一般に広く普及している回復の薬。
種類として簡単な怪我の治療や痛み止めに用いられる「治療」、毒性を持つ動植物や麻痺の状態から快復する「解毒」、失われた体力や疲労感を一時的に回復させる「活力」が家庭の常備薬として売られているが、他にも「魔力」や「暗視」なども売られている。
品質を問わなければ二束三文で購入することも出来るが、時間経過による劣化も著しいので殆どの人は正規の価格で購入している。よほど困窮しているか、あるいは通常の水薬が出回らない事情がない限りは目にする機会は少ない。
では、本編をどうぞ。
ガンッ、ガンッ!
洞窟内に打撃音が反響する。
「んー、駄目だねー。上に行けそうな階段や通路とかないや」
おかゆは動けないミオの場所に戻りながら、そう答える。
もしかしたら魔物が大精霊の力を使えるかもしれない、ということで何かしら援護できないかと戦闘が行われているであろう上の階層に向かおうとしたのだが、何処にもそれらしいものが見つけられなかったのだ。
ガンッ、ガンッ!
「そっか。こっちも破れないかと試みてるけど……全然ダメそうです」
ミオはミオで、自らを閉じ込める赤い糸の魔法を解こうとしていた。
ただ、やはり攻撃に秀でた赤魔法の適性がある彼女では、ろくに訓練もしてこなかった青魔法を扱うのは難しいらしい。
ガンッ、ガンッ!
「……所で、おかゆさん。あれは、止めなくていいんですか?」
ガンッ、ガンッ!
ミオはチラリとそちらへと視線を向けながら、恐る恐るといった様子で訊ねる。
そこには大精霊が封じられた『獄封の琥珀』の置かれた台座の前に立ったころねが、宝珠を砕かんとひたすらに殴り続けているのだ。
確かに宝珠を破壊して大精霊を解放できれば仲間の窮地を救うことが出来るかもしれないが、見た限り宝珠には罅すら入っていないので徒労に終わっているようにも見える。おそらくあの遺物は例え城門を破る破城槌で一日叩き続けても、表面に傷一つ残せはしないだろう。しかしそれでも頑なに、ころねは拳を叩き付けることを止めない。
「あー、多分スイッチ入っちゃってるから止めても無駄だと思うよ」
「で、でも、あんなに叩いたら血が……」
あれだけ頑強な代物を殴り続ければ、いずれ拳の皮はズル剥けとなる。
例え出血していなくとも、あれだけ殴打していれば燃えるように熱くなっていることだろう。
それでも止めないのは大精霊を解放しなければという使命感でも、窮地に立たされている仲間を助けるという心配からでもない。ただ純粋に自分がこれだけやっても壊せないという事実に納得できず、何としてでも壊してやるという――詰まるところ、意地なのだ。
おかゆは長年の付き合いからそれを理解していたので、無理に止めようとはしない。
「あっ、止まった」
などと話していれば、ころねが殴るのを止めた。
諦めたのかと思いきや、発せられる雰囲気からそうではないことが明らかであった。
ころねは右手に巻かれた包帯に手を掛けるとシュルシュルと丁寧に、けれども慣れた手つきで器用にほどいていく。
「あれ、包帯をほどき始めた……」
「もしかして、ころさん……アレをやる気!?」
何かを知っているのか、おかゆは驚きの声を上げる。
そんな外野の声など耳に入っていないかのように呼吸を整えると、ころねは静かに構えた。両足を肩の幅ほどに開いて少し腰を落とし、右側へと身体を深く捻りながら軽く握った右こぶしを引き絞る。
「おかゆさん、ころねさんは何をするつもりなんですか?」
「あれは気を拳に一点集中させて放つ、ころさんの必殺技だよ」
「気…?」
「あー、えーっと、これからするボクの話はころさんが受けた説明の又聞きに過ぎないから詳しくないんだけど、ころさんに武術を指南してくれたお師匠様によると、魔法は素質がないと使えないけど、殆どの人は生まれながらにして大なり小なり魔力を有しているんだって。前衛職の冒険者は無意識の内にその魔力を身体能力の強化に回していて、これによって普通の人と比べて肉体が頑丈になったり、すんごいパワーが出せるみたい。この強化に使っている魔力を便宜上、『気』って呼ぶって言ってた」
「へぇ、そうなんだ」
「それで高位の冒険者ともなれば意識的に強化したい場所、腕や足なんかに集中させることで瞬間的に脚力や腕力を高められるらしいの。ころさんが今しているのはソレと同じことなんだけど、流石にまだ自由に操作できる訳じゃないから補助具でそれを補っているんだ」
「補助具?」
「ころさんが腕に巻いてる数珠、あれは『収斂の数珠』って呼ばれるもので拳限定だけど気を収束させる役割があるらしいの。ただ道具を介している都合上、どうしても気を練るのに時間もかかるし、その間は身動きも取れないからリスクはあるけど……威力は折り紙付きだよ。ミオちゃんはクラッシュ・タートルって魔物は知ってる?」
通称、海の暴れ亀。
甲羅の強度と耐久性の高さは魔物中でも随一と称され、鋼鉄程度の装備では先ず破ることのできない鉄壁を誇る。仲間に魔法を使える冒険者が居ないのなら交戦は避けるべし、なんて教えすら存在する程である。ただ幸いなことに巨体という見た目通りに足は鈍足なため、遭遇したとしても全力で撤退すれば逃げ切ること自体は可能である。
「うん、名前くらいは聞いたことあるよ。危険度Ⅲの魔物だよね」
「実はボクところさんが冒険者をやってた頃に出会っちゃったことがあるんだ」
「定石通り、逃げて助かったの?」
「運悪く洞窟の中だったからね、逃げようにも逃げられなかったんだ。あの時は本当に死ぬかと思ったよ~」
あっけらかんとした様子で、おかゆは話をする。
とてもじゃないが死にそうな目に遭ったとは思えない反応に、ミオも思わず閉口してしまう。
「そのクラッシュ・タートルを、ころさんが倒した時に使ったのが、あの技になるんだ~」
「……えっ、魔法無しで鋼鉄以上と言われる甲羅を打ち破ったの!?」
「そうそう。凄かったよ、あの時の光景は。まるで甲羅が普通の岩なんじゃないかって思えるくらい砕け散ってて」
「そんなに凄い技を使って、ころねさんは大丈夫だったの?」
「軽く指に罅が入ったぐらいで済んだって本人は言ってたよ」
それは無事と言えるのだろうか。
そんな疑問を抱いてしまったミオだが、言った所で詮無いことなので黙り込む。
「えっと、じゃあ包帯を外したのは何でなの?」
「あっちは『禁牢の拳帯』って呼ばれる保護具で、鋼鉄のガントレットと同じくらいの防御力があるんだ。だけど、ころさんによると打撃が伝わりにくいらしくて、だからあの技を使う時は外すみたい……あっ、そんなことを話してたら向こうも準備できたみたいだよ」
おかゆに言われ、視線をころねの方へと向ける。
いつの間にか、彼女からは陽炎のような何かが立ち昇っていた。
本来は見えるはずのない魔力が、逃げ場を失って可視化する。拳に宿る橙色の光は、驚くほど静かに凪いでいた。だが、その周囲の空気だけが不自然なほどの透明度で歪み、一分の隙もなく纏い付く魔力は放たれる一瞬の解放をじっと待ちわびているのが見てわかる。
「――ぜりゃあああああああああっ!!」
大声で吼えた後、引き絞った身体を一気に解放する。
腰の回転を加えながら放たれたのは、音を置き去りにする渾身の右ストレート。
ごうっと空気が猛獣のような唸り声を上げ、一直線に台座の上の宝珠をごしゃっという音を立てながら真正面から撃ち抜いた。
一瞬の無音。
衝突の刹那、静かに拳を纏っていた橙色の光が、行き場を失った衝撃波となって爆ぜた。人の身では傷一つ付けることは叶わないと思われていた不壊の表面が、ころねの全霊を込めた一点から「みしり」と絶望的な音を立てて歪む。宝珠に生じた本の小さな綻びは瞬く間に放射線状に罅として広がっていき、それにより殻の内に封じられた暴力的なまでの魔力の圧力に耐えかね、遂にはバキンッと『獄封の琥珀』が砕ける。
それと同時に黄金と白銀が混じり合う、目も眩むような光の波動が放たれる。
「きゃっ!?」
「わっ!」
迫る炎に、三人は反射的に身を守ろうとしたが、不思議と熱さは感じなかった。
灼かれると思ったのに、伝わってくるのは温もりだけだった。
「あっ、あれ?」
『安心しなさい、人の子らよ』
突然、脳裏に声が響く。
恐る恐る目を開けば、先ほどまで松明の明かりのみが照らしていた薄暗い溶岩洞はまるで白昼のような輝きで満たされていた。光源は何処なのかと探るまでもなく、彼女たちの前に堂々とそこに存在していた。
赤と言うより、白銀に近い黄金色の炎。
揺らめく炎の翼からは、光の粒子が粉雪のように舞い落ちる。
意志を持った焔が巨大な鳥の姿を模したような存在――それが大精霊の正体であった
『先ずは我を忌まわしき縛りより解き放ってくれたこと礼を言う』
その眼差しは、触れれば指が切れるほどに鋭い。
されど、見つめられる者の胸に、恐怖心は露ほども湧いてこなかった。
「あっ、あの、ウチ……いえ、私たちは」
『語らずとも、全て見て把握している。汝らの目的も……だが、その前に冒涜者に誅を下さねばならぬ」
瞬間、ぶわっと背筋に悪寒が走る。
指先から血の気が引き、心臓が爆ぜるような音を立てて警鐘を鳴らした。抗いようのない本能が、今すぐこの場から逃げろと脳髄を掻き毟る。
怒りの矛先は自分たちではない筈の自分たちにさえ、死の冷気が突き刺さる。
溶岩洞の湿った熱気が肌にまとわりつき、立っているだけで汗が噴き出すような蒸し暑さだというのに、背筋を伝うのは凍りつくような冷や汗だった。 物理的な熱を無視して、魂が芯から冷やされていくような感覚に、三人は身震いした。
『そこな娘の手当ては後程してやる。では、往くとするか』
大精霊は折り畳んでいた翼を広げる。
そして大きく羽搏かせると、星屑のような輝きに似た光の粒子を舞い散らせながら飛び上がる。
天井にぶつかるかと思いきや、そのまま煙のように姿が揺らぎ消える。
その場には、三人だけが残された。
「……た、助かったぁ」
安堵から、ミオは脱力する。
それはおかゆも同じであり、全身の力が抜けてその場にへたり込んでいる。
「これまで色んな魔物や、危険な目にも遭ってきたけど……あんなの初めてだよ」
「うん。何というか強いとか怖いとか、そんな次元の話じゃなかったね」
「……ねぇねぇ、二人とも」
そんな風に話していると、ころねが声を掛けてくる。
彼女も何か思うところでもあるのかと、そちらへと視線を向ければ。
「こぉねの手、こんなんなっちゃった」
そう言って、ころねは自らの右手を見せる。
右手の指の節々は潰れ、拳全体が熟れ過ぎた果実のようにどす黒く変色し、異様に膨れ上がっている。手首から先に力も入らないのか、指先一つさえピクリとも動かせていない。それは何とか人の手という原形を留めているが、見るも無残な状態であった。いや、あれほどの硬度を誇る代物を力尽くで破壊したのだから、むしろ無傷の方がおかしいくらいだ。
「こっ、ここここころさん!?!!?」
あまりの悲惨さに、おかゆは見たことない程に動揺する。
隣にいるミオは、もはや失神するのではないかと思える程に蒼褪めている。
「い、いいい痛くないの?!」
「んー、あんまり……何も感じないよ?」
「と、とりあえず気休めかもしれないけど治癒の水薬を飲んでおこうか」
「ありがと~。貰うね~」
ころねは、おかゆから水薬を受け取って呷る。
ただ、やはり水薬程度の治癒力ではグチャグチャになった手を元に戻すことは出来ず、精々止血と腫れの抑制が関の山だ。正直に言って腕のいい僧侶でも、治すのには相当な時間を要することだろう。
「まぁ、何とかなるでしょ。ゼハハハハハ」
一番深刻に考えるべき人間が、能天気に大笑いしている。
何はともあれ、こちらは一段落付いたのであった。
◆
場面はまた少し変わり、上の階層。
こちらでは相も変わらず、決着の付かない戦いが続いていた。
「おりゃあ!!」
「どっせい!」
フブキの聖剣の一閃がベリアルの肩を切り裂き、バクニの戦斧の一撃が片腕を断つ。
どれほどベリアルの肉体を傷付けても、並外れた再生能力による直ぐに元に戻ってしまう。
「えぇいっ! さっさと諦めぬか!!」
忌々しそうにベリアルは怒鳴り散らす。
確かに死んだと思われたバクニが復活したことに関しては想定外だったが、戦況は依然として自分に有利なことは変わりなかった。相手が何人いようと、どれだけの手練れであろうと、いずれは体力も魔力も尽きて最後に立っているのは自分なのだ。二人組の冒険者が自分を討伐しに洞窟に入ってきた時も最初こそ手古摺ったが、最終的にはこの不死身な肉体と底知れぬ魔力により勝利したのだ。
なのに、心の奥底から湧き上がってくる言い知れぬ不安感は何なのか。
相手が勇者だから?
奇跡の回復した戦士がいたから?
それとも、あの僧侶らしからぬ男のせい?
(いいや、単なる勘違いだ。力を得た我が、恐怖する筈がない)
そう自分に言い聞かせ、目の前の敵に集中しようとする。
とそこへ、洞窟全体を揺るがすほどの振動が足元から伝わってくる。
「な、何であるか!?」
「まさか、地震!? こんな時に!!」
突然の出来事に、フブキたちは動揺する。
けれど、この揺れが単なる地震でないことはベリアルは身をもって理解していた。
(馬鹿な、宝珠との繋がりが断たれた?)
直前まで感じられた、『獄封の琥珀』からの流れが切れたことに気が付いていた。
一瞬、大精霊が解放されたのかとも考えたが、あの宝珠が破壊されることなど絶対にありえないと自らの考えを否定する。何かきっと、自分も知らない事情により一時的に接続が断たれたに過ぎないのだと理由を付けて考えるのを止める。
(兎も角、早いところこいつ等を始末しなければ)
繋がりが断たれたことの原因を探るよりも、今は眼前にいる敵を排除する方が先決だ。今すぐに魔力が枯渇する心配はないが、大精霊からの魔力が受けられない以上、早々に決着を付けるべきと判断する。
互いに止まっていたのは数秒のことだったが、それがベリアルにとって致命的な時間となった。
「なっ……」
ベリアルの視線はフブキ、その背後に降臨した存在に釘付けになっていた。
そこに決して認めたくなかった事実、黄金色に輝く焔の鳥――大精霊が居たのだから。
「ば、ばかな……」
『見付けたぞ、下郎』
「えっ、一体……どういうことなんですか?」
ベリアルは本能的に後ずさり、大精霊はそれを睥睨する。
突然すぎる展開にフブキは困惑したが、決してベリアルから目線を外そうとはしなかった。
『ほう、此度の勇者は随分と頑是ない。しかし、好都合だ』
「えっ、え?」
『汝には特別に、我が力をくれてやろう。冒涜者に引導を渡せ』
混乱する彼女をよそに、大精霊が一声啼けば聖剣へと光の粒子が集まりだす。
それは未だ沈黙を守っていた聖剣――その古びた剣身に神々しいまでの輝く光が溢れ出し、本来の覚醒を待たずして白銀の炎が宿る。
「こっ、これは……」
聖剣に現れた変化は、目に見えたものだけではなかった。
白銀の炎は聖剣のみならず、それを握る勇者の腕を伝って全身へと逆流していった。
「……あぁ、体が、軽い」
白炎には熱さはなく、寧ろ心地よい温もりに包まれる。
疲労により鉛のように重くなっていた四肢が、まるで冷え切った体が熱い湯に溶かされたかのように軽くなる。凍りついていた感覚が、大精霊の温かな拍動によって一気に呼び覚まされた。いや、それどころか今までにない活力が内側から漲ってきて、自分が最強になったと勘違いしてしまいそうになる程だった。
『さぁ、終わらせるのだ』
「はいっ!!」
フブキは地を這うような前傾姿勢で爆ぜた。
聖剣を斜め後ろに低く構え、白銀の尾を引きながらベリアルへと肉薄する。
「我を舐めるなぁぁぁぁっ!!」
ベリアルが吠え、火の舌のような刃を垂直に叩きつけた。
先ほどまでの片手ではなく両手でもっての全力の一撃に対し、フブキは速度を殺さずに下から掬い上げるように聖剣を振り抜いた。
ガキィィィンッ!
凄まじい金属音が洞窟内に反響するが、拮抗は一瞬のことだった。
バチンッという音を立てながらベリアルの手にあった火の刃は弾け、その勢いにまるで両腕を上げるかのようにバランスを崩す。それは大精霊という繋がりを失ったベリアルでは力が不足していたのか、あるいは大精霊の加護を得られたフブキの力が勝っていたのか、それともその両方が要因だったのか。
どちらにせよ、ベリアルは大きくたたらを踏み、その正中線が無防備に晒された。
それを見逃すはずもなく、フブキは勢いを殺さずに頭上で素早く手首を返す。
「いっけぇぇぇぇっ!!」
腹の底からの叫びと共に、裂帛の気合を乗せた。
貯め込まれた白銀の炎が爆発的な咆哮を上げ、返す刃で真っ向から振り下ろされる。
その一閃はもはや斬撃の域を超えており、放たれた白銀の魔力はさながら巨大な光の断層と呼ぶに相応しい光景と化していた。
「ぐぎゃああああああああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!!」
頭部から股間まで一直線に両断され、ベリアルは断末魔の絶叫を上げる。
それは自慢の再生能力をもってしても無理なのか、あるいは聖剣の持つ破邪の力がそれを阻害しているのか。致命傷を負っても尚、即死しないのは流石は総合戦闘力が一万を超えている怪物といった所だが、遅かれ早かれ命の灯が消えるのは明らかだ。
「こ、こんな所で我が、オレサマが……お、おのれええええええっ!!」
ベリアルが怨嗟の声を上げる。
それと同時に、大きく開いた顎から墨を溶かしたような濃密な黒煙を吐き出してくる。最後の力を振り絞って吐き出された黒煙は視界を奪うだけに留まらず、肺を焼くような猛烈な硫黄の臭気を帯びていた。
「うっ、酷い臭いである!」
それは少し離れた場所にいるバクニたちですら顔をしかめる程であった。
そんなものを獣人として嗅覚の優れるフブキは至近距離から浴びてしまったことで反射的に目を瞑り、顔を歪めながら動きを止めてしまう。それは短い足止めであったが、ベリアルが満身創痍の巨躯を闇の中へとその姿を眩ませるには十分すぎた。
「ま、待て!」
フブキは白銀の刃を横一文字に振るい、視界を塞ぐ禍々しい黒煙を強引に切り裂いた。
開ける視界、けれどもベリアルの姿はもはや影も形もなかった。
逃げられた――それを理解するには十分すぎた。
「追わなくちゃ……っ!」
止めを刺すべく追跡を掛けようとしたフブキだったが、限界の訪れは突然だった。
咄嗟に聖剣を岩床に突き立てて杖代わりにすることで倒れることを防いだが、立っていることすら出来ずにその場に膝をついた。身を満たしていた白銀の熱が焼失したことで全能のような心地よさは霧散し、代わりに襲ってきたのは身の芯まで凍り付かせるような脱力感と全神経を押しつぶすような疲労の奔流だった。肉体は自分の物とは思えないほどに重く、指先一つ動かすことさえ億劫になる。
「うっ……あ」
意識を保つことすら困難になっていく。
彼女の意思に反して瞼は重く、意識が急速に遠のいていくのに合わせて世界から色が失われていく。
ただ完全に闇に呑み込まれるその直前、霞む視界の向こうから、自分を呼ぶ必死な声が聞こえた気がした。
「――、――!!」
名前を呼んでいるのだろうか。
こちらに向かってがむしゃらに駆け寄ってくるバクニの姿が、スローモーションのように映る。
(あれ、あのくさんは……?)
居たはずの、僧侶の姿は見えない。
どうしてと思いながら、フブキは深い眠りへと落ちていった。
◆
「はぁ、はぁ……くそっ」
明かりもろくにない、狭い溶岩洞の隧道。
胸に刻まれた傷口からポタ、ポタッと血を垂らしながら、ベリアルは壁に手をつきながら進む。
「まさか、あんな小娘に追い込まれるとは……」
一体、何が悪かったというのか。
余裕を見せて遊ばずに、早々にケリを付けるべきだったのか。
階下に捕えていた相手の仲間を人質にし、抵抗できないようにすべきだったのか。
おそらく敗因は幾つもあり、不幸にも重なった結果だと納得する。
「だが、まだチャンスはある」
そう、この溶岩洞から脱出さえすれば、まだ自分には希望がある。
確かに大精霊の力を失ってしまったのは惜しいが、生き残ってさえいれば敗北ではない。
「諦めてたまるか。オレサマは必ず成り上がるんだ……魔王に!」
「――ほう、何やら興味深い話をしているな?」
そこに、場違いな落ち着き払った声が響く。
何処までも冷たい声音に、ベリアルの本能が警鐘を鳴らす。
それは大精霊とも違う全く異質の、けれども圧倒的な死の気配を放つ何かが前方の闇の中にいる。
「……だ、誰だ」
姿を現したのは、あの奇妙な僧侶だった。
ただベリアルには目の前のが人間ではなく、自分の命を刈り取る死神のように思えた。
「………」
「な、何か言ったらどうなんだ!?」
「随分とちっぽけだな」
「っ!!」
口を開いたかと思えば、出たのは自分を蔑む言葉だった。
それを理解し、ベリアルは奥歯を砕けんばかりに噛み締めながら憤怒を滾らせる。
「ベリアルなどと大層な名を口にしたが、まさか正体がスッティ・デーモンだっとはな」
種別:スッティ・デーモン 種族:炎魔 危険度:Ⅰ
体力:878 魔力:218 総合戦闘力:1096
魔物の中でも最下級の存在、それこそがベリアルの正体であった。
勇者の前に立ち塞がって見せたあの全長三メートルはあった巨躯も、今や見る影もない程に縮んでしまって三分の一にも満たないが、この姿がベリアルの本来の肉体であった。全てが大精霊の力を手に入れたことで見せていた虚像に過ぎなかったのだ。
余りにも矮小で、無様で、醜悪極まりない姿だ。
「こんなのが、よりにもよって魔王の座を狙っているとはな」
分不相応だな、と彼は冷笑を浮かべる。
こんなのが大精霊の力であそこまで強化されたのは驚きだが、それだけだった。
「……オマエに、オマエみたいのにオレサマの何が分かる!? 魔物は強さが全てだ! 弱ければ他の魔物に食われ、力がなけりゃ冒険者にやられて死んじまう! 自分が生き残るためにどんなものも利用し! どんな手段を取っても生き延びて見せる!! こんな風になっ―――!!」
ベリアルは油断していた僧侶に向け、ありったけの火炎弾を放つ。
体内に残っていた大精霊の魔力、それを全て込めて放った一撃は見事に命中する。
残り火とは云え、この至近距離での直撃であれば例え得体のしれない相手だとしても、無事で済むはずがないのだ。命を奪えずとも、自分が逃げれるだけの時間を稼げればそれでいい。
そう確信していただけに、炎の中から平然と現れた人間を見て絶句する。
「必死になって、この程度か?」
「ば、ばかな……」
僧侶はポンポンッ、と衣服の汚れを叩く。
「確かに、魔物の世は弱肉強食だ。どれだけ不条理、理不尽であろうと力があれば罷り通る。生き残るために足掻き、他者を蹴落としてでも這い上がろうとせぬ者に生きる資格はない。そう言った意味で、道具頼みだっとしても大精霊の力を手に入れたことは卑怯でも何でもなく、魔物として当然のことだ」
「だ、だったら……」
「だが、貴様――怠けたな? せっかく手に入れた、失えば二度と手に入らないだろう至高に等しい力をろくに鍛錬することなく、その強大な力を制御する努力をするどころか胡坐ををかいた。魔法の練度も低ければ、その回復頼りの戦術も戦略も何もない稚拙そのもの。たかが戦闘力が一万を超えた程度で魔王の座を狙おうなど――片腹痛い」
「ぐっ……」
反論することは出来なかった。
大精霊の力を手に入れてから今日まで、使いこなそうと思えば時間は十分になった。
何ら努力せずとも他を圧倒する力を手にしたことで、優越感に浸り、宝の持ち腐れ状態にしていたのは紛れもない事実だ。
「魔物は本質的に力を求める。人間の定めた危険度Ⅳに到達したら終わりではなく、ようやくスタート地点に立てただけ。貴様のように少しばかり優れた力を手に入れた程度で慢心し、進歩しようともせず驕り、肥え太り続けるだけの愚鈍な輩が生きられるほど魔物の世界は甘くはない」
「まっ、待ってくれ…!」
「力を失ったとはいえ、指輪を外している俺の力を感じ取ることはおろか、俺の正体にも気付けぬようでは終わりだ」
僧侶は無造作に右手を外側へと突き出した。
緩やかな動作に合わせ、軽く握られた拳からは闇を切り裂くような青白い炎だった。火山の赤を塗りつぶすような峻烈な炎、その中から現れたのは洞窟の暗闇を薄明るいと感じさせるほどに濃密な夜を凝縮したような刃を持つ剣だった。溢れる燐光を纏いながらも、その刀身は冷徹なまでの闇を湛えている。その場に居合わせる者の喉元に、逃れようのない重圧を突きつけた。
「……そ、その魔剣は」
「光栄に思え。手ずから始末してやる」
今になり、ベリアルは目の前の人物の正体に気が付いた。
直接目にしたことはなくとも、他の魔物が話してる内容は聞いたことぐらいはある。
熱を奪い去る魂の揺蕩う青い鬼火、夜の闇を宿したような黒き刃持つ剣先に丸みを帯びた魔剣。
それらを扱えるのは、この世でただ一人のみ。
「ひぃっ!!」
ベリアルは、逃げた。
目の前の存在から一刻も早く離れるために、なりふり構わず背中を見せて駆け出そうとした。
自分のような矮小な存在が、決して歯向かってはいけない相手だったのだ。
「消え失せよ」
だが、余りに遅すぎた。
一歩目を踏み出すのと、剣が振り下ろされるのは同時だった。
剣の間合いの外側に居たのに、ベリアルの肉体は掠めた鬼火により一瞬で灰燼に帰す。
やがて洞窟内を照らしていた炎は静かに消え去り、役目を終えた魔剣もまたその姿を消す。
「ふぅ、疲れたな」
僧侶――デュラハンはそう独り言ちる。
肉体的、という意味ではなく精神的に疲れを感じ、思わずため息を吐く。
勇者を守るためだったとは云え、仮にも僧侶を自称している人間が聖剣を手にして敵の攻撃をいなすなど聞いたこともない。バクニも倒れてしまった上にフブキも聖剣を失っていたので他に選択肢などなかったが、本音を言えば剣を扱えるという事実は伏せておきたかったのだが。
「……疑似とは云え目覚めた聖剣、流石と言ったところか」
聖剣を握っていた手を見つめる。
既に表面上の傷は完治しているが、言いようのない違和感だけが残っている。
「あれが、魔を滅する神の剣か……」
握っただけで手が爛れていた。
もしアレに貫かれれば、即死はなくとも致命傷は避けられまい。
そんなことを考えながら、デュラハンは踵を返し、再び暗闇の中へと消え去っていく。
◆スッティ・デーモン
数いる魔物で、最下級に位置する個体。
炎魔という種族から危険度Ⅰながら魔法も扱えるが、出せるのは指先から蝋燭のようにか細いので草や建物に着火する際に用いられることが多い。決して強くはないので冒険者なら負けることはないが、油断すれば痛い目を見る相手として知られている。
口先は回るが本質的には臆病であり、しかし自分たちより弱い者いじめは大好きという魔物でも最低な存在なので武人気質の魔物からは嫌悪される程である。
見た目はゴブリン。
特定の作品をイメージしておらず、本当によく知られてるゴブリンです。
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