史書。どれも寵愛奴隷に与えるようなものではない。
突然、ある考えが閃いた。
(もしかしたら…私は「物」ではないの?)
その瞬間、胸に熱いものがこみ上げてきた。天竜人にとって奴隷は道具に過ぎない。しかし、ホルマス聖は彼女を――。
「違う…」ソラは小さく呟いた。「私はまだ何もわかっていない」
彼女は窓辺に戻り、冷たいガラスに額を押し当てた。自分が特別なのは確かだ。しかし、その理由はまだ見えていない。ただ一つ言えるのは、このまま受け身でいるわけにはいかないということだ。
(私が、私の価値を見つけないと)
ホルマス聖が彼女に何を求めているのか。それ以上に、彼女自身が何を提供できるのか。美しさだけではない、もっと本質的な何か。
ソラは静かに目を閉じた。明日からは、もっと積極的に動こうと決心した。本を読み、音楽を学び、会話を上達させる。かつて奴隷だった自分にできることは限られているが、それでも――。
(この場所で、私にしかできないことがあるはず)
ふと、ホルマス聖が稀に見せるあの表情を思い出す。疲れた時に眉間に寄る皺、紅茶を気に入った時に目元に現れる柔らかさ。誰も気づかない、彼の人間らしい一面。
ソラはそっと胸に手を当てた。この存在そのものが、孤独な天竜人に何かを与えているのかもしれない。それならば、もっと意識的にその役割を果たせるはずだ。
月が雲間に隠れ、部屋が暗くなっていく。ソラの心には、新たな決意が灯り始めていた。受け身の奴隷ではなく、自らの意思でこの関係を築いていくという決意。
朝の仕事が一段落した頃、ソラはキッチンにいた奴隷たちの元へ向かった。新しく購入された奴隷たちは、必死で床磨きや食器洗いをしている。彼らの動きには、他の天竜人屋敷での経験から来る恐怖が滲んでいた。
「休憩してもいいのよ」ソラが声をかけると、若い女性奴隷が驚いたように顔を上げた。
「でも…前のご主人様のところでは、昼まで休憩なんて…」
「ここは違うわ」ソラは微笑み、テーブルに紅茶の入ったカップを並べた。「ホルマス様は、仕事が終わっていれば雑談も許してくださる」
奴隷たちは半信半疑でテーブルに集まった。最初は緊張していたが、温かい紅茶とソラの穏やかな態度に、次第に打ち解けていった。
「ソラ様は…特別なんですね」若い男性奴隷が恐る恐る言った。「ご主人様と一緒に外出もなさるし、首輪もつけていない」
「私も最初は首輪をつけられていたわ」ソラは自分の首に触れた。「でもいつの間にか外されていたの」
年配の女性奴隷が深く頷いた。「ホルマス様は確かに変わってらっしゃる。他の天竜人様とは…まるで違う」
「なぜだと思います?」ソラは真剣な眼差しで聞いた。
奴隷たちは顔を見合わせた。新しく来た少年奴隷が小さな声で言った。
「…優しいから?」
「天竜人様に『優しい』なんて言葉は似合わない」別の女性が首を振った。「きっと何か理由があるはずよ」
ふと、古株の男性奴隷が口を開いた。「そういえば…ホルマス様は両親を亡くされてるんだ」
一同が息を飲んだ。天竜人の私事を口にすること自体、他の屋敷では考えられないことだ。
「奴隷解放の騒動の時だよ」彼は周りを見回し、声を落とした。「ご両親が襲われて、ホルマス様だけが生き残られたんだ」
「それで…孤独なのかしら?」年配の女性が考え込むように言った。
「いや、天竜人様が孤独なんて…」少年奴隷が戸惑ったように言うと、
「でも、ソラ様を特別扱いするのはそのせいかもな」古株の男性が続けた。「ご両親を亡くされて、何かを求めてらっしゃるのかもしれん」
ソラは紅茶のカップを両手で包み、その温もりに思いを馳せた。ホルマス聖が両親を失ったこと――それは彼の行動を説明する一つの鍵かもしれなかった。
「あの…」新しく来た女性奴隷が恐る恐る言った。「ホルマス様は、ソラ様を…『妻』にしようとしてらっしゃるんですか?」
場の空気が一瞬凍りついた。ソラの頬が微かに赤らんだ。
「違うわ」年配の女性がきっぱりと言った。「寵愛奴隷なら、とっくにそうなってる。何か別の理由があるはずよ」
「私もわからないの」ソラはカップを見下ろしながら言った。「でも…ホルマス様が何を求めているのか、知りたいと思って」
奴隷たちはそれぞれに考え込んだ。彼らの会話は、一部の事実と多くの推測で成り立っていた。奴隷解放以前のことを知る者がいないため、全てが断片的な情報だった。
「とにかく」古株の男性がまとめるように言った。「ホルマス様は普通の天竜人様とは違う。その理由はわからんが、我々は幸運だ」
一同が頷いた。外では、他の天竜人屋敷から鞭の音と悲鳴が風に乗って聞こえてくる。それに比べれば、この屋敷は確かに天国だった。
夕暮れの書斎で、ソラはホルマス聖の傍らに静かに座っていた。いつもの習慣だ。彼が書類に目を通す間、彼女は本を読み、時折紅茶を注ぐ。今日も特に変わらない時間が流れていた。
ふと、ソラは本から目を上げ、ホルマス聖の横顔を見つめた。窓から差し込む夕日が、彼の整った輪郭を金色に縁取っている。いつもならすぐに視線をそらすところだが、今日は違った。
「ホルマス様」
声が出た。普段なら考えられない行為だ。ホルマス聖は眉をひそめず、ただ静かに顔を上げた。
「何だ」
「お疲れではありませんか」
ほんの些細な問い。しかし、これまで彼女から発せられたことのない種類の言葉だった。ホルマス聖は一瞬、驚いたように目を細めた。
「…疲れなどない」
「でも、ずっとお仕事ですもの」
ソラはそっと立ち上がり、ホルマス聖の背後に回った。震える手を抑えながら、彼の肩に触れる。これが許されるのか、わからない。でも、今日は違うのだ。
「マッサージを…させてください」
驚くことに、ホルマス聖は拒まなかった。ソラの指が彼の肩に触れる。固くなった筋肉に、優しく圧をかけていく。
「…どこで覚えた?」
「ここで教わりました。疲れを取るのに…いいそうです」
沈黙が流れる。ソラの指先は、初めて与えるこの行為に必死だった。愛情を込めて、でも押し付けがましくなく。主人と奴隷の関係を越えて、でも越えすぎないように。
「…気持ちいいですか?」
「…うむ」
その短い返事に、ソラの胸が熱くなった。彼女はそっと息を整え、さらに丁寧にマッサージを続けた。ホルマス聖の肩の力が、少しずつ抜けていくのがわかる。
「ホルマス様」
また声をかけた。今日のソラは、いつもと違う勇気を持っている。
「何だ」
「私…」
言葉が出てこない。代わりに、彼女の手が自然とホルマス聖の頭に移り、髪を優しく撫で始めた。これがどこまで許されるのか、彼女自身もわからない。でも、もう止められない。
「…何をしている?」
ホルマス聖の声には怒りはなく、ただ純粋な疑問があった。
「お世話を…しています」
「お前は奴隷だ。そんなことをする必要はない」
「でも…」
ソラの手が一瞬止まった。しかし、すぐにまた動き始めた。
「…したいのです」
その言葉に、ホルマス聖は深く息を吐いた。拒むでもなく、ただ受け入れている。ソラはその反応に小さな喜びを感じ、さらに優しく髪を梳かした。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。二人の影が長く伸び、壁で一つになっていく。いつもなら緊張で張り詰めた時間が、今日はどこか温かく、柔らかかった。
「…十分だ」
やがてホルマス聖が言った。ソラは素直に手を止め、少し離れた。彼はゆっくりと立ち上がり、ソラを見つめた。その目は、いつもより柔らかく見えた。
「明日も…させてください」
ソラは下を向きながら、そう囁いた。ホルマス聖は一瞬考え、
「…構わん」
そう答えると、静かに書斎を出ていった。残されたソラは、自分の手のひらを見つめ、そこに残った彼の髪の感触を確かめた。
初めて与えた愛情。それが受け入れられた喜びと、これからどうなるのかという不安が、彼女の胸の中で絡み合っていた。しかし一つ確かなのは、今日を境に、何かが変わったということだ。
窓の外では、最後の一片の夕日が沈もうとしていた。ソラはその光を浴びながら、そっと微笑んだ。
そして、夕暮れの光が書斎の窓を赤く染める季節が、何度も巡った。ソラは今、17歳の春を迎えていた。青みがかった長い髪は絹のように滑らかで、窓辺に立つたびに陽光を透かして輝いた。成長した体はしなやかな曲線を描き、かつての痩せこけた面影はすっかり消えていた。
「ホルマス様、新しい紅茶を持ってきました」
彼女の声は以前より確かに豊かになっていた。ホルマス聖は書類から顔を上げ、ソラの姿を一瞥した。17歳となった彼も、少年らしさから青年へと変わりつつある。天竜人の正装に身を包んだ姿は、どこか凛々しさを増していた。
「置け」
ソラは優雅にテーブルに紅茶を置くと、いつものように彼の背後に立った。この2年間、彼女の「お世話」は少しずつ形を変えていた。最初は肩のマッサージだけだったのが、今では髪を梳かし、時折そっと頭に触れるまでになっていた。
「ホルマス様、今日は特に肩が凝っていますね」
彼女の声は蜜のように甘く、かつて牢屋で嗄れていた声からは想像もできないほど美しく響いた。ホルマス聖は目を閉じ、ソラの指の動きに身を委ねる。彼もまた17歳の青年らしい風格を身につけ、天竜人の威厳と若さが不思議に調和していた。
「先日の会議が長引いた」
ソラの指がホルマス聖の首筋に触れた瞬間、二人の間に微妙な空気が流れた。彼女は意識的に触れたわけではなかったが、その接触は以前とは明らかに異なる緊張感を生んだ。
「…ソラ」
「はい?」
「もう外に出さない」
突然の言葉に、ソラの手が止まった。ホルマス聖はゆっくりと椅子を回し、彼女と向き合う。夕日がソラの横顔を照らし、長い睫毛が影を作る。かつては骨ばっていた頬は今では滑らかで、唇は自然に赤く色づいていた。
「先日、他の天竜人たちがお前を見た時の目を覚えているか」
ソラはそっと目を伏せる。先週の茶会で、彼女の美しさは天竜人たちの欲望の的となった。ドンキホーテ家の当主は「譲ってくれ」と執拗に迫り、シャルリア家の息子は公然と欲望を露わにした。
「私の所有物に、あのような目を向けるとは」
ホルマス聖の手が、思わずソラの頬に触れた。その温もりに、ソラの息が少し速くなる。二人の距離は自然と近づき、ソラの長い睫毛が震えるのが見えた。
「ホルマス様…私、きれいになりすぎたのでしょうか」
その言葉は、かつての彼女なら決して口にできなかっただろう。今では鏡を見て、自分が美しいことを自覚していた。ホルマス聖の黒い瞳に映る自分の姿は、まさに「天竜人の寵愛奴隷」として完璧な美しさを備えていた。
「愚問だ」
ホルマス聖の指がソラの顎をそっと持ち上げる。二人の顔が近づき、吐息が混ざり合う。ソラの胸は高鳴り、頬は薄紅色に染まった。かつて牢屋で震えていた少女とは別人の、艶やかな女性の色気がそこにあった。
「ご主人様…」
ソラの声はかすかに震え、甘く響く。ホルマス聖の目が彼女の唇に止まり、一瞬、時間が止まったように感じられた。
しかし、ホルマス聖は突然距離を置くと、静かに立ち上がった。
「もう遅い。休むがいい」
「…はい」
ソラは少し名残惜しそうに、しかし従順に頷いた。二人の間には、もはや明確な主従関係以上のものが存在していた。それは言葉にされないまま、しかし確実に育っていた。
廊下に出たソラは、ふと鏡に映った自分を見つめた。かつては汚れと傷だらけだった肌は今では陶器のように滑らかで、青い瞳は宝石のように輝いていた。ホルマス聖が「外に出さない」と言った理由が、痛いほど理解できた。
「私…本当に変わったのね」
彼女の指が鏡に触れる。そこに映るのは、もはや誰の所有物でもない、一人の美しい女性だった。しかし心は、紛れもなくホルマス聖に向けられていた。
しかし、その二人の平穏な日々に影が落ちる。
マリージョアの夜は、奴隷たちの囁きで満ちていた。西地区の共同宿舎では、十人ほどの奴隷が薄暗いランプの下に集まり、声を潜めて話し合っていた。壁に耳があるこの街では、どんな秘密もすぐに広がる危険があった。
「聞いたか?東の海でまた動きがあるらしい」
若い男性奴隷が震える声で言った。彼の首には新しい鞭の痕が刻まれ、左目の下は青黒く腫れていた。
「嘘だろ…前回の解放運動からまだ二年しか経ってない」
年配の女奴隷が疑い深げに首を振った。彼女の右手の小指と薬指は根元から失われていた。
「いや、本当だ」別の奴隷が前のめりになった。「我が家の執事が、政府高官の話を盗み聞きした。革命軍が再結成され、今度はもっと大規模な作戦を計画しているって」
部屋の空気が一瞬張り詰めた。奴隷たちの目に、かすかな希望の灯がともる。前回の解放運動で自由を得た仲間たちのことを、彼らは密かに羨んでいた。
「でも…失敗したらどうなる?」
少年奴隷の声は恐怖に震えていた。彼は前回の解放運動後の大粛清を覚えていた。路上に並べられた処刑台、海に投げ込まれる仲間たち…。
「あの時より準備が整っているらしい」
傷だらけの男が力強く囁いた。
「今度は世界中の反乱軍が連携するんだ。天竜人の力も限界だ」
一方、ロージャル家の地下牢では、もっと具体的な計画が練られていた。鎖につながれた三人の奴隷が、看守の目を盗んで地図を広げている。
「この排水路を使えば、港まで行ける」
片目の女が指でなぞった。
「船を奪って、革命軍の拠点へ…」
「でも、首輪は?」
若い女が不安そうに首の爆発装置に触れた。
「技術者がいる。外す方法を開発したんだ」
三人は固く握手を交わした。彼らにはもう失うものは何もなかった。
街中で、そんな囁きが蜘蛛の巣のように広がっていく。市場で野菜を選びながら、道路を掃きながら、夜のトイレ掃除をしながら…。奴隷たちは創意工夫を凝らして情報を伝え合った。ある者は洗濯物に暗号を縫い込み、ある者は料理の盛り付けで合図を送った。
「来月の満月の夜だ」
「東の港に集まれ」
「準備を怠るな」
その噂は、やがてホルマス聖の屋敷にも届いた。新しく購入された若い奴隷が、台所で他の使用人たちに囁いた。
「…本当です。妹がドンキホーテ家で働いていて…」
年配の料理人は慌ててその口を塞いだ。
「バカな!そんな話を信じるな。前回の後始末を忘れたのか?」
「でも、もし本当なら…」
庭師の男が遠い目をした。
「故郷に帰れるかもしれない」
「ここよりマシな場所があるのか?」
紅茶係の女性が冷ややかに言った。
「外に出れば、あの地獄に逆戻りだ」
屋敷の奴隷たちは複雑な表情を浮かべた。彼らは確かに幸運だった。鞭も鎖もなく、十分な食事と休息が与えられていた。しかし…それでも奴隷は奴隷だ。
「もし逃げるとしたら…ソラ様は?」
誰かがふと口にした。一同は沈黙した。あの美しい青髪の少女は、もはやこの屋敷の象徴のような存在だった。
「あの方は…違うだろう」
「ホルマス様が許さない」
「そもそも、あの方に逃げる気があるのか?」
話はそこで途切れた。彼らには判断がつかなかった。自由への渇望と、今の安定した生活のはざまで、奴隷たちの心は揺れ動く。
一方、屋敷の書庫では、ホルマス聖がCPからの報告書を読んでいた。そこには、マリージョア中に広がる不穏な噂が詳細に記されていた。彼は静かに書類を閉じ、窓の外を見やった。満月が近づいていた。
漆黒の夜に、マリージョアの静寂を破る轟音が響き渡った。東地区の倉庫街から突如として火柱が上がり、赤い炎が夜空を染める。同時に、街のあちこちで警報のサイレンが鳴り響いた。
「解放だ!今だ!」
ドンキホーテ家の地下牢で、鎖を引きちぎった大柄な奴隷が叫ぶ。仲間たちに鍵を配り、鉄格子を蹴破る。外では既に、何十人もの奴隷が闇に紛れて駆け出していた。足枷を引きずりながら、爆発首輪を気にしながら、それでも必死に東を目指す。
「急げ!港まであと少しだ!」
シャルリア家の庭では、若い奴隷たちが塀を乗り越えようとしていた。一人が滑り落ち、衛兵に見つかりそうになるが、仲間が手を引っ張る。鞭が空を切り、弾丸が飛び交う中、彼らは必死に走った。
「待って!私を置いていかないで!」
ロージャル家の寵愛奴隷だった少女が、豪華なドレスを裾から引き裂きながら仲間を追う。首輪の宝石が月明かりにきらめく。彼女の頬には、初めての自由への期待と恐怖の涙が光っていた。
街中がパニックに包まれる。政府軍の兵士たちは、なぜか動きが鈍い。奴隷たちを追いかけはするが、本気で止めようとする様子がない。まるで、逃がすことを前提に追いかけているようだった。
「変だぞ…あいつら、本気で止めに来ない」
逃亡中の奴隷の一人が仲間に囁く。
「構うか!このチャンスを逃すな!」
奴隷の群れは東の港へと殺到した。途中、ホルマス聖の屋敷の前を通りかかった時、一人の少年が足を止めた。
「おい…あの屋敷、静かすぎないか?」
確かに、ホルマス聖の屋敷だけは異様に平穏だった。門の前にはCPのエージェントが立っているが、特に警戒態勢を取っている様子もない。窓には明かりが灯り、普段と変わらない日常が流れているようだった。
「あの屋敷の奴隷は逃げないのか?」
仲間が少年の腕を引っ張る。
「構ってる場合か!早く来い!」
少年は最後にもう一度屋敷を見やり、首を振って走り去った。彼には理解できなかった。なぜあの屋敷の奴隷たちだけが、この自由のチャンスを利用しないのか。
港では、数十人の奴隷が小船に飛び乗っていた。誰もが必死で櫂を握り、沖合いに停泊しているという解放軍の船を目指す。
「自由だ…!」
「やっと…やっと!」
喜びの声が港にこだまする。しかし、どこかで薄々気づいていた者もいた。政府軍の対応がおかしいこと、計画が順調すぎること…。それでも、奴隷たちは自由を求めて海へと駆けていく。
一方、ホルマス聖の屋敷では、奴隷たちがいつも通りに就寝の準備をしていた。外の騒ぎは聞こえていたが、誰一人として逃げようとする者はいない。紅茶係の女性が窓の外を見やり、小さく呟いた。
「…あの人たち、どうなるのかしら」
「残念だが、逃げ切れるとは思えない。脱走を何度も許すはずがない」
年配の料理人が肩をすくめる。
屋敷の書斎では、ホルマス聖がCPからの報告を聞いていた。街の混乱、逃亡した奴隷の数、政府軍の対応…。全てが計画通りだった。
「当主様、当家の奴隷は…」
ホルマス聖は静かに窓の外を見つめた。月が雲間に隠れ、一瞬、マリージョアの街が闇に包まれた。
そしてーー
東の海に逃れた奴隷たちの眼前に、突然眩いサーチライトが照らし出した。小船で沖合いを目指していた数百人の逃亡者たちは、瞬時に視界を奪われ、混乱に陥った。
「な、何だあれは!?」
「船があるはずだろ!?解放軍の——」
その言葉が終わらないうちに、海上に停泊していたはずの「解放軍の船」から、鮮やかな花火が打ち上げられた。赤、青、金の光が夜空を彩り、爆音と共に天竜人の紋章が浮かび上がる。同時に、偽装が剥がれた船からは、豪華な衣装をまとった天竜人たちの笑い声が聞こえてきた。
「ははは!見たかアイツらの顔!」
「賭けに勝ったえ!やっぱり三割も逃げないえ!」
「我が家の奴隷は全員逃亡だえ!罰ゲームだえ!」
港に残っていた奴隷たちは、恐怖で膝を折った。目の前の海が突然「天竜人の宴席」に変わったのだ。小船の上で呆然とする逃亡者たちを、政府の艦艇が悠々と包囲していく。
「おいおい、本気で逃げられると思ったのかい?」
「かわいいえ!もっと抵抗すると思ったえ!」
天竜人たちは船上から嘲笑い、逃亡奴隷たちの狼狽ぶりを楽しんでいた。ドンキホーテ家の当主は黄金のメガホンを持ち出し、海上に漂う奴隷たちに向かって叫んだ。
「お前たちの『革命軍』はここだえ!ははは!」
その言葉と共に、海上で逃亡奴隷たちの首輪が一斉に光り始めた。爆発はしないが、明るい閃光を放ち、奴隷たちの狼狽ぶりを照らし出す。彼らは皆、天竜人の「遊び」の駒にされていたのだ。
「な…何だって…」
「全部…嘘だったのか…」
逃亡奴隷の一人が崩れ落ちるように小船に座り込んだ。仲間たちの顔には、絶望の色が浮かんでいる。政府軍の兵士たちが、ようやく本気の笑いをこらえながら回収に向かっていた。
「なぜ逃亡しなかった?本当の理由を言え」
一方、ホルマス聖の屋敷では、CPの上級エージェントが奴隷たちを取り調べていた。
紅茶係の女性は俯きながら答えた。
「…同じ奴隷として、あのような軽率な行動は恥ずかしいと思いました」
「たわごとを!」CPエージェントが机を叩く。「他に理由があるはずだ。洗脳か?脅迫か?」
年配の料理人が静かに首を振った。
「いいえ、単に…ここでの生活に満足しているからです」
CPエージェントは困惑した表情を浮かべた。マリージョアで「自発的に逃亡しない奴隷」など聞いたことがない。調査は深夜まで及んだが、結局納得のいく答えは得られなかった。
夜明け前、奴隷たちが台所に集まった。外では、連行される逃亡奴隷たちの嗚咽が聞こえる。
「やっぱり…あんなうまい話があるわけなかった」
庭師の男が深く息をついた。
「ソラ様を信じてよかった」
若い女中が小さく呟く。
「あの方があんなにホルマス様を信頼しているのを見て、私も…」
年配の料理人が皆を見回した。
一同が静かに頷く。ソラの存在が、この屋敷の奴隷たちに与えた影響は計り知れなかった。彼女がホルマス聖と築いた特別な関係が、他の奴隷たちにも「別の可能性」を見せていたのだ。
明け方の薄明かりの中、ホルマス聖が書斎の窓から外を見下ろしていた。CPの報告によれば、当家の奴隷は一人も逃亡していないという。
「…ソラか」
その名前を口にしながら、ホルマス聖は背後に振り返る。
朝もやが立ち込める庭園で、ソラは青白い顔をして立ち尽くしていた。夜通し続いた逃亡奴隷の連行の音が、まだ耳に残っている。彼女の指先は冷たく、震えが止まらない。
一方の彼の表情はいつも通り冷静だが、目元に疲労の影が浮かんでいる。
「ご主人様…」
「一睡もしていないようだな」
ソラは下を向いた。涙で腫れた瞼を隠すように。
「あの…人たちは、どうなるのでしょうか?」
「いつものように罰せられる。それだけだ」
ホルマス聖の声には何の感情もなかった。それは単なる事実の提示で、他の天竜人の奴隷の運命など、彼にとってはどうでもいいことだった。
「でも…あんなひどい…」
ソラの声がかすれた。握りしめた拳がさらに強く震える。
「ご主人様も…あの…『遊び』をご存知だったのですか?」
ホルマス聖は一瞬沈黙し、ゆっくりと頷いた。
「知っていた。だが止めることはできなかった。天竜人全体の決定だ」
ソラは唇を噛んだ。涙が頬を伝い落ちる。彼女はホルマス聖を責めているわけではない。ただ、自分と同じ境遇の者たちがこれから受けるであろう仕打ちを思うと、胸が張り裂けそうだった。
「…我が家の奴隷は一人も逃げなかった」
ホルマス聖が突然言った。その声は、いつもより少し柔らかかった。
「CPの報告によれば、それはお前の影響らしい」
ソラは驚いて顔を上げた。ホルマス聖の黒い瞳が、まっすぐ彼女を見つめている。
「お前が私を信じ、この屋敷で生きる姿が、他の奴隷たちにも伝わったのだ」
「で、でも…」
「私は…お前に感謝したい」
その言葉に、ソラの目から大粒の涙がこぼれた。天竜人が奴隷に感謝するなど、あってはならないことだ。それこそが、この屋敷の特別さを物語っていた。
「ご主人様…私…」
言葉にならない。喉が詰まり、胸が熱くなる。ソラは必死で涙を拭おうとするが、止まらない。
ホルマス聖は一歩近寄り、ためらいがちに彼女の肩に手を置いた。これもまた、天竜人としてあってはならない行為だった。
「泣くことはない。お前たちは、あのような目に遭わずに済む」
「でも…他の…みんなは…」
「それは…仕方のないことだ」
ホルマス聖の声には、かすかな無力感がにじんでいた。彼もまた、天竜人という立場に縛られていた。
ソラは突然、ホルマス聖の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。これまでなら考えられない行為だ。しかし今は、それ以外の表現ができなかった。
彼女もまた知っていたのだ。
彼の力では、どうしようもなかったことを。
口にはしなくても、心からソラに感謝をしていることを。
「ご主人様…ご主人様…!」
ホルマス聖は一瞬硬直したが、すぐにゆっくりと彼女の背中を撫でた。朝日が二人を包み込み、長い影を庭に落とす。
「お前は…本当に特別だ」
その囁きは、風に乗って消えていった。天竜人と奴隷という立場を超えた、二人だけの瞬間だった。
やがてソラの涙が止まり、ホルマス聖は静かに距離を取った。再び主人と奴隷としての関係に戻るためだ。
「今日は休んでいい」
「いえ…」ソラは涙で濡れた顔を上げ、「いつものように…お世話をさせてください」と訴えた。
ホルマス聖は一瞬考え、小さく頷いた。
「…随分と強情になったな」
その言葉に、ソラはかすかに微笑んだ。涙の跡が朝日にきらめく。彼女の美しさは、もはや誰の目にも明らかだった。しかしホルマス聖が大切にしていたのは、その外見ではなく、この少女が持つ強い心そのものだった。
二人は並んで邸宅へと歩き始めた。背後では、まだどこか遠くから、連行される奴隷たちの泣き声が風に乗って聞こえていた。
20歳の春、ホルマス聖は青年の儀式を終え、大人の男としての風格を身につけていた。
彼の姿は以前よりも堂々として、鋭い眼光はより一層深みを増し、少年の面影はすっかり消えていた。
ソラはいつものように、彼の書斎でマッサージをしていた。指先で肩の筋肉を揉みほぐしながら、彼の背中に触れる指先に、以前とは違う感触を感じた。筋肉の張り、体温、そして何より、彼の吐く息の熱さが、以前とは明らかに異なっていた。
「……ソラ」
突然、ホルマス聖が低い声で彼女の名を呼んだ。その声の響きに、ソラの指先が一瞬止まった。今までにない、深く重い声だった。
「はい、ご主人様」
「……近くに来い」
ソラは一瞬、息をのんだ。彼の言葉の意味を理解するのに、ほんの一瞬の時間がかかった。彼女はゆっくりと、彼の横に移動し、膝をついた。彼の顔は、いつも以上に真剣で、目は熱を帯びていた。
ホルマス聖はゆっくりと手を伸ばし、ソラの頬に触れた。その手のひらは熱く、ソラの肌に熱を伝えた。彼の指が、彼女の顎を優しく持ち上げ、ゆっくりと顔を近づける。ソラは息を殺し、その動きを見つめた。
「……お前は、美しい」
その言葉に、ソラの胸が高鳴った。長い間、彼の口からそんな言葉を聞く日が来るのを、密かに待ちわびていた。彼女の頬は熱くなり、心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。
ホルマス聖の指が、彼女の首筋を撫でる。その触れ方は、今までとは全く違う。優しく、しかし確実に、彼女の肌を確かめるように。ソラは目を閉じ、その感触に身を委ねた。
「……嫌か?」
ホルマス聖の声は、深く、重く、かすかに震えていた。ソラは目を開け、彼の瞳を見つめた。そこには、今まで見たことのない熱い感情が渦巻いていた。
「いいえ……いつでも、お待ちしておりました」
ソラの声は震え、喜びと緊張でかすれていた。ホルマスの指が、彼女の唇に触れる。その触れ方は、今までにないほど繊細で、愛おしむようだった。
「……お前は、私のものだ」
「はい……ずっと、ずっと前から」
ソラは、ついにこの瞬間が来たことを心から喜んだ。長い間、彼の傍で待ち続けた日々が、ようやく報われた。彼女の目に、喜びの涙が浮かんだ。
その涙を指で拭い、ゆっくりと顔を近づけた。二人の息が混ざり合い、ソラは目を閉じた。長い長い待ち時間の終わりと、新たな関係の始まりを、心から喜びながら。
満月の光が書斎の窓を青白く照らす中、ソラはホルマス聖の膝元に跪いていた。20歳を迎えた彼女の肢体は、もはやかつての痩せこけた少女の面影など微塵もない。絹のような青みがかった髪は腰まで流れ、月明かりに浮かび上がる肌は陶器のように滑らかだ。
「もっと近くに」
ホルマス聖の声が低く響く。ソラは震える指先でドレスの肩紐を外し、薄絹の布が静かに床へと滑り落ちた。その下から現れたのは、完璧なまでのプロポーションを誇る肢体だった。鎖骨のくぼみに月影が揺れ、ふくよかながら締まった胸の谷間が浅い影を落とす。
ホルマス聖の手が、ゆっくりとその曲線を辿り始めた。指先が首筋をなぞり、鎖骨の窪みを確かめる。その触れ方は、美術品を鑑賞するように慎重で、かつ熱を帯びていた。
「美しい…」
ため息混じりの呟き。彼の指がゆっくりと下方へ移動し、肋骨の一本一本を数えるように撫で下ろす。ソラは微かに身震いし、吐息を漏らした。長年マッサージをしてきたその手は、今は全く違う目的で彼女の肌を巡る。
「ご主人様…」
ソラの声は甘く震えていた。ホルマス聖の手が腰のくびれに差し掛かり、そこでじっと止まった。親指がくびれの内側を押し込むように撫でると、ソラの背筋がぴんと伸びた。
「ここが敏感か」
薄い笑みが浮かぶ。彼は今、かつてないほど人間らしい表情をしていた。天竜人の冷徹さはどこへやら、青年としての欲望が瞳に渦巻いている。
ソラの肌は次第に淡い薔薇色に染まり始めた。胸の先端が硬くなり、呼吸が浅く速くなるのが分かる。ホルマス聖はその変化を楽しむように、掌で優しく胸の膨らみを包んだ。
「ふ…っ」
思わず零れる吐息。ソラは目を閉じ、長い睫毛が頬に影を落とした。彼女の唇は湿り気を帯び、微かに開いている。ホルマス聖はその唇に指を当て、ゆっくりと下唇を押し下げた。
「開け」
命令に従い、ソラは口を開く。指が舌の上に乗り、その温もりと重みを感じる。じっとりとした音が書斎に響き、ソラの頬はさらに深く染まった。
「お前の全てが…私のものだ」
ホルマス聖のもう一方の手が、太ももの内側を這い上がる。ソラの肌は火照り、触れる部分全てが敏感になっている。指先が腿の付け根に差し掛かった時、彼女の全身が微かに震えた。
「怖いか?」
「い、いえ…」
嘘だった。未知の領域へ踏み込む恐怖と期待が入り混じり、心臓が高鳴っていた。しかしそれ以上に、彼に求められているという喜びが胸を満たしていた。
ホルマス聖はゆっくりとソラをソファに押し倒し、その上から彼女の肢体を見下ろした。月明かりに浮かび上がるその姿は、まさに「美」の極致だった。青白い光が乳房の柔らかな曲線を描き、腰のくびれを強調し、腿のなめらかなラインを浮かび上がらせる。
「永遠に…私のものだ」
その宣言と共に、彼の唇がソラの鎖骨に触れた。熱い吐息が肌に当たり、ソラは思わず天を仰いだ。長い髪がソファから流れ落ち、絹のカーテンのように広がる。
ホルマス聖の舌が首筋を舐め上げ、耳朶を軽く噛む。ソラの指が彼の背中に食い込み、絹の服に皺を寄せた。今まで経験したことのない感覚の洪水に、彼女の意識はかすみ始めていた。
「ご、ご主人様…私…」
言葉にならない想い。長年積もりに積もった感情が、今この瞬間に溢れ出さんとしている。ホルマス聖はその想いを理解したように、ゆっくりと顔を上げ、彼女の瞳を見つめた。
月明かりに浮かぶソラの顔は、涙で光っていた。しかしそれは、決して悲しみの涙ではない。待ちに待ったこの瞬間への、喜びの証だった。
「お前は…」
ホルマス聖の言葉は続かなかった。代わりに、彼の唇がソラの唇を覆い、長い時間をかけて結ばれた。天竜人と奴隷という立場を超え、ただ男と女としての、最初の契り。
やがて唇を離し、ホルマス聖の指がソラの頬を撫でる。月明かりに浮かび上がる彼女の顔は、嬉し涙に濡れて宝石のように煌めいていた。指先が涙の軌跡を辿り、唇に触れる。
「…後悔していないか?」
突然の問いに、ソラは潤んだ瞳を上げた。ホルマス聖の目は、いつになく深い影を宿している。
「ご主人様…?」
「お前には選ぶ道があった」彼の声は低く、重い。「この美しさなら、貴族の愛人にもなれた。商人の妻として富を謳歌することもできた」
ソラの胸が痛んだ。彼の指が顎を掬い上げ、強制的に視線を合わせさせる。
「それでも、奴隷としての人生を歩ませた」
一瞬の沈黙。書斎には時計の針の音だけが響く。ソラの唇が震え、言葉を紡ぎ出す。
「…ご主人様は、私を『美しい』とおっしゃいますが」
「あの牢屋で、誰も私の美しさなど見向きもしませんでした」
涙が一粒、ホルマス聖の指先に落ちた。
「ご主人様だけが…この醜い傷だらけの私に価値を見出してくださった」
ホルマス聖の眉が微かに動く。ソラの手がそっと彼の手首に触れる。奴隷が主人に触れるなど、本来なら許されざる行為だ。
「商人の妻に?貴族の愛人に?」ソラの声には初めて力がこもった。「いりません」
月明かりが彼女の瞳を青く輝かせる。
「私は…ご主人様の声で名前を呼ばれたい。ご主人様の手で…こうして涙を拭いてほしい」
ホルマス聖の目が細くなる。彼の手がソラの首筋に回り、ざらついた親指が喉元を撫でる。命脈を握られるような、支配的な姿勢。
「愚かなことを言う。奴隷に自由などない」
「それでも!」
ソラの声が書斎に響く。すぐに我に返り、声を落とす。
「…それでも、心はご主人様を選びました」
ホルマス聖の手がぐっと締まる。ソラの首に指の跡が白く浮かび上がる。痛みと快感の境目で、彼女の息が乱れる。
「…生意気な」
その言葉は、怒りよりも熱を帯びていた。ホルマス聖のもう一方の手が、ソラの腰を強く掴む。絹のドレスに深い皺が寄る。
「ご主人様のものになりたいからです」
ソラのささやきが、支配欲に火を注ぐ。ホルマス聖の目が妖しく光る。天竜人としての威厳と、青年としての欲望が入り混じった表情だ。
「証明してみせろ」
突然、ソラの腕がねじ上げられる。背中を反らされ、無理やり跪かされる。痛みに顔を歪めながらも、彼女の目は決してホルマス聖から離れない。
「はい…どんなことでも」
「口先だけの忠誠は要らん」
手首を握る力がさらに強まる。ソラの腕にうっすらとあざが浮かび始める。それでも彼女は微笑みを崩さない。
「…ご主人様の手の温もりさえ感じられれば、痛みさえも愛おしいです」
その言葉に、ホルマス聖の表情が一瞬崩れる。今まで誰にも見せたことのない、人間らしい驚きだ。すぐに冷徹な仮面を戻すが、手の力は緩んでいた。
「…愚かな奴隷め」
「愚かで結構です」
ソラの手が、主人の衣の裾をそっと掴む。許しを請うように、しかし決意に満ちた眼差しで見上げる。
「どうか、この愚かな奴隷を…もっと酷くお扱いください」
ホルマス聖の息が乱れる。天竜人の理性が、激しい感情に揺さぶられる。彼はソラをぐいと引き寄せ、唇を耳元に押し当てる。
「…お前は、本当に私だけのものか?」
「はい。心も体も、全てがご主人様のものです」
その瞬間、ホルマス聖の歯がソラの首筋に食い込んだ。痛みと快感の叫びが書斎に響く。天竜人として、青年として、全ての感情をぶつけるように。
「永遠に、私のものだ」
「はい…永遠に」
月が雲に隠れ、書斎が闇に包まれる。二人の影が一つになり、深い夜の帳りに溶けていく。主人と奴隷の関係を超えた、激しくも甘い支配の瞬間。
満月の光が書斎を青白く照らす中、ホルマス聖はソラを豪華な革張りのソファに押し倒した。彼女の青みがかった長い髪が絹のようにソファの上に広がり、月明かりに照らされて輝いている。
「服を脱げ」
低く響く命令に、ソラの指先が震えながらドレスの紐を解く。薄絹の布が滑るように床に落ち、完璧なプロポーションが露わになる。ふくよかながら締まった胸、くびれた腰、なめらかな腿の曲線──かつての傷だらけの体は、今やまさに「美」の化身だった。
ホルマス聖の熱い視線がソラの肌を這う。彼はゆっくりと膝をつき、ソラの足首に手を伸ばした。天竜人の指が足の甲をなぞり、ふくらはぎを撫で上げる。その触れ方は、美術品を鑑賞するように慎重で、かつ熱を帯びていた。
「ふぁ…っ」
ソラの吐息が甘く乱れる。ホルマス聖の唇が内腿に触れた瞬間、彼女の体がびくっと跳ねた。指先が腿の内側を這い上がり、危ういほどに核心へと近づく。
「ご主人様…あぁ…」
その声に促されるように、ホルマス聖は突然ソラの胸を貪り始めた。片手で形良く膨らんだ乳房を揉みしだき、舌で先端をくわえ上げる。ソラの背中が反り、指がホルマス聖の黒髪に絡まる。
「お前の全てが…私のものだ」
ホルマス聖の声は渇きを訴えていた。彼はソラをひっくり返し、背中のくびれに舌を這わせた。かつての鞭の痕はすっかり消え、今はなめらかな肌だけが残っている。
「独りで…ずっと独りで生きてきた」
突然の告白に、ソラは振り返ろうとするが、強く押さえつけられる。ホルマス聖の唇が背骨を辿りながら、言葉が続く。
「天竜人に友などいない…誰も私を見ていない」
その言葉の切なさに、ソラの胸が締めつけられる。彼女は必死に体をねじり、ホルマス聖と顔を合わせた。
「私が…ご主人様を見ています」
潤んだ青い瞳が、まっすぐにホルマス聖を見つめる。その瞬間、彼の冷静な仮面が崩れ落ちた。
熱い唇が重なり合う。これまでにない激しさでホルマス聖はソラを貪り、彼女もまた必死に応える。舌が絡み合い、唾液が糸を引く。
「証せ…お前の忠誠を」
ホルマス聖がソラの頭を押し下げる。彼女は躊躇わず、彼のベルトを外す。震える指先がボタンを外し、ズボンを下ろすと、既に激しく脈打つ男根が飛び出した。
「ん…ぁ…」
ソラはまず先端に舌を這わせ、じっくりと味わうように舐め上げた。塩気のある味が口に広がる。そしてゆっくりと、熱い塊を口の中に収めていく。
「くっ…お前の口は…熱い」
ホルマス聖の指がソラの髪に絡まる。彼女はまぶたを伏せ、長い睫毛を震わせながら、情熱的に口を動かす。頬がくぼみ、時折零れる唾液が淫らな音を立てる。
一方、ホルマス聖の手もまた忙しない。ソラの腿の間を探り、すでに濡れそぼった裂け目を見つけると、巧みに指を動かし始めた。
「んっ!…んぁ…あぁ…」
ソラの喘ぎ声が、男根を咥えたまま響く。その振動がホルマス聖をさらに興奮させる。指の動きが速くなり、ソラの腰が自然と動き出す。
「ご…主人…様…んぁ…!」
唾液が溢れ、頬を伝う。ソラは涙目になりながらも、必死に口を動かし続ける。ホルマス聖の快楽が、そのまま自分の喜びとなった。
「お前は…お前だけが…」
ホルマス聖の声が荒くなる。腰の動きが速くなり、ソラの喉奥まで押し込まれる。むせそうになりながらも、彼女は必死に受け入れ、舌で亀頭を刺激する。
「そろそろ…限界だ」
警告にもかかわらず、ソラは離れようとしない。むしろ、もっと深く咥え込み、喉で締め付ける。その執拗な奉仕に、ホルマス聖はついに解放感に襲われる。
「くっ…お前の中に…!」
熱い液体が喉の奥に注がれる。ソラは一滴も残さず飲み干し、最後まで丁寧に舐め清めた。
「…愚かな奴隷め」
ホルマス聖の声は、怒りよりも深い愛情に満ちていた。ソラは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、恍惚の笑みを浮かべる。
「ご主人様の味…覚えました」
その言葉に、ホルマス聖はソラを強く抱きしめた。二人の肌が密着し、汗と体液が混ざり合う。
ゆらめく蝋燭の灯りが寝室を柔らかく照らす中、ホルマス聖はソラを豪華な天蓋付きのベッドに優しく横たえた。彼女の青白い肌がシルクのシーツに映え、震える胸の鼓動が月明かりに浮かび上がっていた。
「怖いか?」
ホルマス聖の声は、これまでになく柔らかく響いた。ソラは深く息を吸い込み、ゆっくりと首を振る。
「いいえ…ご主人様なら」
彼の指がソラの腿の内側を撫でる。その触れ方は、これまでのどんな時よりも慎重で、慈愛に満ちていた。天竜人として、ましてや主人として、本来ならあり得ないほどの配慮だ。
「お前は…私の最初で最後の女になる」
その言葉にソラの瞳が潤む。ホルマス聖がゆっくりと体を乗せ、熱い吐息を混ぜ合わせる。二人の肌が触れ合い、心臓の鼓動が共鳴する。
「んっ…!」
鋭い痛みが走り、ソラの指がシーツを強く掴む。しかしその表情には、苦痛よりも深い喜びが浮かんでいた。涙が頬を伝い、宝石のようにきらめく。
「痛いか?」
「いいえ…嬉しいです…あぁ…」
ホルマス聖はソラの涙を舌で舐め取り、ゆっくりと腰を動かし始めた。その一挙一動に、天竜人らしからぬ気遣いが見て取れる。他の天竜人が寵愛奴隷に決して示さないような、深い愛情に満ちた動きだ。
「ご主人様…あぁ…私…幸せです…」
ソラの声は喜びに震えていた。痛みは次第に快感に変わり、体の奥深くから熱いものが込み上げてくる。彼女の腕がホルマス聖の背中に絡みつき、より深く引き寄せる。
「お前は…私の全てだ」
ホルマス聖の唇がソラの耳朶をくわえ、甘く囁く。その言葉は、天竜人としての立場を完全に超えていた。二人の結びつきは、もはや主人と奴隷という関係を遥かに超越している。
動きが次第に激しくなり、ソラの喘ぎ声が高まる。ベッドの天蓋に吊るされたカーテンが激しく揺れ、蝋燭の炎が二人の絡み合う影を壁に映し出す。
「あぁ…ご主人様…私…私…!」
「共に…行け…ソラ…!」
深い愛の言葉と共に、二人は同時に頂点へと達する。ソラの体が弓なりに反り返り、ホルマス聖の名を叫ぶ。その声は、もはや奴隷のそれではなく、愛する女の歓喜の叫びだった。
静けさが戻った寝室で、ホルマス聖はソラをきつく抱きしめた。彼の指が、汗で濡れた彼女の青い髪を優しく梳かす。
「…お前を自由にしてやろう」
突然の言葉に、ソラは驚いて顔を上げた。
「いりません!」
その返答は、これまでで最も力強い声だった。ソラの手がホルマス聖の頬に触れ、まっすぐに見つめる。
「たとえ自由になっても…私はご主人様の元にいます」
ホルマス聖の瞳が潤む。天竜人として、人前で涙を見せるなどあり得ないことだ。しかし今この瞬間だけは、全ての仮面を捨てた。
「愚かな女だ」
「はい…ご主人様だけの愚かな女でいたいのです」
月が雲間から顔を出し、二人の結ばれた体を優しく照らした。天竜人と奴隷という立場を超えた、真実の愛の形がそこにあった。
朝の光が寝室のカーテンを通して差し込む中、ソラは鏡の前でゆっくりと髪を梳かしていた。20歳を過ぎた彼女の姿は、もはや少女というにはあまりにも艶やかで、一晩でどこか内面から輝きを増したように見えた。
「ソラ様、朝食の準備が…あら」
入ってきた中年の女中が、ふと足を止めた。ソラの首筋に残る赤い痕、潤んだ青い瞳、そして何よりも漂う甘い香り――経験豊かな女ならすぐにわかる変化だった。
「おはようございます」
ソラは照れくさそうに微笑みながらも、どこか誇らしげに頷いた。女中の目がソラの腰元に止まり、わずかにうなずく。
「…おめでとうございます。今日のドレスは、こちらの青いものをお選びしましょうか。ご主人様のお気に入りの色です」
廊下を歩くソラの後ろ姿は、以前とは明らかに違っていた。腰のくねらせ方、足運び、そしてふと振り返った時の睫毛の伏せ方――全てが「女」の色気を漂わせていた。
台所では、若い奴隷たちがソラを見るやいなや顔を見合わせた。一人がそっと呟く。
「すごい…まるで別人みたい」
「ほら、首のあたりを見てごらん」
昼下がりの書斎では、ホルマス聖が書類に目を通していると、ドアが静かに開いた。香りだけで誰かわかるほど、ソラの存在感は増していた。
「ご主人様、お茶を持ってまいりました」
その声は甘く、低く響く。ホルマス聖が顔を上げると、ソラはわざとらしく身をかがめ、胸の谷間を見せつけるようにしていた。成長したふくよかなバストが薄いドレスからのぞく。
「…ふざけるな」
「はい?」
ホルマス聖の手が突然ソラの手首を掴んだ。ぐいと引き寄せられ、熱い吐息が混ざり合う。
「こんな時間から…挑発するつもりか?」
ソラの唇がゆるむ。彼女の指がホルマス聖の胸を這い、ボタンを一つ外す。
「ご主人様が…お忙しそうなので」
外されたボタンは二つ、三つへと増えていく。ソラの息遣いが早まり、頬が紅潮する。
「昨晩から、ずっと…考えていました」
「何を?」
「ご主人様に…また抱いてほしいって」
その言葉に、ホルマス聖の理性の糸が切れる。書類が床に散らばり、ソラは書斎のソファに押し倒された。ドレスの肩紐が外れ、白い肌が露わになる。
「ん…あぁ…」
熱い口付けが首筋に落ち、ソラの指がホルマス聖の黒髪に絡まる。もはや、主人と奴隷という関係ではない。互いを求め合う、男と女の情熱的な関係だ。
「ご主人様…早く…」
ソラの腰が自然と浮き上がる。ホルマス聖の手がドレスをめくり上げ、腿の内側を撫で回す。すでに濡れているのがわかり、満足げな笑みが浮かぶ。
「待てなかったのか?」
「はい…夜まで待てません…あぁ!」
指が核心に触れ、ソラの背中が反る。もはや初めての時のような痛みはなく、純粋な快楽だけが体を駆け巡る。
廊下を通りかかった年配の女中は、書斎から漏れる喘ぎ声に目を細めた。そして、他の奴隷たちにそっと手を振り、近づかないよう合図するのだった。
そして部屋の中では、ホルマス聖の指がソラの顎をきつく掴み、無理やり顔を上げさせた。天蓋付きのベッドで、ソラは跪いた姿勢を強いられていた。絹のロープが彼女の繊細な手首を優雅に縛り、天蓋の柱に結びつけられている。
ホルマス聖の声は冷たいが、瞳の奥には熱い情動が渦巻いていた。片手でソラの青い髪を掴み、頭を後ろに引っ張る。首筋が美しい弧を描き、鎖骨がくっきりと浮かび上がる。
「お前は誰のものだ?」
「は、はい…ご主人様の…ものです…あぁ!」
突然、冷たい金属の感触が胸の先端に当たる。天竜人の紋章が刻まれた銀のクリップが、敏感な部分を締め付ける。ソラの背筋がびくんと跳ね、縛られた手首がロープを引っ張る。
「言葉が足りない」
ホルマス聖の鞭がソラの太ももを軽く撫でる。痛みというより、くすぐったい刺激が走る。
「この…この卑しい奴隷は、ご主人様の所有物でございます…んっ!」
鞭の先端が腿の内側を這い、危ういほどに核心へと近づく。ソラの息遣いが荒くなり、縛られた手首がもがく。
「ご主人様…どうか…」
「どうか、何だ?」
鞭が一瞬止まる。ソラの青い瞳が涙で潤み、唇が震える。
「こ、この奴隷を…お許しくださいませ…あぁ!」
突然、鞭の代わりにホルマス聖の指が核心を強く撫でる。ソラの体が激しく跳ね、ロープがきしむ。天竜人の冷徹な仮面の下で、彼はソラの反応を貪るように観察している。
「お前のこの姿…他の誰にも見せない」
「はい…はい…ご主人様だけに…あっ、あぁん!」
指の動きが早くなる。ソラの腰が勝手に動き出し、ドレスの裾が乱れる。縛られた腕が天蓋を引っ張り、ベッドがきしむ音が響く。
「もう…もうだめです…ご主人様…お願いします…」
「我慢できぬのか?」
ホルマス聖の声は揺るがないが、もう一方の手がソラの乳房を激しく揉み上げている。クリップが揺れ、銀の鎖がきらめく。
「この卑しい奴隷…我慢などできません…あぁっ!」
その瞬間、ホルマス聖の唇が突然ソラの唇を奪う。激しい口付けの中、彼の手はソラの腿の間で激しい動きを続ける。支配と服従のゲームの最中で、一瞬だけ垣間見せる真実の愛情。
「くっ…ご主人様…いきます…いきますぅ…!」
ソラの体が弓なりに反り返り、縛られた手首がロープを最大限に引っ張る。涙が頬を伝い、叫び声が寝室に響き渡る。
ホルマス聖はその痙攣する体を貪るように見つめ、やがてソラを抱き上げると、きつく抱きしめた。ロープを解く指先は驚くほど優しく、さっきまでの冷酷さは微塵もない。ベッドの縁に腰かけ、縛られたままのソラの姿を欲望に満ちた眼差しで見下ろす。
彼女の青みがかった長い髪は乱れ、乳房は激しい呼吸で上下し、腰から腿にかけてのなめらかな曲線がくっきりと浮かび上がっている。
「ご主人様…この堕ちた奴隷の体で…もっと気持ちよくなってください…」
ソラの潤んだ瞳が、ホルマス聖の太ももに置かれた硬く熱い男根を見つめる。彼女の唇が乾き、舌でときどき舐めている。
「お前のような卑しい奴隷に、それほどの価値があると思うのか?」
ホルマス聖の指がソラの鎖骨を撫で下り、乳房を優しく揉み上げる。そこへ、驚くほど冷たいザラついた言語をぶつける。
「でも…でも私はご主人様だけのために…きれいな体になりました…」
ソラの悲痛な訴えが、欲望と屈辱感の入り混じった声で響く。ホルマス聖は彼女の言葉を受け止めたように、立ち上がるとベッドに覆いかぶさった。
「証明してみろ」
ソラは両手を縛られたまま、腰を浮かせて熱い男根を迎え入れる。先端が濡れた裂け目に触れると、まるで命を吸い取られるような性感が全身を駆け抜ける。
「あぁ…んっ…はい…ご主人様のもの…全部受け入れます…」
ゆっくりと沈み込む快感にソラの背筋が反り、乳房がきれいな弧を描く。ホルマス聖はその美しい肢体を見つめながら、深々と一突きする。
「くっ…中の感じ…いつも以上に熱いぞ…」
「あぁん!だって…今日は…ご主人様の精を…たっぷりほしいから…んっ!」
ソラの膣内はまるで生き物のように蠕動し、入ってきた男根を締め上げた。熱さと湿り気がホルマス聖の理性をさらに奪っていく。二人の接合部からは、淫らな粘液の音が響く。
「ご主人様…もっと…この奴隷の膣で…気持ちよくなって…」
ソラが腰をくねらせ、自らを捧げるように男根を受け入れる。縛られた両手が天蓋を引っ張り、うっとりと首を仰け反らせる仕草が、官能的にも美しかった。
ホルマス聖の指がソラの膣の上をこすり、敏感な陰核を刺激する。彼女の腰がさらに激しく跳ね、快感に耐えかねたように頭を左右に振る。
「まさか…こんなに早く…感じてしまうなんて…」
「許さんぞ」ホルマス聖の声が低く響く。「お前の絶頂は、私が決める」
「ひゃ…ひゃぁん!」
刺激を中断されて、ソラが悲痛な叫びを上げる。彼女の体は熟れ切った果実のようにうっすら紅潮し、全身に汗の粒をつけていた。
ホルマス聖はソラの体をひっくり返し、四つん這いの姿勢をとらせる。綺麗に盛り上がった臀部を撫でながら、もう一度深く結合する。
「あっ…あぁぁ…奥です…奥まで…ご主人様が…」
ソラの喘ぎ声がさらに高まり、体が激しく震える。ホルマス聖はその臀部をつかみ、激しい往復運動を始める。彼女の乳房が前後に揺れ、汗が飛び散る。
「お前は…本当に…私だけの奴隷か」
「はい…はい…! この体も…心も…全てご主人様のもので…ああっ!」
ソラの感度はピークに達し、もう我慢できないほどの快感に包まれていた。ホルマス聖はその極まった表情を見定めながら、腰の動きをさらに激しくする。
「共に…行くぞ…ソラ…!」
「お願いします…ご主人様の赤く熱いものを…いっぱい注いで…んんんっ!」
最後の一突きがソラの子宮口を直撃し、同時に彼女の体が痙攣的な絶頂に突入する。ホルマス聖は深く埋め込んだまま、滾り立つ男根から濃厚な精液をねっとりと注ぎ込む。
「んおお…奥で…ぎゅって…はねています…ご主人様の…あぁ…」
ソラの膣内が精液を受け止めるたび、細かく痙攣しているのが感じられた。そのまだ興奮冷めやらぬ柔らかな肉壁が、最後の一滴まで搾り取ろうとする。
二人とも放心したように息を整えながら、崩れるようにベッドに倒れこんだ。ホルマス聖はソラの縄を解くと、その傷つきやすい手首に優しくキスをした。
「…満足か?」
ソラはハアハアと肩で息をしながら、恍惚の笑みを浮かべてうなずく。
「はい…ご主人様の中に出していただいて…ソラは、とても幸せです…」
彼女の指が、愛おしそうにホルマス聖の胸を撫でる。汗と体液にまみれながらも、二人の間には深い愛情があふれていた。天竜人と奴隷という立場を超えた、本当の結びつきがそこに存在していたのだ。
水晶のシャンデリアが煌めくマリージョアの大広間で、世界会議の夜会が華やかに行われていた。各国の王族たちが天竜人に媚びを売る中、一人の女性が静かに注目を集めていた。
「あれが噂のホルマス聖の妻か…」
ドレッセスローブ王国の王が呟くと、側近が目を細めた。ソラの姿は確かに異彩を放っていた。深い藍色のドレスが腰のくびれを強調し、肩から流れる青みがかった髪はダイヤモンドの髪飾りで束ねられていた。肌は陶器のように滑らかで、長い睫毛の下の青い瞳は宝石のように澄んでいた。歩くたびに香るのは高級な香水ではなく、彼女自身が放つ甘い体臭のようだ。
「王妃様たちより美しいと言っても過言では…」
「黙れ」王が側近を制した。「天竜人の所有物を褒めるとは不敬だ」
天竜人たちの席では、早くも騒ぎが起きていた。
「ホルマス聖!あの女を譲れえ!」ドンキホーテ家の当主がワイングラスを叩きつける。「我が家の寵愛奴隷10人と交換だえ!」
「いや、わらわの方が上等な品を用意できるアマス!」シャルリア家の女性が扇で顔を隠しながら叫んだ。
ソラはその声にすら反応せず、ホルマス聖の横に優雅に座った。彼女の指先が主人のグラスに触れ、静かにワインを注ぐ。その仕草には研ぎ澄まされた優雅さがあり、どこか気高ささえ感じられた。
「ご主人様、お飲み物です」
「うむ」
ホルマス聖が短く答えると、ソラの唇がほんのりと微笑んだ。その表情には、偽りのない幸福感が浮かんでいる。
「おい!下地民め!こっちを向けえ!」ドンキホーテが怒鳴ったが、ソラの視線はホルマス聖から離れない。
「ふん!妻とはいえ下地民ごときが…」シャルリア家の女性が舌打ちした。
ホルマス聖はゆっくりと立ち上がり、ソラの前に立つ。その瞬間、会場が静まり返った。
「我が妻は、私だけに仕える」
冷たい声が広間を包む。天竜人たちは一瞬ひるんだが、すぐに不満を爆発させた。
「けしからんえ!」
「天竜人同士で譲り合うのが常識アマス!」
ソラはホルマス聖の袖をそっとつかんだ。その指先が微かに震えている。
「ご主人様…私は…」
「黙っていろ」
ホルマス聖の言葉に、ソラはすぐにうなずく。その従順さは、恐怖からではなく明らかな信頼から来ていた。
ドレッセスローブ王が興味深そうに観察していた。天竜人の妻が心から主人を慕う姿など、これまで見たことがない。まるで洗脳されたかのようだが、彼女の表情はあまりにも自然だ。
「ホルマス聖、そちらの妻は…特別だな」
「当然だ」
ホルマス聖の手がソラの顎を掬い上げる。その仕草は所有を主張するように見えたが、どこか誇らしげでもあった。
「この女は私だけのものだ。誰にも渡さぬ」
ソラの頬が赤く染まる。長い睫毛が伏せられ、唇が微かに震えた。
「はい…永遠にご主人様のものです」
その言葉に、天竜人たちはさらに騒ぎ立てた。
「ふざけるえ!」
「下地民ごときが生意気アマス!」
しかし、ソラの目にはホルマス聖しか映っていない。彼女がそっと手を伸ばし、主人の袖の皺を整える。その仕草は、奴隷のそれではなく、妻としての自然な愛情表現だった。
夜会が終わり、ソラはホルマス聖の後を静かに歩いていた。他の天竜人たちが鎖に繋がれた寵愛奴隷を引きずる中、彼女だけが自らの意思で主人に付き従う。
「ご主人様、今夜も…お傍に」
「…ああ」
二人の背後の広間では、未だに天竜人たちの怒号が響いていた。しかしホルマス聖もソラも、もう振り返ろうとはしなかった。
ドレッセスローブ王は最後までその光景を見送り、静かに呟いた。
「奴隷が主人を恐れるのは当然。寵愛奴隷が媚びを売るのも珍しくない。だが…」
王の目が細くなり、長いため息をついた。
「あの女は違う。あれは…本物の愛だ」
側近が怪訝そうな顔をした。
「ですが、天竜人にそんな感情がわかるのでしょうか?」
「わかるまい」王は苦笑した。「神の末裔と称するあの連中には、最も人間らしいこの感情が理解できぬのだから。皮肉なものだ」
王の視線は、遠ざかる二人の背中を追っていた。ソラが自然とホルマス聖の袖に触れる指先。主人を気遣うように傾ける首の角度。そして、誰の目にも明らかな、心からの敬愛の眼差し。
「我が生涯で、これほどまでに純粋な愛情が天竜人に向けられるのを見たことはない。ましてや、それが下地民からだなど…」
王はゆっくりと杯を傾け、最後の一滴を味わった。
「ホルマス聖は気づいていないかもしれんが、彼は世界で最も幸せな男だ。なぜなら──」
「誰もが跪く天竜人の中で、ただ一人だけ、真実の愛を手にしたのだからな」
その言葉は、シャンデリアのきらめきに消え、永遠に天竜人たちの耳には届かない真実として、夜の闇に吸い込まれていった。
【ホルマス聖】
天竜人の中でも異端の存在。他の天竜人が奴隷を「おもちゃ」として扱うのに対し、彼は「道具」として合理的に扱う。幼い頃から天竜人としての教育を受け、その両親を失った結果、冷徹な合理主義者として成長した。しかし、ある日、幼いソラと出会い、彼女の存在に心を揺さぶられる。
今では彼女だけに心を許し、彼女の前では人間らしい感情を見せる。他の天竜人からは「変わり者」と見られているが、奴隷を人間と主張するような、もっと変わっている天竜人がいるため、それほど目立っていない。
【ソラ】
過酷な環境で育った少女。幼少期に受けた虐待の影響で、心に深い傷を負っていた。ホルマス聖に買われた後、彼を見ながら成長したことで、彼に深い依存心を抱く。
ホルマス聖の冷酷な本性を知りながらも、彼の優しさを信じている。他の奴隷たちとは異なり、ホルマス聖の真の姿を見ることができる唯一の存在。彼の弱さや弱みを知り、それを守ることを生きがいとしている。
もし真っ当な人生を歩んでいれば、誰からも羨まれる人生が送れたかもしれないが、そうはならなかった。だが彼女は、今この人生を捨てる気はない。
【ホルマス聖の奴隷たち】
他の天竜人の奴隷と異なり、比較的穏やかな生活を送っている。ホルマス聖の合理的な管理の下、虐待や理不尽な扱いを受けることはほとんどない。逃げなかった理由は、逃げる必要がないから。偽脱走騒動の際に逃げなかったのも、精神的余裕があって冷静でいられたため。
他の天竜人の奴隷たちの悲惨な状況を知っており、この屋敷で普通の生活ができることを幸運に思っている。ソラの存在を「特別」と認めつつも、彼女とホルマス聖の特別な関係には深入りしない。
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