天竜人と奴隷の少女 作:ましろ
政府の執務室には、腐った果実のような甘ったるい空気が充満していた。窓は閉め切られ、換気扇の音だけが不気味に響く。机の上には開封された高級ワインの瓶と、使い込まれた帳簿が散らばっている。
「まったく、あの天竜人め…」
禿げた中年男がグラスを叩きつけた。ワインが飛び散り、書類を汚す。
「普通なら即座に処刑だろ?なんで賭けなんか提案したんだ?」
「ふん、天竜人の気まぐれだよ」隣の女が唇を歪ませる。「あいつら、下々の事情なんて糞ほども考えやしない」
部屋の隅で痩せた男が帳簿をめくりながら呟いた。「テゾーロが仕掛けを用意する時間を与えちまった…まずいぞ」
「クソが!俺たちの弱みを全部握ってやがるんだ!」禿げた男が机を蹴る。「奴が賭けに負けたら、こっちの首が飛ぶ!」
痩せた男が冷ややかに笑う。「勝ったって同じだ。天竜人の機嫌を損ねたら終わりだ」
女が爪を噛みながら俯く。「テゾーロは、私たちの汚職の証拠を全部持ってる。海上警察の裏金、奴隷の密売…」
「黙れ!」禿げた男が怒鳴る。「壁に耳ありだ!」
一瞬の沈黙。三人は互いの顔を見合わせ、それぞれがどれだけの罪を背負っているかを確認し合う。追い詰められた男がどんな手を使ってくるのか。想像に容易い。いざという時には策を打たれる。その時間を、奴に与えてしまったのが最悪だ。
「とにかく…」女が囁くように言う。「あの賭けは阻止しなきゃ。なんとかして奴を拘束する方法はないの?」
「お前の愛人の件もバレるぞ」痩せた男が嗤う。
「あんただって!海軍の装備費を着服して…」
「静かにしろ!」禿げた男が再び怒鳴り、汗まみれの額を拭う。三人の視線が、机の上の一枚の写真に集まる。闇の住人と握手を交わす政府高官の姿。誰もが、あの時どんな取引をしたか知っている。
「天竜人様に直訴するしか…」女が弱々しく提案する。
「バカか!」痩せた男が唾を吐く。「あのホルマス聖はテゾーロに賭けを申し出たんだぞ?下手に口出しして逆鱗に触れたら…」
三人は同時に震える。テゾーロに秘密を暴露されるよりも悲惨だ。天竜人の怒りは、彼らのような小役人など一瞬で灰にする。禿げた男がグラスに残ったワインを一気に飲み干す。
「くそ…テゾーロの奴…よくもやってくれたな…」
部屋は再び沈黙に包まれた。換気扇の音だけが、彼らの罪を外へと運んでいく。
ザ・レオーロ──通称テゾーロ・タワー。その回廊では、早朝から緊張した空気が漂っていた。バカラは部下たちの囁きを耳にしながら、タレ目を細めた。
「業務命令はいつも通りだそうですが…テゾーロ様、あの後ずっと執務室から出てこられないんです」
「昨日の一件、本当に無事に収まったのかな」
黒服の部下が不安そうに呟くと、バカラが鋭い視線を向けた。「余計な詮索はよしなさい」
天竜人から何の沙汰もないはずがないが、政府の人間も動いていない。あの最悪の状況をどのように収めたというのか。幹部である彼女の心にも疑問が渦巻いている。テゾーロがひれ伏す姿。そして、あの汚らしい女奴隷への異常な執着----
(あの後、何があったのかしら…あのボロボロの奴隷が、一体なんだというの?)
長い睫毛が震える。しかしテゾーロは何も語らず、ただ「問題は解決した」と繰り返すだけだった。
執務室では、テゾーロが窓際に立ち尽くしていた。ピンクのスーツの袖口が微かに震え、左手の薬指だけが空いている手が、胸元を押さえている。窓ガラスに映る自分の顔----普段は完璧に制御した表情が、今は歪んでいた。
(ステラ…生きていた…だがあの姿…)
脳裏に浮かぶのは、仮面で隠された爛れた顔。かつての美しい声を奏でた唇は、閉ざされている。25年間、金こそが全てだと信じて築き上げてきた王国。その全てが、一瞬で色あせた感覚。
机の上には、密かに集めさせたヨルの情報が並んでいた。第一婦人であるソラによって着飾らされ、仮面で傷を隠されたらしい。今は記憶を失い、意思もないのだと。テゾーロに向けられた虚ろな目の意味が、今なら理解できる。
「クソが…!」
拳が窓枠を叩く。割れそうなガラスに、自分が狼狽えた顔が映る。
(集中しろ…ギャンブルのことを考えなければ…)
天竜人との賭けに負ければ、グランテゾーロも、命も、全てを失う。
だが勝てばステラを解放できる。この腐った世界で、ただ一つ取り戻せるものがある。
テゾーロは机の上に広げた書類を睨んだ。
今回のギャンブル。不正はできない。ラキラキの実の能力で幸運を操る常勝の切り札も、天竜人の前ではリスクが高すぎる。さらにエンターテインメント性も必要だ。例えば通常のルーレットなどは、世界貴族のギャンブルにはふさわしくない。
(ならば…あのギャンブルしかない)
唇が歪む。グランテゾーロの名物「黄金の罠」。
金に飢えた海賊たちを意図的に招き入れ、途方もない借金を背負わせる。返済を迫り、グランテゾーロの最深部にある金庫への潜入を行わせる。客たちはその成否に賭ける。
(この街では、俺が最強だ)
左手の指が、無意識にゴルゴルの実の能力を発動させる準備をする。いざとなれば、自らが海賊たちを完璧にコントロールできる。天竜人の前であろうと、この街のルールならば、自分に負けようがない。このギャンブルならば、確実に展開をコントロールできる。
テゾーロの指先が、机の上に散らばった金箔を散らす。金色の粉が舞い上がり、窓から差し込む朝日できらめく。その光景に、彼の唇が歪んだ。
(敗北など絶対に許されない。いや……ククッ。これは天竜人に復讐するチャンスだ)
25年前、天竜人に奪われたものを、今度は自分が奪い返す。この賭けは単なる勝負ではない。自らの身を賭けた、神を名乗る鬼畜共への叛逆。テゾーロの緑の瞳が、冷たい炎のように燃え上がる。
(奴らは…あの日ステラを奪った。今度は俺が奪ってやる、奴らに屈辱を与える)
机の上に広げた設計図を睨む。グランテゾーロ最深部の金庫――否、「黄金の罠」の舞台だ。ここで海賊たちを踊らせ、客たちの賭けを操ってきた。天竜人相手に、普段と同じことをするわけにはいかないが…
(だが、この街のルールは全て俺の意のままだ)
テゾーロはゆっくりと拳を握りしめた。唇が不気味に歪む。天竜人相手に露骨なイカサマは危険すぎるが、この種目ならば必要ない。金庫への道程に仕掛けたトラップ、海賊たちの心理操作、そして黄金――全てがテゾーロの掌の上だ。
(あの汚らしい天竜人め。何を考えたのかは知らんが、隙を見せたな)
かつて自分を奴隷にした連中と同じ血を引くホルマス聖。その天竜人からステラを奪い返す――この思いだけで、テゾーロの血が沸き立つ。無力だった頃とは違う。今は、あらゆるものを買える金がある。ゴルゴルの実の能力と組み合わせれば、完璧なシナリオが描ける。
「おい」
テゾーロの声が執務室に響く。外で待つ部下たちが慌てて姿勢を正す。
「天竜人との賭けは『黄金の罠』で行う。だが、今回はどんな手を使ってでも勝つ。準備を進めろ」
部下たちが息を飲む。
「分かっているな?」テゾーロの目が鋭く光り、固く組んだ手が軋む音を出す。天井画の精霊たちが、不吉な予感に身震いしているようだった。彼の気配を恐れた部下たちが、深く頭を下げて退出していく。
テゾーロは再び窓際に立ち、絶望と復讐に染まったその眼で、グランテゾーロの街並みを見下ろす。
怒りと屈辱で、静かに怒りが燃える。
完全に元に戻ることがなかったとしても、ステラはこの世にいる。天竜人の奴隷として、心を完全に壊されていたとしても。
(待っていてくれ、ステラ…)
左手の空いた薬指とともに、窓ガラスに触れる。冷たい感触が、熱くなりすぎた思考を、わずかに鎮めた。
グランテゾーロのハイパースイートは、静寂に包まれていた。天井から吊るされた水晶のシャンデリアが、ホルマス聖のシャボンヘルメットに冷たい光を反射させる。彼は窓際に立ち、眼下に広がる黄金の街を見下ろしていた。
ドアが静かに開き、CPの仮面をかぶった男が入ってきた。
「ホルマス聖、申し上げます」
「何だ」
「御身に無礼を働いたテゾーロを、即刻拘束すべきかと…」
ホルマス聖は振り向きもせず、窓に映るCPの姿をちらりと見る。「私が間違っているとでも?」
その冷たい一言に、CPの男は喉を鳴らした。「い、いえ…しかしテゾーロは危険な男です。賭けに負ければ…」
「下がれ」
「ですが…!」
「下がれと言っている」
CPの男は深々と頭を下げ、後ずさりするように部屋を出ていった。ドアが閉まる音が響き、再び静寂が訪れる。
ホルマス聖はテゾーロから届いた書類を手に取り、黄金の罠の詳細に目を通す。その時、ドアが再び開いた。
「ご主人様…」
ソラの青い髪が、柔らかな光に照らされる。彼女の目には、困惑の色が浮かんでいた。
「グランテゾーロを手に入れるために…ヨルを賭けたと聞きました」
ホルマス聖はゆっくりと振り向く。書類を机に置き、シャボンヘルメットの奥からソラを見つめる。
「私の知るご主人様は…奴隷を賭けの対象にされる方では…」
ソラの声がかすかに震えた。青い瞳が潤み、長い睫毛が震える。指先がドレスの裾をぎゅっと掴み、白い生地に皺が寄る。
「…なぜ、ヨルを…?」
ホルマス聖はゆっくりと振り向いた。シャボンヘルメットの奥から、静かな視線がソラに向けられる。窓から差し込む夕日が、天竜人のシルエットを金色に縁取る。
「私は神の血を引く者。下々民の神だ。これまで、間違えたことはない」
その声は、深い湖のように静かで、揺るぎない確信に満ちていた。
「お前を買った時と同じだ」
ホルマス聖の手が、ソラの頬に触れる。冷たい手袋の感触が、ソラの肌に伝わる。
ソラの胸が熱くなる。ご主人様の言葉は、彼女を買い取ったあの日を思い出させた。辺境の島の奴隷市場で、誰もが見向きもしない傷だらけの少女に手を差し伸べてくれたあの日。
「そうすべきだと思ったから、そうしたまで」
ソラの目から、一粒の涙がこぼれた。ご主人様の選択はいつも正しかった。自分がその証だ。
「でも…」
ソラは唇を噛みしめる。ヨルの虚ろな目が脳裏に浮かぶ。あの傷だらけの体。そして、テゾーロがあの女を見つめた時の、狂おしいほどの執着。
「ギルド・テゾーロという人物について、私は何も知りません…」
声がかすれる。指先がさらにドレスを強く握る。
「彼は知っているようでしたが、ヨルさんは覚えていないようでした。だから…私は、恐れています。あの人の元に渡ることが…本当に…良いことなのでしょうか…?」
主人の判断をソラは信じている。彼が不敬を働いたのは事実。ソラは、それが理由で死んでいった奴隷を何人も目にしながら、マリージョアで生きてきた身だ。
彼を裁くのなら、その末路は決して良いものにはならないだろう。その罪を赦すことだけが目的なら、理由作りはいくらでもできる。
そして、望むなら彼にヨルを引き渡すこともできる。だが主人は、選択を運に委ねた。あえてヨルを賭けのテーブルに載せたのだ。
ソラはテゾーロという人物を知らない。知っているのは世界有数の大富豪、カジノ王と名乗っているという程度。
彼女の運命を彼に委ねるべきか、現状維持か。
どちらに転ぶか分からない状況に追い込むことは、明らかに間違いだと思えた。
「それにあの人は……ご主人様を、いえ。ご主人様の一族を憎んでいるようでした」
ソラは実際対面した彼から、悪意と憎悪の気配を感じた。
同じ奴隷や、街で過ごす普通の人が天竜人の一族に向ける、どの視線とも違う友好的な笑顔。だがそれが作りものだと、ソラには伝わってしまった。少なくとも初対面の彼は、嘘で塗れていた。
彼がなぜヨルを欲するのか。ヨルが彼の下に行くことを望むことなのか。ソラには分からない。信じることができない。
長い沈黙。シャボンヘルメットの影で、ホルマス聖の目が微かに光る。
「今一度言おう。お前を買った時と同じだ」
ホルマス聖は窓の方に向き直った。夕日に照らされたグランテゾーロの街が、まるで黄金の海のようにきらめいている。
「私の中に流れる、世界を創造した神の末裔としての血が、この道を選ばせた」
その声は、静かながらも重々しく響いた。
ソラの胸が高鳴る。今ソラが考えていたことは全て憶測。しかし、ご主人様の言葉は、疑いようのない真実として彼女の心に染み込んでいく。
「良いことかどうかは…」
ホルマス聖の手が、窓ガラスに触れる。遠くで、黄金の街に灯りがともっている。
「…運命の導きが決める」
ソラは深く息を吸い込み、やがてゆっくりとうなずいた。ご主人様の背中に、確かな意志を感じたから。
その選択が正しいと信じる。彼女自身が、その生きた証なのだから。
グランテゾーロ中央競技場が急遽改装された。普段の派手さは抑え、代わりに荘厳な白大理石の祭壇が設えられていた。天井からは純白の幕が垂れ、日の光を優しく濾しとっている。
「では、約定の儀を執り行う」
三日の時を経て、テゾーロは硬化した表情で宣言した。今日の彼はピンクのスーツではなく、粛然とした黒の礼服に身を包んでいる。祭壇の両脇には、困惑した表情の政府職員たちが並んでいた。彼らの視線の先は、白スーツをまとった仮面の男──彼の正体は有名だ。
「なぜCP0が…?」
下役たちが囁き合う。件の賭けが天竜人直々の要請であることは承知していたが、まさか最高諜報機関が動くとは。
その当人であるロブルッチは、無言で着席した。彼は元々、グラン・テゾーロを監視する任務を受けており、ちょうど到着したところだったのだ。政府内のテゾーロ排除派が、これ幸いと利用した形である。
そしてその横に、ホルマス聖が静かに立っていた。シャボンヘルメットの奥から冷たい視線を投げかけている。傍らにはソラと、仮面をつけたヨルが並ぶ。CP0のロブルッチと、さらにもう一人。鼻高々なスパンダムが政府代表として警護に付く形だ。
「へへぇー、天竜人様が直接賭けられるなんて~」スパンダムが調子良くしゃべり出すも、ロブルッチの一瞥で黙り、縮こまった。
古くからの幹部である、バカラとタナカがテゾーロの背後に控える。バカラは普段の妖艶なドレスではなく、厳かな青のローブをまとっているが、腿の蛇のタトゥーだけが覗いている。さらにもう一人。白装束の巨漢が、分厚い契約書を携えて登場した。
「審判の条件を申し上げます」
テゾーロの右腕の一人・ダイスだ。元デスマッチ王者の彼の、筋肉隆々の体躯からは、尋常ならざる覇気が漂っている。
「次にグランテゾーロに来訪し、基準を満たす海賊団を被験者とす」
「テゾーロ方は一切の準備を為すべし」
「天竜人方はいかなる干渉もなさるべからず」
「勝利の暁には──」
テゾーロの視線が、一瞬ヨルに向けられる。仮面の隙間から覗く右目は相変わらず虚ろで、(…やはり俺を覚えていないのか)と内心で呟く。
ダイスが契約書を広げる。黄金のインクで書かれた条文が、荘厳な光を放っている。
(天上金と引き換えに、お前たちは敗北を飲むことになる)
テゾーロの唇が歪む。政府高官たちがざわめく中、ホルマス聖が静かに署名する。テゾーロも金のペンを取り、流麗なサインを記す。
「これにて裁定成立」
ロブルッチが宣告すると、祭壇中央で黄金の炎がゆらめいた。
その美しい光景の中、ヨルだけがぽつんと立っていた。仮面の下の視線は、テゾーロの左手を見つめていた──だがしかし、虚ろな瞳に光が戻ることはなかった。
それから──
テゾーロの執務室に、緊急の報せが届いたのは契約成立から五日後のことだった。
「テゾーロ様、条件を満たす海賊が現れました」
部下の声に、テゾーロはゆっくりと椅子から立ち上がる。映像電伝虫は、グラン・テゾーロの港に停泊する海賊船を撮していた。その船首には固有の、ある有名な骸骨のマークが描かれている。
「……ふん」
テゾーロの唇が、ゆっくりと歪む。
「面白い。まさか、あの海賊が来るとは」
部下が差し出した報告書を確認する。そこには、彼らの経歴が詳細に記されていた。東の海から突如現れ、七武海を倒し、エニエス・ロビーを壊滅させた実績。さらに船長は頂上戦争にも関与し、何よりも、世界政府の天敵として名を轟かせた、あの事件の首謀者たちだ。
「……よりにもよって、天竜人を怒らせた連中だと? クククッ、クハハハハ!!!」
テゾーロの目が光る。部下はその姿に、ぎょっとした表情を浮かべた。だが、それほどに、
「この海賊を嵌めることは、天竜人の機嫌を取ることにもつながる」
己の願いを果たすには、最高の条件だ。
「準備を進めろ」
部下たちが一斉に動き出す。しかし、一人の部下が躊躇いながら口を開いた。
「……カリーナ様はいかがいたしますか?」
テゾーロの目が鋭く光る。
「何も言うな」
カリーナはまだ日が浅い。天竜人を前にしても、自らを裏切らないと言えるほど信用はしていない。彼女には天竜人の件のみ何も知らせず、いつも通りに利用する。
部下が深々と頭を下げて退出する。テゾーロは再び電伝虫の映像を見やり、港に停泊する海賊船を睨みつける。下船した彼らに、幹部であるバカラが接触する姿が映されていた。
「……ドフラミンゴを倒すなどと、面倒なことをしてくれた」
彼の声は、静かながらも底知れぬ熱を帯びていた。
「だが、感謝しよう」
テゾーロの指が、机の上の金のチップを一つ弾く。
「お前らの処刑は、天竜人への最高のショーとなる」
そして、最後に彼は呟いた。
「歓迎するぞ。『麦わらの一味』」
FILM GOLDの再履修はできたか?
俺はできてる