天竜人と奴隷の少女 作:ましろ
奴隷たちが集められた中層の宿泊区画では、珍しく活気のある声が飛び交っていた。先んじて政府役人から渡された小袋を開け、中から出てきたベリー札を数える者もいれば、早速外に出ようと準備を始める者もいた。
「マッサージに行きたいわ」若い女性奴隷が肩を揉みながら言った。「毎日重い荷物運ばされて、肩がガチガチなの」
「俺はまず飯だ!」大柄な男性奴隷が腹をさすった。「屋敷で出る食事は上等だけど、たまにはがっつり食いたい」
別の奴隷が窓の外を指さす。「あのレストラン、肉の看板がでかくて美味そうじゃない?」
笑い声が上がる中、一人の奴隷がふとつぶやいた。
「……逃げたらどうなるんだろう」
場が一瞬凍りつく。全員の視線がその男に向けられた。いま、ここにはホルマス聖の奴隷しかいない。静寂が広がる。誰もが一度は考えたことがある、禁断の思考だ。
「ソラ様に申し訳ないよ」年配の女性奴隷が首を振った。「あの方は私たちのために、ご主人様に掛け合ってくれたんだ」
「俺には帰る場所もないし……待ってる家族もいない。それに……」若い奴隷が天井の隅を指さす。小さな電電虫が微かに光っている。「監視はされてる。逃げたらすぐ捕まる」
「捕まるだけならまだいい」大柄な奴隷が苦い顔をする。「仲間に迷惑がかかる。試す気にはなれねえ」
再び沈黙が訪れる。外からはカジノの賑やかな音楽が聞こえてきた。
「……ま、せっかくの自由だ」誰かが明るく言い出した。「楽しまなくちゃ損じゃない?」
「そうだな!まずは腹ごしらえだ!」
「私もマッサージに行くわ。みんなで行かない?」
会話は再び活気を取り戻し、奴隷たちはグループに分かれて部屋を出ていった。最後まで残ったのは、最初に「逃げたら」と言った男だけだった。彼は窓の外を見つめ、深く息を吐いた。
「……確かに。ソラ様は裏切れない」
その名前を口にすると、胸が熱くなった。彼は小袋をポケットにしまい、仲間を追いかけるようにドアに向かった。少なくとも今日は、自由を謳歌しよう。それが、ソラの望みに応えることなのだから。
グランテゾーロの高級美容区画に、ソラはヨルを連れて入っていった。青いドレスが風に揺れ、天竜人の第一婦人としての威厳を自然に漂わせている。一方、引きずられるように歩くヨルの姿は、この煌びやかな街並みにあまりにも不釣り合いだった。
ヨルの金色の髪は、長年手入れされていないため、乾燥してぼさぼさに広がっている。まるで枯れ草のようにパサつき、ところどころ絡まって固まっていた。肌は青白く、無数の古傷と痣が醜く残っている。特に左頬から顎にかけては、火傷か何かで爛れたような痕が広がり、皮膚が不自然に引きつっていた。
「こちらでお願いします」
ソラが指さしたのは、街で最も高級な美容サロンだった。入口の店員は、最初はヨルの姿を見て眉をひそめたが、ソラの威厳ある態度にすぐに頭を下げた。
「か、かしこまりました。天竜人様のご婦人でいらっしゃいますね」
サロン内は豪華な調度品で飾られ、鏡はすべて金縁で囲まれていた。ソラはヨルを鏡の前に座らせ、美容師たちに指示を出した。
「まずは髪から。傷んだ部分は切って、トリートメントを」
美容師たちは恐る恐るヨルの髪に触れた。櫛を通すたびに、ごわついた髪がちぎれそうになる。ソラはその様子をじっと見守り、時折「優しくしてあげて」と声をかけた。
髪が整い始めると、次は肌の手入れだ。美容師がヨルの爛れた頬を見て、思わずため息をつく。
「こ、こちらは…」
「傷を隠せる化粧を」ソラの声は静かだが、確固としていた。「どうしても隠せない部分は、装飾で」
美容師たちは必死に頷き、特別なコンシーラーやファンデーションを用意した。ヨルは無表情のまま、化粧筆が顔を撫でるのをじっと耐えている。痛々しい傷跡の上に、丁寧に化粧が施されていく。
「お着替えもお願いします」
ソラが持ってきたのは、シルクの上質なドレスだった。ヨルが汚れた服を脱ぐと、背中には「天駆ける竜の蹄」の烙印がくっきりと浮かび上がる。その周囲には、無数の古い鞭の跡が網目のように広がっていた。
美容師の一人が思わず声を上げそうになるのを、ソラが鋭い視線で制止した。彼女自身の腕にも、ホルマス家の紋章のタトゥーが刻まれている。直接購入された奴隷の証だ。
「このドレスを」
ソラが差し出したのは、首元まで覆うデザインの青いドレス。背中の烙印を隠すのに十分な丈だった。ヨルは人形のように無抵抗に着替えさせられる。
「…すてき」
化粧と髪型が完成し、新しいドレスに身を包んだヨルを見て、ソラが微笑んだ。爛れた左頬は芸術的な仮面で巧みに隠され、金色の髪はつややかに輝いている。背中の烙印も完全に隠れ、一見すると上流階級の女性のように見えた。
ヨルは鏡の中の自分を認識できないようで、虚ろな目で映った姿を見つめるだけだった。ソラはそっと彼女の手を取った。
「さあ、次は街を散歩しましょう」
ヨルの指が微かに震える。何年ぶりかの「外の世界」に、本能的な恐怖を感じているようだ。しかしソラは強く握り返し、確かな温もりを伝えた。
サロンを出ると、グランテゾーロの眩い光が二人を包んだ。ヨルの新しいドレスは、街の黄金の輝きに負けずにきらめいて、そばを歩いた人々を魅了する。
視線を受けながらたどり着いたのは、グランテゾーロの静かな庭園。
黄金の街の喧騒から離れたこの場所で、ソラはヨルをテラス席に座らせた。周囲には上流階級の客がちらほらとおり、宝石を散りばめたようなドレスやスーツがきらめいている。
「少し休みましょうか」
ウェイターが金の盆を運び、高級ワインの香りが漂う中、紅茶を注ぐソラの優しい声が、庭園の優雅な弦楽器の音に溶け込む。その時、不協和音のような笑い声が近づいてきた。
「へへ、美人さん二人が寂しそうにしてるぜ」
立派なスーツに身を包んだ男が、金のネックレスをいじりながら近づいてくる。周囲の紳士淑女たちが眉をひそめ、ウェイターも困惑した表情を浮かべた。男は明らかに酔っており、周囲の空気を読めていない。
「お嬢さんたち、グランテゾーロは初めて?俺が案内してやるよ」
男が不躾にテーブルに肘をつき、ヨルの仮面に隠された顔を覗き込もうとする。ソラの青い瞳が一瞬冷える。
「お引き取りください」
その冷たい声に、男は逆に興奮したように笑う。「おっと、ツンツンしてる!でもそういうの、好きだぜ」
男の手が、ソラの白い手に触れようとした瞬間──
「天竜人ホルマス聖の第一婦人と、その所有物に無礼を働くとは、いい度胸だ」
低く響く声と共に、黒い制服の政府職員が影のように現れた。
瞬間、庭園全体の空気が凍りつく。周囲の客たちが一斉に顔を背け、ウェイターは震えながら後退した。
「天、天竜人…!?」
男の顔から血の気が引く。締まったスーツが突然みすぼらしく見え始めた。彼の目がソラの豪華なドレス、完璧な身だしなみ、そして何より隣にいる奇妙なほど着飾った女性──すべてが突然意味を成した。
「まさか…まさか天竜人様の…!」
男の膝ががくがく震え、額に脂汗が浮かぶ。周囲の客たちも息を殺し、中には席を立って逃げ出す者もいた。天竜人に無礼を働くことは、死を意味するからだ。
「失礼いたしましたぁぁ!!」
男は転ぶようにして逃げ出した。その背中を、ソラは冷ややかに見送る。
「ソラ様、ご迷惑をおかけしました」
「構いません」ソラは静かに紅茶を啜り、ヨルの方を一瞥した。相変わらず虚ろな目で遠くを見つめている。「この場を二人だけにしてください」
「かしこまりました」
政府職員が去ると、周囲の客たちもそそくさと席を立った。あっという間に、広いテラスはがらんどうになる。店員すら遠巻きに二人を見て、身をすくめて怯えていた。
(…ご主人様も、こんな気持ちだったのでしょうか)
ソラは紅茶の湯気を見つめながら、深く息を吐いた。政府職員が去り、再び静寂が訪れる。
「ヨルさん、私の話を聞いてくれますか?」
もちろん返事はない。ソラはヨルの無反応にも動じず、ドレスの袖をまくり上げる。白い腕には、消えかけた古い鞭の痕が無数に走っていた。
「私も、買い取られる前はこんな傷だらけでした。毎日、ただ死ぬのを待つだけの日々…」
ソラの指が、かすかな凹凸をなぞる。ヨルの目が、わずかにソラの腕へと向いた。
「あの日、私は生きることを諦めていました。誰の声も、痛みさえも感じられない屍のようになって…」
ふと、ソラの唇に微笑みが浮かぶ。
「でもご主人様は、そんな私を見捨てませんでした。毎日、毎日、話しかけてくれた。返事がなくても、無視しても…」
ソラの目が、ヨルの爛れた左頬に注がれる。仮面で隠されているが、その下には深い傷がある。
「あなたは私と同じだった。でも、少しだけ違っていた。あの日、私の足を掴んだ。あれは…生きたいという意思だった」
ヨルの指が、テーブルの上で微かに震えた。天竜人の奴隷として使われ、尊厳を踏みにじられ、自分を見失った。そして記憶がなくとも、刻まれた恐怖と絶望が剥がれることはない。
「私は狂っているのかもしれません」ソラの声が低くなる。「この世界には、助けを待つ奴隷が無数にいる。私には何もできない。それなのに…」
ソラの手が、突然ヨルの傷だらけの手を強く握る。
「あなたは違った。あの目を、私は忘れられない。記憶を失う前、あなたはきっと何かを強く願っていたはず。それを…取り戻してほしい」
ヨルの呼吸が、わずかに乱れる。ソラはその小さな変化を見逃さず、さらに強く握り返す。
「この傷は消えない。私の傷も同じ」ソラのもう一方の手が、自分の首筋の古傷に触れる。「でも、隠すことはできる。新しい服を着て、髪を整えて…」
ソラの声が震える。
「生きてほしいんです。たとえ奴隷の身分が変わらなくても、この胸に…ほんの少しの希望を持って」
庭園の噴水がきらめく。その音に混ざって、ソラの涙がテーブルに落ちる。
「あの日、私の手は…あなたに届いてしまった。届くはずのない手が。だからこそ、今度は私が…」
その瞬間──
ヨルの指が、ソラの涙に触れた。意思があるのか。それさえもわからない、自然な動きだった。
しかしソラには、確かな温もりとして感じられた。彼女は涙ながらに微笑み、ヨルの手を両手で包み込んだ。
「大丈夫。急がなくていいんです。ただ…あなたがもう一度、生きたいと願ってくれるまで。私は、ご主人様がしてくれたように、そばにいます」
風が吹き、二人の髪が揺れる。ソラの青い髪と、ようやく輝きを取り戻し始めたヨルの金髪が、夕日に照らされて一つに混ざり合う。
「ソラ様、ホルマス聖がお呼びでございます」
だがその時。庭園の静けさを破って、黒い制服の政府職員が近づいてきた。彼は恭しく頭を下げ、声を潜めて告げた。
「グラン・テゾーロのスカイ・テゾーロ・アリーナにて、特別な催しが準備されているとのことです」
その瞬間──
ヨルの指が、紅茶のカップに触れて微かに震えた。あまりにもかすかな動きで、ソラも政府職員も気づかなかった。
「かしこまりました」ソラはゆっくりと立ち上がり、ヨルの肩に手を置いた。「すぐに参ります。…ヨルさん、ご主人様のところへ行きましょう」
政府職員が説明を続ける。「アリーナにはゴールド・ステラ・シアターも隣接しており、天竜人様専用のボックス席が用意されております」
「ステラ」という言葉が響いた時、今度はヨルの呼吸が明らかに乱れた。仮面の下でまぶたがぴくぴくと痙攣し、膝の上に置かれた手がぎゅっと握りしめられる。彼女の虚ろな目が、一瞬だけ焦点を結びそうになったが、すぐにまた遠くを見つめるようになる。
「ありがとう。すぐに向かいます」
ソラが振り向いた時には、すでに元の無表情に戻っていた。彼女は、ヨルを優しく立ち上がらせ、政府職員に続くように促した。ヨルの足取りは相変わらず不安定だが、先ほどよりは確かな歩みに見えた。
「スカイ・テゾーロ・アリーナでは、テゾーロ様自らが歌と演舞を披露されるとのことで…」
政府職員の説明を聞きながら、ソラはふとヨルの様子を窺った。何かが違う──そう感じたが、具体的にはわからない。ただ、このグラン・テゾーロという場所が、ヨルに何かを呼び起こしているような気がしてならなかった。
(もしかしたら…ここに来る前の記憶が?)
ソラの胸に、小さな期待が灯る。マリージョアの外に出たことが、彼女に良い影響をもたらしたのか。しかし今はそれ以上考えず、政府職員にうなずいた。
「では、ご主人様の元へ急ぎましょう」
三人の影が、黄金に輝く通路を進んでいく。ヨルの新しいドレスがきらめき、仮面の下で──誰にも見えないほどの微かな表情の変化が起きていた。かつての記憶の断片が、深い闇の中からかすかに浮かび上がり、また沈んでいくように。
グランテゾーロのメインカジノフロアは、黄金のシャンデリアが煌めく喧騒の渦だった。ダイヤモンドを散りばめたルーレット台、純金のチップが積まれたブラックジャックテーブル、宝石で飾られたスロットマシン──どこもかしこもがきらびやかな欲望の坩堝だ。
その中で、ホルマス聖は異彩を放っていた。シャボンヘルメットを被った天竜人が一般フロアにいるだけで、周囲の客は自然と距離を取り、遠巻きに見守っている。バカラはその様子を横目で見ながら、内心苛立ちを隠せなかった。
(なんで普通のカジノなんか回ってるのよ…)
彼女の赤い髪が不機嫌そうに揺れる。ラキラキの実の能力で、自らに降りかかる不幸から逃れられるはずだったが、それを使う機会は一向に訪れない。そのうえ、テゾーロから与えられた役割も果たせない。
他人の幸運を、自身の幸運に変える能力も、万能ではない。
例えば、自らが性的に言い寄られたような場合。その対象が自然な形で外されるような『幸運』を得ることはできる。しかし天竜人を誘導することには使えない。それ故に、天竜人の機嫌を損ねないように、言葉で懸命に誘導することしかできない。
「ホルマス聖、あちらのVIPルームでは特別なゲームが…」
「必要ない」
冷たい返事に、バカラの厚い唇が歪む。天竜人なら普通、金以外を賭けたゲームを好むものだ。奴隷の指を賭けたり、生きた人間を賭けたり──グランテゾーロでは完璧に準備していたはずなのに。
(理解できない…この人、何がしたいの?)
バカラの緑のタレ目が、ホルマス聖の横顔を盗み見る。彼はただ淡々とカジノフロアを歩き、ゲームのルール説明に耳を傾けている。まるで…本当に普通の観光客のように。
「あの…もしかして、お酒か女性がお好みですか? 最高級のものをご用意できますが…」
「言ったはずだ。不要だと」
ホルマス聖の声に、周囲の空気が凍りつく。バカラの背筋に冷たい汗が伝う。このままではテゾーロ様に怒られる──
(まずいわ…何か突破口を…)
突然、バカラの目がきらりと光った。
「あっ! ……そういえば、まもなくスカイ・テゾーロ・アリーナで特別な催しを準備しております。御身のため、国王であるテゾーロ様自らがショーを披露されますよ」
ホルマス聖の足が止まる。最後の切り札に反応があったことに、バカラは内心ほくそ笑みながら続けた。
「天竜人様専用のボックス席がございます。よろしければ、是非そちらをご案内したいのですが」
「そうか。ソラを呼べ」
突然の命令に、バカラの眉が跳ね上がる。
「は、はい…すぐに手配いたします」
バカラはさっさと政府職員を呼びつけ、指示を出す。内心では安堵と困惑が入り混じっている。
(やっと動いてくれたけど…本当に面倒ね。何を言い出すか全然分かんないし)
ホルマス聖は再び歩き出し、バカラは慌てて追いかける。彼女の太もものタトゥーが、不機嫌そうにくねる。彼の後ろ姿を見ながら、複雑な思いを抱いていた。この天竜人、どこか他の連中と違う──その違和感が、彼女の胸に漠然とした不安を生んでいた。
(まあいいわ。とにかく一般フロアから出られれば…)
「ソラが来るまで、ここで待つ」
ホルマス聖の冷たい声が、カジノフロアに響き渡る。バカラの完璧な笑顔の下で、歯が軋む音がかすかに聞こえた。
彼女の緑のタレ目が、周囲を素早く見渡す。通常なら熱狂的な喧騒に包まれるはずのカジノフロアが、今は墓地のような静けさに支配されていた。客の大半はすでに逃げ出し、残った者も震えながら壁際にへばりついている。ディーラーたちはうつむいたまま、カードを切る手だけを動かしている。
(何なのよ。早く出て行ってほしいのに…!)
バカラの指先が、胸元の黄金のペンダントを苛立たしげにいじる。グランテゾーロのスタッフたちも、天竜人から目を背けているのがわかる。特に、天竜人に献上するつもりのない女性スタッフは、影に潜むように姿を消していた。
バカラの視線が、ホルマス聖のシャボンヘルメットに注がれる。天竜人の存在そのものが、この街の楽しみを台無しにしている──そんな思いが胸をよぎる。
数分後、青いドレスのソラが息を切らせて到着した。そして、彼女の横には──
(あの汚らしい奴隷!?)
バカラの眉がぴくっと跳ね上がる。仮面で顔の半分を隠し、美しいドレスに身を包んだヨルだったが、バカラの目にはあの醜い姿が焼き付いていた。生理的な嫌悪感が込み上げ、思わず唇を歪ませる。
「ご主人様、お呼びでしょうか」
ソラの澄んだ声が響く。ホルマス聖はゆっくりと振り向き、ヨルに視線を向けた。
「それは?」
「ヨルを連れて街を見ていました。…一緒に連れて行っていただけませんでしょうか」
ソラの目が、静かに訴えかける。ホルマス聖は一瞬考え込み、やがて微かに頷いた。
「構わん」
バカラの長い睫毛が震える。あの汚物みたいな奴隷を、特別席に? と、内心では激しい嫌悪が渦巻いていたが、表には出せない。
「では、ご案内いたします」
バカラは不本意そうに頭を下げ、先導を始めた。一行がカジノフロアを移動すると、道行く人々が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。天竜人とその一行──その存在そのものが、この街の常識を捻じ曲げる力を持っていた。
(早くアリーナに着いてほしい…)
バカラの高級ヒールが、黄金の床を不機嫌そうに叩く。背後から聞こえるヨルの不自然な足音に、またしても嫌悪感がこみ上げる。しかし彼女はプロだ。天竜人をスムーズに誘導するのが仕事なのだ。
「こちらへどうぞ、ホルマス聖」
バカラの声だけが、重苦しい空気の中に明るく響いた。その笑顔の裏で、彼女は心の中で舌打ちしていた。
黄金に輝く特別エレベーターのボタンを押し、恭しく頭を下げる。
「こちらがVIP専用エレベーターでございます。スカイ・テゾーロ・アリーナまで直通ですが、途中でグランテゾーロの特別施設を経由いたします」
エレベーターの扉が静かに開くと、内部はダイヤモンドで縁取られた鏡張りで、天井からは柔らかな光が降り注いでいた。ホルマス聖が無言で中へ入ると、ソラがヨルの手を引いて続き、バカラが最後に乗り込んだ。
(……早くテゾーロ様に連絡しなきゃ)
バカラの指が、スカートのポケットに隠した小型電電虫に触れる。このエレベーターは他のフロアを経由するため、一時的に停まるタイミングがある。その隙を狙うつもりだった。
エレベーターが上昇し、途中で停まった。ホルマス聖が興味なさそうに外を見る中、バカラはすかさず口を開いた。
「少々お待ちくださいませ。こちらのフロアでセキュリティチェックがございますので、私が確認して参ります」
深々と頭を下げ、エレベーターから降りる。扉が閉まるやいなや、彼女の表情が一変した。
バカラは影に潜むように廊下の隅へ移動し、ポケットから電電虫を取り出す。虫の背中のダイヤルを回すと、甲高い鳴き声と共に接続が始まった。
「テゾーロ様、至急ご報告が……」
『遅い、バカラ』
電電虫から響く声は、低く、冷ややかだった。
「申し訳ございません! 天竜人様の対応に手間取っておりまして……」
『で、どうだ? 何を好む? 奴隷賭けか? 酒か? それとも……』
「それが……」 バカラの声がかすれる。「……何も求められておりません」
『……は?』
電電虫の目が鋭く光り、テゾーロの怒りが伝わってくる。
「普通のカジノフロアを回り、ルール説明を聞くだけで……特別なゲームも、女性も、一切興味を示さず……」
『馬鹿が! 今まで一体何をしていた!!』
「申し訳ございません……!! ですが今回のVIPは、これまでと勝手が違い……!」
『天竜人だぞ。そんなわけがあるかッッ!!』
バカラの背筋が凍りつく。テゾーロの怒鳴り声は、刃物のように鋭い。
「同行者は第一婦人ソラと……もう一人、奴隷を連れています」
『奴隷だと? どんな奴だ?』
「顔の半分が爛れたみすぼらしい女です。ソラが無理やり綺麗に着飾らせていましたが……」
『……そんなものはどうでもいい』 テゾーロの声は冷たい。『天竜人が女奴隷に執心するなら話は別だが、そうではないのだろう』
「はい、どうやらソラが引き連れているだけのようで……」
『ふん。なら無視しろ。問題は奴本人だけだ』
バカラの指先が震える。テゾーロの苛立ちが、電電虫越しに伝わってくる。
「申し訳ありません……得られた情報が少なく……」
『……仕方ない。やはり俺が直々に会って、見極める』
「! テゾーロ様ご自身が……!?」
『ああ。お前の報告が役に立たない以上、俺が動くしかないだろう。すでにこちらの用意は終えている』
バカラの顔から血の気が引く。これは完全に自分の失態だ。テゾーロが直接出るということは──
「テゾーロ様!」
だが、バカラが何かを言う前に、プツン。電電虫の接続が切れた。
(っ、まずい……このままじゃ、私の評価が……いえ。下手を打てば、このグラン・テゾーロの存在価値が、危うくなる)
バカラは震える手で電電虫をポケットに戻し、深呼吸する。天竜人を満足させることができなければ、幹部であるバカラの地位は簡単に吹き飛ぶ。それどころか、苦心して世界政府からもぎ取ったグラン・テゾーロの公認も、取り消される事態に発展しかねない。
あらゆるものを──天竜人の力をも利用して、グラン・テゾーロは成り上がった。しかし、その天竜人の機嫌を損ねれば、国が滅ぶ。このような事態を避けるために、綿密な準備もしてきたというのに、何一つ役立っていない。そのことが何よりも苛立たしい。
「お待たせいたしました、ホルマス聖」
それでも、彼女は急いでエレベーターに戻り、笑顔を作り直した。エレベーターの扉が開くと、ホルマス聖は相変わらず無表情で立ち、ソラはヨルにそっと話しかけていた。
(……とにかく、アリーナまで連れていくしかない)
バカラの心は焦りでいっぱいだったが、顔には出さない。プロとして、最後まで完璧に役目を果たす──それが、グランテゾーロのコンシェルジュの矜持だ。
スカイ・テゾーロ・アリーナへと続く黄金の扉が静かに開いた。
その向こうには、天井まで届くほどの巨大な迎賓室が広がっていた。壁一面に描かれた天井画は、海の精霊たちが黄金の船で宴を開く様子を描いており、無数のダイヤモンドが星のように散りばめられていた。床は鏡のように磨かれた黒大理石で、天井から吊るされた3つの巨大なシャンデリアが、部屋全体を柔らかな光で包み込んでいる。
「ようこそ、尊き天竜人様」
ギルド・テゾーロが深々と頭を下げた。3m近い長身を優雅に折り曲げ、ピンクのスーツがきらめく。両手には無数の黄金の指輪が光り、その背後には20人以上の黒服が整列し、完璧な角度で平伏している。
「本日はグランテゾーロにご光臨賜り、誠に光栄の極みでございます」
テゾーロの声は滑らかで、計算され尽くした歓待の調子だ。天井画の精霊たちさえもが、その声に耳を傾けているようだった。
「バカラから、早々にご案内させていただいたと伺いましたが…いかがでしたでしょうか? 何かお気に召さない点がございましたら、即刻改善いたします」
ホルマス聖は微かに顎を動かすだけだったが、テゾーロは流れるように話を続ける。
「申し遅れました。私はこのグラン・テゾーロの主、ギルド・テゾーロと申します。本日は特別に、スカイ・テゾーロ・アリーナで、私自らが! エンターテインメンツを、ご披露させていただきます」
テゾーロの視線が、ホルマス聖の背後にいるソラとヨルに向かう。ソラは恭しく頭を下げ、ヨルは虚ろな目で床を見つめている。仮面で隠された左頬と、露わになった右頬。
「お連れのご婦人方にも、ぜひ──」
テゾーロの言葉が突然途切れた。
完璧に制御された歓待のリズムが崩れる。唇が微かに震え、緑の瞳が大きく見開かれた。
「テゾーロ様…?」
バカラが不安げに呼びかける声が、異様に緊張した空気を切り裂く。黒服たちが一斉に顔を上げ、互いに困惑した視線を交わす。天井画の精霊たちさえもが、この異変を訝しんでいるように見えた。
「失礼…いたしました…」
テゾーロはようやく言葉を絞り出したが、その声は明らかに震えていた。25年間、完璧に演じ続けてきた仮面が、初めて歪み始める。左手の空いた薬指が、無意識に自分の胸元に触れている。
(まさか…あれは…)
テゾーロの頭の中を、鮮烈な記憶が駆け抜ける。
奴隷市場の檻の中で、ただ一人笑っていた少女。彼女だけがテゾーロの下手な歌を楽しみ、幸せそうに聞いてくれた。金色の髪が汚れても輝いていたあの日。
(いや…ありえない…)
焼けた背中が疼く。25年間、指輪を嵌めることのなかった理由が、今胸を締め付ける。ステラはもういない。天竜人に連れ去られ、二度と会うことのなかったあの少女は。
(だが、その目…)
仮面の隙間から覗く右目の形。まつ毛の震え方。唇のかすかな動き。全てが記憶の中のステラと重なる。テゾーロの喉が熱くなる。金で買えなかったもの。金で取り戻せなかったもの。全ての原罪となったあの日々が、鮮やかによみがえる。
『買えるさ!おれがお前を買ってやる!!』
あの時、まっとうな手段で金を貯めようとした愚かさ。悪事に手を染めていれば、もっと早く──
『金が全てだ…金さえあれば…』
テゾーロの頭の中では、常に亡霊たちが哄笑していた。『お前は結局何も学んでいない』『金で買えなかったものがあることを認めろ』『お前の全ての成功は、彼女を失った代償に過ぎない』──
しかし。
彼の世界には、今この瞬間、目の前の女しか存在しなかった。
(…違う…違うはずだ…)
だが、心の奥底で、テゾーロは既に確信していた。
たとえ容姿が変わろうと、魂の叫びが告げていた。
──彼女はステラだ。
テゾーロの完璧な仮面が砕け落ちる。25年間築き上げた国王としての威厳も、天竜人への礼儀も、全てが霞んで見えた。左手の空いた薬指が震え、喉の奥から言葉が零れ落ちる。
「ステラ」
テゾーロの声がアリーナに響いた瞬間、場の空気が一変した。黒服たちが一斉に顔を上げ、バカラの目が大きく見開かれる。
ステラ──テゾーロにその名前で呼ばれた、ヨルは何の反応も見せない。虚ろな目で床を見つめたまま、ソラの腕にすがっている。その無反応が、テゾーロの焦りをさらに煽る。
「ステラ…? どうして……どうして俺を見てくれない?」
テゾーロの足が一歩、また一歩と、無意識のうちに前へと進む。その動きは、まるで夢遊病者のようだった。ピンクのスーツが乱れ、黄金の指輪がきらめく。その動きは明らかに異常だった。天竜人の前で許可なく近づくなんて──
「テゾーロ様…!?」バカラの声が震える。ソラが素早くホルマス聖の前に立ちはだかる。青い瞳に警戒の色が浮かぶ。「お止めください!!」
だがテゾーロは聞かない。25年間の悔恨が、理性を押し流していた。「なぜ…見てくれない…!私の声が聞こえないのか!?」
政府職員が急いで間に割って入ろうとする。「失礼ながら、お控えを!」鎧をまとった兵士が槍を向ける。だが、テゾーロの長い腕がそれを振り払う。その勢いで、ホルマス聖のシャボンヘルメットが大きく揺れる。
「ぐっ…!」
ホルマス聖が不意に後退り、尻もちをつく。テゾーロの乱暴な動きが、兵士を押し出し、それに連鎖して意図せず天竜人を押しのけてしまったのだ。
豪華な衣装が床に擦れ、天竜人の威厳を損なう姿となった。
──つまり、天竜人に不敬を働いた。
「テゾーロ!!」政府の将校が怒声を上げる。剣を抜く金属音が鋭く響く。「天竜人様に土を踏ませるとは、不敬極まりない!」
政府職員たちが駆け寄り、慌ててホルマス聖を囲む。それを見たテゾーロの緑の瞳が、初めて現実を見据える。自分の犯した過ちの大きさに、顔から血の気が引いていく。膝が震え、25年間築き上げた権力の全てが、一瞬で崩れ去る恐怖が現実に引き戻す。
「申し訳…ございません…」
その声は、かつての奴隷時代のように震えていた。テゾーロの長い身体が、地面にひれ伏す。ピンクのスーツが黄金の床に擦れ、左手の空いた薬指が冷たい大理石に触れる。天井のシャンデリアの光が、彼の顔を青白く照らし出す。
「これは…誤解で…」
「黙れ!」将校の剣先がテゾーロの喉元に光る。「国王としての礼を失い、天竜人様に無礼を働いた。お前はもはや王ではない!!」
突然の事態に第一夫人のソラは戸惑っていた。倒れたホルマス聖を支えながら、複雑な表情でテゾーロを見下ろす。ヨルは相変わらず無表情で、ただソラの袖を握っているだけだ。
テゾーロの頭の中を、無数の思考が駆け巡る。
全ての計画。全ての野望。天竜人をも手玉に取ろうとした野望が、たった一瞬の感情の乱れで崩れ去ろうとしている。
ホルマス聖はソラの支えだけで立ち上がり、静かに袖を払った。
「…エンターテイメントどころではなくなったようだ」
シャボンヘルメットの下から漏れる声は冷たく、鋭い。その言葉に、テゾーロの背筋が凍りつく。膝をついたまま、長い指が黄金の床を掴む。爪がきしむ音だけが、静まり返ったアリーナに響く。
(また…同じだ…)
奴隷時代の記憶が鮮やかによみがえる。天竜人の前でひれ伏したあの日。ステラを奪われ、全てを失った瞬間と、今が重なる。
「テゾーロを即刻拘束せよ!」
「天竜人様への不敬罪だ!極刑に値する!」
政府将校たちの怒声が飛び交う。バカラが震える手で口を押さえ、黒服たちが動揺してざわめく。テゾーロの部下たちの顔からも血の気が引いていく。まさか国王がこんな形で失脚するとは、誰も予想していなかった。
「ご主人様…」ソラが不安げに囁く。
ホルマス聖はひれ伏すテゾーロを静かに見下ろし、短く宣告した。
「下がれ」
その一言が、アリーナを凍りつかせた。政府職員もソラも、一瞬動きを止める。
「全員だ」
ホルマス聖の声に、ソラは躊躇いながらもヨルの手を引き、ゆっくりと後退り始めた。政府職員たちはどうすべきか悩んだが、剣を収め、不本意そうに頭を下げて退く。バカラは最後までテゾーロを見つめていたが、ついに俯いて踵を返した。
扉が閉じる音が響き、広大なアリーナにはホルマス聖とテゾーロ、そして離れることを許されていない、数人の護衛だけが残された。テゾーロの額から滴る冷や汗が、磨き上げられた大理石の床に小さな染みを作っていた。
ホルマス聖はゆっくりと歩み寄り、シャボンヘルメットの奥から冷たい視線を投げかけた。天竜人の白い衣装が、アリーナの煌びやかな装飾の中でもひときわ異彩を放っている。
「我が奴隷に許可なく近づこうとするとは。天竜人を前に、何を考えていた?」
テゾーロの肩が微かに震える。彼の頭の中は、嵐のように混乱していた。死んだと信じていたステラが生きていたこと。それも奴隷として、あの虚ろな目をしたまま…。
そして、今目の前に立つのは、天竜人ホルマス家の当主。記憶の断片がぐちゃぐちゃに絡み合い、理解を拒む。奴隷時代に聞いたこともない名前。あの街でステラを購入した天竜人とは違う。
「極刑に処すべきところだが」
ホルマス聖の声が、テゾーロの思考を遮る。天竜人はゆっくりとテゾーロの周りを歩き回りながら、言葉を続けた。
「ここに来たのは、妻の願いを叶えるためでもある」
その言葉に、テゾーロがかすかに顔を上げる。ホルマス聖のシャボンヘルメットの奥で、何かが光っているのが見えた。
「お前を排すことは、妻を悲しませる」
護衛たちが一斉に顔を見合わせる。その中で一人が思わず眉を上げた。第一夫人とはいえ、天竜人が他人の感情を考慮するなど、聞いたことがないことだ。
長い沈黙の後、ホルマス聖は金のチップを一枚取り出し、指先で優雅に回し始めた。チップがきらめく光を放ちながら、空中で美しい弧を描く。
「…故に、カジノ船らしく賭けを提案しよう」
テゾーロは呆然とした表情を浮かべる。
「一体、何を…」
「負ければ、お前は罪を償い、この船も我が物とする」
若い護衛が思わず「マジで…?」と声を漏らし、すぐに口を押さえた。グランテゾーロごと要求するとは…この船には世界の20%の通貨が流れている。あまりにも理不尽な要求。世界を揺るがす大事件だ。
だが、ホルマス聖の言葉は続く。
「だが勝てば、罪を許す。そして…」
一瞬の間。アリーナの空気が張り詰める。
「望むなら、あの女奴隷を売ってやろう」
テゾーロの体が激しく震えた。まるで全身の血が逆流するような衝撃が走り、凍りついていた時間が突然動き出す感覚があった。膝をついた姿勢のまま、指先が大理石の床を掴み、爪が軋む。
(ステラを…解放できる…!?)
テゾーロの視界が一瞬歪んだ。喉の奥から鉄錆のような味がこみ上げる。天竜人の奴隷になるかもしれないという現実も、グランテゾーロを失うリスクも、全てが霞んで見えた。
「受ける…!今すぐにでも…!」
声が喉を裂くように迸る。普段の計算高い国王らしさは微塵もなく、飢えた野獣のような切迫感があった。左手の空いた薬指が無意識に痙攣し、黄金の指輪がきしみあう。
「そうか。だが、容易に決着がついてはつまらぬ。時間を与えよう。賭けの種目はそちらで決めておくがよい」
ホルマス聖の声は冷たいままだったが、テゾーロにはもうどうでもよかった。頭の中は「ステラ」という名で充満し、理性を焼き尽くしていた。
「決着がつくまで、沙汰を保留とする」
ホルマス聖はチップをポケットにしまい、そっぽを向いた。護衛たちが慌てて道を開ける。その中を、静かに歩き去っていった。テゾーロだけが膝をついたまま、激しく鼓動する胸を押さえている。左手の空いた薬指が、無意識に胸元に触れていた。グランテゾーロの富も、権力も、全てが色あせた。
(俺の究極の願い。叶うのなら、他の何もいりはしない…)
奴隷は、死ぬまで奴隷。
死んだものは、決して生き返らない。
この世には、どうしても金では買えないものがある。
そして、それが手に入るのなら。
ギルド・テゾーロは全てを賭けられる。
(何を捧げても、俺は、ステラを…ッッ)
アリーナの巨大な扉が重い音を立てて閉まる。シャンデリアの光が、地面に伏したテゾーロの変わり果てた表情を浮かび上がらせる。跪いているのは国王ではなく、ただの執念に取り憑かれた男の顔だった。
奴隷とイチャラブのR18小説を書いていたはずなのに、なぜシリアス展開を描いているのか