天竜人と奴隷の少女 作:ましろ
ソラの教えたとおり、一行はハイパースイートを静かに抜けて、通路を行動していた。
壁に沿って影を作り、時折通り過ぎる警備兵の影に耳を澄ませる。コミュニケーションは視線と最小限の手信号のみ──麦わらの一味は長年の冒険で培った隠密行動を完璧に実行していた。
「…あの女、嘘じゃなかったみたいだ」
ウソップが犬のように匂いを嗅ぎながら囁く。確かにこのルートは警備が疎で、四人一組の巡回隊をやり過ごす程度で済んでいた。珊瑚の模様が浮かび上がる大理石の壁が、かえって彼らの姿を隠してくれている。
「ええ。このまま金庫まで抜けられるかも!」
「いえ。恐らくこの動きは……」
ロビンは動きながら考え込む。ブルックの表情も優れない。天井から垂れ下がった水晶のシャンデリアが、一定間隔で照らす黄金の光が明滅する。あまりにも完璧なタイミングで警備の死角ができる。
「ワナですね」
「どうやら、そのようだ」
「ちょっと、それどういうことよ!?」
サンジの煙草の煙が螺旋状に渦を巻く。三人の言う通り、見つからないのはあまりにも不自然だ。螺旋階段の入り口に差し掛かった時、ナミの背筋に電気が走った。
「なるほど。俺たちには退路がない。必ず通るこの場所で、待ち伏せていたわけだ」
「スルルルル、正解です」
「ようこそ、鼠さんたち」
サンジに応えるバカラの声は蜜のように甘く、刃のように鋭い。階段中央の踊り場で、腕を組んだタナカさんの不気味な笑いが響く。幹部の二人が腕を組んで待ち構えていた。
さらに、タナカさんの目が光る。その合図とともに、背後から金属音が響いた。振り返れば、テゾーロ一味の武装兵士たちが、出口を完全に塞いでいる。
まさに袋の鼠状態。警備兵の数は軽く百を超え、階ごとに配置された電伝虫が今の出来事を記録している。
ウソップの喉がゴクリと鳴る。チョッパーも思わず怯んで身をすくめる。
タナカさんの唇がゆがみ、スルスルとした笑い声が螺旋階段に響き渡る。「スルルル…金を用意できれば何でもいいと? 金庫から盗んだ金で、返済が成立すると思っていたのですか」
その言葉に、ウソップが膝を震わせる。「そ、それは…」
バカラが妖艶に髪をかきあげながら、黄金のペンダントを指で弄ぶ。
「あらあら、テゾーロ様の金庫に手を出そうとするなんて、なんて身の程知らずなのかしら」
彼女の緑のタレ目が、特にカリーナをじっと見つめる。
「カリーナ。あなたまでこんな事に加担するなんて。失望したわ」
「っ……」
カリーナは唇を噛むが、反論しない。彼女の手に汗がにじんでいた。
元々彼女はテゾーロが、このギャンブルのために送り込んだスパイだ。だからそのことへの焦りはない。しかし、この場所に幹部が集まっているのは一体なぜなのか。嵌められたのは自分なのか。誰が敵か、味方なのか、分からない。
螺旋階段の壁に刻まれた黄金の模様が、不気味な光を放っている。しかし突然、タナカさんが大きく手を広げる。「スルルル…だがいいでしょう!」その不自然に大きい頭が左右に揺れる。
「これもエンターテインメンツ。金庫破りする海賊を狩るのも面白い!!」
バカラもくすくす笑いながら続ける。「ウフフ、その通り。でも…」彼女の指先が妖しく蠢く。「できるかは別問題だけど。かかっていらっしゃい」
あからさまな挑発。ウソップが即座に反応し、幹部二人に特殊弾を放つ。
「なら遠慮なくっ……! 必殺・緑星ドクロ爆発草!!」
だが炎色の閃光は、バカラとタナカさんはにやりと笑い、二人の体がスーッと床に沈み込んで攻撃を回避する。
「何ッ!?」
「スルルルル! 大変残念ですが、ここで貴方達には、消えてもらいます」
「このっ……!!」
タナカさんの巨大な顔に蹴りが迫るが、命中する直前。「スルルルッ」と低い声で笑い、黒い身体そのものが地面にすり抜けて消える。サンジの足に黒い覇気がまとわるが、次々にタナカさんはスルリと床を通り抜け、かわした。
一方で、タナカさんの能力の支援を得られなくなったバカラに、再度ウソップが弾丸を放つ。しかし──
「あらあら。一人になったところを狙うなんて、可愛いわね」
「何ッ!?」
弾丸は命中する直前。周囲から迫ってきたテゾーロ一味の一人が体勢を崩して転び、バカラの前に守るように飛び出て、「ぐわああああっ!?」と。不運にも彼に、紅く爆発する髑髏の弾丸が命中した。
旋風を起こすが、彼女は全くの無傷。煙が晴れた後、彼女は煤を払うようにドレスをはたいた。
「な、なんだよ今の。まるで守るみたいに、飛び出てきたぞ。偶然か?」チョッパーが警戒心を抱く。
先の攻撃はタナカさんによってかわしていたが、今度はまるで動かなかった。最初から当たらないことが分かっていたような振る舞いだ。
「いえ。今のは偶然ではなく、恐らくは……」
「ええ、お察しの通り。ラキラキの実の能力で奪った『運』は、私自身の運に変換される」
バカラは一枚のコインを持ち、タナカさんは懐から特別な銃を取り出した。武装した警備兵が四方を囲み、麦わらの一味は螺旋階段に追い詰められる。
「つまり貴方達に、私は倒せない」
「スルルル…あなた方には、こちらで消えていただきます。さあさあ、どちらが先に倒れるか。ギャンブルといきましょう!!」
彼らを倒さなければ、とても頂上に辿り着けない。そして身体を『黄金』に固めるテゾーロが来る前に、決着をつけなければならない。カジノと海賊の、命を賭けた決死の乱戦が幕を上げた。
曇天に覆われたスカイ・テゾーロ・アリーナは、不自然な静寂に包まれていた。どこまでも続く青黒い雲が月を閉ざし、客席には誰一人いない。
通常なら熱狂的な観客で埋め尽くされるはずの広大なスタジアムは、今や巨大な墓場のようであった。宣伝されていないということもあるが、ホルマス聖のために余興が開かれていると知っているため、誰一人として観客になることを望まなかったのだ。
吊るされたスクリーンを、映像電伝虫が見つめて、螺旋階段で繰り広げられる死闘を映し出していた。テゾーロ一味の下っ端たちは壁際にびしっと並び、斎に息を潜めている。天竜人の存在に震え、微かに額に汗をかいている者もいる。
「くそ…早く負けろよ…!」
政府側の人間としてCP0のスパンダムが、画面に張り付くようにして、憎々しげに呟いた。彼のネズミのような目が、麦わらの一味の姿を追う。指先が震えているのは、かつてエニエス・ロビーで受けた屈辱を思い出しているからだ。人生初の敗北を喫した怨念が、顔を歪ませる。
一方、テゾーロ一味の幹部であるダイスも、巨体を震わせながらスクリーンにくぎ付けだった。鎧のような筋肉に刻まれた星の刺青が、戦いの熱気に反応して微かに光る。
「くっ……ッ!」
彼の拳がギシリと軋む。普段は斧を握る大手が、逃げ場のない興奮で震えている。
「……奴らと……戦いたい……っ!」
声が漏れる。睾丸を締め上げられるような快感への渇望が、筋繊維を波打たせる。
主力であるにもかかわらず、天竜人との賭けの見届け人という立場上、今の自分には何もできない。このままでは、街が滅びようとも、自分はただ見ているしかないのだ。
「傷……傷つきたいのに……!」
血の滴が握り締めた拳から床に落ちる。この状況でもブレないのかと、彼の部下達は引き気味に見つめていた。
そして中央の舞台には商品──黄金に覆われたゾロが、身動き一つできない状態で鎮座していた。その視線だけが、激しい意志の炎を宿してキョロキョロと動いている。
「……これはどういうことだ」
ゾロの声が、奇跡的に響き渡った。苦しい息遣いの中にも、屈辱や諦めは微塵もない。
だが彼は何の事情も把握できていなかった。仲間が助けに来ることは疑っていないが、この場に政府側のCP0と天竜人がいる意味が分からない。厄介な事態になっていることは察したが、「黙っていろ、海賊!」テゾーロ一味の部下が鋭く叱りつけ、情報が得られない。
ゾロの目は、CP0の存在と天竜人の姿を確認すると、さらに鋭く光った。彼の目には天竜人に向けるべきではない、明確な敵意があった。「貴様!!」と政府の人間が、銃を向ける。
「かまうな」
止めたのは、中央の玉座に座るホルマス聖だ。ゾロを一瞥もせず、ただスクリーンを見つめている。シャボンヘルメットの隙間から覗く目は、氷のように冷たい。周囲の人間は、機嫌を損ねないように焦って姿勢を正す。ゾロは口を閉ざしつつも、怪訝な眼差しで天竜人を見つめた。
そして彼の背後にはヨルが立っていた。
懸賞金3億2千万ベリーのゾロと同じく賭けの商品とされた彼女。仮面と長髪のせいで表情は見えないが、恐怖で震えているのは明らかだった。
「ソラ様がお戻りなさいました」
政府護衛の声が、重苦しい空気を切り裂く。
同時に背後から衣擦れの音。無反応なはずのヨルが、僅かに身体を傾けた。ホルマス聖もそこで初めて、静かに振り返る。青いドレスをまとったソラが、ゆっくりとホルマス聖に向かって進む。
「一人で出歩いたな」
ホルマス聖の声は低く、静かだった。しかしその一言は舞台の空気を凍り付かせる。
スパンダムが喉を鳴らし、ダイスですら一時的に興奮から覚める。テゾーロ一味の下っ端たちは、さらに息を殺した。天井から吊るされた電灯が、不規則に明滅する。彼が不機嫌なのがあからさまに伝わってきたためだ。
ソラは深々と頭を下げる。ドレスの袖が床に触れ、静かな音を立てた。
「ご主人様は私を自由にしてくださっています。ですが、それには責任が伴うことも理解しています」
彼女の声は絹のように滑らかで、しかし鉄の意思が込められていた。
「私は命令なく離れました。罰は如何様にも……どうぞ、お咎めください」
ソラの声は変わらず穏やかで、しかし覚悟に満ちていた。
長い沈黙が流れる。電伝虫の羽音だけが、重苦しい空気を切り裂く。黄金に覆われたゾロが鎮座する舞台。ホルマス聖の静かな問いが響き渡った。
「…
その声は機械的で、まるで計量器の針のように正確だった。ソラは深々と頭を下げ直し、天竜人でありながら敬意を込めた言葉を選んで答える。
「ヨルの幸せを願っておりました」
場の空気が一瞬引き締まる。政府護衛やスパンダムの目が点になった。この場にいる誰もがその重みを理解していた。妻とはいえ奴隷が、天竜人に意思を見せるなど、常識外れの行為だ。
「ご主人様はヨルをお賭けになられました。それが良いことなのか…彼女の望みは私にも分かりません」
ソラの声は静かながらも、揺るぎない決意に満ちていた。
「ですが、私は彼にヨルを渡せません」
テゾーロ一味の部下たちが息を飲んだ。スパンダムの額から冷や汗が流れる。ダイスでさえ、黒目がちな目を見開いた。
「…愚かな」
ホルマス聖は呟くように言った。だが驚くべきことに、決して怒りではなく、淡々とした事実確認のように聞こえた。
ソラは続ける。「私は彼の嘘偽る眼差しを見てしまいました。あの人は…あなたを憎んでいます」長い睫毛が微微と震えた。
「彼女を助けたいという気持ちにも嘘はないでしょう。しかし…」ソラの手が僅かに震える。「本心は違います。ご主人様を侮辱しようとしている。そして何より…」
ここでソラの声が初めて熱を帯びる。
「救おうとしているヨルさんのことを、本当には見ていない」
重い沈黙が支配する。映像電伝虫のスクリーンに映る乱戦も、この空間だけは遮られたかのようだった。黄金の中に閉じ込められたゾロでさえ、驚愕した眼差しで彼女を見つめている。
「おこがましい」
ホルマス聖の声が静かに、しかし確実に空気を切り裂いた。
「下々民の運命を決めるのは神である私の役目だ」
その言葉に、あたかも電流が走ったように、ヨルの体に震えが走る。ソラも僅かに頬が引きつった。
しかしホルマス聖は続けた。
「だが、ヨルはお前が拾い上げた奴隷。その行動の結果を見届けるがいい」
スパンダムが思わず目を剥く。テゾーロの部下たちも顔を見合わせた。
これは明確な許可だった。罰しないという宣言。
天竜人でありながら、奴隷の自主的行動を受け入れているのだ。冷静に頭を下げたのは妻のソラのみ。スパンダムは「妻とはいえ奴隷に…」と喉を鳴らした。
一方、仮面の下でヨルは恐怖を感じていた。背後で震える彼女にソラがそっと手を重ねる。
「大丈夫…」ソラの囁きは、二人にしか聞こえないほど小さかった。
二人はスクリーンを見上げる。映像では今、麦わらの一味が窮地に立たされていた。嵐の前の静けさのように、緊張が張り詰める空間。ホルマス聖のシャボンヘルメットの影に隠れた目は、その先を、正確に見定めていた。
黄金砂漠の闇が、不気味な金色の光に染まっていた。
グラン・テゾーロ最深部、ボトムレス・ヘルの底──四方を黄金の壁に囲まれた不気味な空間。天井からは終わることなく黄金の砂が流れ落ち、床に積もっては消えていく。燐光を放つ砂塵が、二人の戦士を照らしていた。
砂煙が舞う中、ルフィの体が宙を舞う。ギア3で巨大化した右腕が、風圧を起こしながらテゾーロに向かって伸びてゆく。
「ゴムゴムの──ギガント!!──」
拳が吸い込むように空気を飲み込み、黒い覇気が黄金色を喰らいながら加速する。その刹那。
「んなっ!?」
周囲の黄金砂が突然触手と化し、蛇のように絡みついてくる。無数の光る鞭がルフィの本体を縛りつけ、動きを封じた。
視界の端で、テゾーロの指が優雅に動く。その動作と連動して、地面の黄金が波打ち、新たな触手が蠢き始める。
「ふん…面白い技だ」
テゾーロの声は冷ややかだったが、瞳だけは興奮の色を宿している。彼の右手の指輪が不自然に輝きだし、流れるように黄金が纏わりついた。腕全体が膨れ上がり、巨大な黄金の拳へと変貌する。
「だが、このフィールドでは無意味だ──
一瞬。あまりにも速い。
黄金に覆われた拳が、空気を引き裂いて迫る。攻めていたはずのルフィは、次に意識した時、既に壁にめり込んでいた。熱いものが口から溢れる。血だ。目が焦点を合わせるより先に、テゾーロが静かに歩み寄ってくる足音が響く。
落伍者の男たちは遠くで震え、フランキーが「ルフィ!」と叫ぶ声も歪んで聞こえる。ルフィの喉奥からうめき声が漏れる。立ち上がる足元に、再び黄金帝が這い寄る。
「頑丈な男だ、麦わら。だがいつまで耐えられるかな?」
「ぐぬぬ……ぅうっ!!」
テゾーロの背後で、黄金の砂柱がうねりながら立ち上がる。四方の壁から無数の突起物が生まれ、死刑執行場さながらの光景が広がっていく。ルフィがなんとか体勢を立て直そうとするが、黄金の触手に縛られ、黄金の壁に押し付けられたままだ。
その周囲には、テゾーロが動くたびに生み出される無数の槍──全てが鋭く輝き、ゆっくりとルフィに向けて伸びていく。
「フゥ……」 テゾーロが優雅に指先を震わせれば、黄金の槍が一斉に駆動し、ルフィの体を貫こうとする──
「っ……!」
直後。黄金の棘が壁を穿つ衝撃が轟く。しかし、その瞬間、ルフィの体がゴムのように「シュゴォーッ!」と潰れ、触手の隙間から滑り抜けた。
「チッ……!」 手応えが無い事に、即座に勘づいたテゾーロが舌打ちする。
フランキーが拳を構えて突っ込もうとする。しかし、テゾーロは指をパチン、と鳴らした──頭上に突如、映像が映し出される。ゾロが黄金の台座に、固く縛り付けられている姿が浮かびあがった。
「ッ!? ゾロ!!」
「動くな、クズ共」 テゾーロの声が重く響く。「一対一のルールだと言っただろう。お前達が介入するなら、こいつの処刑ショーの実施は今だ」
「くっ……!」 機械のボディが軋み、迫力を孕んだまま静止する。人質など卑怯な手だが、しかし相手に理がある。海賊の流儀を破りかけたのはフランキーの方。致命的な隙を見つけたとしても、動けない。
だがその一方、有利な状況を作り上げたテゾーロの目は、冷たい怒りを湛えていた。
(本来なら、侵入者は即座に黄金に変えて終わりだ)
ルフィの体には、すでに「浸食された黄金」が染み込んでいる。その黄金を思い通り固形化させ、相手の動きを完全に封じられる。
だが──天竜人との契約上、それは許されない。
(クソが……ルールを決めるのはこのオレなのに……)
テゾーロの唇が微かに歪む。腹立たしさが全身に駆け巡る。
この賭けにおいて、彼の戦術は封じられていた。その苛立ちを隠し、テゾーロは再び拳を握りしめる。黄金が腕に纏わりつき、繊細ながらも危険な輝きを放つ。
(だがどう偽ろうと、所詮天竜人はクズ。やりようなどいくらでもある)
凄まじい爆音が黄金の牢獄を揺るがした。砂煙が舞う中、ルフィが鋭い吐息を漏らしながら構え直す。
「おやおや。
指を一振りすると、地面から噴き出した黄金の柱がルフィを挟み撃ちにした。ルフィはゴムの体をねじり、間に合わせの防御で回避する。
「何も手に入れていないからだ。金がない奴は何もできない!!」
テゾーロの黄金の拳が再び膨れ上がる。その重量感は前回以上だ。ルフィが咄嗟に後方へ飛ぶが、黄金の触手が追尾してくる。
「確かに多少腕は立つようだが」テゾーロが冷たく笑う。「金の前では無意味。現にお前は―」
「うるせえ!!」
ルフィの怒声が牢獄を震わせた。その目は赤く光り、蒸気のような息が漏れる。
「俺の仲間は必ず返してもらうぞ、テゾーロォ!!」
体が真っ赤に染まる。筋肉が膨張し、強烈な蒸気が噴き出す。
「はっ、多少変わったところで―」
テゾーロの皮肉めいた言葉が未完のまま、ルフィの拳が空気を引き裂いた。衝撃波が、黄金の触手の壁を粉砕していく。
「なっ!?」
テゾーロの目が初めて見開かれる。黄金で形成した分厚い防壁が、蜘蛛の巣のようにひび割れていく。かろうじて跳んで攻撃を避けた直後、巨大な黄金を漆黒の拳が貫いた。
「ッッ……調子に乗るな、麦わらァ!!!」
即座に攻撃の姿勢に切り替える。テゾーロの拳に液体の黄金が纏わりつき、背後に、新たな形態を発動させたルフィの拳と同等の拳を形成した。
「ゴムゴムの……!!」
「
だが直前、テゾーロは察する。ルフィの纏う覇気が桁違いに跳ね上がったことを。このままでは押し負ける。咄嗟に動こうとするが、すでに行動は終えている。
「しまっ……」
「
目を見開き、冷や汗を流しつつも能力を発動させる。だが、咄嗟に繰り出した回避のための拳は破壊され、黄金の破片を散らせた後に拳が頬に直撃する。
信じられない重量と熱量。テゾーロの体はボールのようにひしゃげ、牢獄の天井へと吹き飛んだ。
「ぐおおおッ!!」
「ぶっ飛べぇぇぇぇぇッ!!」
衝撃が天井を貫通。テゾーロの体はさらにその勢いを増し、地上階へと突き抜けていった。石や金属の破片が雨のように降り注ぐ中、ルフィはドスンと地に足を着け、追いかけていく。
「いいぞォ、ルフィ!」フランキーが歓声を上げる。落伍者たちも、呆然と空いた穴を見上げていた。そこからは夜の空が見える──グラン・テゾーロの地面を貫通してしまったのだ。
グランテゾーロの街の上空に、異様な光景が広がっていた。突然爆発した建物の天井から、テゾーロの体が流星のように放り出されてきたのだ。住民たちが驚いて空を見上げる。
「なん…あの黄金の光は…!?」
「テ、テゾーロ様!?」
カジノの外では飲んでいた客がグラスを落とし、路上の人々が次々と顔を上げた。決して夜空の色に埋もれない鮮烈な黄金の軌跡。
だが、空中で意識を取り戻したテゾーロが指輪の一つを弾く。飛び散っていた黄金の欠片が急激に集合し、ザ・レオーロ──黄金塔の外壁と結合して、不規則な足場を形成した。その上に不格好ながら着地した彼は、口元から流れる血を手の甲で拭い、舌先で鉄の味を確かめた。
しかし、追撃がやってくる。
「ギアフォーーース!!」
蒸気を噴く赤黒い巨体が、街灯を蹴りながら空中を駆け上がってくる。
ルフィの現在の姿は、ゴムゴムの実と覇気を極限まで極めた異様なフォルム。周囲の黄金さえ蒸発させるほどの熱気を放ちながら、テゾーロへと迫る。その威容は、ある予感を彼に与えた。
(馬鹿な。この程度の海賊に…俺が、押されているとでも言うのか?)
グランテゾーロも、ステラも一切合財失う可能性が頭をよぎる。
金の力が無意味に…?たかがいち海賊ごときに?
奴隷時代。全てを失った、その日の絶望が蘇る。だが今、目の前には金に屈しないゴムの男。
「ふざけるな……」
そんなことは…認めない、認められない。
「ふざけるな…!!」
その叫びと共に、テゾーロの掌から能力が通り、雷光が煌めく。
直後。グランテゾーロの街中が、一瞬にして静寂に包まれた。住民たちの目は一様に大きく見開かれ、飲み物を口からこぼす者もいた。その視線の先には── ルフィが突き破った地下牢獄の大穴から、信じられない量の黄金が沸き上がってくる光景が広がっていた。
「な…なんだあれは…!?」
「見たことねえ量の黄金だ…!」
黄金の奔流は、まるで生き物の触手のように狂った勢いで伸びてきていた。溶けたように柔軟でありながら、鋼よりも硬い。元々は地下牢獄全体を形成していた巨大な金塊が、テゾーロの能力によって目覚めたのだ。
「ッッ──!?」
ルフィもその途方もない量に一瞬たじろぐ。しかしすぐに拳を振り上げようとした瞬間、無数の光る触手が襲い掛かる。
「うおおおッ!? クソっ!」
拳を変形させ、ギアフォース特有の弾力で必死に回避。だが、一瞬でも隙を見せれば、あっという間に押しつぶされる──
「ほらよ!!!」
テゾーロの叫びが金塊の轟音を掻き消した。彼は空を埋め尽くすほどの黄金を操りながら、触手の玉座に立って狂気じみた笑みを見せる。
「クククッ。お前みたいな奴は…支配されるだけの『ゴミ』……」
「だが、使い道はある。グラン・テゾーロの、エンタテインメンツとなれェ!!! 」
黄金の波頭が渦巻く。その中心でルフィは無数の攻撃をかわしつつ、地に足を着けようとするが──黄金が、敵にその余裕を与えない。
「抗っても無駄なんだよ!!」
テゾーロの声が爆発した。その言葉は、かつての敗北を覆すために、何年も前から自分に言い聞かせていたものだった。
「ここを出たとしても、何も変わりはしない……」
「お前達は支配されるだけの側…!」
「俺は……!」
その瞬間、テゾーロの表情が微妙に歪んだ。
まるで無意識に、何かを覚えてしまったかのように。ステラの笑顔が頭をよぎる。金では買えなかったものの記憶。しかし──
(今更……!)
歯を食いしばる。虚空をつかむように手を握り締めた。
街中を逃げ惑う住民たちが悲鳴を上げる。崩れ落ちる建物、割れる商店の窓——テゾーロの黄金の狂瀾が通りを飲み込み、グランテゾーロの町全体が歪んでいく。
ルフィは倒れそうな建物の壁を蹴り、空へと跳んだ。蒸気を噴く巨体が宙を舞うが、次の瞬間、黄金の触手が彼を追い詰める。
「黙れ!」ルフィの声が爆発した。双拳に成形された覇気が熱を帯びる。
「俺は、お前なんかに支配されねえ!!」
閃光——振り下ろされるゴムゴムの黒い砲撃。押し寄せる黄金と衝突し、爆風が辺りを薙ぎ払った。
「ククク…いいリアクションだ」
テゾーロが舌を鳴らす。しかし、その瞳にはもはや冷静さがない。彼は空中に黄金の足場を作り、ルフィを見下ろしながら吠える。
「諦めろ! 金は力だ! 金が全てだ! 金の無い奴は、何も手に入らないんだよ!!」
——それは、かつての自分に向けて叫んでいた言葉。今やそれは空しい宣誓に過ぎないと、ふと気付いている。それでも。
「愛も、夢も、強さも、自由も!! そして、希望も…!!」
その声の奥で、ステラの笑顔が一瞬揺らいだ。
しかし。
「断る!!」
断固とした拒絶が返る。ルフィの拳が黄金の渦乱に切り込む。
「俺はお前をぶっ飛ばして、仲間を取り返す!!」
「もう二度と、誰も失わねェ!!」
テゾーロの叫びに対し、何の迷いもない。絶対に壊れないはずの黄金の壁が、裂けていく。
「…くそったれ…」
テゾーロの歯が軋む。さっきの一撃で矛盾が露呈した。目の前のゴム野郎は口先だけではないと理解してしまった。「失ってなお、諦めなかった」タイプの人間だ。まるでステラのように。つまり、目の前の敵を倒すことは……
「だがこれが現実だ!! お前が勝てる道理など、何一つ無いッッ!!」
だが、ここで引くことはできない。一度選んだ道。もう後戻りなどできない。
勝たなければ全てを失う。
「堕ちろ、麦わらァァッ!!」
テゾーロの拳が黄金色に硬化する。黄金が圧縮され、覇気が滲む。全ての金塊が一瞬で崩れ、一撃に集約される。
グランテゾーロの街の上空で、二つの渾身の拳がついに衝突した。
「ぐおおおおっ!!」
「うあああああっ!!」
テゾーロの黄金に纏われた右拳と、ルフィのギアフォースで膨れ上がった巨拳が激突する瞬間、街全体が静まり返った。黄金の衝撃波が渦巻き、周囲の建物が歪み始める。
圧縮された覇気の均衡。拳と拳の間で火花が散る。テゾーロの瞳孔が収縮する。
「道理なら……あるッ!!」
──勝てない。
均衡の中。テゾーロは敗北の瞬間を全身で感じ取った。数秒後に、俺は負ける。
だがその刹那、頭の中に鮮明な記憶が湧き上がる。
"私は心から幸せだった"
──檻の奥で微笑んだ少女の手。涙を流すステラの姿。最後の言葉。
拳が押し負けるのを感じる。圧倒的な重量が、彼の黄金を破壊していく。
(俺は……)
「俺は──」
あの日。金に支配された世界で、ただ一人金では測れないものを信じた少女。
その言葉が、今も彼をつき動かす。
(俺はまた、何も……守れないのか)
現実が崩れる音が聞こえた。筋繊維が引き裂かれる感覚。全身に衝撃が走る。
「ゴムゴムのーーーー!!!!」
ルフィの叫びと共に、無駄のない一撃が胸板を打ち抜く。
「
「が、ぁ……っ……!?」
テゾーロの体が加速して飛んでいく。
地上から伸びていた無数の黄金の触手が粉々に砕け、彼を支えるものが何もなくなった。黄金散る世界の中、夜空に向かって、膨らんだ巨体で高らかに宣言する。
「俺は、海賊王になる男だァァ!!!」
──勝者、麦わらのルフィ。